中編
―― 3 ――
「それでは、お二人とも雇わせていただきましょう」
卓に積まれた書類の山に埋もれるように座っている青年が、にこやかに笑って言う。
ここはリンドヴルム領の主都“竜の眼”の中心部分に位置する伯爵邸の、そのまた中央にある執務室だ。男が仕官したい旨を伝えたところ、まっすぐここに案内されたのである。何かと格式と遠回りを重んじがちな貴族としては珍しいことだった。
青年の言葉に、グレゴールの濃い灰色の眉が、ぐぐっと持ちあがる。
「……私だけでなく、彼女も雇ってくださると?」
「先の敗戦より我が領では兵が足らず、領内のあちこちで賊による被害の報告が上がっています。今は出来る限り多くの戦力が必要なのです。ことに、腕の立つ方は大歓迎で」
弧を描いた金色の瞳を向けられて、イライザは黙り込む。
魔王に仕えるべき自分が、人間の軍に属しても良いものだろうか。
しばし考えて、彼女はゆっくりと頷いた。そもそも、その魔王軍の席を蹴って男を追って来たのは自分である。今のところは魔界との関係も悪くないようだし、力を貸しても問題はあるまい。
「受けさせて頂こう」
「ありがとうございます。いやはや、助かるなぁ」
年相応の砕けた笑みを浮かべる青年に、男とデュラハンは微笑んだ。
変人と呼ばれるこの青年に力を貸すのも悪くない。先の敗戦で傾きかけた領土だ、待遇は望めないかもしれないが、多少は我慢もしよう。
だが、その後呈示された金額に、彼らは唸ることになる。諸経費は全て領主持ちで、かなりの給金も出る、大国の聖騎士並みの待遇であった。
「随分と買いかぶられたものだな」
「私はどうだか分からないが、貴様の値段としては妥当に思えるが?」
男は首をすくめて、答えるのを丁重に辞退した。
そしてそれから半年も経たないうちに、領主の判断が正しかったことが証明されるのである。
日に焼けた顔に快活な笑みを浮かべて、男は五か月ぶりに見る顔に声をかけた。
「おう! 無事だったようだな!」
「当然だ。貴様以外の男にそうそう遅れを取るものか」
ふんと鼻を鳴らして、デュラハンは答える。
だがその表情は、笑み崩れそうになるのを必死でこらえているような風がある。それどころか、彼女の四肢の筋肉はぴくぴくと痙攣して、今にも飛びつかんばかりだった。
二人はこの五か月別の任務についていた。グレゴールは領主について隣国との戦へ、イライザは領主の姉であるアデライーデの元で賊の掃討に当たっていたのである。
この人事については、主にイライザの側から盛大な文句が出たものだが、領外での戦いに魔物を伴うことは出来ない、同時に、恩のある現国王からの要請には出来る限りの戦力をもって応えねばならない、と丁寧に説得されては、一応は仕える身の彼女には何も言えなかった。
男は翼竜の紋章をあしらった銀の鎧、デュラハンは禍々しい意匠の黒い鎧という物々しい姿で二人は会話していた。傍らでは馬同士が、こちらも再会を喜ぶように身体を摺り寄せている。
「……戦場で女など作ってはおらんだろうな?」
「人間同士の戦ではやはり男が主役だからな。女兵士などそうお目にかかれんよ」
「兵士に限らずとも、美貌才媛の女将軍とか、憂いを帯びた美しき敵国の王女とか……」
「前線にそんなものが出てきてたまるか」
男はすげなく切り捨てたが、後にクラウディオが笑って語ったところでは、それらに類するような話は幾つもあったらしい。それでいてグレゴールは一切なびくことはなかったらしく、青年領主は「いやはや、貞操堅固な方で良かったですね」と続けた。イライザとしては、喜ぶべきか悩むべきか複雑なところである。
「まぁ良い、それよりも手合わせだ」
「せわしないことだな。少しぐらい休ませてくれてもよさそうなものを」
「何を言う! 五か月だぞ、五か月! これ以上一分一秒たりとも待てるものか!」
男はしょんぼりとしつつ頭を掻いて、それでも馬に飛び乗った。
もはや恒例となった手順で距離を取り、いつも通りに硬貨が打ち上げられる。
――衝突。
「う、く……また、腕を上げたか……?」
「中々手ごわい相手が多かったからな。強くならねばならなかったのさ」
星が散っている頭を片手で押さえつつ、イライザは馬上の男を見上げた。
今度はすれ違いざまに五回も突かれてしまった。どうせ突かれるなら銀よりも肉の槍で……などと思って、彼女は赤面する。どうやら今の衝撃で首元が緩んでしまったらしい。
領主とグレゴールを含む王国軍は、先の大敗で奪われた土地をことごとく取り返し、不可侵条約を取り付けた上で凱旋した。こちらの領土を虎視眈々と狙っていた隣国は、当面の間足踏みを余儀なくされることだろう。
一方のイライザも、アデライーデの指揮下で領内の盗賊、山賊をほぼすべて壊滅せしめた。相手が相手ゆえに根絶は不可能だが、こちらも当分は大人しくしているはずだ。なお、この作戦において幾つかのカップルが誕生したが、それはまた別の話である。
数年が経って、二人はそれぞれ騎士団長と呼ばれるようにまでなっていた。
この頃は、大体一月に一度のペースで手合わせを行っている。
今日もまた、幾度も繰り返された手順で手合わせが行われ、これまでよりもほんの少し激しく、また巧みにぶつかり合い、幾度も繰り返された結果を残していた。
ぺたりと座りこんだイライザに手を差し伸べつつ、グレゴールが言う。
「そういえば、領主どのがこの手合わせを、もっと大勢の前でやってくれないかと言っていたが……」
「私と貴様の手合わせを大勢の前で、か。見世物にされているようで実にありがたくないな」
「どうも、“暁”と“宵”の間で対抗試合を考えているんだとか。それで、俺たちの手合わせをその中に組み込みたいということらしい」
対外への出兵に魔物を当てるわけにはいかず、便宜的に分かたれていた人と魔の軍だったが、今に至っても二つに割れたまま、人の軍を“暁”、魔の軍を“宵”と称して存在している。
分かれているだけならまだしも、最近ではお互いに反目している様子すらある。これは良くないと、領主が何やら色々画策しているらしい。
「成程、そうなれば団長同士の一騎打ちは欠かせないというわけか」
「そういうことだ。他にも、パワーバランスがー、とか言っていたが俺には良く分からん」
ぼやきつつ、男は掴んだ手に力を込めてデュラハンを引っ張り上げた。
全身鎧を纏った身体を軽々と引き上げる手のひらは、やはりがっしりとたくましい。
「そうであれば、受けるしかないか」
「まぁ、観客がいるのもそこまで悪くはなかろうよ」
やれやれと言った様子で首を振るイライザに、男はニッと笑いかけた。
真面目な表情だと岩のように硬く見えるグレゴールだが、笑うとぐっと柔らかい印象になる。
既に四十近いにも関わらず、その精悍さは欠片も損なわれていない。鍛えられた鋼のような長身は活力に満ち溢れている。
そんな彼にぼんやりと見惚れていると、いきなり中指で額を弾かれた。涙が滲んだ眼で抗議の視線を送ると、男は笑って言う。
「人が話してるのにぼんやりしているお前が悪い」
私を見とれさせる貴様が悪い、とイライザは返そうとしたが、それもまた馬鹿らしい。
代わりに、持ちうる精一杯の不満を込めてじっとりと睨みつける。
「で、一体何だ」
「領主どのの奥方にお子が生まれた、という話だな」
「ああ、男の子だと聞いている。……なぁグレゴール。やはり、男としては男の子に憧れるものか?」
彼女がこう訊くのは、魔物からは魔物、ひいては女児しか生まれないがためである。
魔物である彼女には、男の子は産むことが出来ない。もどかしい限りだった。
それに対して男は、何処か遠くを見るような表情で、血の滲むような声で吐き捨てる。
「男にしろ女にしろ、子など望むまいよ。俺に、誰かの父親に――夫になる資格などないのだから」
―― 4 ――
それから再び十数年の歳月が過ぎた。
あの時以来、男が本音らしきものを洩らしたことはない。
彼女自身も無理に聞こうとは思わなかった。いずれ、向こうから話してくれるだろう。
彼は今、向こうで領主の長男に稽古をつけているところだった。丁寧に、それでいて甘くならず的確に指導している姿を見る限り、「父親になる資格などない」とは思えないのだが。
聞く気はないが考え込んでしまう。彼をあれほどまでの思いを抱かせたのは一体何か。
結局思い至らずに首を振ると、稽古をしている二人の元へ少年がパタパタと走っていくのが見えた。本を両手に抱え、何やら立腹している様子なのは、領主の次男だ。
クラウディオの妻は早世したが、夫に二人の息子を残した。なかなか本懐を果たせずにいる身としては、自らの子供のように感じる部分もある。
いや、本懐を果たせたところで、私が自身の“息子”を腕に抱くことは絶対にないのだ。そう自嘲したところで、訓練用の槍を抱えたグレゴールが差し掛かった。
「どうした、もう稽古は終わりか?」
「どうもこうも、生徒がおらねば稽古などつけようもない」
どうやら彼の愛弟子は、その弟に攫われてしまったらしい。
ほんの少しだけ寂しそうな表情で掻いた頭には、ちらほらと白いものが混じり始めている。
この歳になると、流石に肉体的な衰えは隠せない。戦い方も、これまでの力と敏捷性を武器にしたものから、より技巧的な、小手先まで用いてのものになっている。
そんな地道な努力により、男は老いてますます盛んとまではいかないものの、並みならぬ力量を維持していた。現に、イライザは今に至ってもグレゴールに勝てずにいる。
しかし、今は身体の衰えによるマイナスを技術と経験で補えているとはいえ、それも限界が近い。もう数年もすれば、現在の彼女の力でも凌駕出来るだろう。
もちろんそれを待つつもりはないのだが、二十年以上も恋い焦がれた存在を、少なくとも数年先には確実に手に出来ると思うと、下腹から燃え上るような歓喜を感じる。
ただ同時に、ほんの少しの寂しさと――同じくわずかな不安があるのもまた事実だった。
「……お前は、老いんな」
不意の言葉にイライザが顔を上げると、何処かもの寂しげな視線が頬に突き立った。
わずかに気後れしつつ、彼女はひきつった笑みを浮かべて問いかけた。
「何だ、いきなり?」
「いや、お前のような良い女を、随分と長い間拘束してしまっている、ということに今更ながら思い至っただけのことだ」
普通であれば、プロポーズが後に続きそうな言葉だ。
だがイライザは、胸中にとぐろを巻いていた“わずかな不安”が、鎌首をもたげて毒牙を剥き出したように感じていた。彼は、真逆のことを切り出そうとしている。
「一つ、昔話をしようか」
これは自分を諦めさせるための話だろうと、イライザは直感的に理解した。「夫になる資格などない」という言葉の理由を語ることで、彼女を失望させるつもりなのだと。
聞きたくないという思いと共に、これを聞かねば核心には至れないという声もある。
少しばかりの躊躇いの後、彼女は空色の髪をかき上げ、まっすぐに男を見た。
自分がグレゴールと生きることを望むのなら、彼の自己否定の理由を知らねばならない。そして可能なら、そのくびきから解放してやりたいと思うのだ。
男には幼馴染が居たようだ。
ようだ、というのは、彼自身が覚えていないがためである。
とても大切な人が居たことは確かだ。だがその名前、どんな顔をしていたのか、どんなしぐさで笑ったのかが思い出せない。焼けてしまった肖像画のように、ぽっかり穴が開いている。
顔以外であれば覚えていることもある。いつも襟の高い服を着ていて、それが煩わしいのか、しきりと首元に手をやっていた。鬱陶しいなら着替えれば良いのに、などと思ったものだ。
そういった細かい癖のようなものなら、枚挙にいとまがない。つまりそれだけ、細かい癖をほとんど把握しているぐらいに、親密な関係であったということだろう。
そんな仲の良かった幼馴染が、ある日突然居なくなった。
お別れの一言もなしに、まるで初めから存在していなかったかのように。
呆然自失としていた日々のことは覚えている。何もする気力が湧かずに消沈していたかと思えば、何もかもが憎く思えて周囲に当たり散らす。それは彼の人生において最悪の日々であったが、周囲にとっても辛い時期だったに違いない。
男の心の中で渦巻いていたのは、悲しみと怒りと、そして疑念。
あれだけ仲良くしていたのに、何故一言の断りもない? 自分は彼女にとってその程度の存在だったのか? いやそもそも、仲が良いと思っていたのは自分だけだったのでは……?
ドロドロとした疑心暗鬼の沼から彼を救ったのは、彼の母親だった。
『あの子にも、何か理由があったのでしょう。“何も言わずに居なくなった”のではなく、“何も言えずに行かざるを得なかった”のではないかしら』
当時の彼は知る由もなかったが、その当時、彼らが住んでいた土地はその立場を変えたところであった。大国に挟まれた小国から、大国に属する一領地へと。
とは言っても、彼の周囲で大きな変化があったわけではない。あえて述べるなら、税の納める先と額が少々変わったことと、村の中に小さな教会が出来たことぐらいだろうか。
兎にも角にも、母親の言葉で彼は立ち直った。女性との付き合いを出来る限り避けようとする、という後遺症は残ったにしろ、立ち直れたのだ。
そしてそれから数年の間は、穏やかに時が過ぎた。
男を取り巻く環境を再び一変させたのは、皮肉にも彼を立ち直らせた母親の死だった。
優しかった母親の死後、妻を溺愛していた父親も後を追うようにこの世を去ってしまう。商人だった父が貯めていた、少なくはない額の財産が手元に残っていたのは、不幸中の幸いと言うべきだろう。男は槍術に傾倒していたため、それを運用するすべを持たないのが問題ではあったが……。
当面の生活の心配はないものの、愛する両親を失って途方に暮れている――男が彼女に出会ったのは、ちょうどそんな時分であった。
彼女は、かつて失った幼馴染に酷似していた。今は忘れてしまったために比較することはできないが、当時の彼が生き写しであると判断したほどだ。
最近隣村に越してきたという彼女は、幼馴染を偲ばせる笑顔を向けてくれた。肉親を失い、寄る辺のなかった彼がそんな彼女に惹かれたのは、ごく自然な成り行きだったろう。
だがここで、かつての後遺症が彼の前に立ちふさがった。
あの不本意な別離の後、あらゆる形において男女関係を避けてきた彼には、彼女にどうアプローチして良いものか分からなかったのだ。
ゆえに男は悪手を打ってしまった。金銭の力を頼ったのである。
贈り物という手立ては、要所要所で使えば優れた効果をもたらす。ただそれとて、一から十まで頼りっきりでは、効果がないどころか逆効果だ。
しかし、彼はそれ以外の手段を自ら封じてしまった。プレゼントを受け取る際の笑顔だけを見て、それだけで良いのだと思ってしまったのである。
彼女もそんな彼の心を知ってか知らずか、色々なものをねだるようになっていった。
そして、破局が訪れる。
最後に彼女が求めたのは、一枚の用紙に対するサインだった。“婚姻届”と書かれた紙に、彼は相好を崩して記名する。それが、周到に偽装された財産譲渡の証書だとも知らずに。
彼に名前を書かせると、彼女は豹変して真実を明かした。誰が貴方なんかと結婚するものか。呆気に取られる彼に対し存分に罵詈雑言を叩きつけた後、彼女は一瞬だけ泣きそうな顔をして身をひるがえした。
こうして、彼は相続した財産を全て失った。
残ったのは以前から所持していた、簡素な剣と皮鎧、そして売れ残りの槍と盾。
今度こそ途方に暮れてふらふらしていたところを、槍術の師に捕まった。師は話を聞き、男を散々にこき下ろした後、一枚の紹介状と片道の路銀を彼に手渡した。
『何にもないならちょうど良い。思う存分槍に打ち込めるじゃねえか』
向かった先で、男は槍にのめり込んだ。それこそ朝から晩まで、槍を振っているか身体を鍛えているかの二択である。世話になっていた先生の仕事を手伝うこともあったが、それ以外の時間は全て鍛錬に費やし、食事さえ片手間で済ませる様子は、鬼気迫ってすらいた。
身体を動かしている間は、何も考えずにいられる。やってしまったことを忘れられる。
そうした過激極まる鍛錬の末に、彼は本当に忘れてしまった。忘れたいと思っていた一連の記憶ではなく、大切にしていたはずの“幼馴染”の面影を。
「その後は……紹介先の先生に皆伝を貰って、戦場を求めて傭兵に身をやつした。得た金で最初にやったのは、師匠のところへ貰った路銀を十倍にして送ることだったな」
男は穏やかな口調でこう締めた。
一方で、デュラハンは元々血の気の薄い顔を更に蒼くして唇を噛んでいる。
話の中で出てきた“幼馴染”とは間違いなく彼女のことだ。
襟の高い服を好んで着ていたのは、首の秘密を隠すため。“しきりに首元に手をやっていた”のは、当時つけていた補助具が合っておらず、違和感があったためだ。
彼の元から居なくなったことについては、彼女も相当食い下がった記憶がある。せめて一言残していきたいと。だが結局、殺気立った両親の様子に諦めざるを得なかった。
「それからはお前も知る通りだ。……まあ、おおむねまともじゃない人生を送ってきたわけだが、その中でも特に我ながらろくでもないと思うことが幾つかある」
男は指を曲げて数える素振りをして見せる。大体四、五本曲げたところで、訓練用の槍をひゅんと回転させ石突きで地面を穿った。
「その中でも最悪だと思うのが、最後まで“あいつ自身”に目を向けなかったことだ」
“あいつ”とは、かつてのイライザに似た、彼を裏切った女のことだろう。
男の意図が掴み切れずに首を傾げたイライザに、男は苦り切った声で続けた。
「俺は、あいつの中にずっと幼馴染の姿を見続けていた。あいつ自身に目を向けていたようで、その実見ていたのはその姿を透かした先の幼馴染だった。……付き合い方を間違えずとも、遅かれ早かれ破局が訪れていただろうよ」
苦虫を噛み潰したような表情で語っていた男が、ふと苦笑を浮かべた。
自嘲の色が強い、見ていて辛くなるような笑みだ。
「その挙句に、肝心の想い人の顔を忘れてしまったというのだから、とんだ笑い話だ。……もしかすると、これはあいつにした仕打ちに対する罰なのかもしれんな。今となっては、逆説的だがあいつの顔から幼馴染のそれを想像するしかない」
そこで、男は悲痛な面持ちをしたイライザの顔をまじまじと見て、ぽつりと呟いた。
「――そういえば、お前も何処かあいつに似ているな」
違う。イライザがその女に似ているのではなく、その女がイライザに似ているのだ。
ああ、何のことはない。イライザが被っている苦労は、元をただせば彼女の行動に端を発するのだ。あの時、両親を振り切ってでも彼と話をしていれば。
そんな思いはつゆ知らず、男は自らの言葉を払うように首を振り、イライザに笑いかける。
「とまあ、こういうことだ。俺は多分、お前の中にも幼馴染の影を見続けるだろう。俺などにかかずらっていれば、お前もいずれ不幸になる」
自分がその幼馴染であると言うのはたやすい。が、男が信じるかはまた別だ。いや、彼を捕えているのが“過去のイライザ”である以上は、現在の彼女が何を言ったところで意味はない。
事実を話し、泣いて詫び、跪くことで許しが貰えるならどれだけ楽か。実際はそうしたところで、「お前に俺が許すべきことなどない」と一刀両断にされるに違いないのだ。
なら、イライザが取るべき手段は一つしかない。
「だから、お前は――」
「言いたいことはそれだけか?」
冷ややかな声で、男の言葉を断ち切る。
挑発的な笑みを浮かべて、赤い瞳をより赤く燃え上がらせて。
「貴様の昔話など関係ない。興味もない。私が欲しいのは、私が知る限りの貴様だ」
情熱的に、歌い上げるように言葉を続ける。
「私の中に誰かの影を見る? 結構! そんな得体のしれない“誰か”の居場所など無くなるぐらいに、貴様を私で埋め尽くせば良いだけのことだ!」
最後に、斬! と大剣を振り下ろすように、言葉を叩きつけた。
彼女の言葉に、男はまず大きく目を見開いた。次に額に手を当て面を伏せて、肩を震わせ始める。その姿は声を殺して泣くさまに良く似ていたが、それにしては何かがおかしい。
心配になったイライザが伏せられた顔を覗き込もうとしたところで、男はいきなり顔を上げ天を仰ぎ、心底愉快そうに笑い始めた。
そうしてしばらくからからと笑った後、涙の滲んだ眼を擦りつつ、唖然とした彼女を見て言う。
「……いやはや、お前はそういう奴だったな」
「何だそういう奴というのは!?」
憤然として訊き返したイライザだったが、笑みの抜けきらない男の顔と穏やかな光をたたえた濃灰の瞳に、彼女もまた口元を緩める。
男の表情から、「ありがとう」という声のない言葉が読みとれたからであった。
「それでは、お二人とも雇わせていただきましょう」
卓に積まれた書類の山に埋もれるように座っている青年が、にこやかに笑って言う。
ここはリンドヴルム領の主都“竜の眼”の中心部分に位置する伯爵邸の、そのまた中央にある執務室だ。男が仕官したい旨を伝えたところ、まっすぐここに案内されたのである。何かと格式と遠回りを重んじがちな貴族としては珍しいことだった。
青年の言葉に、グレゴールの濃い灰色の眉が、ぐぐっと持ちあがる。
「……私だけでなく、彼女も雇ってくださると?」
「先の敗戦より我が領では兵が足らず、領内のあちこちで賊による被害の報告が上がっています。今は出来る限り多くの戦力が必要なのです。ことに、腕の立つ方は大歓迎で」
弧を描いた金色の瞳を向けられて、イライザは黙り込む。
魔王に仕えるべき自分が、人間の軍に属しても良いものだろうか。
しばし考えて、彼女はゆっくりと頷いた。そもそも、その魔王軍の席を蹴って男を追って来たのは自分である。今のところは魔界との関係も悪くないようだし、力を貸しても問題はあるまい。
「受けさせて頂こう」
「ありがとうございます。いやはや、助かるなぁ」
年相応の砕けた笑みを浮かべる青年に、男とデュラハンは微笑んだ。
変人と呼ばれるこの青年に力を貸すのも悪くない。先の敗戦で傾きかけた領土だ、待遇は望めないかもしれないが、多少は我慢もしよう。
だが、その後呈示された金額に、彼らは唸ることになる。諸経費は全て領主持ちで、かなりの給金も出る、大国の聖騎士並みの待遇であった。
「随分と買いかぶられたものだな」
「私はどうだか分からないが、貴様の値段としては妥当に思えるが?」
男は首をすくめて、答えるのを丁重に辞退した。
そしてそれから半年も経たないうちに、領主の判断が正しかったことが証明されるのである。
日に焼けた顔に快活な笑みを浮かべて、男は五か月ぶりに見る顔に声をかけた。
「おう! 無事だったようだな!」
「当然だ。貴様以外の男にそうそう遅れを取るものか」
ふんと鼻を鳴らして、デュラハンは答える。
だがその表情は、笑み崩れそうになるのを必死でこらえているような風がある。それどころか、彼女の四肢の筋肉はぴくぴくと痙攣して、今にも飛びつかんばかりだった。
二人はこの五か月別の任務についていた。グレゴールは領主について隣国との戦へ、イライザは領主の姉であるアデライーデの元で賊の掃討に当たっていたのである。
この人事については、主にイライザの側から盛大な文句が出たものだが、領外での戦いに魔物を伴うことは出来ない、同時に、恩のある現国王からの要請には出来る限りの戦力をもって応えねばならない、と丁寧に説得されては、一応は仕える身の彼女には何も言えなかった。
男は翼竜の紋章をあしらった銀の鎧、デュラハンは禍々しい意匠の黒い鎧という物々しい姿で二人は会話していた。傍らでは馬同士が、こちらも再会を喜ぶように身体を摺り寄せている。
「……戦場で女など作ってはおらんだろうな?」
「人間同士の戦ではやはり男が主役だからな。女兵士などそうお目にかかれんよ」
「兵士に限らずとも、美貌才媛の女将軍とか、憂いを帯びた美しき敵国の王女とか……」
「前線にそんなものが出てきてたまるか」
男はすげなく切り捨てたが、後にクラウディオが笑って語ったところでは、それらに類するような話は幾つもあったらしい。それでいてグレゴールは一切なびくことはなかったらしく、青年領主は「いやはや、貞操堅固な方で良かったですね」と続けた。イライザとしては、喜ぶべきか悩むべきか複雑なところである。
「まぁ良い、それよりも手合わせだ」
「せわしないことだな。少しぐらい休ませてくれてもよさそうなものを」
「何を言う! 五か月だぞ、五か月! これ以上一分一秒たりとも待てるものか!」
男はしょんぼりとしつつ頭を掻いて、それでも馬に飛び乗った。
もはや恒例となった手順で距離を取り、いつも通りに硬貨が打ち上げられる。
――衝突。
「う、く……また、腕を上げたか……?」
「中々手ごわい相手が多かったからな。強くならねばならなかったのさ」
星が散っている頭を片手で押さえつつ、イライザは馬上の男を見上げた。
今度はすれ違いざまに五回も突かれてしまった。どうせ突かれるなら銀よりも肉の槍で……などと思って、彼女は赤面する。どうやら今の衝撃で首元が緩んでしまったらしい。
領主とグレゴールを含む王国軍は、先の大敗で奪われた土地をことごとく取り返し、不可侵条約を取り付けた上で凱旋した。こちらの領土を虎視眈々と狙っていた隣国は、当面の間足踏みを余儀なくされることだろう。
一方のイライザも、アデライーデの指揮下で領内の盗賊、山賊をほぼすべて壊滅せしめた。相手が相手ゆえに根絶は不可能だが、こちらも当分は大人しくしているはずだ。なお、この作戦において幾つかのカップルが誕生したが、それはまた別の話である。
数年が経って、二人はそれぞれ騎士団長と呼ばれるようにまでなっていた。
この頃は、大体一月に一度のペースで手合わせを行っている。
今日もまた、幾度も繰り返された手順で手合わせが行われ、これまでよりもほんの少し激しく、また巧みにぶつかり合い、幾度も繰り返された結果を残していた。
ぺたりと座りこんだイライザに手を差し伸べつつ、グレゴールが言う。
「そういえば、領主どのがこの手合わせを、もっと大勢の前でやってくれないかと言っていたが……」
「私と貴様の手合わせを大勢の前で、か。見世物にされているようで実にありがたくないな」
「どうも、“暁”と“宵”の間で対抗試合を考えているんだとか。それで、俺たちの手合わせをその中に組み込みたいということらしい」
対外への出兵に魔物を当てるわけにはいかず、便宜的に分かたれていた人と魔の軍だったが、今に至っても二つに割れたまま、人の軍を“暁”、魔の軍を“宵”と称して存在している。
分かれているだけならまだしも、最近ではお互いに反目している様子すらある。これは良くないと、領主が何やら色々画策しているらしい。
「成程、そうなれば団長同士の一騎打ちは欠かせないというわけか」
「そういうことだ。他にも、パワーバランスがー、とか言っていたが俺には良く分からん」
ぼやきつつ、男は掴んだ手に力を込めてデュラハンを引っ張り上げた。
全身鎧を纏った身体を軽々と引き上げる手のひらは、やはりがっしりとたくましい。
「そうであれば、受けるしかないか」
「まぁ、観客がいるのもそこまで悪くはなかろうよ」
やれやれと言った様子で首を振るイライザに、男はニッと笑いかけた。
真面目な表情だと岩のように硬く見えるグレゴールだが、笑うとぐっと柔らかい印象になる。
既に四十近いにも関わらず、その精悍さは欠片も損なわれていない。鍛えられた鋼のような長身は活力に満ち溢れている。
そんな彼にぼんやりと見惚れていると、いきなり中指で額を弾かれた。涙が滲んだ眼で抗議の視線を送ると、男は笑って言う。
「人が話してるのにぼんやりしているお前が悪い」
私を見とれさせる貴様が悪い、とイライザは返そうとしたが、それもまた馬鹿らしい。
代わりに、持ちうる精一杯の不満を込めてじっとりと睨みつける。
「で、一体何だ」
「領主どのの奥方にお子が生まれた、という話だな」
「ああ、男の子だと聞いている。……なぁグレゴール。やはり、男としては男の子に憧れるものか?」
彼女がこう訊くのは、魔物からは魔物、ひいては女児しか生まれないがためである。
魔物である彼女には、男の子は産むことが出来ない。もどかしい限りだった。
それに対して男は、何処か遠くを見るような表情で、血の滲むような声で吐き捨てる。
「男にしろ女にしろ、子など望むまいよ。俺に、誰かの父親に――夫になる資格などないのだから」
―― 4 ――
それから再び十数年の歳月が過ぎた。
あの時以来、男が本音らしきものを洩らしたことはない。
彼女自身も無理に聞こうとは思わなかった。いずれ、向こうから話してくれるだろう。
彼は今、向こうで領主の長男に稽古をつけているところだった。丁寧に、それでいて甘くならず的確に指導している姿を見る限り、「父親になる資格などない」とは思えないのだが。
聞く気はないが考え込んでしまう。彼をあれほどまでの思いを抱かせたのは一体何か。
結局思い至らずに首を振ると、稽古をしている二人の元へ少年がパタパタと走っていくのが見えた。本を両手に抱え、何やら立腹している様子なのは、領主の次男だ。
クラウディオの妻は早世したが、夫に二人の息子を残した。なかなか本懐を果たせずにいる身としては、自らの子供のように感じる部分もある。
いや、本懐を果たせたところで、私が自身の“息子”を腕に抱くことは絶対にないのだ。そう自嘲したところで、訓練用の槍を抱えたグレゴールが差し掛かった。
「どうした、もう稽古は終わりか?」
「どうもこうも、生徒がおらねば稽古などつけようもない」
どうやら彼の愛弟子は、その弟に攫われてしまったらしい。
ほんの少しだけ寂しそうな表情で掻いた頭には、ちらほらと白いものが混じり始めている。
この歳になると、流石に肉体的な衰えは隠せない。戦い方も、これまでの力と敏捷性を武器にしたものから、より技巧的な、小手先まで用いてのものになっている。
そんな地道な努力により、男は老いてますます盛んとまではいかないものの、並みならぬ力量を維持していた。現に、イライザは今に至ってもグレゴールに勝てずにいる。
しかし、今は身体の衰えによるマイナスを技術と経験で補えているとはいえ、それも限界が近い。もう数年もすれば、現在の彼女の力でも凌駕出来るだろう。
もちろんそれを待つつもりはないのだが、二十年以上も恋い焦がれた存在を、少なくとも数年先には確実に手に出来ると思うと、下腹から燃え上るような歓喜を感じる。
ただ同時に、ほんの少しの寂しさと――同じくわずかな不安があるのもまた事実だった。
「……お前は、老いんな」
不意の言葉にイライザが顔を上げると、何処かもの寂しげな視線が頬に突き立った。
わずかに気後れしつつ、彼女はひきつった笑みを浮かべて問いかけた。
「何だ、いきなり?」
「いや、お前のような良い女を、随分と長い間拘束してしまっている、ということに今更ながら思い至っただけのことだ」
普通であれば、プロポーズが後に続きそうな言葉だ。
だがイライザは、胸中にとぐろを巻いていた“わずかな不安”が、鎌首をもたげて毒牙を剥き出したように感じていた。彼は、真逆のことを切り出そうとしている。
「一つ、昔話をしようか」
これは自分を諦めさせるための話だろうと、イライザは直感的に理解した。「夫になる資格などない」という言葉の理由を語ることで、彼女を失望させるつもりなのだと。
聞きたくないという思いと共に、これを聞かねば核心には至れないという声もある。
少しばかりの躊躇いの後、彼女は空色の髪をかき上げ、まっすぐに男を見た。
自分がグレゴールと生きることを望むのなら、彼の自己否定の理由を知らねばならない。そして可能なら、そのくびきから解放してやりたいと思うのだ。
男には幼馴染が居たようだ。
ようだ、というのは、彼自身が覚えていないがためである。
とても大切な人が居たことは確かだ。だがその名前、どんな顔をしていたのか、どんなしぐさで笑ったのかが思い出せない。焼けてしまった肖像画のように、ぽっかり穴が開いている。
顔以外であれば覚えていることもある。いつも襟の高い服を着ていて、それが煩わしいのか、しきりと首元に手をやっていた。鬱陶しいなら着替えれば良いのに、などと思ったものだ。
そういった細かい癖のようなものなら、枚挙にいとまがない。つまりそれだけ、細かい癖をほとんど把握しているぐらいに、親密な関係であったということだろう。
そんな仲の良かった幼馴染が、ある日突然居なくなった。
お別れの一言もなしに、まるで初めから存在していなかったかのように。
呆然自失としていた日々のことは覚えている。何もする気力が湧かずに消沈していたかと思えば、何もかもが憎く思えて周囲に当たり散らす。それは彼の人生において最悪の日々であったが、周囲にとっても辛い時期だったに違いない。
男の心の中で渦巻いていたのは、悲しみと怒りと、そして疑念。
あれだけ仲良くしていたのに、何故一言の断りもない? 自分は彼女にとってその程度の存在だったのか? いやそもそも、仲が良いと思っていたのは自分だけだったのでは……?
ドロドロとした疑心暗鬼の沼から彼を救ったのは、彼の母親だった。
『あの子にも、何か理由があったのでしょう。“何も言わずに居なくなった”のではなく、“何も言えずに行かざるを得なかった”のではないかしら』
当時の彼は知る由もなかったが、その当時、彼らが住んでいた土地はその立場を変えたところであった。大国に挟まれた小国から、大国に属する一領地へと。
とは言っても、彼の周囲で大きな変化があったわけではない。あえて述べるなら、税の納める先と額が少々変わったことと、村の中に小さな教会が出来たことぐらいだろうか。
兎にも角にも、母親の言葉で彼は立ち直った。女性との付き合いを出来る限り避けようとする、という後遺症は残ったにしろ、立ち直れたのだ。
そしてそれから数年の間は、穏やかに時が過ぎた。
男を取り巻く環境を再び一変させたのは、皮肉にも彼を立ち直らせた母親の死だった。
優しかった母親の死後、妻を溺愛していた父親も後を追うようにこの世を去ってしまう。商人だった父が貯めていた、少なくはない額の財産が手元に残っていたのは、不幸中の幸いと言うべきだろう。男は槍術に傾倒していたため、それを運用するすべを持たないのが問題ではあったが……。
当面の生活の心配はないものの、愛する両親を失って途方に暮れている――男が彼女に出会ったのは、ちょうどそんな時分であった。
彼女は、かつて失った幼馴染に酷似していた。今は忘れてしまったために比較することはできないが、当時の彼が生き写しであると判断したほどだ。
最近隣村に越してきたという彼女は、幼馴染を偲ばせる笑顔を向けてくれた。肉親を失い、寄る辺のなかった彼がそんな彼女に惹かれたのは、ごく自然な成り行きだったろう。
だがここで、かつての後遺症が彼の前に立ちふさがった。
あの不本意な別離の後、あらゆる形において男女関係を避けてきた彼には、彼女にどうアプローチして良いものか分からなかったのだ。
ゆえに男は悪手を打ってしまった。金銭の力を頼ったのである。
贈り物という手立ては、要所要所で使えば優れた効果をもたらす。ただそれとて、一から十まで頼りっきりでは、効果がないどころか逆効果だ。
しかし、彼はそれ以外の手段を自ら封じてしまった。プレゼントを受け取る際の笑顔だけを見て、それだけで良いのだと思ってしまったのである。
彼女もそんな彼の心を知ってか知らずか、色々なものをねだるようになっていった。
そして、破局が訪れる。
最後に彼女が求めたのは、一枚の用紙に対するサインだった。“婚姻届”と書かれた紙に、彼は相好を崩して記名する。それが、周到に偽装された財産譲渡の証書だとも知らずに。
彼に名前を書かせると、彼女は豹変して真実を明かした。誰が貴方なんかと結婚するものか。呆気に取られる彼に対し存分に罵詈雑言を叩きつけた後、彼女は一瞬だけ泣きそうな顔をして身をひるがえした。
こうして、彼は相続した財産を全て失った。
残ったのは以前から所持していた、簡素な剣と皮鎧、そして売れ残りの槍と盾。
今度こそ途方に暮れてふらふらしていたところを、槍術の師に捕まった。師は話を聞き、男を散々にこき下ろした後、一枚の紹介状と片道の路銀を彼に手渡した。
『何にもないならちょうど良い。思う存分槍に打ち込めるじゃねえか』
向かった先で、男は槍にのめり込んだ。それこそ朝から晩まで、槍を振っているか身体を鍛えているかの二択である。世話になっていた先生の仕事を手伝うこともあったが、それ以外の時間は全て鍛錬に費やし、食事さえ片手間で済ませる様子は、鬼気迫ってすらいた。
身体を動かしている間は、何も考えずにいられる。やってしまったことを忘れられる。
そうした過激極まる鍛錬の末に、彼は本当に忘れてしまった。忘れたいと思っていた一連の記憶ではなく、大切にしていたはずの“幼馴染”の面影を。
「その後は……紹介先の先生に皆伝を貰って、戦場を求めて傭兵に身をやつした。得た金で最初にやったのは、師匠のところへ貰った路銀を十倍にして送ることだったな」
男は穏やかな口調でこう締めた。
一方で、デュラハンは元々血の気の薄い顔を更に蒼くして唇を噛んでいる。
話の中で出てきた“幼馴染”とは間違いなく彼女のことだ。
襟の高い服を好んで着ていたのは、首の秘密を隠すため。“しきりに首元に手をやっていた”のは、当時つけていた補助具が合っておらず、違和感があったためだ。
彼の元から居なくなったことについては、彼女も相当食い下がった記憶がある。せめて一言残していきたいと。だが結局、殺気立った両親の様子に諦めざるを得なかった。
「それからはお前も知る通りだ。……まあ、おおむねまともじゃない人生を送ってきたわけだが、その中でも特に我ながらろくでもないと思うことが幾つかある」
男は指を曲げて数える素振りをして見せる。大体四、五本曲げたところで、訓練用の槍をひゅんと回転させ石突きで地面を穿った。
「その中でも最悪だと思うのが、最後まで“あいつ自身”に目を向けなかったことだ」
“あいつ”とは、かつてのイライザに似た、彼を裏切った女のことだろう。
男の意図が掴み切れずに首を傾げたイライザに、男は苦り切った声で続けた。
「俺は、あいつの中にずっと幼馴染の姿を見続けていた。あいつ自身に目を向けていたようで、その実見ていたのはその姿を透かした先の幼馴染だった。……付き合い方を間違えずとも、遅かれ早かれ破局が訪れていただろうよ」
苦虫を噛み潰したような表情で語っていた男が、ふと苦笑を浮かべた。
自嘲の色が強い、見ていて辛くなるような笑みだ。
「その挙句に、肝心の想い人の顔を忘れてしまったというのだから、とんだ笑い話だ。……もしかすると、これはあいつにした仕打ちに対する罰なのかもしれんな。今となっては、逆説的だがあいつの顔から幼馴染のそれを想像するしかない」
そこで、男は悲痛な面持ちをしたイライザの顔をまじまじと見て、ぽつりと呟いた。
「――そういえば、お前も何処かあいつに似ているな」
違う。イライザがその女に似ているのではなく、その女がイライザに似ているのだ。
ああ、何のことはない。イライザが被っている苦労は、元をただせば彼女の行動に端を発するのだ。あの時、両親を振り切ってでも彼と話をしていれば。
そんな思いはつゆ知らず、男は自らの言葉を払うように首を振り、イライザに笑いかける。
「とまあ、こういうことだ。俺は多分、お前の中にも幼馴染の影を見続けるだろう。俺などにかかずらっていれば、お前もいずれ不幸になる」
自分がその幼馴染であると言うのはたやすい。が、男が信じるかはまた別だ。いや、彼を捕えているのが“過去のイライザ”である以上は、現在の彼女が何を言ったところで意味はない。
事実を話し、泣いて詫び、跪くことで許しが貰えるならどれだけ楽か。実際はそうしたところで、「お前に俺が許すべきことなどない」と一刀両断にされるに違いないのだ。
なら、イライザが取るべき手段は一つしかない。
「だから、お前は――」
「言いたいことはそれだけか?」
冷ややかな声で、男の言葉を断ち切る。
挑発的な笑みを浮かべて、赤い瞳をより赤く燃え上がらせて。
「貴様の昔話など関係ない。興味もない。私が欲しいのは、私が知る限りの貴様だ」
情熱的に、歌い上げるように言葉を続ける。
「私の中に誰かの影を見る? 結構! そんな得体のしれない“誰か”の居場所など無くなるぐらいに、貴様を私で埋め尽くせば良いだけのことだ!」
最後に、斬! と大剣を振り下ろすように、言葉を叩きつけた。
彼女の言葉に、男はまず大きく目を見開いた。次に額に手を当て面を伏せて、肩を震わせ始める。その姿は声を殺して泣くさまに良く似ていたが、それにしては何かがおかしい。
心配になったイライザが伏せられた顔を覗き込もうとしたところで、男はいきなり顔を上げ天を仰ぎ、心底愉快そうに笑い始めた。
そうしてしばらくからからと笑った後、涙の滲んだ眼を擦りつつ、唖然とした彼女を見て言う。
「……いやはや、お前はそういう奴だったな」
「何だそういう奴というのは!?」
憤然として訊き返したイライザだったが、笑みの抜けきらない男の顔と穏やかな光をたたえた濃灰の瞳に、彼女もまた口元を緩める。
男の表情から、「ありがとう」という声のない言葉が読みとれたからであった。
11/08/20 19:26更新 / 具入りラー油
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