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第三章:あなたはひとりじゃない
 ファイがそばにいてくれるようになってから、私の世界は大きく変化した。
 目に見えるものは相変わらず白と、青と、瞬いては消える頼りない光ばかりではあったけれど、同じ光景でも彼が来てからは全く別のもののように見えて、感じられた。
 世界中で寒さに身を震わせ、温め合う相手を探す孤独な生き物を見ると胸が苦しくなった。連れ合いを見つけて愛し合えるようになったつがいを見ると安心するとともにとても温かく幸せな気持ちになった。種族の差を乗り越えて夫婦の絆を結ぶことが出来た魔物や精霊や人間達を、心の底から祝福できた。
 孤独の悲しみも、死の絶望も、愛し合う喜びも、命を宿す幸福も、知識としては知っていた。それを私はようやく、自分の身を通して共感することが出来るようになった。
 かつて領土内の高山を管理していた氷の精霊が登山家と夫婦になったという話を聞いたことがあった。
 当時の私は言葉でこそ祝福はしていたが、その実何も感じては居なかった。
 けれど今の私には、その時の彼女の気持ちがとても良く分かる気がする。
 理解出来ない相手の行動への戸惑い。生まれてくる自身の感情に対する困惑。自分が変わってしまうことへの恐怖。彼を想えば想うほど強くなってゆく別れた時の苦しみに、自分の感情を否定しようとさえしただろう。
 けれど彼女達はそれを乗り越え、結ばれた。その喜びの大きさを、愛する人が隣に居てくれる事の素晴らしさを、今の私はよく知っている。
 私は、本当に運が良かった。
 ファイという、私にとってかけがえない温かなかがり火を見つけられた。優しく世界を温める太陽のような人と出会えた。
 彼はいつも私のそばにいてくれる。
 触れていないと、そばにいないと、すぐに己の冷気で凍えてしまいそうになる私を、常に隣で微笑みながら温め続けてくれる。
 魔法で映した外の世界を一緒に見たり、たまには氷の宮殿の外を散歩したり、領地内を見て回ったりもした。
 彼と一緒なら、どこにいても何をしていても私は幸せだった。ただ白く塗りつぶされているだけだと思っていた世界は、本当は様々な色で出来ていたのだと気がついた。
 そんな私の変化に、そして彼の突然の出現に、宮殿内のグラキエス達も最初は驚き戸惑っていた。
 けれど今となってはそれも落ち着いた。
 彼女達は、今ではかつてよりもさらに積極的に役目を果たすようになった。そして報告の際も、言葉を使って感情豊かに伝えてくれるようになった。
 全てが良い方向へ向かっている。そんな風に思っていた。
 けれど同時に、私は急に大きな不安に駆られるようにもなり始めていた。


 一日の多くの時間を、私達は寝台の上で裸で寄り添い合って過ごす。
 肌を寄せ合い、互いの存在を確かめ合うように、相手の身体を温めるように、触れ合い、撫で合う。
 その手は肌に触れるうちに次第に熱を帯びてゆき、互いの身体をより強くまさぐり、求め合うようになる。
 そうするうちに、私も彼も相手が欲しくてたまらなくなる。
 それを禁ずるものも、咎めるものも誰もいない。むしろそうすることが正しい有り様なのだ感じるままに、私達は当たり前のように唇を重ね、肌を合わせ、身体の奥底までつながり合う。
 つながるだけでは物足りなくなり、溶け合ってしまうくらいに強く感じたくて、いつも私は彼に囁きかけて誘惑し、更に激しく彼を求めてしまう。
 彼は時にとろけてしまうくらいに甘く優しく、時に火傷してしまうくらいに強く荒々しく、私を愛してくれた。
 恥ずかしくて言えないこともたくさんした。
 戸惑うようなこともしてくれたし、驚くようなことをさせられたりもした。
 けれどそのどれもが、彼のもたらしてくれるあらゆるものが、私にとっては天からの恵みのように感じられた。
 彼の体温。命の熱。その全てが私の世界を祝福してくれた。
 その優しい温かさの心地よさに、彼の与えてくれる多幸感に、私は溺れ始めていた。
 彼を求める欲望に歯止めが効かなくなっていた。目に見えるところに居てくれなければすぐ不安で身体が震えた。見えるところにいるなら触れてくれなければ耐えられなくなった。触り合えるなら愛し合えなければ苦しくなった。
 かつて冷酷で絶対的な雪と氷の支配者だったことなど忘れ去ったように、これからも冷気に震える世界を管理し続けなければならないという責務も置き去りに、ただただ彼の与えてくれる熱に夢中になった。彼と愛し合う時間が、時が経つほどに増えていった。
 それでも今はまだ、国の管理を疎かにしているつもりは無かった。グラキエス達への指示も欠かさず、領地内が過剰に寒くなりすぎることも、逆に温かくなり過ぎることも無かった。
 ただ、彼と愛し合いながらグラキエス達の報告を受けたり、指示を出したりすることはあった。もちろん、伝心の魔法を用いての場合に限るけれど。
 怖くなるくらいに幸せだった。不安の原因は、幸せすぎるからなのだと思いたかった。
 だけど、やはりこの幸せは氷の女王たる私には分不相応なものだったのかもしれない。
 私の不安は、次第に現実の物となっていった。


 彼に抱かれているのに、身体の震えが止まらなくなった。
 愛し合っているうちはその感覚を忘れていられるのだが、身体が離れあった途端に、私の身体も心も、すぐに冷え始めてしまうようになった。
 きっと己の役割を忘れて快楽に溺れた罰なのだと思った。
 この冷気の世界が、私に元の存在へと戻るようにと促しているのだと。
 氷の女王に愛など必要ないのだと誰かが言っているような、そんな気がした。
 誰かが雪と氷の支配者を溶かしてしまうのならば、摂理を歪めようとする不届き者ごと凍てつかせてしまおうとする何者が居るような気がして怖くなった。
「そんな人は居ないよ。グラキエスのみんなだって、クリスが変わって喜んでいるし、領地の生き物たちだって前より数が増えて生き生きしている。国が豊かになっているってことじゃないか。
 それに、そんな奴が居たとしたって僕は負けないよ。もう君を凍えさせたりしないって約束しただろう」
 彼はそう言って、いつも私を優しく抱きしめてくれた。私はそんな彼に甘えた。例え世界が私に元に戻ることを望んでいても、彼と一緒なら何でも乗り越えられそうな気がした。
 けれど、私の気持ちなど全くお構いなしに、日に日に私を蝕む冷気は強まっていった。
 彼の熱を一番良く感じていたお腹から、底冷えするような寒さが這い上がってくるようになった。
 しかし、その震えや不安の原因は、実際のところ世界の意思などというものとは全く違うものであった。
 それも当たり前だった。
 私が世界に選ばれて氷の女王になったわけではないのだから。氷の女王という存在自体が、雪と氷の世界そのものであるのだから。
 私の身体に起こっていたことはもっと別の事だった。世界の意思に反するなどの比ではなく、世界の法則を歪めてしまうような恐ろしい事が、私の中で生まれ始めていた……。


 最初にそのことに気がついたのは、私ではなくファイだった。
 彼があるときから、交わりの最中や愛し合ったあとに私の下腹部をよく撫でるようになったのだ。
「何だかここに、クリスの優しい温かさが集まっている気がする」
 などと言って。
 私は不思議だった。私自身の身体さえも凍えさせるような冷気を生み始めた下腹部から、優しい温かさを感じるなどというのはどういう理屈なのだろうかと。
 最初は、私があまりにも貪欲に彼に愛を求めるからそんな事を言うのかと思った。多くの事を知りたい、色々なものを得たいと思うようになったのは、ここが熱を帯び始めてからだった。
 現に私の下腹は、私の膨らみ続ける欲望を象徴するかのように、少しずつ大きくなっていた。
 けれどそれは、決して欲望のために膨れていたわけではなかった。
 冷静に考えれば当たり前の事だ。
 いくら私が生き物の枠を外れかけたところに存在する氷の女王だったとしても、欲望だけで腹が膨れるわけがない。
 男女が交わり、女の腹が膨れるとすれば、それは子を孕んだ以外にありえない。
 つまりは私の腹の中に、何かが宿ったのだ。
 それでも、私は信じ切れなかった。魔物と人間の間には子が出来にくい。まして氷の女王の私と人間の間に命など生まれるのだろうかと。
 しかし膨らみ始めた下腹が少し目立ち始めるのと同時に、自分の腹の中に自分以外の精気、生命の気配を感じ始めてしまっては、もう認めないわけにはいかなかった。
 自分が、何かを孕んだという事実を。


 私の懐妊に、雪と氷の国の皆は喜んだ。
 氷の宮殿を訪れれば凍えるのが分かっているのに、雪国の魔物達はわざわざ私の元を訪れて祝いの言葉をかけ、贈り物をくれた。
 経験のある魔物達は、交わりの回数を増やして更に精気を得るのが魔物にとっての良いお産の助けになると助言もしてくれた。
 グラキエス達も代わる代わる私の元を訪れてくれた。私の身体の事を思って、皆で国の管理の一部を担ってくれることになった。
 誰よりも喜んでくれたのは、やはりファイだった。
 これまで以上に私のそばを離れず、優しくしてくれるようになった。
 けれど私は不安だった。
 私は何を孕んだのだろう。そんな不安と戸惑いで、いつも身体が小刻みに震えて止まらなかった。彼に抱かれていても、時に凍えるような寒さを感じた。
 こんな思いなど誰にも言えるはずがない。
 全てが済むまで胸に抱えていよう。私はそう考えていた。
 けれど流石と言うべきか、私の変化を彼は見逃していなかった。
「大丈夫だよクリス。なにがあっても、僕はずっとそばにいるから」
 きつく抱きしめられそんな風に囁かれると、少し安心できた。
「平気よ。みんなが支えてくれているんだもの。頑張れるわ」
「そう? ならいいんだけど。でもね、別に頑張らなくたっていいんだよ。辛い時は辛いって言っていいんだよ。僕にくらいは、言いたいことを全部言ってね」
 私が震えていることなんて、彼はとっくに気付いていた。私の胸の内だってきっと見通しているに違いない。
 そして意地を張っていることだってもう分かっているんだ。分かっているからこそ、彼はどうしたのかなんて聞いてこない。
「怖い……」
「うん」
「私のお腹には、一体何が宿ったのかしら」
「それは」
「分かっているわ。あなたとの愛の結晶。それは間違いないことだわ。私が肌を許したのは、私が直接会ったことのある男性さえあなただけなのだから」
「じゃあ、なにが怖いんだい」
 私は言葉に詰まる。けれど、吹雪の夜のように掴みどころもなく荒れ狂う気持ちを少しずつ整理して、必死で言葉を選んでゆく。
「氷の女王が子を宿すなんて聞いたことが無い。
 人間のあなたとの間に宿ったこの子は、あなたと同じ人間なのかしら? それとも私と同じ氷の女王? ううん。もしかしたら、そのどちらでもない何かなのかもしれない……」
 彼は頷きながら、私の頭や背中を撫でる。
 そのひだまりのような安らぎに、気持ちが緩んで言葉が溢れ出てしまう。
「人間だったら、氷と冷気の象徴である私のお腹の中でちゃんと育つことが出来るの? 生まれてくる子が死んでいたら、私はもう耐えられない。あなたと出会う前のように、いえそれ以上にきっと心が凍り付いて、二度と溶けなくなってしまうわ。
 けれど、私と同じだったら、この子の領地はどこにあるの? 二人でここを治めることになるの? けれど氷の女王二人分の冷気に襲われたら、きっとこの国のすみずみまで、グラキエス達も丸ごと全部凍り付いてしまうわ。
 それに、もしも人間の姿でも氷の女王の姿でもない形のものが宿っていたら……」
 私は彼にしがみつく。
 嗚咽が漏れる。知らぬ間に涙が流れていた。
「子をなす生き物達を見てずっと羨ましかった。けど私には無理だって諦めていた。
 せっかく、せっかくあなたとの間に子どもが出来たのに、喜ぶべきなのに、怖くてたまらないの」
 彼はしばらく何も言わずに、私を抱き締め撫で続けた。私が泣き止むまで、ずっとそうしてくれた。
 押し付けあった胸から、心臓の鼓動が伝わってくる。その規則正しい脈動が、私の心を少しずつ落ち着かせてくれた。
「大丈夫だよ。クリス」
 胸の中が、ぽうっと温かくなる。火が灯ったように。
「最初から、凍えていた僕を助けられるくらいにクリスは温かい存在じゃないか。それに君がどんなに悲しんでも、喜んでも、落ち着いているときも興奮しているときも、この国はちゃんと治められていた。冷気の管理はきっとグラキエス達も上手くやってくれるだろうし、僕も手伝う。
 人間が生まれたって、氷の女王が生まれたって大丈夫だよ。もしも別のものが生まれたって、僕とクリスの子だ。絶対に守っていくよ」
 あぁそうだ。この人が居てくれる。
 私は一人じゃない。
 だから大丈夫。私は大丈夫だ。
「ありがとう。ファイ」
 ファイがそばに居てくれる限り、何があっても大丈夫。そう思えた。


 お腹が大分大きく目立つようになってくると、足の指先が凍り付いた。
 自分の魔力では消せない氷だった。冷気で足がだめになってしまうということは無かったが、動かすことが出来なくなってしまった。
 氷はくるぶしや脛を飲み込み、じわじわと身体に広がっていった。
 恐らくお腹の子が自分の身を守るためにそうしているのだろう。
 氷の広がる勢いを考えると、この子が生まれる頃には私の全身が凍り付いてしまいそうだった。
 その強い冷気は私の命の火すらも凍らせてしまうかもしれない。
 私はこれから起こるであろう全てを覚悟した。ファイとの間の子を生むためならば、何でも受け入れられた。
 氷が身体を蝕む中、私は愛する彼を求めた。
 恐らくこれが出産前の最後になるであろう交わり。私も彼も時間を掛けて、お互いのすみずみまで愛し合った。
 素晴らしい時間は、けれどいつもすぐに過ぎ去ってしまう。
 行為が終わると、心地よい余韻が少しずつ引いてゆき、やがて一人の寒さがまた戻ってくる。
 けれどその寒さは、今に限ってはいつまでもやってこなかった。
 ファイは、私を抱きしめたまま離さなかった。私の身体の氷が、自分の体にまで侵食し始めているにも関わらず。
「ファイ、もういいの。このままじゃあなたまで氷漬けに」
「君が氷の中に居るなら、僕も一緒にいるよ。言っただろ、ずっとそばで温め続けるって」
 ファイはにっこりと微笑む。いつも私を安心させてくれる優しい笑顔。もう滅多に赤面することも無くなった彼だけど、この笑顔だけは昔から変わらない。
「でも、それじゃあなたが」
「大丈夫。寒くないよ。僕だって、君と一緒なら何だってへっちゃらさ」
 何かが軋むような音が寝室に響き渡る。見下ろすと、私達の身体を氷が覆い始めていた。
 更なる精気を得てお腹の子が力を強めたのか、それとも母体である私が無意識にしてしまっているのか、氷の侵食の速度が予想以上に速まっていた。
 氷が太ももから、腰まで登ってきている。みるみるうちに広がっていく。
 もう今からでは離れることも出来ない。
 私は彼の背中に腕を回して、強く抱き締める。
「ファイ。本当に……。本当にありがとう。愛しているわ」
「僕もだよクリス。愛している」
 背中が凍り付き、とうとう首まで埋まってしまう。
 私達は口づけを交わした。そしてそのままの姿勢のまま、一つになったまま凍り付いた。


 氷の中で、私はまどろんでいた。
 身体はあまり動かせなかったが、それまでのように身体が震えることはなく、寒さも感じなかった。
 彼のおかげだった。彼が一緒にいてくれたから。固まってしまってはいたが、繋がったままでいてくれたから。
 一緒に固まって動けなくなっているにも関わらず、彼が私の寒さや寂しさを敏感に察知し、氷漬けになりながらも私に熱を注いでくれたから。
 だからこんな落ち着いた気持ちのまま、眠るようにその時を待っていられた。
 私は時折目を覚まし、彼の安らかな寝顔を眺めた。
 言葉も発せず、身体もろくに動かせなかったが、彼が隣にいてくれる。抱き締めてくれているというだけで安心できた。
 彼の方も時々目を覚まして、同じように私を見守ったり、わずかながらも感じられる私の肌の感覚で安らぎを得ているようだった。
 外の様子はわからなかったが、私達はお互いがそばにいるというだけでこの状況に耐えることが出来ていた。
 グラキエス達は頻繁に私を案ずる思念を送ってきたが、私も大丈夫だという思念を送り返す以外は何も出来ず、ただ待たせることしか出来なかった。
 そんな時間が、しばらく続いた。
 それが長い時間なのか、短い時間なのかは分からなかったが、私は何となく彼との再開を待ちわびていた日々を思い出していた。
 見ていることしか出来ないグラキエス達には申し訳ないが、あの時に比べれば今の私には彼が居る。この子が生まれてくるまでいくらでも待っていられそうな気がした。
 そして私のお腹は膨れ続け。
 ついにこの子が、私の中に収まりきらなくなる日が訪れた。


 世界が砕け散るような大きな音が響いて、私は目を覚ました。
 全身に強烈な感覚が駆け抜ける。自分がどこにいるのかも、何をしているのかも分からなくなる。
 身体が燃えるように熱いような、凍り付いたように寒いような、矛盾した感覚。自分が存在しているのかさえ分からなくなってきそうな程の。
「クリス。クリス大丈夫か」
 手のひらに柔らかな熱を感じる。
「ファイ」
 繋いだ手のひらから感覚が蘇る。
 腕から、胴体、頭、もう片方の腕に、両足。そしてお腹。
 私はここに居る。
 そばには彼が居る。
 そして私の中には我が子が居る。
 一人じゃない。
「大丈夫。大丈夫よ」
 何も見えなかった。薄暗い視界の中で全てが輝いていた。
 ただ予感があった。何か大きいものが来る。
「クリス、足を開いて」
 言われたとおりに身体を動かすと、股ぐらから何かがこぼれ出す感覚があった。
 そして心臓が大きく跳ねて。
 足の付根から腰全体に大きな衝撃が掛かった。
「あっ。ああああああーっ」
 獣のような咆哮が遠くから聞こえてくる。
 これまで体験したこともない大きな感覚が身体中を暴れまわって、私は何が何だか分からなくなる。
 恐怖、不安、痛み。けれどその感覚の中には、なぜだか期待や喜びも含まれていて。
 この手のひらの温もりだけが唯一確かな寄る辺だった。未知の感覚に振り回されながらも、私は必死でそれにしがみついた。
「クリス。頑張れ、頭が出てきている。もう少しだ」
 下腹部から、全身に強烈な苦痛と、そしてそれさえも些細なものだと思えるくらいに圧倒的な、快楽にも似た幸福感が広がる。
 大切なものが、命よりも大切なものが私の身体から出ていってしまう物悲しさ。
 そしてこの子が、私とファイの子がようやくこの世に生まれ落ちる事が出来たのだという歓喜。
 それらが、一気に溢れ出す。
「ぅああ、あああああっ」
 私の中の全てを絞り出すように、私は叫んだ。
 そして私は空っぽになり、何も無くなってしまったかのような大きな喪失感と虚無感だけが残った……。
 …………。
 ……空っぽのそこに、声が聞こえた。
 聞き覚えのある声。誰よりも聞き慣れた、愛しい響き。
「クリスっ。生まれた、生まれたよ」
 愛する人の声と、そして元気な泣き声。赤ん坊の声だ。私が産んだ、私の子の声だ。
 世界に色が戻ってくる。
 真っ赤になった顔を泣きそうに歪めている愛しい人と、その人に抱かれた小さな命が私を待っていた。
 ファイはずっと私と手をつないでいてくれた。
 片手で抱きとめたその生命を、私はおっかなびっくり受け取りこの腕に抱いた。
 触れ合う肌からは、しっかりと熱を感じた。
 間違いない。確かにこの子も、ここに居る。
 私の身体からこぼれた体液や命を繋いでいた緒がすぐに凍り付いて砕け散るような冷気の中で、この子は頼もしいほどの温かさを既にその身に宿していた。
「クリス、お疲れ様。いい顔だ。とても綺麗だよ」
 彼が私の顔を撫でる。
 私は、自分でも気が付かないうちに笑っていた。この子を見下ろして、自然とほほ笑みを浮かべていた。……氷の女王の、この私が。
 涙がこぼれた。温かな涙が。
「君に似て本当に良かった。きっと将来は美人になるよ」
 彼は我が子を見下ろし、ふっくらとした頬を指先で撫でる。
「あら。目元なんかはあなたに似ているわ。優しい子に育つわね」
 目が会い、笑みがこぼれた。
 涙を拭われ、優しいキスを唇で受け止める。
 腕に抱いた我が子ごと、私は彼に抱き締められる。
 胸の中には寒さは無かった。身体も一つも震えなかった。
 あるのは穏やかな幸福感と、優しく温かな充足感。
 私の世界に、また色が増えた。きっとこの先色んなものと交わって、極彩色に輝くであろう色が。


 グラキエス達との打ち合わせも済み、外出の準備は全て整ったというところだったのに、ちょっと目を離した隙に肝心の娘がどこかに行ってしまっていた。
 彼も玉座にて魔法の準備中で、表に誰かが出ていった気配も無かった。とすればあの子の行き先はだいたい予想が付いた。
 寝室の扉を開けると、やはり娘がそこに居た。いつものように、お気に入りの『窓』に食らいつくようにして『外』の景色に見入っている。
「アウローラ。そろそろ出発よ」
 振り返った娘の顔は、見るものの心が寒々しくなるような冷たい無表情だった。きっと彼と出会う前の私も、こんな顔をしていたに違いない。そう思うと、何だか逆に微笑ましい気持ちになってしまった。
 とは言え私もあまり悠長にはしていられない。彼と離れているこの状態では、私も己の魔力に冷やされ心が凍ってしまいそうだ。
 娘を抱き上げると、そんな心の寒さも少し和らいだ。抱えられた娘の顔もみるみるうちに柔らかくなってゆく。
 理由はまだはっきりとは分かっていなかったが、私もこの子もお互いに触れ合うことで心の震えを止めることが出来た。
 私と交わるうちにファイに私の力が少し宿ったのと同じように、私にもファイのような温かさが身についたのか、それともこの子がファイのような力を受け継いでいるのか。あるいは魔力や血の強いつながりがあるからなのかもしれない。
「アウローラはこの窓から外を見るのが好きね」
「うん。だってまどにはいろいろなものがうつるから。ここはゆきとこおりばっかりでつまんない」
「でも、これからその外の世界を見に行くのに、わざわざ窓を見に来なくったっていいでしょう」
 私はアウローラを抱えたまま寝室を出る。
「ほんとうにおそとにいっていいの? おかあさまもおとうさまもわたしも、おそとにでたらたいへんなことになっちゃうんじゃないの?」
「大丈夫よ。しばらくだったら、グラキエス達が支えてくれるわ。それに父様が色々とたくさんお勉強して、私達が外の世界に出ても冷気の魔力が漏れないお洋服を考えてくれたのよ。今私達が着ている服がそうなの」
「そうなんだぁ。おとうさまはまほうつかいみたいね」
「うふふ。父様は本物の魔法使いなのよ。氷の女王の願いなら、どんな願いでも叶えてくれる凄い魔法使いなの」
「うん! おとうさまはすごいまほうつかい! だっておとうさまといるだけでたのしいきもちになれるもん!」
「私もそうよ。父様といると、とても幸せな気持ちになれる。けれどそんな凄い魔法使いにも、見習いの頃があったのよ」
 私は中庭を振り返って、懐かしい気持ちになる。
 気まぐれで彼を拾った場所。全ての始まりの場所。いいえ、拾われたのは私だったのかもしれない。
「クリス。アウローラ。やっぱりこっちにいたのか。準備が出来たよ」
「あなた。ふふ、アウローラったら、またあの窓を覗いていたのよ」
 娘は私の腕の中を飛び出して、彼に駆けて行って飛びついた。
「おとうさま!」
「これからあそこに行けるんだぞ。そんなに楽しみだったかい?」
「うん!」
 彼と目が会い。私は頷く。
 隣に並んで手を繋いだ。
「私も楽しみよ。初めての遠出だもの」
「まだ短い時間しかいられないけどね。すぐに戻らないと、こっちの国も大変だろうし。もう少し長く外に出られるように、工夫を」
 私は彼の唇に指を押し当て、言葉を止める。それから彼の頬に口づけした。
「いいのよ。あなたと、そしてこの子と一緒に、憧れだった外の世界を見られるんだから。ふふ、新婚旅行ね。あなた」
 照れたように笑う彼が愛おしくて、私は繋いだ手を、指を絡めて繋ぎ直す。
 玉座の間では、既に転移の魔法陣が光を放ち始めていた。
 アウローラのまんまるに見開かれた瞳が、その光を反射して煌めいている。
 この子はまだ本当の熱を知らない。目に映る様々な色も、心が冷えるのと同時に色あせてしまっているだろう。かつての私がそうであったように。
 でも、いろいろな景色を見て、世界が様々な色で満ちていることを知ることは無駄ではない。
 私はそれを知らず、待っていることしかできなかったけれど。でもこの子ならばもしかしたら、自分から新たな熱を求めて世界に踏み出して行けるのかもしれない。
「さぁ、行こう」
 まだ見ぬ未来を夢見ながら、私達は新たな世界の扉へと一歩踏み出した。
 独りではなく、三人で。
16/12/13 20:51更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
というわけで、最終章でした。
最初は凍てついた心の女王が恋に溺れるような話を書こうかと思ったのですが、どうせ恋に落ちて溺れるなら子が出来るところまで書いてしまおうと思いこんな感じになりました。
子どもを抱えて微笑んでいる氷の女王様を見てみたいです!
結構、独自な解釈ですが、こんな感じの氷の女王様もきっとどこかに居るよね。と見逃していただければ……。

ここまで読んで頂きありがとうございました。楽しんでいただけていたら幸いです。

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