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初夜権と新郎

「貴様の畑を見に行ってやろう」
 朝、目が覚めた瞬間、領主にそう言われた。
 ヴァンパイアが光の下を歩くのはどうなのかとあらかじめ尋ねたが、光を防ぐローブを頭まで被るから大丈夫だと返された。
 こうして俺はナーシェを置いて一足先に村に帰る事となった。
 しかし村の中を、黒の外套を纏った怪しい人物を連れて歩くのはかなり勇気のいる行動だった。誰も此奴が領主だと察しがつかないだろうし、僅かに見える領主の顔から、変な事を勘ぐられたりもした。そう言う意味で余計な注目を浴びる事となった。
 そして、青々とした葉が茂る自慢の畑まで案内した所で、領主は初めて声を発した。
「ふむ。良い色合いだ」
 実る作物の赤い色合いを撫でられる。誉められるとくすぐったいものだ。
「一つ、頂いて構わんか」
 俺は頷く。領主は果実を一つはぎ取ると、躊躇なくそれに牙を突き立てた。
 染み出る蜜を吸いながら、喉を下す。
 フードからちらりと見せた顔は、確かに笑顔だった。
「ふむふむ。実に美味い。この弾力と言い、潤いと言い、酸味の中にある仄かな甘さと言い、絶品だ! 妾専属の農家に認定してやってもいいぞ」
「はは、恐れ入ります」
 本当に専属の農家に慣れる事を光栄に思うかどうかはさて置いて、此処まではっきりと、表情に出してまで褒め称えてくれた人物はナーシェ以外にはいない。
 別にこれだけの事で推し量れる訳じゃないが、領主の事を少し見直した自分が居た。
「……しかし、なんでこんなものが見たいなんて言い出したんだ? 別に、アンタら貴族には面白くもなんとも」
 気を抜いた瞬間にボロが出る。普段敬語なんて言い慣れてないものだから、ついタメ口を利いてしまった。
 そんな俺の慌てた態度を見て、領主は微かに笑った。
「構わない。今はお忍びの身だ。寧ろ、敬語を使われる方が都合は悪い」
「は、はぁ」
「ふふ、だからそんなに気を改めんでよいというのに」
 そう言って笑う。こうして見ると、領主も一端の女性なんだと改めて認識出来た。
 いや、それ以上にナーシェにはない洗練された雰囲気。立ち居振舞い。そのどれもが、俺が上辺だけで否定してきた“高貴”とは違う。それは毛嫌いしている裏で、何処か憧れていた“高貴”であった。
 領主はそんな風に俺が思っているとも知らずに、こう返答する。
「……花嫁に言われてな。普通相手を好くと言うのは、自分を基準にするのではなく、相手を基準にするものなのだと。だから、少しくらい、平民の暮らしや生き方を見ておくべきだとな」
 俺はナーシェがそんな事を領主に言ったのか、と感心したが、同時に領主の言葉に違和感を憶えた。
「え? と言う事は、領主サマは同じ貴族とは結婚しないのか?」
「妾の領土は余り有益な土地関係にないからな。政略的な結婚話は滅多に持ち上がって来ん。それに、妾と付き合いがある者と言えば大体妻帯者か女性だ」
「縁がないってことか」
「はっきり言うな」
「だって、そうだろ」
「……そうだが」
 納得しない領主。
 なんだか可愛く思えてきた。
 そろそろ朝靄が消えて、陽が本格的に上る頃だ。俺は雲の様子を見て、今日の天気は清々しい快晴だと予想する。
「さて、そろそろ陽も昇るし、家の中にでも入るか?」
 領主は静かに頷く。俺は新居の扉を開く。なんだか、妻とは違う女を家の中に連れ込むのは凄く問題がある気がしたが、この場合は例外事項と言う事で自分を納得させる。
 領主をテーブルに着かせる。俺が目に付いたカーテン全てを閉じたのを見た後、フードを取り払う領主。
 その下の顔は酷く疲弊しているようだった。
「……大丈夫か? もう帰った方がいいんじゃないか」
 領主は首を振った。
「いや、大丈夫だ。この程度……平民に心配される程ではない」
「つってもな。大丈夫に見えないから言ってんだけど」
「むむ」
 唸る領主。
 暫く子供が悪戯の言い訳を考える様な顔をしてから、こう言った。
「……今頃から陽がきつくなるだろう。やはり夜になってから帰らんと」
「まぁ、そうだな。じゃあウチでゆっくりしててくれよ」
 俺は軽く受け流し、出口の取っ手に手を掛ける。
 すると、何故か領主が激しく取り乱すのだった。
「ちょっと待て。何処に行く」
「ああ、ちょっと畑の様子を見に」
「さっき見ただろう!?」
「いや、害虫とかいないか、見ておかないと」
 害虫は農家の敵だ。放っておくと周りの農家にも迷惑を掛ける。
 領主はまた何か考え込んでから、俺を引き留める。
「扉を開ければ妾は光を浴びてしまうだろうっ。極力此処に居るのだっ」
「いや、害虫駆除は農家にとって大切な作業なんだが……」
「いいから此処におれっ。妾からの命令だ!」
 領主はそう顔を真っ赤にして言う。さっき見た時は害虫の影も見えなかったし、今日ぐらいはいいだろう。此処まで言われているし、仕方がない。
 普段畑仕事ばかりしている俺は、「家に居ろ」と言われても何もやる事がない。そうすると必然的に領主と話し込む事となる。領主がそれを望んでいたかどうかはさっぱり判らないが、気付くと陽はすっかり傾いていた。
「そろそろ帰るか」
 領主が、暗くなった部屋を見渡して呟く。
「貴様の花嫁も心配する頃だろう」
 苦しそうにそう笑ったのをみて、俺は思わず口に出した。
   なんでそんな顔するんだ?」
「は?」
「いや、なんか、辛そうと言うか。やっぱり陽の下を歩くのは辛かったのか?」
 そう尋ねると、領主はぽかんとした後、大笑いし始めた。
「……ふふ、はははっ」
 何をそんなに笑っているのか判らない俺に、領主は弁明するように言う。
「いや、そうかそうか。顔に出ておったか」
「?」
 領主は笑いで出た涙を指の背で払う。
「貴様と他愛のない話をしていて確信した。妾は貴様の幸せを奪えん。また、奪った所で別の幸せを齎す事も出来ん」
 その言葉の意味が判らず、首を捻る俺。領主は「気にするな」とばかりに笑いかけてくる。


   初夜権は花嫁に返そう」
「え」
 突然の事に俺は目を丸くした。
「なんだ。妾を抱けなくて、がっかりしたのか?」
「いや……」としか言葉が出なかった。勿論とも、違うとも言えない。
 領主は子供を見る目の様に温かい眼差しを向けてくる。
「美味い実りを馳走してくれた分の礼を支払わねば、領主たる面目が立たん。……只、それだけだ」
 そう言った。
 俺は、どうしてか納得いかなかった。殆んど不可避の災難が、思わぬ形で避けられたというのに、何処か筋が通らない。そんな感覚。
 だが敢えて俺がその事を口に出す事もない。平常心を必死で保ちながら、俺は黙って領主に頭を下げた。


 トントン
 丁度そんな時、新居の扉が叩かれる。外から若い男の声が響く。
「ルーゲル。居るんだろー?」
 聞き覚えのある抑揚のない声。昔から付き合いのある友人だと気付き、俺は新居の扉を開く。
 やはり其処には馴染の顔があった。
「おお。よかった、居た」
「なんだ、突然」
「いや、結婚祝いにこの前ウチで取れた“アレ”でも贈ろうかと思ってさ。昨日来たんだけど」
 そういえば、昨日は家を留守にしていた。結婚式の翌日に渡そうと思ったのだろう。
「ああ、悪いな」
「いいって、いいって。それより、奥さんは……?」
 そう言いながら家の中を覗き込む。
 成程。此奴、俺が連れ歩いていた黒尽くめの女が気になって、結婚祝いを口実に様子を窺いに来たという訳か。煩わしい出歯亀根性だ。
 俺は身体を張って領主の姿を隠しながら、怪しまれぬよう受け答えする。
「あ、彼奴なら部屋で寝てるよ」
「へぇ。で、其処に座ってらっしゃる美人さんは?」
 振り返る。そう言えば、領主はもうフードを取り払っている。其処にはそう、目を奪われる様な金髪の美少女が鎮座していたのだった。
「あ、いや。別にどうってことも」
 咄嗟に言い訳が思いつかなかった俺は態度ではぐらかす。
 だが目の前の馴染は疑う様な瞳で俺を射抜くのだった。
「……別に盛んなのはいいけど、嫁さん泣かすなよ」
「そんなんじゃねぇし!」
 するとこの野郎はニヤリと笑み、一瞬の隙を突いて俺の脇を潜り、領主に迫るのだ。
「ねぇねぇ所でお嬢さん、何処の人? なんだか此処じゃ見ないね。もしかして都から来た人?」
「あ、テメ……!」
 慌ててこの男を領主から引き剥がそうとして気付く。

    領主の目がトロンとし始め、顔が紅潮してきている。

 何事かと思っていると、不意に鼻を刺す独特の臭いが漂ってくる。
 これは……ニンニクの臭い?
「あ、これ俺ン所でとれたニンニクなんだけど、良かったらどうぞ」
 そう言って籠から一つの生ニンニクを領主の前に突き出す。
 別にヴァンパイアの性質について詳しい訳ではなかったが、少なくとも領主の態度を見て良い事の原因にはなりそうにないと思い、急いで此奴の手からニンニクを取り上げる。
「お、お前、馬鹿だな! 女相手に生のニンニク食わせようなんて、無理があるって!」
「そうだな。ははは」
 笑いながら領主から離れる。領主もホッとした様子だが、その表情は未だ妙なままだ。
 そんな時だ。不意にテーブルに衝撃が走ったかと思うと、なみなみと水が注がれているグラスが傾く。領主の館に出向く前に注いでいた一杯だ。それが暫く狂い踊ったかと思うと、ゆっくりと領主の膝に倒れ込んだ。
 激しく中身をぶちまけるグラス。領主の漆黒のローブはその色合いを一気に濃くしたのだった。
   っ!」
「あ、すみませんッ。今お拭きしますから……」
 テーブルに躓いたのはこの男だった。慌てて周りを見渡す。残念ながら、この新居に都合よく乾いた布がある訳がない。
 俺も頭を抱えて、この迷惑千万な客人にお帰りいただくよう言おうかとしていた所、領主の様子が一変したのに気付いた。
 領主は突然立ち上がる。完全に目が据わり、息が荒くなっている。先程までの気品漂う立ち居振る舞いとは確実に違っていた。
「おい、どうしたんだよッ」
 そう呼び掛けながら、肩を掴む。ただそれだけだ。それだけの事で、領主は「ひゃぅっ」と声をあげて全身に電気を流した。
 そしてそのまま、引き寄せられたかのように、俺を見詰めてくるのだった。
 その目は今まで領主が俺に向けてきた目とは違う。まるで甘えさせて欲しいかのような、依存する様な眼差し。今にも泣き出しそうな眼差し。俺は、正直、ナーシェ以上にこの目に吸い込まれてしまいそうに思えた。
 ――抱き締めたい。そう思った。
 だが領主は自分から身体を預けてきた。我慢できない。そんな風に、がっついてきた。その片手はだらしなく、自身の股間に伸びていた。
 そして、俺の首筋に見惚れる様にして、そのまま吸い付く……。


―――――


「吸血鬼……! 本当にいたんだ……ッ!」
 まるで自分の目を疑うかのような台詞。
   う、うわぁぁぁっ」
 ばたばたと騒がしく新居を後にする訪問客。その目に映ったのは、血の滴る床と、口元を血で濡らす美女。そうに違いない。
 一頻り俺の血を啜った後、領主は割と早く目が覚めた。俺と言えば吸血される快感の前に足腰立たなくなって地面に倒れ伏していたが、起こしてくれた。
「はぁ、はぁ。   しまったな、見られてしまった」
「突然なんなんだよ、一体……」
「すまない。妾達はニンニクと真水があると、理性を失ってしまうのだ。……言ってみれば、妾達ヴァンパイアの弱点……とも言うべきものだな」
「おいおい、じゃあ身体の方は大丈夫なのかよ」
「……多少無理をしている」
 そう訊いて心配になってしまう。短い付き合いだが、此奴はプライドが高く、人に心配をかけさせようとしない性格の持ち主の筈だ。自分から無理をしていると告白する事の重大性は、判っているつもりだった。
「おい、じゃあ取り敢えず横になれ。……あ〜、ヴァンパイアなんて看病した事ないから、何していいか判んねぇ……っ」
「い、いや! 別にそういう無理ではなくて、だな……」
 何故か頬を桜色に染める領主。何だか身体を捩る動作が激しい。
「なんだ。じゃあどういう……」
 そう問おうとした時、家の外から殺伐とした喚き声が聞こえ始めた。


   ヴァンパイアを匿うなっ。ヴァンパイアを引き渡せーっ」


 俺達は驚いて、カーテンの隙間から外の様子を窺う。
 ……俺の新居を、大勢の村人が火を手にして囲んでいた。
 これは夢か何かか。頬を引っ張ってみるが、間違いなく痛い。現実だ。すっかり訳が判らない。
 俺の隣で、領主は落ち着いた口調で呟く。
「なんという早さだ。一体どういう……(……!)」
 其処で何かを思い出した様に、領主は俺に尋ねる。
「貴様、最近見慣れぬ者がこの辺りで妾の事を申し触れてはいなかったかっ?」
「え?」
 過去の記憶を掘り起こす。そう言えば近頃、教会騎士がこの辺りでよくヴァンパイアの話をしていた。俺は結婚式に浮かれていて、(今言われて初めて思い出したくらい)殆んど意識には無かった。
 けれど確か村人の大半はその男の話を真に受け、村全体でヴァンパイアの炙り出しをやっていた筈だ。焼かれた家もあった様に思う。
 その旨を話すと、領主は苦い顔をした。
「ふん、やはりか。(……魔王軍の連中が警告していた扇動者が、よもや私の領内に潜んでいたとは。道理で、此処まで展開が早い訳だ。……どうやら私も、少々浮かれていたようだな)」
 良くは判らないが、悔しがる領主。
 俺はどうすればいいか思い悩んでいたが、外の殺気立った雰囲気からして馬鹿正直に出る訳にはいかない事は判っていた。
「どうする。逃げるか」
 領主に問い掛ける。だが此奴は神妙な面持ちで、首を振った。
「……貴様は、逃げる必要ないだろう」
「え」
「奴等の狙いは妾だ。妾一人が……」
 俺は領主の言葉を聞き終わる前に拒絶反応を示した。
 そして咄嗟にこう言ってしまう。
「それは駄目だ。アンタ一人が犠牲になっても、俺は嬉しくねぇんだよ。余計な御世話だッ」
 領主は目をパチクリさせた後、ニィッと笑った。
「誰が貴様何ぞの為に犠牲になるかっ。妾一人が逃げれば良かろうと言ったのだ」
「……あ」
 顔が熱くなる。何を自惚れた事を言ったのだろうと、自分の顔を無性に殴りたくなった。
(……だが妾一人が逃げ伸びても、きっとルーゲルは妾を匿ったとやらで、畑も、この家も奪われる……)
 領主は深く瞳を落とした。
 ふと、外で何やらパチパチと音がするのに気付く。
 俺達は再度外を覗いて、目を疑った。
   ! 彼奴ら、俺の畑を……!?」
 目の前で、俺の畑が紅蓮の炎に包まれている   
 気が遠くなりそうな情景だった。
「……済まない。妾の我儘で、こんな事になってしまって……」
 消えていく、俺の功績。手塩にかけて守って来た畑が、ナーシェの為に築き上げてきた財産が、呆気なく燃えていく。
 ……途轍もない喪失感。涙が込み上げたが、それを無理やり押しとどめた。
「いいって。こうなっちまったもんは仕方ない。俺はそうやって、今までやってきたんだから。……畑始めた最初の頃、昔ヒデー目にあわせた連中に滅茶苦茶にされたりしてからずっと、そう思わなきゃやってられなかったし」
 本音を言えば、そう口に出さなければ、やってられなかった。
「……済まないな」
「おいおい。アンタだってこうなると予想していたんじゃないだろ。いいって」
 そう笑ってみせる。殆んど空元気だ。
 この後の展開は判っている。俺はヴァンパイアを匿ったからと言って、結局家も焼かれ、ナーシェとの縁談がなかった事になる……ならまだマシだ。下手をしたら、ナーシェを道連れにしてしまいかねない。
 だが、領主と逃げる選択はどうだろう。考えてみろ。俺は足手纏いになる。俺の所為で領主が捕まる様な事はあっちゃいけない。
    この人は守らなきゃいけない。何時の間にか、そう固く誓っている自分が居た。


「俺が時間を稼いでみるから、アンタはその間に逃げてくれ」
 気付くとそんな事を口走っていた。
 領主の顔が青ざめる。
「何を馬鹿な事を」
「どうせ外の様子じゃ、話は聞いてもらえそうにない。古い連中だから、なんでもかんでも焼いちまわないと気が済まないだろうしな」
 そう自嘲する。俺だって、今までその古い慣習の中に生きてきた。俺の家を取り囲む連中の考えは手に取る様に判る。
 それに、畑を焼いてくれた腹いせみたいな事もしたかった。領主を無事に逃がせば、それが達成できるのだ。
「焼いちま……!? それだったら妾の力があればよいだろうっ。幸い、外はもう光が弱い。妾が愚か者どもを成敗してやれば」
「アンタは領主だろ」
 領主は止まる。
「俺は知ってるぜ。この土地が今まで戦争と無益だった事。これだけ豊かな事。これだけ住みやすい事。全部、アンタのお陰だったって事」
「そ……そ、それは、代々この土地を預かる者として、とと当然の義務でなぁ……っ!?」
 判り易く照れる領主。こうして見ると、矢張り此奴が一人の女の子だと実感する。
「俺は口だけの貴族が嫌いだけど、アンタは違う。アンタは領民の事を想う、誉められるべき領主だ。そんな領主が、領民に手を上げちゃならねぇ」
「……わっ、妾はそんな大それたものではない……っ」
 弱々しくそう返し、項垂れる領主。
 俺は立ち上がり、扉の前に立つ。扉の前に立って判る、異常な程殺気立つ外の空気。決意はしたが、やはりこのドアを開けるのに躊躇う。
 自分に問い掛けた。命は惜しくない。今まで死ぬような無茶は何度もしている。俺の手を緩やかに止めるのは別の恐怖だ。
 場合によってはナーシェを、初夜を過ごさないまま未亡人にしてしまうかもしれない。その負い目。
 勿論死ぬ気なんてない。俺がやるのは、領主が逃げる為の時間稼ぎだ。ヤバくなったら俺が逃げる。死に物狂いで逃げる。それだけの事。
 俺は扉を開けた。嫌な風が頬を横切った。
 確かに外は暗くなっていたが、目の前に火の帯が広がっていた。農民たちが持つ松明の火と、俺の畑に上がる火の手が繋がって見えているのだ。
 彼等はしきりに俺に「ヴァンパイアを匿うな」と迫った。まるでつい最近まで祝い事を共に祝っていた相手とは思えぬ表情で、本来畑仕事以外に使い道のない筈の鍬を突きだしてくる。
 俺は必死に落ち着くように言うが、彼等は聞く耳も持たなかった。それでも説得を試みるが、代わりに拳が飛んできた。
 家の前に倒れ込む。頭に血が上る。
 けれど、今は自分が冷静でなければならない。立ちあがって再び声を掛けるが、今度は鍬を振り翳して脅してくる。古い慣習に囚われてはいるけれど、こんな事をする連中ではなかった筈だった。俺は人間と言う奇妙な性質の生き物の、言い知れようない恐怖に、冷や汗が噴き出した。
 そろそろ領主も逃げた頃合いだろうと思い、周囲を見渡す。いざとなれば逃げ道くらいあるもんだと考えていたが、現実は甘かった。
 俺には、家の中に掛け込むくらいの道……家と共に燃やし尽くされる道しか残されていなかったのだ。
 本格的に身の危険を感じた頃だ。突然誰かが俺の肩に手を置く。後ろを取られた事実に、背筋に寒気が走る。
 振り向けば、其処には凛と立つ領主がいたのだった。
   何してんだよッ。さっさと逃げないと……!」
 奴等は、ヴァンパイアだ、と口々に叫ぶ一方、恐怖の対象を前に出足を鈍らせている。その隙に領主は俺に言う。
「さっき貴様は、妾を誉められるべき、といったな」
「そうだけど、んな事どうでもいいから逃げろってば」
「黙って聞け」
 すっぱりそう言われて黙る。領主はこの状況にも慌てる風無く語り出す。
「……妾が誉められるべきである筈などない。妾は、貴様の花嫁から初夜を奪おうとした。そんな者が、誉められる訳なかろう」
「確かにアレは俺も困った。けど、アンタだって嫌々やってたんだろ。……その、俺だってガキじゃないんだ。自分で金を用意せず、他人に任せっきりにしていた報いだと思ってるよ」
 領主は困ってしまったように眉を下げた。
「違う」
「……でも、やっぱり俺が用意しておけばこんな風には」
「そうじゃない。違うと言ったのは、その」
 今まで以上に少女らしく俯く領主。俺の手を掴み、口の中でごにょごにょと何かを囁いた後、こう口に出したのだ。
「ほ、本当に、花嫁から奪いたかったのはっ。   き、貴様……で……そのっ」
 一瞬何を言っているのか判らずポカンとした。続けて領主は口にする。
「馬車から貴様の姿を一目見た瞬間、身体の奥底から何かが湧きだすのを感じた……。この気持ちがなんなのか判らなかったが、今判った」
 そう言って領主は俺に寄り掛かってくる……
   あれが“一目惚れ”と言うのだと、な」
「えっ、ちょっと待てっ」
 想定外の状況で想定外の告白をされた俺はうろたえるばかりだった。
「しかし、貴様には妻が居た。将来を誓った伴侶が居た。妾は……いや、“私”はどうしようもなく嫉妬した。だから、貴方を奪おうと思って……色々と」
「……え、じゃあ伯父さんがお金を支払わなくなったのは……」
「私があの男を吸血して虜にしたから」
「アンタなぁ」
 すっかり呆れてしまい、殺気立った周囲の様子も関係なく笑みが毀れた。
「“妾”も、この地を預かる者である前に、高貴なる血族である前に……一人の女なんだと、貴様と出会って初めて知った。だから、この想いを犠牲にしてまで、今の地位に縋りたくはない。……こんな酷い領主、他にはおるまい」
 領主の腕が首に絡み付く。……彼女の息が、近付く。
「……だが、妾の目は確かだったようだ。一目惚れという言葉は、どうしても思慮が浅い気がして嫌だったのだが、な」
「?」
 彼女が何かをひそりと呟いた。俺が目で尋ねると、クスクス笑って誤魔化した。
「なんでもない」

 その言葉を聞いた瞬間、唇に柔らかい感触が押し当てられた。


―――――


    ヒュー……
 遠くで空気を裂く音が響く。その直後、空に爆竹音が響きながら光が撒かれる。何事かと農民達が空の彼方を見る。色とりどりの光の舞いが、山の方からドンドンと打ち上がって行く。
「な、なんだっ?」
 横目でそれを見た俺が首を傾けようとすると、領主ががっちりと俺の顔を抑え、口付けを続ける。
 目にチラチラと光が飛び込む。領主の顔がほんのり赤く光っていた。
   今の内だ。逃げるぞ」
 不意に唇を離したと思ったら、領主のその言葉。俺は周囲を見る。皆、遠くの方に打ち上げられる花火(奴等は恐らく、初見の筈)に目を奪われていた。
 これなら逃げられそうだ。俺は領主に手を引かれ、集団の中を突っ切った。
「逃げるぞーっ。追えー!」
 すぐに追手が来る。
 俺は領主に腕がもげそうな程強く引かれながら、森の中に逃げ込む。夜の森は不気味だが、領主の館はこの先にある。
「ちょ、ちょっと待て! このままアンタの館まで振りきれなかったら……」
「本格的に妾が領主だとバレるな」
 そうだ。今、領主はヴァンパイアだというだけで領主とはバレていない。先程の奴等の様子を見ても、俺達の会話からそれを察せられてもいない。
 もし、領主がヴァンパイアと知られれば、どうなる? 領主は民を制御できず、身を滅ぼす結果となる。
 しかし領主は森の中を走りながら、余裕だった。
「案ずるな。どうやら、心強い味方がきたようだ」
「……え?」
 味方? 領主に味方なんているのか。領主はそれを裏付ける様に、明るい月の下でにこりと笑み掛けてくるのだった。


―――――


 暴徒達はそれぞれ、本来自分の仕事に使う筈の道具を武器に息を荒げ、森を駆けずり回っていた。
 そんな暴徒が着実に領主の館に迫る頃、森の中では不穏な影がちらつく。
 土を蹴る音。暴徒の一団は足を止めた。
「ナニモンだぁっ!? テメェッ」
 彼等の前に立ちふさがる影。暗い木の影から出て、明るい月の光が照らす。其処には眉間に傷のある男が立っていた。
 暴徒の前に現れた男は、咥えるキセルをゆっくりと口から離す。ふーっと噴き出された煙は月光に輝いた。
「ナニモンだって訊いてんだッ。今は取り込み中なんだよッ。ヨソモンだったら、とっととこの土地から出て行きやがれッ!」
 男はゆらりと顔を向ける。殺気立つ暴徒が静まりかえる。男の目が赤く鋭く光り、それが一瞬帯を引いたのである。
 男はそうして暴徒達を見回した後、悠然と言う。


   魔王軍」


 この夜、暴徒達は瞬く間に鎮圧され、扇動者とされる人物は忽然と姿を消したのであった……。





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【メモ・キャラ】
“????”

眉間に傷のある、パイプを咥えた男。ルーゲルと領主を暴徒から逃した張本人。一晩で暴徒を鎮圧せしめた事から、勇者か英雄並みの実力者であると思われる。

魔王軍と名乗っていたが、今回の件で動いたのは彼一人であった。

但し、実際に勇者であったり英雄であったりする人物は魔界の奥でエロエロして出てこないものなので、このような小規模な問題解決(謂わば雑用)に駆り出されるのは、それほど魔界での地位が高くない人物である。

10/02/27 21:50 Vutur

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