連載小説
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失い、得た人。
 中秋の昼過ぎ。
 ベンチに、一人の男性が腰掛けている。

 飾り気の無い、シンプルな秋物の服。
 綺麗に整えられたミディアムの髪と、細い眉。
 年齢は、三十代に足を踏み入れた辺りだろうか。
 活力に溢れた若さから、落ち着いた大人の雰囲気へと変わり始める……そんな年頃だ。

 五分、十分、十五分。
 ベンチに腰を下ろしてから、彼は微動だにすることなく街を見下ろしている。
 まばたきをする以外に、視線や表情が変わることもない。
 糸の切れた人形のよう……そんな風に表現するのが、最も妥当な有り様だった。

「…………」

 そうして三十分以上の時間が経過した頃、彼が不意に動き出した。
 傍らに置いていた茶色い紙製の袋をまさぐり、中から大きめのサンドイッチを取り出す。
 それを一旦 膝の上に乗せ、次に紅茶で満たされた蓋付きの紙コップを慎重に取り出し、袋とは反対の側に置く。
 空になった袋を几帳面に折りたたみ、紙コップの蓋を外し、ゴクリと一口飲む。

 ふぅ……と大きく息をついて、紙コップに再び蓋をする。
 今度はそれを折りたたんだ袋の上に置き、倒れないことを確認してから、視線をサンドイッチへ移す。

 サンドイッチは、卵・ハム&チーズ・ポテトサラダの三つ一組。
 彼は無表情のままポテトサラダを選び、口へ運ぼうとした所で……止まった。

「はうぅぅ……」
「…………」

 背後から聞こえて来る、力の抜けた情けない女性の声。
 そして、奇妙な虫が鳴いているような、哀れを誘う腹の音。
 彼は静かに振り返り、その声と音の主を確認してから、言った。

「……これ、食べます?」


「はぁ〜、大変美味しゅうございました。本当にありがとうございました!」
「あぁ、いえいえ。お粗末さまでした」

 サンドイッチも紅茶も、全て綺麗に平らげた後、彼女はぺこりと頭を下げて感謝の気持を伝えた。
 彼はその言葉に小さく微笑み、優しい口調で訊ねる。

「素敵な食べっぷりでしたけど、何かご事情が?」
「あ、はい、その……今日は、色々と用事が立て込んでしまいまして。朝ご飯もお昼ご飯も、食べ損ねてしまったんです」

 初対面の男性から『素敵な食べっぷり』だったことを指摘されたからだろうか。
 ポッと頬を赤らめながら、彼女が事情を説明する。

「朝は、急に熱を出してしまった“姉妹”の付き添いで病院へ……。お昼は、突然ギックリ腰になってしまったご近所のお婆様の付き添いで、再び病院へ……」
「なるほど。それは大変でしたね」

 納得した彼の言葉に、彼女は「はい」と穏やかに頷いた。
 サンドイッチの包みと空になった紙コップをさりげなく片付けつつ、彼は自分の左隣に座った彼女を見る。

 年の頃なら、二十歳ほど。
 あらゆる光を吸い込んでしまうような、漆黒の僧衣と帽子。
 どんな闇の中でも輝くような、淡い銀色の長髪。
 顔立ちは精巧な人形よりも美しく、それが彼女の癖なのか、エルフを想起させる尖った耳が、時折ぴこぴこと上下に動いている。
 僧衣の胸元には、大胆な切れ込み。そこから覗く胸は、明らかに大きい。
 そして、視線を下ろせば、腰から飛び出している黒い羽と、鎖を巻きつけた長い尻尾、さらに、深すぎるスリットからは肉付きの良い脚が見える。

 親魔物国家に暮らす人間ならば、彼女が何者であるかを違える者はいない。
 彼女は、ダークプリースト。
 堕落した神を信奉し、その教えを広めることを務めとする【聖職者】である。

 人間を堕落させる術に長け、好色な淫魔そのものと言っても過言ではない彼女を前にして、しかし、彼はいたって普段通りだった。

 その理由は、二つ。
 一つは、彼が親魔物国家である、この国のこの街で生まれ育った人間であるということ。
 もう一つは、この街に教会を構え、生活している彼女たちが、様々な福祉や慈善活動に熱心な『良いダークプリースト』であるということ。

 彼は、思う。
 「急に熱を出してしまった“姉妹”」とは、魔力の制御に慣れていない元人間のダークプリーストのことなんだろうな。
 「突然ギックリ腰になってしまったご近所のお婆様」というのも、彼女たちが行なっている“一人暮らしのお年寄りへの声掛け周り”の中で発見したものなんだろう。
 いや、感心感心。この街の彼女たちは、本当に働き者だから。
 生臭な人間の聖職者は、彼女たちの爪の垢を煎じて飲むべきだな……。 

「……あ!」

 胸の前でポンと手を合わせ、彼女が目を丸くする。
 その突然の声に、彼もまた驚いて目を丸くする。

「あたたかい施しを頂戴しましたのに、私ったら、自分の名前もお伝えしていませんでした」
「あぁ、あ、ハハハ……そういえば、そうでしたかね」

 律儀に「申し訳ございませんでした」と頭を下げる彼女に、彼は「いえいえ」と苦笑いする。

「では、改めまして。私は、エレジア。この丘の向こうにある、小さな教会に所属する、ダークプリーストでございます」

 そう名乗った彼女……エレジアは、無邪気で明るい笑顔を見せた。
 笑うと、幼くて可愛い印象になるんだな。
 そんな発見を心の中で転がしながら、彼も自分の名前を伝える。

「あの……私が頂いたのは、あなた様のお昼ご飯、ですよね?」

 左手を豊かな胸に添え、どこかオドオドした調子でエレジアが訊ねる。

「そうですね。でもまぁ、お気になさらずに。あんまり食欲も無いんですけど、『とりあえず食っとかないとなぁ』って感じで買ったものですから」
「ご気分や体調が優れないのですか?」

 彼の返答に、エレジアがまた別の問いを投げかける。

「うん、まぁ……気分が優れない……のかな? 別に、病気とかそういうのじゃないんですけどね。今日も、床屋に行ったら少しはサッパリするかなと思ったんですけど、やっぱりどうもイマイチで」

 自分の後頭部を右手で撫で、彼は今日二度目の苦笑いを浮かべる。
 その言葉の内容にエレジアは小首を傾げ、眉を八時二十分の形にする。

「何か、お辛い出来事があったのですか?」
「……そうですね。なかなかに、キツいことが」

 そこで彼は、会話を切った。

 思い出したくもないし、考えたくもない出来事。
 それなのに、思い出してしまうし、考え込んでしまう出来事。
 自分の心の中にある黒い壺がカタカタと震え、その中からドロリとした粘性の高い液体が溢れ出て来るようなイメージ。
 不快で、苦しく、逃げ出したいのに逃げ出せないイメージ。

 胃がきゅっと縮み、息が詰まる様な感覚に包まれて、彼は強くまぶたを閉じる。
 しかし、傍らにエレジアがいることを思い出し、すぐにまぶたを開けて取り繕う。

「まぁ、色々ありますよね。生きていれば」

 自分でも、下手なごまかし方だと思う。
 何とか浮かべた笑みも、不細工に歪んで見えているはずだ。
 まいったな。これじゃ変な動揺を抱えていることが丸わかりじゃないか。
 あぁもう、本当に情けない。

 そんな風に心の中で嘆いていた彼に、エレジアは慈愛に満ちた表情で言った。

「そうですね。人も、魔物も、生きていれば色々なことがあると思います」

 そして、自分のへその辺りで両手を重ね、そっと彼の顔を覗き込むように体を傾けて、続ける。

「ですから……もしよろしければ、今、あなた様が抱えている心の荷物を、私に伝えて頂けませんか? あなた様の悩みや苦しみに、寄り添わせて頂けませんか?」
「ん……」

 綺麗なだけじゃなくて、この子は優しいダークプリーストなんだな。
 彼は、エレジアの申し出をありがたく受け止めた。
 けれども同時に、湧き上がる否定と迷いの念に挟まれて沈黙してしまう。

 こんなことは、出会ったばかりの相手に話すことではないはずだ。
 でも、誰かに聞いてもらえるのなら、全部を吐き出してしまいたい気もする。
 とはいえ、内容が内容だろう。
 だけど、この街のダークプリーストなら、きちんと聞いた上で秘密も守ってくれるはず。

 やっぱり、それでも、だからといって……。
 視線を宙に泳がせ、硬い表情になってしまった彼に、エレジアが微笑んで伝える。

「どうか私に、サンドイッチと紅茶の御恩返しをさせてくださいませ」

 ……恩返しの動機にしては、何だか随分と可愛いな。
 一瞬、そんなことを思った彼は、プっと吹き出してしまう。
 すると、肩の力が不思議に抜け、まぁ聞いてもらうだけなら良いんじゃないか、という気持ちになった。

 エレジアさんも笑っているし、問題ないかな。
 照れ隠しに右手で頬を軽く叩き、彼が言う。

「じゃあ、聞いてもらいます。変に長くて重い話ですから、途中で嫌になるかも知れませんけど……」
「いいえ、そんなことはございません。どんなお話でも、お伺いいたします」

 美しく妖艶な、女性の顔。無邪気で明るい、可憐な乙女の顔。
 そして、彼の話と記憶を受け止めてみせると宣言する、凛々しい顔。

 これは、ダークプリーストという種族がなせる業なのかな。
 それとも、エレジアさん個人の魅力なのかな。

 ……そんなことを考えながら、彼は己の内側と向き合っていった。


 三ヶ月ほど前まで、彼は首都近郊の都市に暮らしていた。

 勤め先は、生糸や綿糸などを取り扱う繊維工業の会社。
 主に経理を担当し、人手が足りない時は、営業として国内各地や隣国へ出張することもあった。
 あれこれ何かと忙しく、時にはしんどい思いをすることもあったが、それでも彼は日々腐ること無く仕事に打ち込んでいた。

 三ヶ月ほど前まで、彼にはそうして頑張る理由があった。

 彼には、二十二歳の時に結婚した、人間の妻がいた。
 世界で一番大切な人と、守りたい家庭と、築いて行きたい未来があった。

 妻は、学生時代の同級生だった。
 少し小柄で、栗色の長い髪が似合う、愛嬌たっぷりの女性。
 性格は、寂しがり屋で感激屋。
 時々ワガママな振る舞いを見せることもあったけれど、彼はそんな短所も含めて、妻のことを愛していた。

 若いうちに一生懸命 共働きで汗を流して、子供も作って、どうにかお金も貯めて、いずれは生まれ育ったあの街で、小さな服屋を開こう。
 生活するには便利だけど、ちょっとゴミゴミしているこの都市ではなく、安心できる故郷へ帰ろう。
 それが、二人で共に描いていた、理想の未来図だった。


 だが、そうした夢は希望は、全てあっけなく壊れてしまった。

 その兆候は、いつから現れていたのだろう。
 落ち着いて思い返せば……妻が自慢にしていた長い髪をバッサリと切った、あの辺りだったのかも知れない。

 ある日、帰宅した彼は、ショートカットになっている妻を見て驚きの声を上げた。

「え……!? その髪、どうしたの!?」
「うん? あぁ、まぁ、気分転換かな。昔から、ず〜っとロングばっかりだったからさ。三十代になるにあたって、ちょっと新しい挑戦をしてみようかなぁって。どう? ヘン? 似合ってない?」

 そう言ってペロっと舌を出して、妻は笑った。

「いや、似合ってるよ。可愛い。ただ、いきなりだったからビックリしちゃって……」
「あはは! そうだね。前もって言っとけば良かったかな。ごめんごめん」

 彼は、妻の長い髪が好きだった。
 学生の頃、まだ付き合う前……ポニーテールにまとめられ、ゆったりと左右に揺れ動くその髪を、胸ときめかせながら見つめていたものだ。
 だから、何の予告もなく妻がそれを切り落としてしまったことが、彼には少なからずショックだった。

 しかし同時に、「三十代になるにあたって、ちょっと新しい挑戦をしてみようかなぁって」という妻の言い分も、何となくではあるが理解出来た。
 男性である自分以上に、女性である妻は“三十代”という節目に何かを感じているのかな。

 彼は単純に、そんなことを思っていたのだ。


 そこまで語った所で、彼は一旦言葉を止めた。

 知らず知らずの間に緊張していたのか、口の中が乾いている。
 あぁ、お茶か何かがほしいな……と、心の中でぼやく。
 さぁっと吹いた風が襟元を抜けていくのを感じながら、彼は再び語り始めた。

「いきなり結論から言ってしまうと、それは浮気相手の趣味だったんですね。妻は……あの人は、三年半に渡って、浮気をしていたんです」

 その言葉に、エレジアがハっと息を飲む。

「始めのうちは、密やかに。でも、気持ちが向こうへ傾いていくに従って、大胆に。浮気相手は自分好みの髪型を求め、あの人はそれに応じることで愛を示した、と。まぁ、そういうことです」
「そんな……」

 右手を胸の前で握りしめ、エレジアがうつむく。
 その悲しげな様子に少し心の痛みを感じながら、彼が続ける。

「のんきな僕は、それに全く気付いていませんでした。自分たちは相思相愛の仲良し夫婦だと、一欠片の疑いもなく信じていたんです。せっせせっせと、自分一人で理想の未来を目指して働いていたんです」

 エレジアは静かに顔を上げ、彼と視線を合わせた。
 その瞳には、涙が浮かんでいる。

「あぁ……ごめんなさい。泣かないでください」

 どうして自分が謝っているのかな、と疑問を感じながらも、彼はズボンのポケットからハンカチを取り出し、エレジアに渡した。

「ありがとうございます……申し訳ございません……」
「いえいえ、こちらこそ……」

 彼は、次の言葉をどう伝えるべきかと迷いつつ、エレジアが涙を拭き終わるのを待った。


 あの日、彼は隣国との国境近くにある小さな村へ、泊まりがけの出張をする予定だった。

 営業の担当者たちが、まるでリレーをするように風邪を引いて高熱を出し、代理として彼が指名されたのだ。

「参ったなぁ。営業の仕事は久々だから、上手くやれるかどうか……」
「う〜ん、色々難しいよねぇ。でも、上司の人から指名されるってことは、それだけ頼りにされてるってことでしょ? その辺は、自信を持っていいんじゃない?」

 出発の前日、荷造りを進めながら不安を口にする彼に、妻は明るい声で言った。

「んー……どうなんだろうね。前向きに考えれば、そういうことになるのかなぁ」
「うん、きっとそうだよ! それで、予定は二泊三日?」
「そう。結構遠いからね。帰って来る日も、夜遅くになっちゃうかも」

 トホホという表情で彼が予定を伝えると、妻はニッコリと笑って応えた。

「ちゃんと美味しいものを作って待っててあげるから! 頑張っておいでよ!」

 彼が何か不安を感じるたび、妻は元気良く励ましてくれた。
 それは、学生時代から変わらない二人の関係。
 振り返れば、彼は自分の背中を叩きながら前向きな言葉を投げかけてくれる……そんな妻に、恋をしたのだ。
 だからその時も、昔と変わらぬ妻の笑顔に癒され、励まされたのだ。

 ……なかなか慣れることが出来ないショートカットに、表現しがたい違和感を覚えながら。


 物事の行方、運命の歯車というものは、どこでどんな風に繋がっているのだろう。
 今になって、しみじみとそう思う。

 当日、彼はその出張に行かなかった。

 厳密には、『朝早くに乗り合い馬車で出発したけれど、二度目の乗り換えの際、道中の峠で崖崩れが発生していることを知らされ、結局その日の夜遅くに戻って来てしまった』のだ。

「何だか良かったような、悪かったような」

 不慣れな営業の仕事から開放された安堵感。
 一日中馬車に乗っていたため、体全体に張り付いてしまった疲労感。

 誰もいない夜の会社に立ち寄り、上司への簡単な報告書を作成する。
 完成したそれをデスクの上に置き、会社を出た所で、彼はハァと大きなため息をついた。

「いきなり帰って来たら、ビックリするだろうなぁ。晩メシの用意は……ないかな? 惣菜屋か食堂で何か買って、それを持って帰った方が良いのかな?」

 そんな小さな心配を抱えながら、我が家への道を歩く。
 そうして夫婦で借りているアパートメントに到着し、部屋のある二階への階段を登り切った所で、彼はふと立ち止まった。

 小さく、小さく、女の喘ぎ声が聞こえて来る。

 アパートメントは、全六室。
 一階に三部屋。二階にも三部屋。
 一階の部屋は、全て埋まっている。住人の顔も知っている。
 だが、二階の部屋は、自分たち夫婦が借りている部屋以外、使われていない。

 最初、彼は一階に住んでいる人間とワーラビットの夫婦が営んでいるのだと思った。
 見ているこちらが胸焼けしてしまう程の熱々カップルである、あの夫婦。

 そうだ、そうだ。
 あのご夫婦だ。きっとそうだ。ヤだなぁもう、参っちゃうよ。

 異様な動悸に苦しさを感じながら、彼は鞄から部屋の鍵を取り出す。
 一歩、一歩、玄関のドアへと近づく。

 そうだ、そうだ。
 人間と魔物のご夫婦は、営みの回数も内容も凄いしなぁ。
 だからきっと、あのご夫婦だ。絶対にそうだ。本当にヤだなぁもう、参っちゃうよ。

 けれども、一体どういうことなのだろう。
 自分の部屋に近づいて行く程に、女の喘ぎ声が大きくなって来るような気がするのは。
 押し寄せる快感に咽び、時折卑猥な単語も口走っているような、この声は。

 そして何より、自分は、この声に、明確な聞き覚えがあると思ってしまうのは。


 いやいやちょっと待ていくらなんでもそれはないぜ絶対にないぜお前だったらそれはあれだろあれがこれだろこのドアの向こうで自分の家で自分の嫁が誰かとまぐわってるって言うのかよ馬鹿なこと言ってんじゃねぇよフザケんなよだけど絶対にこの声はそうなんだよ残念ながらそうとしか聞こえねぇんだよ何でだよ何でだよ何でだよだいたいお前だってわかってんだろうがこのアパートメントは人間と魔物の夫婦が暮らすことも考えてそれなり以上に防音とか考えて作られてんだろうがだから一階からあのご夫婦の声が聞こえて来る訳がねぇんだよだったらどうしてこの声が嫁の声が聞こえて来てんだよおかしいじゃねぇかあでもあれかあそこか台所の所にある小さな窓を嫁が閉め忘れてんのか嫁はいっつもあの窓の戸締りを忘れるんだよな泥棒が入って来れるような大きな窓じゃないから防犯上はまぁ大丈夫なんだけどあの窓が開いてたらそりゃ音は漏れるわなっていうか声が漏れるわないやいやいやいやいやふざけんな何を納得の上確定しようとしてんだお前馬鹿じゃねぇのか本当にそれを認めちまったら色々と終わりだろうがあり得ないだろうがあり得ちゃいけねぇだろうが夫が出張でいない間に間男を家にあげてヤっちまってるなんて最低な女のすることじゃねぇかお前は自分の嫁がそういう種類の人間だって思ってんのかよ最低だな本当に考えられねぇよでもよだけどよそれでもよだったらこの声をどう説明するんだよお前が世界で一番聞き分けられる声だろうがよっていうか世界でお前しか知らないはずの声だろうがよ処女と童貞で出会って付き合って結ばれて結婚してんだからお前は嫁しか知らねぇし嫁はお前しか知らねぇはずだろうがよだけど残念ながらこれで黒が確定したら一対二だなってコラお前真剣にいい加減にしろよあぁあぁあぁもう心臓が口から出て来そうだ胃の中の物を全部吐いてしまいそうだ腹ペコだから血と胃液しか出てこねぇだろうけどそれでも今は吐いちまった方が楽になれるような気がするなだけど今はとにかくとにかくとにかくドアだドアだドアを開けるんだそっとそっとそっと静かに開けるんだその結果何かが終わることになっても行け行け行け行け行け行け鍵を鍵穴に入れろ慎重に回せそして音を立てずにドアを開けろその上で玄関に誰かの靴があるか見てみろ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ。


 そっと鞄を置き、そっと鍵穴に鍵を差し込んで回し、そっとドアノブに手をかけ、そっと開く。

 こめかみから、何かが弾け出しそうな感覚。
 手足は痺れ、呼吸が苦しい。
 もはや胸の鼓動は人生最大の値を記録し、内臓の全てが引っ繰り返りそうになっている。

 まず、視界に飛び込んで来た物は、玄関にある妻の靴と、見慣れぬ男物の靴。

 聴覚に飛び込んで来たものは、聞き違いや勘違いであって欲しかった、妻の喘ぎ声。

 終わった。
 全部終わってしまった。
 心の底から、彼はそう思った。

 それなのに、彼の体は動き続けた。

 靴を履いたまま、音を立てないよう慎重に玄関から家の中へ入り、喘ぎ声が聞こえて来る方向へと進む。
 それだけはやめてくれ……と思ったが、その行為は夫婦の寝室で行われているようだった。

 寝室のドアは、僅かに開いていた。
 彼はその隙間を泥棒のように、あるいは覗き魔のように、静かに捉えた。

 見えたものは、裸の男の背中。
 間断なく腰を振り、リズミカルに動いている。

 次に見えたものは、その男の両肩から生えるように天井へ向けられている、妻の脚。
 男の腰の動きに合わせてユラユラと揺れ、その指は快感に開いている。

 男の息遣い。軋むベッド。激しい妻の喘ぎ声。
 男の息遣い。軋むベッド。激しい妻の喘ぎ声。
 男の息遣い。軋むベッド。激しい妻の喘ぎ声。

 それらを背に受けながら、彼は再び静かに静かに、玄関へと向かう。
 そして外に出てドアを閉め、強く強くまぶたを閉じる。

 妻の喘ぎ声は、まだ聞こえて来ている。
 鋭敏になってしまった聴覚は、その全てを捉えている。
 だから、聞きたくなかった声まで聞いてしまう。

「いい……いいの……あの人よりも、すごく……!」

 その瞬間、彼は彼ではなくなった。


「……どうしましょうか? この先の出来事も、お話してよろしいですか?」

 彼は、優しい目でエレジアを見た。

「…………」

 エレジアは両手で口元を覆い、目を見開いている。
 よく見れば、その細くて白い手は、カタカタと震えているようだ。
 だから彼は、これ以上のことを深く話さない方が良いのではないかと思った。

「……い、いいえ」

 ゴクリと唾を飲み下してから、エレジアは乾いた声で言った。

「続きを、お聞かせください。今、ここで耳を塞いだならば、私はあなた様の傷を興味本位に覗いた愚か者に過ぎません。私は、『どんなお話でも、お伺いいたします』と申しました。ですから、どうか最後までお聞かせください」

 青い顔色。潤んだ瞳。揺れ動く眉。震える手。
 痛々しく動揺していることが明らかであるにもかかわらず、それらの状態が暗い色ではなく、淫靡で深い艶を生み出している。

 その妖艶さにドキリとし、またエレジアの芯の強さに感心しながら、彼は深く頷いた。


 無表情で立ち上がった彼は、足音を立てること無く、しかし素早くアパートメントの廊下を抜け、階段を降りた。

 彼は、建物の外に出ても速さを落とすことなく、それどころか全力疾走へと移行しながら、ある場所を目指す。

 細い路地を抜け、角を二つ曲がり、少し大きな通りへ出た所に、それはあった。
 掲げられている銅製の看板には、こう書かれている。

【騎士団 治安維持・警備事務所】

 その所内へ、彼は減速すること無く転がり込んだ。
 談笑しながら書類整理をしていた人間の男性二人、女性一人、ケンタウロス一人……計四人の隊員たちは、いきなりの突入者に飛び上がって驚いた。

「ど、どうされましたか!? 大丈夫ですか!?」

 最も入口に近い所にいた女性隊員が、彼に駆け寄って問いかける。
 だが、全力で走って来た彼はゼィゼィと息が切れ、喋ることが出来ない。

「まず、これを。落ち着くはずです」

 黒毛のケンタウロスがコップに水を注ぎ、冷静な表情で彼に渡す。
 彼は震える手でそれを受け取り、喉を鳴らして飲み下した。
 そうして、ハアァァァァ……と大きく息をつき、叫んだ。

「た、大変なんです! 助けてください! つ、妻が! 僕の妻が、家の中で見知らぬ男に強姦されているんです!!」
「なっ!?」

 彼の言葉に、隊員たちの顔色が変わる。

「それは、今!? ご自宅で!? 奥様の種族は!?」
「い、今です……つ、妻は、人間ですっ!」
「くっ、一刻の猶予もない! ご住所を教えて下さい! 行くぞ!」 

 男性隊員が素早く装備を整え、既に事務所の外に出ていたケンタウロスの背に飛び乗る。
 どうやら、この二人は夫婦であるようだ。

 荒い呼吸のまま彼が住所を告げると、夫を乗せたケンタウロスは夜の通りに蹄の音を響かせながら、疾風のように駆け出して行った。

「お辛いとは思いますが、どうか頑張って立ってください。私がご同行しますので、ご自宅へ向かいましょう」

 もう一人の男性隊員が、よろめく彼を支えながら立たせる。

「留守は私が」
「あぁ、頼む。では!」

 小さく敬礼する女性隊員に、男性隊員が頷く。
 そして、彼と男性隊員は事務所を出て、アパートメントへと歩き出した。


 アパートメントの前には、小さな人だかりが出来ていた。

 恐らく、凄まじい勢いで駆けつけ、二階の部屋へと踏み込んだ隊員の足音や怒声に驚いて集まって来たのだろう。
 その中には、彼が声の主であってくれと願った、一階に暮らす人間とワーラビットの夫婦の姿もあった。

 人々の視線と囁き声を感じながら、彼は二階へと上がる。
 玄関のドアは開け放たれ、抜き身のショートソードを握ったケンタウロスが、部屋からの脱出を阻むように立っている。

 付き添ってくれた男性隊員と共にケンタウロスの脇を抜け、部屋の中へ入る。
 その際、彼は自分を見下ろすケンタウロスと目があった。

「…………」
「…………」

 ケンタウロスは、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
 もしかすると、魔物であり女性である彼女は、事の真相に気がついたのかもしれない。
 これは、強姦事件ではないと。
 彼の妻とその間男による、不貞の一幕であると。
 とはいえ、確証がない以上はそれを指摘することが出来ず、行われていた不貞を糾弾することも出来ず……。

 部屋の中に入ると、寝室のドアもまた、開け放たれていた。
 そこから、怒鳴り合う男の声と女の泣き声が聞こえて来る。

「だから違うんだよ! 俺は強姦魔なんかじゃない!」
「何が違うってんだ、この野郎! テメェがここでやってたことと、この人の旦那さんの通報と、どっちが信用できると思ってんだ!」

 その男の声を聞いて、彼は膝から崩れ落ちそうになった。
 さっきは、寝室で繰り広げられていた行為そのものに打ちのめされ、男の正体にまで注意が至らなかった。
 だが、今ならわかる。これは、この声は……。

「…………」
「うっ……!」
「あな、た……」

 寝室の入り口に、彼が立つ。
 ケンタウロスの夫である男性隊員に全裸で弁明していのは、妻が勤める会社の先輩社員だ。
 やや高めの声で、自信たっぷりに、キザっぽい喋り方をする男。
 以前、妻の会社で行われた社員・家族懇親会の席で、小一時間ほど話したことがある。
 人のことを出身地や出身校だけで判断するような、底の浅い嫌な男だ。
 よりにもよって、妻の浮気相手はコイツだったのか。

 次に、彼は体にシーツを巻き付け、部屋の隅でうずくまって泣いている妻を見た。
 ショートの髪は乱れ、顔色は白に近く、左の鎖骨の下辺りに鬱血したキスマークが付いている。
 それを見て、彼は再び膝から崩れ落ちそうになった。

 そうか。それでか。だからだったのか。
 この一年ほど、彼が夜の営みを持ちかけても、妻が断ることがしばしばあった。
 営みだけではなく、一緒に入浴することも拒否することがあった。
 その振る舞いにどこか不自然なものを感じながらも、彼は妻の明るい表情をシンプルな恥じらいだと解釈していた。

 しかし、実際の理由はこれだったのだ。
 妻は男と肌を重ね、体のあちらこちらにキスマークをつけられていたのだ。
 『この女は俺のものだ』という所有の証。
 男はそれを自信満々につけ、妻はそれを受け入れていたのだ。

 ただただ、何も知らなかったのは、自分だけ。
 間抜けで、哀れで、可哀想なのは、自分だけ。

 彼は両手を腰に当て、嘆くように天井を見上げながら言った。

「隊員さん、すいません。僕は、この男性に見覚えがあります」
「……え?」

 その言葉に、二人の男性隊員は困惑したような表情を浮かべる。

「この人は、妻の会社の同僚です。もしかすると、ここで行われていたのは強姦ではなく、不倫や、不貞や、密会の類だったのかも知れません」
「あ、う……」

 酸欠の金魚のように、男がパクパクと口を動かす。
 妻は、無言でボロボロと涙を流している。

「……単刀直入に訊ねます。二人の関係は、『強姦魔とその被害者』ですか? それとも、『恥知らずな間男と不貞の女』ですか?」
「う、う、あ……」
「う……ヒッく……ううぅ……」

 その一言で、彼は二人の退路を断った。


 この国において、強姦は重罪である。

 罪が確定すれば、最低でも二十五年以上の禁固刑。
 最高刑はそれに加えて、魔術もしくは医術的去勢措置が執行される。

 妻が「私は被害者です」と訴えれば、男は重罪人になりたくない一心で、猛烈な反論と暴露を始めることだろう。さらに、法廷での争いになれば、二人のありとあらゆる行為が裁判記録として正式に刻まれることになる。
 また、男が罪を認めた場合、妻はとてつもなく大きな良心の呵責に、一生涯苛まれ続けることになるだろう。夫からの信頼を踏みにじり、なおかつその咎から逃れたいという一心で、一人の人間の人生を破壊し尽くすことになるのだから。

 一方……この国に、姦通罪は存在しない。

 精神的苦痛を被ったことなどに対する損害賠償や慰謝料の請求は行われるだろうが、少なくとも監獄に放り込まれるようなことはない。
 強姦魔扱いされるよりは、遥かにマシな告白になるだろう。

 しかし、一つ忘れてはいけないことがある。
 この国は、人間と魔物が対等に暮らし、向き合い、愛し合う、親魔物国家なのだ。
 一夫多妻制や過激な思想を持っている一部の存在を除き、魔物たちにとって【不貞】はありえない愚行なのである。

 特に、この国の魔物たちは“夫婦の愛”を大切にする傾向がある。
 例えば、人間同士の結婚を祝福し、育児や仕事を支えてあげること。
 長年連れ添った老夫婦に敬意を表すること。
 本人たちが望まぬ限りは、人間の夫婦に魔物化への誘いをかけないこと。
 
 ……その他にも、魔物たちは人間に対して、あるいは“夫婦の愛”に対して、明確な仁義を立てていた。

『人間も魔物も、夫婦として歩み出したのならば、お互いを信じて、愛して、肌を重ねて、幸せにならなきゃおかしいよ。愛する人を裏切るなんて、そんなのは絶対にありえない。私たち、そういう人は嫌いだな』

 親魔物国家において、魔物たちに嫌われ、後ろ指をさされる。
 それは、限りなく再起不能に近い、極めて大きな社会的制裁なのである。

 お前たちは、強姦魔とその被害者なのか。
 それとも、 恥知らずな間男と不貞の女なのか。

 彼が突きつけた問いかけは、逃げることも拒否することも許さない、究極の二者択一だった。


「その場では、二人とも沈黙しちゃって……結局、騎士団の事務所に連行されて、小一時間が経過した頃、『私たちは不倫をしていました』と。二人揃って、そう白状したんです」

 両手を後頭部で組み、支えるようにして、彼は夕方の気配が漂い始めた空を見上げる。

「その後は、もうゴチャゴチャですよね。弁護士さんに手伝ってもらいながら、離婚の手続き、二人への慰謝料の請求と会社への報告、近所の人達へのお詫び、二人の両親からの謝罪対応……他にも、あれこれ泣きたくなるほど盛り沢山でした」

 両手を組んだまま彼が視線を送ると、エレジアは気持ちを落ち着かせるように右手を胸に当て、小さく息をついていた。

「僕は会社を辞めて、この街に戻って来ました。向こうでの暮らしは、約十年。色々と思い出があり過ぎて、一人で暮らすのが辛かったんです」
「奥様……だった女性と、相手の男性は?」

 小さな声で、エレジアが訊ねる。

「二人とも両親から勘当され、会社も解雇され。事の詳細を知った刑部狸さん……二人の勤め先の社長が、それはそれは怒り狂ったらしいです。その様子を見た人の話じゃ、『昔の魔王の時代のような、冗談抜きの殺気だった。あの様子じゃ、この国はもちろん、近隣の国にも住めないね』って」
「刑部狸さんの逆鱗とコネクションによる制裁、ですね。それは、大変な……」

 ある意味、一番怒らせてはいけない魔物さんですもんね。
 戦慄したようなエレジアの声に、彼は小さく笑いながら応えた。
 しかし、エレジアの顔に笑みは浮かばない。

「不貞に至った理由は、一体何だったのでしょう?」

 興味本位という雰囲気ではなく、またおずおずと怯えながらでもなく、エレジアが訊ねる。

「刺激が欲しかった。平凡な日々に飽き飽きしていた。そこへ遊び慣れた会社の先輩がモーションをかけて来た。途中あれこれあった後、ついに肌を重ねてみたら……これが、抜群に良かった。人生二人目の男から未知なる巨大な性の喜びを与えられ、このままではヤバいと思いながらも、ズル、ズル、ズル」

 自嘲でもなく、諦観でもなく。
 組んでいた両手を解いた彼が、離婚成立後に知った事の流れを淡々と説明する。

「僕は、積み重ねて行く平凡な日々の中に、幸せがあると思っていました。でも、彼女は何か特別なものが欲しかった。平凡ではない、胸がドキドキするような何かを求めていた。もしかすると、僕たちは夫婦でありながら、実際は何一つ分かり合えていなかったのかも知れません」

 出会いから別れに至るまで。
 彼の脳裏に、妻だった女性との思い出が浮かんでは消えていく。

 彼の心の中に、相手への怒りはない。恨みの気持ちもない。
 制裁は、もう十分に与えた。お互いに、もう十分に傷つけ合った。
 あの二人が、今何を思っているのか。それは、彼にはわからない。

 海よりも深く反省しているかも知れないし、運が悪かっただけだと笑っているかも知れないし。
 今となっては、そのどちらでも良いと思う。

 自分の人生と彼らの人生は、もう二度と交わらない。
 自分は、これ以上彼らに関わりを持つ必要はないと思う。
 自分は、これ以上彼らのために、心と体のエネルギーを使いたくないと思う。

 それが、彼の偽らざる気持ちだった。
 ただ……。

「エレジアさん。一つ、真剣な質問をさせてもらっても良いですか?」

 居住まいを正し、彼が問う。

「……はい。私にお答え出来ることであれば、何なりと」

 彼の様子からただならぬ気配を感じ、エレジアもまた居住まいを正す。

「ありがとうございます。僕が、離婚してからずっと考え続けていたことを、ダークプリーストであるエレジアさんに聞いてもらいたいんです」

 その言葉に、エレジアの表情が引き締まる。
 それはまさに、迷える者と向き合う、どこまでも真摯で清廉な聖職者の顔だった。


 離婚という経験を通じて、彼が信じられなくなったもの。
 それは、男女の愛情ではなく、夫婦の絆でもなく……自分自身の心だった。

 あの日、彼は眼前に広がっている光景に心を砕かれた。
 最愛の妻の裏切り。信じていた愛の崩壊。
 普通ならば、そのまま頭を掻き毟り、獣のように咆哮しながら男に掴みかかっていただろう。
 事と次第によっては、そのまま男を、あるいは妻までもを殺めていたかも知れない。

 しかし、彼はそうしなかった。

 心は、間違いなく砕かれていた。木っ端微塵になっていた。
 それなのに、彼の脳と体は、淡々と、的確に、二人を追い詰める策を講じていった。

 寝室へ踏み込むのではなく、騎士団の事務所へ通報する。
 妻が不倫をしていたという真実ではなく、強姦されていたという嘘を伝える。
 二人の退路を論理で塞ぎ、自白させ、職と居場所を奪って慰謝料も確保する。

 ……これまでの人生おいて、彼は自分自身を『冷静な人間』などと思ったことはない。

 むしろ、つまらないことに慌て、肝心な場面で優柔不断になってしまう、情けない男だと思っている。
 彼の親族や古くからの仲間にそれを伝えたならば、皆苦笑いしながら「まぁね」と同意してくれるだろう。
 それなのに、あの時の自分はどこまでも冷淡に、とことん無駄なく、相手の急所を突いていった。

 彼は、以前に読んだ伝奇小説の内容を思い出す。

 その物語には、冷徹な殺し屋の男が登場していた。
 己の脳と体、思考と行動。
 男はそれらを時に統一して、時にバラバラに駆動させて、間違いなく標的を沈めていく。
 自分自身を完璧な殺人マシンとして使役し、決して感情に流されることはない。そんな男だった。

 彼は、思う。
 自分の中に暗殺者の素質があるとは思わない。
 けれども、あの日あの時、自分が取った行動は、一体何だったのか?
 あの日あの時、自分が発揮した思考力は、一体何だったのか?

 あれは、一から十まで、自分自身の力だったのか。
 それとも、不貞をはたらいた二人を罰するための、神か何かの意思だったのか。
 あるいは、あの二人の堕落を堕落と認めぬ、堕落神の鉄槌だったのか。

 そして何より……自分のやったことは、果たして本当に正しいことだったのか。

 問うても、問うても、わからない。
 考えても、考えても、見えてこない。

 自分は正しいのか、どこか壊れているのか、堕落しているのか。
 エレジアさん、あなたは、どう思われますか?


 彼の言葉を聞き終えたエレジアは、そっとまぶたを閉じた。
 そして、神に祈りを捧げるように両手を組み、言った。

「堕落とは、ただ愛と性に爛れることではありません。己に愛を捧げてくれる存在を裏切り、傷つけるようなことを、堕落の神は決してお認めにはならないでしょう。堕落には、純粋なる愛が必要不可欠なのです」

 まぶたを閉じたまま語るエレジアに、夕方近くの陽が当たる。
 それはまるで、堕落の神が「彼女の言葉に耳を傾けなさい」と伝えているようだった。

「堕落の神は、人々に愛を伝えることと共に、様々な役割や試練もお与えになります。その日、その時、堕落の神は、あなた様に『真の愛とは何か。堕落とは何か』と問いかけられたのでしょう」

 彼は、エレジアを見つめ続ける。
 無意識のうちに、その両手はエレジアと同じように、しっかりと組まれていた。

「あなた様は、二人の交わりを過ちであると断じられた。だからこそ、直線的な暴力ではなく、与えられた状況を最大限に生かし、二人に裁きを加えたのでしょう」
「僕の取った行動は……嘘ではない、と?」
「はい。あなた様は嘘をついたのではなく、内なる真実と正義に沿った選択をされたのです」

 震える彼の声に、エレジアは凛として答える。

「今日、この出会いを通じ、堕落の神の使いとして、お伝えいたします。あなた様は、正しいのです。あなた様は、壊れてはいないのです。あなた様は、堕落の神の祝福を受ける意味を宿した、『よき人』なのです」

 エレジアは、静かにまぶたを開ける。
 深い桃色に輝く瞳が、彼を捉える。

「欲も、迷いも、求道も……堕落の神は、あなた様の全てをお赦しになるでしょう」

 その時、彼は強く組んだ自分の手が濡れていることに気付いた。
 一瞬間を置いて、それが自分の涙であると理解する。
 エレジアは、まるで聖母のように微笑んで言った。

「あぁ、私の『よき人』よ。どうか、泣かないでください」

 彼にぴたりと寄り添い、ハンカチではなく、その美しい指で、エレジアは彼の涙を拭く。
 そのぬくもりと優しさが、彼に更なる涙を流させる。

 彼は、泣いた。
 エレジアは、そんな彼にもたれ、体を預けた。
 穏やかに吹く風が、二人の髪をそっと揺らしていった。


「あぁ、もう……泣くだけ泣いたら、何だかスッキリしました。今日という日が、まさかこんなことになるなんてなぁ」

 空がすっかり夕焼けの色に染まった頃、赤い目をした彼が笑いながら言った。

「ふふふ……あなた様の心が軽くなったのなら、それが何よりのことでございます」

 変わらず、ぴったりと彼に寄り添ったまま、エレジアが微笑む。
 その近さと香りに今更ながら緊張しつつ、彼が問いかける。

「あの……エレジアさん。今からお時間、大丈夫ですか?」
「はい。問題ございませんが、何か?」

 恋人を見上げる乙女のような表情で、エレジアが問い返す。
 その顔と声のトーンに、いよいよ彼の心臓がドキドキと音を立て始める。

「あ、いや、その……久々に、食欲が出て来たもので。僕の長い話に付き合ってもらったお礼に、晩ご飯をご一緒できたらなぁ、なんて」

 その言葉にエレジアは「まぁ!」と驚き、彼から体を離す。
 自分の左側を埋めていた温もりが消え、彼の心に表現しがたい寂しさが生まれる。

「ぜひぜひ、ご一緒させてくださいませ! 私も、あなた様の今の暮らしやお住まいについて、色々とお訊きしたいことがございますから!」
「あぁ、良かった……それじゃあ、」

 と、その時。
 彼のお腹が“グウィ〜”と凄みのある低音を奏でた。
 その音にせっかくの雰囲気を壊された二人はしばし見つめ合い……同時にプッと吹き出した。

「情けないなぁ……けど、よくよく考えてみたら、僕は昼メシを食ってないんですよね」
「あ……私が、遠慮なくサンドイッチを全部頂いてしまったから……」

 申し訳無さそうな表情を浮かべるエレジアに、彼は「いやいや、それは気にせずに」と笑って言った。

「それじゃあ、晩御飯の前に、カフェで軽くお茶でも?」
「はい、そういたしましょう!」


 そして二人は、ベンチから立ち上がる。

 エレジアは彼の左側に寄り添い、その手をそっと握る。
 彼は一瞬驚いたような表情を浮かべ、けれど同じようにそっと握り返す。

 丘の下から吹いてきた風が、彼の耳元をくすぐった時……ふと、こんな声が聞こえたような気がした。

『愛と誠意と迷いある者よ。優しく暖かい、堕落の世界へようこそ。貴方に、幸あれ』
13/06/01 06:47更新 / 蓮華
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■作者メッセージ
【50の質問 2】の更新だと思った?

残念! 『ベンチの横のラナンキュラス。』の第三弾でした!

……ごめんなさい。怒らないでください。


第二回の更新が2012年の春でしたから、1年以上ぶりですね。

いや、本当に申し訳ございませんでした。

……続きものではなく、一話完結方式でよかった。



今回のお話のテーマは、“堕落って何かね?”です。

一口に堕落といっても、
その中には良いものも悪いものもあるのではないかな、と。


このお話を読んで下さった「あなた様」のもとに、
素敵で美しい堕落の乙女が訪れますように。

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