連載小説
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中編
 ―5―

 北の森を挟んだ先、そう遠くない距離には魔物と結託する国があり、さらにその北方には魔界へと堕ちた国々が広がっている。表立った侵攻こそしてこないものの、狡猾な魔物が住まう国だ。油断はできない。だからこそ、あの町に直接私とリミアが配属されたのだろう。
 町の北に広がる森は深く暗い。ここを住処とする魔物の影響を受けているのか、木漏れ日が足元まで届くことはなかった。
 だが、今日は特におかしい。息の詰まるような閉塞感が森に入った瞬間からずっと続いている。何より静かだ。虫の音が、森の木擦れの音が聞こえない。嫌な感じだ。
 以前、フィルを賊から助けたときも多少の異変はあった。北の森でも魔物の結託国近くまで行けば野生の魔物が生息している。魔物の魔力は森羅を侵食する。ここまで来る可能性もなくはないのだが。
「いや、それにしても」
 まだあのときからまだ一月も経っていない。ここはまだ森に入って間もない。ここまで魔力が侵食してくるなんて、それなりの時間放置し続けるか、もしくは……。
「早くフィルを見つけた方がいいかもしれんな」
 嫌な予感がする。解決に乗り出すにしてもフィルを町に返さねば。
『他の娘に取られては駄目ですよ』
「わかっています……え?」
 いま、私、なんて。いや、そうだ。魔物の毒牙にかけられてはいけない。早く見つけ出さねば。
 フィルの場所は幸いわかっている。動きがないということは薬草を採取しているのだろう。
 魔力に侵食された大地の薬草など使ってもらいたくはないが、効き目のある薬草がここにしか群生していないということなのだろう。魔力の侵食こそあれ、ここは実り豊かな森だ。
 ゆえに毎日のように訪れているのだろう。床に伏せる母のために。危険を顧みず。
「本当に優しい子だ」
『あなたが守ってあげるのですよ』
「わかっています。あの子はこの身に代えても守ります」
「誰から守る、というのかしら?」
 それは耳を溶かす声だった。まるで耳元で囁かれたような、しかし森によく通る透き通った声。
 森が一瞬で声を取り戻した。
 悲鳴という名の声を。
「ッ!?」
 突然だった。気づけなかった。
 ソレは、私の目の前にいた。
「始めまして、こんにちは。主神の尖兵さん」
 天使が持つ白とは違う。まるで反対の、下卑た禍々しいシロをその女は抱えていた。
 肩ほどまでの白髪は暗い森でも輝きを放つが、同時にあらゆる者を絡めとらんとする底なし沼の如き暗黒を湛えている。頭部に沿うように伸びる黒角がその輝きをさらに際立たせていた。
 そして背には禍々しいシロに染まる白闇の翼。蛇の如くうねる艶尾。
 劣情を誘うためだけに着られた胸と太ももを強調する黒のドレスが風もなくふわりとはためき、フリルスカートを揺らしていた。
 天使である自分とはまるで正反対の、反吐が出るほど嫌悪する存在。
 我が主神様の怨敵、その娘。
 子供たちを魔の道へと引きずり込み、堕落させ、人としての尊厳を根こそぎ奪う悪魔。
「リリム……!」
「ふふ、ごきげんよう。私の名はリリアナ・ローゼンパール。親しい友人はリリィと呼ぶわ。あなたにもそう呼んで欲しいわね」
 スカートの裾をつまみ、お辞儀する悪魔。ふざけた振る舞いに私は激昂を抑えられない。
「ふざけるなッ!」
 聖素を放出し、瞬時に金色の聖槍を手に具現化させた。
 悪魔の話など聞く耳を持たない。私は悪魔を貫こうとその槍を振るう。
「あら」
「チッ!」
 しかし、私がそうすることは予測していたのだろう。ゆうゆうとバックステップで躱されてしまった。
「いきなりご挨拶ね。少しくらいお話相手になってくれてもいいのに」
「貴様たちの放つ声は酷く耳障りだ。特に貴様のような魔が具現したような存在はな」
「傷つくわねぇ。悪魔にだって心はあるのよ?」
「耳障りと言ったッ!」
 苛つく声を振り払うように私は突進。万物を貫く聖槍を胴体へ振るう。
 しかしその白い翼をはためかせて悪魔は上方へ逃亡。
「我が主神様より賜りし光翼から逃れられると思うな!」
 すぐさま光の羽翼を振るい、悪魔を追撃する。戦う気がないのか背を向けて悪魔は逃げ出した。
 だが、ここは北の森。鬱蒼とした木々が密集した、翼者を阻む土地だ。だがそれ以上に、私が常日頃より警らしている場所だ。
 地の利は我にある。
「痛ッ! もうっ! ひどいわよ!?」
 我が聖槍が飛んで逃げる悪魔の肩を掠める。チリチリとドレスの肩部分が焼き焦げる匂いが一瞬だけ鼻を抜けた。
 悪しき者を貫き、弱き者を守る聖槍だ。魔が形を成したこの女を殺せぬ道理などない。
「ッ!」
 聖槍の先が黒く染まる。私は聖槍の先を崩し、新たな聖素を注いで構築し直した。
 リリムはあの魔王の娘。膨大な魔力を有する悪魔だ。その魔力量と汚染速度は通常の魔物の比ではない。
 だからこその短期決着。私の身体が魔力で穢されきってしまう前に仕留める。このまま逃がせばあの町が、フィルがどんな目に遭うか想像すらしたくない。
 木々の枝や幹を縦横無尽に駆け抜け、悪魔を追う。枝葉や木の幹で姿を隠そうとするが、逃がすものか
 奴の魔力が膨大。それが故、感知は容易いのだ。
「貴様の動きは見て取るようにわかるぞ!」
「じゃあこれはどうかし、らッ!」
 飛んだまま振り返り、掌から放たれるのは闇色の魔力球。魔力操作に長けた上位魔物が放つ攻撃。物理的効果よりも厄介なのは、様々なデバフ効果を与えてくる点だ。
 耐性の低い人間や下級天使であれば、触れずともその影響を受けてしまうことだろう。
 だが。
「甘いぞ!」
 私はヴァルキリー。神々の戦において先陣を切る神の御使いだ!
 私も同じように発光する聖素の球体を放つ。私と悪魔との中心で球体はぶつかり中和、相殺された。
 光と闇が入り混じり、森を黒白に塗りつぶす中、私は間髪入れず翼を全力駆動。
「うぉおおおおおおおおおおおおおッ!」
 聖魔のエネルギーの奔流を貫き、硬直する悪魔へ向けて聖槍の切っ先を向け、突進する。
 黒白を穿つ閃光の刺突(ペネトレイト)。
「がッ!?」
 鈍い悲鳴。聖槍の穂先は、堕落の権化を刺し貫いた。
「はぁ、はぁはぁ……」
 確かな手ごたえ。
 黒白の世界が元の森へ戻ると、槍の穂は悪魔の腹部を深々と刺し貫いていた。
 その腹部、口からは真っ赤な鮮血を垂らし、槍にもたれかかるようにして前かがみになっている。翼は力なく折れ、すぐに浮力を失った。
 私は静かに地に降りる。短い戦闘だったがかなりの気を張ったため、脚がぷるぷると震えてしまう。だが、やったのだ。
「やった……あのリリムを、倒した……倒せた……」
 沸き立つ高揚感を抑えながら、現実を実感するため言葉にする。
 リリムは正直なところ、私よりも上位の存在だ。最上位天使でなければ普通は勝てないほどの力量差がある。
 勝てたのは偶然。このリリムが戦闘に特化したタイプじゃなかったためだろう。
 運が良かった。だが倒せたのだ。これで主神様が望む世界へ。子供たちが安寧に暮らせる世界へと一歩近づける。
 槍を引き抜こうとし、力を込めたときだ。
 ふと、私はある場所へ目が行った。腹部を除いて傷一つないドレス。その肩部分。
「……?」
 何故だ?
 何故……ドレスに私の槍がつけた傷がない?
 最大級の悪寒がしたのと同時。
「殺セタト思ッタ?」
 刺し貫いたはずの悪魔が鮮血を垂らす口を三日月に歪めて、私に抱き付いた。槍が深々と刺さることも厭わず。
「はい、ぎゅ〜」
 そして背中より、もう一つの同じ悪魔の声が響いた。
「なっ」
 反応は一切できず、真正面と背後から同じ悪魔に抱き付かれる。
 抵抗する間もなく。
「ぱぁんっ」
 視界に下卑た白い閃光が走る。
 同時に産まれてこのかた味わったことのない、雷撃のような、しかし甘美に陥れるような鮮烈な甘い痺れが私の全身を刺し貫いた。
「あ……がっ」
 全身を緊張で伸ばしきり、そして弛緩させ、今度は私が前屈みになり、膝をついて悪魔へともたれかかる。
「「うフふフふ」」
 悪魔二人は笑っていた。
「な、何故……」
 双子? 悪魔は二人いたのか? しかも、感知できなかったぞ? それにこの感じ、魔力がまるで寸分違わず同質のものだ。
「双子じゃないわ」
 私の疑問に答えるように背中の悪魔は言う。
「私はね。戦闘能力は低いけど、使い魔や式を作るのが得意なの。魂の宿らないお人形さんをね。色々なことに使えるのよ。監視、斥候、潜入、身代わり、何よりエッチな遊びに、ね」
 私がもたれかかっていた悪魔は霞のように消える。聖槍に濡れ散っていた血も消えた。
「あれは私の分身。ふふ、似てたでしょう? やろうと思えば怪我を真似ることもできたのよ? まぁ思った通り、その必要もなかったけどね。魔力の感知に頼り切っているあなたじゃ、私を倒すことなんて、ム・リ」
 私を背後から捕らえる悪魔は耳元に口を寄せる。
「さぁ捕まえたあなたをどうしようかしら? あなたはどうされたい?」
 ゾクゾクと、嫌悪に混じって言葉にできない奇怪な感覚が、声で嬲られた耳から全身へと広がる。
 この感覚は、まさか、汚染されているのか?
「くっ、殺せ……!」
 この状況、もはや逃れるのは不可能だ。もはや辱めを受ける道しか残されていないだろう。それならばいっそ死んだ方がマシだ。
「その台詞流行ってるのかしら? 殺すわけないわよ。そうね。やっぱりあなたも魔物へと変えてあげるのが一番かしら? 黒く美しい淫靡なヴァルキリーに」
「ッ! や、やめろっ、嫌だ、あんなものになりたくない!」
 ダークヴァルキリー。堕落した元天使。主神様を裏切り、魔物へ与し、己の欲望に呑み込まれた存在。
 あんな、あんなものになりたくない! ああなったら、私はどうなってしまうんだ!
 私は、フィルを。フィルを傷つけたくない!
「あれ?」
 どうして、私いま、フィルのことを……。
「ふふ。あなたも堕としてあげるわ、あの娘のように」
「ミュリエラ様を離せぇ!」
 あの子のことを考えていたときだ。その子本人の声がしたのは。
 そして、木の棒を手にしたフィルが、私と悪魔の間を割くように突撃してきたのは。
「きゃっ」
 突然の乱入者に驚いたのか、本来なら歯牙にもかけないであろう、小さな子供の木の棒攻撃を悪魔は大袈裟に躱す。私はその場に立ち崩れ、悪魔は大きく後退した。
 そして、その間にまるで私を守るように立ち塞がったのは、あのフィルだった。
「ミュリエラ様を傷つけるな! 悪魔っ!」
「ふぅ……あらあら。これはまた可愛らしい子ね。ふふ、ミクスくらいの歳かしら」
 当然、悪魔が狼狽える様子はない。
 くそ、いつの間にフィルの近くまで。最悪だ。このままでは私もろともフィルが。いまの私ではフィルを守ってあげられない。
『あなたの身を以て、彼を守るのです』
「わかっています……くっ、そ」
 だが動かない。身体が甘く痺れる。
「これ以上ミュリエラ様を傷つけるな! もしもこれ以上傷つけるなら僕が相手だ!」
「へぇ。可愛い顔して勇ましいわね。そそるわ」
 ぺろりと舌なめずりをしたかと思うと、桃色の瘴気が噴出するのが見えた。可視化できるほどの濃い瘴気。これを人間が浴びればひとたまりもない。
 はずだった。
「うるさい! 近づくな!」
「あら?」
 しかし、フィルに変化はなかった。変わらず、勇ましく悪魔へと立ち塞がっている。
「……チャームも効いてない。これは?」
 悪魔が一歩踏み出す。興味を抱いた、という風に。
『悪魔にフィルを渡してはなりません。フィルはあなたのものなのです』
「私のフィルに手を出すなッ!」
 痺れる身体にあらん限りの力と残りの聖素を全てを張り巡らし、怒号とともに私は立ち上がる。
 フィルを守るためにその腕に彼を抱いた。
 落ちた槍を拾い上げ、その穂先をさらに一歩踏み出しかけた悪魔へと向ける。
「……」
 悪魔は歩みを止める。
 そして、私たちを視線で舐るように、ねっとりとその紅い瞳で見つめてきた。
 ややあって、その瞳が愉悦に歪む。象られた笑みは、得心を得た表情だった。
「そう。もうマーキングしてあったのね。とてもとても、本人も気づいていないほど小さなマーキングが」
「はぁはぁ……っ」
 何を言っているかわからない。だが、この命に代えてもフィルは守る。
 フィルも私を信頼して、私の背に腕を回し、固く抱きしめてくれている。
 これほど心強い存在はいない。
 フィルがいれば、フィルの為ならば、私はリリムにだろうと魔王にだろうと負けない!
「ふふっ、なぁんだ。ちゃんと種は蒔いてたんじゃない、あの子。見に来て損したわぁ」
 しかし、悪魔は踵を返し、私たちに背を向けた。もう何もしないと言う風に。
「いや、でも見に来た価値はあったかしら? ふふっ、ミクスに良い土産話ができたもの」
 それだけ言い残すと、悪魔は闇に溶けて消えた。
「消えちゃった……」
 フィルの言葉に確信する。
 見逃された。助かったのだと。
 安堵。フィルを守れた安心からか、突如私の視界は明滅した。
「ミュ、ミュリエラ様!?」
 私を気に掛けてくれるフィルの優しい声を、頭の中で幾度も反芻しながら、私は微睡に堕ちた。
 フィル。フィル。フィル。……フィルぅ。
 心の中でフィルを呼ぶ自身の甘ったるい声は、「神の声」によく似ていた。

―6―

 目が覚めると木目の天井が私を出迎えた。
 朧げな視界に、響く鈍痛、気怠い身体。意識がはっきりしてくると、腰の辺りに重みがあった。
 ベッドに寝かされていた私の横で、私の腰と自分の腕を枕にして、木椅子に座ったまま眠るフィルがいた。
「これは、いったい……痛っ、頭がじんじんする」
 身体を起こすと額から濡れたタオルがすべり落ちる。湿ってはいるが温い。
 ここは教会の私の自室か。机とスカスカの本棚、そして私が横になっているベッドだけがある部屋だ。
 サイドテーブルには銀のボウルが置かれている。水はもう少ししかない。恐らく、濡れタオルをこれに浸して私の額に置いてくれていたのだろう。水の量から見て、多分、何度も何度も。
「フィル……」
 私は、無防備に眠る彼に手を伸ばそうとした。愛らしい寝顔、その潤んだ唇に触れて――。
 それを制したのはドアをコンコンとノックする音だった。
 ハッとなって私は腕を引っ込める。……私はいま何をしようとしていたんだ?
「目が覚めたようね。具合は?」
 ドアを開けて入ってきたのは修道服姿のリミアだった。手に持つお盆には、横にあるボウルと同じもの、水差しとコップに皿、それからリンゴが幾つかあった。
「……酷い頭痛がする」
「そう。質の悪い魔力に侵されていたから無理もないわね。安心して、浄化は完了しているわ」
「感謝する」
 リミアは首を横に振った。なんだ?
「感謝するならその子にしなさい。ほとんど眠らずに二日もあなたの看病をしていたのだから」
「むぅ……私のより母親の看病は」
「そっちは無理を言って父親にお願いしたそうよ。そこまであなたの看病がしたかったのね」
 ぴくりとも表情を変えず、淡々と言葉を紡いでいくリミア。随分とよく喋る。
 しかし、そうか。フィルが私の看病を付きっ切りで。
 むぅ。なんだ。この気持ちは。胸が、温かい。ほわほわと熱が籠っている。
 風邪? いや、受肉したとはいえ私は天使。子供たちがかかるような病になど。
「んん……ぁ、ぁれ? みゅりえらさま?」
 ゆっくりと顔をあげると、舌足らずで眠たそうな声音でフィルが私の名を口にする。
 くぅ、なんだ? さらに胸の中の熱が滾ってしまう。どうしてしまったのだ、私は!
「さてと、ボウルは取り換えたし。水はこっちに置いておくわね。勝手に飲んで」
 ぶっきらぼうに言って、リミアはさっさと部屋から出て行ってしまった。
 一人にしないで欲しいのに、そんな私の懇願を抱いた視線は完全に無視された。
「ミュ、ミュリエラ様! お目覚めになったんですね!」
 ようやく意識がはっきりとしたのだろう。フィルが身を乗り上げて私の顔を覗き込んでくる。
「っ!」
 顔! 顔が近い! フィルの顔が近い!
「あ、ご、ごめんなさい。大声を出してしまって。もうお辛くないですか?」
 リミアが持ってきた水をコップに入れて、フィルは私に手渡してくれる。てきぱきと慣れた手つき。実際慣れているのだろう。母親のことで。
 私はコップに注がれた水で喉を潤し、サイドテーブルに置く。喉は冷えたが胸の熱は収まらなかった。
「ふぅ……ああ、少し頭が痛いが、それ以外は大丈夫だ」
「頭が痛いんですか! それなら無理せず、横になってください」
「い、いや、いつまでも寝ているわけには」
「駄目です」
 肩を掴まれて、体重をかけられる。私よりも遥かに力は弱いのにどうも抵抗できなかった。
 私はフィルにされるがまま、ベッドに寝かされてしまう。
 彼は新しいタオルをボウルの氷水に浸し、良く絞って私の額に置いてくれた。
 タオルはひんやりと気持ちがいい。頭がすぅっと冷静になる。しかし冷静になると殊更意識してしまう。胸の内でくすぶり続ける熱く滾る炎を。
「リンゴ切りますね」
 フィルはこれまた慣れた手つきで果物ナイフの刃を滑らし、リンゴを切っていく。さらには皮を全部剥かず、奇妙な切込みを入れて私に見せた。
「うさぎさんリンゴです。はいどうぞ」
「ほう、確かによく見れば兎だな。器用だな」
「いえこれくらいは」
 母親で慣れている、か。
 一口リンゴを食べる。甘い。シャリシャリと噛むと爽やかな果汁が口いっぱいに広がる。
「あっ、すりおろしの方が良かったですか? もし喉が通らないならそっちに」
「いや大丈夫だ。食べられるよ。それにとても美味しい。ありがとう、フィル」
 私が言うと、フィルは何故か呆けてしまった。まるで熱があるみたいに。
「ど、どうした? 風邪か?」
「あ、いえ、そ、その……ミュリエラ様の笑顔がとてもお綺麗で、その、僕、じぃっと見つめちゃいました」
「ッ!」
 な、何を言っているんだ、この子は!?
 わ、私の笑顔が綺麗!? そ、そんなわけないだろう!?
「ば、馬鹿なことを言うな! ほらっ、お前もリンゴを食え!」
「い、いえ、そんな。ミュリエラ様のリンゴに手を付けるなんて恐れ多いです!」
「駄目だ、食べなさい! き、君はずっと私の看病をしてくれていたのだろう!? 何か食べないと身体が保たないぞっ! ほら! 水も飲め! 脱水症状になる!」
 そうやって無理矢理、コップに水を入れて飲ませてやった。冷たい水に落ち着いたのか、今度はリンゴも受け取ってくれる。
 ふぅ、なんとか渡せた。というか誤魔化せて。私も落ち着こう。水を飲んで……。
 あっ、これ、さっきフィルに飲ませたコップ。私が先に飲んだやつだ……。
 か、かか、関節き、きき、キス……。
「……」
 フィルが気にした様子はない。まだ小さな子だ。気にもならないんだろう。いや、そもそも天使である私が何故、そんな些細なことを気にしているんだ? 
 わからない。私はどうなってしまったんだ。さっきから、フィルを見ていると、胸がこう、どう表現すればいいのか……キュンキュンする。
「そ、そそ、そういえばまだ助けてもらった礼を言っていなかったな。フィル。君の勇気ある行動のおかげで私はあの悪魔の手から逃れることができた。感謝する」
「い、いえそんな……僕なんか、ただミュリエラ様をお助けしたくて無我夢中で……」
『彼に褒美を与えなさい』
「謙遜などするな。そうだな、助けてもらって礼に何でも一つ、フィルの願いを聞き遂げてやろう」
 私は「神の声」に従い、提案する。
「そ、そんな。僕は褒美をもらうためにしたわけじゃ」
「遠慮するな。大きな働きをした者には相応の褒美が与えられるべきだ。それに私が子供に助けられて何の礼もできぬなど天使の名折れ。故に私に褒美を与えさせろ」
 それでも困ったように目尻を下げて、可愛らしく上目遣いで私のことを見てくる。ああ、本当に可愛いな。いままでの私にはなかった感情だ。
「無論、天使である私にできる範囲で、だ。それと人を不幸にするような願いももちろん駄目だ。まぁそんな願い、フィルがしないことはわかっているがな。さぁ、ほら言ってみろ。何でもいいんだぞ? 私にできること、私ができること、私が君にしてあげられることは、なんでもしてあげよう。君の願いを違うことはないと主神様に誓って約束する」
 殊更「私が君に」と強調して、フィルに答えを求める。
 ふふ、悩んでる悩んでる。あぁ、尊いな。必死に考えている。悩む必要なんてないのに。答えなんて決まっているだろう? 君の最初の望みを言えば良いのだから。
「あの、ミュリエラ様」
「なんだ?」
「その、お願いしてもいいですか?」
 来た。
 私は恐らく笑みを浮かべているだろう。自分でもわかる。フィルの前なら意識できる。
 さぁ言ってくれ。私の答えは決まっているのだから。
「どうか、どうか、この世界を平和にしてください」
「え?」
 え?
「どうかお願いします」
 ぺこりとフィルは頭を下げた。
 何故、どうして? そんな願いをするんだ、君は。
「何故」
「お父さんが言ってました。世界が平和じゃないからりゅーつーとかが限られていて、貴重なお薬が貧しい人たちのところに入ってこないって。そのせいでお母さんの病気が治らないって……だからミュリエラ様、お願いします。世界を平和にしてくださいっ。僕のお母さんみたいにお薬で困ったりする人たちがいなくなるように」
「……ッ!」
 君はなんで! 何故そこまで優しくあれる。人を想ってあげられる。
「何故だ。母を助けたいのならば私に薬を持ってきてほしいと言えばいいだろう」
「……せっかくの、天使様に願いを聞き遂げてもらえるチャンスなんです。だから、僕だけが嬉しくなるような、自分勝手な願いはできません。それがお母さんのためでも……」
 そんな辛そうな顔をして君は……!
「くっ」
「む、無理しないでください」
 私は響く鈍痛に耐えながら、身体を起こす。フィルがまた寝かせようとするが今回は押しのけた。
「どうしてだ。どうして君にはそこまで欲がない」
「え?」
「君はいま、私と夫婦になることも、勇者となることも捨てたのだぞ?」
 そうだ。私はこのどちらかをフィルが求めると思っていた。夫婦とならずとも最低、勇者になるとは思っていた。
「この二つは自分勝手な私欲ではない。君に与えられた正当な対価だ。何故だ。何故これを願わなかった?」
 フィルは困ったように笑う。そのブラウンの瞳は瞼で優しく細まった。
「もう一度断られましたから」
「それでも私は願われれば受け入れたぞ」
 まるで私がそう願って欲しかったみたいだ。
「でもやっぱり駄目です。僕は皆が平和でいて欲しいです。それはミュリエラ様も、です。だから、ミュリエラ様が困るようなことは絶対にしたくない。僕はミュリエラ様のお力になれるなら、なんでもしますから」
「……」
 私が困る?
 ああ、そうか。そうだったな。
 私は確かに、彼に夫婦と勇者になることを求められたとき、困っていたな。
 そして、彼は優しい。
 そうだ。こうなるのは、当然の帰結だ。
 彼が私が困るようなことをしないのは、わかりきっていたことなのだ。
 ならば、私はどうする? どうすればいい?
『もうわかっていますね?』
 ええ、わかっていますとも。
 私は、私の言葉を待ってくれているフィルをまっすぐ見据える。
 彼の望みに応えるために。
「フィル。君の望みだが。すまない、私ではこの混沌に満ちた世界を平和にすることはできない」
 それは謙遜でも何でもない、厳然たる事実だった。
 フィルが絶望の表情を浮かべる。悲しみと惑いに彩られた辛い表情。それでも、そこに私を軽蔑し、失望するような感情はなかった。私の言葉をしっかりと受け止めてくれていた。
 ああ、やはり優しい。
「私個人にその力はない。あの悪魔一匹にいいようにしてやられたのがその証拠だ。あれよりも遥かに強い悪魔はもっといる」
「そう、ですか……ごめんなさい、ミュリエラ様。無理なお願いをして」
「だがそれは、私一人だった場合の話だ」
「え?」
 諦めに入りそうになったフィルを私は引き留める。
「確かに私一人では無理だ。だが、私とともに歩んでくれる存在が、私が導くべき勇者がいればそれは無理な話じゃなくなる」
 私はベッドの隅へと、フィルの方へ身体を寄せる。フィルの小さな、しかし悪魔に立ち向かう勇気を持つ手を両手でしっかりと握った。
「だから、私は君を勇者にしたい」
「ミュリエラ、様……」
「私に君を勇者として導かせてくれないか?」
 突然、フィルが大きな粒の涙を溢れださせた。ぼろぼろと伝う涙をフィルは両袖で拭っていく。それでも涙は止まらない。
「あぅ、う、ご、ごめ、ごめんなさ……でもっ、僕、僕なんか。悪魔と、戦う力なんて、ないのに」
 勇者になれる嬉しさと、しかし勇者になる資格がないと思っている悲しみに挟まれるフィルの背を、私はゆっくりと撫でてあげる。
「いいや、君には勇者の資格がある。勇者とは魔物を倒し、魔王を滅ぼすことだけが使命じゃない。勇者の真の使命とは、弱き民、心正しき民たちに勇気と希望を与えることだ。君ならそれを成すことができる。成すための優しき心、正しき心が君にはある。天使である私が保証しよう」
 そして彼を抱き寄せた。壊れてしまいそうなほど華奢で柔らかく小さな身体を、私は胸の内で抱きしめる。
「私の勇者となってくれ。私の力になってくれ」
「はい、ミュリエラ様。僕はどこまでもミュリエラ様に尽くします」
 今日この日、私は最初で最後の勇者を得た。
 あぁ、愛しい我が勇者。さぁ、ともに世界を平和へと導こうじゃないか。
 ……ふふ。
17/12/17 17:34更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
はい。ヴァルキリーさんの状態的に次回はもはや消化試合ですね。
天使である時点ですでに詰んでいるのだ。

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