喪っても、離れても
「−−ひい、一つ目っ!?」
「そうだ、一つ目。怖いだろ?」
大学の構内、サラリーマンの男は目の前に現れた女性の姿に思わず悲鳴を上げた。
以前見かけた翼の生えたハーピーのようなものをみて大騒ぎした彼は、治療と称してこの研究室に運び込まれていたのだ。
人外のものの存在。それを許容するのは、あまりに難しいことなのだ。
それを実感して、瞳は心の中でため息をつく。
「ーーこんなこと、忘れたいよな?一つ目のバケモノなんて、いないのが正しいよな?」
「あ、ああ」
瞳の言葉に、がくがくと頷く男性。
彼女の目が、それを受けて青く輝く。
ぎしり、と彼の身体が動かなくなり、悲鳴をのみこむ、ひっ、という音が響いた。
「そうだ、そんなバケモノなんて存在しない。この世界の盟主は人間なんだからよ……。今オマエが見てるのは、ただの幻覚だ。昨日見た鳥人間もそう、ただの幻覚。疲れてたんだ」
そんな彼の目の奥を覗き込みながら、瞳は魔力を流し込む。
心の中にある『こんなことは忘れてしまいたい』という欲求を引き出し、増幅する。
「さあ、目を閉じてみろ。普段と変わらない暗闇だろう?」
言われるがままに、目を閉じる男。
その姿を確認してから、瞳は二つ目の姿に変身する。
一ヶ月もの間変身を繰り返してきた慣れ親しんだ姿だ。
「−−目を、開けるんだ」
「……あ」
そして、数分後。目を開けた男性が見たのは二つ目の彼女の姿。
どこからどう見ても人間の少女であった。
人間の記憶というのは脆いものだ。
現実にこうであるという証拠があれば、すぐに偽の記憶を植えつけることが出来る。
「はい、お終い。疲れてたんだろ?かえってちゃんと寝るんだな」
「あ、ああ……」
男はよろよろと立ち上がり、大学を後にする。
彼の頭の中には、ハーピーの記憶も、ゲイザーの記憶も既になくなっていた。
「−−ふう。こいつで半分か」
姿を戻しもせずに瞳は隣においておいたコーヒーを飲み干す。
しばらく前に淹れて飲む暇もなく冷ましてしまったそれは、ただ強い苦味をもって彼女の顔をしかめさせた。
「不味っ」
「−−おつかれさま」
「おう、そっちも大変みたいだな」
「うん、もうこっちも三十人超えた……」
後ろから声をかけてきた同僚のナイトメアに、ひらひらと手を振ると、彼女も疲れた顔で笑って見せた。仕事疲れは、お互い様のようだ。
彼女達の仕事。
それは、魔物に関する情報の統制−−主に記憶消去である。
魔物たちはこの世界に受け入れられるにはまだまだ道のりが遠い。
社会的な道徳や、姿かたち、インキュバスになることへの抵抗など、多種多様な関門が残っているのだ。それを打破すべく、多くの魔物たちが心を砕き、色々な場所に潜入している。
もし、そうした魔物たちの存在が露見してしまった場合、人間達は魔物を敵とみなす可能性すらある。見た目が違う、それだけで動物は多種を虐げることがあるのだ。
故に魔物たちが敵としてではなく、仲の良い隣人、否恋人として受け入れられるその日まで彼女達は記憶を消し、人間達に自分達の存在が露見しないように仕事をしているのだ。
「コーヒー新しいの淹れる?」
「うーん、冷めたらまた不味いコーヒーを飲む羽目になるし、なしで良いぜ」
「でも、大分疲れているみたいだし……その。昼ごはんもまだでしょう?」
「あ、ああ……昼飯はちょっと時間を変えようと思ってな」
ナイトメアの言葉に、瞳は思わず遠くを見る。
腹は減っているし、たしかに食べに行くのに丁度良い時間だ。
しかし今、昼飯を食堂で取れば、間違いなく要がいるだろう。
もし、出会ってしまえば『思い出して』しまう。
それだけは、避けたかった。
「−−そう、なんだ」
ぽつり、と呟くナイトメア。
彼女の手には、とある連絡先が書かれた携帯電話が握られいていた。
ーー
(頭、グルグルするな……)
その日の朝。要の寝起きは最悪だった。
すっきりしているというのに、何かぽっかりと穴があいたような気分。
今まで一緒にいた少女が実家に帰ったからなのだろうか。そんなことを、考える。
「−−痛っ」
きっと、彼女が鍵なのだろうが、そのあたりのことを思い出そうとすると頭痛が頭を襲ってきて、記憶を引き出すのを阻害していた。
身体が、思い出すことを拒否しているようなそんな気分だった。
「と、早くいかないとまずいな」
ふと、時計を見ると随分な時間がたっていた。記憶を呼び出すというのは存外に時間を消費するらしい。
大学の授業はいつも通りに存在する。
たとえ疲れていたところで全く情状の斟酌などないだろう。
のろのろと要は弁当の準備をする。
いつも通りの三角形の握り飯をラップで握って鞄の中に入れ、彼は大学への道を何も考えずに歩き始めるのだった。
「おーい、川内。なんか、今日ぼーっとしてたけど大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。多分、な」
授業を半分終えた昼休み、久々に声をかけてきた友人である田中に曖昧な返事を返す。
今は話すのも億劫な気分だった。
「そうかあ?まあ、最近がおかしかっただけかも知れないけど……」
「おかしかったって、何が?」
「授業中に寝ないわ、予習はやってくるわ。おまけに恋人はできるわ……」
「恋人だと?」
田中の言葉に、要は頓狂な声を上げる。
そもそも女性と付き合ったことなど無いし、積極的に母親以外の女と話す機会もない。
「あれ、違うのか?」
「どこならそんな発想でたんだよ」
「最近おかしかったからな。授業中寝ることもないわ、予習はやってくるわ。そういう兆候のある奴って大体女がらみだぞ。恋人でも出来たんじゃないかって噂立ってたんだぜ?」
「・・・…悪かったな」
にやり、と笑う彼にむっとした声で返す。
理由は分からないが、彼の言葉が不快だった。
女がらみの事、なんて……。
「食堂でいつも一緒に食ってたから、そうだと思ってたんだけどなあ」
「……あいつは、関係ない」
そう、昨日まで居候していた外国人の少女がいたくらいだ。
名前は、思い出せない。思い出せるほど、強い絆ではなかったのだろう。
思い出そうとすると、頭痛が頭を襲い、思考を中断させる。
「あ。もしかして振られたか?」
「関係ねえって言ってんだろ!」
「……わりぃ」
「……すまん。俺もちょっと熱くなってたみたいだ」
故に自分の出した声に、驚いてしまった。
どうして、こんなにムキになってしまったのだろうか。
「お詫びっていったらあれだけど、放課後から揚げ奢ってやるから、それで許してくれよ?」
「それ、お前が食いたいだけだろ」
「ま、そうだな。けど、疲れたときは旨いモンが一番だろ?」
田中の言葉に首肯を返す。
確かに疲れたときは、何か気分転換が大事だろう。
特に、今日は何故か疲れてしまっているのだから。
(『から揚げ、食ったこと無いな』)
「…っ!?」
一瞬、要の脳裏に、少女の声がリフレインした。
その記憶は、泡のように、とけて、消えた。
−−
「コロッケ弁当が売れ残ったのは僥倖だな」
夜闇に染まる公園のベンチ。
街灯の灯の下で瞳は一人、コンビニで半額の弁当をかき込む。
少し暗いが、暗視が効くので問題ない。金も充分なたくわえがある。
それよりも深刻なのが宿だ。
ネットカフェを点々とする生活を送っているものの、中々安心して寝られない。
この世界で魔物が安心して住まえる地など殆どないのだ。
「そろそろ、帰ろうかな」
ぽつり、と呟く。
この世界に来たのは、自分を変えられると思ったからだ。
誰かから怖がられたりしない自分に。
ゲイザーという存在が知られていない故に、嫌われない自分に。
そんなことを考えて、彼女はゲートを開けた。
結果は−−惨憺たる有様だったが。
正体を隠して潜入したはずが、この体たらく。
強引な記憶消去まですることになってしまった。
「要……」
自嘲気味な笑みが口元からこぼれる。
そう、あやふやな気持ちでいったからだ。
そんなやつが、どこに行っても結果を残せることなんてない。
彼女の脳裏に浮かんだのは、「怖い」という言葉を口にする彼の姿だった。
「−−隣、いいかしら」
「ん?いいぜ」
隣に座った黒髪の女学生の言葉に、頷いてみせる。
暗闇の中でも分かるほどの癖毛の少女だった。
数ヶ月化け続けたから、変装には自信がある。気を抜かなければ、そうばれるものではない。
……油断から、要にはバレてしまったのだが。
女学生は小さく一礼すると、隣で弁当を広げ始めた。
彼女が握ったにしては大きなおにぎりがいくつか、鞄の中からのぞく。
「−−しっかし、どうしたんだ?こんな時間に。青少年なら家でのんびりする時間だろ?」
「ちょっと、用事があったのよ。その……彼と。」
「ふうん、いいじゃねえか」
「−−そうね、良い」
女学生は、手元のおにぎりにかぶりつく。
彼女の動きに合わせてウェーブのかかった黒髪が、揺れる。
まるで、蛇のように。
髪の束の一つから、蛇が鳴くシューという音すらする。
瞬きした瞳の眼に映ったのは、蛇に変わった彼女の髪だった。
「……む、メデューサか」
その姿に、小さくため息を付く。
「ったく。もう少しちゃんと隠したらどうだ?記憶消すバイト、結構大変なんだからよ」
「バカね。わざとに決まってるじゃない」
今度は、彼女が特大のため息を付く番だった。
誰かに頼まれ、ここにきたと言っているようなものだった。
「……誰の差し金だ?」
「分かるでしょ?−−あいつよ。責任を出来る限り放棄する主義のリリム」
「あー。あいつか」
「ナイトメアに頼まれたから。たぶん得意そうな私に行けって」
「成程。すまねえな。アタシなんぞのために」
彼女の言葉に、瞳は頷く。
たしかに、あのナイトメアだったらやるだろう。
彼女は、誰かを気遣える魔物だ。人の心の機微にも聡い。
同僚に迷惑をかけてしまった事に気付き、少しばかりばつがわるくなった瞳は、頭をぽりぽりとかいた。
「別に、あんたがどうしようと、私に決める権利はないわ」
夜空を見上げながら、メデューサは呟く。
どこか、遠くを見る目だった。
「ただ、一言。私に起こったことを話すことは出来るの」
聞いてくれる?と言外に語る彼女に、瞳はただ首肯を返す。
長い黒髪が、蛇のようにゆらゆらと揺れた。
「私も、嫌われてたんだ−−今の彼、直也君って言うんだけど」
「今のってことは……」
「−−彼はさ、怖がっても手を伸ばそうとしてくれたんだ。人間と違う、私に。ね」
「いい奴、何だな」
「当たり前じゃない。お人好しで世話焼きで、ちょっと抜けてるところもあるけど、その、とても…っ、いや、そうじゃなくて……」
突然に始まったのろけ話にからかうように茶々を入れると、彼女の顔が街灯の明かりでも分かるほどに真っ赤になった。
どうやら、本当にいい男に巡り会えたのだろう。
怖いとしっても、付き合ってくれる男性に。
「−−でも、アタシは、怖い」
「そう。私もだった」
「面と向かって『怖い』って、『嫌い』って言われるのが、怖いんだ」
きっと、要は、そんなことはいわないのだろう。
一ヶ月ほどの付き合いで、それは知っている。
しかし、それでも。
「−−慣れてるんだ。『怖い』っていわれる事に」
仕事で、多くの人間に『怖い』と言われてきた。
否、この世界に来るまで、ずっといわれてきた言葉だ。
恐怖に歪む顔が、脳裏にフラッシュバックする。
「だけど、もし、要に。そういわれたら……!」
アタシは、壊れる。
その言葉は、本当に小さく掠れた声になった。
「−−けど、さ」
「ああ。分かってる。アタシに、勇気が足りないってことくらい」
「あなたが好きになった男のことくらい、信じてやりなさいよ。−−逃げた私が、言えたことじゃないけれど」
「オマエも、逃げたのか」
「……うん」
遠い空に、メデューサは手を伸ばす。
何も掴まないその手は、空を切った。
「だから、気持ちは分かる。−−でも。そんなときに、いってくれた人がいたの」
苦笑するように、懐かしい何かを思い出すように。
彼女は、笑った。
「落ち着け。まずは、相手と向き合えって……」
「そう、か」
その笑みに釣られるように、瞳も、小さく笑った。
要の元を離れてから、随分久々に笑ったような気がした。
「−−だから私も。そんなことがいえる魔物になりたかったのよ」
それに、ね。
不意に、彼女は瞳に振り返ってみせた。
石になる魔眼が、彼女の身体をぴしり、と固めてみせる。
「このまま固められて怖がらない人なんていない。でも、受け入れてくれた人がいたのは確かなの。−−今だって彼に『怖い』って言われたら悲しくなるし。『嫌い』って言われたらおかしくなると思う」
「そう、だな」
彼女に合わせるように、瞳もメデューサを蒼い目で見つめる。
催眠の力か、彼女の体も固まって動かなくなった。
「どいつも、似たようなものか」
「そうね。怖い力−−」
二人笑って、力を解く。
身体は、すぐに動くようになった。
「ありがとう。何か、元気が出てきた−−。あのリリム、人を見る目はあるんだな」
「それだけは、私も評価してるわ。礼ならあいつに言っておいてね」
「怖がりで、寂しがりで、さ。みんなそうなんだって。そんな簡単なことを、思い出した」
よっこらしょっ。そんな声を出して瞳はベンチを降りる。
向かいたい場所は、決まっていた。
「−−そういや、名前聞いてなかったな」
「そういえば、話してなかったわね」
同じく立ち上がった彼女。
そのウェーブのかかった髪は、蛇であることを完全に隠していた。
「石塚真奈子。直也君の……恋人」
「−−アタシは、国眼瞳。川内要の、恋人志望だ」
「さっさと、志望の文字を取ってくることね」
「……分かってるよ」
ひらひらと手を振りながら、公園を後にする。
話すことは決まっていない。
話したいことは、一杯ある。
謝りたいことも、たくさんある。
告げたいことも、尽きはしないだろう。
「カナメ−−」
唯一言、彼女は呟いた。
「そうだ、一つ目。怖いだろ?」
大学の構内、サラリーマンの男は目の前に現れた女性の姿に思わず悲鳴を上げた。
以前見かけた翼の生えたハーピーのようなものをみて大騒ぎした彼は、治療と称してこの研究室に運び込まれていたのだ。
人外のものの存在。それを許容するのは、あまりに難しいことなのだ。
それを実感して、瞳は心の中でため息をつく。
「ーーこんなこと、忘れたいよな?一つ目のバケモノなんて、いないのが正しいよな?」
「あ、ああ」
瞳の言葉に、がくがくと頷く男性。
彼女の目が、それを受けて青く輝く。
ぎしり、と彼の身体が動かなくなり、悲鳴をのみこむ、ひっ、という音が響いた。
「そうだ、そんなバケモノなんて存在しない。この世界の盟主は人間なんだからよ……。今オマエが見てるのは、ただの幻覚だ。昨日見た鳥人間もそう、ただの幻覚。疲れてたんだ」
そんな彼の目の奥を覗き込みながら、瞳は魔力を流し込む。
心の中にある『こんなことは忘れてしまいたい』という欲求を引き出し、増幅する。
「さあ、目を閉じてみろ。普段と変わらない暗闇だろう?」
言われるがままに、目を閉じる男。
その姿を確認してから、瞳は二つ目の姿に変身する。
一ヶ月もの間変身を繰り返してきた慣れ親しんだ姿だ。
「−−目を、開けるんだ」
「……あ」
そして、数分後。目を開けた男性が見たのは二つ目の彼女の姿。
どこからどう見ても人間の少女であった。
人間の記憶というのは脆いものだ。
現実にこうであるという証拠があれば、すぐに偽の記憶を植えつけることが出来る。
「はい、お終い。疲れてたんだろ?かえってちゃんと寝るんだな」
「あ、ああ……」
男はよろよろと立ち上がり、大学を後にする。
彼の頭の中には、ハーピーの記憶も、ゲイザーの記憶も既になくなっていた。
「−−ふう。こいつで半分か」
姿を戻しもせずに瞳は隣においておいたコーヒーを飲み干す。
しばらく前に淹れて飲む暇もなく冷ましてしまったそれは、ただ強い苦味をもって彼女の顔をしかめさせた。
「不味っ」
「−−おつかれさま」
「おう、そっちも大変みたいだな」
「うん、もうこっちも三十人超えた……」
後ろから声をかけてきた同僚のナイトメアに、ひらひらと手を振ると、彼女も疲れた顔で笑って見せた。仕事疲れは、お互い様のようだ。
彼女達の仕事。
それは、魔物に関する情報の統制−−主に記憶消去である。
魔物たちはこの世界に受け入れられるにはまだまだ道のりが遠い。
社会的な道徳や、姿かたち、インキュバスになることへの抵抗など、多種多様な関門が残っているのだ。それを打破すべく、多くの魔物たちが心を砕き、色々な場所に潜入している。
もし、そうした魔物たちの存在が露見してしまった場合、人間達は魔物を敵とみなす可能性すらある。見た目が違う、それだけで動物は多種を虐げることがあるのだ。
故に魔物たちが敵としてではなく、仲の良い隣人、否恋人として受け入れられるその日まで彼女達は記憶を消し、人間達に自分達の存在が露見しないように仕事をしているのだ。
「コーヒー新しいの淹れる?」
「うーん、冷めたらまた不味いコーヒーを飲む羽目になるし、なしで良いぜ」
「でも、大分疲れているみたいだし……その。昼ごはんもまだでしょう?」
「あ、ああ……昼飯はちょっと時間を変えようと思ってな」
ナイトメアの言葉に、瞳は思わず遠くを見る。
腹は減っているし、たしかに食べに行くのに丁度良い時間だ。
しかし今、昼飯を食堂で取れば、間違いなく要がいるだろう。
もし、出会ってしまえば『思い出して』しまう。
それだけは、避けたかった。
「−−そう、なんだ」
ぽつり、と呟くナイトメア。
彼女の手には、とある連絡先が書かれた携帯電話が握られいていた。
ーー
(頭、グルグルするな……)
その日の朝。要の寝起きは最悪だった。
すっきりしているというのに、何かぽっかりと穴があいたような気分。
今まで一緒にいた少女が実家に帰ったからなのだろうか。そんなことを、考える。
「−−痛っ」
きっと、彼女が鍵なのだろうが、そのあたりのことを思い出そうとすると頭痛が頭を襲ってきて、記憶を引き出すのを阻害していた。
身体が、思い出すことを拒否しているようなそんな気分だった。
「と、早くいかないとまずいな」
ふと、時計を見ると随分な時間がたっていた。記憶を呼び出すというのは存外に時間を消費するらしい。
大学の授業はいつも通りに存在する。
たとえ疲れていたところで全く情状の斟酌などないだろう。
のろのろと要は弁当の準備をする。
いつも通りの三角形の握り飯をラップで握って鞄の中に入れ、彼は大学への道を何も考えずに歩き始めるのだった。
「おーい、川内。なんか、今日ぼーっとしてたけど大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。多分、な」
授業を半分終えた昼休み、久々に声をかけてきた友人である田中に曖昧な返事を返す。
今は話すのも億劫な気分だった。
「そうかあ?まあ、最近がおかしかっただけかも知れないけど……」
「おかしかったって、何が?」
「授業中に寝ないわ、予習はやってくるわ。おまけに恋人はできるわ……」
「恋人だと?」
田中の言葉に、要は頓狂な声を上げる。
そもそも女性と付き合ったことなど無いし、積極的に母親以外の女と話す機会もない。
「あれ、違うのか?」
「どこならそんな発想でたんだよ」
「最近おかしかったからな。授業中寝ることもないわ、予習はやってくるわ。そういう兆候のある奴って大体女がらみだぞ。恋人でも出来たんじゃないかって噂立ってたんだぜ?」
「・・・…悪かったな」
にやり、と笑う彼にむっとした声で返す。
理由は分からないが、彼の言葉が不快だった。
女がらみの事、なんて……。
「食堂でいつも一緒に食ってたから、そうだと思ってたんだけどなあ」
「……あいつは、関係ない」
そう、昨日まで居候していた外国人の少女がいたくらいだ。
名前は、思い出せない。思い出せるほど、強い絆ではなかったのだろう。
思い出そうとすると、頭痛が頭を襲い、思考を中断させる。
「あ。もしかして振られたか?」
「関係ねえって言ってんだろ!」
「……わりぃ」
「……すまん。俺もちょっと熱くなってたみたいだ」
故に自分の出した声に、驚いてしまった。
どうして、こんなにムキになってしまったのだろうか。
「お詫びっていったらあれだけど、放課後から揚げ奢ってやるから、それで許してくれよ?」
「それ、お前が食いたいだけだろ」
「ま、そうだな。けど、疲れたときは旨いモンが一番だろ?」
田中の言葉に首肯を返す。
確かに疲れたときは、何か気分転換が大事だろう。
特に、今日は何故か疲れてしまっているのだから。
(『から揚げ、食ったこと無いな』)
「…っ!?」
一瞬、要の脳裏に、少女の声がリフレインした。
その記憶は、泡のように、とけて、消えた。
−−
「コロッケ弁当が売れ残ったのは僥倖だな」
夜闇に染まる公園のベンチ。
街灯の灯の下で瞳は一人、コンビニで半額の弁当をかき込む。
少し暗いが、暗視が効くので問題ない。金も充分なたくわえがある。
それよりも深刻なのが宿だ。
ネットカフェを点々とする生活を送っているものの、中々安心して寝られない。
この世界で魔物が安心して住まえる地など殆どないのだ。
「そろそろ、帰ろうかな」
ぽつり、と呟く。
この世界に来たのは、自分を変えられると思ったからだ。
誰かから怖がられたりしない自分に。
ゲイザーという存在が知られていない故に、嫌われない自分に。
そんなことを考えて、彼女はゲートを開けた。
結果は−−惨憺たる有様だったが。
正体を隠して潜入したはずが、この体たらく。
強引な記憶消去まですることになってしまった。
「要……」
自嘲気味な笑みが口元からこぼれる。
そう、あやふやな気持ちでいったからだ。
そんなやつが、どこに行っても結果を残せることなんてない。
彼女の脳裏に浮かんだのは、「怖い」という言葉を口にする彼の姿だった。
「−−隣、いいかしら」
「ん?いいぜ」
隣に座った黒髪の女学生の言葉に、頷いてみせる。
暗闇の中でも分かるほどの癖毛の少女だった。
数ヶ月化け続けたから、変装には自信がある。気を抜かなければ、そうばれるものではない。
……油断から、要にはバレてしまったのだが。
女学生は小さく一礼すると、隣で弁当を広げ始めた。
彼女が握ったにしては大きなおにぎりがいくつか、鞄の中からのぞく。
「−−しっかし、どうしたんだ?こんな時間に。青少年なら家でのんびりする時間だろ?」
「ちょっと、用事があったのよ。その……彼と。」
「ふうん、いいじゃねえか」
「−−そうね、良い」
女学生は、手元のおにぎりにかぶりつく。
彼女の動きに合わせてウェーブのかかった黒髪が、揺れる。
まるで、蛇のように。
髪の束の一つから、蛇が鳴くシューという音すらする。
瞬きした瞳の眼に映ったのは、蛇に変わった彼女の髪だった。
「……む、メデューサか」
その姿に、小さくため息を付く。
「ったく。もう少しちゃんと隠したらどうだ?記憶消すバイト、結構大変なんだからよ」
「バカね。わざとに決まってるじゃない」
今度は、彼女が特大のため息を付く番だった。
誰かに頼まれ、ここにきたと言っているようなものだった。
「……誰の差し金だ?」
「分かるでしょ?−−あいつよ。責任を出来る限り放棄する主義のリリム」
「あー。あいつか」
「ナイトメアに頼まれたから。たぶん得意そうな私に行けって」
「成程。すまねえな。アタシなんぞのために」
彼女の言葉に、瞳は頷く。
たしかに、あのナイトメアだったらやるだろう。
彼女は、誰かを気遣える魔物だ。人の心の機微にも聡い。
同僚に迷惑をかけてしまった事に気付き、少しばかりばつがわるくなった瞳は、頭をぽりぽりとかいた。
「別に、あんたがどうしようと、私に決める権利はないわ」
夜空を見上げながら、メデューサは呟く。
どこか、遠くを見る目だった。
「ただ、一言。私に起こったことを話すことは出来るの」
聞いてくれる?と言外に語る彼女に、瞳はただ首肯を返す。
長い黒髪が、蛇のようにゆらゆらと揺れた。
「私も、嫌われてたんだ−−今の彼、直也君って言うんだけど」
「今のってことは……」
「−−彼はさ、怖がっても手を伸ばそうとしてくれたんだ。人間と違う、私に。ね」
「いい奴、何だな」
「当たり前じゃない。お人好しで世話焼きで、ちょっと抜けてるところもあるけど、その、とても…っ、いや、そうじゃなくて……」
突然に始まったのろけ話にからかうように茶々を入れると、彼女の顔が街灯の明かりでも分かるほどに真っ赤になった。
どうやら、本当にいい男に巡り会えたのだろう。
怖いとしっても、付き合ってくれる男性に。
「−−でも、アタシは、怖い」
「そう。私もだった」
「面と向かって『怖い』って、『嫌い』って言われるのが、怖いんだ」
きっと、要は、そんなことはいわないのだろう。
一ヶ月ほどの付き合いで、それは知っている。
しかし、それでも。
「−−慣れてるんだ。『怖い』っていわれる事に」
仕事で、多くの人間に『怖い』と言われてきた。
否、この世界に来るまで、ずっといわれてきた言葉だ。
恐怖に歪む顔が、脳裏にフラッシュバックする。
「だけど、もし、要に。そういわれたら……!」
アタシは、壊れる。
その言葉は、本当に小さく掠れた声になった。
「−−けど、さ」
「ああ。分かってる。アタシに、勇気が足りないってことくらい」
「あなたが好きになった男のことくらい、信じてやりなさいよ。−−逃げた私が、言えたことじゃないけれど」
「オマエも、逃げたのか」
「……うん」
遠い空に、メデューサは手を伸ばす。
何も掴まないその手は、空を切った。
「だから、気持ちは分かる。−−でも。そんなときに、いってくれた人がいたの」
苦笑するように、懐かしい何かを思い出すように。
彼女は、笑った。
「落ち着け。まずは、相手と向き合えって……」
「そう、か」
その笑みに釣られるように、瞳も、小さく笑った。
要の元を離れてから、随分久々に笑ったような気がした。
「−−だから私も。そんなことがいえる魔物になりたかったのよ」
それに、ね。
不意に、彼女は瞳に振り返ってみせた。
石になる魔眼が、彼女の身体をぴしり、と固めてみせる。
「このまま固められて怖がらない人なんていない。でも、受け入れてくれた人がいたのは確かなの。−−今だって彼に『怖い』って言われたら悲しくなるし。『嫌い』って言われたらおかしくなると思う」
「そう、だな」
彼女に合わせるように、瞳もメデューサを蒼い目で見つめる。
催眠の力か、彼女の体も固まって動かなくなった。
「どいつも、似たようなものか」
「そうね。怖い力−−」
二人笑って、力を解く。
身体は、すぐに動くようになった。
「ありがとう。何か、元気が出てきた−−。あのリリム、人を見る目はあるんだな」
「それだけは、私も評価してるわ。礼ならあいつに言っておいてね」
「怖がりで、寂しがりで、さ。みんなそうなんだって。そんな簡単なことを、思い出した」
よっこらしょっ。そんな声を出して瞳はベンチを降りる。
向かいたい場所は、決まっていた。
「−−そういや、名前聞いてなかったな」
「そういえば、話してなかったわね」
同じく立ち上がった彼女。
そのウェーブのかかった髪は、蛇であることを完全に隠していた。
「石塚真奈子。直也君の……恋人」
「−−アタシは、国眼瞳。川内要の、恋人志望だ」
「さっさと、志望の文字を取ってくることね」
「……分かってるよ」
ひらひらと手を振りながら、公園を後にする。
話すことは決まっていない。
話したいことは、一杯ある。
謝りたいことも、たくさんある。
告げたいことも、尽きはしないだろう。
「カナメ−−」
唯一言、彼女は呟いた。
16/06/11 00:52更新 / くらげ
戻る
次へ