連載小説
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過去と未来を紡ぐ人。
 晩夏の午後。
 丘の上のベンチとその周りにある、いくつかの影。

 ベンチに腰掛けているのは、銀縁の眼鏡をかけた老人。
 深く刻まれた皺。少し曲がった背中。つるりと綺麗に禿げ上がった頭。
 半袖のシャツから伸び出た腕は細く、手の甲にはいくつかのシミが浮いている。

 だが、その姿は、決して貧相で淋しげな老人のそれではない。
 眼鏡の奥の瞳には優しいぬくもりが宿り、口元にも穏やかな微笑みがある。
 『愛しい孫たち』を見守る、心優しい祖父……そんな表現が似合う人物だった。

 一方、老人が腰掛けるベンチをぐるりと取り囲む、五つの小さな影。
 老人から見て、右から順にオーク、アラクネ、ラミア、妖狐、そして、ゆきおんなの幼体であるゆきわらし。
 そう、老人を取り囲み、地面にぺたりと座り込んでいる『孫たち』とは、魔物の子供たちなのだ。
 そんな『孫たち』は、皆一様に瞳を輝かせ、老人にこんなおねだりをしていた。

「おじいちゃま、おじいちゃま! 今日もお話を聞かせて!」
「私も、おじいちゃまのお話が聞きたい!」
「私も、私も!」

 オーク、妖狐、ラミアの女の子が、老人の膝を揺すりながら言う。

「わ、わ、駄目だよみんな。そんなにしたら、おじいちゃまが困っちゃうよ」
「そうよ、やめなさいよ! おじいちゃまはお歳なんだから、迷惑でしょ!」

 三人の勢いに驚きながら、ゆきわらしが慌てて止めに入る。
 そして最後に、腰に手を当て、まるで学級委員長のような雰囲気で、アラクネが叱りの言葉を放った。

「「「ふぇ〜い」」」

 オークは、唇を尖らせながら。
 妖狐は、そっぽを向きながら。
 ラミアは、やれやれと肩をすくめながら。
 叱られた三人は、そんな不満気な調子で老人の膝から手を放す。

 すると、そんな態度に対して、再びアラクネの雷が落ちる。

「返事は『はい!』でしょ! 何よ、そのふてくされた態度は!」
「「「へぇ〜い」」」
「だ・か・らぁぁ! 返事は、『はい!』って言ってるでしょ!? 聞こえないの!?」
「「「はぁ〜い」」」

 顔を赤くして、プスプスと頭から湯気を出しそうな勢いのアラクネに、ゆきわらしが困り顔を浮かべながら言った。

「まぁまぁ、ね? みんなも、ちゃんと言う事を聞いてるみたいだから、怒らないで。ね?」
「ほんっとに……まったく、この子たちはいっつもこうなんだから……!」
「うん、だから、まぁまぁ、ね?」

 仲裁の言葉と共に、膝立ちになって両手をハタハタと振り、「落ち着いて」のサインを送るゆきわらし。
 その効果だろうか、「毎回毎回なんだから、ほんとにもう……」と呟き続けてはいるものの、アラクネの怒りは徐々に収まりつつあるようだ。
 その様子を見届けたゆきわらしは、次に、叱られた三人と順番に視線を合わせながら口を開いた。

「みんなも、ちゃんとお返事しようよ。ね? みんなで仲良く遊べないのは、私、とっても悲しいな」

 静かな、しかしきちんと気持ちが込められた、ゆきわらしの言葉。
 彼女の視線と思いを受け取った三人は、何ともバツの悪そうな表情を浮かべ、互いに見つめ合い、頷き合った後……声を揃えて、ペコリと頭を下げた。

「「「ごめんなさい」」」
「うん! みんな、仲良しが一番だから!」

 三人の素直な『ごめんなさい』を受け入れたゆきわらしは、ふんわりと花が咲くように微笑んだ。

 いつも元気にはしゃぐオーク・妖狐・ラミア。
 そんな三人の暴走や無礼に、ぷりぷりと怒るアラクネ。
 そして、四人のパワーに振り回されながらも、最後はきちんとまとめるゆきわらし。
 種族も個性もバラバラな五人だが、その友情は絶妙のバランスで成り立っているものらしい。
 結局のところ、要するに彼女たちは、【素敵な仲良し五人組】ということなのだろう。

 一連のやり取りを静かに見守っていた老人が、「ほっほっほ」と笑いながら言った。

「うむ。皆、今日も元気で大変結構」

 その言葉に、五人の『孫たち』は「へへへ〜」とはにかむ。

「では、そうじゃのう……今日は、ここから遥か遙か東方の地、ジパングの英雄たちの話をしてみようかのぅ」
「わ、ジパング!?」

 老人の言葉に真っ先に反応したのは、ゆきわらしだった。
 感激したように胸の前で手を合わせ、期待と喜びにほんのりと頬を朱に染めている。

 ゆきわらし、そして成長後のゆきおんなといえば、ジパングにルーツを持つ精霊型の魔物である。
 だが、その地から遠く離れたこの国で生まれ育った彼女にとってのジパングとは、“遙かなる故郷”であると同時に、“未知なる異国”でもあったのだ。

 遠い日にジパングから旅立ち、この国へと辿り着いた祖母。
 そして、祖父母と共に幾度かの『里帰り』をした事がある母。
 彼女は、そんな二人からジパングにまつわる様々な話を聞く度に、既知と未知とが混じり合うような、とても不思議な感覚を胸に抱いていた。

 もっとジパングのことを知りたい。いつかジパングの土を踏んでみたい。
 自分の中に流れるジパングの血を感じ、そう願い始めていた彼女にとって、老人の言葉は最高の贈り物だった。

 ゆきわらしの嬉しそうな様子に、他の四人も「ふふふ」と笑顔になる。
 その笑顔に、老人も穏やかな微笑みで応える。

「それでは、始めようかのぅ。これは、遠い遠い昔、ジパングが強大な異国から攻め込まれた時のお話じゃ……」



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 これは、正史には刻まれていないお話。
 けれど同時に、ジパングはもちろん、様々な国の伝承や芸術作品として、今なお語り継がれ、描き続けられているお話。

 遠い遠い昔、ジパングを我がものにせんと、大軍を率いて攻め込んだ国があった。
 ジパングの伝承において、『敵の軍船と軍旗によって、海面が見えなくなった』と表現される程の、本当に桁違いの大軍勢である。

 外敵襲来。
 その知らせを受けたジパングの人々は、魔物たちと共同戦線を張り、即座に迎撃の態勢に入った。
 しかし……敵の圧倒的な兵力と物量は、ジパングの人々の予想を遙かに超えていた。
 水際での戦いに敗れ、上陸を許すと、敵は一気にジパングの大地を踏み荒らし始めた。

 このまま、奴らの好きにさせる訳にはいかない。
 この美しき日の国の伝統を、ここで終わらせる訳にはいかない。
 何としてでも、絶対に食い止める!

 ジパングの人々と魔物たちは、ただその決意だけで懸命に戦った。
 だが、やはり敵は強大だった。
 日を追うごとに戦況は悪化し、ずるずると後退を余儀なくされる状態が続いていった。

 あぁ、最早これまでか。もう希望はないのか。
 いや、しかし、それでも……人々は折れそうになる心に喝を入れ、懸命に踏ん張った。
 ジパングに暮らす老若男女すべての人間が一丸となり、魔物たちもそれを支えた。

 そして、とある砦の攻防戦の最中、ついに奇跡の扉が開かれた。
 ジパングを離れ、世界各地で修行を重ねていた伝説の強者たちが、故郷の危機に駆けつけたのである。

 例えば、その攻防戦の舞台となった村の伝承には、こうある。

『敵の攻撃により、一人また一人と仲間が倒れる。
 刀は折れ、槍を失い、矢も尽きた。
 最早これまで。ならば、最後は秘術を暴走させ、敵もろとも自爆するより他になし。
 砦に立てこもった人々がそんな決意を固めし時……遥か彼方から、一筋の雷光が来たる。

 その雷光は敵陣の真ん中で炸裂し、木の葉のように敵兵を吹き飛ばす。
 それは魔術か、爆薬か?
 否。それは、一握りのただの石つぶて。
 誰かがそれを、人智を超えた力で投げつけたのだ。

 さらに次の瞬間、疾風よりも早く、一人の痩身のサムライが敵陣に飛び込んだ。
 驚愕し、硬直する敵兵の前で、そのサムライが刀を一閃する。
 すると、おぉ、見よ見よ!
 たちまち恐ろしき竜巻が生まれいで、敵の全てを空の彼方へ舞い上げた!

 僅かに残った……いや、意図して残した敵兵に、サムライが静かに告げる。

 「スズキ、ここに帰参せり。この五十一の戦装束を恐れぬならば、命を捨ててかかってこられよ」

 その眼光は、鷲よりも鋭く、冷たく。
 敵兵はただ悲鳴を上げ、無様に地を這って遁走せり……』

 サムライ、スズキ。
 数多の伝説に彩られた、驚愕の男。
 ただ拳を握るだけで敵将の息の根を止め、無数の矢と弾丸を素手で受け止めて投げ返し、飛来した隕石すらもその刀で打ち返したという、奇跡の男。
 しかし、その伝説の多さ故に、ジパングの人々すら架空の人物ではないかと囁き合っていた、孤高のサムライ。

 そんな彼が、ジパングの危機に現れた。
 故郷を守る盾となり、人々を奮い立たせる剣となるために、修行の地から舞い戻ったのだ。
 スズキは、傷ついた人々を励ますように、こう言った。

「もう心配は無用です。私の他にも、この国を愛する人々が帰って来たのです」



 前線基地の敵兵たちは、得体のしれない音を聞いた。

 いや、それは音と言うよりも、何かの悲鳴のようだった。
 西の方から響き渡って来るそれへと、無意識に視線を向けた彼らは、見た。

 何かが、自分達の方へ向かって飛んで来る。
 黒く、小さく、けれども恐ろしく禍々しい何かが。

 彼らの本能が告げる。
 あれは、マズい。あれは、ヤバい。
 あれは、間違いなく、取り返しが付かない。

 彼らは逃げようとした。
 しかし、一体どこへ、どれくらい逃げれば良いのか。

 そんな迷いと恐怖に取り憑かれた彼らの直中に、それは着弾した。

 常識や理解を超えた衝撃、振動、砂煙。

 しばらくの後、それらが収まった後に残ったものは、ただただ巨大な窪みだけ。
 そこにいたはずの敵兵も、そこに束ねられていたはずの武器も、そこに積まれていたはずの物資も、何もかも全てが跡形もなく消え失せていた。

 そんな風に、基地が一つ消え、二つ消え、三つ消え……。

 敵兵たちは、いつそれが自分達の所へ飛来するのかと恐れ慄いた。
 あれは、それは、一体何なのか。
 ジパングの秘術? 魔物達の攻撃? あるいは、未知なる自然現象?
 いいや、あれはそのどれでもない。何故かはわからないが、そう思う。

 あれは、人の力を超えた、しかし人の力によってもたらされた何かだ。
 この戦は、失敗だった。少なくとも、この戦に参加してしまった事は、失敗だった。

 帰りたい。自分たちの故郷へ帰りたい。
 けれども、自分たちはジパングに上陸してしまった。
 四方を海に囲まれた、逃げ出したくとも逃げ出せないこの国に。

 上官たちは言っていた。
 ジパングの者どもは、逃げ場をなくした鼠だと。
 あとはただただ、抵抗することも叶わず、我らに駆除されるのを待つだけの哀れな存在だと。

 果たして、本当に、そうなのだろうか。
 そもそも……落ち着いて考えてみれば、簡単な話なのだ。

 彼らに逃げ場がないということは、自分たちもまた、逃げ場のない場所に立っているということ。
 四方を海に囲まれた島に立つとは、つまりはそういうことであるはずなのだ。
 そういえば、ジパングには何かことわざがあったような気がする。
 追い詰められた鼠が、猫に対して牙を向くというような、何か、そんな……。

 その時、彼らの耳が、最も恐れていた音を捉えた。
 得体のしれない音を。
 南の方から響いて来る、何かの悲鳴のような、その音を。


 そうして、また一つ消え失せた基地から遠く離れた平原に、一人の男が立っていた。

 ジパング人離れした、彫りの深い顔立ち。
 一切の無駄と妥協を排除した、どこまでも美しく、徹底的に鍛え抜かれた鋼の肉体。
 そして、その手に握られた、一つのハンマー。

 三角形の把手、太い鎖、先端の鉄球。
 ……否、それは本当に鉄球なのか。
 それはどこまでも黒く、どこまでも重く、どこまでも規格外の力が込められた謎の物体。
 常人では持ち上げることはおろか、引き摺ることすら叶わない巨大な質量。

 男は、「ふぅ」と一つ息を吐くと、それを持って回転し始めた。
 一、ニ、三……増えていく回転数と共に地面がえぐれ、平原に異常な突風が吹き荒れる。
 そうして回転力が最高潮に達した瞬間、男はそれを手放した。

 飛んで行く。
 男の手から解き放たれたそれが、ハンマーが、飛んで行く。
 物理の限界を超えた異常物体に引き裂かれた大気が、得体のしれない金切り声を上げる。
 そう、敵兵たちが聞いたあの音は、大気が放つ断末魔の叫びだったのだ。

 東南の方向へ放たれた今日二本目のハンマー見送った男は、次の目的地へ向かって静かに歩き出した。
 彼の戦いは、続く。
 ジパングに仇をなし、罪なき人々に悲しみをもたらした敵を駆逐する、その日まで。

 一切の魔術、薬物に頼ること無く、己の肉体と精神のみで極限を超えて見せた、ハンマー使いの男。
 彼の名は、コウジといった。



 人々は、彼の事を『凡将』と呼んだ。

 十数年前、ジパングの海岸線に謎の軍船が襲来した時のこと。
 急遽、迎撃隊の将としての任務を与えられた彼は、ジパングの精鋭たちを率いて敵と向き合い……惨敗した。

 幸い、敵軍はジパングの本土へ上陸すること無く撤退したが、人々はその戦いの内容に失望し、大きな大きな非難の声をあげた。

 その気になれば、彼には多くの反論が出来た。

 前任者からの不完全な引継ぎ。
 未知なる敵に怯え、実力を出し切れなかったサムライたち。
 あれこれと口出しはするが、肝心な責任は何一つ取らない上層部。
 そして、自分たちの身の程を知らず、愚かなまでに美しい勝利を信じ、ただそれだけを要求した市井の人々。

 そんな戦いの裏側にあった苦悩を洗いざらいぶちまければ、彼は己の名誉を回復することが出来たはずだ。

 しかし、彼は何も語らなかった。
 全ての非難を受け入れ、時には脅迫すらも飲み込んで、黙々と指揮官としての修行を続けたのである。

 そうして時は流れ、指揮官として大きく成長した彼の元へ、一つの知らせが届いた。
 『外敵襲来。再び迎撃隊の指揮官として、戦地へ向かわれたし』

 彼は、迷わなかった。
 これは、自分の仕事だと。
 自分にしか出来ないことが、今、あるのだと。
 その苦しさも、難しさも、恐ろしさも熟知していながら、それでも彼は戦地へ向かった。

 前回の戦いにおいて、彼は孤独だった。
 何もかもが未知で、何もかもが手探り。彼を助けてくれる人など、誰もいなかった。
 だが、今は違う。
 彼には知識があり、経験があり、覚悟があった。
 そして何より、彼の傍らには、世代交代を果たした『世界』を恐れない若きサムライたちがいた。

 エイジ、ユウト、アツト、マヤ、マコト、ハジメ、ケイスケ、リョウ、そして二人のシンジ……。
 その他にもジパングを飛び出し、世界の強者たちと鎬を削る若者たち。
 さらに、ジパングで日々苦しい修行に明け暮れ、大きな力を蓄えた百戦錬磨の男たち。

 彼らは紺色の戦装束に身を包み、押し寄せる敵陣の真っ只中へと身を躍らせた。
 彼らの戦いは、決して洗練された華麗なものではなかった。
 けれども、心を一つにし、歯を食いしばって刀を振るうその姿は、間違いなく美しかった。

 そうして、彼らはやり遂げた。
 敵の大部隊を食い止め、数を減じさせ、遂にはそれを押し返したのである。
 
 始めはその存在と戦いに期待していなかった人々も、次々ともたらされる勝利の報に熱狂した。
 そして、見事な戦果を叩き出した紺色のサムライたちに惜しみない拍手を送り……将である彼に対し、その愛称を交えてこう謝罪したのである。

「オカちゃん、相済まぬ」



 敵軍の将は、次々と現れるジパングの英雄たちに恐怖した。
 けれども同時に、「まだまだ我らの優位は動かぬ」とも感じていた。

 確かに、英雄たちの力は全くの測定不能。
 その能力と存在は人間の域を軽く飛び越し、奇跡の領域に突入している。
 普通に考えれば、到底勝ち目など無い。そんな相手だ。

 ……だが、彼ら以外の人間はどうだろうか?
 ジパングに暮らすその他大勢の人々は、ごくごく普通の人間に過ぎない。
 そもそも、聞きしに勝る英雄たちとて、一晩で全ての人々を救い、ありとあらゆる状況を覆すことなど出来はしないのだ。

 ならば、自分たちの圧倒的な戦力を活用し、その他大勢の連中をきちんと始末してしまえば良い。
 英雄が人々の味方であるならば、その人々から順に片付けて行けば良い。
 そう、英雄たちが守るべき存在をひねり潰し、奴らから戦いの意義と意味を奪ってしまえば良いのだ。
 ただそれだけの話しなのだ。

 敵軍の将の考えは、正しかった。
 この戦いの序盤の再現。潤沢な兵力による、容赦なき進軍。
 英雄たちからの攻撃と被害をある程度覚悟した上での、徹底的な有象無象つぶし。
 英雄の存在を無意味に、人々の希望を無に返し、それでお終い。

 しかし、敵軍の将の考えは、甘かった。
 ごくごく普通の人間、取るに足らぬ存在、哀れな有象無象……そんな人々の粘りと結束力に、素晴らしい戦略を与える軍師の知恵を掛け合わせたとしたら?
 『戦場の百万手先を見通す男』と呼ばれ、不可能を可能にしてしまう、恐ろしい男がいるとしたら?

 ジパングには、そんな男がいた。

 四歳にして大天狗からその才能を認められ、さらに十四歳にしてその大天狗すらも超えてしまった稀代の軍師。
 平時は、寝ぐせ頭の穏やかな男。
 だが、一度戦が起これば、定石から奇想天外まで、ありとあらゆる戦略を瞬時に組み上げる恐怖の男。

 その頭脳と閃きは、戦場で発生する千変万化の事象を理解し、裏の裏のそのまた裏までをも掌中に収めてしまう。
 彼の前ではいかなる奇策も無意味となり、いかなる対策も効果を失う。

 その時、敵軍の将は知らなかった。
 彼が大きな地図を広げ、敵味方の位置関係を静かに見定めていたことを。
 平時の穏やかな表情は完全に消え失せ、その瞳にどこまでも冷徹な闘気を漲らせていたことを。
 既に、戦況を大きく揺り動かす三つの戦略を人々に授けていたことを。

 そして……彼の師である大天狗が、かつてこんな言葉を残していたことを。

『完璧なる調和と集中。その力を放ちし彼の眼は、人のものにあらず。その眼、巨獣すら屠る毒蛇の如し。敵、隠れること許されず。逃げること叶わず。命乞いの声届かず。ひと度、彼という名の毒蛇に睨まれし者、最早哀れなる生贄の如し』

 加えるならば、彼の戦略によって力を得たのは、人間だけではなかった。
 
 ドカドカと無遠慮な足音を響かせながら彼の元へとやって来た、金棒を担いだ鬼たち。
 その中心と思しき赤鬼が酒臭い息を吐きながら、戦略を練る彼に向かってこう言った。

「ひと暴れした後の酒を楽しむのも、悪くねぇかと思ってな。それに、よそ者にデカイ顔をされるのも面白くねぇ。アンタの知恵があるんなら、久々に面白ぇ喧嘩ができそうだ……ここはちょっくら本腰入れて、人間どもを手伝ってやるよ。で? 俺たちは何をどうすれば良い?」

 彼は、静かに微笑んで応えた。

「皆さんがいらっしゃるのを、お待ちしていました。大丈夫。既に未来は見えています」

 鬼 × 金棒 × 完璧な戦略 = ???
 ジパングの人間ならば、この式を見ただけで震え上がり、卒倒してしまうだろう。
 『荒ぶる神』として、ジパングの人々から畏怖と敬意の対象となっていた鬼たち。
 それも現在とは異なる遙か昔の、容赦なき怪物として生きていた、あるがままの鬼たちである。

 それはまさに、念仏を唱えることすら無意味な組み合わせ。
 あまりにも圧倒的で破滅的な、力と力のハーモニー。

 敵軍の将がその意味を知るのは、鬼たちが彼の元を訪れた翌日のことだった。
 敵将を絶望の淵に追いやり、人々に起死回生の策を与え、鬼たちをも魅了した毒蛇の軍師。

 彼の名は、ヨシハルといった。



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 そこで一度、老人は言葉を切り、『孫たち』の様子を見やった。

 妖狐とラミアは「ほぉ〜……」と、感心したようにため息をついている。
 ゆきわらしは左胸に手をやり、うっとりとした様子で瞼を閉じている。
 アラクネは右手で顎をさすりながら、推理中の探偵のような表情を浮かべている。

 そしてオークは、自分自身を抱きしめるように腕を交差させ、赤い顔で腰をクネクネさせながらこう言った。

「いヤ〜ん! もう、みんな強くて格好良くて、素敵すぎ! 私、そんな人のお嫁さんになりたい! 『ご主人様♪』って呼びたい!」

 自分よりも強い男を求め、それに付き従うことを良しとするオークの本能。
 幼い彼女の体内にも、その血と性はドクドクと音を立てて流れているようだ。

 そんなオークの姿に「ほっほっほ」と笑った老人へ、思案顔を浮かべていたアラクネが問いかけの言葉を放った。

「ねぇ、おじいちゃま。もしも……例えば、スズキとリリムさんが戦ったら、どっちが勝つの?」
「ほぅ。これはまた、難しい質問じゃのう」
「うん、あのね……」

 依然として腰をクネクネさせているオークなど眼中に無いといった様子で、アラクネが心配そうに言った。

「例えば、この大陸には、私たちのことが嫌いな人たちとか、国とか、色々あるでしょう? だから、もしも今、ジパングの英雄たちが私たちのことを嫌いになって、ケンカすることになっちゃったら、怖いなぁって……」

 その言葉に、オーク以外の三人がハッとした表情を浮かべる。

「うわぁ……それはちょっと大変だよねぇ」
「私たちが嫌いな人間って、すぐに戦争だーって言い出すんだよねぇ」
「で、でもでも、ジパングの人たちは、ずっとずっと昔から私たちと仲良しなんだよ?」

 一丁前に眉間に皺を寄せ、やれやれといった調子で呟く妖狐とラミア。
 そんな二人の言葉を打ち消そうと一生懸命なゆきわらし。
 問いかけを放ったアラクネは腕を組み、難しい顔をしてうつむいている。
 ……ちなみに、オークは何やら妄想を始めたらしく、一人で「いやん」とか「バカん」とか言っている。

「そんな心配しなさんな。お嬢ちゃんたちが案ずるようなことなんて、なぁ〜んにも起こりゃしないよ」

 ふとした不安から悩みの谷へ入りかけた幼い魔物たちを救い出す、朗らかな女性の声。
 自分たちの背後から響いたそれへと顔を向けた皆の表情が、一転して明るいものへと変わる。

「え……あ! ウメカお姉ちゃん!」
「あ、本当だ! ウメカお姉ちゃんだ!」
「あ、ウメカお姉ちゃん……こんにちは!」
「お久しぶりです、ウメカお姉ちゃん!」

 幼い魔物たちの声に「はいよ、こんにちは」と笑顔で答えて歩み寄り、背負っていた籠をドスンと地面に置いたその女性には……ふさふさした、縞模様の尻尾があった。
 いや、尻尾だけではない。
 下半身はモコモコした触り心地の良さそうな体毛に包まれ、頭にはぴょこんと突き出た一対の耳と、瑞々しい緑の葉っぱがある。
 ジパングのキモノを崩したような独特の衣装と、可愛い狸印の前掛け。足元は、これまたジパングのタビとポックリ。
 地面に置いた木製の籠には前掛けと同じ印が付けられ、そこには長短・大小様々な品物が収められている。

 ウメカお姉ちゃんと呼ばれた、気の強そうな、しかしどこか影のある美しい乙女。
 その姿は、ゆきおんなと同じくジパングにルーツを持つ魔物……刑部狸のそれだった。

 ウメカは「よっこいしょ」と言いながらゆきわらしの右隣に座り込み、ごそごそと籠の中を探り始めた。

「風に乗って懐かしい故郷の物語が聞こえて来たんでね。ここは一つ、ウメカ姉ちゃんも参戦してやろうと思った訳さ。ほいよ、姉ちゃんが厳選した美味しい飴だ。一人一本ずつどうぞ」

 そう言ってウメカは、棒付きの大きな飴を五本取り出した。
 鮮やかな三重の渦巻きが描かれたそれを見て、幼い魔物たちは「わぁ!」と声をあげる。
 ……と、その声にふと我に返ったオークが、瞳をパチクリとさせながら呟いた。

「……あれ? ウメカお姉ちゃんだ。どうしたの?」
「あっはっはっ! 一人でクネクネしてるかと思ったら、また随分な言い草だね。そんなことを言う子には、美味しい飴はあげないよ?」
「わわわっ! ごめんなさい、ごめんなさい! 欲しいです、欲しいです!」

 腕をブンブン振りながら大慌てで謝るオークに苦笑しつつ、ウメカは「はいよ」と飴を手渡してあげた。

「で、おじいちゃまにはこっち。山を三つ超えた先の湧き水で煎れた、素晴らしいお茶だよ。バフォメット謹製の魔法瓶で、最高に飲み頃の温度さね」
「おぉ、これは嬉しいのぅ。それでは、遠慮なく」

 ウメカは、老人が腰掛けるベンチの方へグイと身を乗り出し、お茶入りの魔法瓶を手渡す。
 老人はそれをきちんと両手で受け取り、微笑みと共に蓋を開ける。
 優しい湯気と共に漂うお茶の香りは、なるほど一級品であるようだ。

「で、さっき心配そうにしてたことだけどさ」

 「美味しいね」、「ホントだね」と囁き合いながらペロペロと飴を舐めている幼い魔物たちに向かって、ウメカが口を開いた。

「間違っても、ジパングの英雄たちがアタシたちに刃を向けることなんて無いよ。あの人たちは、この世に存在する全ての命を慈しむ心を持ってるからね。だからこその『英雄』なのさ」
「でも、他所の国の英雄とか勇者って、み〜んな私たちのことが嫌いなんでしょ?」

 唇を尖らせ、どこか拗ねたような口調で呟いたラミアに、ウメカは「あっはっは!」と笑って答える。

「そういうのは、教団やら反魔物主義やらの連中にとっての英雄であり、勇者なのさ。ズバっと言っちまえば、見てくれだけのニセモノだね。本当の英雄っては、あんなみみっちいモンじゃないよ」

 そうしてウメカはアラクネと視線を合わせ、いたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。

「お嬢ちゃんが言ってた、『スズキとリリムが戦ったら』ってのは……そうさねぇ。リリムでも、スズキを抑えこむのは至難の業なんじゃないかね」
「……そんなに強いの?」

 ウメカの言葉に、アラクネは信じられないといった調子で訊き返す。

「そりゃあもう、面白いくらいに。リリムの魅惑や誘惑の力も、スズキなら軽く跳ね返すんじゃないかねぇ。で、羽にサラサラとサインを書いて、『じゃあね』と笑って立ち去りそうな気がするよ」
「……そんなの、バケモノだよ」

 呻くような妖狐の言葉に、ウメカはくくくっと笑った。

「魔物であるアタシたちが言えた義理じゃないけど、確かにねぇ。でも、さっきも言った通り、彼らはこの世全ての命を愛し、自分自身が“本当に正しい”と思えることにのみ力を使うんだ。だから、大丈夫だよ」

 そこまで話した所で、ウメカはゆきわらしの方を見た。
 飴を舐めることをやめ、何だか悲しそうな表情を浮かべていることに気がついたのだ。
 自分の視線に気づいたゆきわらしへ、ウメカは表情で問いかける。
 「どうしたの? 何か気になることがあるの?」と。

「ずっとずっと昔のお話だから……英雄さんたちは、もうみんな天国へ行っているんだよね。私、一度でいいから、英雄さんに会いたかったな」

 これは過去の話だ。
 それ以前にこれは伝承なのだから、実際にそんな人間は存在しなかったのかも知れないのだ。
 だから、いちいち悲しむ必要など無いのだ。

 人や魔物の心を解さない教団の人間ならば、ゆきわらしの言葉をそんな風に蹴り飛ばしていただろう。
 だが、ゆきわらしの言葉を正面から受け止めたのは、刑部狸のウメカだった。
 同じ魔物であり、また同じジパングの血を持つ彼女にとって、ゆきわらしの思いは痛いほど理解できるものだった。

 ウメカは、ゆきわらしの頭を優しく撫でながら言った。

「そうだね……でもね、アタシは信じてるんだ」

 その言葉に、ゆきわらしは不思議そうな表情を浮かべる。

「ジパングの英雄たちは、きっと今も生きてるって。生きて、この世界の何処かを旅してるって。そして、困っている力なき人々のために、その力を分けてあげてるんだって」

 そこでウメカは、ゆきわらしの頭から手を放し、パチっと魅力的にウインクをして言った。

「だって、ジパングの、アタシたちの故郷の英雄だよ? そんじょそこらの連中とはワケが違うんだから、この『世界』そのものが彼らを特別扱いしてるはずさ!」
「うん……うんっ! そうだよね! きっと、絶対、そうだよね!」

 飴の棒をぎゅっと握り締めながら、ゆきわらしは何度も何度も頷いた。
 ウメカもニッコリ笑って、もう一度ゆきわらしの頭を撫でてあげた。
 そんな二人の遣り取りを、老人と四人の幼い魔物たちは優しい気持ちで見守っていた。

「さぁて……それじゃあ、ジパングの英雄物語、その続きといこうか。このウメカ姉ちゃんが、素晴らしいお話をたっぷりと聞かせてあげようじゃないか!」

 ポンと小さく手をうって、ウメカの語りが始まる。
 幼い魔物たちは瞳を輝かせて彼女の方へ身を乗り出し、老人は美味しいお茶を楽しみながら穏やかに耳を傾けた……。



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 空は、美しい茜色に染まっている。

 老人とウメカは肩を並べてベンチに座り、流れる雲の行方を眺めていた。
 五人の幼い魔物たちは、つい先程、それぞれの家へと帰って行った所だ。

「いい子たちだね」

 ぽつりと、ウメカが言った。

「そうじゃろう。素直で可愛い、いい子たちじゃよ」

 老人は、自分の孫が褒められたかのように、とても嬉しそうに応えた。

「人の話にきちんと耳を傾けて、考えて、質問できて、帰り際には『今日は、ありがとうございました』とお礼を言って。それぞれ個性の違いはあっても、親御さんの躾がちゃんとしてるんだろうね」
「うむ。人間も魔物も、根っこの所にある『大切なもの』は、全く同じなんじゃよ」

 老人の言葉に、ウメカは「そうだね」と頷き、軽く首を回した。

「で? あなたの子供たちや孫たちの調子はどうなの?」

 老人の横顔に視線を向けながら、砕けた調子でウメカが訊ねる。

「おかげさまで、みんな元気じゃよ。来月は、隣町から末の娘が孫たちを連れて遊びに来る予定になっておってな。また騒がしくも楽しい数日を過ごせそうじゃ」

 そう言って老人は、「ほっほっほ」と愉快そうに笑った。
 それを聞いたウメカは「そっか」と呟き、再び首を回す。
 すると、その仕草を見た老人が、「おやおや」といった表情でこう訊ねた。

「首筋を痛めたのか? それとも、お疲れかな?」
「ん〜、若干お疲れ、かな。実は、三日前まで、西の反魔物国家の方に行っててね。頭が悪くて口が臭い貴族の財産を、徹底的に毟り取って来たんだよ」
「ほぅ。それはまた、ご苦労さんじゃのぅ」

 老人からの労いの言葉に、ウメカはくくくっと笑って頷いた。

「反魔物主義とか、教団とか、あっちの連中は何時まで経っても進化しないモンだよ。本当、あなたの若い頃はもちろん、アタシが死んだ後でも、連中はず〜っと連中のままなんじゃないかね」
「ふむ。まぁそれが、彼らの生き方なんじゃろうなぁ」

 ウメカは無言で頷いた後、「う〜ん!」と声を発して手足を伸ばした。
 その拍子にキモノの脇から胸を包むサラシがちらりと覗き、前掛けの下からは桃色の下着が垣間見えた。

「これこれ。綺麗な娘さんがはしたない」
「あっはっは! こりゃどうも。おじいちゃまにも、たまには刺激が必要かと思ってね」
「お気遣いは有り難いが、ワシは少々歳を取り過ぎたようでのぅ。興奮よりも心配が先に立ってしまうんじゃよ」

 そう言って二人は顔を見合わせ、あははと楽しそうに笑い合った。
 そして、ふと真顔になった老人が、ウメカの顔を見つめながら言った。

「本当に、お前さんは変わらんのぅ。昔と同じ、綺麗なままじゃ」

 その言葉に、ウメカは肩をすくめて応えた。

「あなたも、何も変わらないさね。昔と同じ、一途というか、頑固というか」
「ほっほっほ。外見はこんな風になってしもぅたがのぅ」
「別に良いじゃない。それが人間ってモンでしょう?」

 綺麗に禿げた頭を撫でながら、老人が微笑む。
 ウメカもまた、からかいや皮肉ではなく、本心からの言葉と共に微笑む。

 そこで二人は言葉を切り、再び流れる雲の行方を眺めた。
 今から五十年以上前の、お互いが出会った日のことを思い出しながら。



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 老人が二十歳の頃、一つの戦争が起こった。

 小さな親魔物主義の国に、大きな反魔物主義の国が攻め込んだのだ。
 侵略の名目は、【邪悪なる魔物からの解放】。
 神の名のもとに行われる、魔物によって汚された哀れな小国の救済……という話である。

 もちろん、実際の目的はそんなお題目とは全く別の所にあった。
 反魔物主義の国が狙ったのは、相手が持つ豊富な地下資源。ただそれだけだった。

 国力が大きく異なる両者の戦いは、数日のうちに決着がつくかと思われた。
 しかし、予想に反して、戦闘は膠着状態に陥った。
 親魔物国家の人々は高い練度と団結力を武器に戦い、しなやかで美しい魔物たちも惜しみなく彼らを支えた。
 さらに、同盟関係にあった親魔物主義の国々が多くの精鋭部隊を送り込み、徐々に戦況を押し返し始めたのである。

 焦った反魔物主義の国は、さらなる物量で相手を押し潰そうとしたが、そこに思わぬ落とし穴が潜んでいた。
 距離と時間を短縮するため、戦闘用の物資の一部を密かに中立国経由で輸送していたことが露見してしまったのだ。
 後に、この出来事の裏側には、魔王軍から派遣された特殊部隊の活躍があったと言われているが、真実は未だに霧の中である。
 とにかく、攻め込んでいた親魔物国家の数倍の国土と軍事力を持つ中立国はこの行為に激怒し、強烈な経済制裁を即座に発動させたのだった。

 ジリジリと押し返される戦線。
 予想外に発生した経済制裁のダメージ。
 『わざわざ来てくれた可愛いお婿さん』として、次々と魔物に犯されていく兵士たち。
 さらに、広がり続ける「この戦いに意味はあったのか?」という疑問と、重たい厭戦の空気。

 収束することのない、そうした数々の要素に、反魔物主義の国は耐え切れなくなった。
 結局、その戦争は開戦から二十七日目に、反魔物主義の国の敗北という形で決着した。
 勝利した小さな親魔物主義の国において、この戦いが『一ヶ月戦争』と呼ばれている所以である。

 そして……若き日の老人とウメカが出会ったのは、その二十七日目。
 終戦と戦闘終了が告げられた、一時間後のことだった。


 彼は、親魔物国家:同盟軍の一員として、そこにいた。

「つまりはまぁ、戦場ってのは地獄なのさ。騎士の誇りも、剣士の誉れも、クソの役にも立ちゃしねぇ。人間同士が武器や魔術を持って向かい合う、最低最悪の場所なんだ。でも、いざとなったら、俺たちはそこへ行かなきゃならねぇ。まったく、エラい仕事を選んじまったもんだよな」

 その時、彼はそんな言葉を思い出していた。
 あれは確か、夏場の訓練が終わった日のこと。
 所属する部隊の隊長が煙草を吹かしながら、何とも言えない顔で語っていたのだ。

「あ……う……」

 彼は、地面にうつぶせになって倒れていた。
 何とかして立ち上がろうとするが、体が全く言うことを聞いてくれない。
 両目を開けているはずなのに視界は普段の半分にも満たず、腰から下の感覚も消え失せている。

「う……が……」

 終戦と戦闘終了の知らせを受けた彼の部隊は、味方部隊との合流地点に向けて歩を進めていた。
 森を通って、小川を跨いで、木立を抜けて、美しい花が咲く平原に差し掛かった所で、異変が起こった。

 先頭を歩いていた、部隊一お喋りで気の良い同僚が、余裕のない甲高い声で叫んだ。

「散開しろっ! 魔方陣だっ!!」

 だが、同僚の叫びはわずかに遅かった。
 平原に描かれた大きな魔方陣は彼の部隊全員をその円内に収め、不気味な黄色の光を放っていた。
 耳を通って脳に突き刺さるような、キィィィィンという高い音。
 彼が思わず兜越しに耳を抑えた瞬間……大爆発が起こった。

 それは、終戦を認めず、戦闘終了を受け入れなかった、敵の魔法部隊の仕業。
 平原に足を踏み入れた者を無差別に爆殺することを目的とした魔術。
 彼が所属していた部隊は、彼を含めて僅か四名の生存者を残し、消えた。

 彼が生き残ることができた理由は、一つ。
 故郷で彼の帰りを待つ、一つ年下の恋人がくれた防護符が、その効果を発揮したのだ。

 戦地へと赴く前日、恋人は彼の元を訪れ、古ぼけたその防護符を渡しながらこう言った。

「これは、私のお祖父ちゃんがお祖母ちゃんから貰った防護符なの。お祖父ちゃんも若い頃、戦争に行ったことがあってね……。『私は、この防護符のおかげで帰って来れた。だから今度はお前が、これを愛する彼に渡してあげなさい』って」

 言葉を紡ぐ間に感情がこみ上げてきたのか、最後はすっかり涙声になっていた。
 彼は微笑みと共に両手でその防護符を受け取り、「ありがとう」と言った。

「お願い……生きて、生きて帰って来てね。私を一人ぼっちにしないでね」
「もちろん。何があっても、僕は死なない。生きて帰って……君と、結婚する」

 そして二人は、強く強く抱き合った。
 交わした誓いが、どうか現実のものになりますようにと祈りながら。


「チっ……何てこったい。こいつは酷いね。おい、しっかりしな。息、してるんだろう?」

 どれくらいの間かはわからないが、彼は意識を失っていた。
 何処かで誰かに呼ばれているような気がして、ゆっくりと瞼を開けると、ふさふさした縞模様の尻尾が見えた。

「よし、意識はあるね。とりあえず、根性でこいつを飲み下しな。ちょっとでもいいから、頑張りな!」

 そう言うと声の主は彼の口をこじ開け、何やらドロリとした物を流し込んだ。
 それは恐ろしく甘い、物体と液体の中間にあるような、正体不明の何かだった。

「生きてるのは、四人だけかい……まったく! よくもまぁ、こんなクダラナイことをするもんだ!」

 声の主は苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるようにそう言った。
 彼は、ぼんやりとした狭い視界の中で、その時初めて、声の主が魔物であることに気がついた。
 ただ、彼女が何という魔物なのかは、わからなかった。
 獣人型ではあるけれど、あんな姿の魔物は見たことがない。

「あんたたち、アタシの声が聞こえてるかい!? 今から救難要請の狼煙を上げるからね! すぐに救援隊が来るから、死ぬんじゃないよ!!」

 そう叫んだ魔物は背中の籠を地面に下ろし、そこから色のついた玉を二つ取り出した。
 それを力任せに地面に投げつけると、もうもうたる紅白の煙が噴き出し始める。
 二本の煙は音もなく、しかし複雑に絡み合いながら空へと昇って行く。

 あぁ、これで、助かるのかな。
 魔物の背中と尻尾越しに見える煙を見ながらそう思った彼は、再び意識を闇の中へと落としていった。


 中程度の火傷が三ヶ所。骨折は腕や足や肋骨など、全身八ヶ所。
 しかし、内臓へのダメージは、適切な応急処置により最低限に抑えられた模様。
 また、予断を許さぬものの、現時点において深刻な脳へのダメージは認められず。奇跡的なり。

 野戦病院に担ぎ込まれた彼のカルテには、従軍医師によるそんな走り書きが残されていた。

「本当に、何とお礼を申し上げれば良いのか……」
「あぁ、別にどうってことはないさね。アタシは、あの時たまたま居合わせただけなんだからさ」

 あの出来事から二週間後、後送された病院のベッドに横たわりながら、彼は感謝の言葉を伝えた。
 それに対して、彼と生き残った仲間を救った魔物……刑部狸のウメカと名乗った彼女は、事も無げに肩をすくめて笑った。
 しかし、彼女はすぐにその笑いを消し、眉間に皺を寄せながら口を開いた。

「あの魔方陣を仕掛けた連中は、昨日拘束されたそうだよ。あちらこちらで似たようなことをやって、被害者を出し続けてたみたいだね」
「そう、ですか」

 彼女の言葉に、彼は乾いた声で応えた。
 犠牲になった友人や先輩、そして部隊長の顔が、脳裏に浮かんでは消えていく。
 彼はこみ上げる涙を堪えるために、ぎゅっと強く瞼を閉じた。

「あと、上の立場の人からの伝言。あなたの故郷の家族には、あなたの状態がきちんと報告されてるから安心しなさいと。動ける状態になったら国が迎えを出すから、それまでは養生してなって」
「……はい」

 涙声の返事に、彼女はふぅと深いため息をもらした。

「臭い同情なんて欲しかないかも知れないけど……泣きたい時には、泣けばいいさね。手が動かないって言うんなら、アタシが拭いてあげるからさ」
「……はい」

 そうして、閉じられた彼の瞼から、ポロポロと涙がこぼれ始めた。
 彼女は何も言わず、若草色の綺麗なハンカチで、言葉通りにそれを拭いてあげた。
 彼が落ち着き、瞼を開くまで、何度も何度も、拭いてあげた。


 翌日から、彼女は日々かかさず彼の病室を訪れるようになった。
 生き残ったことの意味や罪悪感に押し潰されそうになっていた彼にとって、彼女の存在は大きな救いだった。

 二人は、色々な話をした。

 彼女は、日々の社会情勢から自分の籠の中身に至るまで、多種多様な話を面白おかしく、けれどもとてもわかりやすく話した。
 一方彼は、故郷や家族、そして自分の帰りを待ってくれている愛しい女性の話を訥々と伝えた。

「へぇ〜、なるほど。恋人からの防護符ねぇ。それは今、ここにあるのかい?」
「はい。そこの……引き出しの一番下に、入ってると思います」

 彼は、ベッドサイドに置かれた物入れを見ながら言った。
 その言葉を受けた彼女は、「ほほぅ、どれどれ」と言いながら引き出しを開け、破れて半分になってしまった防護符を取り出し、しげしげと眺め始めた。

「あ〜、はいはい……って、おぉ!?」
「え、どうしたんですか?」
「これ、あなたの恋人さんがくれたって? お祖父ちゃんから譲り受けたものを?」
「あ、はい……」
「へぇ〜。こりゃ、驚いた。一体、どういう経路でここまで来たんだろうかね」

 いつも怪しげな光を湛えている彼女の瞳が、今は純粋な好奇心によってキラキラと輝いている。
 彼は、その無邪気な少女のような表情に驚きながら、次の言葉を待った。

「これは、ジパングで作られた護符さね。それも、龍様が直々に筆をとって描いたモンだ。ひやぁ〜、まいったねぇ。こいつはとんでもないお宝だよ」
「え、リュウ……?」
「あ、こっちの人にはわからないか。ん〜、『西方のドラゴン、東方の龍』って言えばわかりやすいかね。天候すらも操るジパングの魔物……と言うか、神様に近いような存在さね」

 その言葉に、彼は思わず「どうしてそんな凄い物が」と呟いた。
 それに対して彼女もまた、「さぁ、アタシが知りたいよ。そんなことは」と呟いた。
 すると次の瞬間、彼女の瞳にいつものような怪しい光が宿り、口元にニヤリとした笑みが浮かぶ。
 容赦なき暗殺者のようなその顔に、彼は一瞬、寒気を覚える。

「ねぇ、一つどうだい? アタシに命を助けられたことが有難いって言うんなら、こいつを譲っちゃくれないかね? 恋人さんとの大切な絆の品ってのはわかってるが……ねぇ? どうだい?」
「あ、はい。どうぞ」

 彼女からの提案に、彼はあっさりと同意した。
 そのあまりにも抵抗のない言葉に、彼女は思わずズッコケてしまう。

「あ、あれ? 本当に良いのかい? 後から返せって言っても、絶対に返さないよ?」
「はい、わかっています。命の恩人に対する、せめてものお礼ですし……きっと彼女も、『もちろんどうぞ』って言う筈ですから」

 彼の返答に、「ほほぅ〜。愛の力だねぇ」と言いながら、彼女は前掛けのポケットに素早く護符を押し込んだ。
 その妙な速さに、彼は思わずクスりと笑ってしまう。
 しかし彼女は、そんな彼の様子に構うこと無くこう言った。

「所々掠れてたり、破れてたりして力は弱まってるけど、龍様の護符は半端じゃないんだ。あなたが生き残ったのは、私の力じゃなく、愛する彼女のおかげさね」

 そして彼女は立ち上がり、足元に置いた籠を「よいしょ」と背負った。

「あ、帰られるんですか?」
「あぁ、帰るよ。ジパングには『人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ』って言葉があってね。アタシは馬鹿をからかうのは好きだけど、恋人同士を邪魔する趣味はないのさ……ね?」

 そう言って彼女は、病室の入り口に向かってウインクを飛ばした。
 「どういうことだろう?」と思った彼がウインクの先へ目をやると……そこには、故郷に居るはずの恋人が、万感極まった表情で立ち尽くしていた。

「あ……」

 彼が何かを言うより先に、恋人は病室へ飛び込み、横たわる彼の首にしがみついた。
 そうして、何度も何度も「良かった……良かった……!」と繰り返した。
 しがみつかれた痛みと、首元にかかる恋人の吐息。髪から漂う懐かしい匂い。
 やがてそこに涙の粒の感触が加わると、彼の瞳からも自然と涙が溢れ出た。

 彼女は……ウメカは、いつの間にか病室から消えていた。


 人、物、金が短期間に激しく動く戦争は、刑部狸にとって絶好の稼ぎ時だった。

 もちろん、彼女たちが狙うのは、頭が悪いクセにたっぷりと財を貯め込んでいる、反魔物主義の連中である。
 魔物一と名高い【人化の術】を駆使して様々な場所に深く入り込み、目当てのモノを徹底的に絞り取るのだ。

 件の『一ヶ月戦争』においても、ウメカは戦地に入り込み、様々な形で反魔物主義の財を奪っていた。
 首尾は上々、戦争はそろそろ終了……ならば、ぼちぼち引き上げ時か。
 そう考えた彼女は、一般の街道を外れた山道を一人で黙々と歩いていた。

 大きな爆発音と魔力のうねりに驚愕したのは、まさにその最中のことだった。

 その場所へ駆けつけたウメカが見たものは、この世の終わりのような光景。
 草木は残らず吹き飛び、大地はえぐられ、兵士たちが身に着けていたと思われる装備品の破片が飛び散っていた。

「何てこったい……」

 ウメカの口から、無意識にそんな呟きが漏れた。
 あぁ、何てこったい。
 これが人間のすることかい。
 人間は、こんなことが出来てしまうのかい。

 怒りとも焦りともつかぬ感情を胸の中に抱きながら、ウメカは生存者を探した。
 そして、バラバラの場所に吹き飛ばされている四人を見つけ出し、応急処置を施したのだ。

 その中の一人に……二十歳になっているかいないかの若い兵士がいた。
 彼は何度も何度も、うわ言を言っていた。

「セシリア……帰るよ……僕は……セシリア……僕は……」

 セシリア。恐らくそれは、彼の恋人の名前なのだろう。
 若い二人は戦争によって離れ離れになり、彼は生きて帰ることを彼女に誓ったのだろう。
 それは間違いなく、彼らにとって、この世全ての金よりも重い誓いなのだろう。

 その事実を理解した瞬間、ウメカの心に鈍い痛みが走った。
 戦争とは、一体何なのか。命とは、一体何なのか。愛情とは、絆とは……?
 そして何より、この戦争の中で暗躍している自分とは、一体何なのか。

 自分は、魔物だ。刑部狸だ。
 そうして生まれたからには、自分は自分として、そうして生きるだけのことなのだ。
 けれども、自分にはその他に何があるのだろうか。
 例えば、生と死の境界にありながらも、愛するセシリアとの再会を願い続けているこの兵士のような何かが、自分にはあるのだろうか。

 ……結局、その答えはよくわからなかった。
 とりあえず旅の予定を変更し、その若い兵士の面倒を診てみることにした。

 彼は仲間を失った衝撃に涙し、苦しんでいた。
 体の傷は、時間が経てば癒える。しかし、心の傷はそう簡単なものではない。
 だが、それでも彼は踏ん張っていた。頑張っていた。
 その一番の原動力は、やはり愛する人との再会を夢見る気持ちなのだろう。
 そして、この戦争ではそんな思いを胸に抱きながら、それが叶わなかった人間が大勢いるのだろう。

 そう考えたウメカは、二つの行動に出た。
 一つは、反魔物主義の連中から奪った財を、攻め込まれた親魔物国家の復興や、戦傷者への療養機関に全て寄付すること。もちろん、匿名で密かに。
 もう一つは、彼の帰りを待つ恋人……セシリアへ丁寧な手紙を書き、彼の元へ来れるだけのお金と行程を渡し、伝えること。

 自分でも、一体何をやっているのだろうかと思った。
 けれど、それら二つの行動を済ませた後は、不思議と気持ちが軽くなった。

 世の中には、物事には、例外という奴がつきものだ。
 ならば、自分のように奇妙な刑部狸がいてもいいはずだ。

 開き直りと笑われても、それはそれで構わない。
 自分は刑部狸として、これからも反魔物主義の連中から財を毟り取ってやろう。
 そうして集めた財を、人間と魔物の未来の為に惜しみなく使ってやろう。

 あと……彼とセシリアの未来を、最後まで見守ろう。
 彼らが結ばれ、子を成し、歳を取り、人生を終えるその日まで。

 それは間違いなく、刑部狸として全く必要のないこと。
 でも、自分として生きるために、是非とも学びたいこと。
 人と魔物の関係に、刑部狸と人間の男との関係に、こんな形があっても良い。

 世の中には、物事には、例外という奴がつきものなのだから。



┏━╋╋╋━┓  ┣━╋╋╋━┫ ┣━╋╋╋━┫ ┣━╋╋╋━┫  ┏━╋╋╋━┓



 茜色の時が過ぎ、空に夜の気配が漂い始める。

「明日、セシリアのお墓参りに行くよ」

 ウメカが、ぽつりと言った。

「ありがとう。彼女も喜ぶよ」

 老人……彼は、静かに応えた。
 そして、ふと微笑み、言った。

「末の娘が遊びに来た時は、孫の相手をしてやってくれるかね。みんな、『ウメカお姉ちゃんに会いたい』と言っているそうだから」

 ウメカは、今日何度目かのくくくっという笑いを漏らした。

「あぁ、良いよ。喜んで。あなたの子供のおしめを替えて、今度は孫のおしめも替えて。ウメカお姉ちゃんは、モテモテだぁね。まいったまいった」

 そう言ってウメカはポンと膝を叩いて立ち上がった。

「さ、そろそろ今日は解散だね。アタシはもうひと仕事する予定があるから、行ってくるよ。おじいちゃまも、風邪引かないように気をつけな?」
「うむ、そうじゃのう。この年で風邪をひいたら、そのままポックリ逝ってしまいかねん」
「おいおい、縁起でもないねぇ。そんなこと言ってたら、セシリアに怒られるよ」

 そう言って二人は顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出した。
 ベンチから見て、ウメカは左に。彼は右に。

「それじゃあ、さようなら」
「あぁ、さようなら」

 優しく、にこやかに別れの言葉を口にして、二人は歩き出す。
 明日もまた、穏やかで素敵な一日になることを願いながら。
12/04/11 04:42更新 / 蓮華
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■作者メッセージ
どうもお久しぶりでございます。
半年と少しぶりの蓮華でございます。

相変わらず、時間の無い余裕不足な生活をしておりまして……。
魔物娘さんに関するあれやこれやを考えることが、心のオアシスとなっております。

前回のあとがきでは、『ユニコーンかワーシープ、あるいはグリズリーなんかを予定』と
書いておりましたが、蓋を開けたら形部狸さんが登場いたしました。

「何だかんだ言いつつも、形部狸さんは義理と人情に厚くて、
 子供には優しい魔物さんなんじゃないかな?」

……という自分のイメージを好き放題に押し広げてみました。
いかかでございましょうか?



さぁて、春夏秋冬ひとつずつのお話を書こうと思ったこのシリーズですが、
春と夏だけでえらい時間を要してしまいました。
次は秋ですが……う〜んどうしましょうか。

……え? 何ですか、ナドキエ社長。
あぁ、はいはい。この紙を読みなさい、と。


「どうも皆様、お久しぶりです。
 ナドキエ編集&出版社 社長 カタリーナ・ナドキエでございます。

 『魔物と結婚した皆さんへ、50の質問 2』に関しまして、
 50の質問が完成いたしました。これから、世界各地の魔物娘ちゃんと
 結婚した旦那様へ、随時発送&回収の予定でございます。

 『2』行きますよ〜♪ ひゃっほ〜い♪」


……あぁ、社長ったら勇み足。

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