連載小説
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ダーツェニカ衛兵隊の奇妙な事件
「まったく、なんでこんなことになっちまったんだろうね…」
安宿の一室で、ベッドの上を見ながら、ハークル・リェンはそう呟いていた。
通報によって部下を引き連れて現場に駆け付けたのはよいのだが、彼らを迎えたのが不可思議な状態の被害者だったからだ。
視線の先に被害者の姿はもうなかったが、その痕跡だけでも十分事件の異常性は見て取れた。
ベッドのシーツに滴った精液。そして穿たれた穴。
「ただの」殺しならば、彼のダーツェニカ衛兵生活二十年の中でのいくらでも見てきた。
魔物「による」事件も、殺しに比べればいくらか劣るが見てきた。
加えて、被害者が似た状態で残された事件も、今回で三度目だ。
だが、今回の事件はリェンにとってかなり珍しかった。サキュバスが被害者だなんて事件は。
視線をベッドの上から外し、辺りに目を向ければ、椅子と小さなテーブルしかないごく狭い部屋の様子が目に入った。そして、一人の男がベッドの下を見たり、床に何か落ちていないかを調べている。
軍服めいた衛兵の制服に、胸と腹の辺りを覆う革鎧をまとった、リェンの部下の一人だった。
もう一人は宿屋の人間と一緒に被害者を隣の部屋に移しており、残りは周囲に聞き込みに行かせた。
視線を窓の外に向ければ、安宿の建つ裏通りと、表通りや住宅街から放たれる明かりによって照らされる藍色の夜空が見えた。
通報が無ければ今頃、藍色の夜空の下で詰所にこもり、部下たちといつもの馬鹿話でもしながら時間をつぶしていたのだろう。
「しっかし、まあ…なーんでこんなことになっちまったのだろうかねえ…」
「それを調べるのが僕らの仕事でしょうが、リェン分隊長」
顎を撫でながら、つい最前まで『被害者がぶら下がっていた』ベッドの上の天井の穴を見上げる彼に、部下が顔を上げて言った。
「しっかしよー、これ以上何を調べるってんだ?」
窓の外から視線を部下に向けながら、リェンは肩をすくめて見せた。
「サキュバスが客取った。一発やった。なんかもめた。放り投げられて天井に頭が突き刺さった。犯人逃げた。
被害者がサキュバスに変わっただけで、あとはこないだの『娼婦放り投げ事件』二件と同じだろ?十分じゃないか」
「十分って、事件解決には全然足りませんよ」
「いんや、解決にじゃなくて迷宮入りの決定に、だ」
「碌に捜査もしてないのに、もう迷宮入りですか…」
リェンの言葉に、部下が呆れたような表情を浮かべる。
「いや、考えてみろよ?前の二件もそうだが、被害者は女やサキュバスとはいえ人ひとり分の重さがあるわけだ。
そいつを天井に放り投げて、天井板ぶち破ってぶら下げるなんてマネ、並の人間にできるか?」
「まあ、よほど体格がよくないと難しいでしょうね…」
「よほど、じゃなくてかなりだな。まあ、一発でそうとわかるような雲を突く巨漢ってのは確かだ。
だが、『娼婦放り投げ事件』の時もそうだが、大男の目撃証言はあったか?」
「ええと…」
部下が顎に手を当てて、以前の事件について思い出し、容疑者についての情報が全く得られなかったことに至った。
「今回も多分同じだろうよ。まあ、被害者本人から何か聞き出せるかもしれないけどな」
リェンは肩をすくめながら言った。
その直後、開け放たれた部屋の扉の前に、別な衛兵が立った。
「隊長!被害者が目を覚ましました!」
「もうか…さすがサキュバス、頑丈だな」
リェンはそう呟きながら、被害者が運び込まれた別の部屋へ向かって行った。





都市を三つ挙げろと聞けば、多くの人は次の三つを挙げるだろう。
大陸の中心に位置し、教団の中心地である聖都。
王国の首都である王都。
そして、大陸北部に位置する商都ダーツェニカ。
聖都に関してはその規模や歴史から、誰もが大陸第一の都市とするだろう。
王都に関しては、どの王国の王都かは意見が分かれるところだろうが、歴史や人口、美麗な建造物などで、自国の首都を第二の都市として挙げるであろう。
だが、ダーツェニカだけは誰もが何の疑いもなく、第三の都市として挙げるはずである。
大陸第三の都市の位は、その規模と『商都』の名にある。
市場とともに発達・成長を繰り返したダーツェニカは、数多くの商人を抱え込み、幾本もの街道とつながっている。商人と街道と巨大な市場は、『ダーツェニカで手に入らないものはない、金がある限り』という言葉を生み出したほどだ。
もちろん、発展を遂げたダーツェニカにも影と闇は存在していた。
その影こそが裏通りと称される貧民街であり、闇こそがあちこちで起こる事件であった。
「まったく、なにも思い出せないってどういうことだよ…」
ダーツェニカの影である裏通りから詰所に引き上げながら、リェンはぼやいた。
目を覚ました被害者のサキュバスに話を聞いたのだが、犯人に関する情報が何も得られなかったからだ。
正確に言えば、『安宿の近くで客待ちをしていたのに、何でアタシこんなところにいるの?』と、事件前後の記憶が完全に消え去っていたのだが。
「聞き込みの結果も、あまり芳しくありませんでしたしね」
リェンの後に続く衛兵が、彼の言葉につなげるように言った。
宿屋の近隣の住民はおろか宿屋の人間でさえ、被害者と部屋に入った何者かについてあまり覚えていないというのだ。
先の『娼婦放り投げ事件』についてもそうだが、これは無理のないことだった。
現場となった安宿は、特定の店に属していない娼婦が仕事場として使用するのが主である。
そのため店員も近隣住民も、出入りする客はもちろんのこと部屋からの少々の物音にも無頓着になっているのだ。
おかげで安宿は禁制薬物などの取引といった犯罪の温床になりやすいのだが、一介の衛兵でしかない彼らにはどうしようもなかった。
「しっかしどうしてどいつもこいつも『覚えてない』なんだろうなあ」
リェンは、三つの放り投げ事件に対する証言の少なさを思い返しながら、口を開いた。
「三件とも、娼婦が安宿で天井に頭突っ込んでぶら下げられてるって手口から、犯人は大柄な男だろうってのに、目撃証言が無いんじゃあねえ」
「よほどうまく人の目を盗んでいるか、大柄な男という推測が間違っているのかもしれません」
「もしくは、そもそも犯人の大男ってのがいなかったりしてな」
「…え?」
リェンの漏らした言葉に、衛兵が虚をつかれたように声を上げる。
「それって、どういう…」
「いんや、ただ単に今回被害にあった連中が、納めるべきモノを納めてなかったとか、そんな理由で目を着けられていて、見せしめのために打ち上げられた、とか」
「つまり、宿屋の従業員も近隣住民も口裏を合わせていた、と…?」
「ただの想像だ。それに、そんな口裏合わせするなら『誰も何も覚えていない』じゃなくて『禿頭の南方系の男』とか『天井に頭が付きそうなほどの細長い男』みたいな特徴のありすぎる奴を『犯人』にするだろう」
「言われてみれば…」
リェンの言葉に翻弄されたのか、部下は困惑の表情を浮かべていた。
「つーか、仮にあのあたりの連中が結託していたにしても、この街の住人で魔物に手を出すってのがおかしいんだよなぁ…」
「ええ、魔物は危険ですからね…多人数でいっても返り討ちにあうかもしれませんし…」
「いや、そういう意味じゃなくてだ…ああ、そうか。お前入って二、三年ぐらいだったな」
「…?」
隊長の言葉に、衛兵が疑問符を浮かべる。
「あまり大きな声では言えないんだがな、実はダーツェニカにはいくらか魔物が入っている」
「…!」
「あー、落ち着け落ち着け。とりあえずこっち、な?」
驚愕に目を見開く隊員の肩をつかむと、リェンは彼を道の端に引き寄せ、小声で話しかけた。
「魔物が入っている、とはいっても侵入とかそういう話じゃない」
「でも、僕たちが警備しているのにダーツェニカに魔物が…」
「魔物とは言っても、そう危険な連中じゃない。むしろ安全だ」
肩を組み、若い衛兵を酒場に誘おうとしているかのような様子を装いながら、彼は続けた。
「二十年も前のことだ、魔王の交代で魔物の姿が一変したことは知ってるな?」
「は、はい…」
「その時に大陸各地を巡っていた商人の一人が、魔物の具合がいいことに気が付いた。その商人は自分の馬車に魔物を乗せて、旅と夜のお供として連れて回ったそうだ。
そしてある日その商人は、ダーツェニカの歓楽街で娼館が大繁盛しているのに気が付き、ふと思いついた。
『魔物が娼婦の娼館作ればもうかるんじゃないか?』とな。商人は歓楽街の一角に秘密の店を開き、各地から魔物をそろえたそうだ」
「それって…誰からも止められなかったんですか?」
「もちろん商工会から待ったがかかったらしい」
小声の衛兵に、リェンは頷いた。
「だけどその商人は、商人は商工会のお偉いさんを招いて熱心な説明を繰り返して、とうとう理解を得たそうだ」
「ああ、なるほど…でもその娼館と、魔物に手を出すと危ないっていうのに何の関係が…」
「それはだ、人が集まればこっそりと魔物を飼ったり、自分から入り込もうとするやつも出てくるわけだ。だからそういった連中を取りまとめて…おっと」
曲がり角を折れようとした瞬間、二人は建物の陰に立っていた小さな人影を避けた。
そこにいたのは、薄汚れたフードつきのマントを羽織った、子供ほどの大きさの人物だった。
「どうした、坊主。道に迷ったか?」
リェンは人物の前に屈みこみながら、そう話しかけた。
羽織ったマントの汚れとその身長から、目の前の何者かが裏通りから迷い出た子供だと判断したからだ。
しかし、人物の口から出たのは、肯定でも否定でもなかった。
「リェン隊長ですかね?」
「ん?そうだが…」
高めの声にリェンが応じると、マント姿のそれは目深にかぶっていたフードを少しだけ持ち上げて見せた。
「人間会の使いです。御迎えに上がりました」
フードの下から覗いた童女の顔と、その両側から伸びる小さな角。肌の色と角から、彼女がゴブリンだということが分かる。
「あー、やっぱり来たか…」
ゴブリンの言葉に、彼は顔をしかめた。
「え…隊長、この子…ごぶ…!」
「ああそうだ、ダーツェニカに住んでる連中の一人だ」
動揺する若い隊員を押しとどめながら、彼は続けた。
「連中から呼び出しがかかったからな、ちょっと顔を出してくる。先に戻ってろ」
「で、でも…!」
「大丈夫だ、これで五度目だ。帰ったら説明してやるから、待ってろ」
「は、はあ…」
若い衛兵は、リェンとゴブリンを交互に見返しながら、釈然としない返答を舌。
「それでは行きましょう、リェン隊長」
「ああ、わかった…」
リェンは衛兵をその場に押しとどめると、マントの下から伸ばしたゴブリンの手を取り、その場を離れた。
やがて、衛兵の視界から人ごみの中へ、二人の姿が消えていった。







歓楽街の表通りから路地一本だけ奥に入った裏通りを、一組の影が進んでいる。
石畳をこつこつと鳴らしながら進む影の一つは衛兵で、ぺたぺたと音を立てるもう一方はマントを羽織った小柄なものだった。
リェンとゴブリンだ。
だが、裏通りとはいえそれなりに行き交う人々の目は、一瞬だけリェンに向けられるもののすぐにそらされた。
ゴブリンはその姿をマントとフードですっぽりと隠しているため、二人の姿が裏通りから迷い出た子供とそれを連れて行く衛兵にしか見えないからだ。
やがて、二人の姿は裏通りから路地を折れ、さらなる裏道に入った。
歓楽街を照らす街灯から遠く離れ、もはや星と月しか辺りを照らす物は無い。
「ここです」
どれほど進んだだろうか。ゴブリンが足を止め、手を解いた。
そして建物の壁沿いに並べられた樽の一つに手を掛ける。殻だったのか、大した力を込める様子もなく樽が動き、その下に隠された丸い石の蓋が露になった。
「へえ、今度はここか」
「はい」
リェンの言葉に応えながら、ゴブリンはその場に屈んで石の蓋に手を掛け、持ち上げた。
がぽ、という低い音とともに石畳から蓋が持ち上がり、黒々とした穴が口を開く。
「内側に梯子が取り付けてあります。気を付けて降りてください」
「あいよ」
気軽に応じながら、彼は黒々とした穴に足を差し入れ、梯子の段にひっかけた。
そこを支点にもう一方の足、右手、左手、と体重を支えながら穴に入り込んでいく。
「そこに着いたら、梯子を背に左へ進んでください。右は行き止まりになってますので気を付けて」
「左だな、分かった」
「では、あたしはここで失礼します」
一礼すると、ゴブリンはリェンが十分に梯子を降りるのを待ってから、医師の蓋を閉ざした。
真っ暗になった視界の中、上方からごとごとと重い音が響いた。樽を動かしたようだ。
「さて」
リェンは一つ呟くと、梯子の段を一段ずつ確かめながら、闇の中を下りて行った。
程なくして、つま先が梯子の段ではなく平らで硬い物をとらえる。
床だ。
軽く探ってから、リェンは両足を着け、梯子から手を離した。
言われた通り梯子を背にして、左右に目を向ける。すると、左の方にわずかな光が見えた。
光の揺れ方や反射の具合を見ると、通路につながる別の通路に松明が掲げられているようだ。
「あっちか」
揺れる光を目印に、彼は苔と黴の臭いのこもる通路を進み始めた。
コツコツと石畳を打つような足音が、通路を反響した。
やがて、リェンは通路と通路がつながる点にたどり着く。
角から覗き込むと、少し進んだところに松明が掲げてあり、そのそばに扉があるのが見えた。
あそこが目的地だろう。正面を向いても、闇の中に微かに鉄格子のようなものが見えるだけで、それ以上進みようがないからだ。
彼は通路を曲がると、松明の掲げられた扉の前に立ち、拳を三度打ち付けた。
「入りなさい」
「お邪魔しますよ、と…」
扉越しの返答に、彼は軽く返しながら扉を押し開いた。
扉の向こうにあったのは家一軒の敷地ほどの広さの空間だった。
その中央に木製のテーブルが置かれ、椅子が向かい合うように並べてあった。
「待っていましたよ」
テーブルの向こうの座席に腰掛ける女が、明かりの灯ったランプに照らされながら、リェンに向けてそう言った。
浅黒い肌に長い黒髪の女だ。だが、その黒髪の間からは三角形の耳が覗き、四肢の末端は柔らかそうな黒い毛皮に覆われている。
耳に手足にこの場所。そのすべてが、彼女が人間ではないことを示していた。
そう、彼女こそこのダーツェニカに潜む魔物の集団の中核を担う一体であった。
「はいよ、お待たせしましたよっと…それで、ご用件は?」
「おおむね察しはついているでしょう。まずは座りなさい」
アヌビスの勧めに従い、リェンは椅子を引いて腰を下ろした。
「最近歓楽街で起きている連続娼婦暴行事件、ついにうちの者から被害者が出たらしいわね」
「へえ、もう聞きつけたのか」
「世間話で時間をつぶす暇はありません」
テーブルの上で指を組みながら、アヌビスは続けた。
「連続娼婦暴行事件の解決のめどは立っているのかしら?」
「正直なところ、見当もつかないといったところだな。
方法は不明なら、犯人の身なりも不明、動機も不明。一連の事件の書類に並ぶのは不明の文字ばっかりだ」
リェンはそう答えると、体重を椅子の背もたれに預けた。
「人間相手の事件がもう二、三件続けば、さぞかし『不明』って書くのがうまくなるだろうな」
「同胞が襲われているというのに、あなたは…」
アヌビスは彼のおどけた様子に、やれやれとばかりにため息をつくと、顔を上げた。
「いいですか、我々は魔王の交代以降弱体化した事実を受け入れ、人と争うことを止めて和平の道を選んだのです。
ですが、人々には未だ魔物に対する恐怖が根強く残っているため、一朝一夕に受け入れられるとは考えていません。
ですから我々人間会は、人々が我々を受け入れられるようになるまで人の間に潜んで暮らすことを選び、無用な争いを招かぬよう自立することを誓ったのです」
アヌビスはダーツェニカの魔物たちの互助会の精神を謳い上げると、一瞬の間を挟んだ。
「ですが、こうして人の間に潜む我々に火の粉が降りかかった以上、他の魔物たちに累が及ばぬよう動く必要があります」
「そんなもん、俺たちダーツェニカの衛兵隊に任せておけば…」
「人間の娼婦に被害が出ているというのに、いまだ解決の糸口すらつかめていない衛兵に任せろと?」
アヌビスの言葉に、リェンは口を閉ざした。
「もちろん、これが人間会による魔物の管理、抑制の範囲を超えた行いだというのは理解しています。ですがこうして我々が動かないと、自分で犯人を見つけて復讐すると言い出す者が出てきますので…」
「あんまり大っぴらなのは勘弁してほしいところだね…」
「そこは理解しています。人間会としても、不用意に教団の注目を集めるようなまねはしたくありません。
ですので、我々の用意した者を一時的に衛兵隊に組み込み、共同で捜査するという形を取らせていただきます」
彼女は組んでいた指を解くと、背後の暗闇に向けて手を掲げた。
「ジェーン、来なさい」
「はい」
闇の奥から声が響いた。
そして小さな足音とともに、テーブルの上のランプが描く光の円の中に、一つの新たな影が浮かび上がった。
それは、外套を羽織り帽子をかぶった女だった。
帽子の下の、鋭利な印象をもたらす双眸から、リェンに向けてナイフのように尖った視線が射放たれていた。
「彼女は、ジェーン。ワーウルフです」
アヌビスの言葉に、女が帽子を取った。
帽子の下にあったのは、刃物で切り取られたように歪な形をした、狼の物と思しき元三角形の耳だった。
「彼女は故あってダーツェニカに住んではいますが、鼻や身体能力は並のワーウルフより上だと確信しています」
「それで…俺達にこいつがどう協力するんだ?」
「簡単なことですよ。ジェーンを連れて、これまでの事件現場や被害者を訪れ、街の中を巡ってください。あなた方が、彼女に協力するのです」
「へえ…」
アヌビスの言葉に、リェンの目が細められた。
「ま、人間会の幹部サマの決定だ。俺みたいな一介の衛兵隊長には逆らえませんよ」
「…それでよいのです。とにかく、ジェーンへの協力を惜しまず、事件の早期解決をお願いします」
アヌビスはリェンの言葉の裏を理解しつつも、穏やかな口調で続けると、椅子から立ち上がった。
「それでは本日は以上です。あなたはジェーンを連れて詰所に戻り、さっそく現場の案内をしなさい」
「ああ、いいけど…コイツの家は?」
「事件はいつ起こるか分からないでしょう?ですから、詰所の宿直室かあなたの部屋に泊めて上げなさい」
「泊めてって、何を気軽に…」
「とにかく、よろしく頼みますよ?私はこれから幹部会議がありますので、ここで失礼させていただきます」
アヌビスは一方的に会話を打ち切ると、くるりと踵を返してジェーンの出てきた闇へ歩み入って行った。
遅れて扉の開閉する音が辺りに響き、後に、リェンとジェーンだけが取り残された。
「全く…あの犬女はいつもああだ…」
彼は闇に向けて一言ぼやくと、軽く頭を振って気を取り直し、ジェーンに向き直った。
「あー、もう聞いているとは思うが、俺はハークル・リェン。ダーツェニカの衛兵団の北東地区隊長をしている」
「あたしはジェーン。家名は無いからジェーンでいい」
二人は簡単に名乗り合うと、どちらからともなく歩き出した。
「はいよ、ジェーンね…それで、ジェーンさんとやら、まずは何をする?」
「まずは、一番新しい現場を見たい。犯人の臭いが新鮮なうちの方が、早期事件解決につながるからな」
「やっぱり臭いか…」
ワーウルフ、と聞いた時点からリェンの胸中にあった可能性の現出に、彼はやれやれとばかりに溜息をついた。
「問題があるのならば別の現場から、あるいは明日からでも構わないが?その代り事件の解決が遅れて、あたし共々呼び出しだろうがな」
「はいはい、問題ありませんよ、ジェーンお嬢様」
「お嬢様というのはやめろ」
「はいはい」
打ち解けたような、打ち解けていないような、そんな言葉を交わしながら、二人は地下の部屋を出て行った。



地上に出ると、リェンは一度詰め所に立ち寄って部下に一声かけてから、ジェーンの言葉通り最新の現場へ彼女を案内した。
「ここだ」
見張りの衛兵に、捜査を協力する人物だと手短に紹介した上で、リェンは部屋に彼女を入れた。
「ふむ…」
ジェーンは部屋の入り口に立ち、部屋の中を一瞥してから天井の穴に目を向けた。
「あれがそうか」
天井の穴を示して、彼女が問いかける。
「ああ、被害者はあそこに頭突っ込んだ状態でぶら下がっていた」
「実際に見てみないことには信じられないな…」
天井の穴を見つめながら、ジェーンが呟く。
「まあ、俺も話を聞いただけなら、『そうか、とりあえず落ち着こうか』って言いたくなるレベルのバカげた状況だからな」
「しかし目撃者も証拠もあり、被害者も実在している」
「ああ」
リェンはそう頷いた。
「とりあえず、この現場の臭いを覚える。少し外してくれないか?」
「いいともいいとも、廊下で待っていよう」
リェンは踵を返すと部屋を出て、後ろ手に扉を閉めた。
「……」
ジェーンは、目を閉ざすと大きく息を吸った。
窓越しに歓楽街からの喧騒が聞こえる一室に、彼女の呼吸音が加わる。
そして彼女の鼻孔を、さまざまなにおいを孕んだ空気が通り抜けて行った。
「……はぁ……すう……はぁ……」
口から吐いて、鼻から吸う。そうやって彼女は数度の呼吸を繰り返して、臭いを分析し、覚えた。
床板の臭い、家具の臭い、シーツを洗った洗剤の臭い、埃の臭い、香水の匂い、宿屋の食堂で出している料理の臭い、女の汗の臭い、精液の臭い、男の汗の臭い。
「…よし…」
頭の中で、嗅ぎ分けた臭いのいくつかに印をつけると、彼女は目を開いてそう呟いた。
彼女は部屋の扉を開けると、廊下に出た。
「ん?何か必要なのか?」
廊下の壁に寄りかかっていたリェンが、部屋から出てきたジェーンにそう声をかけた。
「いや、ここはもういい。次に新しい現場へ案内してほしい」
「ここはもういい、ってあんま時間経ってないぞ?いいのか?」
ジェーンの言葉に、彼は目を丸めた。
「問題ない。この部屋の臭いは覚えた」
「臭いを覚えた、って…まあ、別に次の現場に案内するのはいいが、大丈夫なのか?」
「大丈夫だ、問題ない」
ジェーンを先導するように歩き出しながらの彼の問いに、彼女は応える。
「あとは他の現場を回って、共通した臭いだけを選び抜き、捜査に当たった衛兵の臭いを除去すればいい」
「そうすりゃ犯人の臭いだけが残る、ってわけか」
「そうだ」
ジェーンの返答に、リェンは頭を振った。
「臭いが分かったところで、犯人が出てくるわけでもあるまいに…」
「確かに、臭いだけで犯人が捕まるはずはないな」
廊下の突き当たりに設けられた階段を降りながら、彼女は続ける。
「しかし、臭いが分かれば現場からのある程度の足取りもわかる。少なくとも、どんな奴が犯人かと想像を巡らしたり、近隣住民のあやふやな記憶を当てにするよりかは確実だ」
「…へ、言われてみればその通りだな…」
階段を降りると、リェンは自嘲を孕んだ笑みを浮かべた。
「ま、捜査の手助けにはなりそうだな…とにかく、次の現場へ行くぞ」
「うむ」
二人は見張りの衛兵の見送りを受けながら、宿屋を後にした。




そして、二人が一連の事件の現場を巡り終える頃には、東の空が白みつつあった。
夜中を過ぎて人通りの少なくなった通りには、朝を控えて朝市を目指す人々が行き交っている。
二人は人の流れを避けるようにして、道の端を進んでいた。
「もう少しかかる覚悟をしていたが、一晩で現場をすべて回れるとは思わなかったな…」
「あーあ…徹夜かよ…」
朝特有の冷気に包まれたダーツェニカの道を進みながら、二人は会話になっていない言葉を発した。
「それで、何度も確認するようだ、何が分かった?」
「犯人が男だということだ」
「…ああ、そうかい…」
徹夜の疲労によるものか、リェンは怒る気力も失せた様子でそう返した。
「冗談だ。とりあえず犯人の体臭は覚えた」
「捕まえてきた容疑者の中から、犯人を選び出せるぐらいでか?」
「もちろんだ」
足を進めつつも、彼女は続けた。
「それどころか、街の中ですれ違っても気が付けるぐらいに、だ」
「へえ、それは頼もしいな」
「なぜあたしが派遣されたか、よくわかるだろう」
そう言う彼女の口調には、いくらかの誇らしさが滲んでいた。
しかし、リェンは内心で胸を張るジェーンに向けて、こう続けた。
「だが、臭いだけじゃあ逮捕はできんな」
「…なに…?」
彼女はリェンの言葉に、足を止めた。
「どういうことだ?」
「どうもこうも、お前さんの『こいつから犯人の臭いがする!』って言葉だけじゃ逮捕は出来ねえんだよ」
彼女に続けて足を止め、肩越しに振りかえりながら彼は答えた。
「犯人がその場に、下手すれば取り押さえられるかもしれないというのにか!?」
「そうだ。他の人間にも分かるような、明らかな証拠がないとだめだ。疑わしい、というだけで逮捕するのは、異端審問官や浄罪士と同じだ」
止めていた足を再び進めながら、彼は続けた。
「まあ、それでもお前さんの鼻は、俺たちの捜査の手助けにはなるだろうな…さ、もうすぐ詰所だ」
「……」
自身の鼻は逮捕の決め手になり得ないと通告されながらも、期待しているようなリェンの口ぶりに、彼女は複雑な表情を浮かべながら足を踏み出した。
しばしの間、二人は人通りの端を無言で進んだ。
角を曲がり、人々の間を進むうち、衛兵隊の詰め所が見えてくる。
「あそこだ」
すぐ後ろにいるジェーンに向けて、リェンは手を掲げて詰所の建物を示した。
リェンは建物の前に立っていた見張りの衛兵に一声かけると、ジェーンと共に詰め所に入った。
「さて、徹夜したから一休み…と行きたいところだが、まずはウチの衛兵に紹介だ」
廊下を進みながら、彼はそうジェーンに言った。
「紹介だと?」
「ああ、一応俺たちとの共同捜査だからな。見知らぬ女がこそこそ現場を嗅ぎまわっている、というのはあまりいい気分じゃないだろうからな」
「数ばかりいて、男一人捕えられぬ連中にあいさつか」
「事実かもしれないが、連中の前では言うなよ」
リェンは苦笑すると、廊下に面した扉の一つに手を掛けた。
「ここが衛兵の部屋だ…入るぞ」
彼の一声と共に扉が開き、中にいた衛兵たちの視線が二人に集中する。
直後、座ったり壁に寄り掛かったりと、思い思いの姿勢を取っていた衛兵たちが、隊長であるリェンに向けて直立した。
「あー、楽にしてくれ」
直立不動の姿勢を取る彼らに、リェンは告げた。
「知っているやつもいるとは思うが、今回の連続娼婦暴行事件の解決のために、上の方から協力者が派遣された」
「ジェーンだ。家名はない」
衛兵たちに向けて、ジェーンは名乗った。
「とりあえず彼女には、昨日までに起きた事件の現場を見せている。そして、今夜からの警邏に同行し、事件発生の場合には現場の検証に立ち会う。まあ、不満もあるかもしれないが、協力してやってくれ」
「了解しました」
衛兵たちがリェンにそう答えた。
「では、俺はこのお嬢さんの現場検証につきあったおかげで徹夜だからしばらく休む。誰か、彼女の部屋を準備してやってくれ」
「はい、では自分が」
「頼む」
彼は隊員の一人が名乗りを上げるのを確認すると、ジェーンに顔を向けた。
「じゃあ、後はこいつについていってくれ。警邏の準備は夕方前だ」
「分かった」
言葉を交わすと、ジェーンは衛兵に連れられて、リェンは自身の部屋へ向かって、それぞれ歩きだしていった。



リェンが一休みし、食事と書類仕事を片づけたころ、日は傾き夕刻前ほどになった。
露店が並ぶ市場街では、日用品などの露店は店を畳み、食べ物の屋台が開き始める頃だろう。
道を行きかうのも、商取引を控えた商人や使いの者たちから、取引の成立を祝って杯を交わそうと酒場へ向かう者へと変わっていた。彼らが酔客になるのに、そう時間はかからないだろう。
そんな人々の間を、制服に身を包んだ衛兵たちが歩いていた。
酔客によるトラブルを解決し、犯罪の発生を抑えるためである。
それと同時に、彼らは行き交う人々の間から、とある一人の姿を探していた。
連続娼婦暴行事件の犯人と目されている、『女一人を軽々と天井に放り投げられるような筋肉質の男』である。
衛兵たちは未だその容疑者の姿を捉えたことはないが、それでも犯罪現場から推測される犯人像を信用し、犯人を追い求めていた。
そして、通りの一本を進む一組の男女も同じであった。
「どうだ?いそうか?」
「臭いを嗅いだら教える」
リェンの問いに、ジェーンは不機嫌そうに答えた。
無理もない、犯人探しの当てもないのに、臭いを求めてただうろついているだけなのだ。
地道ではあるが地味な作業に、彼女は不満を覚えていた。
「もう少し、怪しい連中を片端から捕えて、私に嗅ぎ分けさせるとか言ったことは出来ないのか?」
道を進みながらの彼女の言葉に、リェンは苦笑いを浮かべた。
「そいつは無理な相談だな。よほどそいつが怪しいって証拠や状況でなければ逮捕は無理だ」
「面倒だな…あんたたちが浄罪士や異端審問官なら、たちどころに二、三十人は怪しい連中を引っ張って来ただろうに」
「俺達はダーツェニカ衛兵だ」
リェンは立ち止り、体ごとジェーンに向き直りつつ、彼は続ける。
「ダーツェニカ衛兵は聖都の連中とは違うし、王都の連中とも違う。疑わしい、というだけで住民や商人を捕縛しては、自由商都市ダーツェニカの名が泣いちまう」
「そんな…聖都や王都の連中とは違う、というお題目のためにこんな面倒…」
途中までそう言葉を紡いだところで、ジェーンは言葉を断ち切った。
「どうした?」
不意に絶たれた言葉に、リェンは問いかける。
「今、犯人の臭いを感じた…」
「何!?」
リェンは即座に辺りを見回し、行き交う人々の間から犯人像に合致する人物を探した。
「どっちだ!?」
人の合間を透かして、通り一帯に目を向けるが、目立つような大男は見当たらない。
「一瞬だった。どこからか臭いが流れてきたのか、犯人に近しい人物がいたのか…」
「どちらでもいい、臭いの出元を探るんだ」
「ちょっと待て…」
ジェーンは両眼を閉ざし、数度呼吸を繰り返した。
「こっちだ…!」
カッと目を見開き、通りの一方を指す。
「よし、行くぞ!」
「まて、逮捕は出来ないはずじゃ?」
駆け出したリェンに追い縋り、追い抜いて先導しながら、彼女が問いかけた。
「逮捕は出来ない。だがな、相手を特定して見張りを付ける程度のことは出来る!」
「逮捕してないだけで、似たようなものじゃないか!」
人々の間を縫って、二人は駆けて行く。
屋台の並ぶ通りを右に左に折れながら、ジェーンは臭いを辿っていく。
次第に人の通りが少なくなり、並んでいた屋台はいつの間にか姿を消していた。
いつしか二人は大通りを離れ、裏町にほど近い路地裏に入り込んでいたのだ。
「本当にこっちの方か?」
「ああ、余計なにおいが消えて、より追いやすくなった…!」
まっすぐに突き進んでいくジェーンへの問いに、彼女は応える。
「何処からか流れてきた匂いでも、犯人に近しい者の臭いでもない。確かに犯人の臭いだ…!」
石畳を靴で鳴らしながら、彼女はそう高らかに宣言した。
「それに、少しだけ興奮したような臭いも混ざっている。犯行を行うつもりなのかもしれない」
「上手くいけば、現行犯で逮捕もできるな」
リェンは、自信に満ちた彼女の言動に、そう踏んだ。
「しかし…」
急に、ジェーンが口調を陰らせる。
「しかし、どうした?」
「この辺りには、人間会の魔物の住処がいくつか存在する…」
「魔物の味を覚えた犯人に、魔物が襲われるとでも言いたいのか」
「ああ」
リェンの問いに、彼女は頷く。
「娼婦の仕事で隙を晒していたサキュバスならともかく、魔物が人間相手に後れをとりはしないはずだ」
不安を紛らわせ、彼女に追跡の集中を取り戻させるべく、リェンはそう言った。
「むしろ、魔物の返り討ちに合うまえに、犯人を俺達で『保護』してやる必要があるぐらいだ」
「詰所の留置所にか」
リェンの冗談に、彼女は薄く笑みを浮かべた。
「それより、後どのぐらいだ?」
「もうすぐだ。大分臭いが強い…!そこを曲がるぞ…!」
そう言って、裏通りにつながる路地の一本に飛び込もうとした瞬間、何かが路地の奥からまろび出た。
「うわっ!」
「…!」
ジェーンと何者かがぶつかり、二人が転倒してしまう。
「おい、気を付けろ!」
ジェーンが身を起こしつつ、ぶつかった相手に怒鳴った。
彼女の視線の先に転がっていたのは、薄汚れた上着を羽織った小男だった。
「す、すいやせん…」
小男は身を起こし、リェンの衛兵隊の制服姿に恐れをなしたかのように裏通りの向こうへ駆けて行った。
「大丈夫か?」
「どうにか」
差し出されたリェンの手を握り、立ち上がりながら彼女は続けた。
「それより急ぐ。もっと臭いが強くなった。路地裏の先にいるのかもしれない」
「……!」
リェンは表情をこわばらせ、緊張した面持ちで路地裏の闇の奥を見据えた。
「…行くぞ」
「ああ…」
二人は路地裏の奥の気配を探りながら、一歩ずつ踏み入って行った。
極力足音を忍ばせつつ、石畳を進む。
すると二人の耳に、荒い息が届いてきたのだ。
「…聞こえたか?」
「ああ」
耳を打つ女の物と思われる荒い呼吸音と、彼の鼻でも分かるほど濃厚な青臭い精液の臭いに、リェンは確信した。
この先で、一連の事件の犯人が今まさに新たな被害者を作っているのだ、と。
「そこの先だな…」
月光が差し込む路地の角で、壁際に身を寄せながらジェーンが囁く。
「応援は呼ぶか?」
「いや…時間が無い」
犯人像を思い浮かべながらのリェンの問いに、彼女は低く答える。
「だけど、この狭さなら相手は思うように動けないはずだ。あたしの突きなら、一撃で沈められると思う」
「なら、相手が逮捕に抵抗したら、おとなしくさせてやってくれ」
「いきなり叩きのめすのは、王都や聖都の連中のやり方だからか?」
「ああ」
薄闇の中、ジェーンは微かに苦笑した。
「分かった…」
「調子を合わせて、同時に踏み込むぞ…」
微かな月明かりの下、二人は視線を合わせ、目配せで調子を合わせてからほぼ同時に角を飛び出した。
「動くな!」
「ダーツェニカ衛…」
しかし、勇ましく響くはずだったリェンの名乗りは、半ばで力を失って掻き消えた。
路地の突き当たり、袋小路にいたのはただ一人、壁に寄りかかるようにして崩れ落ち、白く濁った粘液を浴びたミノタウロスだけだったからだ。



ジェーンがミノタウロスを介抱し、リェンが応援を呼びに表通りまで戻ってからしばしの時が過ぎた頃には、既に日付が変わるころだった。
細い裏路地は衛兵隊の面々によって埋め尽くされており、ミノタウロスの倒れていた辺りを中心に、綿密な調査がなされていた。
「全く、お前さんの鼻が無ければ、すぐそばを通って行ったアイツが犯人だとわからなかったな」
「確かに、犯人像とかいう妄想さえなければ、そのまま逮捕できるところまでいってたのにな」
四件目の現場から離れ、目撃した犯人に関する情報を衛兵に伝えると、二人は互いに皮肉ると口を閉ざした。
沈黙したまままっすぐに見つめ合う二人は、まるで深い仲の男女のようだったが、その視線の鋭さや張り詰めたような雰囲気は、火薬庫で松明を掲げているようであった。
「まあ、いまさら言ってもしょうがないことだな…」
リェンが沈黙を破り、視線をジェーンからそらした。
「俺とお前の不手際で逃がしたのは事実だが、これで犯人の特徴がつかめた」
リェンていた苛立ちの中に、自分自身が犯人に気が付けなかったという無念が含まれていることに気が付いたのだろうか、彼の口調から棘が消えていた。
「今度こそ捕えるぞ」
「ああ」
彼の言葉から、強い決意を感じ取ったのか、ジェーンもまた苛立ちを納めた。
「それで、アイツを捕えるって、具体的には何をするんだ?」
「まずは聞き込みだ」
ジェーンの問いに、リェンは答えた。
「俺たちの目撃情報を基に、これまでの現場近辺で聞き込みを行う。あとはどの方角から現場に来て、どの方角へ行ったかを推測するだけだ。そうすれば、犯人の活動範囲が絞り込める」
「なるほど…」
改めて聞いてみれば、なかなか理にかなった捜査手法であることに、ジェーンは感心していた。
「そこから先は動きがあるまで待つ、というのがいつものやり方だが、今回は違う」
「あたしの鼻を使うんだな」
「ああ」
リェンは頷いた。
「臭いで位置を確かめて、確実に捕える」
「証拠は?」
「俺たちの証言だ。後は本人からゆっくり聞きだすとしよう」
彼の言葉に、ジェーンは頷いた。


そして数日後、過去四件の現場からほど近い、あまり治安のよくない区画の集合住宅の近辺に、リェンを含む数人の衛兵の姿があった。
「ここだな?」
「はい」
リェンは傍らの衛兵の返答を聞くと、これから突入する予定の集合住宅を見上げた。
古い木材と石材を積み上げ、ところどころが補修された三階建ての建物。
最初の三件の舞台となった安宿よりもさらに低い、行き場のない者の流れつく場所だ。
「包囲の状況はどうなってる?」
「一時間前より、すでに指定のポイントに待機しています」
部下の報告に頷くと、彼は昨日の打ち合わせを思い返した。
詰所の会議室に集められた、数十人の衛兵たち。彼らの前にあったのは、ダーツェニカの貧民街の一角の見取り図と、それを背にして立つリェンだった。
『犯人の住居は、築百年に及ぶボロ屋だ』
建物を見上げるリェンの脳裏で、彼自身の言葉が響く。
『今回の連続暴行事件の容疑者確保のため突入するが、いつものように何十人も押し掛けると倒壊する恐れがある』
「それじゃあ行くぞ」
リェンは視線を下ろして衛兵たちに声を掛けた。すると部下たちは緊張した面持ちで、手にした警棒を握り直し、集合住宅の入口の左右を固めた。
そして、扉の取っ手を握ると、枠ごと外れそうなそれを開いた。
『突入するのは俺を含めた数人。残りの連中は現場を包囲するように待機してもらう』
リェンは素早く開け放たれた扉から中に入ると、細い廊下を進み始めた。
廊下に並ぶ部屋から住民が、何事かとばかりに薄汚れた顔を突きだすが、彼らは気にも留めずに廊下を進んだ。
『無論、容疑者の抵抗や逃走は考えられるが、その際はお前達の出番だ』
勢いよく足を踏み下ろせば踏み抜いてしまいそうな階段を上り、三階の一角にある一室の前で一同は足を止めた
二人の衛兵が扉の左右に付き、一人が扉の正面に陣取る。
そして互いに目配せをかわすと、扉の正面の衛兵が足を上げ、力強く靴底を扉に叩き付けた。
扉の木材が割れたか、蝶番が外れたか。あるいはその両方によるものと思われる破砕音とともに、扉が部屋の内へ向けて開く。
「ダーツェニカ衛兵隊だ!」
部屋の中に衛兵たちが雪崩れ込みながら、そう声を上げた。
ベッドと、物入れと思しき木箱だけが置かれた部屋で、ベッドから身を起こした小柄且つ貧相な男が目を白黒させながら、自身を囲む衛兵たちを見ていた。




「そろそろかな…」
容疑者の住む集合住宅の近く、路地に積まれた木箱にもたれかかりながら、ジェーンは呟いた。
既に、リェン達が突入を予定していた時間は過ぎている。
『容疑者が抵抗や逃走した場合は、笛で方角を伝える』
ジェーンの耳は、いまだ笛の音を捉えていない。
だが、油断は禁物だ。
彼女は全身をリラックスさせつつ、いつでも動けるよう待ち構えていた。
今回は動きやすさを優先したため、リェンの勧めた革鎧は纏っていない。男の手足の間合いの外にいる限り、革鎧の世話になることもないと考えたからだ。
「…!」
不意に、彼女の耳を木材の割れる音が打った。
人間の耳でも微かに捉えることができるぐらい、大きな音だ。
叩き付け、殴りつけ、ひしゃげる音。
彼女は木箱から背を離し、集合住宅に目を向けた。
その間にも何かが叩き付けられる音、何かが割れる音が彼女の耳に届く。
そして、カーテンのかかった窓を人影が突き破り、遅れてもう一つ人影が飛び出した。
二つの人影は隣の建物の屋上に飛び降りると、片方がしばしよろめきつつも立ち上がって走り出した。
『容疑者は小柄で痩せた男だ』
屋根の上を移動する小柄な人影を追う彼女の脳裏に、リェンの声が響く。
『だが、外見とは裏腹に成人の女を天井に投げあげ、ミノタウロスを倒すほどの力を持っている。奴の間合いに入る時には、十分に気を付けろ』
「やっぱり、上手くいかなかったようだね…」
遅れて割れた窓から響く笛の音と確認しながら、彼女は地面を蹴った。
犯人の逃走と、方角を伝える間断的な笛の音のひびく路地を飛び出し、耳と鼻に意識を向けながら通りを駆ける。
直接は見えないが、彼女の耳は建物の上を移動する足音を捉え、彼女の鼻は覚えのある体臭を追っていた。
すると建物の上の足音が向きを変え、ちょうど彼女がいる方向とは反対の方へ何かが落ちる音が響いた。
段階的に低い建物へ移っていたとはいえ、重い音と小さなうめき声にかなりの衝撃があったことを彼女は悟った。
「…お前!」
建物の向こうから、この辺りに待機している衛兵の声が響く。
「先を越されたか…」
建物を挟んで向こう側の通りへと抜ける道を探しながら、彼女は呟いた。
その間にも、おそらく身動きが取れないであろう容疑者に対する、衛兵の言葉は続く。
「『連続暴行事件』の容疑者だな。大人しくしろ、お前を確保…」
だが、最期まで言葉を紡ぐ前に、衛兵の言葉は重い音によって断ち切られた。
何かがぶつかるような音と、男が一人壁に叩き付けられるような音。
そして、何者かが立ち上がり、ゆっくりではあるものの移動していく音が聞こえた。
「くそ…!」
建物と建物の間の細い路地を駆け抜け、向こう側の通りにジェーンが飛び出す。
だが既に痩せた小柄な男の姿は無く、嗅ぎ覚えのある体臭と壁にもたれかかる衛兵が一人いるだけだった。
建物から飛び降り、衝撃によって身動きが取れなかったことで油断したのだろうか。犯人の一撃を受けた衛兵は、気を失っているらしく動く気配がなかった。
「おい、大丈夫か!?」
笛の音か、何かが叩き付けられる音か、他の持ち場で待機していた衛兵が、身動きを取る様子の無い彼に駆け寄ってきた。
「おい!あんたは犯人を追ってくれ!こいつは俺がどうにかする」
駆け寄ってきた衛兵はジェーンに向けてそう言った。
「分かった」
彼女は短く応じると、踵を返して犯人の臭いを追って駆け出した。
「しっかりし…!」
後ろから衛兵の驚いたような声が届くが、ジェーンは振り返らなかった。
辺りに立ちこめる犯人の臭いから、尾を引くように伸びる部分を伝って、彼女は駆けた。
人間の足とワーウルフの足では、追いつくのは時間の問題だ。だが、相手はかなりの腕力の持ち主のようで、彼女が単身挑んだところで確保など無理だろう。
(ならば、手っ取り早く思いもよらないところから攻撃すればいい)
彼女はそう考えると、通りを駆けながら建物に寄り、力強く地面を踏み込んだ。
彼女の脚力にその体が宙を舞い、壁面から張り出した窓のひさしがまるで足場のように彼女の前に差し出される。
ジェーンはさらにそのひさしを足場に跳躍を行い、通りに並ぶ建物の屋根の上に降り立った。
そして、地上と変わらぬ速度で屋根の上を駆けた。
建物の合間の屋根の切れ目を飛び越え、建物の高低差を難なく乗り越えていく。
程なくして、彼女はあまり人通りのない通りをよろよろと走る、小柄な男の後ろ姿をその目に捉えた。
彼は時折振り返り、その痩せた顔に嵌まったぎらぎらした目玉で、追手がいないかを確認しながら足を進めていた。
しかしその目は地上ばかりを見ており、屋根の上にいるジェーンの姿はおろか、影すらも見つけきれないようだった。
彼女は心なし足から力を抜き、音を抑えながら犯人を追跡した。
そして、犯人が幾度目かしれぬ背後の確認をし、顔を前に向けたところで、彼女は強く屋根を蹴った。
ジェーンの身体が宙を舞い、屋根の上から通りの上へ、犯人の背中に向けて落下していく。
彼女は空中で足を突出し、重力の導くままに男の小さな背中に蹴りを突き立てた。
「っ!」
悲鳴でも驚きの声でもなく、肺から搾り出された呼気が喉を通り抜ける音を立てながら、小柄な男が仰け反り、地面に倒れ伏した。
「おっと、動くな」
地面に強かに顔をぶつけた犯人の背中に足を乗せながら、ジェーンはそう声を上げた。
「ダーツェニカ衛兵隊だ」
狩りの身分を名乗りながら、うつぶせのまま顔面を抑える男に向けて彼女は続ける。
「衛兵公務の執行妨害と、衛兵への暴行でお前を逮捕する」
言葉とともに背骨の一点をつま先で圧迫すると、痛みに男がうめき声をあげた。
「腕をまっすぐ伸ばしてじっとしていろ」
応援が追い付くまでの時間を稼ぐべく、彼女は可能な限り力の入りにくい姿勢を男に取らせた。
伸びきった両腕両脚では、どれほど筋力があったところで背中を踏む彼女を押しやって立ち上がることなど不可能である。
「よし…」
これで後は衛兵たちを待つだけ。
そう思い、位置を伝えるべくあらかじめ渡されていた笛を取り出そうと懐を探った瞬間、彼女の足もとから頭頂に掛けて、衝撃が貫いた。
空が裏返り、地面が立ち上がる。
並ぶ建物が彼女の左右を前後をぐるぐるとめぐり、視覚と重力が彼女を内と外から掻き回す。
(ああ、とばされたのか…)
目まぐるしく回転する視界の中で、ジェーンはどこか冷静な頭の一角を使ってそう考えた。
直後、彼女の身体が地面に叩き付けられ、鈍痛が全身に走る。
しかし彼女は痛みに呻きつつも、地面に手をついて身を起こし、辺りに顔を巡らせた。
逃走しているはずの男を探すための動きだったが、彼女の両の目が捉えたのは男の背中ではなく、彼女の方に向き直る男の背中だった。
こけた頬に唇を釣り上げ、ぎらつく両の目を細めてにやにやと笑みを浮かべる男。
ただそれだけでも十分異様だというのに、薄汚れたズボンの股間の合わせ目は何故か開いており、そこからやや小ぶりな屹立が姿を覗かせていた。
衝撃と地面に叩き付けられたダメージに混濁する彼女の意識はもちろん、正気であってもジェーンは男が股間を晒している状況を理解できなかっただろう。
惑乱する彼女をよそに、男は笑みを浮かべながら歩み寄り、屹立に手を添えてしごき始めた。
たちどころに屹立が大きく脈打ち始め、絶頂の気配を放ち始める。
思考が混濁する彼女の意識に不快感と嫌悪感が生じるが、先ほどのダメージが残っているせいか思うように動けなかった。
距離を取ろうと地面を掻くジェーンの手足に、男はさらに笑みを深め手の動きを加速させた。
屹立の先端に、白い物が混ざった滴が宿り、男の呼吸が荒くなっていく。
ジェーンはある種の諦念を胸中に抱き、目に入らないように、と目蓋を閉ざした。
薄闇の中、男の呼吸音を聞きながら、彼女は備える。
だが、いつまでたっても生温かい粘液は降り注がなかった。代わりに彼女に届いたのは、低いうめき声だった。
直後、彼女の身体を何者かが抱え上げ、大きく揺さぶられながら走り出した。
「ダーツェニカ衛兵隊だ!」
「大人しくしろ!」
大声の響く中、彼女が目を開けると、そこには見慣れた顔があった。
ジェーンを抱え、歯を食い縛りながら懸命に駆ける、リェンの顔だ。
リェンは通りに接する路地の一本に飛び込むと、ようやく足を止めた。
「はぁ、はぁ…大丈夫か…?」
荒く息を突きながら、リェンがそう彼女に問いかける。
「…あ、ああ」
頭もだいぶはっきりしてきたというのに、いつの間にかぼんやりしていた彼女は、彼の問いにあわてて首を縦に振った。
「そうか、なら下ろしても大丈夫だな」
「っ!」
ジェーンはそこでようやく、いまだリェンの腕に抱えられたままであることに気が付いた。
「お、下ろせ!」
「はいはい、下ろすから暴れるなって」
じたばたともがく彼女を立たせると、彼は一息つきながら腰を叩いた。
「無事だったのか」
集合住宅から響いた音と、窓から飛び出した二つの人影に、内心もうだめだろうと彼女は踏んでいた。
「ああ、何とかな」
建物の壁に寄り、通りを伺いながら彼は答えた。
「小柄だから拳の間合いに入らなければいいと考えていたけど、間違いだった」
少しだけ顔を出して、様子を確認して引っ込めると、リェンは続ける。
「あの野郎がチンコ突然出して、俺の部下を一人吹っ飛ばしやがった」
「…ん?」
彼の口から紡がれた謎の言葉に、ジェーンは自身の耳がまだ本調子ではないという疑いを抱いた。
「そして事態を理解する前にもう二人ヤられて、物陰に隠れたところを精液が掠めた。それで応援を呼ぼうとしているところで、あいつが倒れた部下で窓突き破って逃げたんだよ」
「ううん…う、ん…?」
腕を組み、首を傾げ、リェンの言葉を反芻する。
犯人が屹立を出して射精して衛兵を吹き飛ばした。
彼の言葉をそのまま受け取ればそんな意味になるが、この男は何を言ってるのだろうか?
ジェーンは目の前の男の正気と、自身の聴覚と意識の回復に疑念を抱いた。
「納得できないだろうな」
彼女の言葉から漂う困惑をかぎ取ったらしく、リェンが振り返りつつ言った。
「俺も最初見たときは、頭を打ったんじゃないかと思ったが、考えてみればつじつまがいろいろ合うんだよ」
建物の角から頭を戻しつつ、続ける。
「最初の連続娼婦放り投げ事件は、被害者の体内から犯人の精液が出てたが、騎乗位であの発射を受けたとしたら、どうだ?」
あの勢いを腹に受けてしまえば、体が突き上げられるだけでは止まらず、天井に突き刺さってしまうだろう。
被害者たちが発見された時の状況、そのままのように。
「真夜中の路地裏で、偶然出会ったミノタウロスにあれを浴びせかけたら、どうなる?」
その衝撃に吹き飛ばされ、まるで投げ飛ばされてから精液を浴びせかけられたようになってしまうだろう。
あの夜、犯人を取り逃がしてしまったときのように。
「そして、うつぶせに倒れてお前が背中に乗っている状態で、手を使わずに犯人が達することができたら?」
股間を中心に犯人の身体が吹き飛び、その勢いをもろに受けたジェーン自身もまた、宙を舞う。
「だからか…」
「やっと納得がいったようだな」
リェンは言葉を漏らすジェーンに向けて、うんうんと頷いた。
「一体ナニをどうしたのかは分からないが、ただの馬鹿力じゃないというのは厄介だな」
単に力が強いだけならば、拳足の間合いの外に出れば攻撃を受ける可能性は低くなり、更に距離を取れば瞬間的に距離を詰められることもなくなる。
だが。
「『射撃能力』か…」
拳足の間合いを超え、反動で自身の身体さえも動かせる『射撃』に、ジェーンは呟いた。
すると、どこからか笛の音が響き、それに呼応するように別の方向から笛の音が響く。
「笛の通信か…」
「静かに」
長短を織り交ぜた断続的な笛の音を、リェンはジェーンを制しながら聞く。
「…包囲が完了したらしい」
笛の音が途絶えたところで、彼はそう言った。
「通りにつながる路地に衛兵が三人ずつ待機している。ヤツがどこかに逃げようとすれば、その先で足止めして、他の連中の人海戦術で押さえ込む」
「人海戦術?それでは怪我人、いや死者が…」
「分かってる」
目を見開くジェーンに、リェンは苦々しく応じた。
「だが、この機を逃して取り逃がしてしまえば、被害はさらに広がるだろう。それに今から、捕縛用の麻酔矢を用意する暇もない」
だから、多少の犠牲覚悟で人海戦術による捕縛に踏み切るということだった。
しかし自身でも納得しきれていないのだろうか、リェンの表情には苦い物が浮かんでいた。
「ほかに方法は…」
「もう考えている暇がない」
ジェーンの問いに、彼はかぶりを振った。
「いや、一つある。あたしが抑え込んでから、人海戦術で封じ込めればいい」
「何?」
彼女の提案に、リェンは声を漏らした。
「さっき、奴をしばらく動きを封じていた。奴が抵抗する前に、待機している衛兵たちで抑え込めば…」
「駄目だ」
リェンは首を振る。
「ついさっきのことならば、奴も警戒しているはずだ。それに、お前自身もまだダメージが残ってるだろう」
「あたしは大丈夫だ」
「俺が心配なんだ!」
リェンはジェーンにむけて、やや大きい声で言った。
「お前が本調子でないせいで負傷して…その、何だ…人間会のアヌビスの奴から何か言われやしないかと…」
思わず出た声を誤魔化すように、やや小声で彼は言い訳めいた言葉を添える。
「それで、自分の部下なら怪我しても構わない、と?」
「人間会とのもめごとはごめんだからな」
「今回の一件に協力している時点で、あたしも人間会の面々も、多少の負傷は覚悟の上だ!」
「しかし…」
言いよどむリェンに向けて、ジェーンは続けた。
「あたしもダーツェニカに住んでいるんだ。ダーツェニカを、守らせてほしい」
「……」
彼女の視線と言葉に宿るモノを、リェンは受け止めた。
「分かった」
そして、しばしの間をおいてから、彼はそう応えた。




笛の音が響く。
断続的な、何かを伝えようとする意志の孕んだ笛の音が、ダーツェニカの街に響く。
男は、笛の音に衛兵たちが何かを企んでいることを悟った。
だが問題はない。彼には授けられた特別な力があるからだ。男相手は少々つらいが、衛兵たちの包囲網を突破するだけのことは可能だろう。
男は辺りを見回すと、どの路地から包囲網を突破しようか算段を立てた。
だが、逃走経路を確立する前に、路地の一本から人影が現れた。
皮鎧を身にまとい、腰に剣を下げた衛兵だ。
数人がかりで男を路地に追いたてて、捕えようというつもりだろうか?
「へへへ…」
男は頬をゆがめながら、衛兵たちの浅はかな作戦を笑った。彼に与えられた力ならば、数人の衛兵などに追い立てられることはないからだ。
「へへ…ん…?」
不意に、彼の笑みが断ち切られ、怪訝な表情が浮かぶ。
路地から出てきた衛兵が、たった一人だったからだ。
弓を手にしているわけでも、こちらに向かって駆けてくるわけでもない。
ただ一人の衛兵。
「!」
男は、とっさに首をひねり、視線だけで傍らの建物の屋根を見上げた。
屋根の上にいたのは、帽子を目深にかぶった人物。つい先ほど、逃げる男に上から襲いかかり、一時とはいえ地面に押さえ込んだやつだ。
衛兵一人を囮に出して、気をそらしているうちにまた襲いかかろうというつもりだろうか。
男は、先に気がつけたことに内心ホッとしつつ、これからの動きを立てた。
まずは身をひねり、上から飛び降りてくるであろう女を『射撃』。そして撃ち落としたやつを人質に、包囲網を突破。
後は適当に『射撃』しながら逃走すればいい。
「へへ…!」
一瞬で編み上げた策略に笑みをこぼしながら、男は振り返りつつ、いまだ晒したままの小ぶりな屹立を上に向けた。



全て、リェンの予測通りだった。
ジェーンの作戦にリェンが口をだし、囮で油断を誘うということになったのは、つい先ほどのことだ。彼女はリェンの予測を聞いても、どこかで何もかもうまくいくという気になっていた。
だが、実際のところ、犯人はリェンの予測通り建物の上から飛びかかろうとしていた人影に気が付き、前方に現れていた衛兵に背を向けたのだ。
帽子をかぶった人影が建物の縁を蹴り、男の屹立から白い物が迸る。
ジェーンの胸中に、後悔が深く突き刺さった。
だが、これも彼女が立てた作戦だ。そして、リェンが手を加えた作戦でもある。
いかなる負傷を負おうとも、覚悟と納得をしなければならない。
「うぁぁあああああ!」
衛兵の制服を身に纏ったジェーンは、一つ大きな声を上げると、彼女の帽子をかぶり『射撃』を胴に受けるリェンと犯人に向けて地面を蹴った。
背後からの女声の叫びに、男が驚いたような表情で振り返る。
だが身体が顔のひねりに追いつき、彼女に向き直る前に、ジェーンは二度三度と地面を蹴り、男との距離を半歩未満までに詰めた。
ワーウルフの身体能力が成し得る、急激な接近。
体勢が整っていたとしても、急速に接近する的を狙うことは至難の業だが、リェンとの衣装の交換と役割の入れ替えによって作り出した隙は、迎撃どころか回避の余裕すら与えなかった。
「あぁぁぁぁぁぁああああああ!」
ジェーンは詰め寄った身体の勢いを殺すことなく、犯人との半歩の距離を保ったまま、もう一度だけ地面を蹴った。
高々と掲げられた彼女の膝が、文字通り彼女の全身の体重を乗せて、数歩先まで届く跳躍の勢いで男の脇腹に突き刺さる。
彼女の履いたズボンと男の着ている衣服。それらを間に挟んでいるにもかかわらず、彼女の膝に肋が折れ、肉に食い込む感触が届いた。
「っはぁっ」
男の口から呼気が溢れ出し、遅れてあらぬ方向を向いていた屹立から白い物が発射される。
ジェーンを迎え撃つはずだったであろう『一撃』は、左右に並ぶ建物の一つにぶつかり、その壁に穴を穿った。
そして彼女の跳躍の勢いを男の肉体が吸収し、ジェーンの代わりに男が吹っ飛んでいくこととなる。
身体を横向きに、くの字に折り曲げつつ、男は宙を舞っていった。
そして、とっさの異常な集中力が織り成す、いつの間にか始まっていたゆっくりと時間の流れる瞬間は、男の身体が地面に触れた瞬間に終わった。
どさどさと、地面を男の身体が数度跳ねる音と、もう一つ何かが地面に叩き付けられる音が響いた。
「リェン!」
ジェーンは一声叫ぶと、地面に伏せる二人の男のうち、つい先ほどまで自分が纏っていた衣類と帽子に身を包んだ方へ駆け寄った。
「リェン!」
倒れ伏すリェンを抱え起こしながら、彼女は呼び掛ける。
彼が来ていた革鎧は、今ジェーンが纏っている。つまり、ジェーンのフリをして建物の上から襲い掛かったリェンは、もろに『射撃』を受けてしまっている。
「大丈夫か!?しっかり―」
「だ、大丈夫…むしろ、ちょっとそっとしてくれ…!」
『射撃』をもろに腹に受けたはずのリェンが、いくらか苦しいと言った様子で呻いた。
「お前…!」
「さすがに、二枚重ねてても、痛いモンは痛いな…」
腹部への衝撃に呼吸もままならないのだろうか、途切れ途切れにそう搾り出すと、リェンは目だけで笑いながら、白濁に濡れる上着をめくった。
「お前…」
「貸して、もらった…」
衣服の下に、部下から取り上げた革鎧を二重に着込んでいたリェンは、驚きに目を見張るジェーンにそう笑った。
「…全く、ひどい隊長だな…奴が鎧を奪った隊員の方へ逃げていたらどうしたんだ…」
「そん時は…とりあえず、後で謝るかな…」
「……」
ジェーンは、ため息を一つついてから、笑った。
辺りの路地から、待機していた衛兵たちが姿を現した。






「とまあ、こんな感じで事件は終わったわけだ」
衛兵の詰め所で、リェンはテーブルを囲む隊員たちに向けて、そう話を締めくくった。
「へえ…でも隊長、バードマンが出てきませんでしたね?」
「おい、お前話聞いてたか?こいつはジェーンとの最初の事件の話で、バードマンと会うちょっと前ぐらいだって言っただろう」
隊員の疑問に、リェンは呆れたように応じた。
「では隊長、バードマンが現れたのは?」
「えーと、あいつと俺が直接会ったのは二年前だが、あいつ自身の噂はもっと昔、仮装強盗が流行ってた…」
「リェン!」
リェンの言葉を断ち切り、詰所の扉が音を立てて開く。
「あ、ジェーン隊長!」
テーブルを囲んでいた隊員達が、扉の向こうに立つ帽子を被ったワーウルフに向けて、椅子から立ち上がりながら敬礼した。
「なんだ、ジェーン」
「北東の三番市場街で事件発生だ」
面倒くさそうに、直立する隊員の間から入り口を透かし見ていたリェンが、彼女の言葉に緊張を帯びる。
「種類と容疑者は?」
「無差別傷害。容疑者はソードブレイカー。あたしの部下たちが今相手をしている」
「分かった。ジェーンは他の詰め所回って、もっと応援呼んで来い。あと、シャループとフィラリオは詰所に残って、後の連中は俺について来い」
「了解!」
衛兵たちが、リェンの言葉に返答し、詰所から飛び出して行った。
「じゃあジェーン、現場でな」
「分かった」
詰所から出た男とワーウルフは、互いに短く言葉を交わすと。互いに背を向けて駆け出した。
夜道をそれぞれ部下を引き連れ、あるいは飛ぶように二人は進んでいく。
ダーツェニカを守るために。
12/03/18 00:23更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
ダーツェニカの衛兵隊ほど、優れた衛兵達はいなかった。
監視、捜索、逮捕、鎮圧。
治安維持に必要な四つを、皆が体得していた。
彼らのような衛兵達が、いつか現れるだろうか。

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