連載小説
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宝玉よりも輝いて
 この街は元々人間たちが住む街だったが、魔物の侵攻を受けて魔界に沈んだのは、百年以上前の話であった。今はほとんどの人々の記憶からも地図からも消えた街である。
 古い街にありがちな、侵入者を迷わせるようにするため入り組んだ路地にした上に、当時の住人が無計画な増築を勝手に行ったため、軽く迷宮のようになっていた。
 その迷宮都市を一人のレッサーサキュバスが機嫌よく、買い物袋を胸に抱えて家路を急いでいた。買い物袋の中には、魔界特産の果物が入っており、それは彼女の大好物であった。
 元々は旅の宿で女中をしていた彼女だが、ある旅人から魔界の果物をもらって食べてから、その味にはまってしまった。それから女中の情報網を駆使して、魔界と行き来している行商人を見つけ、その行商人から定期的に果物を買って食べていた。だが、そのため、ついには彼女はレッサーサキュバスになってしまったのであった。
 レッサーサキュバスになってしまっては、もう人間の世界では生きて行けないと悟った彼女は、行商人の手引きで魔界へと逃げ込んだのだった。そして、魔界で運命の出会いに恵まれ、夫と共に魔界の街で幸せいっぱいに生活していた。
 今日は夫と二人で思い出の果物を食べながら、結婚五十日目の記念日を淫らに過ごそうと計画していたのだった。
「ふふふ、るーくん、喜んでくれるかなー。たくさん買っちゃったけど、食べきれるかなー。食べちゃうけどねー」
 サキュバスよりも色素の薄い羽根をぱたぱたさせ、レッサーサキュバスの初々しい姿で楽しそうにしているのに、街行く他の魔物やインキュバスたちはほのぼのした視線を向けていた。
 彼女は家に帰るのに近道するため広場へ出る路地を抜けようとすると、広場への出口のあたりに人だかりができて道がふさがっていた。
「何かあったんですか?」
 彼女はこの街に来てこんなことは初めてと驚きながら、近くにいたサキュバスに理由を聞いた。
「人間の騎士さんがバフォメット様に戦いを挑んだのよ。それで広場は一時封鎖中なの」
「ええっ。そんなぁ」
 理由を聞いたレッサーサキュバスは困りますとばかりに声を上げた。
 広場を通らずに家に帰る道は、今来た道を結構戻らなければいけなかった。
「でも、もう騎士さんは降参寸前だから、すぐに通れるようになるよ」
 理由を教えてくれたサキュバスの夫らしき男が優しく彼女をなだめるように言った。
 しかし、彼女は一刻も早く夫のところに帰りたくて仕方ない気分に支配されていた。邪魔されると余計に盛り上がるという、ロミオとジュリエット効果というものである。
「広場全部が通れないわけじゃないから、観客がいる縁を通れば通れるかも」
 彼女の気持ちがなんとなくわかったサキュバスが彼女にアドバイスした。
「ありがとうございます」
 そういって、彼女はお礼を言うと、身を屈めて人ごみの中に分け入っていった。
 彼女自身が小柄であったことも幸いして、人ごみの中を移動するのはなんとかなった。
 本来使おうと考えていた帰り道のコースではなく、一度は広場には出るが、広場から出ている一本隣の道に入ることができれば、近道ではないが戻るよりも早く家に帰れるコースがあった。それを使えば、人ごみの中をかき分けて広場を半周する面倒はしなくてもよかった。
「ふふん。常日頃の探検の賜物ね」
 ただ単に方向音痴で迷子になりまくっただけであるが、物は言いようである。
 なんとか広場に出ると、何かあわただしい雰囲気になっていた。
「降参はせぬか?」
「諦めだけは悪いのが才能なのでな」
 幼女とおじさんの声が広場に響いているのを聞いて、彼女は少し興味が湧いて、かがめていた身体を起こして、少し広場を覗き見ようとした。
「あんた、身を乗り出しちゃ、危ないよ」
 近くにいた姉御風のサキュバスが彼女の腕を掴んで引っ張った。その拍子に抱えていた買い物袋から、果実が一つこぼれ落ちた。
 それを見た瞬間、自分の夫に食べさせるものを地面に落としてなるものかと変な使命感に火がついた。
 彼女は姉御風サキュバスの掴んだ腕を振り解いて、こぼれ落ちた果実をダイビングキャッチした。
 果実が無事にキャッチできたことに、ほっとしたのも束の間、頭上から嫌な気配がした。
 見上げると、知識のあるなし関係なしに本能的に恐怖を感じる黒い剣が魔界の昏い空よりも暗く大量に踊っていた。
「ひやぁあっ!」
 早く逃げないとと思ったが、恐怖で腰が抜けたのか身体が動かなかった。魔物化したことで身体能力は上がっていたが、精神的なものがそれに追いつくのは少しばかりずれがあった。
「もうだめ! せっかく、るーくんと一緒になれたのに。ごめん、るーくん。もう、あえない」
 彼女は目を固くつぶって、死を覚悟した。

 さかのぼること、数時間前――

 時が正しく刻まれているのであれば、今の時間は昼間のはずであったが、空は黄昏の様に昏く、空は淫靡な紫の色合いで満たされていた。魔物の発する魔力が大気に満ちて、太陽の光を拒んでいるのであった。典型的な魔界に堕ちた大地の空であった。
 騎士がまだ教団に所属していた頃、何度となく魔界となった地を奪還するための戦いに従軍していたので、別段、魔界特有の空の色に驚くことは無かった。ただ、かつて魔界に踏み入った時は常に周囲を警戒して敵襲に備えていた。なので、今のようにゆっくりと馬の背にまたがり、物見遊山のように魔界の街道を行くのは逆に落ち着かなかった。
「どうかなさいましたか? ゲオルギオス様」
 馬の轡を取っている従者の男が、落ち着きのない騎士に気付いて振り返って声をかけた。
 従者は、帯剣はしていたが鎧をつけずに平服の姿であった。そして、顔立ちは騎士とは逆に気品のある甘いマスクで、顔立ちだけでは主従が逆ではないかと思うものもいるだろう。
「ああ、すまない、アンドレオス。こんなにゆっくりと魔界を旅するとは思わなかったもので、少々、居心地が悪いだけだ」
 騎士は従者に向かって自らの貧乏性を嘲笑して彼の心配を払った。
「確かにそうですね。でも、いつの日か、こうして人が魔界を自由に旅できる時代が来ると嬉しいですが」
 従者は理想の世界を思いつつ、魔界の空を見上げた。
 もっとも、通常の人間が魔界の奥深くに踏み入れて長く留まれば、理性を保つのが難しいだろう。騎士が平然と正気を保っているのは、これまでの鍛錬で培った精神力のなせる業であった。
「そうだな。お前はこっちで幸せそうだしな。だが、悪いな。俺の道案内のために家を空けさせて」
 従者の妻となっている魔物は、砦で騎士を案内したメイドのサキュバスであった。従者も元々は騎士の武術に惚れて弟子入りした青年貴族だったが、今は妻のサキュバスに惚れ込んでいる。
「構いませんよ。ゲオルギオス様のおかげで、今の幸せがあるようなものですから。まあ、寂しいと言えば、寂しいですけど。でも、この会えない数日がスパイスになって、より燃えるというものです」
 外見は変わりはない。この従者も厳密に言うと人間ではあるが、魔物の魔力によってインキュバスと呼ばれる存在になっていた。そして、数年の結婚生活ですっかり魔物式の生活に慣れ親しんでいた。
「そういってくれると助かるよ」
 笑顔で答えて、街道の先に見える街に目を移した。古い街で騎士は人間界にあったころの名前を思い出そうとしたがさして意味がないと思い出すのを止めた。
「あの街に居てくれるといいんだが」
 騎士は自分の懐のあたりをそっと手で押さえた。
「大丈夫でしょう。ドラゴンの飛来情報もありましたし。それと妻の話だと、あの街には、姫様の友人であられるバフォメット様がいらっしゃるらしいです。もし、身を寄せているとなれば、そこだろうということです。万が一、砦の方に戻ってこられたら、妻からこちらに知らせが入るはずですから」
 従者が騎士の不安を取り除くように話した。ドラゴンが街に飛来したという噂も入手しているし、立ち去ったという話も聞かないので、大丈夫だと保証した。
「バフォメットか……」
 騎士はそれはそれで表情を複雑なものにした。
 騎士はバフォメットと直接対峙したことはないが、それがどういう性質の魔物かは知識として知っていた。それだけに、ドラゴンを怒らせた悪手と相まって、最悪だと騎士はげんなりした。
「そう心配しないでください。あの街のバフォメット様は話の分かるお方だと、妻も言っていましたし、きっと力になっていただけますから」
 従者の言葉に騎士は黙ってうなずいた。色々とややこしいが、あれこれ心配をしていては身が持たないし、話が進まない。
 騎士はドラゴンが飛び去ったあと、大広間で火の中にたたずんでいた。そこを異変を感じて駆け付けたメイドサキュバスたちに救助されたのだった。
 大火傷ではないものの、それなりに火傷はしていたが、魔界の高い治療技術によって、驚くほどの速さで回復した。実際、あの対戦のあと、二日後には火傷や怪我のすべては完治していた。
 ちなみに怪我は、治療されているときに事の顛末を従者とその妻であるメイドのサキュバスに聞かれて、騎士が正直に話したところ、彼女の拳が騎士の顔面にクリーンヒットしたために負ったものである。騎士はその拳を避けることはできたが、反省のために正面からそれを顔面で受け止めたのだった。
 怪我が癒えた騎士に、メイドサキュバスは、ドラゴンが騎士に贈る予定だった鎧と盾を渡して、ドラゴンを探してくるようにと砦を追い出したのであった。騎士がどうやってドラゴンを探そうかと途方に暮れているところ、従者の彼が手助けを買って出てくれたのであった。
「妻のこと、悪く思わないでくださいね。私を大切にしてくれると同じくらい、姫様も大事に思っているのです。理由は言ってくれないですけどね。まあ、それに、今回の事はゲオルギオス様に非がありますし」
 従者は殴ったり追い出したりとした妻の行動を弁護した。
「わかっているよ。まったくもって自分が馬鹿だと思う。これからはもっと素直に生きることにするよ」
 誓いを立てるように奇跡的に無事だった愛槍に手を置いた。
「そうしてください」
 そんな話をしている内に街の入口が近づいてきた。
 従者はまだ周囲に魔物がいないのを確認して、騎士に向かって小声で改めて注意をした。
「ゲオルギオス様。くれぐれも人間とばれないように気を付けて行動してください。寄り道せずに、まっすぐにサバトの支部を目指してください。支部の場所は渡した地図に書いてあります。いいですか? ここが魔界であることを忘れないでください。魔界では人間のあなたは、招いても来てくれない客なのです。見つかれば、とんでもないことになりますから」
 騎士は従者の忠告に緊張した面持ちで黙ってうなずいた。
「とはいえ、無理強いをしてくる魔物はさほど高位ではないことが多いです。ゲオルギオス様の実力であれば、簡単に退けられますけどね。でも、騒ぎになりますから、言い寄られてもロリコンですからと断ってくださいね」
 従者は緊張した騎士に向かってにっこりと嫌味を言った。
「ああ、俺が悪かった。悪かったから、アンドレオス、そんなにいじめないでくれ」
 ため息をついてうなだれた。
 街の入口に近づくに従って人が増えてきた。それというのも、街の門のあたりは広場になっていて、そのあたりで市場のようなものが開かれていた。元々は街の中心にあった広場で行われていたが、市場の規模が拡大して、街はずれを整備しなおして市場のための広場をつくったとのことだった。
 市場の活気は人間の世界と変わりなく、売り買いの声が飛び交うのを聞くと、ここが魔界だというのを忘れそうになった。
 騎士は馬を降りて盾を背負い直し、槍を担いだ。
「では、私はついでに仕事と買い物をして帰ります。お気をつけて」
 従者が一礼するのを見て、騎士は従者夫婦の幸せを祈ろうとしたが、それが人間の世界のものだと気付いて、あわててやめた。
「ありがとう。じゃあ、奥さんによろしく」
 騎士は従者と簡単な別れの挨拶をして、それぞれ別の方向へと進み、お互いが雑踏の中に混ざり込んでいった。
 騎士はサバト支部に向かう途中、幾人かの魔物に言い寄られそうになったが、不思議と声をかけられることはなかった。
 よくよく考えてみれば、今時珍しいプレートアーマーの騎士である。大人しくしていても目立ったのだが、魔物たちは遠巻きに彼を見ているだけであった。
 騎士はその理由はわからなかったが、余計な面倒がなくてよいとその現象を喜び、先を急いだ。
 昔の都市にありがちな、侵入者を迷わせるように入り組んだ路地で、もらった地図が少しばかり間違っていたりして、サバト支部にたどり着くのに時間がかかった。
「複雑な路地というのも、戦術としてはなかなか有効だな。しかし、そうなると散兵による迎撃をしなくてはいけないから練度が重要だな。各部隊の連携も考えなければならんし、そのあたりが課題だな。攻める場合は地図の入手か下調べは必要不可欠だな」
 職業病なのか、防衛方法や攻略方法を同時に考えながら街を歩き、なんとかサバト支部の前へとたどり着いた。
 道路に面した立派な扉と石造りの大きな建物は、魔界でも一大勢力であるサバトの支部としての力を誇示しているように見えた。だが、その周囲にいる幼女たちが、縄跳びをしたり、ゴム跳びをしたりして遊んでいるのが、建物の威厳と重厚さを霧散させていた。
「このアンバランスが意外と世渡りの秘訣なのかもしれない」
 そんなことを思いながら騎士は扉を開いた。建物の中は予想に反して、少し明るかった。魔法による照明によって照らされているのに気付いて、さすがは魔法を得意とする魔女たちの本拠地だと納得した。
「あの……なにか、ごようですか?」
 年端の行かない少女が、少し舌足らずな声で騎士の異様に怯えつつ、用件を聞いてきた。騎士は身をかがめて、手にしている槍を床においた。
「私は、ここの主、バフォメット様に用事があって来たものだよ。すまないが、取り次いでくれるかな?」
 できるだけ優しい声と笑顔でお願いした。だが、三十路のおっさん騎士のにっこりは、さほど威力はなく、少女を硬直させるだけだった。
「バフォメット様にお目通りなんて、アポもなしに何様? あんたみたいな、どこの馬の骨ともわかんない男がそう簡単に会える人じゃないのよ」
 硬直している少女を助けるように、少しだけ年上っぽい、生意気盛りの背伸び少女がやってきて、騎士に向かって言い捨てた。そのうえ、さっさと帰れと手まで払った。
「そう言われても、帰るわけにはいかない。大事な用事だからね。じゃあ、そのアポを今取ってくれるかい?」
 騎士は拒否されても穏やかな声色は崩すことなく食い下がった。
「百億万年後まで予約はいっぱいでーす」
 強気の少女が下手に出ている騎士に向かって面会拒絶を言い放つと、周囲の少女たちもその強気に乗って空気がそちらに傾いていくのが感じられた。
「困ったな。ラシア・ドラゴン殿のことで――」
 騎士は困り果てて、思わずドラゴンの名前を口にした。
「ど、ドラゴン? ……いやぁっ!」
 生意気盛りの背伸び少女が突然、悲鳴を上げて泣き出した。見ると、何人かの少女が抱き合って震えていた。その様子を見て、騎士は思わず、「ラシア殿、何をやったんだ?」と顔をひきつらせた。もっとも、その原因が自分の一言にあることも思いながら。
「私の可愛い魔女たちを泣かせておるのは誰じゃ?」
 幼いながらも貫禄と威厳のある声が玄関ホールに響き、騎士は声のした方を見た。
 ホールにある階段の上に側近の魔女を従え、山羊の角を持つ少女の魔物が騎士を見下ろして立っていた。騎士は実際に見るのは初めてだが、少女から放たれる威圧感で彼女がバフォメットであることはわかった。
「これはドラゴンに負けず劣らずの魔物だ」
 口にはしなかったが、背筋に冷たいものが走る感覚に身体が自然と臨戦態勢になっていた。
「いきなり押しかけてきて、会いたいという割には、随分と喧嘩腰じゃな。それがそちらの作法というものか?」
 バフォメットがくだらないものを見るような視線を投げかけた。それを受けて、騎士の頭はすぐに冷静になり、少し長く息を吐いて身体の緊張を解いた。
「田舎騎士の無作法ゆえ、お許しください。つわものを見ると、身体が勝手に戦いを求めてしまうのです」
 軽口を叩いておどけて見せた。それで場が和むわけではないが、少しでも空気を軽くしておかなければと必死だった。
「私のような幼子のように小さいものをつわものとは、人というのは、よほど貧弱なものであるな」
 バフォメットは挑発を続けた。
 バフォメットと言えば、サバトの代表者である。黒ミサなどで男女ともに人間を相手にすることも多く、どちらかと言えば、人間に理知的で友好的な魔物である。しかし、今日に限ってはとてもそうは見えず、配下の魔女たちですら、いつもと違う主の態度に戸惑いを見せていた。
「か弱きものゆえに、虚勢を張るのでございます。子犬が吼えるように」
「ふん。安い挑発には乗らぬというわけか。まあよい。用件は何か申せ。ロリコン騎士殿」
 面白くないとバフォメットの方が先に芝居を下りた。騎士は内心ほっと胸をなでおろしたが、最後の一言に顔を引きつらせた。
「そのご様子であれば、その用件もすでにご存知であると思います。ラシア・ドラゴン殿の行方を知りたく、尋ねてまいりました。お教えくださいませんか、バフォメット様?」
 顔は引きつったが、逆に言えば、少なくとも、ドラゴンがここに来た事は間違いないとわかったことを喜ぼうと気持ちを切り替えて、単刀直入に質問した。
「知らなくはない。だが、教えるつもりはない」
 バフォメットはそっけなく答えた。あまりのそっけなさに騎士は少し意表をつかれた。
「そこを曲げてお願いいたします」
 騎士は誠心誠意頭を下げた。
「ラシアの居場所を知ってどうする? 竜退治でもしようというつもりか?」
「そんなつもりは――」
「ないと? だが、あれは私の大事な友人。それを泣かすような男に居場所を教えると思うか?」
 バフォメットの言葉に周囲の魔女たちが驚き、ざわついた。そして、近くにいた魔女たちはじりっと彼からの距離をとった。それもそうだろう。主と同等以上の戦闘能力を持つドラゴンを泣かすなど、普通ではできない。
「それについては、本当に申し訳ないと思っている。そのことを謝りたいのだ。居場所を教えてくれないか?」
 騎士は慇懃な態度では気持ちが伝わらないと、地である少しくだけた言い方で改めてバフォメットにお願いをした。しばらくの間、沈黙のまま見つめあうと、バフォメットはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「……なるほど。なかなかよい面構えをしている。いいだろう」
 騎士は一時は諦めかけていただけに、予想外に上手く話が進もうとしていることに喜色を浮かべた。
「私に勝てば、教えるとしよう」
 続けて発せられたバフォメットの言葉は騎士にとっては絶望に近い。だが、この程度で心が折れるぐらいなら、魔界の深部へと足を踏み入れることはない。
「活路があるだけマシとするか」
 騎士はバフォメットとの勝負を承諾した。
「ドラゴンに勝てたからと軽く見て、慢心しているのであれば、それは今のうちに改めておくのだな」
 バフォメットは親切にも騎士に忠告した。言外に勝負から降りるように言っているように思えたが、ここまできては引き下がることもできない。
「お気遣い感謝いたします。ですが、慢心するほど武を極めてはおりませんゆえ、ご安心ください」
「強情なやつめ。わかった。では、表の道を少し行ったところに広場がある。そこで勝負するとしよう」
 バフォメットがため息まじりに返答し、側近の魔女に目配せして、案内役として騎士を広場へと誘導させた。
 バフォメットの強さは、ドラゴンとはある意味、対極の強さである。ドラゴンの強さは、その強靭な身体から生み出される純粋な破壊力にある。対して、バフォメットは、魔術のエキスパートで、その多彩な魔術と運用に強さある。
 ドラゴンとは実力に彼我の差があれ、武器の届く範囲での勝負となるが、バフォメットとでは、こちらの武器が届くまで近づくことが困難極まりない。ある意味、騎士と相性が最悪の相手とも言えた。
 おそらくは、バフォメットもドラゴン同様になんらかのハンディを自ら課して、独自の勝敗基準を持っているだろうことは騎士も想像できたが、それがわからない限り、作戦の立てようもなかった。
「しまったな。先に聞いておけばよかった」
 魔女の後ろを歩きながら、自分が初歩的なミスをしたことに後悔していた。
 そして、そのようなミスをすることに、いつもよりも平静でない自分の心理状態に気がついた。
「呼吸を整え、歩幅を揃えろ」
 自分に言い聞かせ、ゆっくりと呼吸と歩幅を整えた。騎士が広場に到着する頃には目の前の戦いに集中する平静を取り戻していた。
 戦場となる広場は、ほぼ円形で、周囲には建物が並び、大小さまざまな道路が広場に繋がっていた。特に珍しいものはなく、ごく普通の街の広場であった。
 強いて言うならば、広場の中央、円の中心あたりは敷き詰められた石畳は、色の違う石を組み合わせ、それで幾何学模様を作っているぐらいだった。
 広場にいた魔物やその夫である男たちは十数人ほどであったが、広場にやってきた騎士を見つけ喝采をあげた。
「がんばれよー」「少しは男を見せてねー」「無謀だが、俺はそういうの嫌いじゃないぞ」「ふぁいとー」
 口々に騎士を激励し始めた。騎士が戸惑っていると、案内役の魔女が、サバトでの騒ぎがすぐに街に伝達されたのだと彼に教えた。
「これからもっと集まってくるよ。夫と一緒に快楽を楽しむのが一番の娯楽で至上なんだけど、それだけじゃ、つまんないでしょ? こういうお祭りイベントはみんな楽しみにしているんだよ」
 騎士は戦いは見世物ではないのだがと困惑した表情を浮かべたが、ここの流儀に異を唱えるわけにもいかず黙ってそれを受け入れた。
「だから、少しはがんばってね。そしたら、おじさんみたいな人でも、かっこいいって思ってくれる魔女がいるかもしれないしね」
 案内役の魔女が黙っている騎士におしゃまな口調で激励をした。騎士はそれに苦笑いを浮かべるだけで応えた。
 騎士はともあれ、再度、戦場となる広場を見渡し、細かな地形を頭に入れておこうとした。そして、広場に面して建っている尖塔の先端に目を留めた。
「あの塔は――」
「ああ、あの塔? ここが人間さんたちの街だった時、あの塔に教会の鐘をぶら下げていたんだって。教会本体は占領されるときに神父さんが自分で火をつけて燃やしちゃってもうないんだけどね。で、その時に鐘も落ちて壊れたんだって」
 魔女は騎士が多くの人間がそうであるように、主神を信奉していると思い、彼に元教会の一部であることを教えた。
「お祈りしておく? 届くかどうかは知らないけど」
「……そうだな。勝利の女神ぐらいは残っているかもしれないからな」
 騎士はふっと微笑むと魔女の言葉にそう返し、塔の先端、かつては鐘がぶら下がっていた場所に勝利を祈願する武人の祈りを捧げた。

 騎士がサバト支部を出て行くとバフォメットは角の付け根辺りを獣の指でかいた。
「約束したとはいえ、なかなかに難儀そうじゃな、あれは」
 ぽつりと呟いた言葉を側近の魔女が怪訝そうに見つめていた。それに気付いて、魔女の頭を肉球でなでてやった。
「心配は要らぬ。少々、勝手は違うが、やっていることはいつもと変わらぬ」
 バフォメットは自分に言い聞かせるように言うと出陣の用意を始めることにした。
 二日ほど前の夜、ドラゴンとバフォメットが朝まで飲み明かした時に、二人は「ラシアにぞっこん! ロリコン騎士プロポーズ大作戦」というものを立案した。
 内容はというと――
「ロリコン騎士はきっとサバト支部にやってくる(予想)。騎士はどうせバフォメットに勝負を挑むだろう(推測)。挑まなくても、挑発するなりして勝負を持ちかける(強引)。バフォメットとの対戦相性は悪いから騎士の実力でも敗北決定(希望的観測)。ボロボロになった騎士をドラゴンが懸命に看病する。そして、騎士はドラゴンにぞっこんになってプロポーズする」
 ……魔物の中でも知能の高い二人が立てた作戦とはとても思えないものである。酒を飲みながらとはいえ、軍事作戦だったなら白骨街道を作るほどの杜撰さといえよう。
 ただ、白骨街道を作った中将と違うのは、多少、作戦通りにことが進まなくても、騎士を看病される立場にさえするのが勝利条件なので、穴だらけの計画でも二人のパワーで押し切れると踏んでいたし、事実それは可能であるところであった。
「しかし、サバトの支部に来てもあの騎士、興奮するようなそぶりは見せなんだが、もしやロリコンというのはブラフか? であるなら少々勇み足であったか……」
 バフォメットは騎士の様子を思い出し、眉をひそめた。しかし、すぐに不敵に笑みを浮かべた。
「ならば、いつもと変わらぬではないか。嘘から出た真というものじゃ。いや、身から出た錆かの?」
 そのようなことに思いを廻らしている内に、バフォメットは勝負を行う広場に到着した。
 周辺には魔物やその夫などが集まってきており、イベントが始まるのをいまや遅しと待ちわびていた。
 先に広場に来ているはずの騎士を探すと、尖塔に向かって祈りを捧げているところを見つけた。バフォメットは一瞬、表情を険しくしたが、首を振って頭によぎったことを偶然だと否定した。
「お祈りはもうよいか? あまり広場を占有しては迷惑ゆえな」
 バフォメットが瞑想している騎士に声をかけた。
「ああ。おかげさまで、強敵と戦えることを闘いの神に感謝の言葉を伝えることができた」
 騎士はゆっくりと目を開けて、落ち着いた声でバフォメットに答えた。バフォメットはその声に少し感心するように目を見開き、つづけて目を細めた。
「それはなにより」
 バフォメットは手にした髑髏飾りと獣毛の房がついた杖で、地面に彼女が両手を広げた程度の直径の円を書き、杖を一突きした。その途端、その書いた線が淡い光を放った。
「人の身で私を倒すことなど難しかろう。私をこの円の外へ追い出せば、そなたの勝ちだ。簡単じゃろ?」
 バフォメットは、わざと円の外に手を差し出すと、差し出した手が淡い光に包まれた。
「このように空中セーフも無しじゃ」
 面白い冗談でも言ったかのように笑うと手を引っ込めて、手についた淡い光を消した。
「こちらが円の外に出る前に、そなたがこの広場から逃げ出すか、戦闘不能になれば、そなたの負けじゃ」
 見ると、魔女たちが観客たちのスペースを残して、広場の外周をバフォメットが書いたものと同じようなものを書いていた。
「あれが場外のラインということか?」
「その通りじゃ」
 騎士は黙って頷いた。
 バフォメットの書いた円は広場のほぼ中央で、遮蔽物のない広場でそこに砲台を陣取られては、騎士の打つ手がない。勝ちを譲る気は元からないのはわかっていたが、容赦がないと騎士を内心嘆息させた。
 勝負方法は明らかに騎士の不利である。だが、文句を言ったところで変更はしないだろうし、下手をすると勝負自体を無しにされる可能性もあった。ここは黙って頷く以外は選択肢はなかった。
 騎士はヘルメットの面覆いを上げた状態で固定した。顔面の防御力はなくなるが視野を確保して回避性能をあげる選択をした。
 背中の大盾を外して手に持ち、愛槍を小脇に抱えるように持った。ちょうど、馬上槍試合をするような槍の構え方で、これならば片手でも槍を扱えるようにはなる。
 ただ、騎士の槍は手持ちの槍で、馬上槍のように長大ではない。槍の利点であるリーチが減ることになる。さらに、多彩な攻撃が魅力と利点のハルバードだが、このような持ち方をすれば、攻撃法方は実質、体当たりするような突きがメインとならざる得ないという不利がある。
「準備はよいか?」
「こちらの準備はいいが、始める前に少し確認したいことがある」
 騎士は軽く盾を持ち上げて、挙手するようにして勝負の開始を遮った。
「なんじゃ? 今になって怖気づいたか?」
 勝負の開始を中断され、バフォメットが不服そうに唸った。
「そちらは魔法を使うのであろう? 何か周囲に結界みたいなものを張らなくてもよいのか? 見物人や建物に流れ弾が当たったら大変だろう?」
 いつの間にか、かなり増えている観客と、広場に面している建物を見渡した。魔法を派手に使えば、流れ弾が被害を出すかもしれない。
「そんな便利な結界を用意するとなれば、数時間はかかるぞ。時間稼ぎのつもりかも知れぬが、無駄であったな」
 バフォメットは騎士の策を潰したとばかりに得意げに返答した。
「そもそも、そなた程度の相手に使う魔法であれば、並みの魔物ならかすり傷程度しか負わぬ。それに、好き好んで対戦を観戦にやってきたものたちだ。自分の身は自分で守るぐらいはするであろう。あと、建物も壊れたところで、直せばいいだけだ。心配はいらぬ」
「そうなのか。てっきり、そういう結界は簡単に張れると思っていた。いい勉強になった。では、その言葉を信じ、心置きなく全力で戦うとしよう。いざ!」
 騎士は素直に感心していた。策ではなく、本気で周囲の魔物の心配をしていただけだった。そのことにバフォメットは軽く顔を引きつらせた。
「調子の狂う男じゃの。まあ、よい。その心配そのものが杞憂と知るがよい」
 その言葉と同時に、バフォメットの周囲に火炎の球体がいくつも発生した。その大きさと数は、人間の魔術師であれば、最高レベルに近いものだった。
「さすがは、魔術のエキスパート。初手から手加減なしか」
「何を言う。この程度、小手調べじゃ」
 火球がランダムな軌道を描き、騎士へと迫った。騎士はそれを巧みにかわしながら、バフォメットに少しでも近づこうとした。だが、バフォメットも火球の軌道を操作して、そう簡単に距離を縮めさせてはくれなかった。
 火球の攻撃が終了すると、続けざまに金属を叩いたような音が鳴り響いた。騎士は槍を小脇に抱えた状態のまま、裂帛の気負いと共に身体を回転させて横に薙いだ。直後に風船がはじけるような破裂音がして、先ほどの火球で焦げた石畳の上に細かな傷をつけた。
「やるわねー。あの人間の騎士。見えない空気の刃を勘だけで打ち返すなんて」
 観客たちは意外と善戦する騎士に向かって歓声を送った。
「本当に手加減なしだな。人間相手なら、こんな大技使ってくるなら魔力切れを待つのだが……」
 だが、相手はバフォメットである。この程度の魔法なら一晩中放ち続けても余裕だろう。そもそも、魔物相手に消耗戦を仕掛けるのは大抵の場合が最悪の手であった。しかも、ここは魔界。魔物たちのテリトリー内ではこれ以上ない悪手であろう。
「少々、被弾は覚悟していくか」
 改めて覚悟を決めて、次の攻撃に備えた。
 バフォメットの周囲に光の矢が無数に浮かび上がった。光の矢はオーソドックスな魔術である。ただ、異様なのは、通常は地面と水平になっている矢が、垂直に向いていることだった。
「何かわからないが、行くしかない」
 相手の攻撃がない間に間合いを詰めておくしかない騎士は、バフォメットに向かって突撃した。
 だが、騎士が数歩も進まないうちに、光の矢の林が次々と真上に打ちあがっていった。騎士は一瞬、何の意味があるのか不思議に思ったが、すぐにその正体に気づいて、盾を頭上に掲げて雨を凌ぐように、その陰に隠れた。
「わぁ!」
 観客の歓声とほぼ同時に盾に衝撃が加わり、周囲の石畳に光の矢が降り注いだ。
「上空で分裂した光の矢が降り注ぐ、小規模範囲魔法じゃ」
 分裂したことで威力は落ちているとはいえ、当たれば、それなりのダメージを受ける。それを文字通り雨のように、しかも長時間降らせ続けられれば、なぶり殺しにされるところだった。だが、盾を上に掲げていれば、それほど脅威がある攻撃ではない。
「たまやー!」「かぎやー!」
 観客たちが派手な光の矢の魔法に魔界流の掛け声をかけてあおっていたが、騎士はこの一手が次の攻撃の布石と周りの気配に集中した。
「それが狙いか!」
 そして、身体を捻り、水平に飛んでくる光の矢を避けた。光の矢は騎士に避けられて、そのまま直進して場外ラインのあたりで霧散して消えた。
 一定距離進めば消失するようにセッティングしているらしく、これならば観客に当たる恐れはない。
「余裕だな」
 騎士はバフォメットが観客たちは自己責任と言った割には、ちゃんと配慮しているのに少しおかしさがこみ上げていた。
「いい読みをしている。笑って避けれるとは、さすがと褒めてやろう」
 バフォメットはその笑みを勘違いして感心した。
 だが、騎士には褒め言葉など皮肉にしか感じられず、水平方向から次々と襲い来る光の矢をなんとか懸命に避けた。
 普通の光の矢だけならば、騎士の能力なら、その回避は難しくはない。軌道を読んで避ければいいだけだし、回避不能なら盾で受けて活路を拓くことができる。しかし、威力は落ちるとはいえ、真上からの飽和攻撃で盾を使わされ、しかも、回避のために体術を使うにも、盾の陰から外は光の雨である。自然とステップは小さくなり、盾を真上に保持することもあいまって、動きは制限される。
「派手なわりには地味に凝った技を使う。もっと大味な大技を使ってきてくれると楽なんだがな」
 対戦前に期待していたことは見事に裏切られたと騎士は、甘柿と願って渋柿をかじったような表情を浮かべた。
「ともあれ、どうにかするしかない」
 制限された動きではあったが、確実に攻撃を回避していた。やがて、光の雨もその濃度が薄まり、水平に襲い掛かってくる光の矢もその数を減ってきた。
 魔力が切れたというよりも、観客向けに同じ魔法を使い続けるのを避けるためだということはわかったが、それを利用しない手はない。
 こちらへ向かってくる光の矢を小脇に抱えた槍で払い落とした。普通はエネルギーの塊である光の矢を物理的に払い落とすことは不可能だが、槍にはそれを可能にする魔法がかかっていた。
「おおっ」
 観客が歓声を上げた。それというのも、武器で魔法攻撃を払い落とすのは難しいため、武器にかけられる魔法に上限があるのに、そんな魔法をかける人間は数少ない。
 しかし、騎士は光の矢を払い落とすのが目的ではなかった。槍を払う動作を隠れ蓑にして、こっそりと抜いた投げナイフをバフォメットの顔に向けて投げつけていた。ナイフはバフォメットの顔をめがけて一直線に襲い掛かったが、バフォメットに届く前に、空中に浮かぶ水の玉があらわれ、ナイフを飲み込んで、それを一瞬にして溶かした。
「こんな小細工で私を円から外に出せると思うてか? 愚かなものよ」
 バフォメットが鼻で笑った。騎士もそんな攻撃で何かできると思ってはいなかった。投げナイフごときがクリーンヒットしたとしても、バフォメットに少しもダメージも与えられないのは承知の上である。
 だが、それにも関わらず、バフォメットはナイフを防御して見せた。つまりは、蚊に刺された程度でも、相手の攻撃を受けない矜持がある。騎士はそれを見越しての攻撃であり、攻撃の目的は一瞬だけでもバフォメットと自分の間にブラインドとなるものを作ることであった。
 騎士は、その一瞬のブラインドで、重装備をものともしない素早い動きをし、バフォメットとの距離を直線的に詰めた。まだ少しは光の雨が残っていたが、それは鎧で受け止めて、衝撃に耐えながら強引にも十歩ほどの距離を詰めることに成功した。
「小癪な真似をする。だまし討ちは人間の得手であったな」
 バフォメットは防御を上手く利用されたと舌打ちした。と言っても、騎士の間合いまではまだ数十歩はあるし、距離が詰まれば詰まるほど、魔法攻撃の回避は難しくなる。だが、騎士は勝つためにバフォメットから十歩前進を勝ち取った。
「では、こちらも少しは気を入れるとするか」
 再びバフォメットの周囲に火球が生まれたが、今度は大きさが小さかった。人の頭ほどの大きさの火球が複数同時に放たれ、それぞれが曲線を描いて騎士を囲もうとしていた。
 騎士はそれを最初と同じようにぎりぎりで避けつつ、前進しようと考えたが、突如、後ろに飛びのいた。そして、できるだけ、火球同士の間隔の広いところを見つけて、そのちょうど中間を突っ切って包囲の外に出ようとした。
 騎士が火球の間をすり抜ける時、火球から雷が生まれ、騎士に向かって降り注いだ。だが、それが騎士の身体にまとわりつく前に、自分の槍を地面に突き立て、雷を槍に集中させて、転がるようにして稲妻火球の包囲陣を突破した。
「複合魔法か。まったくもって、魔物の魔法技術は人間などのものより数段上だな」
 複合魔法は、人間の魔術研究ではまだ理論体系が完成されておらず、余程の天稟に恵まれた魔術師が修練の末に感覚的に使用可能とすることができる天才の技であった。
 騎士は自分の主戦武器を失ってしまったことを苦々しく思いながら、腰の剣を抜き放った。
 騎士の剣は、いざという時の護身用程度で、それなりに程度はいいが、市販の数打ちの域を出ていない品質だった。しかも、今の回避でさっき稼いだ十歩の距離をさきほどの回避でほとんど押し戻されていた。
「ちょっと、やばいか?」
 騎士は対戦相手との相性の悪さが考えていたよりも大きいと実感し、弱音が頭をもたげた。
「随分と弱気な顔じゃな。もう、降参か? 大口の割には大したことのない」
 バフォメットが騎士の顔色の変化を目ざとく見つけて嘲笑った。だが、人間がバフォメットに数回魔法を使わしているだけで大健闘と言えた。大抵の相手は、初手か二手目で決着している。
「なあに。これぐらいの苦戦、まだ苦戦の内に入らん」
 騎士は弱音を吐き捨てるように強がった。
「言いおるな。その口の大きさだけは認めてやろう」
 バフォメットは右手に龍の形となった雷を生み出し、左手には同じく龍の形の水を生み出した。それぞれの龍は、大人の身長五、六人分の長さと子供の身長半分ほどの太さがあった。
「そなたの大好きな龍だ。存分に遊べ!」
 二頭の龍がバフォメットの号令と共に騎士へと襲い掛かった。
「あいにく、ジパング系の龍は好みではない!」
 軽口をたたきながらも騎士は駆け出した。雷の龍が襲い掛かるのを避けて、水の龍の下を潜り抜け、二体の龍に追いかけられながら広場を走り回った。
 雷の龍は、直撃しなくてもその近くを通れば、放電で電撃を浴びせてくる。しかも、鎧や剣、盾を吸い寄せようとするので、下手に近寄れば身体ごと引きずられてしまう。
 水の龍は、その水が強力な酸であり、かすっただけで騎士の身を焼く。しかも、鎧は魔法で酸を防御しても、鎧の隙間に酸が入り込んでくるから、まともに受けることはできない。
 交互に襲い来る雷と水の龍をなんとか避けていたが、致命傷にならない程度に避けれていただけで、ダメージは確実に蓄積していた。
「いつまで逃げまわるつもりじゃ? そんなものも倒せぬのなら、降参するがいい」
 バフォメットがあおったが、騎士は黙って回避を続けていた。ただ、騎士は無闇に回避をしていたわけではなかった。水の龍が地面すれすれの位置に来るようにして、雷の龍ができるだけ高い位置になるようにする。そして、騎士を左右から挟み撃ちをするように二匹を誘導していた。
「龍同士で、仲よくしていろ」
 唯一の武器であるはずの剣を水の竜に向けて投げつけた。剣は水の竜に飲み込まれ、ダメージも与えずに、先ほどの投げナイフと同じようにボロボロに朽ちていった。
「自棄になったか」
 誰もがそう思ったが、騎士は剣を投げた後すぐに、雷の龍に向けて剣の鞘を投げつけていた。そして、剣と鞘を一本の細いチェーンでつないであった。
 雷の龍は、鞘の金属部品を引きつけて、その鞘を身体に取り込んだ。そして、鞘についていたチェーンを伝って、水の龍に向けて自分自身の雷を放電し始めた。
 電撃はより電気を通すものへと優先的に流れるのが道理である。水の龍は酸でできているため、普通の水よりも電気をよく通す。しかも、高さは地面ぎりぎりになっているので、雷撃は水の龍の身体を通り、地面へと流れていくことになる。
 水の龍の巨体であるので、一度流れ込めば、雷の龍の電撃をすべて地面へと流し込むことになった。そして、水の龍もそれだけの電撃を食らえば、水温が上がり、蒸散した。
「なっ」
 バフォメットが意表を突かれている間に、騎士は酸の霧が立ち込める広場を一気に突っ切った。いつの間にか、手には先ほど包囲を抜け出る時に避雷針にした槍を抱えていた。まだ距離があるとはいえ、バフォメットが警戒すべきラインは越えていた。
「させるか!」
 バフォメットが杖の先を地面に打ち付けた。騎士は直感で、その場で急停止して、後ろへ飛ぼうとした。騎士が地面を蹴るか蹴らないかの瞬間、騎士のいる周囲の地面がいきなり消え去り、奈落の底が足元に生まれた。
「地系の魔法と言えば、地面からの槍だろう!」
 割れ目のほぼ中央で騎士は叫んだが、翼のない騎士はもう、奈落に落ちるほかない。
 誰もがそう思った。しかし、騎士の諦めの悪さは天下一品だった。
 手にした盾を手放すと、思いっきりそれを蹴った。その反動で、空中にもかかわらず、後ろに飛んだ。確かに、バフォメットのいる側よりかは、反対側の縁の方が近いが、それでも穴の縁には少し届かない。
 騎士はそれも見越して、槍を奈落の穴の壁に投げつけ、そこに槍を突き刺した。そして、その槍を足場にして、さらに槍のしなりも利用してジャンプした。こうして、穴の縁に手を届かせると、すぐに懸垂で身体を持ち上げ、地面へと生還した。
「そなた、本当に人間か?」
 バフォメットは心の底から感心した。そして、これならば、ラシアが負けたというのもうなずけると納得した。
「魔物の知者たるバフォメット殿も知らぬようだな。人間というのは諦めが悪く、あがき続ける。可能性をゼロにしない生き物なのだ」
 バフォメットとの間に生まれた地面の裂け目はすぐに消えたが、それは同時に槍と盾を回収できなくなったことになる。騎士は、盾はまだしも槍を失ったことを痛手に感じていた。ただ、それを態度に出すほど愚かではなかった。
「さて、そうは言っても、武器を失い、盾も失った。そろそろ降参してはどうだ? そなたはよく戦った」
 バフォメットの降伏勧告に騎士は獰猛な笑みを浮かべた。
「この程度で諦めるのであれば、最初から勝負など受けぬよ。それに戦いの前に俺の女神に誓ったのでな。簡単に勝負は投げれんよ」
 言い放たれた言葉にバフォメットは苦い表情を浮かべた。
「少々、痛い目にあってもらうことになるぞ」
「そんなこと、剣を抜いて、槍を向けたときにすでに覚悟はしている。もっとも、できればの話だがな」
 口の応酬を繰り広げつつ、騎士は勝つための策を練っていた。
 騎士は、これまでの戦いを思い起こした。
 バフォメットは騎士が魔法を使うことをあまり警戒していない。それは、騎士が魔法を防ぐため魔法で障壁を作るなどしなかったので、魔法は使えないと判断したからだろう。確かにその予想は正解で騎士は魔法を使えない。
 そして、なにより、バフォメットは、もし騎士に魔法を使われても、人間が使う程度の魔法ぐらいは簡単に防ぐ自信があったのだろう。
 騎士は左手に仕込んでおいた魔法を封じ込めた法珠を意識しないようにした。
 仕込んでいる魔法は、志向性無反動爆風の魔法である。
 一方向に爆風を発して、しかも、反対方向に反動がないというタイプのものであった。
 通常、これを使うのは、多勢に囲まれた時などで、爆風で目の前の敵を吹き飛ばしたり、転倒させたりして、その隙に包囲を抜けるといった使い方をする。
 他にも、最高出力で放出すれば、石畳の地面でも、人一人が入れるぐらいの穴を開けれる威力がある。穴に入り込んで爆発系魔法を回避するシェルターにも使えた。
 緊急脱出用の非常手段として便利であるため、騎士はいつも鎧の左手に一つ、この魔法を入れた法珠を仕込んでいた。
「ここで使うか……いや、距離がありすぎる。対応されれば終わりだ」
 バフォメットに直接爆風を浴びせても、おそらくは、すぐに風除けの防御障壁を張ってしまうだろうから効果はないだろう。
 この法珠の使い方は、騎士の背中で発動させ、発生した爆風で騎士自身を吹き飛ばす。その威力とスピードで、バフォメットが対処できないうちに体当たりして、円の外に押し出すという作戦だった。
 重量物の物理的攻撃は、魔法使いが最も嫌がる攻撃の一つである。攻撃自体は単純だが、それを防ぐとなると、意外と高等魔術を使わなければいけない。だから、魔法使いは距離を取って戦闘をする。できることなら、姿を隠して魔法を放ちたいぐらいだという。
 とはいえ、相手は魔術のエキスパート、バフォメットである。爆風の加速つきとはいえ、人一人ぐらいの体当たり攻撃ぐらい防御する魔法を展開するのは簡単だろう。なので、相手の意表をつき、その混乱から立ち直る前に勝負を決めなければいけない。そうすると、今はまだ距離がありすぎるのであった。
 一方、バフォメットも困惑していた。
「予想以上にタフじゃ。しかも、あの鎧はなかなか厄介じゃな」
 普通であるなら、蓄積ダメージで動きが鈍って仕留めているが、中身の騎士が打たれ強い。さらに、鎧が固定ダメージ軽減ではなく、割合でダメージを軽減していた。
「ラシアが魔王のところから持ち帰ったものじゃろう。人間が使えるようにするため、鎧にかけられた付属魔法のほとんどが封印されておるが、単体の性能も悪くないものじゃな」
 騎士を一撃で完全にノックアウトしようとすると、物理系やエネルギー系ではなく、精神系のそこそこ強い魔法を使わねば難しいというのがバフォメットの予想だった。
「その手のものを街中で使うのは、少々、気が引けるのじゃがな」
 バフォメットは騎士のいるあたりを見渡した。
 見たところ、観客も魔物か、その伴侶ばかりである。魔界であれば、魔力が周囲に満ちているので、多少のことで死ぬことはない。そもそも、範囲外へ魔法攻撃するなど、おねしょをするより難しく恥ずかしい。
 なにより、高威力の魔法を使うように見せかければ、騎士も白旗を揚げるかもしれない。
「仕方ない。勝負を決めにかかるか」
 下手に勝負を長引かせて、騎士に大怪我させては元も子もない。バフォメットといえども魔物である。人間に必要以上の危害を加えるのは嫌悪感しかない。
「第一、そんなことをしてみろ。ラシアが怒り狂って、何をしでかすかわからん」
 バフォメットは、最悪の喧嘩を街中ですることを考えただけで気鬱になり、少々強引だが、強情な騎士相手にはこれしかないと幕引きに取り掛かった。
 騎士もその空気を察してか、腰を少し落として、徒手空拳だが構えを取った。
「その前に、せっかくリクエストしてもらったからな。できるということぐらいは見せてやろう」
 バフォメットの言葉と共に、地面から、岩の槍が突き出てきた。騎士はそれを難なく避けたが、騎士がいようといまいと関係無しに。周辺の地面が尖った岩で埋め尽くされていった。
「無差別にとは、芸がない」
 騎士は減らず口で文句を言いながら、それらを避けるように広場を走った。やがて、広場の端へと追いやられる形になり、少しばかりは動くことのできる平らな地面は残ったが、次の魔法を大きく回避するのは難しくなった。
 しかも、いつでも降参できるようにと場外ラインの方向はご丁寧に開けてあった。つまりは、敵わないと思えば、いつでもそこから逃げろということである。
「地味に詰めてくるということは、次で決めるつもりか」
 騎士はここが勝負どころと決めた。
 バフォメットとの距離は遠い上に、その間の地面には岩の槍まで生えている。今いる場所は、狭くても騎士の運動能力なら十分に回避行動できる余地を残している。リタイアするための広場を出る方向も空けている。
 だが、それゆえにバフォメットの方向に回避運動をするとは考えていないだろう。その心理的な死角をついて、距離をまずは詰める。そこから、対応して攻撃してきたものを多少の被弾覚悟でつっこみ、最後の隠し玉が使えるところまで接近する。
 正直なところ、クモの糸の上を綱渡りするようなものだと、騎士は自分で立てた作戦を心の中で嘲笑した。
「バフォメットなど言う、化け物に勝つには、クモの糸でもかかっているだけマシだがな」
 嘲笑した自分を今度は慰めるようにして、気持ちを切り替えた。
「さて、人間の騎士。なかなか楽しかったと礼を言うぞ。では、褒美に我が魔術の真髄を見るがいい」
 バフォメットの言葉と共に、空中に黒い炎をまとった剣が多数出現した。騎士は魔術のエキスパートではないが、そこから発せられるものは背筋に冷たいものを容赦なく注いでいた。
 それまで余裕を持って観戦していた魔物たちも、その剣を見て、騎士に意地張らないで降参しろと訴えるようになった。
「さっそく、こっちの思う通りにはならないか」
 騎士は観客からの降参勧告の声など無視して、自分の作戦が半分くずれたことを覚悟した。
 上空の剣が一斉に降ってくるならよいが、何本か残したり、タイムラグをつけてくるとなると、どう回避しようと残りの剣で冷静に対応してくるだろう。
 つまり、バフォメットの方向に駆け出せば、その背後を黒い剣が襲うだろう。多少の被弾は覚悟だが、あの剣は一本で十分に足を止められるだろうと想像できた。
「降参はせぬか?」
 バフォメットの声はそれまでよりも真剣だった。騎士もそれを感じたが、答えは決まっていた。
「諦めだけは悪いのが才能なのでな」
「そうか。この魔法、人間に使うのは久々なので、しっかり生きておれよ」
 バフォメットの言葉に剣が呼応して、位置と角度がばらばらに動き始めた。これで方向は読めなくなる。
 騎士のすぐ近くにいた魔物たちも、彼がいつでも場外に逃げれるようにと、慌ててスペースを開け始め、少しばかり混乱状態になった。
 騎士は神経を尖らせて、一本目がどこから来るかに集中した。
「ひやぁあっ!」
 神経を研ぎ澄ましている騎士の背後で小さな悲鳴と何かが倒れる音がした。
 騎士はとっさに振り返ると、すぐ後ろに色素の薄いサキュバス、レッサーサキュバスが果物片手に四つんばいになって上空の剣を見上げて竦んでいた。
「くっ!」
 振り返ったことで研ぎ澄ましていた集中力が途切れ、それをチャンスと上空の剣が判断したのだろう、騎士は頭上に殺気を感じた。
「こなくそっ!」
 左手を地面に押し付け、法珠の魔法を最高出力で開放した。それにより、地面がえぐれるように穴が開いた。左手で地面に穴を開けると同時に、右手でレッサーサキュバスをつかみ、乱暴だが、その穴の中へと放り込んで、その上に蓋をするように騎士が覆いかぶさった。
 決闘の場内にレッサーサキュバスが入り込んだことをバフォメットは感知していなかった。高出力の魔法だが、相手に間違っても大ダメージを与えないように上手く加減するのがややこしく、その制御や条件付けに集中していたのが災いした。
 そして、攻撃を開始したその時に、はじめて範囲内にいるレッサーサキュバスの存在を感知した。
「解除!」
 バフォメットはすぐさま黒い剣に攻撃中止と廃棄の命令を送り込んだ。
 バフォメットほどの魔法に精通している魔物であったから、発動中の魔法を安全に破棄することができた。しかし、すでに攻撃態勢に入っていた黒い剣の何本かはバフォメットの攻撃中止命令を受諾しなかった。
 黒い剣は騎士にかすりさえすれば、それで十分に騎士を疲労困憊状態にして動けなくすることができる威力を持たせていた。そこまで威力を上げたのは、これまでの騎士の身体能力から、剣をクリーンヒットさせるのは難しいと判断してのことだった。
 そのため、一本でもかすれば、他の剣は消えるように設定してあった。そうすることで疲労困憊で動けなくなった騎士に不要な追い討ちをかけないようにしていた。
 その面倒で複雑な条件設定のため、攻撃状態になった一部の剣がキャンセルを受諾しなかったのである。
「障壁!」
 バフォメットは騎士の上に防御障壁を展開しようとしたが、それが間に合うとは思えなかった。
 このまま黒い剣が騎士にクリーンヒットすれば、騎士は精神にかなりのダメージを受け、治療を施しても十日ほどは眠り続けることになるだろう。死にはしないとはいえ、彼女たちが望んでいた結末とは違う。
「くっ!」
 威力のありすぎる魔法を選択してしまったことにバフォメットは後悔した。騎士のしぶとさに勝負を焦りすぎたと反省した。
 騎士に魔術の黒剣が突き刺さろうとするその時、防御障壁が騎士の背中に展開され、黒い剣はその障壁に阻まれ、騎士に届くことはなかった。
 バフォメットの展開した障壁は、障壁が剣を全て阻んでから展開されていた。
「誰が?」
 バフォメットはそう言おうとしたが、口にはしなかった。あの魔法の剣を完全に防ぐほどの障壁は配下の魔女でも咄嗟に展開するのは難しい。そして、それをできる魔物が近くに一人いたことを思い出した。
 一方、騎士は予想されていた攻撃のないことを不思議に思いつつも、穴を覆うのをやめなかった。
「騎士よ。勝負は一時中断じゃ。攻撃はせんから、起き上がるがいい」
 バフォメットが騎士に休戦を告げた。
 騎士は周囲を少し観察してから、ゆっくりと立ち上がり、穴の中のレッサーサキュバスを引き上げた。
「お嬢さん、怪我はないか?」
 彼女は土で汚れているが、見た限り怪我がないことを確認しながらも騎士は彼女自身にも一応尋ねた。
「は、はい。だ、大丈夫です」
 彼女は自分の身に何が起きたのかまだ把握できずに、とりあえずは質問に素直に答えた。
「それはよかった。だが、せっかく買ったものをダメにしてしまったようだな」
 騎士は穴の中を覗き込み、穴の中に残っている買い物袋が潰れて、その周辺の地面を濡らしているのを見ながらすまなそうに言った。
「い、いえ、助けていただいただけで十分です」
 彼女もやっと自分が勝負の場所に乱入してしまったことと、それで攻撃されかけたのを騎士に助けられたらしいことを把握して、顔を青くしながら首を振った。
「そういうわけにもいかん。ただ、私は一文無しなので、弁償はそこのバフォメットにするといい。半分ぐらいは出してくれるはずだ」
 騎士は青ざめている彼女ににやりと笑いながら、広場の中央にいるバフォメットを指さした。
「何を勝手に人をケチのように言っておるのじゃ。そのぐらい私が全額出してやる」
 手下の魔女に目で合図を送ると、魔女の一人がそのレッサーサキュバスの元に連絡先を聞きに来た。
「よかったな。では、少しばかり、そこの線より外に出てくれないか? まだ、勝負の最中なのだ。今度は助けられる自信はないのでな」
 騎士は気合を入れなおし、バフォメットの方に向き直った。いつの間にか、剣山のようになっていた広場の地面は元の石畳に戻っていた。
「まだ、勝負を諦めんというのか? 奥の手はすでに使ってしもうたのじゃろ?」
 バフォメットは呆れたように騎士に言った。
「さあ? なんのことやら、私にはわからぬな」
 騎士は本気で言っているかのように首をかしげて見せた。
「勝負を再開する前に一つ聞いてよいか?」
「構わぬが、手短に頼む」
 これではどちらが優勢かわからなくなるとバフォメットは苦笑を浮かべた。そして、表情を真面目に引き締めた。
「どうして、レッサーサキュバスを、魔物を助けた?」
「意味がわからんが?」
 今度は本気でわからないと、顔をしかめた。
「そなたらからすれば、魔物は敵であろう? 敵ではなくとも、見ず知らずの魔物が負傷しようと、そなたはどうも思わんであろう? それを大事な奥の手まで使い、助けたのはなぜじゃ?」
 騎士はバフォメットの言葉を聞いて、やっと得心したとばかりにうなずいた。
「バフォメット殿。貴殿はバカか?」
「なっ!」
 いきなりバカ扱いされて文句を言おうとしたバフォメットの切っ先を制して騎士は続けた。
「戦いは、戦う意志のあるもの同士がするものだ。戦う意志のないものが、戦いに巻き込まれるのであれば、それを助けるのは、敵だろうが味方だろうが関係ない」
「理想じゃな、その考えは」
 ドラゴンに話を聞いていたので、騎士の戦いに対する高潔さは知っていたが、ここまでとは思っておらず、思わず苦笑を浮かべた。
「戦いなど、戦わぬものにすれば迷惑極まりないものだ。その程度の理想も貫けぬようならば、俺は剣を捨て、槍を折り、弓の弦を切るつもりだ」
 騎士は、まるで譜代の騎士のように迷いない目でバフォメットに語った。
「訊きたいことは以上か?」
「ああ、つまらぬことを聞いたな。ちゃんと答えてくれたことに礼を言うぞ」
 バフォメットは頭を下げ、肺に溜まった淀んだ空気を吐き出すように長く息を吐いた。
「構わん。それよりも勝負の続きをするとしよう。早く勝って、俺もそちらに聞かねばならんことがあるからな」
「そうじゃな。では、再開するとするか」
 騎士が構えようとすると、バフォメットは自ら、負けの判定をする円を出て、淡い光に身体を包ませた。
「なっ!」
 驚いている騎士を無視するかのように、バフォメットは自分の身体を包んでいる光を消し去った。
「うむ。円を出てしまったので、そなたの勝ちじゃ」
 バフォメットの宣言に広場の観客が喝采を上げた。
 その様子をしばらくはふ抜けたように、やがて憮然と騎士は眺めていた。
「不服のようじゃな。勝ちは嬉しくないか?」
 バフォメットが騎士に近寄り、騎士の表情を見て苦笑を浮かべた。
「譲られた勝ちはな。ラシア殿といい、どうも魔物は簡単に勝ちを譲るのが好きなようだな」
 騎士は少しばかり不満そうに正直な気持ちを口にした。
「時と場合によるぞ。今回は、若い魔物を助けてくれたことと、私の問いに答えてくれた礼じゃ」
「助けたことは当然のことだ。問いに答えたのも礼には及ばんよ」
 そして、最初に祈りを捧げた尖塔の先端を見上げた。
「そもそも、一対一で他に手を借りた俺の負けだろう?」
 バフォメットは騎士が見上げている視線に気づき、やれやれと首を振った。そして、顔を上げて、騎士と同じように尖塔の先端を見上げた。
「ラシア! 出てくるがいい。もう、騎士殿に場所がばれとるぞ!」
 尖塔の屋根の陰から翼をもつ人影が姿を現した。屋根から飛び降りると、翼をはばたかせて、広場へとゆっくりとその人影は着地した。
「きぃ、最初からばらしてたんでしょ。こいつがロリコンだからって甘すぎるわよ」
 広場に着地して開口一番、バフォメットに向かって文句を言った。しかし、バフォメットは、自分の隣で硬直している騎士の方をニヤニヤしながら見ていた。
「いいや、ばらしてはおらぬ。こやつが自分で気付いたようだ」
「それでも、約束が違うじゃない!」
「あれ以上続けろとか申すな。わかるじゃろ?」
「ううぅ〜」
 バフォメットが困り顔でドラゴンに言うと、彼女もそれはわかるのか唸るだけだった。
「ラ、ラシア殿、か?」
 硬直からようやく復帰した騎士は鎧のヘルメットを脱いで、何とかそれだけ口にした。
 広場に舞い降りたのは、ラシアだったが、騎士と変わらぬほどだった身長が今は彼の胸あたりぐらいまで縮んでいた。一撃必殺の剛腕は凶暴さは残しつつ華奢になっていた。大地を踏み抜く豪脚も力強さは残しつつ肉付きが減ってか細くなっていた。豊満だった胸もすっかり平らに近くなっていた。
 傲慢で強気な美女は、わがままで意地っ張りな美幼女になっていた。ただ、魅力的な琥珀色の瞳の光だけは以前と変わりなかった。
「支部にある若返りの秘薬だけでなく、隣の支部にある分もかなり譲ってもらって、高度濃縮した超秘薬を触媒に使って、若返りの秘術をかけた。おかげで、薬のストックは空になってしもうた。まったく、変に耐魔法能力が高いドラゴンの若返りは面倒極まりないわな」
 バフォメットが口では文句を言いながらも、おかしそうに笑っていた。
「どう? これで私の提案――」
「その先を言うのは、ちょっと待ってくれ」
 ドラゴンが胸の前でぐっと両手を重ねて握りながら言おうとする言葉を騎士が止めた。
「な、何よ。まだ、文句があるの? やっぱり、他に好きな魔物でも――」
 ドラゴンの琥珀色の瞳がにじみかけた。騎士はそれを見て、急いで自分の首からぶら下げていた革の袋を鎧の中から取り出して、その中のものを手の上に出した。
 革の袋から出てきたのは、やや濃い赤色をして、内側から妖しく輝きを放つ宝石であった。
「それは……」
 ドラゴンはその宝石を良く知っていた。彼女と騎士が対戦するきっかけとなった宝石、カーバンクルだった。
 騎士はドラゴンの前で鎧を身につけているにもかかわらず片膝をつき、手に乗せた宝石を彼女の方へと捧げた。
「ラシア殿、俺と結婚してくれ」
「なっ」
 予想外の言葉にドラゴンは思考が追いつかずに言葉が出なかった。
「うだつの上がらない俺だが、ラシア殿を必ず幸せにしてみせる。だから、結婚してくれ」
 騎士はドラゴンの目をまっすぐに見てもう一度求婚した。その目を見れば、本気なことはわかった。わかったが、複雑な乙女心が邪魔をして純粋に喜べなかった。
「やっぱり、私が幼竜になったから? そうでしょ? この変態っ」
 姿形で態度を変えるのが気に入らないと口をへの字に結んだ。
「いいや。最初から今回の砦での勝負に勝って告白するつもりだった」
「そ、それなら、なんで私が誘ったのに断ったのよ! 頑張ったのに。必死だったのに。恥ずかしかったのに……」
 その時を思い出してか、ドラゴンの目にまた涙が溜まり始めていた。
「いや、それは……すまん」
 騎士はなんともバツが悪そうに謝った。
「だが、もし、俺がラシア殿の誘いに乗れば、ラシア殿は俺がどう思っていようが、地位と名誉のために自分のものになったと気に病み続けるであろう?」
 騎士は断った本当の理由をドラゴンに話した。
「うっ……それは……」
 そこまで深く考えなかったが、そうなっていた可能性が高いと今頃になって気付いて言葉を詰まらせた。
「で、でも、勝って告白するつもりだったって、私に勝てると思ってたの?」
 自分の不利を話をすりかえて脱しようと八つ当たり気味に怒鳴った。
「もちろんだ。勝って、ラシア殿を俺のものにするつもりだった」
 怒れるドラゴンも平然と騎士は受け止め、あっさりと言い返した。逆に「俺のもの」など言われて、カウンターをくらい、ドラゴンの方はメロメロのダウン寸前だった。
「お、思い上がりもいいところだわ。あんたなんか、コテンパンにしてやるつもりだったのよ。二回勝ったぐらいでいい気にならないで」
 メロメロになりながらも、地上の王者のプライドから無くなった胸を張って言い返した。ただ、観客たちに「この騎士に二回も負けた」と宣伝してしまっていることまで気付いていなかった。
 観客たちがざわめき始めて、ドラゴンはそのことにやっと気付いて、しまったと言う顔をした。
「いい気にはなっていないが、今回の砦での勝負は俺の勝ちだぞ」
 騎士は追い討ちをかけるように、ニヤリと笑って少し大きな声で周囲にも聞こえるように言った。
「何を言ってるの。中断してるだけでしょ! なんなら、ここで続きをする?」
 目に闘志の炎が宿り、いつの間にか溜まった涙を乾かしていた。
「ドラゴンブレスの使用。明確な飛行。宝物の損傷。合計六点減点だ。二勝分だな。ああ、攻撃による後退もあったから七点減点。二勝分以上だな」
 騎士が意地悪く点数を数えると、ドラゴンは窮地に陥ったねずみのような表情を浮かべた。
「あ、あれは……あんたがロリコンとか嘘つくからでしょ! だから、無効!」
 どういうルールかよくわからないが、とにかくドラゴンは、あの勝負はノーカウントと言い張った。
「俺は嘘などついておらんが?」
 騎士は不思議そうに首をかしげた。
「でも、ロリコンなのに、サバトの魔女とか、きぃとかにハァハァしてなかったじゃない!」
 そういって、ニマニマと観客になっていたバフォメットを引っ張り込んで、騎士の前に置いた。
「こ、こら! ラシア、何をする! 痴話げんかに親友を巻き込むな!」
「この、きぃ――バフォメットは親友の私が言うのもなんだけど、なかなか極上のロリよ。そのロリに反応せずに、ロリコンを名乗るのはエセロリコンよ」
 ドラゴンはバフォメットの抗議を完全無視して騎士に訴えた。もし、ロリに反応していたならしていたで、ひどい目に合わしていたのだろうが、それは今は戸棚にでもしまっておいた。
「うむ。極上ロリとかよくわからんが、確かにサバトでも私や魔女たちに反応しているようには見えなかったな。ラシアの言うとおり、ロリコンは詐称じゃろう」
 バフォメットも引っ張り込まれたが、ドラゴンの意見に賛同した。
「ロリコンを馬鹿にしないでいただきたい! いくら幼くても、好みでない相手にニマニマする趣味はない!」
 騎士は胸を張って言い切った。
「好みじゃないって、このきぃが?」
 ドラゴンがバフォメットを騎士に押し付けるようにした。
「すまないが、その通りだ」
 騎士は謝罪しつつも、はっきりと言い切った。
「ラシア。なぜ、私は公衆の面前で自分の意思に関係なく、振られねばならんのだ?」
 バフォメットがこめかみに血管を浮かばせて、顔を引きつらせた。
「ご、ごめん。なんか、いろいろと、ごめん」
 ドラゴンもさすがに悪いと思ったのか、素直に謝った。
「それに例え成長した女でも、好みであれば、その幼少期を想像して、ニマニマするスキルぐらい備えている。俺は幼ければ何でもいいなどいう節操のないロリコンではないのだ」
 騎士は自分の信念をきっぱりと言い切った。
「じゃあ、もしかして、元の姿のままでも?」
 ドラゴンが期待をこめて騎士に尋ねた。バフォメットは、もう好きにやってくれと少し離れていじけていた。
「もちろん、プロポーズしていた。この宝石は王から俺が譲り受けたものだ。持っているとドラゴンを呼び寄せる不幸の宝石だと言うのでな。俺にとっては幸福の宝石でしかないが」
 本当は今回勝利した後に指輪に加工して、もう一度改めて勝負を挑みに行って求婚するつもりだったと、本来の騎士の計画を教えた。
「もしかして、これって、無駄だったんだ」
 幼くなった身体を見下ろして、ドラゴンは自分の早合点に苦笑した。
「馬鹿を言うな! 好きな相手が俺のために完璧な姿となってくれたことを喜ばぬなど断じてない! 誓って言う。今の姿は最高に綺麗で可愛くて興奮する姿だ」
 騎士はドラゴンが早まって、加齢などしてはまずいと必死に真摯に訴えた。
「この、変態っ」
 ドラゴンは顔を真っ赤にして罵倒した。そうしなければ、抱きつくのを我慢できない。
「なんとでも言うがいい。だが、もう一度言う。いや、何度でも言う。結婚してくれ、ラシア」
 畳み掛けるように騎士は再び求婚してきた。
「だ、だけど」
「愛している、ラシア」
 ドラゴンに逃げ場はない。広場の観客も温かい視線で包囲網を完成させている。もはや、四面ウェディングソング状態である。
「な、なんで、いきなり、そんなに積極的なのよ! 今まで対戦ばっかりしか求めてこなかったのに!」
 自分がこの騎士のことを気があることは、なんとなくわかっていた。しかし、騎士は自分に好意を持っているかどうかがわからずにいた。
 恋愛などしたことも無いし、興味もなかったドラゴンには好意を持ってもらう方法もろくにわからなかった。それに、もし他の魔物のように騎士に迫ってしまったら、武人として会いに来てくれている騎士がもう来てくれないかもしれない。
 そんな不安から、本心では物足りないが、対戦者としての関係を続けることを選んでいた。
 その不満が一気に噴出した。それと同時に軽く口元から黒炎がちらついた。
「言わないとダメか?」
 騎士は初めて困った表情を浮かべた。
「ダメ。それを言わないなら、結婚なんてしてあげない」
 強情な最愛の魔物にこう言われては、覚悟を決めるしかなかった。そして、迷いを振り切った。
 例えこの身を焼かれても、彼女にであれば無念はない。そう考えた。
「わかった。俺は――」
 ドラゴンは口の中の唾を飲み込んだ。
「俺は爬虫類系ロリコンなのだ!」
 水を打ったように静まり返った広場に騎士の雄たけびが響いた。
 きぃ・バフォメットは後にこの時のことをこう語っている。
「ロリコンはなんでも知っているつもりであったが、この時はその奥深さを感じさせられた。私もまだまだじゃった」
 騎士の少しばかり特殊な嗜好を告白したことにより、時間が止まったかのような広場の中で唯一動くことができた騎士は、片膝ついて求婚のポーズから目の前のドラゴンを抱きすくめた。
「え? あ、え?」
 ドラゴンは抱きすくめられて、さらに混乱した。
「ラシア! 俺はロリコンだが、それ以上にお前のことが好きだ。大好きだ。愛している。たとえ、お前がロリじゃなくても、爬虫類系でなくても、お前という存在を愛している。何百何千と生まれ変わろうとも、俺は必ずお前を見つけてお前を求める自信がある」
 混乱しているドラゴンに強引に迫った。
 ドラゴンは矢継ぎ早に放たれる愛の矢がハリネズミ状態で突き刺さり、顔を紅潮させていた。
 騎士は愛するものに身を焼かれてもいいと思ったが、思っただけで焼かれないならそれに越したことはない。愛するものを愛し続けるためにも、生き残るために最善の手を尽くすのが騎士の生き方である。
「俺は嫌いか?」
「そんな! そんなことは……ないと思う……」
 騎士の問いかけに反射的に声を上げて、それですぐに照れて答えをごまかした。しかし、ドラゴンを良く知る騎士にとってみれば、それで十分だった。
「では、ラシアは俺の女だ! いいな!」
「は、はいっ!」
 ドラゴンはついに騎士の迫力に押し切られて、頷いてしまった。そして、ついに言ってしまったと顔を真っ赤にして、今では自分よりも大きくなっている騎士の身体に抱き着いた。
 広場の観客たちが二人を祝福する拍手と喝采に満たされ、いつしかそれはキスコールに変わっていった。広場を埋め尽くすキスのコールに騎士は照れながら頭をかいた。
「ラシア」
 名前を呼んで顔を上げさせると、そのまま有無も言わせずに唇を重ねた。観客たちはやんやの喝采をあげた。
「ば、ばかぁっ! みんなの見てる前で、は、恥ずかしいじゃないの!」
 顔を真っ赤にして、騎士の胸を何度も叩いた。普通ならポカポカという擬音が似合うが、ドラゴンゆえにドコドコと迫力が違う。
「恥ずかしい時は、人間世界ではこういうんだ。穴があったら入りたい」
「あ、穴って、どこよ! 入りたいって!」
 ドラゴンがますます顔を真っ赤にした。
「そこにある」
 そういって、ドラゴンをお姫様抱っこすると、先程、地面にあけた穴に騎士は飛び込んだ。
「これで皆からは見えないぞ」
「……ゲオルギオス♥」
「なんだ、ラシア?」
 ドラゴンの声色が変わった気がしたが、騎士はいつも通りに返事をした。
「ゲオルギオス、だいしゅきぃ〜♥」
「お、おいっ! 何を? ま、まて! ここでそんなことまで!」
「もう、待てないの! ゲオルギオスは、私の♥」
「ちょ、ちょっと、ま、まじかぁ!」
 何をしているかは想像にお任せするとして、そのラブラブにあてられ、その日はハッスルする夫婦が多かったという。
 余談だが、この広場に開いた穴は埋められず、「ドラゴンの恋穴」と呼ばれ、独身魔物がこの穴に入るといい人と結ばれるというパワースポットとして、この街の観光名所になった。
「はぁ……私もお兄ちゃんが欲しいの。どこかに、私が甘えれるお兄ちゃんはおらんのかのぉ」
 バフォメットの哀愁帯びた呟きは、広場に響いた嬌声に掻き消えた。
「ああぁん♥ だいしゅきぃ♥ しゅきしゅきぃ〜♥♥♥」
 こうして、不器用なドラゴンと騎士は、末永く幸せにくらしましたとさ。
 めでたしめでたし。
16/09/25 00:44更新 / 南文堂
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■作者メッセージ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて、騎士とドラゴンのお話はハッピーエンドです。
うまく三つに分かれていたので連載にしましたが、一つにまとめて投稿すればよかったかなと。長くても一話の方がいいか、分けれるなら分けた方がいいか。悩みどころですね。
余談。お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、騎士の名前は竜退治で有名な聖人の名前で、ドラゴンの名前は、その竜退治をした土地の名前です。
実は、あの伝説がどうもアレで、ドラゴンが幸せになる話を書きたかったので書いてて楽しかったです。

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