連載小説
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前編
▼マキィヴァ其の一

 マキィヴァはバニップである。

 彼女は数多いるラミア種の中でも珍しい、下半身の蛇の尾が鱗の代わりに豊かな体毛となっている種族だった。
 毛皮を纏うように全身を覆うもふもふとした白い体毛、それと対照的なむっちりとした黒褐色の肌、そして白黒反転した妖しげな眼は、見る者に鮮烈な印象を残すことだろう。
 だが、彼女はとても臆病だった。彼女というより、バニップという種族の大半が臆病かつ恥ずかしがり屋だった。稀に姿を見せても身体の一部分、それもほんの一瞬だけ。
 ゆえに彼女たちの目撃談はとても曖昧かつ誇張された表現が流布している。
 たとえば「鳥のくちばしを持つ獣」、たとえば「巨大な尻尾を持つ獣」、たとえば「胴体が爬虫類の獣」などだ。
 そして、バニップの中でもマキィヴァは殊更臆病な性格をしていた。
 彼女は群れに属さず、辺境で一人暮らしている。孤独でいたいと願ったことはなかった。むしろ、一人きりは嫌だった。彼女にとって寂しいことは辛いことだった。
 だがそれにも増して、臆病で恥ずかしがり屋で、引っ込み思案だった。輪の中で暮らすことをいつかいつかと願いながら、しかし、自分に近づく者全てから逃げていた。
 そんな生活が変わるきっかけはとても些細なことだった。
 旅人の会話を川辺でこっそりと聞いていたときのこと。
 ジパングという海を越えた極東の島国。そこでは魔物が人の中に溶け込んで暮らすのが当たり前となっているらしい。
 相方はホラ話だと一蹴していたが、マキィヴァは一蹴できなかった。
 極東の島国ジパング。そこならば自分も皆の輪の中に入れるかもしれない。
 変わるきっかけをようやく掴んだ孤独なバニップは、こっそりひっそりとジパング行きの船へ乗ったのだ。
 だが現実は非情であった。
 そもそも同族相手ですらまともに話せず群れから離れていった彼女が、ジパングに来ただけでまともな人付き合いができるようになるなど、土台無理な話だったのである。

 これがバニップであるマキィヴァがジパングへやってきた経緯。おおそよ一年間、ジパングのとある湖にひっそり暮らし続けた。
 そしてジパング固有種のラミアである白蛇に間違われたのが現在である。

「其方が白蛇だな。ああ、確かに噂に違わぬ見目麗しい姿だ。少し聞いていた容貌と違う気もするが些細なことだろう」
 総髪の青年が真横に立っていた。
 人間の突然の襲来にマキィヴァは蛇に睨まれた蛙の如く硬直する。青年の接近にまるで気づけなかったのだ。過ぎた驚きはあらゆる行動を制限してしまう。逃げることさえも。
 森の中を風が吹き抜ける。自身の髪が揺れ、東方のドラゴンの刺繍が施された青年の羽織がはためいた。そこでようやく我に返ったマキィヴァは脇目も振らず逃げ出した。
 草木を掻き分け、尾をくねらせ、地面を這い逃げた。そして、いま根城にしている湖の目前まで辿り着いたのだが。
「その巨体でなかなかの素早さ。恐れ入ったぞ」
「な、なな、なん」
 先回りされていた。腕を組んで、満面の笑みを浮かべている。
「大事な用件があって俺は来たのだ。名も名乗らずに帰られん。俺の名は巳柱清嗣(みはしら・きよつぐ)。其方の名を教えてはくれんか、見目麗しい白蛇の巫女よ」
「ぅぅ……」
 マキィヴァはその巨体を縮こまらせ、首のぶらさげていた鳥の面を被る。どうしようもなく、誰かと会話しないといけないときはこれを被っていた。それでも同じ魔物相手としか会話をしたことがない。
 巳柱清嗣という名の青年。彼がマキィヴァの初めて会話する人間であった。
「ぶぅぅ……わ、わた、わたし」
「うむ」
 まるで贈り物を心待ちにしている子供のように心躍る笑みを清嗣は浮かべている。
 期待されている。応えねばならない。名前。自分の名前を。
「わ、わたし、わた、ぶぅぅ、し、しろ」
「しろ?」
「し、白蛇じゃな……」
 ここで名乗るのではなく青年の間違いを訂正しようとしたところが、マキィヴァの対話力の無さを如実に表している。
「ふむ、白蛇という名前なのか?」
「ち、ちがっ、ば、バニップって」
「ばにっぷ? 聞き慣れない名前だ」
 そして残念ながら、清嗣という青年。彼はあまり賢くはなかった。というより、あまり人の話を聞かない質だった。
「ぶぅぅぅ、ち、違う、の。違くて、ええと、ええと、わた、わたしの名前はマ、マキィヴァで」
「まきぃびゃ?」
「ま、マキィヴァ」
「まきぃば?」
「マキィヴァ……」
「うむ、とてつもなく言いにくいな!」
「!!」
 諦められた。清々しいほどの笑みで。
 マキィヴァは面の奥で泣きそうになる。いきなり用があると追いかけられ、白蛇と間違われ、さらには名前を言いにくいとまで言われてしまった。
 怖さは消えた。害意がないのはすぐにわかったから。しかし恥ずかしい。まともに会話できない。見当はずれな答えもして、変な女だと思われたに決まっている。
 マキィヴァの脳裏に嫌な考えが鎌首をもたげては自分を呑み込んで、どんどんと沼に引きずり込もうとしていた。
 見目麗しいと先ほど褒められたが、それも世辞に決まっていると、マキィヴァは決めつけた。自分の容姿に自信など微塵もなかった
 だが、涙は出なかった。出せなかった。清嗣がマキィヴァの瞳をまっすぐに見据えていたからだ。鳥の面で正確な位置を定められないにも関わらず。
 それゆえに涙は出ず、そして、彼の熱烈な視線から離れることもできなかった。引き寄せられていた。
「まきーば。うむ、言いにくい。故に、まきと呼ばせてもらう。其方の名前はまき、それで良いか?」
 尋ねておきながら有無を言わせない空気だった。それでも嫌な感じがしなかったのは何故か、マキィヴァにはわからなかった。
 しかし恥ずかしさは多少なりとも引っ込んだ。涙ももう出る気配がない。
「さて、用件だが。まき、単刀直入に言わせてもらう」
「え、ええと、はい……」
 清嗣は満面の笑みで言い切った。
「まきよ。俺と夫婦(めおと)になってくれ」
「…………へ?」
 その言葉の意味が理解できず、気の抜けた声が漏れた。思考がこの場から逃げ出そうとする。だが清嗣はそれを許さず、止めを刺すようにもう一度言った。
「この俺、巳柱清嗣と夫婦になってくれ、まき」
 引っ込んだはずの恥ずかしさが甦った。
 最初に清嗣と相対したとき以上の獰猛さを携えて。
 一切の知性が弾け飛んだマキィヴァは、しかし獣性に囚われたのではなく、羞恥に駆り立てられ、湖の中へ飛び込んだ。
 冷たい水でも熱を帯びた彼女の全身を冷やすことは到底不可能であった。


▽清嗣其の一


 清嗣が白蛇を妻に迎え入れたいと思ったのは兄嫁の影響があってのことだった。
 巳柱辰姫(たつひめ)。兄である巳柱清真(せいしん)の妻にして、ジパングの妖怪の中でも神の一柱である水神として崇め奉られる存在である。
 巳柱の家系は一定の代ごとに嫡男が龍と婚姻を結び、幾代にも渡りその地に繁栄をもたらす一族の使命があった。次男以下は巳柱の血を継ぐ人間を後世に残してゆき、そして後の代で再び龍と長男が結ばれる。それが続いていく血筋であった。
 清嗣は次男であった。神職である本家と異なり、商家である分家に引き取られ、通常ならば巳柱の血を継ぐ人間を後世に残していくはずだった。
 だが、兄嫁の巳柱辰姫は水神でありながら曲者であった。一言でいうとやんちゃであった。
 本殿を抜け出して下界に降り立ち自由気ままに世俗を謳歌するのはもちろんのこと、弟である清嗣に妖怪のすばらしさを幼少期から何度も教えていた。
 特に、龍の巫女たる白蛇は気立てもよく、お嫁にするならもっとも良いと洗脳、もとい教え込んでいた。
 清嗣は純粋だった。話を聞かない嫌いもあるが、それは思い込みが激しくがゆえ。
 彼女の洗脳、もとい教育の甲斐もあって、清嗣も妻にするならば白蛇が良いと考えるようになっていたのだった。
 唯一辰姫の誤算があったとすれば、清嗣がまともに話を聞かない性格であったことだろう。そして猪突猛進な性格の持ち主であったこと。
 清嗣は辰姫が彼に相応しい白蛇の巫女を紹介するよりも早く、自ら白蛇を探すために川辺や湖の畔を歩き回り、そしてついにバニップであるマキィヴァを見つけ出してしまったのだった。
 そして、数度白蛇と会ったことがあるにも関わらず、清嗣はバニップを白蛇と誤認した。彼は賢くなかったのだった。

「全くわからん」
 清嗣は何故、求婚した直後に逃げられたのか理解できていなかった。だが理解できないことは幾ら考えてもしようがないというのが清嗣の基本思考だ。故に考えない。
 逃げられたその日の夜は兄である清真と兄嫁の辰姫の家の夕餉にお呼ばれしたので、いつものようにお邪魔していた。自分で考えてもしようのないことは他人に頼るのが良いというのも基本思考だったので、好都合であった。
「はい、どうぞ。清嗣さん」
「ありがとうございます、義姉上」
 着物姿の辰姫から茶碗に山のように盛られた白米を受け取る。すぐさま箸を伸ばして漬物や山菜入りの汁物と一緒に山盛りの白米を胃袋へと送っていく。
 夕餉であるにも関わらず炊き立てであるのは、もっとも美味しいものを夫に食べてもらいたいと辰姫が考えているからだと清嗣は知っている。基本どの家庭も庶民であれば、昼食以降は冷や飯が普通だった。
 神職であるこの家が、庶民の家庭かと言われれば首をひねるところではあるが。 
「相変わらずよく食うなお前は」
「……ごくん、義姉上の飯は旨いですから。毎日食える兄上が羨ましい」
 この地では珍しい魔界豚のしぐれ煮は特に箸が進む。
「すみません、義姉上。おかわりを」
「はいはい」
「……それで。辰から聞いたが、白蛇を捜しに行ったそうだな? 見つけられたのか?」
 居住まいを正した清真が腕を組んで見てくる。その声は優しい。
 兄と自分はあまり似ていない。清嗣は常々そう思っている。自身は力士像のような顔立ちに対し、清真の顔立ちは菩薩のようだとよく言われている。
 性格もそうだ。彼は時が流れるままその運命の全てを受け入れているが、自分はそうではない。なるだけ、自身の力で成したいと考えている。
 兄の生き方を否定するわけではない。そう生きられる兄を清嗣は尊敬すらしている。自分は我慢弱いのだ。動かずにいられない。
「ええ、兄上。会うには会えました」
「ほう」
「あらあら。珍しいですねぇ。この辺りに巫女入りしていない娘なんていたかしら」
「とは言え残念ながら逃げられてしまいましたが。明日も尋ねるつもりです」
 ふむ、と清真が小首を傾げる。
「白蛇は別段人間から逃げるような妖怪でもなかったと思うが」
「ええ。とても友好的ですよ。鬼の子らのようにやんちゃをするような性格でもありませんし」
「……辰が言うとあまり信じられんな」
 やんちゃは辰姫の十八番だった。意味深な笑いでごまかされるのもいつものことだった。
「それで何をしたんだ? 逃げられるからには相応のことをしたのだろう?」
 清嗣は簡単に説明する。名を名乗ったこと。そのあと求婚したこと。本当に簡単だった。
「まぁ。本当に珍しい。断られていないということは未婚者でしょうし。清嗣さん、その娘変わったところはありませんでしたか?」
「変わったところ……」
 そういえばとすぐに思いつく。
「裸でした」
 だが、ラミア種なのに毛が生えていたとか、黒褐色の肌だったとか、そういう部分にはまるで気づかなかった。
 そして野生の妖怪が裸でいることはさして珍しいことでもない。男を捕まえたらすぐに犯せるように、果ては裸で襲わせるために衣類を身に着けない者も多い。
「もしや恥ずかしかっただろうか。なるほどそうか、裸姿を見られて恥ずかしかったのか。故に俺から逃げ出したのだな。うむ、これは失礼なことをしてしまった。詫びねばなるまい」
 こんな見当違いな答えを出してしまうのが清嗣という人間であった。
「義姉上。よろしければ、彼女に服を見繕っていただきたいのですが」
「はい、構いませんよ。構いませんけど」
「よし、明日こそはまきを妻に迎えよう。うむ、楽しみで仕方がないな。はっはっは」
「……はぁ」
 あまりにも楽観的な答えを出て豪快に笑う清嗣に、清真と辰姫は顔を見合わせて苦笑いとともに肩を竦めるのだった。


▼マキィヴァ其の二


 ジパングの森の中にある名も無き湖。遠い昔、山に大量に降った雨が流れ込んでできたこの湖は広く、一周するのに歩いて半刻ほどかかる。
 秋雨も越えて久しく、穏やかな水の出入りは湖を澄んだ空色にしていた。時折吹く冷たい風が湖面を撫でてさざ波を立てている。
 マキィヴァは秋雨の影響で水嵩が増したことで沈んだ樹の影に顔だけ出して、じっと一点を見つめていた。
「ま、また、来た」
 マキィヴァは口元を震わした。羞恥からか怖れからかは本人にもわかっていない。
 ただ、今日も訪れた巳柱清嗣を単なる人間の男とは思えなくなってはいた。
 求婚された。出会って半刻もしない間に。お互いのことを何も知らないにも関わらず、それも白蛇なる他の魔物と勘違いされた上でだ。
 一晩中マキィヴァは湖の中で悩んでいた。
 魔物娘が本能から人間の男を求めることを、番いとなることを切望しているのは理解している。いつか人の輪に入りたいと願っていたのも、素敵な男性と結ばれたかったからだと自覚はしている。
 しかし、だからと言っていきなり求婚されてすんなりと応えることができるならば、このような極東の島国にまでやってきていない。
 きっと、求婚は白蛇と勘違いしたが故のもので。勘違いが解ければなかったことになるだろう。そうでなくては自分のようなぱっとしない魔物が求められるはずもない。
 きょろきょろと自分を探す素振りを見せる清嗣を見つめながら、マキィヴァは不安な想像ばかり膨らませてしまうのだった。
「……?」
 そして、ため息と同時にほんの一瞬だけ清嗣から視線を外したときだった。
「あ、あれ? い、いない……」
「見つけた」
「っ!?」
 頭上から声が降った。
 反射的にマキィヴァは湖に潜り、樹から離れて湖面に顔を出す。
 湖に沈んだ樹の太い枝に、清嗣が堂々と仁王立ちしていた。いままさにそこに現れたかのように、龍の羽織がふわりと揺れていた。
「先日は失礼した、まき。今日も来させてもらったぞ」
 よく通る声が湖に響く。自信に満ち溢れた姿だった。
 かなりの距離が離れていたはず。にも関わらず一瞬目を離した隙にここまで接近された。昨日の先回りもそうだが只者ではない。
「今日は着物を持参したのだ。先日は裸故に恥ずかしかったのだろう? これでもう仔細ないな」
「……」
 違う、そうじゃない。と言いたかったが声は出なかった。
「よっせと。さて、まき。いつまでもそこに隠れておらず近くに寄ってはくれんか? 其方の美しい姿が水に隠れては勿体ない」
 枝に腰を落ち着けて、何の臆面もなく吐いた清嗣の言葉にマキィヴァは口元を水に沈めてぶくぶくと息を吐く。
 黒褐色の頬に仄かに朱が差していた。まともに他人と会話したことのないマキィヴァは、当然ながら褒められたことなど一度もなかったのだ。
「ふむ。やはり裸が恥ずかしいのだな。どれ、これを着てみると良い。水に濡れてもまるで問題のない、白蛇が愛用している巫女服だ」
 彼が広げた服は素晴らしく美しい白絹の服であった。白と薄紫が基調の蛇の刺繍が至る所に施された立派な着物。道行く旅人や魔物ですらこれほど立派な物を着ている姿は見たことがない。
 つい興味が湧いて上半身を湖面から出してしまう。そのせいで来てくれると清嗣は思ってしまったのだろう。
「どうだ、良いだろう? 服自体は町のジョロウグモに頼んだものだが刺繍は義姉上が施したものなのだ。俺のこの龍の刺繍と同じものだな」
 清嗣が袖口や襟などに施された蛇に似た緑色のドラゴンの刺繍を見せてくる。白を基調とした羽織にとても映えていた。巫女服とまるで対になっているかのようでもある。
「うむ、うむ! 其方の白い毛と黒い肌に合いそうだな。ここに掛けておくぞ。俺は岸へ戻る。着替えられたらこっちへ来てくれ」
「え、えと、ちょっと、ま、待って」
 マキィヴァの制止も待たずに、清嗣は枝を一切揺らさず一足飛びで岸へと戻っていった。魔物じみた身体能力だったが、それに驚いている暇はマキィヴァにはなかった。
「ううぅ、着るなんて、い、言ってない、のにぃ……着なきゃいけない、の?」
 臆病であり、これまでまともに人付き合いのなかったマキィヴァだが、ここで押しの弱さが判明した。

 着物の着方というのは素人には難しい。袖を通してはい終わりというわけにはいかない。
 元がゆったりとした服であるため、きちんと帯で締めなければすぐに乱れてしまう。そこに官能を感じるのも事実だが、そこは着やすさとはまるで関係ない。
 また白蛇の巫女服はやや特殊であった。肩が露出する白衣に、幾枚の布地を紐で結んで構成した袴と、着用の難易度が高めていた。
 当然ながら生まれてこのかたまともに服を着たことがないマキィヴァに正しく着れるわけもなく。
「うぅ……こ、これで、いいの……?」
 袴ごと巻き込んだ帯を腰で団子にして結んでしまった。パーツ構成の袴は着用の途中で紐が解けて、それぞれがぶら下がってしまっている。巫女服の原型などほとんど残っていない。見るも無残な有様だった。
 が、正解がわからないマキィヴァはこのまま行くしかなかったのだった。
「……あ、あの」
 岸辺で胡坐をかいて座っていた清嗣に見せると、彼は満面の笑みで頷いた。
「そうか! 其方は白蛇だが巫女服の着方を知らないんだな!」
「ぅぅ……」
 当然ながら間違いだった。羞恥で消えてしまいたくなる。今日も湖に逃げようと思ったが、この高価な着物を必要以上に濡らしてしまうのは気が引けできなかった。水に濡れても問題ないとは言っていたが。
 鳥の面を被る。不安と羞恥に耐えるために。
 まともに服も着られない自分のことを幻滅しまうのでという不安が何度も頭をよぎる。何故か、彼に嫌われたくなかった。この場から、彼から逃げ出したいと思っているのに。
 自分でもわからない感情はマキィヴァをその場に縫い付けて自由にさせなかった。
 あまりの緊張に失神しかかって、そこで視界に光が広がった。
「すまなかったな。何事も最初は知らぬのが道理。それなのに無理に着せようとした俺の落ち度だ。許せ」
「ぁ、うぅあぁ……」
 清嗣の顔が真正面にあった。面を外され覗き込むように、しかし安心させるように柔和な笑みを浮かべた彼の顔があった。
 素敵だと、マキィヴァは思った。昨日と今日、一切絶やさなかった彼の笑顔がとても煌びやかなものに見えた。
「着付けを習ってくるとしよう。明日俺が着させてやる。それで良いか、まき?」
「ひゃ、ひゃっ……」
「ひゃ?」
「ひゃいーーーーーーーーー!!」
 しかし、それはそれとして恥ずかしいことに変わりはなかった。
 顔から煙が出そうほど赤くしたマキィヴァは恐ろしいほどの速さで身体を回転させたかと思うと、一目散に湖の中へ逃げ飛び込んだ。
 昨日と同じパターンであった。

 翌日。再び清嗣はやってきた。宣言通り着付けの仕方を習ってきたようだった。
 そうして着せられることになったのだが、男とまともに触れ合う機会などなかったマキィヴァである。
 まず、着付け交渉に四半刻かかった。清嗣が一歩詰めれば、尾を一歩分引いてマキィヴァは逃げた。湖に逃げなかったのだけでも成長したと言える。
 実際の着付けに入ってからが大変であった。
「ああ、見た目通りとても良き触り心地だな、まきの毛は」
「ぅひゃぁ〜」
 全身を快感ともつかない感覚が、清嗣に毛を撫でられる度に走る。
 その度に、着付けは中断され、マキィヴァは涙目になりながら清嗣から逃げていた。
「な、なでちゃ、だめ」
「すまぬすまぬ」
「…………うひゃぁ〜」
 と言いつつ触ってくるのでなかなか進まなかった。というより触らずに着付けをするなど不可能であった。
「本当に驚きだ。絹の糸とはまるで比べ物にならん。ずっと触りたくなる」
「だ、だめ……もう触っちゃ」
「無論だ。其方の嫌がることはしない」
 嫌ではなかった。しかし、これ以上触られれば、己の内の獣性が解き放たれてしまうような気がしていた。理性をかなぐり捨てるのはとても恥ずかしいことだとマキィヴァは思うのだ。
 ようやく巫女服を着終え、マキィヴァは清嗣と並んで湖の岸に腰を落ち着かせる。恥ずかしいので人二人分ほど離れてはいたが。
 マキィヴァは下半身を水に沈めていた。それに倣ってか清嗣もわらじを脱いで湖に足を突っ込んでいた。同じ湖につけている。水で繋がっている。不思議と奇妙な高揚がマキィヴァにあった。
「まき」
 物思いに耽りそうになったマキィヴァを清嗣が戻しにくる。彼は笑みを崩さず、しかし真剣な面持ちでこちらを見つめていた。
「再度言わせてもらおう。俺と夫婦になってくれ、まき」
「っ……ぶぅぅぅ」
 目を合わせられない。彼の言葉に嘘偽りはなく、謀る心がないのは魔物娘としての本能でわかる。
 素直に頷けられたら、どれだけ良かっただろうとマキィヴァは思う。
「ぶぅぅ、で、でもわたし、あなたのこと、知らない」
「そうか。名は名乗ったがそれだけでは駄目なのか。では名以外何を教えればよいのだ?」
「え……」
「ん?」
 改めて問われるとマキィヴァも答えられなかった。何をしたらいいのか、何を知りたいのかわからず額から汗をたらたらと流す。
「……す、すきなもの、とか?」
 ようやくひねり出した答えに、清嗣はそれならば簡単だと声を弾ませた。
「俺はまきを一番に好いているぞ」
「ぶぇっ!?」
「その絹のように白く、しかしてそれよりも滑らかな触り心地の毛、吸い付きそうな綺麗な肌、見目麗しい容貌。まさしく俺の理想の女子(おなご)だ」
「ぁぅぁぅ……」
「ところでできればその面を外してもらいたいのだがな。せっかくの美人なのだ。隠しては勿体ない」
 面を降ろされて視線を絡めとられてはもう、マキィヴァの思考は蕩ける他なかった。羞恥が限界突破してしまえば、もう逃げる余力すら残らなくなる。
「俺の妻となるのだ。だのに隠されては堪らん」
「うぅー、つ、妻になるって、決まったわけじゃ」
「俺のことを知れば妻となってくれるのではなかったのか? ならばよいだろう。さぁ、もっと尋ねてくれ。俺は妻となるものに隠すものなどないからな」
 一切臆することもなく言ってのける清嗣。何故こうも強いのだろうと、ふとマキィヴァは思ってしまった。
 見ず知らずの自分に、しかも魔物である自分に物怖じすることなく話しかけられる強さはどこにあるのだろう。元いた場所では正体不明の獣として恐れられていた。この姿は人間にとって恐ろしいものであるはずなのに。
 マキィヴァは思った。彼のことを知れば、自分も彼と同じような強さを得られるのではないかと。
「じゃ、じゃあ……」
 故に、マキィヴァは尋ねた。その行為こそが知りたいと思っている強さの一つだとも気づかずに。


▽清嗣其の二


「それで、そのまきって白蛇はどんな娘なのでしょう? 清嗣さん」
 自宅への道すがらに出会った兄嫁夫婦に誘われ、清嗣は茶屋の軒先の長椅子に座っていた。清嗣、清真、辰姫の並びだ。
 水神として崇められている辰姫が茶屋にいても、時折通りすがりの町民が深々と挨拶する程度である。それほど、辰姫はこの町に馴染んでいた。
「うまい! うむ、いつもながらここの団子はうまい!」
 清嗣はみたらしの串団子を絶え間なく食い続けており、脇にある串立てには幾本も使い終わった串が刺さっている。
 慎ましく食している兄嫁夫婦とは対照的だった。
「うまい! うまい! うむっ! とてもうまい娘です、まきは!」
「……もう食べたのか?」
「間違えました、見目麗しい娘です!」
 兄の清真よりも清嗣は小柄であったが、しかし彼よりもずっと大喰らいであった。
「ええ、美しいのはわかっていますよ、清嗣さん。それで、どんな娘なんです?」
「どんな娘とは?」
「どんな性格をしているのか、とか」
 一個だけ残った串団子を皿に置き、口元に手を当ててしばし考えた。
「よく鳥の面を被りますね」
 鳥の面? と兄嫁夫婦は小首を傾げる。
「何故かはわかりませんが、俺が近づいたり手に触れたりすると、すぐ飛び退いて面を被ります。俺はもっと彼女の顔を見たいのですが、見ようとすれば被られるのでなかなか困っていますね! しかも声が小さい! とても小さい! 俺は耳がいいので聴き取れますが!」
 願わくばまきの方から見つめてもらいたいのだが、まだ正式に結婚もしていないので清嗣にしては珍しく自重していた。
「あとは毛がふさふさです」
「ふさふさ」
「ふわふわでもありますね! もわもわしています、癖が強い!」
「恥ずかしがり屋なのか、その娘」
 清真の問いに清嗣は小首を傾げた。
「いいえ、服はきちんと着させました。もう大丈夫でしょう」
 まるでまきの様子を察せられていない清嗣である。清真はため息、辰姫はあらあらと苦笑いを浮かべるしかなかった。
「今日で俺のことを多分に知ってもらいました。明日こそは妻として迎え入れられるはずです!」
「清嗣さん清嗣さん」
「なんです、義姉う、あいた」
 辰姫にぱちんと尾の先で額を叩かれた。声こそ出したもののまるで痛くはなかった。
 辰姫は柔和に笑っている。しかし、少し叱るような怒りが含まれていた。こういうときは居住まいを正さねばならないと長い付き合いなので清嗣は重々承知している。
「自分のことばかりでは駄目ですよ、清嗣さん。きちんと、そのまきさんのことも知ってあげてください」
 辰姫は清真の腕に自身のを絡めてぴったりと身を寄せる。見せつけるというよりは、夫婦の仲の良さを教えるようだった。
「結婚とは一人ではなく、二人でするものなのですからね。きちんと相手のことを想ってあげないと」
「辰、あまり往来でべたべたされると」
「あら、知っていますよ、あなた。いま、こうされたいと思っていたって。水神様は何でもお見通しなのですからね」
 兄夫婦が人目も憚らずいちゃつき始めたが、これもまた妖怪がそこら中にいるこの町ではさほど珍しくもなく、微笑ましい光景となっていた。
 羨ましいと清嗣は何度も思った。仲の良い二人が、この町の仲睦まじい夫婦たちが。憧れでもあった。
 二人みたいな、関係に自分もなれるならば。そのために必要なことをしない道理はない。
「わかりました義姉上。明日はよりまきのことを知っていこうと思います!」
「ええ、ええ。そうするといいですよ。あぁ、そうですね。いいことを思いつきました」
 辰姫は団子を一本持ち上げて目の前でゆらゆらりと振った。
「まきさんも清嗣さんも口下手ですからね。話の種は多い方がよいでしょう」
 得意げに辰姫は微笑んでいた。


▼マキィヴァ其の三


 昨日は失礼なことをしてしまっただろうか、とマキィヴァは少し落ち込んでいた。
 清嗣は以前、武士に憧れたこともあったそうだ。そのために親の目を盗み身体を鍛えたこともあったとのこと。人間離れした身のこなしは今も続けている修行の成果らしい。
 だが、巳柱家は武家ではない。清嗣が武士になれることはなかった。一応は大金を積めば武士という身分を買えなくもない。だが、武士という身分自体に清嗣は興味があるわけではなかった。
 強く、気高く、誇り高い。主君のため、あるいは家のため、何より家族のため。そのために生きる武士に憧れていたのだ。
 故に、その誇りを抱けるならば武士である必要はなかった。
 脇差をしていたのも、あくまで護身用だと清嗣は言った。
 だが、彼にとっては誇りの形だともマキィヴァは思った。
 だから申し訳なく思ってしまった。
 脇差を見て、マキィヴァは怯えてしまったのだ。刃物の怖さは知っている。怪我をする危ないものだ。
 そんなマキィヴァを安心させるために、清嗣は脇差を遠くに放ってしまった。壊れはしないだろうが、それでも投げさせてしまったのだ。彼の誇りを。
 丸一日、そのことをマキィヴァは延々と考えていた。申し訳なさで胸が苦しかった。
「ご、ごめん、なさ、い」
 翌日会って早々、マキィヴァは謝った。清嗣に合点の行かない表情をされたが、理由を口ごもりながら言うと声をあげて笑われた。
「案ずるな、まき。これは武士の誇りでもなんでもない」
「で、でも」
「これは武器だ。ただの道具だ。俺にとって大事なのは、これで守れるものがあるかということだ。刀が大事なのではない。刀で守るべきものが大事なのだ。故に、これが其方を怯えさせるものならば」
 清嗣は脇差を再び放った。彼の背後から少し離れたところに転がる。
「あれはいらん。今度からはここにくるまでに適当な場所へ置いてくるとしよう」
 清嗣のことを強いとマキィヴァは昨日思った。だが、今日は優しいとも思った。
 優しくて、温かいと。恥ずかしさはあるけれども、ずっと一緒にいたいと思うようになっていた。
「さて」
 空気を一新させるように、清嗣がよく通る声を湖に響かせる。さざ波が風ではなく、彼の声で立ったかのようだった。
 清嗣が持ち上げた包みに、今度はマキィヴァが小首を傾げた。
 笹で包まれていたが、察しがまるでつかなかった。
「団子だ。食べてみないか? うまいぞ」
「だんご?」
 清嗣が笹の包みを広げると串に刺さった団子を見せてきた。一つは草色。もう一つは焦げ目のついた白色だった。
「こちらは笹餅だ。餡が入っている。こっちの白いのはみたらしで、中に葛餡が入っている」
「餡? みたらし?」
「百聞は一見に如かず、百見は一触に如かず。食べてみろ」
 恐る恐るマキィヴァは指を伸ばす。毛むくじゃらな手指は獣の手だが、肉球の部分で器用に串を摘まんだ。
「こう、食べる」
 清嗣の手ぶりを真似て、横向きにした笹串団子の一つを咥えて、横に串を引いた。口の中に放り込まれた草餅を咀嚼する。餅自体の清涼な甘さの中から、濃厚だが嫌味はなく鼻に抜けていく味わい深さが現れた。
 衝撃だった。いつもはそこらの獣か魚の肉しか食べないマキィヴァにとって、これは生まれて初めて食べた甘味であり、食の価値観を覆すほどのものだった。
「それは小豆(しょうず)を荒く潰したものだ。口の中に残る小豆の食感が餅と合わさってうまいだろう?」
 こくこくと頷きながら、マキィヴァは残りの二個も一気に食べてしまった。ただの一口で団子の美味しさに取り憑かれてしまったのだ。
 みたらしも焦げの香ばしさと砂糖醤油の葛餡が絡まり、マキィヴァは舌を蕩けさせた。
「んぐっ、ぐぐっ」
「む、いかんな」
 が一気に頬張りすぎて、喉が詰まってしまった。餅は詰まりやすい。
 ジパングにおいては餅を詰まらせた男性を助ける名目でキスして餅を吸い出し、恩返しの代わりに夫になってもらう妖怪もいるそうだが、そんなことを清嗣ができるわけがない。
 また、マキィヴァ以上に一度に餅を食うにもかかわらず決して喉に詰まらせない清嗣が、これをしてもらう機会もない。
「これを飲むといい」
 竹筒の木蓋を抜き、竹筒の半分程度の大きさの椀に注がれた緑茶をマキィヴァは受け取ると、すぐさま喉に流し込んだ。足りないので、数度清嗣に茶を注いでもらった。
「保存の妖術とやらをかけてもらっているからさほど渋くはないはずだが」
「ごくごく、ごくごくごく……」
 清嗣の声はほとんど耳に届かない。ようやく喉に詰まった餅を胃に流し込めて、はぁとマキィヴァは息をついた。
「死ぬかと、思った……あぅぅ、口の中、苦い……」
 舌を出して空気に晒して苦みをなんとか飛ばそうとするが、そう上手くはいかなかった。
「蛇は丸呑みが得意と聞いたが、存外喉を詰まらすものなのだな」
「蛇だってたまには詰まらすよ……」
「ふふ、猿も木からなんとやらだな。今度は餅と一緒に食うといい。その苦みがちょうどいいのだ」
「……」
 恥ずかしい姿を微笑ましげに見られて、マキィヴァは肩を縮こまらせながら鳥の面を被る。顔から火が噴いてしまいそうだった。
「顔を隠していてはうまく食べられんぞ? ほら、面を外して」
「ぶぅぅ、ううぅ……」
 確かに面をつけながらだと食べにくかった。恥ずかしかったが背に腹は代えられない。
「…………」
「…………」
「……あの」
「なんだ?」
「た、食べるところ見、られると、その、恥ずかしい」
「そうか」
「ぅぅ〜」
 腕を組んで満面の笑みを浮かべられた。見られる。恥ずかしい。でも美味しい。食べるのを止められない。緑茶も餅と一緒ならば不思議ときつい苦みを感じなかった。もう混乱しそうだった。
「はっはっは、済まなかった。つい、其方の食べる姿が美しくてな。見惚れてしまったのだ。食べるところは見ないようにしよう」
 やっと視線をこちらから外してくれ、マキィヴァは落ち着いて食べることができた。幾つもある餅を無心に食べながら、湖に移る山や森の景色に視線を泳がせた。
 だが、甘味に夢中になっているマキィヴァは気づかなかった。気づいたのは長い髪を何かが梳いたときだった。
「っ!」
 びっくりしてまた餅が喉に詰まりそうだったがなんとか乗り切り、顔だけ振り返る。
 穏やかに笑む清嗣が、いつの間にか背後にいた。自分の長い髪を軽く持ち上げ、髪に何かを通している。
 マキィヴァは反射的に逃げようとしたが、髪がその何かで梳かれるたびに甘い痺れが髪から頭に響いて動けなかった。
「ぁぅぁぅ……な、なにをして、るの……?」
「うむ。其方の毛はふわふわで絹のような触り心地だが、癖が強いだろう? それを義姉上に話したら、この龍の絵が描かれた櫛で梳いてあげたらどうかと言われたのだ。串と櫛をかけて思いついたそうで、つい声を出して笑ってしまった」
 マキィヴァは全然笑えなかった。じんと来る甘い痺れにそれどころじゃなかった。
 だが、甘い痺れは嫌なものじゃなかった。それどころかとても安心する。
「まき」
「……うん」
「このままで良いから其方のこと、教えてはくれんか」
「わたし、のこと?」
「結婚とは一人でするものではない、二人でするものだ。そう義姉上に叱られてしまった。確かにそうだ。其方に受け入れられるには俺のこと、そして其方のことを知り知ってもらわねばならない。そう理解した。故に教えてはくれんか、其方のことを」
「……私は、ずっと一人だったから、そんなに話すこと、ない……」
 ただ起きて、お腹が空いたら獲物を狩って食べて、寝る。それだけの生活だった。時折、魔物と会話することもあるにはあったが、本当に稀なもので、少し道を教える程度であった。
 取り立てて話すようなことはない。清嗣のように、武士のことや、商家のお仕事の話のような、一風変わった話もなかった。
 だが、清嗣はそれでも構わないと言ってくれる。
「起きたらまず何をするのだ?」
「い、いつもお腹空いて目が覚めるから、獲物を、探す」
「獲物とは」
「野兎とか、猪とか……たまに魔界の方へ行って、魔界豚を狩ったりとか」
「魔界豚! あれは何度か食べたことがあるが、なかなかにうまいな。ジパングでは滅多に卸されんから貴重だ」
 清嗣の髪を梳く櫛の動きが少し早くなる。興奮しているのだろうと、マキィヴァは思った。
「う、うん、とても美味しい、でも住処から遠いからたまにしか、いかない……」
「どうやって狩るのだ」
「えっと、私、水の中を音もなく泳げるから……水を飲みに、近づいたところをガシって」
 両手を前に突き出して、抱え込むような素振りを見せる。肩越しに覗いてくる清嗣の顔が近くて、気恥ずかしくて一瞬ぞくりとした。
「まきは狩りが得意なのだな。充分に話すことがあるではないか」
「ぁぅ、でも、それだけ」
「なら獲った肉はどう食べるのだ?」
「えっと、血抜きして、そのまま……たまに魔法で焼くけど、いつも焦がす。私、あんまり調整できない」
「魔法、妖術の類が使えるのか。いいな。俺は多少しか妖力を持っていないからな。まともに妖術の類を使えん」
「つ、使うところ、み、見る?」
「見る!」
 即答されてびくんとマキィヴァは肩を揺らす。本当に物怖じしない人だと感心してしまう。自分がもし人間だったなら、自分みたいなものがする魔法など見たくもないし、近づきたくもないと思うことだろう。
「えっと……こう」
 けむくじゃらな手の黒い爪先に魔力を集め、炎が出るよう念じた。力を込めて、胸の辺りに熱のようなものが感じられると、ボボボッと炎が断続的に瞬いて噴き出る。
「おおっ、すごいな!」
「ちょ、調整が難しい……火力を一定にできない、の」
「ふむ」
「ッ!?」
 いきなりだった。清嗣に背後から突如抱きすくめられてしまった。腰に腕を回され、首元に彼の吐息がかかる。
 まともに面と向かって話せない相手。好感を抱き、だからこそ触れられない相手にこれほど密着され、緊張が高まらないはずがなかった。
 指先の炎が制御できるはずもなく。ボボボと激しい音を立てて目の前で爪先から二の腕ほどの太さの火柱が立つ。
「これが最大火力か」
「あうあうあうっ!」
 制御が完全にできなかった。早く消さないとと重い、爪に込める魔力の供給をなんとかなくそうとするが、清嗣にがしりとその手を掴まれる。
「止めてはいけない。集中するんだ」
「え、え?」
「爪先に流れている魔力の線にだ」
「そ、そんなこと、言われても――」
「乱れている。一本の指に繋がなければならないのに、他の指先にも漏れ出ている」
「……」
 漏れている。魔力の供給が。
「ここだ。ここから漏れている。止めるのだ」
 手の甲に指先で触れられた。恥ずかしさはなかった。
 マキィヴァは集中し始めていた。
「線を一本に。そうだ。無駄がなくなれば一定にできる」
「ぅっ、ぅぅっ、ふっ!」
 一瞬力み、激しい炎が噴き出たかと思うとすぐさま収まった。
 収まった後、マキィヴァの爪先からは一定した赤い炎が噴き出ていた。
「で、できちゃった……いま、までできたことなんてなかった、のに」
「さすがはまきだ。こうも早くできるとは」
「あ、ありがとう、き、きよつぐ……」
「うむ。ようやく名前で呼んでくれたな、まき」
「え、あっ! あうあう……!」
 ハッとなりマキィヴァは自分の置かれている状況を再確認して慌てて身体を身じろぎした。いま、自分は清嗣から抱きすくめられている格好なのだ。恥ずかしい。恥ずかしくて堪らない。全然嫌じゃないのに、とてつもなく恥ずかしくて水の中に隠れてしまいたい。
「まぁまぁ、話はまだ終わっていないだろう、まき。もう少しこのままでいよう」
「うぅぅ……ぶぅぅ」
 嫌ではなかったせいか、力づくで彼の抱きしめから逃げられなかった。そしてこう言われればもう受け入れるしかない。仮面を被ってなんとか羞恥に耐えるほかない。
 ふわふわな長い髪のあるマキィヴァの背に清嗣が寄りかかっている。その重さがマキィヴァにはとても心地よかった。
 その状態のまま櫛で髪梳きも再開され、さらに恍惚に浸ってしまう。
「ど、どうして、あんなこと、わかったの? ま、魔法使えないって言ってたのに」
「ないわけではないからな。少ないなら少ないなりに、上手く使えば良いだけのことだ。そういう修練を多くはないがしたことがある」
「きよつぐはすごい、ね」
「そうか? 其方に褒められるのは兄上たちに褒められるよりも嬉しいな」
 顔は見えなかったが、照れたような声音のようにマキィヴァには聞こえた。こんな風にもなるのかと、もっと清嗣のことをマキィヴァは知りたくなった。
 その後も、マキィヴァは尋ねられるがまま色々自分のことを話した。話の広げ方は狩りや魔法の件でコツを掴め、途切れ途切れになりながらも語った。
 日が出ている間は草原に寝転がって日向ぼっこをしていること。寒い季節は熱しやすい岩の上で寝ること。先ほどの魔法で無理矢理温まることもある。
 あとは泳ぐのが得意で音も立てずに泳げるから、泳ぎながら魚を口で捕まえることもできる。毛は魔力のおかげで水を吸ってもふわふわな状態を維持し、さらには空気も捕まえてあるので熱を逃がさない。実際に濡らした毛を触らせ、清嗣に感心された。
 あとは寝床の話。毛が温かいので基本的に寝具などは必要としない。とぐろを巻いて寝る。人目につかないように草陰やたまに水中で寝ることもある。上半身だけ岸辺に出す形だ。
 自分の話をするたびに、清嗣は感心して頷いてくれていた。彼が真剣に聞いてくれるのが妙に嬉しく、すぐに唇が乾いてしまうほどだった。
 楽しい時間だった。
「む。そろそろ、日が暮れるな」
 だが楽しい時間は過ぎるのが早い。背にいた清嗣が立ち上がって離れた。
 温かった背中が急激に冷え込むのをマキィヴァは感じた。
「また明日だな、まき。今日は其方のことをいっぱい知れて嬉しかったぞ」
「う、うん。私も、こんなに自分のこと話せたの、初めて……きよつぐに話せて、よかった」
 マキィヴァはじっと清嗣を見据える。土や草を払う彼はもう帰ろうとしている。
 帰って欲しくなかった。もっといっぱい話をしたかったし、先ほどまでのようにくっついていて欲しかった。
 呼び止める声が出ない。羞恥以上に、まだ自分は誤解を解けてないことに気づいたせいだった。
 自分は白蛇ではない。
 彼が望む白蛇ではない。バニップだ。同じラミア種であれど似て非なるものだ。清嗣が自分を好いていてくれているのは白蛇だと勘違いしているからだ。もし白蛇ではないと彼が知ったらどうなるか。
 そう考えただけで不安だった。不安だと感じるほどに彼に惹かれていた。
 頭の中で不安と好意が入り混じる混濁する。帰り支度をする彼を獣欲に身を任せて襲ってしまいたいと思う。
 魔物の欲望に身を任せ、彼をそれで包めばきっと自分のものになるだろう。なってくれる。間違いない。そして、そうすることは悪いことではない。
 だが、それをしてもいいのかと理性が蓋をする。自分はまだ誤解を解いていない。
 彼はまっすぐな好意を向けてきてくれている。ならばそれに自分も応えるべきではないか。
 まずは誤解を解くべきではないか。
 誤解が解けてそれでもなお好意を抱いてくれるならば。
「きよ、つぐ」
「ん? ああ、なんだ。もしや帰って欲しくないのか。嬉しいな。其方に切望されるのはとても嬉しい。だが、すまぬ。やり残した仕事もあるのでな。また明日必ず来る」
「……うん」
 しかし言えなかった。拒絶されるのが怖かった。
 森の中へ消える清嗣の背中を、マキィヴァはずっと見続けていた。


▽清嗣その三


「感謝します。兄上、義姉上」
「大切な義弟のためですもの。これくらいなんてことありません」
 山間にある小屋の裏手。そこには山で伐採した木々を一時集積している。この山は辰姫の山であるため、彼女と巳柱家が管理していた。
 主に建材に使われる木材と竹材、建築道具一式が辰姫の足元にある。その量はおおよそ小屋一軒分。山盛りである。
 まず人一人で持ち運べる量ではなかったが、彼女は違った。風の妖術を使い、自身とともにそれらを浮かせる。重力を忘れてしまったかのようだった。
 清嗣がしたある提案に彼女が乗っかり、自ら運ぶと申し出たのだった。
「そう言いつつ身体を動かしたかっただけだろう、辰?」
 呆れるように清真が言う。普通ならば水神たる龍が、物を運ぶために出張るなどありえない。が、彼女はやんちゃであった。身体を動かすのが性に合っており、それがまた愛しい義弟のためになるならばなおのことだった。
「しかし、思い切ったな清嗣。まさか家を建てると言い出すとは」
「家に帰っても仕事が済めばただ寝るだけですから。ならば、寝る場所はまきの近くが良いでしょう。無駄がありません」
「うむ。無駄がないのは良いことだ」
 巳柱家の分家が担う商は、物直しの元締めだった。食器、傘、古着、古紙、家、果ては下肥に至るまで。あらゆる物の修繕、再利用をする仕事を一挙にまとめているのである。
 なので無駄は嫌いであった。水神の夫となった清真然り、分家で仕事をしている清嗣は言わずもがなだった。
「では先に行って置いておいてよろしいですね?」
「はい、義姉上。よろしくお願いします」
 辰姫の龍の尾に清真が跨り、二人は宙に浮く。清嗣も乗らないかと辰姫に誘われたが固辞した。辰姫の身体は神聖なものであり、それは夫たる清真しか触れてはならないと自覚しているためだ。
 妖力で直接浮かしてもらうのは断固辞退した。幼い頃辰姫にそれをやられて軽いトラウマになっているためである。何に支えられるもなく宙を浮く、という感覚が清嗣は苦手なのである。
 建材とともに飛んで行った辰姫たちの姿が見えなくなった直後、清嗣もまきのいる湖に向けて歩き出した。
「……珍しいな」
 それは道中のことだった。適当に草木を取っ払っただけの獣道よりは多少マシと言える山道を歩いているとき、立ち並ぶ木々を挟んで向こう側に人影を見た。
 清嗣は目がいい。それが人間であることはすぐにわかった。四人ほどの集まりで、薄汚れた衣を着ている。
 彼らはまっすぐこちら側の山道に出てきた。身なりは小汚いが、わらじなどは新しい。すぐに駄目になるわらじを買える場所はここらにはない。山道を歩き慣れている証拠だ。
 身なりに相応しくない刀で武装もしていたが、自衛のために持つのは珍しくはない。清嗣の脇差も自衛のためである。
 だが、彼らが自衛のために武装しているとは、清嗣には思えなかった。
「なんだ、人間か」
 無精ひげを生やした男が言う。一番、大柄でどっしりと構えている。この集団の中での頭であることは間違いない。
「どうするんです」
「身なりは良さそうだがほっとけ。別のことにかまけているとやらかすからな」
「へっ、運が良かったな餓鬼」
「…………」
 山賊辺りであることは間違いなかった。別段、旅人を襲う賊の集団は珍しいことではない。
「ったく。嫌になるぜ、そこらを歩きまわりゃあすぐに鉢合うと思ったのによぉ」
「お前たち」
 清嗣は踵を返した彼らに声をかける。
「山は妖怪が出る。無暗に歩き回るのはお勧めしないぞ」
 取り巻きの男たちが振り返って苛立ちの表情を向ける中、頭の男だけは下卑た笑みを浮かべた。
「ああ、知ってるさ」
 それだけ言うと、彼らは山中に消える。
 残された清嗣も山下りを再開した。
 半分は善意から来る忠告だったが、もう半分は別だった。嫌な予感がする。
 そして、たいていこういう予感が当たることを清嗣は知っていたのだった。

「結局出てきませんでしたねぇ。本当、残念です。清嗣さんの懸想する娘を一目見たかったのですが」
「申し訳ない義姉上。未だ俺以外には慣れないようです」
 日が頂点を過ぎた頃、出来上がった掘っ立て小屋の前で残念そうに辰姫が言う。
「それにしても清嗣さん。本当にこんなので良かったのですか? もっと立派なものにした方が良いと思うのですけれど」
 掘っ立て小屋は木の柱を立てて屋根をかけて、壁に竹板や木板を張り付けただけの粗末なものだったが、日中の間に作るにはこれが精いっぱいだった。
 しかし清嗣にはこれで十分だった。
「いえ、今日中に建てたかったですから。あとは追々補強したり立て直したりします。ご助力感謝します」
 むしろ、妖術を使える龍とその夫、そして日頃鍛えている清嗣の三人がいたからこそその日の内にできたと言える。柱も地面に深く挿したので、そうそう倒壊することはない。
「まぁ、清嗣さんが納得しているならよろしいのですけれど。ああ、でも本当残念」
「会いたくない本人に無理矢理会うわけにもいかんだろう。清嗣、俺たちはもう帰るがまだここにいるな?」
「はい、兄上」
「ということだ。俺たちがいては彼女も出て来られんだろう。帰るぞ、辰」
「むぅ、残念です。それでは清嗣さん、まきさんによろしく伝えておいてくださいね」
 清嗣と辰姫が空を飛んで帰っていった。
 二人を見送ってから、小屋に入る。床は板張りにしてはいるがささくれだったところもあり、住み心地はお世辞にも良いとは言えない。だが、寝泊まりさえできれば十分だった。まきのすぐ傍にいる、それが重要であった。
 清嗣は小屋を出て、湖の方へ向く。
「まき、もう出て来ても良いぞ。二人は帰った。戻ってくることもない」
「…………」
 水面が波打つと、ちゃぷとまきが顔だけ姿を見せる。きょろきょろと周囲を見ていた。自分以外の人がいないか警戒しているのだろう。
「いない?」
「うむ。嘘は言わん」
 ようやく警戒を解いたのか、まきが湖から這い出てくる。濡れても決してふわふわがなくなることはない摩訶不思議な体毛。それは今日も健在で一目で良い感触なのがわかる。
「どれ、今日も梳いてやろう」
「うん」
 岸辺に座った彼女の背後に座り、清嗣は昨日と同じ櫛でその毛を梳き始めた。
「き、きよつぐ……あれは家?」
 指さす先は先ほど兄嫁たちを建てた小屋だ。家と呼べるほど立派な代物ではないが、突貫工事に加え素人三人での建築のため、あれでもよくやった方であった。
「うむ、そうだ。今後、俺はあそこに暮らすことにする」
「ど、どうして?」
「まきとなるだけ一緒にいられる時間を増やすためだ」
 まきがびくんと身体を跳ね起こす。櫛の歯を肌に刺してしまったかと危惧したが、そうではないようだった。
「あぅあぅあぅ、ぶぅぅ……」
 仮面を被って俯くまき。彼女のこの素振りは恥ずかしがっているときだと、さすがの清嗣も察しがつくようになっていた。
「どうせ家に帰っても寝るだけなのでな。それならば、寝る直前まで話せるようここに家を建てた方が良い。無駄がないだろう?」
「お、思い切りよすぎ……」
「回りくどいのは苦手なのだ。其方のことを好いているからな。好いている者と常に共にいたいと思うのは当然だろう?」
「ぶぅぅ……私も」
「私も?」
「な、なんでもない……!」
「そうか? なら良いが。そういえばまき。物凄くいまさらではあるのだが、このぴくぴくしているのは」
「ひゃんっ!?」
 清嗣が触ったのはまきの頭頂部にある二対の長細い物体。毛に覆われているがまるで独立しているかのようにぴくぴくと震えてもいる。
「あぅ、ここ耳だからぁ……」
「ほう。まるで尻尾みたいな耳だな」
「ひゃぅ、あぁぅ」
 耳の毛を櫛で梳きつつ軽く掻き分けると、確かにそれは獣の耳だった。犬のソレに近い。
「でもこちらにもあるのだな。人の耳が。どっちでも聴こえるのか?」
「う、うん。上の方が遠くの音までよく聴こえるよ。でも近くて細かい音は下の方が聴き取りやすい、かな」
「ほうほう」
「ひゃぁぁ〜、あぅあぅ、指で弄らないでぇ」
「いやいや、髪で聴き取りにくいかと思ってだな」
「か、感じちゃうからぁ」
 悩ましい声を出すまきに仕方なく、清嗣は耳元の髪を弄るのをやめる。
「あ……」
「どうした?」
「な、なんでもないっ」
「そうか」
「み、耳は、その、触ってもいいけど……言ってから触ってね」
 顔は見えない。だが、顔を赤らめているのはありありとわかった。
「うむ、ならいまから」
「い、いまはだめ……!」
「そ、そうか?」
 再び清嗣は櫛をまきの髪や体毛へと流していく。癖は強いが、引っかかることは決してない。
 この櫛にも実は髪の妖怪毛倡妓の妖力が込められ、梳かれた髪を綺麗にする効果がある。しかしそれを抜きにしても、まきの髪や体毛は綺麗で触り心地も抜群であった。幾ら触っても飽きることがない。常にこうしていたいとさえ思う程である。
 おそらくは髪を梳く必要などないのだろう。だが、こうしている時間は幸せだった。
 話題がなくとも、会話が生じなくても、緩やかに流れている時を楽しめる。
 湖面で揺れるさざ波の音。周囲の森の木擦れの音。鳥のさえずり。湖で跳ねる魚の水音。それらが自分たちを包み、二人きりの時間と空間を作ってくれている。
 こうしていられるだけでも、清嗣は幸せであった。
 まきもそうであれば良いと、ひたすら願う。いつかこの自分の想いを受け入れてくれて、真にこの時間を永遠のものとできる時間が訪れるのを、清嗣は夢見た。
 想いが届くよう櫛を流しながら。
18/07/15 22:32更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
久しぶりの更新でした。
お楽しみ頂ければ幸いです。
後編は来週の日曜予定です。

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