連載小説
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ヴァンパイア少女と少年の夜
「お嬢様、お嬢様…」
高い声が、耳を打つ。幾度も繰り返される声に、彼女は心地よいまどろみから引き上げられていった。
「んん…」
小さく呻きながら彼女は身を起こした。
何か夢を見ていた気もするが、もう思い出せない。
胸元までを覆っていたシーツをのけながら、彼女は伸びをした。
背中に届くほどの緩やかにウェーブのかかった金髪が、さらりと純白のネグリジェにこぼれおちる。
「ん…」
微かに眠気の残る目を開くと、分厚いカーテンが窓を覆い、高価な調度品の並ぶ部屋がぼんやりと目に映る。やがてぼやけた景色が焦点を結び、ベッドの傍らに立つ執事の格好をした少年の姿が視界に入った。
「おはよう、セフ」
「おはようございます、お嬢様」
彼女の言葉に少年、セフは一例と共に挨拶を返した。
「今日は、午後に旦那様がお戻りになられ、夕刻よりシトート氏と会食の予定が入ってます」
「そう、と言うことは午前中はゆっくりできるのね」
少年の告げた簡単な予定に、彼女はそう返す。
「いえ、会食のためのドレスの選定など、いくらかやるべきことがありますから…」
「分かってるわよ。それより、お腹がすいたわ」
「分かりました。朝食を運ばせます」
「そっちじゃないわよ」
一礼し、退こうとした少年に向けて、彼女は続けた。
「ほら、出しなさい」
「…はい…」
少年は彼女の言葉に顔を赤らめつつ、彼女に向き直ると、ズボンの前に手をやった。
そして、ズボンの合わせ目を開いて、年相応にやや小ぶりの屹立を取り出す。
色の白い包皮の先端が広がり、桃色の亀頭が半ばまで露わになっていた。
「……」
「何じっとしてるの?もしかして、私の手を借りたいのかしら?」
「い、いえ!」
少年は慌てたように頭を左右に振ると、肉棒に添えていた指で屹立を包むと、ゆっくりと動かし始めた。
「…」
少年の呼吸音と規則的な衣擦れの響く中、少女はじっと目の前で扱かれる屹立を見ていた。
見られている、という事実によるものか、少年の呼吸が荒くなり、頬が紅潮していく。
やがて、肉棒全体がぴくぴくと痙攣を始めた。絶頂が近いのだろう。
「そろそろね」
彼女はそう呟くと、少年の屹立に顔を寄せ、上目づかいに少年を見上げながら続けた。
「一滴でもこぼしたら…分かってるわね?」
高価なネグリジェに、シーツに彼女の肌。劣情を煮詰めた白濁で汚していいものは、一切存在しない。
少女は、白濁を放つ許可も兼ねて、少年の肉棒の前で口を開いた。
つつましげな形をした桜色の唇が上下に開き、濡れた舌が差し出される。
桃色の舌と口腔が晒された瞬間、少年は身を強張らせ、屹立を強引にそちらに向けた。
直後、少年の手の中で屹立が大きく脈動し、震えながら白濁をほとばしらせた。
ともすればあらぬ方へと迸りそうになる劣情を、少年は懸命に押さえ込み、少女の口腔に向けて放った。
突き出された下の上に、ぷりぷりとした粘液が積み上げられる。
「…っ…っ…っ…!」
セフは小さく声を漏らしながら文字通り精液を絞り出す。
やがて、肉棒の脈動が弱まり、射精が収まっていく。そして最後に、いくらか柔らかくなった肉棒を扱き、尿道に残った残滓も舌の上に搾りだした。
「はぁはぁ…」
荒く呼吸する少年をそのままに、少女は口を閉ざし、舌の上で白濁を転がした。
仄かな苦みを含んだ、噛めるほど固い粘液。
歯にまとわりつき、舌に絡みつく精液を、鼻腔へと抜ける香りと共に彼女は味わった。
やがて口内で転がし、たっぷりの唾液と絡めてから、彼女は喉を鳴らして嚥下した。
「ん…美味しかったわ…」
「はぁ、はぁ…ありがとうございます…」
少女の評価に、セフはそう返した。
「朝食は下で食べるわ。着替えるから準備しておいてちょうだい」
「は、はい!」
彼は肉棒をズボンの内へ収めると、朝食の準備をするためか部屋を飛び出して行った。
「……」
少女はしばしの間彼が出て行った扉を見つめると、ベッドを下りて衣装ダンスに歩み寄り、ネグリジェに手を掛けた。
ネグリジェの下から、雪のように白い肌が現れた。生まれてこの方一度も陽光に晒されたことのないような白い肌だ。
きめ細かい、最高の絹織物を連想させるその肌は、ある意味その通りであるといえた。
なぜなら、彼女はヴァンパイアであったからだ。






ダーツェニカの期限は、街道が交差したところで開かれていた市場だった。
街道をたどって四方から品物を抱えた商人が集まり、取引を行い、各々帰っていく。
そんな場所だった。
だが、市場の巨大化と共に、この土地に建物を建てて店を構える商人が現れ始めた。
そして、市場街を訪れる商人達も、そう言った店を構える商人を相手に、あるいは仲介役にして商取引を行うようになっていった。
この時、建物を築いた職人たちと店を構えた商人たちが組織したのが、市場での商取引を監視・調整し、建物の管理や建築を行う商工会だった。
そして現在、聖都や王都に匹敵するほどの発展を遂げたダーツェニカにおいて、商取引と建造物を司る商工会は、街の支配者に等しかった。
そんな商工会に加入する条件はただ一つ。ダーツェニカの発展に寄与することが可能な人物であること、である。
そしてイアン・ヘドリックは、その単純でありながらも難しい条件を満たそうとしている商人の一人であった。
「ふゥ、暑い暑い」
馬車の中、窓を開けて風を入れながら、ヘドリックは手にしたタオルで首元を拭った。
ふんわりとした柔らかな生地が、汗を吸って濡れていく。
実際のところ、外は過ごしやすい程度の気温なのだが、あまり風の通らない馬車の中であることと、彼の体型が熱を蓄えこんでしまっているのだった。
「もうすぐでお屋敷でございます」
「そうか」
向かいの席に腰掛ける執事の言葉に、ヘドリックは応じた。
鉱石の買い付けと鉱山の視察で、一月ほど屋敷を離れていた。
これでダーツェニカの出身ならば、「我が家が一番」という感想も抱くのだろうが、残念ながらヘドリックの故郷は違った。
だがそれでも、彼には屋敷に帰ることに、一つの楽しみを抱いていた。
石畳の上を馬車が進み、がたがたとゆれる。開け放たれた窓からは、風と共に客引きや値切り交渉の声が入ってくる。
やがて、馬車は商店の並ぶ区画を通り抜け、大きな屋敷の並ぶ高級住宅街、通称邸宅街に入って行った。
ぴったりと組みあげられた石畳のおかげか、馬車の揺れはかなり小さくなっていた。
馬車は住宅街をしばし進むと、全ての窓が分厚いカーテンで覆われた屋敷の門扉で止まった。
「ヘドリック様のお帰りだ」
「はっ」
馬車の御者と門番が言葉を交わし、門扉が開く。
開け放たれた門から馬車は屋敷の敷地に入り、屋敷の前で止まった。
「到着しました」
執事の言葉の直後、御者が馬車の扉を開いた。
さわやかな風と共に、陽光が馬車の中に入り込む。
「よっと…」
ヘドリックは馬車を降りると、腹を揺らしながら進んだ。
屋敷の扉が開き、エントランスホールと左右に整列する使用人たちが彼を迎える。
ヘドリックは使用人たちの奥に、執事服を纏った少年と、長袖の紺色のドレスに手袋を身につけ帽子を目深にかぶった少女の姿を見つけると、肉のついた頬を可能な限り釣り上げて笑みを浮かべた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
使用人たちの出迎えを受けながら、彼は屋敷に入り扉を閉めさせた。
「ただいま、ステア」
「おかえりなさい、パパ」
日光を避けるようにしていた少女が、帽子を脱ぎつつヘドリックにそう呼びかけた。
帽子の下から、背中に届くほどの金髪が現れ、さらりとドレスにかかる。
「お仕事、どうだった?」
「ああ、上手くいったよ。これで安定して鉄鉱石が仕入れられるようになった」
歩み寄り、傍らに並んで歩くステアの肩に手を回しながら、彼は上機嫌に言った。
「それで、今度はどれぐらいダーツェニカにいられるの?」
「残念だけど、明日にはまた出ていくよ。南の方の鉄鉱山を押さえないといけないからね」
肩を掴むようにしながら、彼は残念そうに答える。
「その代わり、今日と明日の出発までは…ね…?」
「ふふ、楽しみ」
今にも舌なめずりをしそうな様子で語りかけるヘドリックに、ステアはそっけない様子で応じた。
その様子は父娘と言うよりもむしろ、愛人を囲っている男のようであった。事実、その通りである。
ステアは、ヘドリックがこのダーツェニカで『購入』したのだ。綺麗なドレスを着て、ダーツェニカの屋敷に住んでいるとはいえ、その身分は実のところ奴隷と変わらない。
ヴァンパイアである彼女には、この場でヘドリックの首を引き抜き、逃げ出せるだけの力はあった。だが、彼女を囲む周りの状況が、それを許さなかった。
ヘドリックが有力な商人であることは、殺害後はダーツェニカの衛兵たちから追いまわされることを意味する。
更に、ダーツェニカには魔物達の互助組織『人間会』が存在する。人間会は、ダーツェニカにおける魔物の保護と統率を目的としている。
具体的には、ダーツェニカで面倒事を起こさぬよう、魔物に仕事と住処を世話している。
ヴァンパイアのステアの場合、人間会では日光に肌を晒さなくてもいいように、酒場での住み込みの仕事を準備していた。
だが、話を聞いたヘドリックが彼女をいたく気に入り、人間会への資金提供を行う代わりに彼女の保護権を手に入れたのだ。
仮に、彼女がヘドリックを傷つければ人間会に迷惑がかかるどころか、離反者に対する制裁が待っているだろう。
もはや彼女にとって、この屋敷でたまにヘドリックと暮らすのが仕事なのだ。
ヘドリックの部屋へと屋敷の廊下を進みながら、ステアは内心の嫌悪感を完璧に隠していた。
「そういえば、今夜はシトート氏との会食だったな」
ふと、ヘドリックが思い出したように口を開いた。
「はい、セフから聞いてました」
「シトート氏は商工会の重鎮だからな、失礼の無いようにするんだぞ」
「はい」
ダーツェニカの誰もが知っている人物との会食に対する当たり前の注意に、彼女は応えた。
「それと、せっかくの会食だからな、下手な格好では申し訳が立たない。後で一緒にお前が着ていくドレスを選ぼうとしようか」
ぐへへ、と下卑た笑みが後に続きそうな表情と言葉だった。
だが、ステアは内心の嫌悪を完全に隠したまま、口を開いた。
「はい、ぜひお願いします、パパ」
そう言い、行動することが彼女の仕事だった。




屋敷の使用人たちと共に整列し、ステアとヘドリックの乗った馬車を、セフは見送った。
二人がシトート氏の屋敷に向けて出発した時は火がまだ高く、ステアはドレスの上に外套を羽織り、帽子と日傘で日光から身を守っていた。
馬車の窓にはカーテンが下ろされているため、馬車の中で日光を浴びることはないだろう。
その代わり、熱がかなり籠りそうではあるが。
セフ達使用人は馬車の見送りを済ませると、残っていた仕事を片づけ、使用人たちで夕食をとった。
そしてそれぞれ主人の帰宅を待ちながら、ある者は明日の仕事の準備をしたり、ある者は休息を楽しんだりしていた。
セフの場合、ステアの世話が仕事のため、彼は使用人の休憩室で新聞を読んでいた。
とはいっても彼が読んでいるのは、紙面の大部分を占める傭兵などの求人や商取引広告などではなく、最近の出来事をまとめたページだった。
数年前までならば、どこで火事が起こっただとか、豪商の誰かと誰かが業務提携を行うようになっただとかいった記事ばかりで、セフの気を引くような記事が載っていることは少なかった。
だが、最近紙面を賑わせているのは、そのような記事ではなかった。
「えーと…『バードマンとソードブレイカー 対に決着!  か?』と『恐怖の獏仮面 脳を啜る陰獣現る』」
セフは目に飛び込んでくる見出しを読み上げた。
人前で口に出せば、正気を疑われるような文面だが、確かに新聞にはそう記されていた。
少年は興味の赴くまま、記事を読む。
『バードマンとソードブレイカー〜』は、連続斬殺魔のソードブレイカーが自警行為を行っているバードマンと交戦し、もう少しで逮捕というところまでソードブレイカーが追い込まれたという内容だった。
ダーツェニカの治安維持のため、単独で犯罪組織に戦いを挑むバードマンと、ふらりと酒場などに現れ、特に意味もなくその場にいる者を切り刻むというソードブレイカー。
二者の善悪は明らかだが、目撃者の証言を基に描かれたという想像図は、鳥人間とも言うべき黒衣の人物と、両手首から先が長剣と化したカマキリのような男が、嘴と刃を交えている様子だった。
もう一つの記事の方は、人の頭骨に穴を穿ち脳を奪うという怪人が、『また』現れたことを報ずるものだった。
記事中では被害者がどのような状態だったかを緻密に描写しており、『遺体のもたれかかった壁には、血でSleep In Peaceと大きく記されていた』の一節には血の臭いがするようだった。
そして記事に添えられた、目撃者の証言を基に描かれたという『針のように細長い口吻を持ち、らんらんと両眼を輝かせる』獏仮面の想像図が、おどろおどろしさを煽っていた。
他のページの、無味乾燥な求人情報や物品の買い取り募集とは異なる、読者の好奇心を煽るために推測を交えた文章であった。
ある程度の常識を身につけた者ならば鵜呑みにはせず、鼻で笑うような内容である。
勿論セフも、あくまでも読み物として、怖い噂話の延長線としてその記事を愉しんでいるにすぎない。
魔王の交代から十数年、こんな格好の人間や魔物が実在するはずがないからだ。
記事を一通り読み終えたところで、休憩室の扉が開いた。
「おう、お疲れ」
「あ、お疲れ様です」
屋敷で働く料理人の一人が、セフとあいさつを交わした。
「いやあ、お嬢様がいないと料理も楽でいいなあ。お前もそうだろう?」
「まあ、そうですね」
若い料理人の言葉に、彼は苦笑いで応じた。
「俺達には口だけだけど、お前はモロお嬢様の近くだからなあ。辛くないか?」
「辛くない、とは言えませんね」
「よく我慢できるよなあ、俺だったらとっくに逃げてるよ」
「まあ、逃げたら代わりの人がかわいそうですからねえ」
苦笑いで、セフは応えた。
そう、おそらく自分の後任になるであろう、ステアの世話係が彼女に耐えられるはずがないのだ。
ここで自分が耐えなければ、未だ見ぬ後任がかわいそうだ。
それに加え、理由はもう一つあるのだが。
「お?帰って来たかな?」
門扉が動く音が微かに庭の方から響き、料理人が顔を向けた。
「それでは、お迎えに行ってきます」
セフは手にしていた新聞を畳んでテーブルの上に置くと、椅子から立ち上がった。
「つかの間の休息だったな」
「お嬢様が休まれてる間は無茶は言いませんから、今日はそれまでの辛抱ですよ」
「ハハハ、鬼の寝てる間になんとやら、か。まあ、頑張ってな」
「ありがとうございます」
セフは料理人に見送られながら、休憩室を後にした。




夕方ごろ日光を避けながらも一瞬目にしたはずのヘドリック邸が、夜月に照らされている。
ステアの目には、カーテンの下ろされた屋敷が心なしか小さく見えた。
無理もない。邸宅街でもひときわ大きい、下手すれば地方貴族の城より大きいかもしれないシトート邸に先ほどまでいたのだ。
比べる方が間違っているのだが、それでもステアは比べてしまっていた。
(それに、主も全く別物よね…)
先ほどの会食で同じテーブルを囲んだ、シトート商会の会長であるロック・シトート。
服の上からでも分かるほど鍛えられた三十手前の肉体は、歴戦の凄腕傭兵と紹介されても違和感がないほどだった。
腹や首に肉を付けた、四十過ぎのヘドリックとは全く別物である。
(はぁ…)
やたら思いヘドリックの身体の下で、ステアは胸中で溜息をついた。
「はぁはぁ…」
ヘドリックの寝室で、彼のベッドの側で始まった接吻は、いつの間にか接吻を越えた何かになっていた。
ヘドリックが額に汗の玉を浮かべながら、ベッドにあおむけになるステアにのしかかり、その整った顔に舌を這わせている。
ナメクジのような、微かに臭う唾液にまみれた舌肉が、ステアのきめ細かい白い肌の上を這いまわり、ねとつく体液の筋を残す。
ヘドリックの額に浮かんだ汗の玉が、重さに耐えかねて脂の浮いた肌を辿り、眉間を通って低い鼻先からステアの頬に滴り落ちる。
既にそこは彼の唾液に濡れており、塩気を孕んだ体液がねとつく体液に混ざっていく。
ヘドリックは彼女の顔から首筋に舌先を移動させており、舌を擦り付けながら時折唇で吸う。
そして、彼の太い指がもぞもぞとステアのドレスの上を蠢き、不器用に白い肌を包む布を取り除こうとしていた。
ステアは、彼の指の動きにその目的を察し、自ら肩を浮かせ身をくねらせ、ドレスを脱いだ。
寝室の薄闇の中、ベッドとヘドリックの巨体に挟まれる、白く細い体が浮かび上がった。
「はぁはぁ…」
ステアを裸にすると、ヘドリックは首筋への接吻を止めて、一度身を離した。
そして興奮に震える指先で、自身のシャツのボタンを外し始めた。
ステアはヘドリックの体重から解放されると、解放感と楽な呼吸を味わう間もなく、股間と胸元を覆う僅かばかりの布地に手を掛けた。
足を曲げ身を屈めながら、身体の曲線を強調するように、下着を脱ぐ。
そして胸元を覆う布を取り去り、スレンダーな裸身を闇に晒す頃には、ヘドリックも一糸まとわぬ姿になっていた。
白磁を磨き上げたような細身の彼女の身体と、肉と脂を薄く毛の生えた皮の下に詰め込んだヘドリックの身体。
薄闇の中、ヘドリックの肥満体がステアに覆い被さり、ベッドの上で重なった。
「ああ、ステア、ステア」
ヘドリックが呼吸も荒く、彼女の背中や尻をまさぐりながら声を上げる。
「お前は女神だ、お前は白磁の陶器だ、お前は楽器だ」
美辞麗句めいた意味の分からない言葉を連ねながら、肥満した男の太い指が身体を這いまわり、ステアの薄い胸や肩口、首筋を唇が這っていく。
「ああ、ステアステアステア…」
顔を逸らし、喉を晒してヘドリックに吸わせながら、彼女は物を考えるのを辞めた。
何も考えなければ、嫌悪もわかないからだ。
「ステア…吸ってくれ」
闇の中、ヘドリックがそう求める。
「頼む、君の甘い牙で、私の血を吸ってくれ…」
「首筋を…」
堪えきれない、と言った様子の彼が、ステアの求めに応じたぷたプとした首を彼女の口元に差し出した。
彼女は彼の身体の下で、どうにか姿勢を調整すると、でっぷりとした首筋に口を寄せ、唇を添えた。
汗が滲んでは乾いてを繰り返した塩辛い皮膚を、彼女の牙が食い破る。
「ああ…」
皮膚が破れる痛みにヘドリックが全身を一瞬震わせ、直後に血流kら体内に注ぎ込まれた魔力と彼女の唾液に、彼は陶酔の声を漏らした。
痛みを麻痺させ、快感を呼び起こし、相手を隷属させるヴァンパイアの魔力。
しかし、今回は量をぎりぎりまで調整し、隷属は起こさないようにしている。
あくまでもステアの主人はヘドリックであって、魔力による主従の逆転は人間会でも認められていないからだ。
「……」
ステアはしばし魔力を送り込むと、口中の傷口から血を啜った。
生臭い鉄の味が、彼女の口腔に広がる。
「うぉっ、おおっ、おう…!」
一啜りごとに、彼女にのしかかる肥満体が声を漏らし、ぶるりと身を震わせた。
傷口の痛みが無ければ、血を吸われるというのは心地よいものなのだ。それに加え、彼女は唾液とともに快感を煽る魔力も注ぎ込んでいる。
ステアの飼い主であるヘドリックが、吸血の魅力に囚われないわけがなかった。
「おぉ…うぉぉ…」
血を少し吸っては飲み下し、を繰り返すたびに、ヘドリックは射精するかのように体を震わせている。
出血を通じて、精液を搾り出すよりも、より直接命を搾り出しているのだ。
だが、ステアにとって彼の血液の味わいは、彼が命を搾り出したに見合うものとは言えなかった。
脂っぽいのだ。
全身の肉の脂が溶け出しているのか、それとも血液から脂が全身の肉へ届けられているのか、ステーキ皿に残った肉汁のように脂の臭いが血から溢れている。
傷口から血を一口口中へ吸い出すと、にちゃりと血液が口内に纏わりつく。
その生産者のように粘着質な血液は、彼女の歯の隙間や舌の裏側に潜り込み、脂独特のべとつきでもって舌に膜を張った。
口を離し、吐き捨てたい衝動に駆られるが、ステアは強引にその衝動を抑え込んで血液を口内で丸め、喉の奥へと送り込んだ。
舌の上の細かなざらつきのはざまに入り込み、深く深く脂の根を残して、血は彼女の胃袋へと収まった。
いつまでたっても腹の中で落ち着かず、胃の動きに合わせて血がごろごろと動く。
豚の脂身を塊で食べてしまったのではないか、と錯覚しそうなその感覚を無視して、ステアは次の一口を吸った。
「うぉぉぉぅ…!」
彼女の腹に、半ばまでが下腹部の肉に埋まった屹立が押し当てられ、ステアの啜りに合わせてびくびくと震える。
ステアの引き締まった腹と、ヘドリック自身の肉のついた腹。二つの腹に挟まった肉棒が、吸血の快感と合わせてついに限界を迎える。
彼女の腹に、熱い物が迸る。
ねとねとした粘液と、口腔への脂血、全身から滲む粘つく汗。
ヘドリックの体液に、彼女は身体の内と外から塗れていた。





ステアがヘドリックの寝室を出たのは、ヘドリックが力尽きて眠りこんだ頃、日付が変わったぐらいだっただろうか。
本来ならば翌朝までいるべきなのだろうが、どうせ朝食の時間まで寝ているのだ。先に起きて身だしなみを整えていた、とでも言えばいい。
彼女はあらかじめヘドリックの寝室に用意していたローブをまとうと、鼾を背に彼を起こさぬようそっと扉を開けた。
「お待ちしてました」
扉の前、廊下に立っていた執事服の少年が、ステアに向けてそう言う。
「…湯浴みの用意を…」
「もうできています」
大して驚いた様子の無いステアの言葉に、セフはそう応じた。
「ドレスはどうしましょうか」
「明日の朝でいいわ」
廊下をゆるゆると進みながら、ステアは寝室に残してきたドレスの処遇について応えた。
「分かりました。明日、旦那様がご起床されてからにします」
そのまま二人は、無言で足を進めた。
廊下を進み、やがて二人は浴室にたどり着く。
扉を開くと、脱衣所の向こうに湯気に曇るガラス戸があった。
ステアは脱衣所に足を踏み入れると、ローブの腰を結ぶ紐をほどいた。
しゅるり、と乾いた衣擦れが響く。
「…着替えを用意してまいります」
彼女の裸身が晒される前にこの場を離れようと、セフがそう口にした。
「待ちなさい」
しかし、ステアが言ったのは許可の言葉ではなかった。
「私の入浴を手伝いなさい」
「し、しかし…」
「許可するわ」
ローブを脱ぎ、セフの方に白い背中を晒しながら、彼女は続けた。
「着替えの用意は、私が湯船で温まっている間にしなさい」
「は、はぁ…」
「ほら、とっとと脱いで準備しなさい。私が風邪をひくわよ?」
「…分かりました」
セフはそう応えると、手早く身を包む執事服を脱いだ。
そして、皺にならぬ程度に簡単にたたむと、彼は前を隠しながら気を付けの姿勢を取った。
「お待たせしました」
「入るわよ」
既にローブを脱ぎ去り、一片の羞恥もなくセフに裸身を晒しながら、浴室の扉を示した。
ゆっくりとステアが歩きだすと、セフは先に進んで浴室の扉を開いた。
もわり、と浴室に籠っていた湯気が脱衣所に溢れ出す。
ヴァンパイアの少女が柔らかな明かりの灯る浴室に入ると、遅れてセフも中に入った。
「ふう…」
ため息めいた吐息を漏らしながら、湯船の側に置かれた椅子に腰を下ろす。
「失礼します」
少年は足を曲げて前を隠しながら屈むと、手桶に湯船の湯を汲み、指先で温度を確かめてからステアの肩口にゆっくりと掛けた。
「ん…」
「あ、すみません、熱かったですか?」
少女の漏らした声に、セフは慌てたように問いかけた。
「いえ、いいわ…続けなさい」
程よい温もりに思わず声が漏れてしまったことは言わずに、彼女は促した。
「はあ…」
セフは特に問題が無かったことに胸を撫で下ろし、少しだけ勢いを弱めて手桶を傾けた。
湯が、二人分の汗にまみれた少女の肌を流れ、半ば乾いた体液を流し、身体を温もらせていく。
ステアの体温が上昇し、白磁の如き肌に赤みが差し、いまだ濡れていない顔に汗の艶が浮かぶ。
「それでは、洗わせていただきます」
全身の垢を程よく浮かせたところで、セフは手桶を置く。
代わりに手に取ったのは石鹸だが、タオルは持っていない。
以前ステアに、身体を洗う時は素手で、と指定されたからだ。
彼女の皮膚が弱いからとも、少女の裸身に直接手を這わせる興奮を堪える様を見たいからだとも、理由は考えられた。
「……」
セフは石鹸を擦り、たっぷりと泡立てると、椅子に腰を下ろすステアの背中に目を向けた。
そして、僅かに震える泡にまみれた手で、彼は彼女の肌に触れた。
「……」
無言のまま、直接肌と掌が触れ合わぬよう、泡を挟んだままゆるゆると擦る。
背中から肩へ、肩から腕へ、腕から脇へ。
泡で彼女の肌を清めながら、セフは可能な限り心を抑え込んでいた。
興奮を煽らぬよう、平静を保ちながら、彼女の身体を洗っていく。
「…ちょっと」
「は、はい!?」
裏返った声で、ステアの呼びかけにセフは応えた。
「背中とか腕ばっかりじゃなくて、前も洗いなさいよ。私疲れてるんだから」
「は、はい…」
恐る恐る、と言った様子でセフはステアの横に回り、彼女の身体に触れた。
まずは腹。引き締まった腹を泡にまみれさせ、汚れを落としていく。
腹を終えると、セフはふと手を止めた。文字通り一瞬の逡巡を経て、次はどこを洗うかを見定める。
次は、足だ。
太ももを洗おうと、彼は手を腹から離した。
「胸は洗わないの?」
彼女の言葉に、セフが動きを止める。
「さっきパパに何度も吸われてたから、むしろよく洗ってほしいぐらいなんだけど」
つい先ほどまで、あの巨体の下に敷かれていた四肢を撫でながら、彼女は続ける。
「ほら、手を貸して」
「あ…」
宙ぶらりんだった泡まみれのセフの手を導き、自身の薄い胸に押し当てた。
「あ…」
「パパね、さっきまで私を抑え込んで色々なことをしたのよ」
少年の手を石鹸の塗られたタオルか何かのように、自身の身体を拭いながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「まずはキス。そのまま顔を舐め回して首筋から胸へ。そしてあのぶっとい指で、胸を揉みながら吸ったりしたのよ。こんな風に」
手に握った、セフの泡まみれの手を自らの胸に押し当てた。
「!」
「ふふ、揉んだわね?」
セフが思わず指を動かしてしまったことに対し、彼女は口の端を釣り上げた。
「そ、そんなわけでは…!」
「いいのよ、まだ終わりじゃないし」
謝罪の言葉とともに、泡にまみれた手を彼女の胸元から離そうとするセフを、彼女は離さなかった。
「胸をいじりながら、パパは他の所も触ったわ。背中とか、尻とか、太ももとか」
口にした部位に手を移動させる代わりに、薄いなりにも柔らかな乳房を味あわせるかのように彼女はセフの手を押し付けさせ、小さく動かした。
少年の掌の形に合わせて、柔らかな肉が形を変え、彼の意識に泡のぬめりと合わせて柔らかさを刻み込んでいく。
「好きなように、やりたいように、思いのままに、パパは私をまさぐったわ。そして、ガチガチになったあれを私のお腹に押し付けながら、『吸ってくれ』って言ったのよ」
胸に触れさせたまま、もう一方の手を彼女はセフの首に回し、抱き寄せるようにしながら囁いた。
「だから吸ってやったわ。こんなふうに」
直後、彼女の唇がセフの首筋に寄せられ、牙がその皮膚を破った。
「っ!」
痛みに彼が声を漏らし、身を引こうとした。
しかし彼女の両手は彼を逃さず、牙が抜ける様子もなかった。
彼女は十分に牙を皮膚に埋めると、溢れ出す血の代わりに魔力を注ぎ込んだ。
痛みを紛らわせ、快感を煽るものの、従順にはしない。ヘドリックに注いだものと同じ量と質の魔力だ。
「ふぁぁああああぁぁぁ…」
気の抜けるような声を漏らしながら、セフは身体を震わせる。
足を曲げて隠そうとしていた下腹が露になり、彼がこれまでにため込んできた興奮と胸中に湧き起こった快感が曝け出される。
脈打つ肉棒。年相応に細く、未熟ながらも、それは肉に半ば埋もれたヘドリックのそれより大きく見えた。
「ん…ん…」
「あぁぁ…あぁ…」
溢れ出す血液を啜るステアに、一口ごとに震えて声を漏らすセフ。
彼女は名残惜しげに、さわやかな味わいの血液を生み出す首筋を一舐めすると、傷口をふさいだ。
そして、唇を離し、僅かに脱力した少年に向けて、声をかけた。
「これが、パパが私にして、私がパパにしてあげたこと」
吸血の快感に意識を犯されたセフは、荒い呼吸を繰り返している。
「パパはこれで満足して寝ちゃったわ」
幾分素直になったであろうセフに、彼女は囁く。
「あなたはこの後、どうしたいのかしら…セフ?」
「はぁはぁはぁ…」
彼女の言葉に、セフの快感にうるんだ瞳にかすかな光が宿った。
「し…」
「し?」
「失礼しました、お嬢様…」
セフの搾り出した言葉に、ステアは眉根を寄せた。
「お嬢様のお体に勝手に触れて…本当に…」
「私は、この後どうしたい、って聞いたのよ?」
「ですので、まずさまざまな無礼について謝罪し…入浴を完了させ、着替えを…」
「そういうのじゃないでしょ!?」
セフを揺すりながら彼女は言う。
「せっかくいろいろしてやったんだから、もっとして欲しいだとか、もっとやりたいとか、そういうことがあるでしょ!?」
「僕は…そう思いません…」
呻くような彼の言葉に、ステアは軽く奥歯を噛み合わせた。
「だったら命令よ。あなた私に…」
「すみませんお嬢様、そこから先の命令は受けられません」
命令を断ち切った彼の言葉によって、ステアの目が見開かれる。
「あなた…あなたを買ったのがだれか覚えてるの?」
セフを完全に服従させる言葉を、彼女は口にしていた。
そう、ダーツェニカでは金がある限り何でも手に入るのだ。
ヘドリックがダーツェニカを離れている間、血液を供給しつつ身の回りの世話をする少年など、好みの顔を選べるほどだった。
だが、ステアの言葉に対して、彼が返したのは服従の姿勢ではなかった。
「僕を買ったのは旦那様です」
内心の口吻を抑え込みながら、彼は続ける。
「旦那様は、お嬢様の世話を僕に任せてくださいました。その中には、お嬢様の命令を聞くというものもありましたが、旦那様の意に反することは出来ません…」
「……ふん」
セフの言葉を聞くと、反論する気もないと言った様子で彼女は手を緩めた。
「もういいわ。あとは自分でやるから、あなたは着替えの準備をしておきなさい」
彼女はへたり込む少年に目もくれず、手桶を取ると湯船から湯を掬い、いくらかしぼんだ体の泡に浴びせ始めた。
「は、はい…分かりました、お嬢様…」
セフはいまだ屹立する肉棒を隠しながら、よろよろと浴室を後にしていった。



「それじゃあステア、また二、三週間ほど屋敷を空けるが、さびしがらないでおくれよ」
ステアとセフ、そして使用人たちをエントランスホール集め、旅行支度をしたヘドリックがステアを抱き寄せながら言った。
「ふふ、パパこそさびしいからって、お仕事放ったりしないでね?」
「ははは、そうやって明日にでも帰ろうかと思っていたんだがな」
ステアの身体をドレス越しに撫でまわしながら、ヘドリックが腹を揺すって笑う。
使用人たちはそのスケベ親父然とした姿に対しては、何の反応も見せなかった。
「さて、と…そろそろ行くとするか」
「ああ、待ってパパ」
ステアは手袋を身に着け、傍らに立っていたセフから帽子を受け取ると、それを被った。
「いいわよ」
「よし、開けろ」
屋敷の扉の側に立っていた使用人が、ヘドリックの言葉に扉を開いた。
「っ!」
扉から差し込む日の光に、ステアが小さく呻く。
「それじゃあ行ってくるよ、ステア」
「ええ、行ってらっしゃい…パパ」
陽光を衣服越しにこらえつつも、そう見送りの言葉をステアは搾り出した。
開け放たれた扉の向こう、ヘドリックが待たせていた馬車に乗り込み、御者の一声とともに馬が足を進め始めた。
馬車が庭を横切り、門扉をくぐる辺りで、使用人たちが開けたままの扉を閉ざした。
「っ、ふぅ…」
ようやく日光を遮断され、ステアがほっと息をついた。
これでしばらくは日光にさらされることもないだろう。
「あ、アレがあったわね」
少し忘れかけていたが、一つだけ日光を浴びかねない予定があった。
人間会への定期報告だ。
定期的に人間会の施設に顔を出し、近況についての報告をし、最近のダーツェニカにおける魔物の状況についての情報をもらうのだ。
場合によっては仕事などが回されることもあるが、ステアはまだ仕事を人間会から貰ったことは無かった。
しかし今回も受ける仕事がないだろうと予測できたとしても、報告に行かないわけにはいかなかった。
「仕方ないわね…」
彼女はため息をつくと、傍らの少年に目を向けた。昨夜から何となく言葉を掛けづらい気がするが、これだけは言わねばならない。
「セフ」
「はいっ!?」
昨夜から、なんとなく居心地悪そうにしている少年執事を呼ぶと、彼は飛び上がりそうなほど驚いた。
「今日の夕方、人間会に報告に行くからお供しなさい」
「あ、はい、わかりました」
彼は一礼すると、さっそく準備をするためか彼女の側を離れた。
無理もない。ヘドリックの見送りをするだけでも、ドレスに手袋に帽子にと、かなりの準備が必要なのだ。
ヘドリックが出先に彼女を連れ回さない理由の一つにこれがあった。彼女が昼間安全に屋外を移動するには、それこそ建物ごと動かすほどの用意が必要だ。
夕刻とはいえ日の出ている時間に外を歩き回るには、もっと入念な準備をする必要がある。
そのためにも、早いうちからセフに用意をさせておかなければならない。
そして彼女もまた、外出用の衣服に着替える必要があった。
(それに、報告のための書類もいるし)
書類と着替えのため、彼女は自分の部屋へ向かった。





日が傾き、ダーツェニカの西の城壁の向こうへ沈む。
残日の光が西を明るく照らしているが、既に空は藍色に染まり、東の空に至っては星を抱えた夜の色と化していた。
間もなく日が没し、夜になる。
ステアは夕闇から夜闇に飲まれつつある道を進んでいた。
襟が高く、袖も裾も長いやや厚手の黒のドレスを身に纏い、手首が覗かぬよう長い手袋を手に嵌めている。
目深にかぶっているのはつばの広い帽子で、少しうつむけば顔どころか首のあたりまでが隠れるほどの物であった。
その他にも、全身に日光避けの軟膏を擦り込むなど、可能な限りの対処はしている。
それどころか、数歩遅れて彼女に続くセフには、日傘はもちろんいざという時のための簡易型の遮光シェルターも持たせている。
そのため傍からは、やや厚着の女性と行商のように荷物をたっぷり背負った少年の、不可思議な二人組に見えただろう。
ステアはそんな他人の視線を嫌って、あまり人通りのない路地を進み、目的地である人間会の支部施設を目指していた。
「あの…お嬢様…」
昨夜、最低限必要なこと以外は話しかけることのなかったセフが、進むステアに向けて口を開いた。
「この通りは、やめた方が良いんじゃないかと…」
「何故よ?」
足を止め、帽子の下から視線だけを向ける彼女の言葉に、セフはおずおずと答える。
「その…最近、この辺りの治安が悪いそうですし…迂回した方が安全かな、と思って…」
「それ、どこで聞いたのよ」
「新聞に書いてありました…」
「新聞?」
求人情報や物資の価格表などとともに掲載されている、あの荒唐無稽な記事を鵜呑みにしているのだろうか。
セフのかわいらしい恐怖の源に、ステアは思わず噴き出した。
「わ、笑いごとじゃありません!この間、この辺りで獏仮面が出て」
「獏仮面?うっかり寝てたら夢でも食べられてしまいそうな名前ね」
「本当に恐ろしい奴なんですよ。捕まったら抵抗する暇もなく、細長い口で頭に穴をあけて、脳みそを啜るんです!」
言葉に乗せた微かな微笑みを察知し、セフは獏仮面の恐ろしさについて語る。
「それにほら、獏仮面だけでなくとも、この辺りには強盗が出て危ないらしいですし…」
辺りを示す彼の手に、ステアは視線を動かした。
なるほど、言われてみれば建物の壁や塀は落書きと張り紙が乱舞しており、昼でもあまり通りたくない雰囲気を醸し出している。
「早く戻って、迂回しましょう」
いつ路地の向こうから刃物を手にした男が出てくるか、とちらちらと不安げにさまよわせつつ、セフはそう彼女に告げた。
「大丈夫よ。私が『何』か忘れたの?」
心配性の少年に向けて、彼女は確認するように言った。
「夜はヴァンパイアの時間。強盗も、獏仮面とかいう奴も相手にはならないわ」
「でも、念のため…」
「それに、今から戻ってこの辺を迂回してたら、帰りも遅くなるし」
そう、出来ることならば人間会への報告は、とっとと終わらせたかった。
「ほら、行くわよ」
彼女は正面を向くと、石畳を鳴らしながら歩き出した。
遅れてセフが、背中の荷物を揺らしながら追いすがる。
「お嬢様!正直なところ、僕では何かあった時にお嬢様を守れませんので、できれば戻って…」
「知ってるわよそのぐらい」
半歩後ろに続くセフに向けて、彼女は目を向けることなく言った。
「自分だけじゃ私の身の安全を守れないから、私の命令よりパパの命令を優先するため、戻ってくれ、って言うんでしょ?」
セフの目には帽子と歩調に合わせて揺れる金髪しか見えないが、なぜか彼女の表情が分かるようだった。
「せっかくパパがいないんだから、私は私のやりたいようにしたいの。でも、あなたが私よりパパの命令を優先するんだったら、全部自分でやるわ。体も自分で洗うし、自分の身も自分で守るわ」
彼女の言葉に、セフは思わず足を止めていた。
だが、数歩距離が離れた所で、彼はぶるぶると顔を振ってから、再び足を進めた。
「何?危ないから迂回するんじゃなかったの?」
足音を聞いたのか、振り返らずに追いすがるセフに向けてステアが言った。
「いいえ、どうしてもとお嬢様がおっしゃるのならば、僕は付いて行きます」
「…私が心配だから?」
一瞬、間のようなものを挟んで、彼女が問いかけた。
「いいえ、ここで僕だけ迂回してしまえば、後から旦那様におしかりを受けてしまいますので」
「………そう…」
ステアは、短くそう返した。
そしてそのまま、二人はしばしの間無言で路地を進んだ。
昼でも薄暗いであろう入り組んだ路地裏は、二人が歩みを進めるにつれてさらにその暗さを増していく。
表通りの喧騒が建物の向こうに消え、左右の壁面は土埃や苔、黴、そして得体の知れない汚れによって不気味な模様を描き上げていた。
満月が天頂から照らしていたとしても足がすくむような暗さと不気味さだったが、ヴァンパイアのステアには、壁の模様はおろか路面の石畳の凹凸までが明瞭に見えているため、どうということは無い。
しかし、彼女の歩みが不意に止まった。
「お嬢様…?」
闇の中で揺れる金髪を目印に、どうにかついてきていたセフが、そう声を漏らす。
「何かいるわね…」
目の前のT字路の角の向こうに、ステアは何かの気配を感じ取った。
「野良犬か、強盗か…」
足を進めながら推測を口にするが、そのいずれでもないことが分かる。
角の向こうから、ステアが慣れ親しんだ体液の臭い。脂の混じった血液の臭いがするからだ。
「それとも…」
角に足を踏み入れ、身体ごと曲がった路地裏の先へ向き直った。
「化け物かしら」
ヴァンパイアの目に映るのは、二つの人影。
一つは壁にもたれかかり、うなだれる人影。
もう一つはその傍らに立ち、壁に向かって何事かを書いているようだった。
ステアの気配かその言葉か、あるいは両方に、路地の先にいた立っている方の人影が動いた。
「ひっ」
ステアに続いて角を曲がったセフが、路地の向こうに浮かぶ二つの赤い光に、喉奥で声を漏らした。
人であるセフの目では、フードと外套を纏う、前後に長い鼻の細い馬のようにも見えるマスクを被った人物の姿と、その足元に蹲る額に穴を穿たれた男の姿は見えないだろうが、煌々と光る赤い両の目は彼を脅かしたようだった。
「…………」
マスクの人物は、壁に指を当てると上から下へとまっすぐに動かし、指を離す。
そして、二人の方へ向き直った。
「獏仮面…ね…」
犠牲者の状況から、ステアは目の前の人物が先ほど話題に上った怪人であることを察した。
「新聞記事と、大分外見が違うようね」
「………」
マスクの人物はステアの言葉には応じず、外套の懐から何かを取り出した。
それは、くの字に折れ曲がった金属製の器具のようだった。
直角になった部分には細いガラス瓶が取り付けられており、一方の先端からは尖った釘のようなものがまっすぐ生えている。
あの器具を用いて、これまでの犠牲者の頭蓋骨に穴をあけていたのだろうか?
ステアの胸中の疑問に答えるがごとく、獏仮面の手の中の器具がヒィィィ、とひきつった悲鳴のような音を立てて微振動を始めた。
どうやら目撃者を逃がすつもりは無いらしい。
「セフ…あなたは先に人間会の施設へ行きなさい」
獏仮面を見据えたまま、彼女は背後の少年に命じる。
「え…しかしお嬢様」
「ここで私が襲われてると言って、応援を呼ぶのよ」
「…了解しました」
少年はそう応じると、駆け足でT字路の先、進行方向へ向かっていった。
これで、目の前の人物がセフを追うには、ステアと相手をせざるを得なくなった。
「あなたがダーツェニカの人間ならば、ご存じでしょう?」
獏仮面の方に向き直りながら、目深にかぶっていた帽子を手に取りつつ彼女は言う。
「『人間会の魔物は人間に危害を加えてはならない』」
帽子を手にしたまま右腕をまっすぐにのばし、彼女は指の力を緩めた。
「『ただし、危害を加えられうる場合はこの限りではない』」
指の間から帽子が離れた瞬間、獏仮面は踏み込んだ。
自身の体重よりも重い一撃が石畳に加えられ、その反動で奴の身体が舞う。
ステアが人間だったならば、一瞬で距離を詰められ、獏仮面の手の中で悲鳴を上げる器具を額に突き立てられていただろう。
だが、彼女は闇の中をゆっくりと跳躍する獏仮面の動きを見切ると、斜め前方に向けてやや大股に一歩移動した。
すると、彼女の目の前、ちょうどつい先ほどまでステアが立っていた辺りに、獏仮面が降り立った。
(これでおしまい)
ほぼがら空きの背中に向けて拳を振り上げ、ステアは吸血鬼の膂力でもって振り下ろそうとした。
しかし直撃の寸前、獏仮面の身体が右足を軸に、一瞬で前後が入れ替わったのかと錯覚するような速度で半回転した。
一瞬の体さばきに、彼女の拳が奴の背中を捉えることなく、空振る。
横薙ぎに振るべきだった、と悔やむがもう遅い。ステアは来るであろう獏仮面の攻撃を防ぐか躱すかするべく、視界の縁へ移動した奴に視線を向け直した。
しかし、彼女の目が捉えたのは、だらりとぶら下がった獏仮面の右手で悲鳴を上げる、くの字型の器具だった。
ステアの足を狙う訳でも、頭に当てるために力を込めているわけでもなく、ただ持っていると言った様子で尖った一端を地面に向けていた。
一瞬の間隙を置いて、彼女は視線を上げた。
右腕を使わないのならば、左手を使うはずだ。
右手から右腕、胴、胸へと獏仮面の身体を彼女の視線が辿っていく。
しかし、獏仮面の左手は腰だめに構えるわけでも、彼女向けて引き絞られているわけでもなかった。
彼女に向けて軽く、丸い模様の描かれた掌を見せるように、かざしてあったのだ。
掌の向こうで光る、獏仮面の赤い目を見た瞬間、外套の袖口から白い物が噴出した。
霧状の何かだ。
「っ!」
吸わぬようにとっさに呼吸を止めるが、勢いよく噴出した白い気体はステアの鼻孔に容赦なく押し入った。
遅れて口元を手で覆いながら、ステアは顔をそむける。
「何を…!」
霧の外に顔を出し、呼吸してから彼女は声を上げようとした。
だが、その言葉は不意に断ち切られた。
(あれ…?)
舌が動かなくなったことに疑問が浮かぶが、そんなことは些末なことにすぎないと、彼女はすぐに悟った。
彼女の身体が突然その場に膝を突き、地面に腰をおろし、側の壁にもたれかかったのだ。
踏みとどまろうとする暇もなく、踏みとどまろうとすることもできずに、彼女はその場に力なく蹲っていた。
身体が、疲労困憊した時のように言うことを聞かないのだ。
「………」
獏仮面は無言でステアを見下ろしつつ、かざしていた左腕を下ろした。同時に、甲高い音を立てていた器具が、動きを止める。
そして、右手の器具を胸のあたりまで掲げ、角の部分に取り付けられたガラス瓶に触れた。
指でつまみ、軽く揺すってしっかり嵌まっているかどうか確かめる。
ステアの方を見もしていない、完全に逃げようと思えば逃げられる隙だった。
しかし、彼女の身体は力なく壁にもたれかかるばかりで、立ち上がって逃げるどころか指一本動かすことさえできそうになかった。
一通り様子を確認したところで、獏仮面がガラス瓶から指を離す。
同時に、先端から覗く釘のようなものが、ヒィィィィと甲高い音とともに微振動を始めた。
いや、微振動ではない。
頭骨を穿ち、その奥にあるものを啜り出せるようにするため、器具の先端が回転しているのだ。
獏仮面はようやくステアに視線を落とすと、彼女の前にゆっくりと屈んだ。
そして左手で彼女の顎を掴むと、うなだれていた彼女の頭を持ち上げる。
甲高い音を立てて回転する釘が、彼女の額に徐々に迫っていった。
「お嬢様!」
横からの声に、獏仮面が動きを止め、顔を向けた。
その先に立っているのは大きな荷物を背負い、執事服を纏った少年、セフだった。
ほんのついさっき、人間会の支部へ行くよう命じて送り出したはずなのに、なぜここに。
肉体に引きずられるように、思考も停滞していくステアが、少年の闖入に目を見開いた。
「…………」
獏仮面が、鼻の細い馬のようにも見えるマスクの奥で、吐息のようなものを漏らした。
狙いがセフに向いたことを、彼女は悟った。
(動いて、動いて、動いて…!)
朦朧としていく意識の中、彼女は懸命に全身を動かし、獏仮面がセフに向かわぬよう手を出そうとした。
しかし、腕はおろか唇も微動だにせず、彼女は逃げるようセフに告げることもできなかった。
「ば、獏仮面…!お嬢様を放せ…!」
彼女の意志に反して、セフはそう震える声で言い放ち、獏仮面に向けて歩み寄ってきた。
握る拳さえもが震えていたが、それでも彼の勇気が伺える。
「………」
獏仮面はステアの顎を離し、その場に立ちあがると、セフの方を向いた。
獏仮面の上背に、セフが身を震わせ歩みを遅める。
だが、歩みが止まる前に、彼は顔をぶんぶんと左右に振ると、煌々と輝く二つの赤い光を睨み直し、歩調を速めた。
胸中の恐怖を強引に抑え込んだのだ。
無論、それで少年が獏仮面に勝てるわけがない。
やがて、獏仮面の眼前でセフは足を止めた。
「……」
「おい、獏仮面…!お嬢様を…離せ…!」
震え声で、赤い双眸を見上げながら、少年が声を上げた。
だが、獏仮面の方には少年の言葉を聞くつもりは無いらしく、甲高い音を立てる右手の器具をゆっくりと掲げた。
「…っ…!」
悲鳴のような甲高い器具の音に、少年は頭蓋骨よりも先に勇気を削られていく。
ぶるぶると震えだした少年に、獏仮面は左手をかざした。
(セフ…!)
舌すらも動かなくなってきたステアが、そう胸中で叫んだ。
だが、獏仮面の左袖から霧が噴出する寸前、セフの背後から飛んできた影が、獏仮面に覆い被さった。
セフの荷物と頭をかすめた影は、その勢いのまま獏仮面を突き飛ばし、少年と少女の側から引き離した。
「…!」
獏仮面の左袖から白い霧が噴出するが、見当違いの方向へ広がっていった。
続けて甲高い悲鳴を上げる器具が、影の頭の方めがけて突き出される。
しかしその先端が影に触れる直前、影と獏仮面が離れた。
数歩の距離を置いて、影が石畳の上に降り立った。
影の正体は黒いマントを羽織り、頭部をつるりとした光沢のある黒兜に覆った人物だった。
「バードマン…」
石畳から身を起こし、立ち上がりながら獏仮面が呻くような声で、黒マントの人物を呼んだ。
「少年」
「はい!?」
バードマンの低い声に、セフは裏返った声で応じた。
「私が獏仮面を相手する。その間に、彼女を連れてここを離れろ」
「は、はい!」
直後、バードマンは黒マントを翻しながら地面を蹴り、獏仮面との距離を詰めた。
黒マントの下から、黒い手甲に覆われた拳が繰り出される。
甲高い器具の叫び声が響き、拳が空を切る音が加わる。
「お嬢様、失礼します」
セフは彼女の両脇に腕を回すと、少しだけ持ち上げるようにしながら、引きずっていった。
(あ…セフ…)
引きずられているとはいえ、少年に抱えられる感覚に、彼女は胸中で彼の名を呼んだ。
そして、少女の視界が霞み、その意識がドロドロと闇の中へ沈んでいった。






目蓋越しに、柔らかな光が彼女の瞳を刺激する。
「ん…」
喉の奥から吐息が漏れ、むずむずする目元を彼女は擦った。
「お嬢様!」
「目が覚めたようね」
鼓膜を打つ二つの声に、ステアは自身が目を覚ましたことに気が付いた。
薄く目を開くと、滲む視界の中に二つの影があった。
「はい、ちょっとごめんなさいね」
女声とともに影の片方が近寄り、ステアの目蓋を押し開いて覗き込んだ。
「…うん、問題ないようね」
視界のぼやけが治まり、ようやくあたりの様子が目に入る。
簡素な家具だけが並ぶ宿屋の一室のような部屋に寝かされているのだ。
そしてベッドの脇に、頭に角を生やした白衣の女と、執事服の少年が並んでいる。
「とりあえず今夜は泊って行きなさい」
「はい、ありがとうございます、先生」
白衣の女は立ち上がると、頭を下げるセフに手を振りつつ、部屋から出て行った。
「……セフ」
「なんですか、お嬢様」
「…ここは…?」
ベッドの側に戻ってきたセフに、彼女は問いかけた。
「ああ、すみません。ここは人間会の宿泊施設です。事情を話したら、使わせてもらえました」
「あの後何が…?」
「お嬢様と別れた後、凄まじい音が聞こえてきました」
ステアと別れた後のことを、セフは話し始めた。
「大急ぎで人間会に向かおうかと思いましたが、思い直して引き返しました。お嬢様が助からなければ、元も子もありませんから」
彼は軽く頭を振ると、続けた。
「そしたらお嬢様が倒れていて、獏仮面がもう少しでお嬢様の頭に穴をあけようとしていました。もう駄目か、と思ったのですが、そこに颯爽とバードマンが現れて…。そして、バードマンと獏仮面が戦っている間に、ここまでお運びさせてもらいました」
「ふぅん…」
かなり簡単な彼の説明に、彼女はとりあえず納得したような返事をした。
「それと、お嬢様がお休みの間に、僕が代理で報告を済ませておきました」
「そう…それは、ありがとう…次からもお願いできるかしら?」
「今回は特別だそうです」
セフの言葉に、少女は苦笑した。
「だいぶ良くなったようですね」
「まだよ。よく考えたら晩御飯もいただいてないし」
「では、何か貰ってまいります。ちょっとお待ちください」
彼は立ち上がり、部屋の扉に向かった。
「ねえ、セフ」
「はい?」
彼が扉を開ける直前、彼女は少年を呼びとめた。
「何であの時…戻ってきたの?」
「それは、お嬢様のご命令でも、お嬢様が危険にさらされては元も子も…」
「そっちじゃなくて、戻った後のことよ。なぜ獏仮面を挑発したの?」
「……」
セフは完全にステアが意識を失っていたと思っていたのだろう。
彼女の言葉に彼はしばしの沈黙を挟んだ。
「助けに来るだけならまだしも、あんなこと言ったらあなたが先に殺されてたわよ」
「…それは…」
一言、何かを応えようと彼が声を漏らす。
しかし、その先を紡ぐまでには、もうしばらくの時間を要した。
「旦那様が僕をご購入されたのは、お嬢様を守るためです…僕が無事でもお嬢様が亡くなっては、元も子もありませんから…」
「………そう…」
ステアはそう応えた。
「じゃあいいわ、何か貰ってきなさい」
「はい」
セフはそう応じると、部屋を出て行った。




「ふぅ…」
自分以外誰もいない部屋の中、ステアは天井を眺めながらため息をついた。
そして同時に、あの怪人に襲われていた時のことを思い返した。
あの時、戻ってきたセフに逃げるよう言ったり、逃げる時間を稼ごうと身体を動かそうとしたのは、獏仮面の放った霧で錯乱していたからだ。
おそらく、セフが非常に忠実な召使であり、代わりがいないだろうという心理が、異常に増幅されたのだろう。
そう、彼のように我慢強く忠実な召使はそうそう手に入らない。
だから、なるべく大切に扱わなければ。
「そうよ、私はあの子の代わりが手に入りそうにないから、大切に思ってるだけ」
自分の心中を確認するため、あえて口に出す。
「あの子のことなんて別に―」



「はぁ…」
部屋の扉を閉め、廊下を進みながらセフはため息をついた。
そして同時に、あのT字路に戻った時のことを思い出した。
あの時あの場所に戻り、獏仮面に対して挑発めいた言葉を発したのは、あまりの恐怖に一回転して錯乱していたからだ。
おそらく、ヘドリックに購入された時の「ステアの世話と身の安全をよろしく頼む」という言葉が、暗示となって増幅されたのだろう。
そう、セフを購入したヘドリックの「ステアの身の安全をよろしく頼む」という言葉を守れなければ、売りに出されるか、あるいは自身の命でもって償うことになるのだ。
ステアが無事でなければ、彼がいくら無事でも元も子もない。
だから、可能な限り彼女に従い、彼女を守らなければ。
「そうだよ、僕はお嬢様を守るのが仕事だから、あの時飛び出したりしたんだ」
自分の心中を確認するため、あえて口に出す。
「お嬢様のことなんて別に―」




「好きじゃない」
扉の内と外で、同じ言葉が響いた。
12/03/24 17:37更新 / 十二屋月蝕
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