連載小説
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愛を遺した人、愛を育てた魔物。
 初冬の夕方に近い午後。
 抱えて運んで来た木箱をベンチにおろし、ふぅと息をつく一人の魔物の姿があった。

 ゆったりとしたシルエットの白いセーター。白魚のような手には、薄手の手袋。
 野菜、果物、雑貨など、色々な物が入った木箱は、人間の女性では持ち運べない程の重さになっている。そんな荷物を抱えて歩いたからだろうか、その頬はほんのりと桃色に染まっていた。

「少し、買い込み過ぎてしまったでしょうか?」

 落ち着いた、大人の女性の声。
 しかし、小首を傾げながら呟く姿は、純朴で可憐な乙女のそれ。
 ラフに切られたショートカットの似合う童顔が、そうした印象に拍車をかけている。
 軟派な人間の男ならば、声をかけずにはいられない……彼女には、それだけの美しさが備わっていた。

 だが、実際に彼女へ声をかける男はいないだろう。
 仮に居たとしても、彼女に近付き、その左手の薬指に填められた銀の指輪を見れば、黙って回れ右をするはずだ。
 夫を持つ“純潔の象徴”に声をかけても、絶対に何も起こらない。いや、そもそも自分などが手出しをして良い相手ではない、と。

 彼女は、ユニコーン。
 どこまでも白く美しい毛並みと、額から伸びる一本の角。そして何より貞淑で心優しく、愛に生きる種族として名高い、ケンタウロス種の魔物である。

「う〜ん……ふぅ」

 両手を組み、くるりと手首を返して頭の上へ。
 木箱を運んで凝ってしまった肩と背中の筋肉をほぐし、再びふぅと一息。

「懐中時計を持って来るべきでしたね」

 軽く空を見上げて太陽の位置を確認し、だいたいの時間を推測する。
 国一番の森林地帯で育った彼女は、時計いらずの優秀な勘を持っていた。
 季節を問わず、ただ空を見上げるだけで、時刻を誤差ニ分以内で言い当てることが出来たのだ。
 けれども、大人になって生活環境が変わり、様々な出来事を経ていく中で、その勘は随分とボンヤリした、頼りないものになっていた。

 うっかりでしたが、仕方ありません。
 心の中でそんな言葉を転がし、彼女はベンチの横にペタンと腰を下ろした。
 ユニコーンである彼女は、普通のベンチに座ることが出来ない。だから、ベンチの横の地面に座る。
 それを可哀想だと言う人もいるが、彼女を含めたケンタウロス種の魔物たちは気にしない。
 私たちはそういう風に出来ているのだから、もうそれで良いじゃない……彼女たちにとっては、ただそれだけのことなのだ。

 街を見下ろす丘の上。
 古ぼけたベンチの横に、人待ち顔の美しいユニコーンが一人。
 どこまでも絵になるそんな景色の中で、彼女は静かに瞼を閉じた。



 そして、別れの時がやって来た。

 秋の終わり。
 王立騎士団附属病院。
 その緊急処置室に、最愛の人との永遠の別れが、やって来た。

 ベッドに横たわる彼の顔には、小さな傷が付いている。
 皮膚と髪の毛からは水気が失われ、脱力しきった肉体からは生気を感じることができない。
 今、彼の命を辛うじてつなぎとめているのは、いくつかの薬と治癒の魔術。
 しかしそれは、嵐の中で揺れる木に、数本の細糸を結びつけているだけのこと。
 訪れる運命の時を跳ね返すことは叶わない。

 やがて弱々しく続いていた彼の呼吸は乱れ、浅くなり、数度体を痙攣させて、止まる。
 彼女はその様子を震えながら見つめ、ただ涙を流し続ける。

「いや、嫌、イヤ……嫌です、嫌ですっ!!」

 訪れた最期の瞬間を拒むように、彼女は彼の右手を握り、その冷たさに戦慄する。
 種族の特徴として、ユニコーンは強力な治癒の魔術を使うことができる。しかし、それが有効となるためには、治癒の受け手側に魔術を受け入れるだけの力が残っていなければいけない。
 命の灯火が、灯っていなければいけないのだ。

 目を見開いて動けなくなった彼女に視線を送りながら、白髪の男性医師がベッドの反対側から彼の脈を確認する。

 処置室の片隅には、その様子を見守る人々。
 顔や体に痛々しく包帯を巻かれている若者たち。
 急の知らせに驚き、病院へと駆けつけた、二人の恩人である老夫婦。
 手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめ、怒りと無念に体を硬直させているオーク。
 痛恨の表情でうつむき、小さく肩を震わせているバフォメット。

 対光反射の消失、胸部の聴診、再び脈の確認。
 それらをゆっくりと丁寧に行い、最後に時計を確認した医師が、静かに告げた。

「午後九時二十七分、天への旅立ちを確認させていただきました」
「あ、あ、そんな……」

 涙で瞳を真っ赤に腫らし、首を横に振りながら、彼女は縋るような思いで医師を見る。
 だが、医師は何も答えない。答えてくれない。
 だから彼女は、処置室の片隅にいる人々に目を向ける。
 嘘ですよね。こんなこと、嘘ですよね。何かの間違いですよね、と。
 けれども、そこに訪れるのはあまりにも痛く、冷たく、悲しい沈黙。
 
 なぜ、どうして、なんで一体、こんなことに。こんなことが。こんなかたちで。
 頭の芯が痺れ、耳鳴りが響き、体から力が抜け、天と地がわからなくなりながら、彼女は叫ぶ。

「嫌、イ……イ、ヤ……いやあぁぁぁぁっ!!」

 その絶叫に全員が目を瞑り、歯を食いしばる。
 今、この状況の中で、彼女にかけられる言葉など無い。慟哭する彼女を止める術など無い。
 たとえ全知全能の神であろうとも。
 いや、違う。
 全知全能の神がいるのなら、そいつの襟首を掴んでねじ伏せ、その顔を殴りつけながらこう言うだろう。

 貴様は、一体どういうつもりなんだ。この人が、彼が死ぬ理由がどこにある。彼女が泣く理由がどこにある。これが貴様の仕組んだ筋書きならば、今この場でお前の息の根を止めてやる。だから、今すぐ答えてみせろ。これがお前の考える正しい答えなのか。

 しかし、それもまた詮無い問いかけ。
 訪れて欲しくなかった、訪れるべきではなかった別れの前には、無意味な妄想。

 ただ処置室には、この世の終わりよりも大きな悲しみを表す、彼女の声だけが響いていた。
 

「え、あ、申し訳ありません。こんなボサボサの小汚い格好で」
「ふふふ……いいえ、お気になさらずに」

 彼と最初に交わした会話を、彼女は何もかも鮮明に覚えている。
 当時、彼は二十八歳。
 騎士団士官学校:魔術科の新米講師として、授業に研究にと大忙しだった頃。
 一方、彼女は二十歳。
 故郷を離れ、花嫁修業の旅に出て八ヶ月。ふとした偶然から知り合った薬草農家の老夫婦の家に住み込み、助手として働き始めたばかりの頃。

「可愛い子じゃろ? でも、手ぇ出すなよ? 花嫁修行中のお嬢さんなんじゃからな」
「ウフフ……大丈夫ですよ。だって、先生はユニコーンのお婿さんにはなれないでしょう? この子の旦那様になる人は、清い心と体の持ち主でなければいけませんからね」
「ん、まったくじゃ。けれどもまぁ、お前のその格好は何じゃ、小っ汚いのぅ! また研究室に篭っとるのか? あぁ、コラ! あんまりその子に近づくな! お前の無精が伝染ったら困るわい!」

 孫娘を守る祖父と化している禿頭のご主人と、そんなご主人の言動を楽しそうに見守る小柄な奥さん。
 二人の言葉にタジタジになった彼が、自己紹介もそこそこに彼女へ伝えた言葉。
 それが、「申し訳ありません」だったのだ。

「でも、先生もいい人は居ないんですか? そろそろ、結婚を考えても良いお歳でしょう?」
「いや、これが恥ずかしながら、まったく何も、誰も」
「ケっ! 情けないのぅ。ワシがお前くらいの頃は、もう子供が二人おったわい。だいたいお前は……」

 注文していた魔術実験用の薬草を取りに来ただけなのに、どうして自分はこんなにも追い込まれているんだろう。綺麗なユニコーンさんの前で、お説教に突入なんて……ご主人、虫の居所が悪かったのかな。あぁあぁ、奥さんも会話に新しい燃料を投下しないでくださいよぅ。
 心と体に冷や汗をかきながら、彼はどうにか言葉を返す。

「確かに親からも色々言われてますけど、こればっかりは何とも」
「好いた女の一人もおらんのか? 士官学校には、人間も魔物もおるじゃろうが」
「いや、まぁ、誰かを好きになったことはもちろんありますけど……今は、仕事と研究が面白くて」
「そんなもん、言い訳にならんじゃろうが。前々から思っとったが、お前は……」

 うわ、これは本当に駄目な流れだ。お説教再開だ。今日は早く退散した方が良いみたいだなぁ。
 そう考えた彼は受け取り伝票に素早くペンを走らせ、その横に代金が入った小袋をそっと置いた。
 ふぅ。よし、これで大丈夫……。

「はい、先生。お茶が入りましたよ。こちらの椅子にどうぞ」
「おぉう……」

 奥さんの優しさが、ツラい。
 思わず変な声を出してしまった彼を、ご主人がギロリと睨む。
 その視線から“何じゃ、お前。うちの女房が淹れた茶が飲めんのか?”という気配を察した彼は速やかに抵抗と逃走を諦め、勧められた椅子に暗い気持ちで腰掛けた。

 椅子は、ご夫婦が収穫して来た薬草を仕分ける作業台の正面に置かれている。
 座ってみると、仕分け作業中のご主人が左に、ニコニコ顔の奥さんが中央に、そして見惚れてしまうほど綺麗なユニコーンの乙女が右に。
 古ぼけた作業小屋の中で、三度ご主人のお説教が始まる。

「で……まさかお前、その歳で女を知らんとか言わんじゃろうな?」
「んぐっ……!?」

 奥さんに小さくお礼を伝え、熱いお茶を一口含んだところで、ご主人からの強烈な一言が突き刺さった。
 予想を超えた急角度の質問にむせた彼を、ご主人が作業の手を止めること無く、冷たく見下ろす。
 彼は何とかその視線から逃れ、苦境を乗り越えようと言葉を探したが、結局は力なく認めることになった。

「はぁ、まぁ……恥ずかしながら」
「あらあら。それじゃあ、夜のお店のご経験は?」
「いや、まぁ……それも無いです。悪友から誘われたことは何度かあったんですけど、そういうお店に行くのは、何とも言えない抵抗があって」

 何故か嬉しそうに問いかけて来た奥さんに、彼は少しうつむきながら答えた。
 さらにゴニョゴニョと、「別に潔癖性的な考えがあるとか、そういうんじゃないんですけどね」と付け加えた所で視線を上げると……

「…………」
「…………」

 穏やかに微笑む、ユニコーンの乙女と目が合った。
 無垢なる乙女。慈しみの心を持った聖母。絵画から抜け出て来た妖精。
 彼の脳裏に、そんな言葉が浮かんでは消えていく。

 ユニコーンを見るのは、初めてではない。士官学校の構内や街中はもちろん、気まぐれに出かけた祭りの会場などで、その美しい姿は何度も目にして来た。
 だが、今、眼の前にいるショートカットが似合う乙女のように、心揺さぶれるような“何か”を感じるユニコーンは初めてだった。
 この“何か”は、一体何なのか。
 もしかするとこの感覚は、この“何か”は、確証はないけれど、人生初の、自分には絶対に縁の無いことだと思っていた、一目惚れという……

「おい、コラ。何を見惚れとんのじゃお前は」

 彼の心の中に形作られかけた“何か”を打ち壊す、ドスの効いたご主人の声。
 美しい光に溢れた世界から、薬草の匂いに満ち満ちた現実の世界へと引き戻され、彼はあたふたと立ち上がる。
 そして、まだ熱いお茶を一気に飲み干し、食道と胃に鈍い痛みを感じながら告げた。

「ご、ごちそうさまでした。それでは、今日はこの辺でし、失礼します。長々とお邪魔しました!」

 奥さんの手によって綺麗に袋詰めされた薬草の数々を抱え、ペコペコと頭を下げて彼が去って行く。
 その情けなく滑稽でありながら、不思議と憎めない姿に、ユニコーンの乙女は口元を抑えてクスクスと可愛い笑いを漏らした。
 そんな彼女に、夫婦が言う。

「悪い奴ではないんじゃがな。どうにもこうにも頼りない」
「でも、それがあの先生らしさですよ。少し頼りなくても、不器用でも、嘘や虚勢に頼らない真面目な方です。それは、あなたも感じたでしょう? ね、カリーネちゃん?」

 いたずらっぽい微笑みとともに、奥さんがユニコーンの乙女……カリーネにウインクをする。
 すると、カリーネもまた茶目っ気たっぷりにウインクを返してこう言った。

「そうですね。誠実な“何か”を感じる……素敵な方だと思います」


【中に立って橋渡しをする人。特に、結婚の仲立ちをする人。媒酌人】

 辞書で『仲人』という言葉を引けば、そんな説明に行き当たる。
 彼とカリーネの二人にとって、薬草農家の老夫婦は正に『仲人』だった。

 何かにつけて不器用な彼に多くのチャンスを与えたのも、奥ゆかしすぎるが故に恋の歩みが遅いカリーネへ的確な助言を授けたのも、あの夫婦だったのだ。

「あぁ、カリーネや。すまんが、この薬草と木の実の詰め合わせを、騎士団の士官学校まで届けてくれんか。うむ、そうじゃ。あの頼りなくて小汚い奴の研究室までな。細かい場所は、正面の総合受付で尋ねれば教えてくれるじゃろう。あと……万が一、奴に妙なことをされそうになったら、胸に風穴が開くくらいの蹴りを喰らわせてやれ。遠慮は要らんぞ」

 例えば、ご主人からのそんなお使いが、彼の職場見学につながり、同時に定期的な逢引へと発展していったこと。

「カリーネちゃんの趣味は、読書と観劇なんですよ。あと、ジパング料理も大好きなんです。確か先生も、本とジパング料理がお好きでしたよね? あぁそうそう、あの子が特に好きなお店と作家さんはね……」

 例えば、奥さんのそんなさりげない一言が、二人の会話を弾ませる大きなきっかけになり、後の観劇デートと楽しいディナーへとつながっていったこと。

 その他にも、夫婦は大小様々な、多岐に渡る手助けを二人に施してくれた。
 だからこそ、約一年間に渡る清い交際を実らせ、生涯を共に歩むとを決めた時、彼とカリーネは夫婦への感謝の気持ちをこう告げたのだ。

「お二人がいらっしゃなければ、今の僕たちはありませんでした。本当に、ありがとうございました。その上で厚かましいお願いかも知れませんが……どうか、僕たちの結婚式の仲人をお願いできませんでしょうか。他の誰かでは、駄目なんです。お二人に、お願いしたいんです!」

 並んで頭を下げる彼とカリーネに、ご主人はそっぽを向いて「引け受けた」とぶっきらぼうに、けれども瞳にうっすらと涙を浮かべて応えた。
 その傍らで奥さんはうんうんと何度も頷き、「喜んで!」と満面の笑顔を見せてくれた。

 そうして、彼とカリーネの結婚式は、よく晴れた春の日に執り行われた。
 無意味な豪華さや派手さとは無縁の、素朴な手作り感に溢れた、とても素敵な結婚式だった。
 騎士団士官学校の同僚や生徒たちは、いたずら心満載の手荒な方法で彼を祝福し、式場には何度も爆笑の渦が巻き起こった。
 カリーネをよく知る農家や近所の人々は、心を尽くしたもてなしと祝福を送り、新たな日々に幸多かれと祈ってくれた。
 そしてもちろん、彼とカリーネの両親たちも、愛する我が子の晴れ姿を嬉し涙と共に心に焼き付けた。

 夫婦となった彼とカリーネは、士官学校の既婚者住宅へと引っ越し、甘く楽しい新婚生活をスタートさせた。
 カリーネは、思う。
 彼との出会い、交際、結婚……あの日々は、自分にとって生涯最高の時間だったと。
 愛という名の大きな光と喜びに包まれ、言葉では表現できないほどのときめきと共にあった、あの頃。

 記憶の扉を開ける度、カリーネは微笑みながら涙しそうになる。
 愛しき日々に心を包まれ、その後に訪れた苦難に心を揺さぶられ。
 小さな隙間をおいて、清流と濁流がサラサラと、ゴウゴウと、音を立てて流れ合うような場所。

 その僅かな隙間が最初に決壊したのは、結婚式から僅か二週間後のこと。
 彼が、研究室で突如吐血し、倒れたという知らせを受けた時だった。


 カリーネが王立騎士団附属病院に駆けつけた時、彼は手術室の中にいた。

 あまりにも突然の出来事ではあったが、彼はいくつもの幸運に恵まれていた。
 倒れた場所が士官学校内であったため、治癒魔術や移送魔術に長けた講師たちが即座に集結できたこと。
 運び込まれた病院に、偶然にも循環器と消化器の権威と呼べる名医たちがいたこと。
 さらに、士官学校:魔術科の科長を務めるバフォメットが冷静な説明を行い、取り乱すカリーネをきちんと落ち着かせたこと。

 そうした“不幸中の幸い”が幾重にも重なり合った結果、彼は六時間に及ぶ手術の末に一命を取り留めることができた。
 手術を終え、魔術と薬による穏やかな眠り中にある彼を見た時、カリーネは生涯で最も深く安堵した。
 そして同時に、『もしもこの人を喪ってしまったら』という恐怖に囚われ、耐え難いほどの悪寒に襲われた。

 カリーネは己の手で己の肩を抱き、強く瞼を閉じて震えを抑えようとした。
 けれども、震えは少しも治まらない。
 もしも、もしも、もしも……遅れて連絡を受けた薬草農家の老夫婦が駆け付けてくれるまでの間、カリーネはそうして一人、震え続けた。

 私は、彼を心から愛しています。私が生きる意味の全ては、彼と共にあるのです。
 ですから、神様でも魔王様でも、どなたでも構いません。
 どうか、どうか彼を救い、穏やかな日常へとお返しください。
 私から彼を奪うようなことをなさらないでください。

 伏して、伏して、心からお願いいたします……。


「……なるほど」

 突然の吐血と手術から、二週間と少しが経った昼下がり。
 病院と士官学校が用意してくれた入院用個室。
 そこに置かれたベッドに体を起こし、魔術科 科長のバフォメットから届いた手紙を読み終えた彼が、小さく頷きながら言った。
 そんな彼の傍らで静かにタオルを畳んでいたカリーネが、小首を傾げて尋ねる。

「科長様は、何と?」
「うん、僕の運の良さとか、病気に関する詳細とか、色々。実際に読んでもらった方が早いと思うから、どうぞ」
「え……」

 微笑みながら手紙をさし出す彼に、カリーネは表情で“私が読んでもよろしいのですか?”と問いかける。すると、彼もまた少しおどけた表情で“もちろんどうぞ”と答えた。

 「それでは……」と遠慮がちに手紙を受け取るカリーネ。
 「予想外に可愛らしい字だから、少し驚いちゃうかも知れないよ」と笑う彼。
 見ればなるほど、手紙に記されている文字は、科長でその上バフォメットという高位の魔物とは思えないほど、丸くふんわりとしたものだった。

 そうしてしばしの間、病室にひっそりとした時間が訪れる。
 聞こえて来るのは、窓の外から流れてくる小鳥のさえずりとカリーネが手紙をめくる僅かな音。

 夫婦水入らずというのは、こういうのじゃないよね。絶対に違うよね。
 そういう言葉は、もっと落ち着いた幸せな時間につけられるものだから。
 ここは病院だし、彼女にも大きな心配と迷惑をかけてしまったし……本当、これからは積極的に、嫁さん孝行ってやつをして行かなきゃなぁ。

 彼がそんなことを考えていると、手紙を読み終えたカリーネがすっと顔を上げた。
 心なしか、その顔はほんのりと赤くなっているように見える。
 理由を察した彼が、笑って言葉をかけた。

「『病魔に打ち勝つためにも、もっとガンガンと激しく愛し合いなさい』って書いてあったでしょ?」
「は、はい……」
「科長さんらしい表現だよね。どこまでも本音で、開けっぴろげで、嘘がない感じの」
 
 手紙の要点は、三つ。
 一つは、彼の体内……特に胃に潜み、突如として牙を向いた病魔について。
 その病魔を発見することは名医をもってしても難しく、多くの場合において“気づいた時には、もう手遅れだった”という最悪の事態を招く相手であったらしい。
 さらに、先々代の学院長が亡くなった理由が、彼と全く同じ病魔に冒されたからだった……との一文は、彼とカリーネの肝を大いに冷たくした。

 二つ目は、彼の幸運について。
 それほどに対処しづらい病魔であるにも関わらず、彼は長時間の手術の末、撃退に成功した。
 既に執刀医から「あなたは本当に運が良かった」と言われていた彼ではあったが、手紙を通じて病気に関する詳細を知らされ、その言葉の意味と重さを強く理解することになった。
 もちろん、吐血した現場で素早く的確な応急処置と搬送を行ってくれた人々に対する感謝も、より深く、大きなものになった。

 そして最後に、今後の生活について。
 病魔の進行と、それを阻み、倒すための手術によって、彼の心身と魔力は衰弱している。
 そうした要素は時間の経過と共に回復が望めるものではあるが、同時に病魔の再来という厄介な問題が立ち上がってきてしまう。
 一度撃退したからといって、敵と完全に縁が切れるわけではない……彼の胃を冒した病魔の難しい点が、そこにあった。
 事実、手紙には、先々代の学長が二度の手術を乗り越えた後、三度目についに力尽きた旨が記されていた。

 一瞬、暗い気持ちになりかけた彼ではあったが、次の便箋に並ぶ文字を読み取るうちに、大きな希望を抱くことができた。
 ここは、人間と魔物が手を取り合う国。
 自分は、美しきユニコーンの乙女と、生涯を共に歩むと誓った者。
 人間と魔物が愛し合うことの意味と効果は、何と素晴らしいものなのだろう、と。

 人間と魔物が繰り返し肌を重ね、愛と精を交換する。
 魔物である妻は『性』と『精』の喜びに包まれ、強さ、美しさ、大らかさなど、愛と美に関するすべての要素を高め、『生』ある日々を最愛の人と共に謳歌する。
 一方、人間である夫は『性』と『精』を通じて、新たなる『生』を獲得する。
 インキュバス化に代表される、人間の不可能と不自由からの開放である。

 魔物は、滅多なことでは病気にかからない。
 毒物に負けることも、障害を負うことも、長患いに苦しむこともない。
 人間から見れば羨ましいことこの上ないそれらの特徴は、しかし、魔物だけのものではないのだ。

《人間と魔物の夫婦には、無限の可能性があるのです。
 今後君たち夫婦は、病魔に打ち勝つためにも、もっとガンガンと激しく愛し合いなさい。
 ユニコーンである奥さんの“前”も“後ろ”も、真っ白に染め上げてあげなさい。
 そうして、お互いの魔力と真心、愛と精を交換し続けていけば、君の体内から病魔は綺麗サッパリと駆逐されることでしょう。

 それだけではありません。
 愛と精に溢れた日々は夫婦の絆を絶対的に強め、やがてその先には我が子の誕生という、君たち夫婦にとって生涯最高の出来事へとつながっていくのです。
 我が子をその手に抱きたくはないですか?
 笑顔と喜びに満ちた『家族』になりたくはないですか?
 その答えは一つ……「抱きしめたいです! 家族になりたいです!」でしょう?
 ならば、君たち夫婦が取るべき行動もまた、一つ。
 大事なことなので、再び書きます。

 今後君たち夫婦は、病魔に打ち勝つためにも、もっとガンガンと激しく愛し合いなさい。

 愛し合うのです。それはもう、ネットリと、ベッタリと、グッチョリと。
 私は悪ふざけで書いている訳ではありません。この手紙は、奥さんにも読ませてください。
 ユニコーンという奥ゆかしい種族であるがゆえ、また結婚後すぐに今回の出来事に遭遇したがゆえ、奥さんは夫婦の営みに関して、少なからぬ遠慮と自制を重ねているのではありませんか?

 心優しい君たちのことだから、恐らく私のこの予想は当たっていることでしょう。
 だからこそ、大きな声で、大きな文字で伝えたいのです。
 ためらう必要はありません。心と体のおもむくままに、たっぷりと愛し合えば良いのです。
 そして二人で、明日に向かって生きるのです。

 大丈夫。既に、幸せへの道は示されています。
 私は、君たちの未来を信じていますからね。》

 手紙の最後、自分たちの状況を見事に捉えた文章を思い返しながら、彼が言う。

「改めて言うのは、その、ちょっと恥ずかしいんだけど……僕は、色々な意味で、君なしでは生きて行けない人間になったみたいなんだ。だから、えっと、うん。今までも、これからも、よろしくね」

 そこで一度言葉を切り、小さく深呼吸をして、彼は告げた。

「やっぱり僕は、君が大好きです。君と一緒に生きていきたいから、もっと愛し合いましょう」
「……はい! 私も、あなたが大好きです! 愛しています! だから、だから!」

 真っ赤な顔で、第二のプロポーズともいえる言葉を伝えた彼。
 その言葉に心を揺さぶられ、涙を流しながら抱きついたカリーネ。

 互いを支え合う、夫婦としての二人の人生……その第二幕は、そうして幕を開けた。
 そこから、長い長い道を共に歩み、喜びも悲しみもすべてを分かち合うために。

 そう……分かち合って、いきたかったのに。
 分かち合っていく、そのはずだったのに。


 事件当日、首都で配られたある新聞社の号外より一部抜粋。

【……我が国北方、対魔物中立主義国との国境にほど近い草原地帯にて、武力と魔力を伴った襲撃事態が発生した模様。

 襲撃を受けたのは、同地に存在するオークの集落。人口四十三人。
 現在、情報が錯綜しているものの、逮捕・拘束された者たちへの事情聴取ならびに装備品の特徴などにより、襲撃者は国境を接する中立国よりもさらに北方に位置する、反魔物主義国家の特殊部隊であると推測されている。
 大人のオークとその伴侶を殺害の上、集落における生活様式などを調査、最後に幼いオーク達を拘束して本国へと拉致した後、各種の実験体として使用することが目的であったと思われる。

 また、事態発生時、現地には交流フィールドワークと魔術研究および野草収集を目的とした騎士団士官学校:魔術科の講師と生徒、合計十三人が偶然滞在していた。
 講師と生徒の詳細な内訳は不明だが、襲撃者への反撃を試みた講師一名が心肺停止の状態にあるとの情報があがっている。加えて、講師と生徒のうち六名が重軽傷を負っている模様。

 さらに、付近を通りかかった行商人から『二頭のドラゴンが、旧魔王時代の姿で火炎を吐いていた』との目撃談も寄せられている。
 もしもその情報が事実であるならば、現地近くの山もしくは洞窟に暮らしていたドラゴンが救援に駆けつけたという可能性も考えられる……】


 もう秋も終わりに近いというのに、その日は妙に暑い一日だった。

 毎年、この時期に三泊四日の日程で行われる、オークの集落へのフィールドワーク。
 十人の生徒と、それを引率する三人の講師。その講師の中の一人が、彼だった。

「お戻りの日の夕食は、何が良いですか?」
「うーん、そうだなぁ……何か、魚料理をお願いできるかな。たぶん、ヘトヘトに疲れて戻って来るだろうから、肉よりもアッサリした味付けの魚が食べたい、かな」

 家を出る時、彼とカリーネはそんな会話を交わして微笑み合い、長いキスをした。

「それでは、いってらっしゃいませ。くれぐれも、オークの方に見惚れないでくださいね?」
「あははは! それは大丈夫。僕は、君の夫なんだから。興味もドキドキも、全部君限定だよ」

 カリーネの可愛い心配と冗談。
 最愛の妻のお茶目な言葉を思い返すと、彼の顔には自然と微笑みが浮かんだ。

「あぁ……でも、それにしても暑いなぁ。季節外れもいいところだ」

 微笑みを一度引っ込め、野草の束をまとめるための中腰の姿勢から、うんと伸びをする。
 オークの集落、中心広場。滞在三日目。時刻は午後三時を少し過ぎたところ。
 集落の面々との交流会や勉強会、実験発表、野草収集など、予定されていた項目を滞り無く消化し、明日の朝食後にはここを発つことになっている。

 今晩の“お別れ宴会”、無事に済めばいいんだけど……。

 周囲をゆったりと見回しながら、彼は心の中で呟いた。
 彼の瞳には、色々な交流の姿が映る。
 人間の女子生徒たちが、オークの子供たちの髪を梳かし、綺麗に編んであげている。
 一方、魔物の女子生徒たちとオークの若奥様たちは、何だか悪い顔でコソコソと話し合い、時折、弾けるような笑い声を響かせている。
 かつては騎士団の首都防衛隊に所属していたというオークの旦那さんが、運動神経に自信がある男子生徒たちに長槍の扱い方を説いている。

 そして……彼女のいない男子生徒たちと未婚の男性講師の一人が、瞳に怪しい情熱を宿したオークの乙女たちに取り囲まれている。

 集落を束ねるオークの長からは「心配するな。未来ある学徒を無理やり夫にするような無粋な真似はさせんよ」と言われてはいるものの、それなりに何かが起こりそうな気がしてならない。
 例えば、行きは生徒十人・講師三人でしたが、帰りは婿入りした者を引いて生徒八人・講師二人です……というような、何かが。

「そんな怖い顔しなさんな。大丈夫だよ」
「え、あ……いや、はい。すいません」

 不意に右横から声をかけられ、彼はビクリとしてしまう。
 声の主は、オークの長の夫……妻である彼女と出会う前は、精強な格闘家として名を轟かせていたという人物である。

「確かに、多少ギラギラはしてるけど、ちゃんと言いつけは守る子たちだから。心配いらないよ」
「あ、はい……申し訳ありません」

 年の頃なら、三十代の後半。取り立てて体が大きい訳ではなく、言動で相手を威圧するタイプという訳でもなく。
 しかし、一つ一つの言葉と佇まいに不思議な説得力があり、短い会話をするだけで、自然と居住まいを正してしまうような……長の夫は、そういう人物だった。

「そういえば、あの子たちが君のことを言ってたよ。『あの先生も悪くないんだけど、既婚者なのよね。それも、ユニコーンが奥さんだって言うんだから、こりゃ完璧に参ったわ』って」
「はぁ……既婚のおかげで安全圏、という感じでしょうか」
「ふふふ、そうだね。だからまぁ、何だかんだ安心しててよ。俺と女房が、万事ちゃんとやっておくからさ」

 己の心をすっかり読まれてしまい、彼は思わず赤面した。
 そんな彼に、長の夫はニコリと笑い、次の言葉を紡ごうとした……その時だった。

 大気と大地を激しく揺さぶる爆発、轟音。
 立ち上る炎と煙。さざなみのように押し寄せて来る熱と衝撃。

 集落の西、小道の先にある森の中で何かが起こった。

 あまりにも突然の出来事に、彼を含め、屋外にいた面々は硬直してしまう。
 また、屋内にいたオークとその家族たちも、「一体何ごと!?」と驚きながら外へと飛び出して来る。

「外に出ては駄目だ! 子供たちは家の中へ! 自警班は、道具と得物を持って集まれ!」

 変わらず硬直していた彼の傍らで、長の夫が叫ぶように指示を飛ばす。
 格闘家として乗り越えてきた数々の修羅場。そこで得た経験値ゆえだろうか、この突発的な異常事態の中でも、長の夫だけが唯一冷静な思考を保っていた。
 空を焦がしながら立ち上っていく炎と煙の塊を、ただ呆然と見上げていた彼も、その大きな声に我を取り戻す。

「が、学生および講師は幼い子を守りながら屋内へ退避! 状況が落ち着くまで、近くの建物の中に入らせてもらいなさい!」

 これで良いですね。あぁ、構わない。
 視線を重ね、互いの意図を汲み取った二人が頷き合う。
 立ち尽くしていた集落の面々も、続けて出された指示を受け取り、戸惑いながらも動き出す。

「先生、悪いが俺は一旦家に帰る。自警班の連中が集まってきたら、自分が戻ってくるまで、この場所で待機するように伝えてくれ。ちょっと、女房の様子が気になるんだ」
「わかりました、ちゃんと伝えます。急いで行ってください!」
「すまん。それじゃあ!」

 左手を軽く上げて感謝の気持を伝えると、長の夫は全速力で駆け出して行った。
 その背中を見送りながら、彼は思う。

 それは、心配だよね……奥さん、身重なんだから。


「一体何が起こった? あの森に爆発するようなモノなんて無いぞ? 馬鹿な行商人が事故でも起こしたか?」
「いや、あの森に行商人なんか来ないよ。森に入って進んで行っても行き止まりだし、うちらが水を汲んでる泉と、ちょっとめずらしい野草くらいしか無いんだから」
「いや、でも最近、変な獣道ができてるって言ってただろう? だから案外、俺たちの知らん間に、誰かが道を作ってたんじゃないのか?」

 広場に集まってきた自警班の面々が、それぞれの得物を手に語り合う。
 その声と表情には困惑の色が張り付き、皆どうにも腑に落ちないという雰囲気だ。

「えっと、みなさんすいません。長さんの旦那さんから伝言です。『自分が戻るまで、この場所で待機するように』とのことです」

 彼の言葉に、総勢十三人の自警班が頷く。
 内訳は、オークが六人、人間が七人。その中には、先程まで男子生徒に長槍の扱い方を説いていた元騎士団所属の男性もいる。
 腕に一定以上の覚えがあり、なおかつ責任感旺盛な人物が選ばれたのだろう。突然の出来事に戸惑ってはいるものの、うろたえたりパニックに陥ったりしている者は一人もいない。

「みなさん、こういう事態に備えて訓練は……?」
「あぁ、通り一遍のことはやってるよ。子供たちへの教育も兼ねてね。けどまぁ、“実戦”はこれが初めてかな」

 彼の問いかけに、元騎士団所属の男性が答える。

「でも、一応の成果は出てるみたいね。チビっ子連中はみんな家の中に隠れたし、先生の所の生徒さんも、ちゃんと助けてくれたみたいだし」

 独特の形状のハンマーを持ったカーリーヘアーのオークが、笑いながら言う。
 彼はその言葉に頷き、なるほど確かにと安堵した。
 生徒と子供たちは長の夫と自分の言葉に従い、全員が素早く建物の中へと避難した。
 正体不明の爆発が発生という状況において、フラフラと動きまわることは最も危険な行為だ。

 するとその時……一件の家の玄関が開き、中から彼の同僚である二人の男性講師が現れた。
 二人は視線を素早く走らせ、広場に彼と自警班の面々が集まっていることを認めると、合流するべく早足で歩き出す。

 彼も、自警班の十三人も、その様子を見ていた。
 家の中の様子はどんな感じだった? 子供たちは怯えていない? 大丈夫?
 そんな言葉を胸の奥から喉の手前まで引き出した瞬間。

「ガっ……!?」

 不意に、今度は集落の東に位置する倉庫の屋根から、数本の矢が飛来した。
 その内の一本が、前を歩いていた講師……オークの乙女たちに囲まれていた未婚の男性講師の左肩口に突き刺さったのだ。

 混乱と恐怖。困惑と戦慄。否定と現実。
 目の前で起こった出来事に、彼の脳内が沸騰する。
 思考が真っ白に染まり、呼吸が苦しくなり、体が硬直する。
 だが、矢はそんな彼に構うことなく飛来する。

「敵襲っ!! 総員散開!! 倉庫の屋根に弓兵五人!」

 自警班の誰かであろう、男性の叫び声がこだまする。
 その言葉に弾かれるように、自警班の十三人が一斉に動き出す。
 だが、彼は一瞬その動きに遅れてしまう。
 特別な戦闘訓練を受けていないただの魔術科講師と、きちんとした素養と背景を持った自警班。
 そうした違いが、この場面において致命的なものとして現れてしまった。

「先生! ダメだっ!!」

 棒立ちになった彼に、射抜かれずに済んだもう一人の男性講師が吠える。
 混乱の極地、気味が悪いほど引き伸ばされた時間の中で、彼にはすべての物事がゆっくりに見えた。

 倉庫の屋根。こちらに狙いを定めた弓兵の姿。
 いや、あれは本当に弓兵なのだろうか。一見、ただの登山者にしか見えないような格好をしている。
 地面に倒れ、出血している同僚と、その傍らに伏せて何事かを叫んでいるもう一人の同僚。
 しまったという表情でこちらに視線を送り、逃げろ伏せろと伝えているらしい自警班の面々。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……あぁ、でも、これしかないか。

 研究畑の人間とはいえ、それは彼の中にある魔術師としての本能だったのかもしれない。
 戦闘向きの魔術を苦手とする彼が使える、唯一と言っていい攻撃手段。
 最後にそれを使ったのは、まだ学生だった頃。
 標的への発射試験で、落第ぎりぎりの点数をとった時。
 あの時でさえ自分の中の魔術回路がビリビリと痺れたのに、今、この状況で、本当に……?

 だが、とにかくやるしかない。威嚇でも、こけおどしでも、なんでも良い。魔力が形を結ばず、情けない煙を上げるだけでも構わない。今という状況では、その煙幕すらも必要なのだ。
 彼は落ちてきた物を支える様に斜めに両腕を突き出し、魔力を雑に練ってグッと強く拳を固めた。
 そして、詠唱も術式名も何もなく、ただ獣のように叫ぶ。

「ぬぅあああぁぁりゃあああぁぁっ!!」

 次の瞬間、バキンと乾いた音がした。
 さらに次の瞬間、ヒュンと細長いものが空気を切り裂くような音がした。

「うあっ!?」

 その声は、一体誰のものだったのか。
 彼が発動した魔術に、その場にいた全員が驚いた。
 彼が使える唯一の攻撃系魔術……氷魔術による、氷柱(つらら)の製造と発射。
 生み出され、打ち出された二本の細く鋭い氷柱は、こちらに狙いを定めていた弓兵五人の中の二人、それぞれの右太ももを撃ち抜いて消えた。

「今だ! 先生、こっちへ!」

 二人の弓兵がもんどり打って屋根から落ち、地面に叩きつけられる。他の三人も予想外の反撃に怯み、屋根から一度その姿を消す。
 そうして生じた一瞬の隙を突いて、カーリーヘアーのオークがまるで子猫を運ぶように彼を掴み、安全な物陰へと引きずり込んだ。

「先生、やるじゃないか!」
「はぁ、はぁ、はぁ……」

 男性の声に褒められる。けれども、彼にはそれに応える余裕がなかった。
 何の準備もない無茶な魔術の行使。その代償は、彼に異様な動悸と息切れをもたらした。
 目の前がチカチカと眩み、物事をまともに考えることが出来ない。

「先生の同僚は大丈夫だよ。長の旦那が退避させたから」
「はぁ、はぁ、はぁ……あ、あ……」
「無理して喋らなくていい。とにかく大丈夫だから。ただ、この状況は心底マズいけどな」

 長槍を持った元騎士団所属の男性と、ショートソードを持った男性が、眉間に皺を寄せて語り合う。

「あいつら、何もんだ? 最初の爆発も、あいつらの仕業か?」
「だろうな。爆発を起こして集落全体を動揺させて、戦闘と警戒担当の俺たちをおびき出して……数が揃った所をまとめて始末って寸法だろうよ」
「チっ。汚ぇけど上手ぇな。賊の類じゃなくて、まともな訓練を受けた連中か」
「あぁ。どこかの特殊部隊系だと思うが、最初の攻撃を先生が跳ね返したから、今度はより一層タチの悪いことをやって来るぞ。複数方向からの同時攻撃か、火のついた矢でチビどもが逃げ込んだ家を狙うか……」

 そう言って二人がそれぞれの得物を強く握り直した時、会話の中身が現実のものとなる。

「東西から火! さらに東西と北から侵入者!」

 長の旦那さんの声だ。
 ようやく落ち着いてきた動悸と息切れの中で、彼は認識する。
 集落の表玄関である南以外の方角……西の森、東の倉庫、そして北の草原へと続く小さな林。三方向からの同時侵入、同時攻撃。
 長の夫の叫び声に合わせるように、集落の中に様々な音と声、衝撃と悲鳴が交錯する。

「西は火球魔術! 東は火矢! 北から入ってきた奴ら、家の中に入ろうとしてるよ!」
「クソったれ、ふざけんな! あいつら、俺たちの女房やガキどもが狙いかよ!?」
「誰か、煙幕玉を持ってないか? 矢と魔術の狙いを付けられないようにしないと、動き出した途端に殺されるぞ!!」

 火球魔術と火矢が空気を切り裂く鋭い音。
 北からの侵入者が家屋の玄関や窓、壁などを破壊しようとする鈍い音。
 その攻撃に怯え、嫌だ来ないでと叫んでいるオークの子供たちの泣き声。
 誰かが煙幕玉を破裂させたのだろう、ボンという破裂音と共に白く濃密な煙が辺りに漂い始める。

 目と耳に飛び込んで来る情報を処理しきれず、ぐっと唇を噛み締めた彼に元騎士団所属の男性が告げた。

「俺たちは行く! 先生はここに隠れて……いや、もしも可能なら南から抜けて、近所の集落でも野良の魔物さんでも何でも良いから、この襲撃のことを伝えてくれ!」
「わ、わかりました……」

 しっかりしてくれと言わんばかりに彼の左肩を強く叩き、男性は長槍と共に物陰から駆け出して行った。


 集落に響く物音は、更に激しくなっていく。

 それまでに聞こえていた音に加えて、刃と刃がぶつかり合う乾いた音や敵味方双方の叫び声、女性の悲鳴や生徒たちのものと思しき若い人間の雄叫び、さらには家屋が倒壊するようなガラガラという大きな破壊音まで聞こえて来る。

 その中で、彼は考える。

 告げられた通り、集落の南から抜け出して誰かに助けを求めるか?
 いや、自分は近所の村や集落までの距離も道筋も知らない。どこにどんな魔物さんがいるのかもわからない。
 このまま身を隠し続けるか? あるいは、静かに逃げ出すか?
 いや、既に侵入者が現れているこの状況では、遅かれ早かれ発見されてしまうだろう。それに、自分は臆病者のボンクラ野郎とはいえ、魔術科の講師なのだ。そんな立場の人間が、生徒を放って逃げ出すなどあり得ない。

 それでは、皆を守るために戦うか? 魔術師として、秘技の限りを持って立ち上がるか?

 激しく響き続ける様々な音と漂う煙、さらに受け入れたくはないがそうとしか認識できない血の臭いの中で、彼は瞼を閉じる。

 その暗闇の中に浮かぶのは、一つのイメージ。
 白い白い……そう、最愛の妻であるカリーネの体と同じ、無垢なる白の糸で編まれた一本のロープ。
 それは二人の絆の象徴であり、己の命の象徴。
 病に倒れ、憐れにも切れかかった命の糸を、カリーネは無限の愛と癒しの魔力、そして深い精の力で繋ぎ止め、これほどまでに美しく整えてくれた。
 このまま平和な日々が続き、二人で愛を確かめ合えば、このロープはやがて太い綱となり、十年後には神物のように輝く宝石になるだろう。

 だが、今ここでその命を燃やし、大規模な魔術を発動させたならば、どうなるのか。

 魔術とは、等価交換の世界だ。
 意思と意志を持って世の理に干渉し、魔力を供物に術と成す。
 そこに必要となる魔力は術の内容と規模に比例し、禁忌のものともなれば、術者の命を瞬時に吸い尽くすという。

 彼には、禁忌の魔術を行使することはできない。そもそも、そんな恐ろしい物は知らない。
 けれども今、この状況を覆すための策と術には、心当たりがある。
 カリーネが、最愛の妻が整えてくれたこの純白のロープを対価にすれば、恐らくみんなが助かる。
 何故かはわからないが、その魔術はきっと成功する。失敗を恐れる気持ちは微塵もない。
 そう、確信がある。純白のロープを対価にすれば、すべてが……。

「あぁ、調子に乗って学者になんてならなきゃ良かった。魔術の本なんて、読まなきゃ良かった。氷魔術なんて、できなきゃ良かった」

 そんなことを言っている場合ではないとわかっていながら、それでも彼は呟いた。
 呟いていなければ、怖くて、悲しくて、何より申し訳なくて堪らなかったのだ。

「カリーネ……カリーネ、カリーネ……ごめんよ。本当に、ごめんよ。本当に、僕は最低の夫だね。君に何の孝行も出来ないまま、ここで……あぁ……」

 いつの間にか、彼はボロボロと泣いていた。
 手足が震え、腰に力が入らない。
 それでも、どうにか立ち上がり、再び瞼を閉じて胸の前で静かに合掌する。

 脳裏に浮かぶのは、白の糸で編まれた一本のロープ。カリーネの笑顔。抱きしめてあげたかった、この世に呼んであげたかった我が子。家族三人の笑顔。遠い遠い未来。

「我が魔力と活力を持って氷と成す。氷のすべては盾となり、矢となり、破魔となる。邪な企みを打ち砕き、罪なきものを助く。氷に精霊の意思を、先祖の加護を、守護の祈りを……」

 ひゅうと冷たい風が吹き、冷気が彼の体を包む。
 彼の周囲に漂っていた煙幕が消え去り、その頭上に薄い何かが現れる。

「力なき者を守り給え。優しき者を救い給え。我らの友と信ずる仲間に明日を与え給え……」

 脈が乱れ、呼吸が苦しくなる。
 脳裏に浮かぶ純白のロープがみしみしと音を立て、一本、また一本と繊維がちぎれていく。
 体内を循環する魔力。続く詠唱。きしむ肉体。その流れの中で、彼は冷静だった。
 頭上に現れていた薄い何かは、その厚みを増し、一枚の巨大な氷の板になっていた。

「悪意ある者を滅し給え。邪なる者を封じ給え。ここに術式の完成をもって願い、命ずる!」

 閉じていた瞼をカッと見開き、循環していた魔力のすべてを開放する。
 次の瞬間、彼には二つの音が聞こえ、二つのものが見えた。

 己の頭上に形成した分厚い氷の板に無数のヒビが入り、バリバリと割れていく音。
 そうして割れた氷は、一つ一つの欠片に別個の意思が宿った如く四方八方へと飛散して行く。
 ある氷は、矢をつがえようとしていた弓兵の脇腹を撃ちぬく。別の氷は、幼いオークを直撃しようとしていた火球魔法に飛び込み、互いを消滅させる。一団となって飛翔した氷は、多勢に無勢の状態に陥った長の夫を救うように、取り囲んでいた敵兵たちの背中へと次々に突き刺さる。

 そして……もう一つは、彼だけに聞こえる、彼の内側で起こった音。
 ロープが切れるような、鈍く、それでいて絶望感を抱かせる鋭さのある音。
 見えたものは、一つのイメージ。
 最愛の妻であるカリーネの体と同じ、無垢なる白の糸で編まれた一本のロープ。
 二人の絆の象徴であり、己の命の象徴。
 一本、また一本と繊維がちぎれ、歪み、たわみ、切れていく。

 あぁ……ごめんよ。ごめんよ、カリーネ。
 君からのせっかくの贈り物を、僕は……。


 事件発生から数日後の新聞記事より一部抜粋。

【……我が国北方、対魔物中立主義国との国境にほど近い草原地帯にて発生した襲撃事件について、当局より正式な発表があった。

 事件を引き起こしたのは、かねてより指摘されていた通り、国境を接する中立国よりもさらに北方に位置する、反魔物主義国家の特殊部隊であった。
 先代よりも過激な武闘派思想を持つと噂されていた当代の王であったが、今回の襲撃事件を通じ、その危険な思考と行動力が立証されることとなった。
 また、我が国当局の発表に合わせて、彼の国も『指摘されるような事実は一切ない。すべては無知蒙昧なる親魔物主義国家による謀略であり、そうした企みに対して我々は無慈悲かつ断固たる対応を取っていく』旨の声明を表した。

 なお、我が国の国王陛下は今回の事件を深く憂慮され、国境地帯の警備の強化を命ぜられた。
 あわせて、事件の発見と通報に尽力したハーピーたち、さらに彼女たちからの知らせを受けて現地へと急行し、戦闘と救護、さらに負傷者の搬送に大変な活躍を重ねたドラゴンの母娘に対して、最大級の感謝を示された。
 最後に、奇跡的に死者は出なかったものの、甚大な被害と負傷者を出したオークとその集落に対しても、国として精一杯の援助を行うことを宣言された。

 今回の発表と時を同じくして行われた騎士団士官学校の会見では、事件による講師・生徒の被害が明らかにされた。
 講師と生徒に重傷者が一名ずつ。他にも生徒六名と講師一名が全治十日から十五日程度の負傷。そして、一名の講師が集落と生徒たちを守るために氷魔術を行使し、己の命と引き換えにそれを成功させた。
 士官学校校長は、同講師の妻の意向を受け、氏に関する詳細を伏せた上、今後二週間は国内すべての騎士団基地にて半旗を掲揚、さらに騎士団聖堂に聖人殉職者として列せされる旨の検討を行うと発表し、会見を終了した……】



 彼の葬儀後、心身ともに強い虚脱状態に陥ったカリーネは、結婚前と同じように薬草農家の老夫婦の家で日々を過ごしていた。

 朝早くに起き出して農作業に打ち込み、食事をした後は黙々と仕分け作業を行い、お茶を飲んで一休みしてからは書類整理に精を出す。一日の仕事を終えた後は夕食を取り、風呂に入り、少しだけ本を読んで床につく。

 あまり話さず、笑わず、欲もなく、外出もせず。
 自分でも生きているのか死んでいるのかわからないような、判で押したごとき毎日の繰り返し。昨日の自分が何をしていたのか、思い出せるようで思い出せない、霧の中にいるような時間。
 だが、彼女にはそんな毎日がありがたかった。
 老夫婦は彼女の心の痛みを察し、余計な何かを押し付けることなく静かに寄り添ってくれた。
 また、日々の仕事に打ち込むことで、自殺すらも考えた一時の苦悩や煩悶から逃れることもできた。

 人間の未亡人であれば、時の流れの中で心身の傷を癒やし、新たな誰かと共に人生を歩み出すこともできるだろう。
 だが、彼女にその選択肢は存在しない。心にあいた穴は、簡単には塞がらない。
 何故ならば、彼女は魔物であり、ユニコーンなのだから。
 愛を誓い、己を捧げ、人生を共に歩む相手は、生涯においてただ一人だけ。
 だからこそ、彼女は美しく、同時にその苦しみは深かったのだ。

「ねぇ、カリーネちゃん。一緒に騎士団の病院へ行かない? 高齢者向けの無料健康診断の案内が届いたんだけど……ほら、ここ。『種族を問わず、ご家族様お二人まで同じく無料にて診断いたします』って書いてあるでしょう? だから、カリーネちゃんもどうかしら?」

 老夫婦の奥さんからそんな言葉をかけられたのは、彼が旅立って二ヶ月半が経った頃だった。
 騎士団の病院とは、彼との永遠の別れを体験した王立騎士団附属病院のことである。
 あの日、あの時のことが脳裏に浮かび、彼女は一瞬絶句する。
 しかし、柔らかな奥さんの微笑みに心を暖められ、小さく息をついて言葉を返した。

「そう……ですね。それも、良いかもしれませんね。ご一緒にまいりましょうか」
「あぁ、良かった。ありがとうね、カリーネちゃん」

 自分は、お世話になっている二人のお供であり道案内の担当。
 そのついでに、魔物を診察することができる人……恐らくは、魔術科の科長であるバフォメットさんに体を診てもらって、そのついでに色々なことでお世話になったお礼を伝えよう。
 大丈夫。大したことじゃない。辛い思いを味わうために行く訳じゃない。

 病院という言葉を聞き、少し早くなった鼓動をなだめるように、彼女はそんなことを考えていた。


 魔術科科長のバフォメットからその事実を告げられた時、彼女は幼い子供のようにポカンと口を開けて言葉を失った。
 本当に、純粋に、一体何を言われたのか全く理解できなかったのだ。

「え、それは誰の、どういう……?」
「“誰の”ではなく、お前様のお腹に、彼との愛の結晶が宿っておるのじゃよ」

 非人間型健康診断のために作られた、病院の一室。
 床に座った彼女と椅子に座ったバフォメットはそこで向き合い、言葉を交わしていた。
 当初二十分程度で終わるはずだった健康診断は何故か長引き、それに合わせてバフォメットの表情は次第に険しいものになっていった。
 その様子に落ち着かないものを感じながらも、彼女はただ大人しくバフォメットの指示に従い、予定には無かったいくつかの検査を受けた。

 そして、その日の夕方。
 バフォメットは、とても優しい声と瞳で彼女が妊娠しているという事実を告げた。

「え、それは、どうして……?」
「お前様と彼は愛を交わし、肌を重ね、精を交換しておった……新たな命が宿るために必要な要素と行為をきちんと行っていた。その結果じゃな」
「はい、それは……ですが、私には何の自覚も……」

 激しく困惑する彼女に、バフォメットは変わらぬ微笑みを向けながら言った。

「そこは人間も魔物も同じようなものじゃよ。営みの直後に妊娠を確信する者もおれば、我が母のように妊娠中期まで気づかずに戦場を走り回るような者もおる。お前様の場合は……」

 そこで初めてバフォメットは微笑みを消し、ためらいの色を一瞬浮かべてから告げた。

「お前様の場合は、彼を喪い、絶望の時間を過ごしたことによって、心身共に酷く落ち込んだ状態にあった。すべての力が己の心に向き、外の世界はもちろん、己の肉体の変化にすら気づかぬほどに辛い状態にあった。けれども……希望の灯は、お前様自身の中に残されておったのじゃよ」

 バフォメットの言葉に、彼女はポロポロと涙を流す。
 その様子に、バフォメットもまた頷きながら涙を流す。

「でも……でも、私はどうすれば良いのでしょう? 一人でこの子を、彼の子を産み、育てることができるのでしょうか? 生まれながらにして父を喪ったこの子に、どんな愛を注げば良いのでしょうか? 私は、私は……!」

 彼女は両手で顔を覆い、慟哭する。
 バフォメットは静かに椅子から立ち上がり、そっと彼女の肩に触れながら語りかける。

「すべては、あるがままに。お前様のやり方で良いんじゃ。かくあるべしなどという、確固たる何かなど無い。それとな……お前様は、一人ではないぞ? ワシや、あの薬草農家のご夫婦に限らず、多くの者がお前様と彼を、そして生まれてくる赤子のことを思うておる。大丈夫じゃ。すべては、あるがままに。その答えと実感は、やがてゆっくりとお前様を包み込んでくれるじゃろう」

 自分には、もう何もないと思っていた。
 これからの自分は、風に揺れる野草のようにただそこにあり、やがて朽ちて消えていく運命なのだと思っていた。
 運命に逆らう気力も、何かを作り出す体力も、一欠片も残っていないと思っていた。
 けれども、希望は自分の中にあった。
 最愛の彼が、天へと旅立って行った彼が、ここに残してくれていた。

 彼女は、嬉しくて泣いた。
 自分と彼との子供。最愛の娘。夢に見るほど乞い願っていた、愛しき存在。
 その存在に、あと十ヶ月足らずで会える。自分は、母になることができる。
 彼女は、悲しくて泣いた。
 それなのに何故、ここにあなたはいないのですか。もう二度と会えないのですか。
 この子には、私たちの娘には、あなたという人が必要なのです。
 どんなときも私と娘を愛し、優しく見守ってくれるあなたが。
 それなのに……それなのに……!

 春に式を挙げ、秋の終わりに永久の別れを知り、冬の出口で新しい命と出会う。
 一年とは、何と残酷なものなのか。一年とは、何と壮大なものなのか。

 彼女の生涯において、最も激しい一年は、そうして終わった。
 そして、また巡り来る季節に、彼女は人魔の心、その暖かな胎動を感じることになるのだった。


 妊娠の事実を知って一番驚き、大騒ぎをしたのは、実の両親ではなく薬草農家の老夫婦だった。
 特に奥さんの驚きぶりはすさまじく、翌日から熱を出して寝込んでしまったほどだった。

 数日が経ち、奥さんの体調が落ち着いた頃、彼女は両親と老夫婦の五人で彼の墓前へと赴き、長い長い祈りと報告を捧げた。
 そこで、彼女は彼へこんな言葉を伝えた。

「もう私は、悲しみの涙を流しません。これからは、嬉しさや楽しさ、感激の涙だけを流します。私は、あなたの妻です。お腹の子の、お母さんです。私がメソメソしていたら、みんなを不幸せにしてしまいますから。でも、どうしても辛くて、寂しくて、耐え切れなくなった時は、ここに会いに来ますね。その時は少し泣いてしまうかもしれませんけど……許して下さいね、“お父さん”?」

 それは、彼女流の決意表明だったのかもしれない。
 彼と出会うまでの歩みを第一幕、出会いから永久の別れまでを第二幕とするならば、これからの日々は娘と共に進む第三幕……。
 その未知なる舞台に向かって、彼女は胸を張ったのだ。

 そんな墓参りから一週間が経った後、彼女は早速感激の涙を流すことになる。
 コボルドの運送屋が届けてくれた、精巧な造りの木箱。 
 見覚えのない差出人の名前に首を傾げながら受け取り、添えられていた手紙の封を開けて、彼女は心の底から驚いた。

《騎士団士官学校 魔術科 科長のバフォメットさんより、貴方様ご懐妊の報に触れ、家族一同欣喜雀躍しております。つきましては、まことにつまらぬものではございますが、ご懐妊お祝いの品をここにお送りさせていただきます……》

 差出人は、あの事件の際、現場に駆けつけて戦ってくれたドラゴンの夫だった。
 手紙には、彼の妻であるドラゴンと科長のバフォメットが旧知の間柄であったこと。失われた命に家族一同が深く悲しみ、今も朝夕の祈りを捧げていること。木箱の中身は彼の妻と娘、すなわち二人のドラゴンが見立てた三枚の大判金貨と一本の短剣であることなどが記されていた。
 また、三枚綴りの手紙、その最後の便箋には、母娘二人のドラゴンのものと思しき短いメッセージが書き込まれていた。

《愛しき者の存在は、貴方に無限の力をもたらす。これからの未来に、幸多きことを祈る》

《母上曰く『金貨は売り払ってくれて結構』とのこと。どうぞご自由にお役立てください♪ 私たちは、貴方と娘さんの味方です! いつでも遊びに来てくださいね!》

 知性を感じされる丁寧な夫の文字。地上の王者であるドラゴンらしい威厳に満ちた妻の一言。そして、同じドラゴンとは思えぬほど無邪気で明るい娘からのメッセージ。
 手紙から伝わる彼ら家族の愛と優しさに、彼女はほろりと涙を流した。

 なお……後に、彼女が娘と暮らす家を買うために金貨を売却しようとしたところ、首都の一等地に豪邸を建てられるような買値を示されて腰を抜かしかけたのは、また別のお話である。


「私たちの家系は、代々お産が軽いの。だから、きっとあなたも大丈夫よ」

 そんな母親の言葉通り、彼女のお産はとても軽く、順調なものになった。
 分娩室に元気な泣き声が響き、取り上げてくれたバフォメットから娘を渡された瞬間の喜びを、彼女は生涯忘れることはないだろう。

「うむ、よく泣いておる。大変結構! どうじゃ、娘との初対面は」
「はい……ありがとうございます……嬉しいです! あぁ、よく産まれて来てくれたわ。ありがとう、ありがとう……本当に、産まれて来てくれて、ありがとう!!」

 彼によく似た目元と、自分によく似た口元。
 けれど、そんな外見的な特徴よりも、こうして胸に抱いただけで感じる我が子の鼓動と絆。
 あぁ、この子は彼の子供。あぁ、この子は私の子供。
 そう、間違いなくこの子は、私たちの娘。この世に一人だけの、最愛の存在。
 この子を守るためならば、私は世界のすべてを敵に回しても怖くない……。

「今、わかったような気がします……」

 娘の顔を指先で拭きながら、彼女が言った。

「彼も、あの時、こんな気持ちだったのかもしれません」
「……あの時、とは?」

 両手にかけていた浄めの術を解除しながら、バフォメットが問いかける。

「あの事件の時、彼は逃げずに立ち向かいました。自分の命と引き換えに、集落のみなさんと生徒のみなさんを救いました。私は、不思議だったんです……いいえ、不満だったんです。どうしてあなたは逃げてくれなかったの、と。どうしてあなたは、私のために帰って来てくれなかったの、と」

 彼女は、娘を看護師に渡す。
 バフォメットは、そんな彼女の額に浮かんだ汗を清潔なガーゼで拭く。

「今、娘を抱いて思いました。自分は、この子のためなら世界のすべてとも戦えると。そして、わかったんです。彼は、生徒を預かる講師として、良き力を持つ魔術師として、みんなの未来と魔術の正義のために自らの命をかけたのかもしれません。私に母としての誇りが芽生えたように、彼の心の中には、学問と魔術の世界に生きる人間としての誇りがあったのかもしれません……」

 彼女の言葉に、バフォメットは静かに頷く。
 自分が感じたことは、ただの推測。けれども、きっと、間違ってはいないと思う。
 今、彼にこの事を伝えたならば……照れたような顔で笑うだろう。「僕はそんな格好の良い人間じゃないよ」と、申し訳無さそうに頭を掻くだろう。

 あぁ、やっぱり私は、あなたのことが大好きです。

 自分の中にある彼への想いを再確認して、彼女は微笑む。
 もう悲しみの涙は流さないと決めた。だから、彼女は微笑む。
 瞼を閉じた暗闇の向こうで、彼もまた同じように微笑んでくれたような気がした。


 案ずるより産むが易し。
 物事はあれこれ心配するより、実行してみれば案外たやすいものだ……と、そんな意味を示すジパングの言葉。

 彼女にとって不安だらけだった子育ては、実際に歩み出してみれば、朗らかな喜怒哀楽に恵まれた楽しいものとなった。
 娘は、夜泣きやぐずりをすることもなく、健康的にすくすくと育ってくれた。また、老夫婦や近所の人々は、物心両面の協力を惜しむことなく、いつも笑顔で向き合ってくれた。そして、彼が救ったオークの集落からは、美味しい季節の食べ物が定期的に届いた。

「本当に、私と娘は幸せ者です。みなさんからこれほどの愛情と真心をいただいて……これから先、少しずつでも御恩返しをしていかなければいけませんね」

 二歳半になった娘と共に、国が定めた乳幼児定期健診を受けながら、彼女は言った。
 検診票に素早くペンを走らせていたバフォメットが応える。

「そうじゃなぁ……でも、ほれ。だいたいがワシの言うた通りになったじゃろう?」
「はい、そうですね。私の妊娠を教えてくださった時の、科長さんのお言葉の通りです……」

 お前と娘は、孤独ではない。みんながお前たちを愛し、思っている。その事実と実感は、やがてゆっくりとお前たちを包み込んでくれるだろう……。
 あの日、この病院のこの部屋で伝えられた、バフォメットの言葉。
 その意味とかたちを、今、彼女はしっかりと感じ取っていた。

「ふっふっふ! そうじゃろう、そうじゃろう! ワシは何でもお見通しじゃよ!」
「ふふふ……はい、仰るとおりです」

 自慢気にエッヘンと胸を張るバフォメットに、彼女は思わず笑ってしまう。
 本当に、この方は偉ぶらない。どんな時も、強く賢い者の余裕と優しさを持っていらっしゃる……。

「そこで、じゃな。ちょいとお前様に提案があるんじゃよ」
「ご提案、ですか? 何でしょう?」

 うつらうつらと船を漕ぎ始めた彼女の娘を診察台に寝かしながら、バフォメットが言った。

「ワシの古い知り合いに、編集と出版の会社をやっている奴が居ってな。そいつがお前様に、何かしら本を書いてみないかと、こう言うとるんじゃ」
「……本、ですか? 私が?」

 その予期せぬ言葉と提案に、彼女は首を傾げる。
 椅子に座り直したバフォメットが、彼女の瞳をまっすぐに見つめながら続けた。

「うむ。ある時、お前様のことを話したら、奴は大層興味を持ってな……あぁ、気を悪くせんでくれ。信頼できる奴であることは、このワシが保証する。あと、興味本位や宴会の肴としてお前様の話をした訳ではないことも、ここに誓おう」

 バフォメットの言葉に、彼女は微笑んで頷く。
 すると、バフォメットもまた優しく笑んで言った。

「本来ならば、そいつ自身がお前様と話をするべきなんじゃろうが、何やかんやと忙しい奴でな。『随筆、小説、戯曲、詩歌など形式は問いません。今、貴方が感じていること、書きたいと思ったことを、自由に書いてみませんか』とな。こう言うとる訳なんじゃよ」
「そう、ですか……」

 彼女は少なからぬ戸惑いを覚えつつ、診察台で眠っている娘を見た。
 バフォメットにかけてもらった毛布の中で、すぅすぅと小さな寝息を立てている。

「娘が成長し、子育てに余裕が生まれる中で、お前様の心の中にある何かを書き残しておくことは、決して無意味なことではないと思う。お前様にしか書けぬ何かは、きっとあると思うでな。それで、この話を持って来たという訳なんじゃよ」
「はい……」

 確かに自分は、読書が好きだ。また、彼との別れが訪れて以来、劇場から足が遠のいてはいるものの、様々なお芝居を見ることも大好きだ。
 だが、それが高じて自分も何かを書いてみよう、生み出してみよう……などと思ったことは、一度もなかった。
 自分はあくまでも読者であり、観客であり。
 作品を“消費”することはあっても、“作り出す”側に立つことなど想像したこともなかったのだ。

「とても貴重なお話だとは思いますが、何分未経験のことなので……」

 彼女は、自分の中にある戸惑いを正直な言葉にして伝えた。
 すると、バフォメットはその言葉を予期していたように頷いて言った。

「うむ、確かにな。不安な気持ちもわかるし、今すぐに返答せよなどとは言わんよ。半年後や、一年後、二年後でも構わん。頭の片隅に置いといてくれれば、それで良いんじゃ。まぁ、そんな深刻な顔をするような話ではないから、気楽にな」

 その日の話は、そこで終わった。
 結婚以前の彼女であれば、『私が本を書くなんて』とその場で断っていたかもしれない。
 しかし、妻となり、母となり、様々な出来事と様々な経験、そして何より様々な縁と愛情の力を感じるようになった今の彼女にとって、バフォメットがもたらしたこの機会は、無視してはいけない大切なものであるように思えた。

 夜、娘を寝かしつけた後で、彼女は一本のペンを握ってみた。
 それは、彼が生前愛用していた、深緑色のペン。
 「初任給をはたいて、ちょっと無理して買ったんだよね」と、照れくさそうに笑いながら話してくれたことを思い出す。

 彼は、このペンで論文を書き、試験問題を書き、自分への恋文を書いた。
 このペンは、自分の知らない彼を知っている……そう思うと、ペンに対して何とも言えない嫉妬心のようなものを抱き、その子供っぽい己の意識に笑ってしまう。
 そうしてフッと息を吐くと、何だか不思議に心が軽くなったような気がした。

 何か、書いてみましょうか。

 ごく自然に、そんな風に思った。
 一体、自分が何を書くつもりなのか、何が出来上がるのか。それは全くわからない。
 けれども、その手探りな気持ちが、少し楽しくて心地良い。
 知らない街をそぞろ歩いてみるような、初めて入る店で最初の一品目を注文するような、そんなフワフワした気持ち。

 こんな感覚……恋をしていた、あの頃以来かも知れませんね。

 自分自身にそんな言葉を投げかけながら、彼女は翌日の予定を考えた。
 まずは文房具屋さんで、原稿用紙とインクを買ってみましょうか……と。


【第一幕 : ある晴れた日の事故と旅立ちをめぐる騒動】
 主人公は、二十歳の青年。職業は、高所の清掃員。
 よく晴れたある日、街の大聖堂の塔にぶら下がり、いつものように丁寧な仕事を重ねていた所……突如、命綱が断裂。あっという間もなく地面に叩きつけられ、彼はそのまま命を落としてしまう。

 幽霊になった彼は、ザワザワと集まる人々を空から見下ろし、「どうしてこんなことに!?」と嘆き悲しむ。
 すると、そこに一人の美しいゴーストが現れ、彼を慰めると同時に何やら熱心に口説き始める。

 ご本人に向かって言うことではありませんが、この度は心よりお悔やみ申し上げます。色々と心残りもおありでしょうが……まぁ、起こってしまったモノは仕方ないですよね。ここで私と出会ったことも何かのご縁。いかがでしょうか? このまま私と結ばれて夫婦となり、魔界の方で暮らしてみませんか? 幽霊同士ですけど、魔界なら色々と融通も利きますし、あれこれ楽しく気持ちよく、素敵な第二の人生をエンドレスで楽しめますよ!!

 ゴーストから放たれた無遠慮な言葉に、彼は怒る。

 ちょっと待てよ。何言ってんだ、冗談じゃないよ! 俺には親兄弟もいるし、人間の恋人だっているんだ。こうして死んでしまっただけでも不幸なのに、この上 魔界へ引っ越せって言うのか? だいたい、あんたは何処から現れたんだ? まさかあんたが命綱を切ったんじゃないだろうな? 俺は魔物さんに悪い印象は持ってないけど、あんたの言ってることは目茶苦茶だぜ!!

 いきり立つ彼を見て、ゴーストはやれやれと肩をすくめる。
 そして彼の両手を取り、「それじゃあ……色々と見て回りましょうか」と言い放つ。
 「は!?」と彼が驚くのが速いか、そのままビュンと飛び出すのが速いか。

 霊体の二人はあっという間に移動して、彼の恋人の家へ。彼の実家へ。親友たちの集いの場へ。
 そこで彼は、色々なものを目にすることになる。
 実は彼女には、本命として愛する別の男がいたり。
 彼の保険金が下りたことによって、兄夫婦の子供が良い学校へ行けたり、妹の結婚用持参金に目処が立ったりと、家族に前向きなことが起こったり。

 さらに、親友たちは彼の死を心から悼み、せめて最高の葬式で送り出してやろうと決意してくれていた……のだが、これが後に大小様々な問題を引き起こすことに。
 親友たちが頑張れば頑張るほどにトラブルが生まれ、彼とゴーストが幽霊の立場でそれを助けようとすればするほど、事態は加速度的にわやくちゃに。

 果たして彼は、ゴーストと共に魔界へと旅立つのか。
 彼の葬式は、まともなかたちで執り行われるのか。
 ドタバタ騒動にちょっぴりの切なさを足した、この喜劇の行末は……?


【第二幕 : 受け入れがたき現実と狂気の狭間の生き物】
 過激な反魔物主義者たちが引き起こした大規模な爆破テロによって、ラミアの夫が死んだ。
 彼の遺体はついに見つかることはなく、ラミアのもとには爆発によって歪み、変色した彼の結婚指輪だけが戻って来た。

 なぜ、どうして、誰が、何の目的で、何が嬉しくて、彼を、彼が、彼は……。
 果て無き怒りに、悲しみに、憤りに、ラミアの心と体が焦がされる。
 終わらない問いかけ、得ることのない答え、誰の何も届かない慰め。

 やがてラミアは周囲すべてとの接点を断ち、一人きりの世界へと没入していく。
 その暗く、深く、粘り気に満ちた無念と怨嗟、愛しさと寂しさが溢れる時間の中で、ラミアはゆっくりと、しかし確実に心の均衡を失っていく。

 ラミアは恨み、嘆き、呪う。
 自分から最愛の人を奪った者どもを。自分の嘆きと願いを受け入れない神を。何の助けももたらさぬ周囲を。そして何より、今こうしてただあり続け、生き続けるだけの無能な自分を。
 ラミアが吐き出す言葉は、そのすべてが正しく、そのすべてが間違っている。
 理解と共感を示せる部分がある一方、ただただ恐ろしくて筋違いな部分もある。

 そうして、ラミアは狂っていく。
 その姿も心も、ラミアではない何かになっていく。
 敢えて共演者を排したラミア種の女優による一人芝居。
 “愛”と“情念”を深く知るラミア種だからこその舞台が、ここにある。


【第三幕 : 日は沈み、それでも明日はやって来る】
 舞台は、幸せな結婚式から始まる。
 美しいケンタウロスの新婦と、彼女に寄り添う優しい顔立ちの新郎。
 教会の鐘が響き、参列者たちが笑顔と共に祝福の言葉を投げかける。

 その様子を少し離れた場所から見守る、一人のケンタウロス……。
 彼女は、新婦の母親。だが、その傍らに夫である男性の姿はない。
 夫は、娘がまだ二歳にならぬ頃、力なき人々を守って戦場に散ったのだ。

 微笑み、頷き、瞳を閉じた彼女に合わせるように、舞台は暗転する。
 そして、『あの日』へと時間が巻き戻る。
 軍から届いた死亡通知を確認した彼女は、その場にガクリと崩れ落ちる。
 予感はあった。覚悟もしていた。
 だが、現実はそんな彼女の心を想像以上の力で粉々に打ち砕いていった。

 涙を流すこともできず、ただへたり込む母の顔を、幼い娘が不思議そうに覗きこむ。
 彼女はそんな娘を掻き抱き、思う。
 あぁ、これですべてが終わってしまった。私も、この子も、この世でただ一人の大切な人を喪ってしまった。もう私たちには、何も無い。空に昇る太陽さえも、昨日と今日とでは違うものになってしまった。もう私たちには、何も、何も……。

 だが、この時、彼女はまだ知らなかった。
 これは終わりではなく、そこから始まる様々な苦悩と気付き、喪失と発見、断絶と導きの始まりであることを。

 舞台全三幕の最後を飾るこの物語は、作者である彼女……カリーネの姿に最も近い内容が描かれている。
 魔物としての性、女としての心、母としての愛、そして妻としての想い。
 彼女が感じ、受け止め、苦悩し、それでも前に進むことが出来た理由。彼女はそれを舞台に投影し、演じる“彼女”に託した。

 死が二人を別つとも、決して断ち切れぬ何かを示すために。


 およそ一年半という時間をかけて、彼女は全三幕の戯曲を書き上げた。

 そのテーマは、『人間と魔物の夫婦:そこにもたらされた、死という永久の別れ』。
 人魔が手を取り合って暮らす親魔物主義国家の人々にとっては、タブーとも言える内容だった。

 けれども、彼女は自分が何かを書くとするならば、このテーマ以外にはあり得ないという結論に達した。
 せっかくペンを執るならば、ふんわりとした絵空事よりも、自分の心の中にある絵をあるがままに描いてみようと思ったのだ。

 第一幕は、彼が好きだった切なさと楽しさが混ざり合った喜劇を。
 第二幕は、自分自身の心に吹き荒れた激しい嵐と狂気の色彩を。
 第三幕は、彼が、娘が、周囲の人々が、自分自身にもたらしてくれた愛と時間を。 

 たとえ表現が未熟であっても、本として売れなくても、それはそれで構わない。
 この貴重な機会をきちんと活かし、自分にしか書けない何かを残すことができれば、自分はそれだけで嬉しい。
 そして、娘が大きくなった時、この作品を読んで何かを感じてくれたなら、もうこれに勝る喜びはない……。
 彼女はただそれだけを思い、無欲のままにペンを走らせた。

 しかし……事態は、“幸せな予想外”へと転がっていく。

 彼女の作品は発表直後からじわりじわりと支持を広げ、一年後には権威ある戯曲賞で銅賞を獲得するに至ったのである。
 さらに、彼女のもとには「この作品を自分たちの劇団で演じたい」との申し出が複数届いた。
 彼女はそうした一連の動きに驚きながらも、迷うことなく公演を許可する意思を示した。
 それに加えて、『作品の内容を改変せぬこと』を条件に、原作者として手にできるはずの契約料や各種の使用料を放棄したのである。

 そこには、二つの理由があった。
 一つは、作品を著し、本を出版することで金儲けをする意思が、最初から彼女の中には無かったこと。
 騎士団からの遺族年金、薬草農家としての仕事、ドラゴンの家族から送られた大判金貨の売却金。それらを組み合わせれば、自分たち母娘二人は余裕を持って生きていくことができる。その上で、本の印税や舞台公演の契約料をいただくなんて……。
 そんな風に考えた彼女は、出版の際の契約書にも『印税の全額は信頼できる福祉機関へ寄付する』旨の一文を記し、その通りにお金を動かしていたのである。

 もう一つの理由は、作品発表後に彼女のもとへと届いた数多くの手紙にあった。
 彼女が著した内容に触れ、心を動かされた人々はもちろん、人魔の種別を問わず、愛する存在を喪った経験を持つ男女から寄せられた様々な声。
 彼女はその一通一通に目を通し、丁寧な返事を書きながら思った。
 自分の書いたものが、これだけ多くの皆さんの心に届いた。そしてまた、これだけ多くの皆さんが、自分と同じ痛みと苦しみを受け止め、暗闇と絶望のトンネルをくぐって来られたのだ……。

 この作品を書いて良かった。本を出して良かった。
 自分の心の中にある“何か”を、こうして送り届けることができて、本当に良かった。
 印税以上に大切なものを、私は確かに受け取りました。ですから私は、印税や契約料、使用料の類にはこだわりません。

 それが、偽りのない彼女の率直な気持ちだったのである。


 本の出版から二年と少しが経った、ある初夏の昼下がり。

 彼女は、小さな喫茶店で一人の女性と会っていた。
 腰まである、緩くウェーブした髪。右目の下の泣きぼくろ。ラフな服装越しにもわかる、女性らしい豊満な体つき。ある角度から見れば十代の乙女のような、また別の角度から見れば思慮分別が身についた大人の女性のような、不思議な雰囲気の女性。

 その正体は、彼女に本の執筆を勧め、依頼した、出版と編集の会社社長:カタリーナ・ナドキエである。

 数日前に速達で届いたナドキエからの葉書には、この日この場所で会いたい旨が記されていた。
 本の出版に関するこれまでの交流を通じて、彼女はナドキエが世界各地を飛び回り、様々な情報に触れている、即断即決の女性であることをよく理解していた。
 そんな相手からの、面会の依頼……これはきっと、何か大事な要件があるということなのだろう。
 ナドキエからの葉書の意図を、彼女はそう理解した。

「何だか呼びつけるような真似をしてしまって、ごめんなさいね」
「いいえ、お気になさらずに」

 「これ、ちょっとしたお土産。娘さんとどうぞ」と、取材旅行先の名産品というお菓子を手渡しながら、ナドキエが言った。
 「これは、恐れ入ります。いただきます」とお礼を言いながら、彼女も小さく頭を下げる。

「それじゃあ、早速だけど本題に入るわね。一つ目は……はい、これ。あなたの作品が、ついに魔界の大劇場で上演されることになったの! 出演者やスタッフも、魔界の内外を問わない超一流どころが集まってくれたのよ!」
「まぁ……!!」

 ナドキエから手渡された複数の書類。
 そこには、彼女の作品の公演日程や各種配役、劇場支配人からのメッセージ、さらには前売りチケットの販売状況に至るまで、様々な情報がびっしりと書き込まれていた。
 驚きと感激に目を丸くしている彼女へ、ナドキエが微笑みながら言う。

「色んな魔力ムンムンの魔界だから、ユニコーンのあなたは来られないかも知れないけど……万事、私がきちんと取り仕切っておくから安心してね。本の方も向こうで販売好調だし、もしかしたら魔界の芸術賞にもノミネートされるかも知れないわ!」
「本当ですか? すごい……感激です!」

 両手で胸の真ん中を抑えながら、彼女が喜びを伝える。
 そんな彼女に、ナドキエは明るくニッコリと笑いかける。

「良い作品は、時代も世界も越えられるものよ。実は今、遠い異国からも翻訳版の話が来ててね。こっちも詳細が固まり次第 連絡するから、楽しみにしてて!!」
「はい、ありがとうございます!」

 そうして二人は、しばし世間話に興じる。
 よく話し、よく笑うひと時。
 知性とユーモアに溢れたナドキエとの会話は楽しい時間ではあったが……同時に、彼女は何とも言えない違和感のようなものを覚えた。
 何事に対しても素早く、ズバリズバリと行動していくナドキエが、今日この時に限って、何かをためらっているような気がしたのだ。

 そして、彼女の予感は的中する。
 ふと会話が途切れ、一瞬の間が生まれた時。
 ナドキエはそれまでの笑顔をゆっくりと消し、鞄から所々が傷んだ資料の束を取り出した。
 ドサリと、その束がテーブルに着地する音が響く。

「正直、少し迷ったのだけれど……やっぱり、あなたにはきちんと伝えて、説明しておいた方が良いと思ってね。あなたの旦那さんが命を落としたあの事件と、それを引き起こしたあの国のその後について、少し」
「……はい」

 ナドキエの言葉を受けて、彼女の胃がキュっと収縮する。
 背筋に悪寒が走り、震えが来たはずなのに、同じ場所がじっとりと汗ばんで行く矛盾した気配も感じる。
 フゥと小さく息をついてから、書類を赤いペンで指し示しつつ、ナドキエが説明を始めた。

「まずは、確認からね。あの事件を起こしたのは、この国のずっと北方、武闘派の反魔物主義国家。先代よりも過激な考えを持つ当代の王が、特殊部隊に命じてオークの集落を襲撃させたの。大人のオークと人間を殺した上で子供のオークを攫い、薬物を用いた洗脳の上、自爆テロや人里の襲撃に使うつもりだったようね」

 既に知っていたこととはいえ、そのあまりにも外道な企みに彼女は頭痛を覚える。

「戦闘能力に秀でたアマゾネスなどではなく、オークなら勝算が高いと踏んだのでしょうけど……その企みは打ち砕かれた。集落自警班の頑張りと、あなたの旦那さんの勇気のおかげで。その後、この国の王様が遺憾の意と国境警備の強化を宣言。それに対して、彼の国はすべてが事実無根であり、親魔物主義国家の謀略であるとの声明を発表、と」

 そこで一度言葉を切り、ナドキエはコップに注がれていた水をグイと一気に飲み干した。

「今日話すのは、この後のこと。実は、彼の国が特殊部隊を動かしたように、この事件を受けて魔界の特殊部隊が動いたのよ。人と魔物の未来に仇なす者へ、きちんと罰を喰らわせるためにね」
「え……?」

 驚いて息を飲んだ彼女へ、ナドキエは小さく頷く。

「その正式名称や部隊の全容まではわからなかったのだけれど、魔王直属の特殊部隊が動いたことは間違いないわ。命を受けた彼女たちは音もなく彼の国へ侵入し、淡々と職務を遂行したようね」
「それは一体、どの様な……?」

 事の詳細を早く知りたいような、しかし知るのは恐ろしいような。
 相反する感覚が、彼女の中を駆け抜けていく。

「消してしまったのよ」
「……消した?」
「えぇ、消してしまったの。彼の国の軍の施設、人員、兵器にとどまらず、あの事件を企図した人物や許可した人物、果ては軍事大臣までもをすべて、ね」

 瞬間、彼女は総毛立つような感覚に包まれる。
 消したとは、つまり……。

「……殺してしまった、のですか?」
「いいえ、そうではないわ」

 最も恐ろしい答えが回避され、彼女は無意識に大きなため息をついた。
 その様子を見たナドキエは、苦笑しながら「怖い言い方をしてごめんなさいね」と謝った。

「もう本当に、言葉のままよ。まるで手品のように、すべてが消え去ってしまったの。施設の跡は更地になって、人や物は夜露のように消えて……。たぶん、大規模な転送魔術を使ったのでしようね。規模から考えると、リリム級の魔物が複数関わったのかもしれないわ」

 リリム。すなわち、魔王の娘。
 そして、動いたのは魔王直属の特殊部隊。
 ならば、“彼女たち”に命令を発し、動かした存在とは……。

「……魔王様 御自ら、何かしらの命令を発せられた、と?」
「私は、その可能性が極めて高いと思っているわ。ただ残念ながら、それを裏付ける物的な資料や証拠を発見できなかったのよ。だから憶測の域を出ないのだけれど、状況を考えればそうなって行くわね。当代の魔王は、人間と魔物の繋がりに無限の愛と希望を抱いている方だから」

 彼女は率直に、「目眩がしてきました」と告げた。あまりにも話のスケールが大き過ぎたのだ。
 ナドキエはそんな彼女に「大丈夫?」と心配の言葉をかけ、店のマスターにホットミルクを注文した。
 程なくして運ばれて来たそれに砂糖を入れ、丁寧にかき混ぜた後、ナドキエは「落ち着くわよ」と彼女に勧めた。

「あの事件を起こした人間たちは根こそぎ消え去った。恐らく、魔界の何処かへ飛ばされて、たっぷりと『処罰』された後、『教育』されたのでしょうね。もちろん、その期間と内容は各人それぞれにおいて違うのでしょうけど。例えば、施設と一緒に飛ばされた事件とは関係のない一般兵には、それほどの罪は無い訳だし」

 しっかりと甘いホットミルクの風味に癒やされながら、彼女は頷いた。
 荒れかけた胃が落ち着いていくのを感じる。

「で……突如として軍事力の大半を失った彼の国は、大いに狼狽えることになったの。とにかく、一刻も早く人・物・金をかき集めて、軍備を再整理しなければいけない。魔王の逆鱗に触れ、明確に自分たちが狙われていることがわかった以上、いつ何時“彼女たち”の侵攻を受けるかも知れないのだから。結果、焦った彼の国は素性の確かでない傭兵や流れ者までもを軍に引き入れることになった……」

 口元を軽くハンカチで押さえながら、彼女が言う。

「もしかして、その傭兵や流れ者の人々は、魔王軍の方々が変身した仮の姿……?」
「ご明察ね。彼の国の軍や政治の内部へ、“彼女たち”はガッツリと入り込んだのよ。そうなれば、あとはもう思うがまま。“彼女たち”は出血を伴わぬ形で彼の国を侵略し、すべての状況を自分たちの統制の下に置いてしまったという訳」

 そこまで聞いた所で、彼女は大きな疑問を抱いた。
 かつても、現在も、彼の国が反魔物主義の看板を下ろしたという話は耳にしたことが無い。
 彼の国は、相変わらず彼の国の体制と考えのままに存在しているはずだ。
 視線を少し落とし、眉間に僅かな皺を寄せた彼女へナドキエが言った。

「“彼女たち”は、なかなかの策士よ。現地に務めているデュラハンに話を聞いたら、『我々がこの国を裏から抑えた後も、反魔物主義国家としての体は維持する。そうすれば、同じ思想を持つ他の国々との繋がりも維持され、様々な情報や関係性の把握も思いのまま。無論、民の生活が楽になるよう、社会制度の改革は行うが。我々は常に二手、三手先を見据えた戦略をとっているのだよ』とね」

 ナドキエの言葉に、彼女は納得のため息を漏らす。
 過激派の魔物として名高い魔王の四女:デルエラのように、有無を言わさぬ侵攻によって相手を沈黙させる勢力があれば、今回の“彼女たち”のように着実に策を重ね、駒を配し、完全なる勝利を目指す勢力もあるのだ。
 真剣な表情で何度も頷き、事の深遠さに思いを馳せている彼女へナドキエが笑いながら告げる。

「……と、まぁ、私の話はこんな感じね。『だから何だ』と言われてしまうような話かも知れないけれど、あなたには事の顛末を知る権利があると思ったから。私のお節介に付き合わせちゃって、ごめんなさいね」
「いいえ、そんな! とんでもありません! 何とお礼を申し上げればよいのか……!」

 確かに、彼が命を落とした出来事と向き合うことは辛い。本当に、辛い。
 しかし、そこで何があったのか、その後に何が起こったのかは知るべきだと思うし、知りたいと思う。
 だから今日、この話を聞くことができて、自分は本当に嬉しい。
 時折言葉をつまらせながら、彼女はナドキエに素直な自分の思いと感謝の気持ちを伝えた。

「そう言ってもらえると、私もお節介の甲斐があったわ。さて……それじゃあ、そろそろ失礼しようかしら。あなたも、娘さんを保育園へ迎えに行かなきゃいけないでしょう?」
「そう、ですね……あぁ、もうこんな時間になっていたのですね」

 説明に用いた資料を鞄の中へ仕舞いながら、ナドキエが微笑む。
 話に夢中になり、予想以上に時間が経過していたことに驚きながら、彼女は店の伝票を手に取ろうとした。しかし……。

「ダメよ。ここは、私が」
「いいえ、それは困ります! 貴重なお話を伺った上に、そんな……」
「良いの良いの、お茶代くらい。この浮いたお金で、娘さんに美味しいものでも作ってあげて。娘さん風に言うと、『ナドケしゃん』からの贈り物よ」

 以前に対面した時、娘はあっという間にナドキエに懐き、強く抱きついて離れなくなってしまった。
 その際、幼い娘はナドキエさんと発音できず、『ナドケしゃん』と繰り返し、ナドキエはその無垢な姿に、「いや〜ん! この子、可愛すぎるわ!!」とメロメロになっていたのだ。

「本当に申し訳ございません……」
「ふふふ、良いのよ本当に。じゃあ、娘さんによろしくね! また色々決まったり進んだりしたら連絡するから、その時はよろしくね!」

 立ち上がって深々と頭を下げる彼女にナドキエは満面の笑顔を見せ、春風のように素早く出発して行った。
 その姿を見送った彼女は再び腰を下ろし、カップの中に残っていたミルクを静かに飲み干した。
 口の中に広がる甘い味わいを受け止めながら、彼女は思う。

 ありがとうございました。
 これでまた一歩、娘と共に未来へと歩み出せるような気がします。

 愛する人の命を奪った、彼の国に対する復讐心。
 どす黒く重たいその感情は、否定出来ないほどの大きさで彼女の中に巣食っていた。
 復讐は何も産まない……などという言葉は、無責任な他人の呟きに過ぎない。
 彼女は、『純潔の象徴』とも表現されるユニコーンであると同時に、一人の女性であり、妻であり、母でもあるのだ。だからこそ、心の中に嵐が吹き荒れ、狂気めいた復讐心に身を焦がしそうになることもあるのだ。

 日々成長していく娘の姿に目を細め、二人で季節の移ろいを感じながら歩む時、彼女は彼の不在を強く感じる。
 あぁ、ここにあの人がいてくれたなら。
 野に咲く花の名を、吹く風の美しさを、巡る年月の愛しさを、娘に優しく教えてくれたなら。
 私たちの幸せは、五倍、十倍、いいえ、もっともっと抱えきれぬほどに大きなものになったのに。
 それなのに、それなのに……!

 娘に悟られぬよう、心の中の毒沼に布をかける。
 この色を、この臭いを、この毒を、娘に感じさせる訳にはいかない。
 これを知り、受け止めるのは、私一人だけでいい。
 今日に至るまでの時間の中で、そうした静かな戦いを彼女は何度も繰り広げてきた。

 だが、ナドキエがもたらしてくれた話が、その戦いに一つの終止符を打った。
 これですべての気持ちが片付く訳ではないにしても、意味ある大きな事実を知ることができたのだ。
 彼の国は、罰を受けた。魔物たちの鉄槌は、強く強く振り下ろされた。
 そして魔王は、自分たち家族の身に降りかかった出来事を知っていた。

 今は、それで良いのです。それを知ることができただけで、良いのです。

 カップをソーサーに重ねながら、彼女は思った。
 ふと見上げたガラス窓の外。
 二羽の小さな鳥が舞うように飛び、茜色の空へと消えて行った。



「……さん……おかあさ……お母さんってば!」

 他の誰よりも聞き慣れた声。肩を揺さぶられる感覚。少しの寒さ。
 ゆっくりと瞼を開けると、そこには紺色の制服に身を包んだ最愛の存在が、少し怒ったような表情で立っていた。

「あら、リーシェちゃん」
「『あら』じゃないよぉ! こんな所で寝てたら、風邪引いちゃうよ!?」
 
 まだ何となくボヤけた感覚のまま、彼女は辺りを見渡す。
 初冬の夕方過ぎ。
 街を見下ろせる丘の上。そこに置かれたベンチの傍ら。
 ベンチの上には、自分が運んで来た様々な物が入った木箱が一つ。

「あらあら。お母さん、うたた寝をしちゃったのね」
「もぅ〜、駄目だよぉ。昨日、遅くまで原稿を書いてたの?」
「うん、何だか筆が乗っちゃってね。楽しくて、ついつい頑張っちゃった」
「“筆が乗る”のは良いけど、“筆が滑る”ところまで行かないでね。先月の雑誌に載った随筆……私が小さい頃の話! あれ、クラスのみんなから笑われちゃって大変だったんだから!」

 のん気な彼女の返答に、プゥと頬をふくらませて娘……十六歳になったリーシェが怒る。
 ナドキエから依頼された育児雑誌用の随筆に、彼女は幼いリーシェの失敗談を書いたのだ。

「でも、あの時のリーシェちゃんはすごく可愛かったのよ?」
「いや、可愛いとか可愛くないとかの話じゃないよぉ。っていうか、私ホントに昼寝してるキャンサーさんに向かって、『お母さん! 水炊きにしよう!』なんて言ったの?」
「えぇ、言ったわ。『ポン酢、ポン酢!』とも言ったわよ。あなたも私も、ジパング料理が大好きだからかしらね。……すごい勢いで逃げて行ったキャンサーさんには、悪い事をしちゃったけれど」

 そう言って彼女は、まだ四歳だった娘との海水浴を思い出す。
 無邪気に今日の夕飯を決定する娘と、飛び起きて逃げて行くキャンサー。
 遠ざかって行くその姿に平謝りする彼女と、一連の出来事に笑う周囲の人々。
 当日の太陽の光から砂浜に漂う海の香りまで、彼女はそのすべてをよく憶えていた。

「う、うぅ〜ん……」
「ふふふ……ところで、今日の実技試験はどうだったの? 上手にできた?」
「あ、うん。それはバッチリ大丈夫!」

 リーシェは今、芸術系のアカデミー、その舞踊学科に通っている。
 ユニコーンらしからぬ快活さと優れた運動神経を持つリーシェは、アカデミー内でもそれなりに注目される存在になっているようだ。
 揃ってのんびりとした性格で、あまり運動が得意ではなかった自分たち夫婦から生まれた、いつも元気いっぱいのリーシェ。
 彼女はそこに親子の不思議、血脈の謎のようなものを感じる。けれども同時に、最愛の娘が持つ未来への可能性に、大きな喜びと眩しさも感じていた。

「そう、良かった。お母さん、ちょっと心配してたの。前にリーシェちゃんが、少し難しいステップがあるって言ってたから」
「あはは。うん、言ってたね。でも、大丈夫だったよ。ちゃんとコツコツ練習したから。あ……その荷物、私が持つよ。よっこらしょっと!」

 彼女が抱えようとした木箱を、リーシェがひょいと持ち上げる。
 「重くない?」という彼女の問いかけに、リーシェは笑って「へっちゃらだよ!」と答えた。

「それより、早く行かないと。お爺ちゃんとお婆ちゃん、待ちくたびれてるかも」
「ふふふ、そうね。早く行って、美味しいものを作りましょう」

 婚前から彼女を見守り、支え続けてくれた薬草農家の老夫婦。
 今日は、その奥さんの八十二歳の誕生日なのだ。
 八十を超えてなお矍鑠(かくしゃく)としている二人に、彼女は大きな愛と尊敬の気持ちを抱いていた。同じ様に、自分を本当の孫のように愛し、慈しんでくれた二人に、リーシェも大きな親愛の情を寄せていた。
 彼女とリーシェは、老夫婦の家へと歩みながら言葉を交わす。

「あ、プレゼントの手配は大丈夫?」
「えぇ、大丈夫よ。この後、夜の七時半頃に届けてくれるよう、運送屋さんにお願いしてるから」
「ん、わかった。二人とも喜んでくれるかな?」
「きっと喜んでくれるわ。リーシェちゃんが選んだプレゼントとサプライズ作戦だもの」

 今日を迎えるにあたって、リーシェは二人にこんな提案をしていた。

『お婆ちゃんの誕生日には、私とお母さんがご馳走を作るから! 楽しみにしててね!』

 愛する“孫”の言葉に、二人は目を線のようにして喜んだ。
 だが、リーシェの愛情に溢れた企みはこれだけではなかった。
 かねてより「どこかに良い裁縫机はないかしら?」と呟いていた“お婆ちゃん”のため、リーシェは放課後や休日を利用して方方の家具屋を周り、ついにこれだと思えるひと品を見つけ出していたのだ。
 少々値の張る机ではあったが、そこは彼女が「それなら、私とリーシェちゃんの共同プレゼントということにしましょう」と助け舟を出し、無事に購入へと至ったのである。

「う〜ん、お婆ちゃんの驚く顔、早く見てみたいなぁ〜……って、あれ? 向こうから歩いて来てるの、お爺ちゃん?」
「あら、本当。ふふふ。お爺ちゃん、待ちきれなくて迎えに来てくれたのかしら」
「うん、そうかもね! 私、先行くね! お〜い、お爺ちゃ〜ん!!」

 木箱を抱えたまま、軽やかな足取りでリーシェが駆けて行く。
 その声と姿に、“お爺ちゃん”は満面の笑顔と「おぅ!」という元気の良い声で応える。
 ゆっくりと夜の帳が降り始めた空の下、種族を超えた家族の愛の形がそこにあった。

 その時、不意に吹き抜けた風の冷たさに、彼女は首をすくめる。
 冬の訪れが近い。
 冬を『辛抱の季節』と表現していたのは、誰の何という本だっただろうか。
 リーシェの明るい笑い声が聞こえる。
 笑った時の表情、特に目元は、本当に彼にそっくりだ。

 冬という季節が一度すべてをゼロに戻し、やがて春という新たな始まりを生み出すように、一度すべてを失い、絶望の闇へと叩き落とされた自分が、今こうして大きな愛の結晶と共にある。

 今でも彼女は、彼を思い、寂しくなる。悲しくなる。
 けれども、もう二度と絶望の闇の中へは沈まない。
 彼女の心の中には、リーシェへの愛がある。自分を支えてくれる人々に対する感謝がある。そして何より、まだ見ぬ未来への希望と覚悟がある。

 この先の道には、楽しいことも辛いことも、数えきれないほどの出来事が待っているのだろう。
 昔の自分ならば、その一つ一つに翻弄され、目を回していたかもしれない。
 でも、今とこれからの自分なら、その一つ一つを見つめ、慈しむことができるはず。

「私は、すっかり強くなってしまいました。いつか再び天国で出逢ったら……あなたはきっと、びっくりするのでしょうね」

 いくつかの星がきらめく空の下。彼女は微笑む。
 心の中の大切な場所に、生涯愛し続ける人を思い描きながら。
15/10/26 18:06更新 / 蓮華
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■作者メッセージ
【二次創作・SS投稿のガイドライン】 / ■CGIに投稿する際の注意点の
『一日に複数の話数を更新したい場合は、一度にまとめて』に従い、
引き続き終章をアップロードさせていただきます……。

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