連載小説
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第十三話 『グラスを』
 ……一九四五年 二月十三日。イギリス及びアメリカ軍はドイツ東部の古都・ドレスデンに爆撃を決行した。
 重要な軍事施設は無く、保護されるべき文化財が多数存在するこの町が攻撃を受けるなど、我々ドイツ人は思ってもみなかった。だからこそ、私の家族もあの町に疎開していたのである。
 それにも関わらず、奴らは大型爆撃機を千機以上用意し、数回に渡って無差別爆撃を実行。エルベ河畔のフィレンツェと讃えられた古都は灰燼と化した。ただでさえ我が国の敗色は濃厚な時期に、戦略的には全く無意味な爆撃で。
 シュトルヒでかの町に降り立った私の見たものは……焦げた肉片と化した、家族の姿だった。

















 ――フィッケル中尉……ドレスデンで死んだ君の母親はユダヤ人だったらしいな――



 ――そして君の勲章は、去年亡くなったロンメル元帥から渡されたものだ――



 ――元帥の死の真相が、反逆罪で自決に追い込まれたのだと知っていたかね?――



 ――実はな、君に総統暗殺計画に関与した嫌疑がかけられている。今になってな――



 ――残念ながら君の弁明を聞いても、私にはどうすることもできない――



 ――だが逮捕命令が出る前に君が任務に飛び立ったとすれば……どうだね――



 ――そう、シュトルヒは鈍足で航続距離も短い。逃げ切ることなど不可能だろう――



 ――ただ君ほどのパイロットを地上で死なせるのは忍びない――



 ――要するに、地上で吊るされて死ぬか、薄汚いコウノトリと添い遂げるか――



 ――選びたまえ。私に言わせる気か?――












 ――閉じこめられた――



 ――この空の中に、この操縦席の中に――



 ――もう……どこにも降りられない――









 …………

















 目を開けたとき、自分が何処にいるのか分からなかった。祖国か、それともアフリカか、イタリアか。どれでもないことくらい明白だったが、理解するのに少し時間を必要とした。
 灰皿には折れた葉巻が転がっている。微かに甘い香りを立ててはいるものの、火の消えた灰が妙に空しい。寝汗の感触も不快だし、そして何よりも、テントの布から透ける朝日が目に染みた。なんという鬱屈とした朝だろう、この私が飛ぶ気さえ起きないとは。
 とりあえず体を起こすものの、後悔と自責の念ばかりが浮かんできた。そしてレミィナの姿……直接見てはいないが察することはできた、あの泣き顔も。

「……姫」

 レミィナは私を愛していると言った。だが私は応えられなかった。全てを失った記憶が、彼女に近づくことを恐怖させたのだ。正確には……また失うことを。

 私はどうすればいいかと言えば、当然彼女に謝るべきだ。しかし、しかし合わせる顔がない。というより、顔を合わせるのが怖い。彼女の真っ直ぐな思いを拒絶し、その翌朝にどの面を下げて会えばいいのか。なんと情けないことだろう。対空砲火をかいくぐり、戦闘機をやり過ごし、数回撃墜されても生き残った男が一人の女性を恐れるとは。私が恐れる女性など、母一人で十分だろうに。

 ……母ならこんな時になんと言っただろうか。めそめそするなと叱りつけられるのは間違いない。
 幼少期、私はかなり臆病な性質だった。笛の音が聞こえるたびにハーメルンの笛吹きがやってきたのではと思い、耳を塞いで怯えていた記憶がある。母はそんな私を見て笑いながら、こう言った。
 「めそめそするな、お前は強い子だ。何せ私の腹の中で、数千万分の一の確率を勝ち取って生まれてきたんだからね」……と。私がその意味を理解したのは、コウノトリが赤ん坊を運んでくる話が嘘だと知ったしばらく後のことだった。
 豪放磊落な母のおかげか、後に生まれた妹を守らねばという考えからか、私は次第に強気な性格になっていった。友達だったガキ大将が喧嘩に負けたら翌日敵討ちに行ったし、妹をいじめた奴はその日のうちに後悔させてやった。学生時代は私が半分ユダヤ人であることを馬鹿にした先輩を完膚なきまでに打ちのめした。だが空軍に入ったのは軍人になりたかったからでも、国家の思想に傾倒したわけでもない、飛行機に乗りたかったからだ。そして激戦を生き抜き、家族も戦友も失い、何の冗談か異世界に漂着し……

 ――私は強くなれたのか?――

 自然と、手が握り拳を作っていた。そういえば、私が軍人になったとき母に何か言われた気がする。そう、確か……

「……言い訳をするな、大口を叩くな、やることをやれ」

 口に出して、ふと苦笑が浮かんだ。確かこの言葉の後に、「それが良い男ってもんだ」と続いた気がする。
 結局キャベツ頭の私にできることなどそれしかない。どんな顔をして会えばいいのか? 私の顔など仏頂面か薄ら笑いしかないだろうに、何を迷う?

 後先考えるのは止めよう、今できることをしなければ。簡単に身支度を済ませ、私はテントから足を踏み出し……



「てりゃあああ!」
「ごはッ!?」


 ……直後、暴風のごとく突っ込んできた物体に直撃した。空で鍛えた反射神経で咄嗟に抱きとめたものの、衝撃が内蔵まで伝わった気がした。さらにそれは私の腕の中でじたばたと暴れる。

「ぬう〜、このヴェルナーめ!」
「……おはようございます、姫」

 藻掻くレミィナからはアルコールの臭いが漂っていた。気だるそうな表情で、赤い瞳もどろりと濁っているように見える。

「二日酔いですか?」
「もう酔ってな〜い……酔ってないけど気分悪っ……うぇっぷ」

 少し大人しくなったかと思えば、明らかに青ざめた顔でもたれかかってくる。昨晩あの後に相当飲んだのだろう、改めて罪悪感に苛まれる姿だ。普段凛々しく溌剌としている彼女がこうもだらしない姿になるとは。謝るのは後にして、とりあえず肩を貸すことにした。レミィナの腕を私の背中側に回して掴まらせると、彼女はまた不機嫌そうに呻いた。

「う〜、一人で歩けるってば……」
「いいから大人しくしていなさい」
「このキャベツ頭めぇ、せめてお姫様抱っこくらいしてみなさいよ……わたし本物のお姫様なのにされたことないよ、コノヤロウバカヤロウ」

 レミィナは悪態をついているが、私は『お姫様抱っこ』というのが何なのか知らなかった。だらりとした彼女を肩にぶら下げ引きずりつつ、テントへ戻る。とりあえず彼女を寝かせ、仲間達から二日酔いに効く物をもらってくるとしよう。幸いこの町にはウスターソースもあるそうだし、以前捕虜のアメリカ兵から教わった物でも作るか。彼女をこんな状態にしてしまった責任は私にあるのだから、親衛隊の面々、特にエコーには殴られることくらい覚悟しなくてはならないが。

「ほら、少し横になっていてください」

 テントの中で手を離すと、レミィナは不貞腐れたように寝転がった。一人で残して行くのに不安はあったが、とにかく酔い覚ましの材料を取ってくるのが先だ。なんと言うか、こんな姿の彼女を見ていたくはない。

 ……つまり結局私も、彼女に惹かれていたということだ。

















「おはようございます。いきなりですがグラスはありますか?」

 そう言ってサーカスのテントに入った瞬間、冷たい視線が私に集中した。予想はしていたが、特にエコーの視線が厳しい。朝食の準備をしている他の面々も刺すような目で私を睨んでいるが、その中からエコーが私に歩み寄り、口を開いた。

「飲み物の前に、言うことはないの?」

 小さめの手が、私の胸ぐらを掴む。エコーの灰色の瞳にははっきりと怒気が感じられた。少なくとも見た目は私より年下の少女であるが、ともすれば圧倒されてしまいそうな気迫である。

「お嬢は心底、あんたのことが好きなんだよ……そりゃ、あんたがそれに応えるのは義務じゃないけど……」
「……応えるのが嫌だったわけではありません」
「なら、どうして!?」

 エコーは声を荒げた。

「向き合えなかったのです」
「……向き合えなかった?」
「主に過去、未来と。それから悲しみ、後悔とも。そんなところでしょうか」
「意味が分かるように話してくれる?」

 彼女は苛ついているようだが、私としてはここで長々と話をする気にはなれない。用件を済ませてからにしなくては。

「そんなことより、グラスをいただきたい。それから生卵に、胡椒、酢、ウスターソース、あとケチャップもお願いします」
「……殴られたいならそう言えっての」

 辺りをつつむ怒気が殺気に変わり始めた。周りの連中に至っては剣を抜こうとする奴もいるが、どうということはない。たかが刃物が怖くて空軍士官が務まるか。

「姫が、待っていますので」

 はっきりそう伝えると、エコーはむっと口を噤んだ。胸ぐらを掴む手がゆっくりと離れる。

「……用意してあげて」

 エコーに命じられ、背後にいたワーキャットが不満そうにテーブル上の調味料を集め始めた。他の面々もひとまず静まってくれたようである。
 集められた材料を盆に乗せ、エコーはじろりと私を見た。

「私も一緒に行く。またお嬢を泣かせたらぶっ飛ばすから」
「了解。お願いします」

 彼女が着いてきてくれるなら少しは安心だ。
 ふと、テント内に格納してあったシュトルヒに目をやる。我が愛機は翼をたたまれた姿で静かに鎮座しているが、あいつは元々私と共に祖国の空で散るはずだったのだ。それが鉄十字も鉤十字も取り去られ、新たな紋章と共に別世界の空を飛ぶことになった。何の運命かは未だに分からないが、もしかしたら私はやり直すチャンスを与えられたのかもしれない。自分はまだ飛べる、だからお前も頑張れ……シュトルヒがそう言っているように思えた。

 私を支えてくれる愛機に感謝しつつ、尚も怒りの視線を投げかけてくる隊員たちを尻目に、さっさとテントから出た。エコーは何も言わず、私の隣を歩いている。未だ私に対して怒りを抱いているだろうが、私としては彼女に謝っても仕方のないことだ。黙ってやることをやるしかない。太陽は次第に高くなっており、町の時間は動き出していることだろう。そんな中でレミィナの時間を二日酔いで止めるのは嫌だ。

 私のテントの入り口にくると、微かに息づかいが聞こえた。どうやら大人しく休んでくれていたらしい。

「……ヴェルナー。私もみんなも、少しカッとなったけど」

 エコーの滑らかな声が背後から聞こえ、私は足を止めた。

「あんたが辛い思いをしてきたことは、お嬢も含めてみんな分かってる。何か背負っていることも」
「……分かりますか」
「元の世界に二度と戻れないかもしれないってのに、全く未練無さそうじゃん。何かトラウマの一つでも抱えてるって考えるのが自然じゃない?」
「ええ、おっしゃる通りです」

 そこまで感づかれていては、隠しても仕方のないことだ。

「背負った過去は死ぬまで引きずっていくつもりです。ですが過去は過去として、この世界でできることはあるかもしれません」
「分かってるなら良し」

 軽く背中を叩かれた。それに後押しされたわけではないが、私は堂々とテントに入る。できることをやるために。

 レミィナはうつ伏せになって寝転んでおり、私たちが中に入ってもそのままの体勢だった。だが足を僅かに動かしていることから、起きてはいるようだ。
 台の代わりになるものを探し、とりあえず葉巻の箱を手に取った。それをレミィナの前にどさりと置くと、彼女はむくりと顔を上げる。虚ろな赤い瞳が私を見つめた。

「グラスを」

 声をかけるとエコーは盆を近くに置いた。葉巻箱にグラスを置き、中に入った卵を額に叩きつける。二つに割れた殻を使って卵白を取り除き、明るい健康的な色の卵黄をつるりとグラスに入れた。続いて盆の上に並ぶ調味料……ウスターソース、ケチャップ、酢を卵黄に少量ずつ垂らし、胡椒を軽く振りかける。これで完成。
 横で見ていたエコーが「おえっ」と呟く。レミィナもまた、このグロテスクなカクテルに眉を顰めていた。

「……何これ」
「プレーリーオイスターです。捕虜になった敵兵から教わったのですが、これを丸呑みすると二日酔いに効果があります」
「いらないっ!」

 即答だった。そっぽを向くレミィナに、エコーが苦笑する。

「お嬢、これでもきっとヴェルナーなりの優しさなんだから……」
「うるさい! キスの一つもしてくれないくせに、こんな気色悪いものを飲ませる優しさなんていらないわよ!」

 レミィナの手が葉巻箱を叩き、トッピングされた生卵黄がグラスの中で震えた。予想できた反応だったが、さてどうするべきか。こういうときにイタリア人の軟派な脳みそが羨ましくなる。あいつらは歯の浮くような台詞を機関銃並みに連発できるのだから。だが我々ドイツ人とて日本人ほど奥手ではないのだ、言葉が思いつかないなら行動で示すのみである。

 キャベツ頭をフル稼働させて考えた結果、レミィナの言葉にヒントを見出した。名案とは言えないが、他に方法が思いつかない。私は覚悟を決め……グラスを手に取り、中身を口に含んだ。
 そのままエコーに目配せする。なんとも利発的な彼女は私のアホらしい考えを察してくれたらしい。先ほどまでとは違う好意的な笑みを浮かべながら、レミィナの体を抱き起こす。露骨に嫌そうな顔をするレミィナだったが、次の瞬間それが驚きの表情に変わっていた。

 私が彼女の唇を奪ったからだ。

「んむっ!? ん〜っ」

 艶かしく喘ぐレミィナを抱きしめ、卵黄を彼女の口へと押し込む。潰さないよう、慎重に。
 彼女が喉を鳴らして飲み下した直後、私の舌と彼女の舌が触れ合った。ぬるりと柔らかいものが絡み付き、口の中に入ってくる。唇の切ない柔らかさと相まって、不思議な快楽が広がっていく。
 レミィナはおねだりするかのように抱きついてくる。そのまましばらく愛のジェスチャーを続けていると、唾液が頬を伝い始めるのがわかった。ふいに唇が離れると、レミィナはその唾液をそっと舐めとってくれた。

 互いに呼吸を整え、見つめ合い……レミィナは微笑んだ。

「……なんか、効いた」

 なんとも屈託のない笑顔である。その美しさに私はふと息を吐き、エコーは呆れたように苦笑した。

「まったく、しょうもないねー」
「姫のことですか?」
「ヴェルナーに決まってるでしょ」
「……あんたら両方だよ!」
12/08/18 20:30更新 / 空き缶号
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■作者メッセージ
Q.あまり話が進んでないように思えるのですが?
A.これ以上更新ペースがグダらないようにするためです。ご勘弁ください。

次回、多分最終回と相成ります。

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