連載小説
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第一章:有り得べからざる出会い
 私の世界には、白と、青と、朧気な光しかない。あらゆるものは動きを止め、色彩を失って凍り付き、そして粉々に砕け散る。
 目に見えぬもの。魔力や、大気や、音や、光や、闇さえも凍てつく、明るくも暗くもない、静寂だけが満ちる空間。
 存在を許されるのは、私を除けば私に仕える氷の精霊、グラキエス達くらいのもの。そんな彼女達でさえ、常に自分自身を意識し続けていなければ、心さえも凍り付いて己という存在ごと虚無に飲み込まれてしまいかねない、冷たく過酷な環境。
 生きとし生けるものの侵入を拒む、静止と沈黙で形作られた世界。完全で、完璧で、完結した世界。
 それが私の住む世界。雪山の連なる白き高山帯。その最奥、天を貫かんばかりに高くそびえる山の頂にある「氷の宮殿」だ。
 昼も夜もない常白の宮殿から、私は眼下の雪と氷の国々を、私の支配する白と青の世界を監視し、管理し続ける。
 目を開けているときにはグラキエス達から報告を聞き、目を閉じているときは遠目の術で雪山の隅々までを見守る。
 眠ることも無く、休むことも無く、私はただただ変わらぬ世界を見下ろし続ける。氷の女王と呼ばれる、雪と氷と冷気の権化。
 いつからここに居たのか、なぜこんなことを始めたのかは、自分でも覚えていない。
 私がここにいるから白く青い薄明かりの世界がここに生まれたのかもしれなかったし、全てを静止させ凍て付かせる世界自身が己を管理する存在として私を生み出したのかもしれなかった。
 そんなことはしかし、どちらでもいいことだ。
 白と、青と、煌いては消えてゆく光しかないこの世界は、何が起こったとしても決して変わることは無いのだから。
 私が私という存在に気が付いた時から、私が私という存在を忘れ去ってしまう時まで。世界は変わらず、あるようにしてありつづけるのだ。これまでのように、これからもずっと。
 

 いつものようにグラキエス達の報告を聞き終えた私は、玉座を離れて宮殿の奥の間にある寝室へと向かっていた。
 とはいえ眠るためではない。
 この国に生きる全ての生き物達から少しずつ熱を奪って糧としている私には、動物のように食事をする必要も、身を横たえて眠りにつく必要も無い。
 女王の玉座から下がるのは、ひとえに私の従者を労うためだった。
 別段、私自身はどこに居ても構わない。休む必要も無く、私がやらなければならないこと、この雪と氷の国の管理は、どこからでも出来る。
 私の領域にいる限り、私はどこに居ても私の世界の全てを知ることが出来、どこへでもこの手で操ることが出来る。それほどに私の力は強力だ。
 だがその強すぎる力は、私のそばに居るものに対しては同時に脅威でもあった。
 『氷の女王』の冷気は、あらゆるものを白く凍てつかせて虚無へと還す。その強烈な魔力は氷の精霊であるグラキエスでさえ凍てつかせ、目に見えぬ心でさえも凍らせ無にしてしまいかねない程大きな力だった。
 故に彼女達は常に私の前では気を抜けず、何らかの形で自己を認識し続けていなければならなかった。
 ある者は自己の存在を問い続けることで自分がここにいることを確認し、またある者は役割を果たし続けることで己を確立し続ける。といったように。
 愛するものを宮殿に連れ込み、常に連れ合いに触れ合う事で自分を確認し続ける者達もいた。
 比較的、そういう者達は不思議と強固に自我を保つ傾向にあった。
 恐らく、一人で自問自答を続けるよりは、他人を想っている自分を意識すること、また他人から想われたいと意識することによって、より自分という存在を認識できるからなのだろう。
 そうした対抗手段を持たぬ者、あるいは一瞬でも気を抜いてしまったものは、いかなる存在であろうと私の前で動きを止めた。
 無論、取り返しのつかなくなる前にしかるべき処置、宮殿の外、私の影響の弱まる領域にまで移してはいたが、常にそんなことが続いていては私の役目にも支障が生じ、また貴重な働き手を失う事にもなりかねない。
 だから私は、なるべくなら彼女達から離れていることにしているのだ。


 それを見つけたのは、寝室に向かう途中の中庭での事だった。
 中庭と言っても、ただの真っ白な空間をそう呼んでいるだけだ。冷気の魔力で形作られた人間や獣、魔物、花や果樹などの像は置かれてはいるが、光や影さえ凍てついて砕け散るこの冷気の世界では、陰影さえもぼんやりと薄れて、普段は見えるものなど何もない。
 そんな白く、白い、眩しい暗がりの中に、浮かび上がるように、穿たれたように、小さな黒い色が染み付いていた。
 雪に垂れた薄汚れのようなそれは。まさしく汚れていた。
 草臥れた黒い外套に身を包んだ人間の男だった。
 髪の色も黒く、その肌も白とは言えない血の通った色をしていた。
 青年と呼ぶにはまだ幼く、しかし精悍なその顔つきからは少年とも呼びづらい。若さに満ち溢れた、瑞々しい生命。
 白く塗りつぶされた世界に、黒い汚れはよく目立った。
 けれどそれも、次第に白に染められつつあった。
 温度のないこの世界では、あらゆるものは即座に凍てつき、色彩を失う。現に黒々としていた外套にも霜が降り、赤々としていたであろう頬も青白くなりかけていた。
 全てが漂白される前には、恐らくグラキエス達が彼を救い出すことだろう。
 私がするべきことは何もない。
 けれど私の足は、なかなかそこから動かなかった。
 目を閉じ世界を感じれば黒などいくらでも『視る』ことが出来るのに、この目で初めて見る見慣れたはずの色から、目を離すことが出来なかった。
 静まりきっていたはずの胸の中がざわつき始める。視界から身体の中に入り込んで来るかのように、黒い染みが広がってゆく。
 グラキエス達は奥の間には滅多に立ち入らない。このままでは、きっと彼は気づかれる前に命を落としてしまうだろう。
 彼の口から漏れる吐息が小さくなってゆく。それとは反対に、胸の中の染みは大きくなってゆく。
 今すぐグラキエス達を呼ぶべきだ。だがもし、もしもグラキエス達がここにたどり着く前に彼が息絶えてしまったら……。
 とうとう小刻みに震える小さな体を見ていられなくなり、私は自ら彼の身体を抱き上げた。
 寝室に運び込み、彼を寝台の上に横たえる。
 か細いながらも、まだ呼吸を続けている。その心臓も、確かに脈打っている。意識は失っているが、まだ助けられる。
 私は彼の衣服を脱がし、裸にする。
 それから自分の服も脱ぎ捨て、寝台の上に横になって彼を抱きしめる。
 凍えそうな者を助けようとするとき、人間や魔物達がこうして温めているのを『視た』ことがあった。
 氷雪と冷気を司る自分が同じことをしても、同じように彼を助けられるかは分からない。けれど、自分でも分からないままに、私はそうせずにはいられなかった。
 彼の体温が、私の青白い肌に染み込んでくる。
 私はひたすらに彼の命を想い続けた。死なないで、元気になって、目を開けて。祈るような気持ちで想いながら、彼の背中に腕を回して強くその体を抱き締めた。
 どれだけの間そうしていたのだろう。
 やがて彼の呼吸は穏やかになり、その心臓の脈動も落ち着いた力強いものへと戻っていた。
 強張っていた表情からも力が抜けて、安らかな寝顔で私の胸元へと顔を埋めてくる。
 命の危機は去ったようだった。
 あとは彼の意識が戻れば、すべては解決だ。
 胸の中のざわめきも消えていた。私はほっと息を吐いて、彼の髪を撫でる。
 けれど、なぜだろうか。いつものような透明で静まりきった心持には戻らなかった。
 私の胸はまだ強く鼓動を刻んでいて、新雪を裸足で踏むようなふわふわとした感じがした。
 触れ合っている彼の肌から人間の体温が伝わってくる。それとともに、白いだけだった私の肌にも人間の色が移り始めているような、そんな気がした。
 しかし、それもあと少しの間だけだ。
 彼が意識を取り戻せば、すべては元通りの白へと戻る。
 ならばそれまでくらいはと、私は目を閉じて彼の身体を深く抱き寄せた。


 まつげが揺れ動き、まぶたが開く。
 こげ茶色の瞳に私の姿を映して、彼は驚いたような表情で口を開く。
 だが、開いた口からはなかなか言葉は出てこなかった。確かに音をも凍らせてしまう程に冷気の魔力が強いこの地だが、音は遠くに響く前に動きを止めてしまうだけで、この距離で声が聞こえないということはあり得ないはずだった。
 ならばと、私は自分から彼に問いかける。
「あなたは誰? なぜ私の庭に倒れていたの?」
 自分で質問しておいてからようやく、私は初めて素性も知らない人間の男を助けていたことに気が付いた。
 もしかしたら私に敵対する勢力の者である可能性もあったというのに。考えるよりも先に身体が動いてしまうというのは、まさにこのことなのだろう。
 知識としては知っていたが、実際に体験するのは初めてだった。
「僕は、僕の名前はファイ。見習い魔法使いのファイです。ここは、どこですか。僕は確か、工房で転移魔法の研究をしていて、それに、どうして僕は」
 彼は不安そうな顔で部屋の中を見回し、それからもぞもぞとベッドの中で動いて私の身体をまさぐる。
「白くて、綺麗な部屋ですね。それに温かくて、柔らかい」
 再び私に視線を戻したかと思うと、彼は大きく目を見開いて顔を真っ赤にした。
 肌から伝わる体温が高まる。急に離れようと動き始める彼を、私はその背中に腕を回して留める。
 一体、どうしたというのだろうか。
「ああああのごめんなさい。すみません。僕、どうして、その、裸で、あなたみたいな綺麗な人と、あれ、あれ? 僕、僕、何て失礼なことを」
「ここは氷の宮殿。その最奥の私の部屋よ。あなたは私の庭に倒れていたの。そのままでは凍えて死んでしまいそうだったから、助けるために人間達の真似をしてみたの。成功したみたいで良かったわ。
 私からは離れない方がいいわよ。私から離れると、また凍り付いてしまうかもしれない」
「死にそうな、ところを? あ、あの、ありがとうございます。でも、氷の宮殿ってあの氷の宮殿ですか? おとぎ話で、氷の女王様が住んでいるっていう」
「ええ、そうよ。女王は私だもの」
 彼は私を見つめたまま動かなくなる。呼吸はそのままだったが、心臓は不自然に跳ねているようだった。
 こんなにころころと変化するものを間近で見るのは初めてだ。
「ぼ、ぼ、僕は、その、女王様に、裸で温められて?」
「そうよ」
 彼はうわごとのように私の国の名前を呼ぶ。私が首肯すると、今度は麓の人間の国の名前を出したので、それも近くにあると教えてやった。
「まさか、本当にあったなんて。それも、女王様にこんな」
 彼は、今度は凍えたように震えだす。強く抱きしめてやろうとすると、彼は抵抗してさらに強く震えてしまう。
 やはり私の身体は、彼を冷やしてしまうのだろうか。
「ごめんなさい。やはり私の身体は硬くて冷たいわよね」
「あ、謝らなければならないのは僕の方です。女王様の身体はとても温かいですよ。それに信じられないくらいに柔らかい。出来ればずっとこうして……。じゃなくて、僕のような下賤のものが、あなたのような高貴な人と、こんな」
「人間の国で人間同士が定めている価値基準は、ここでは何の意味も無いわ。この世界にそんな理屈は存在しない。あなたは下賤でも無ければ、私も高貴では無い。
 たまたまあなたが私の前に現れただけ。そして私はしたいことをしただけよ」
 私が彼の髪を撫でると、彼は複雑な表情で、何か言いたそうではあったけれど、けれど結局何も言わずに私にされるがままになる。
「……よかった。あなたが無事で」
 彼の身体の熱が強まる。そしてそれは、彼の身体の一部に集中し始めていた。
 その瞳は次第に虚ろになってゆき、彼は急に私を抱きすくめてその燃え上がるような熱を押し付けてきた。
 私がそこに触れると、彼はびくりと強く体を跳ねさせる。その顔つきに生気が戻ってくる。
「すみません。ごめんなさい。助けて頂いたにも関わらず、女王様に対してこんな不敬を」
 逃げようとする彼を、私は胸の中に招き入れたままさらに力を込めて身体を密着させる。
「まだ離れない方がいいわ。あなたはまだ生命力が戻りきっていない。またすぐ凍えてしまう」
「……いっそ、殺してください」
「せっかく助けたのに、どうして殺さなければいけないの。私が間違ったことをしたとでも言うのかしら」
「いえ、あの、そういう意味では無くて。恩を仇で返すような真似をしてしまって……」
「なぜ恩を感じて、何を仇と思ったのか分からないのだけれど。でも、そうね。それなら、もし良ければあなたのこの熱を少し分けてくれないかしら」
 普段と違うことをしたせいで、具体的には彼の身体に留まろうとする冷気を私や周りに逃がし、私の精気、生命力を彼に注ぎ続けたせいで、私は少し消耗してしまっていた。
 支障が生じるという程では無いものの、出来るならば精気の補給がしたかった。
 これも初めての感覚だった。お腹が減った、のどが渇いた、というのはこういう感覚なのかもしれなかった。
「あ……。そうか、魔物だから」
「あなた達はそういうふうにも呼んでいるわね」
「その。すみません」
「間違ってはいないのだから謝ることは無いわ。私は私という存在を継続させるために、あなた達のような人間や生き物を凍えさせて、精気を奪って糧としているのだから」
 そして消耗してしまえば、こうして誰かから、何かから熱を与えて貰わなければ力を発揮することも出来ない。
「……私もまた単独で在り続けられる存在ではない。奪わなければここにいられない。まさに魔物ね」
「けど、氷の女王の治める国は、時に寒さに凍えることはあっても平穏に暮らしていけると聞いたことがあります。あなたは、この地になくてはならない存在なんです。僕なんかと違って。
 どうぞ、僕を使ってください。あなたに助けられた命です、すべてあなたに捧げます」
「私はそんなに欲張りでは無いわ。少し分けてくれれば、それでいいの」
 彼の一番熱い部分に指を這わせる。まるで指が溶けてしまうのではないかと思う程に、そこは高い熱を帯びて脈動していた。
「あ、あ、あ。うあぁ」
 私は彼を優しくさすり続けた。彼自身を包み込むように、熱の放出を促し続けた。
 彼の息は少しずつ荒くなっていく。重ね合った肌から、心臓の鼓動が激しくなってゆくのが手に取るように分かった。
「苦しい?」
「いいえ。むしろとっても気持ちいいです。死ぬときって、こんな感じなんですね」
「何を言っているのかわからないのだけれど」
「いいんです。こんな綺麗な、伝説の存在の胸の中で果てられるのなら」
「そう。それならいいわ」
 やがて熱と鼓動が急激に高まり、堰を切ったかのように彼の熱が溢れ出し私の肌に浴びせられた。
 熱は私の肌の上に広がると、溶け込むように私の肌の下へと吸い込まれてゆく。
 彼から放たれた熱の余韻に、そして急激に満たされ高まった自分自身の魔力に、私はしばし言葉を失った。
 彼が直接与えてくれた熱、そして精気は、これまで得てきたどんな熱や精気よりも力強く大きな生命力を私にもたらしてくれた。
 この国の全ての生命を凍えさせて得る一日分の精気とほぼ同量か、それを凌ぐほどに生き生きとした生命力。彼を助けるために消耗した分の魔力を補って余りあるほどの力だった。
 もしかしたら、私などよりも彼の方がずっと大きな存在なのではないか。そんな風に思ってしまう程に。
「あ、あれ。死んでない」
「当たり前でしょう」
「すみません。僕、女王様を汚してしまいましたよね」
「汚れてなどいないわよ」
 熱も精気も、余すことなく体内に取り込んだ。シーツを剥がしてその証を見せると、彼はまた顔を真っ赤にする。
「綺麗だ……。あ、その、すみません」
「そうでしょう。汚れてなどいないわ」
「はい。いえ、そうではなくて。……それは、ともかくとして。えっと、僕はお役に立てたんでしょうか」
「えぇ、満足よ」
 私の答えに、彼はなぜだか納得していないようだった。居心地が悪そうに小さくなってしまったが、私には人間の心の中を透かし見る力は無い。
 もっとも、そんな力があったとしても人間の心を理解できるような気はしなかったが。
 人間と言葉でやり取りをするのは難しい。これが従者のグラキエス達ならば、氷の共振や魔力を利用して情報を伝達し合えるというのに。


「きっと僕は、転移魔法に大失敗してここに飛んできてしまったんですね。いや、成功だったのかな。うーん」
 衣服に袖を通しながら、ファイは一人頷きながら呟いていた。凍り付くかと見紛うほどにびっしりと霜が付いていたが、私が冷気を操って取り払ってやった。
 元の彼がどのような人間なのかはわからないが、どうやら無事に元気を取り戻したようだった。
 私もまたベッドから立ち上がり、雪と霜と氷に働きかけて肌の上にドレスを作り上げる。
「でも壁や石の中に飛ばなくて何よりだったかな。いや、もしかしたら魔法の暴走で生まれた幻の世界に迷い込んでしまっている可能性もあるのか。だって僕があの氷の宮殿の、女王様にこんな」
 彼はまた私を見たまま固まっている。
「何かしら」
「あ、すみません。とても、その、き、き、きれ……。何でもないです」
 あっちを見たり、こっちを見たりと、彼は何だか落ち着かない。
「それで、どうするの。雪山の麓や、私の領土の端くらいまでならば、配下のグラキエスや魔物達に命じてあなたを送らせることも出来るけれど」
「いえ、それは大丈夫です。工房から外に出る魔法はまだ勉強中だったのですが、工房に帰る魔法は何度も使っていますので、一人でも帰れます。その、魔法陣を書かせていただいて、ちゃんと魔法が発動すれば、ですけど」
「いいわ。魔力がちゃんと巡るように、この部屋の冷気も弱めてあげる」
 彼は私に礼を述べると、胸元から魔術道具を取り出して床に小さな陣と文字を書き始める。
 その間、私は彼と彼の描く魔法陣から冷気を遠ざけ続けてやった。
 彼は魔法陣を書き終えると、その中心に立って頭を下げる。
「ありがとうございました。おかげさまで、無事に帰れます」
 私は彼に手を差し伸べる。
 彼は一瞬戸惑ったようだったが、私の手を取り、優しく握り返してくれた。
 そして私は、別れを告げるべく口を開く。
 きっとこの出会いは本来あり得ない、魔法の事故という名の、有り得べからざる出会いだったに違いない。そして一度別れてしまえば、もう再び会うことは無いだろう。
 ここは生き物を拒絶する冷酷な世界。強力な魔物ならばともかく、人間が立ち入ることなど不可能な領域なのだ。仮に彼がもう一度ここを訪れようとしたところで、ここにたどり着く前にきっと命を落としてしまうだろう。
 当然、私から彼の元を訪れることも出来ない。私が移動すればその先の土地でどのような影響が出るか分からないし、この国も乱れてしまいかねない。
 二度と起こらない、奇跡のような一瞬だったのだ。それを思うと、繋いだ手が凍り付いたように、離しがたく感じてしまう。
 けれどこの手は離さなければならない。彼は温かな地上の世界に住む人間。この雪と氷の世界は本来彼が住むべき世界ではない。彼には帰るべき場所がある。
 だから私は別れを告げるしかないのだ。『もうこんなところに来ては駄目よ。元気でね』そんな風に。
 私は、彼に視線を合わせてこう言った。

「また、会えるかしら」

 言葉を発した私自身が一番驚いていた。こんなことを言うつもりではなかった。思っても居なかった。
 なのに私の意志に反して、私の口は考えてもいなかったことを勝手に紡いでいた。
 私は生まれて初めて動揺した。彼も、なんだか戸惑っているように見えた。
 しかし私が取り繕うための言葉を重ねる前に、彼は顔を上げていた。
「会いに来ます。近いうちに、必ず」
 暖かな笑顔を浮かべて。
「だって、まだお礼もろくに出来てないですし」
 繋ぎ合っていた手が、氷が溶けるように離れる。
「待っているわ。いつまでも、ずっと」
 そして魔法陣から七色の光と色々な匂いが溢れ出して、彼は光の中に消えていった。
16/12/04 17:46更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。

前回の投稿から結構間が空いてしまい、若干リハビリのような形での投稿です。
(おまけに冷気の魔力とかの設定は独自に噛み砕いて結構好き勝手に書いてしまっていますし……。苦手な方はすみません)
色々至らぬ点はありますが、楽しんでいただけていたら嬉しいです。

続きは近いうちに投稿する予定です。

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