連載小説
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旅をする人。
 春の日の午後。
 ベンチに、一人の青年が腰掛けている。

 年の頃なら二十歳と少し。
 足元に旅人たちが好んで使う大きなザックを置き、若干くたびれてはいるが動きやすそうな衣服に身を包んでいる。
 髪は短く刈られ、顔にはおよそ二日分程度と思しき無精髭が伸びている。

 そんな彼が、ぼんやりとどこか疲れた様な表情で、街を見下ろしている。
 次の目的地について考えている風でも、旅に飽きてしまった風でもない。
 ただ、何かを考えているような。そしてその考えが、すっかり行き詰ってしまったような。
 そんな、何とも言えない雰囲気を漂わせている。

 空は、雲ひとつない快晴。時折、気持ちの良い風も吹いて来る。
 旅人にとってはまさに最高の天気であるはずなのに、彼にとってそれは全く関係のないもののようで……。

「旅人さん、どうしたの?」

 そんな彼に、誰かが声をかけた。
 高くもなければ低くもない、落ち着いた大人の女性の声だった。

 彼は、その声の方へ顔を向け……一瞬、ビクりと体を震わせた。
 何故ならば、そこに立っていた『人物』が、彼の予想とは全く異なる姿をしていたからだ。

 青い肌と淡い銀の髪。
 額から突き出た二本の角。
 胸と腰まわりを隠すだけの虎柄の布。

 そこに立っていたのは、黒縁の眼鏡をかけたアオオニだった。
 魔物友好国のこの国でも珍しい、ジパングにルーツを持つ鬼亜人型の魔物である。
 買い物の帰りなのだろうか、右手には野菜や果物が入った袋を持ち、左手にはジパング文字が書き込まれた大きな瓢箪型の酒瓶を持っている。
 そんな彼女が、穏やかに小首をかしげ、彼に声をかけたのだ。

「あ、いや、えっと、あの……はい。大丈夫です。何でもありません」

 不意に声をかけられた驚き。その声の主が初めて見るアオオニだった驚き。
 その他複数の驚きが混ざり合って慌てた彼は、何とも締りのない返事をした。

「そう? なら良いんだけど。何だか、思い詰めたような顔をしてたから」

 彼女はクスりと小さく笑ってそう言うと静かに歩み寄り、一人分の隙間を開けて彼の右隣りに腰掛けた。それは、どこまでも自然な、無駄のない動きだった。
 だが、そんな動きに彼は大いに慌てた。
 三秒ほど「あわわわわ」という表情を浮かべた後、彼女が持っている荷物の存在に気づき、自分のザックをぐいと乱暴に引き寄せながら、ベンチの端へと飛び退いたのだ。
 その一連のドタバタを見届けた彼女は、口元に手を当ててクスクスと楽しそうに笑った。

「大丈夫よ。別にあなたを取って喰ったりはしないわ。命的な意味でも、性的な意味でも。ね?」

 そう言うと彼女は、自分と彼の間に荷物を置き、「ほら、これなら安心できるでしょう?」と表情で伝えた。
 そんな彼女の振る舞いに、彼の心もゆっくりと落ち着きを取り戻し始める。

 良く言えば、豪放磊落。悪く言えば、己の欲望最優先の傍若無人。
 オーガに類する魔物たちは、呼吸するように酒を呑み、遊ぶように闘争へ飛び込み、調教するように男に跨る。そんな気質の者がほとんどだ。
 だが、そんな中にあって、アオオニは少々特別な存在と言えるのかもしれない。
 オーガの一種らしく酒と男を好みはするものの、その性格は理知的で冷静。物事をきちんと見極め、時には暴走する仲間たちを厳しく諌めることもあるという。

 彼は、乱れた自分の姿勢を正しながら、心の中で呟いた。
 出会ったのが、アオオニで良かった。
 これがアカオニやオーガだったら、きっと今頃は大変なことになってただろうな……。

 はぁ、とため息をつきつつ、ポリポリと頭を掻く彼に、彼女が言った。

「もう見れば分かると思うけど、私はアオオニ。アオオニのコナツよ。よろしくね」

 そして彼女……コナツは、穏やかに微笑んだ。
 その表情を見て、あ、美人だな、と感じながら、彼も自分の名を告げ、ペコリと小さく頭を下げた。

「で、どうしたの? こんないい天気なのに、旅人さんがこんな所でボーっとして。財布でも落としたの?」

 コナツの問いかけに、彼は「いいえ」と答えながら首を振った。

「ちょっと、考え事をしてたんです。そしたら、何だかわからない事がどんどん増えて来ちゃって。これからの旅の目的とか、次に目指すべき場所とか、あれやこれや色々と」
「ふ〜ん……そうなんだ」

 彼は、視線を宙に漂わせながら言った。
 一方コナツは、そんな彼をしっかりと見つめながら、再び問いかけた。

「旅人さんに向かって変な言い方だけど……あなた、この辺の人間じゃないわよね? この国とか、国境を接してる周りの国とか、そういう『私たちみたいなのと仲良しの国』の人間じゃないでしょう?」

 コナツの言葉に、彼はギクりと表情を強張らせる。
 訛りのせいだろうか。あるいは、身に着けている物や荷物のせいだろうか。それとも、他の何かが彼女に勘付かせたのだろうか。
 これは良くない展開だ。何とかごまかして切り抜けよう。
 そんな事を考え、頭を全力で回転させていると……コナツが、それまでは違う一段低い声で言った。

「オニに嘘をつくと、ロクなことにならないわよ?」

 その警告めいた呟きに、彼の表情がさらに強張っていく。
 オニは、何よりも嘘を嫌う。オニは、どんな嘘も瞬時に見破る。
 そしてオニは、嘘をつく者に一切の容赦なく制裁を加える。
 いつか手にとった書物にあった、そんな記述を思い出す。

 それでも彼は、その場を何とかしようと考え……およそ四秒後にあきらめた。

「はい。仰る通り、僕はこの辺りの人間じゃありません。北西の……反魔物国家の人間です」
「なぁ〜んだ。やっぱりそうか」

 勇気を振り絞った彼の告白を、コナツはあっさりと受け入れた。
 「あ、あれ?」という表情を浮かべる彼に、コナツは左手をヒラヒラと振りながら言った。

「最初に私を見た時の反応から今の目の泳ぎ方に至るまで、あなたは何か『不慣れ』なのよ。たぶん、それでもだいぶマシになった方なんでしょうけど、『魔物慣れしてない感じ』がプンプンしてるのよね」
「……わかりますか?」
「えぇ、わかるわかる。あなたが魔物慣れしていない事も、それでいて魔物の事を決して嫌いじゃない事も、ね。オニの洞察力をナメてもらっちゃ困るわよ」

 そこまで言うと、コナツは「う〜ん!」と声を発しながら伸びをした。
 虎柄の布越しにも形の良さがわかる豊満な胸がポロリとこぼれ出そうになって、彼の心がドキリと高鳴る。

「で? 魔物嫌いの国の人間が、何で魔物好きの国にいるの? 魔物好きなのがバレて、国外追放の刑にでも処されたの?」

 ひとしきり伸びをした後、あくびをしながらコナツが言った。
 彼は、苦笑いして首を振りながら答えた。

「いや、そんなのがバレたら国外追放じゃ済まないですよ。今のあの国じゃ、良くて終身刑、悪くて死刑。もしくは、その中間……『再教育』という名の洗脳処分じゃないでしょうか」
「あらまぁ、それは大変ね」

 コナツは、ちっとも大変そうではない口調で呟いた。
 そして、自分と彼との間に置いた荷物をゴソゴソと掻き回し、美味しそうなリンゴを二つ取り出した。「ほら、お食べよ」とその内の一つを彼に放り投げ、自分のリンゴをガブリと豪快にひと囓りした後、コナツは静かに言った。

「私、ちょっとあなたに興味が湧いて来たわ。あなたがどんな人間なのか知りたくなったから、ここに至るまでの経緯をわかりやすく説明してよ」

 それはまるで、教師が生徒に指示を与えるような。
 あるいは、姉が弟に命令するような。
 もしくは、飲食店の客が馴染みの大将に料理を注文するような。
 そんな何気ない要素をすべて混ぜ合わせ、それでいて拒否する余地は与えない、不思議な圧力を伴った要望だった。

 冷静で理知的。しかし根っこにオーガの強気と力。
 なるほど、彼女はアオオニだ。
 ……彼は心の中で再確認しつつ、ゆっくりと口を開いた。



 大陸の北西に位置する、反魔物主義の小さな内陸国。
 主な産業は、農業と鉱石の輸出。
 教団の教えと主神への信仰を重んじ、他の反魔物国家とも良好な関係を築いている。
 彼の故郷は、そんな国だった。

『この世界の創造主たる主神様は、自らの姿に似せて我ら人間を創りたもうた。故に我々は全知全能の神であり、我らの父である主神様を愛し、敬い、信頼し、命続く限り祈りを捧げなければならない。そして、この世の理を汚し、犯し、冒涜する魔物たちを駆逐しなければならない。主神様の子である我ら人類は、その使命を決して忘れてはならない……』

 反魔物国家の定番とも言える教え、使命、主義主張。
 彼もまた、他の国々の子供たちと同じく、幼稚園児の頃から、そんな定義をたっぷりと教え込まれて来た。
 主神を讃える歌を歌い、子供用にわかりやすく翻訳された教義を説かれ、『主神様は、善。魔王は、悪。魔物を憎む国は賢く、魔物と仲良しの国は馬鹿』と、繰り返し叩き込まれて来たのだ。

 子供の価値観は、周囲の大人からの影響によって容易に染まる。
 いや、そもそも最初から「魔物は悪しきもの。汚らわしきもの」と唱え、全否定し続けるのだから、そんな神父や先生たちの言動に疑問を抱く子供など、そうそう現れるものではない。

 だが……彼は、そんな『そうそう現れるものではない』種類の子供だったのだ。
 彼の心の中にはいくつかの疑問がムクムクと湧き上がり、ある日とうとうそれを抑え切ることが出来なくなった。
 当時六歳だった彼は、こともあろうに教団の神父に向かって、こんな疑問をぶつけたのだ。


 僕、よくわからない。
 主神様がこの世界や僕たちを作ったのなら、どうして魔王や魔物も一緒に作ったの?
 主神様が僕たちのことを愛しているのなら、どうして僕たち近くにそんな危ないものを置いたの?

 僕、よくわからない。
 主神様は、この世全ての命を愛しているんでしょう?
 じゃあどうして、魔物たちは愛さないの? 愛してはいけないの?
 命ある者はみんな主神様の子供で、仲間で、ケンカしちゃいけないんでしょ?
 それなのにどうして、騎士団とか、魔術団とか、勇者様たちは血を流すの?

 僕、よくわからない。
 何でもかんでも、決めつけちゃダメなんでしょ?
 話し合って、分かり合って、友達にならなきゃダメなんでしょ?
 でも僕、魔物に会ったことがない。それなのに、『魔物は悪い!』って決めつけていいの?
 魔物って、本当に悪いの? 誰が本当にそうだって決めたの?

 僕、よくわから……


 彼の言葉は、そこで強制的に終了させられた。
 次々と疑問を口にする彼の頬を、神父が奇声と共に全力で張り飛ばしたからだ。
 神父は、為す術もなく吹き飛び、もんどり打って倒れた彼を無理やり引きずり起こすと、そのまま教会の隔離部屋へと放り込んだ。

 人生初の不条理な暴力を味わい、鼻と口から出血した彼は、ただただ呆然としていた。
 どうして殴られたのかがわからない。
 確かあの神父様は、暴力やケンカはいかなる理由があっても許しませんと。そんな事を言っていたような気がするのに。

 そして何より、この部屋に放り込まれた理由がわからない。
 だって、確かこの部屋は……悪魔や魔物に取り憑かれた人を治療するための、そんな部屋だったはずなのに。

 結局彼は、その後の十日間をその部屋で過ごすことになった。
 両親にも友達にも会えない十日間。
 それなのに、先生たちは次々と現れて、変なモノを見るような視線を投げかけながら、お説教ばかりしてくる十日間。
 偉い神父様たちが何人もやって来て、変な祈りと、お香の煙と、聖水をぶつけて来る十日間。
 そんなロクでもなく奇妙で、苦しくて、恐ろしい十日間を経験した彼は、その中で三つの事を学んだ。

 不思議に思っていることは、あまり口にしない方がいい。
 不思議に思っていることを口にすると、お父さんとお母さんが悲しんでしまう。
 あと、人から不思議な生き物を見るような目で見られることは、ものすごく悲しいことだ……。

 そうして彼は、大人たちへの疑問と魔物に対する興味を胸の奥深くに沈めて成長していった。
 そんな彼の様子に両親は安堵し、先生や神父たちは「悪魔に対する我らの勝利だ!」と喜んだ。

 本当は、違うんだけど……。
 そんな彼の呟きに気づく人間は、一人もいなかった。


 そうして月日が流れ、思春期と呼ばれる年齢に差し掛かった頃、再び彼の価値観を大きく揺さぶるような出来事が起こった。

 国王が突然の病に倒れ、帰らぬ人となったのだ。
 何の前触れも無くもたらされた訃報に国民は動揺したものの、王位は速やかに継承権第一位の人物……すなわち、国王の長男へと引き継がれた。

 一流の学び舎を卒業し、海外への留学経験もある秀才。
 少し体が弱いという声はあるものの、政治学と経済学に通じ、その才覚によって国にさらなる繁栄をもたらすであろうと期待されている人物。
 それが、新たなる王に対する人々の認識だった。

 そして、新たなる王によるその後の五年間の治世の中で、人々は知る事になる。
 自分たちの認識が半分正解で、半分不正解だったことを。

 新たなる王が行ったことは、二つ。
 一つは、その経済学の知識を生かし、国民を欺き、腰巾着の貴族や役人たちと共に着々と私腹を肥やしていったこと。
 もう一つは、その政治学の知識を生かし、噴き出しそうになる国民の不満を、巧妙に反魔物主義の鋳型へと流し込んでいったこと。

 国の財政が苦しいのも、皆の暮らしが楽にならないのも、それもこれもすべて魔物が悪いのだ。
 奴らが我ら人間の邪魔をし、大きな顔をしてのさばっているから、物事が上手く回らないのだ。
 そう、諸悪の根源として存在する奴らを根絶やしにする事こそが最重要なのだ。
 何故なら、奴らは主神様に仇なす怨敵なのだから。あの牙に、あの爪にやられる前に、奴らの首を刎ねようではないか。
 この国の軍事予算がその規模にそぐわぬと言う者がいることは、知っている。しかし、やらなければやられてしまうのだ。
 私は、問いたい。
 あなたの友が、家族が、愛する人が、あの汚らわしき魔物の餌食となっても良いのか、と。
 軍事費という機密性の高い金であるがゆえに、その流れの全てを皆に知らせることはできない。しかし、だからこそ王である私を信じて欲しい。私は主神様に誓って、不正など働かない。
 なぜならば、私は皆を、この国を、愛しているのだから!

 それが、『才覚ある人物』だったはずの王が行った治世の形だった。

 堅物だったけれども、「是は是、非は非」の姿勢を崩さず、現実に即した治世を行った先代が懐かしい……人々は皆そう呟いてため息を漏らし、年々重くなっていく税に追われながら生きるようになっていた。
 また、そんな現状に業を煮やし、王に対して様々な疑問や批判の声を上げる政治家や学者、学生たちも現れるようになった。そして、決して少なくはない数の人々が、その声に賛成の意思を示した。
 
 このままでは、取り返しのつかない状況に陥ってしまう。だから、何か行動を起こさなければ。
 人々の心の中には、そんな焦りにも似た感情が沸き上がっていたのだ。

 しかし……王は、直属の治安維持部隊を創設すると、そんな人々をあっさりと力で制圧していった。
 「魔王に汲みし、国家の転覆を企てる犯罪者に容赦など無用」と、次々に逮捕・拘束し、十分な裁判を行う事も無く裁いていったのだ。

 いや、それは最早『裁き』などと呼べるようなものではなかった。
 例えば、【取調べ中の突然の体調不良による病死】などという理由で、数十人以上の人間が命を落とすことがあるだろうか。
 例えば、【再教育施設による更生プログラムの成果】などという理由で、快活だった人々がまるで人形のように動きや表情を失ってしまうことがあるだろうか。
 何よりも、そんな現実を目の当たりにした国民が恐怖と共に沈黙し、王がその『成果』に満足するなどということが、本当にあっていいのだろうか。

 ……後に、人々の間で囁かれ、事実として認識されるようになった一つの説がある。 
 それは噂話でありながら、それを超えた説得力を持つ、こんな話だった。

《確かに王には、見事な才覚があった。
 だがその力は、若き日の留学経験の中で、今につながる奇っ怪な形へと歪んでしまったのだ。
 何故ならば、王が留学したその地には、悪いお手本がいっぱいいたから。
 王は純真であったがゆえに、黒く染まった彼の地の重臣たちに染められてしまったのだ。
 
 その国は、教団の都合で運営され、民の痛みや苦しみを顧みない『聖なる宗教国家』。
 数多の勇者と数多の貧民を生み出す、『神を愛し、神に愛されし庭』。
 私腹を肥やす術も、民の声を無視して殺す術も、魔物に全ての責任を押し付ける術も、王は彼の地で学んだのだ。

 あぁ、まったく何という事なのだろう。
 主神様の名のもとに、王は白から黒へと変わったのだ。
 それが主神様のご意思というのなら、我々はこの嘆きを誰に聞いてもらえばいいのだろう。
 こんなことならいっその事、魔王の所へ駆け込もうか。それとも、魔物たちを招いて聞いてもらおうか。
 あぁ、本当に、まったく何という事なのだろう。

 あんな国に留学さえしなければ、あの王は名君になっていたかもしれないのに。
 あんな、レスカティエなどという国にさえ行かなければ、もしかして……》

 彼の多感なる思春期の日々は、そんな数々の嘆きと矛盾を見つめながら過ぎて行った。


 そして、三ヶ月前。
 ついに、決定的な出来事が起こった。

 そのレスカティエ教国が、魔物の手によって陥落したというのだ。
 王は即座に、「これは魔王による事実無根の謀略である。決して信じてはならない」という声明を発表したが、国民の誰一人としてそれ信じる者はいなかった。

 教団の勢力として世界第二位の宗教国家が、魔物の手に落ちた。
 しかも、命からがら逃げ延びた商人や学者たちが言うことには、大規模な戦闘が起こることもなく、あっという間の崩壊だったという。
 また、別の旅人の話では、魔王の娘……リリムと呼ばれる一匹の魔物が軽く力を振るっただけで、高名な勇者たちが見る陰もなく堕落していったというではないか。

 そんな話を聞いているうちに、長らく胸の奥底に沈めていた悩みと疑問が、彼の中でざぶんと音を立てて浮き上がって来た。

 人間と魔物。
 本当に恐ろしいのは、どちらなのか?

 人間の暴君と好色なる魔王。
 真に穢れているのは、どちらなのか?
 
 勇者とリリム。
 神の祝福と魔王の血、より理があるのはどちらなのか?

 主神の国と淫魔の国。
 自分たちの信念により純粋なのは、どちらなのか?

 魔物に対する人間の考えと、人間に対する魔物の思い。
 より公平に相手を見つめ、求め、考え、行動しているのはどちらなのか?

 教団の意思と教えに従う反魔物国家と、自分たちの信仰と友情に生きる親魔物国家。
 人間らしい幸せと喜びを育んでいるのは、どちらなのか?

 そして、今までの自分と、これからの自分。
 このまま黙して悩み続けるのか、それとも答えを求めて立ち上がるのか?

 そうして、彼は決意した。

「このままでは、何一つわからない。解決しない。僕は、自分の足でこの世界を歩かなければいけない。自分の目と耳で、自分にとっての『真実』を記録しなければいけない。だから……だから、旅に出よう。たとえ途中で倒れることになったとしても、今の自分に必要なことは、旅の中にあるはずだ。いや、きっと、旅の中にしかないはずだ」

 成人し、農業研究の仕事に就き、両親とも仲良く暮らしていた。
 旅に出るということは、そんな日常を自ら捨て去るということに他ならない。
 特に、両親の前からは本当の事を告げること無く、まるで蒸発するように消えなければいけない。
 王が交代して以来、揺れ動き続けているとはいえ、この国は依然として反魔物国家なのだ。
 「魔物が本当に悪しき者なのか、この国や人々の考えが本当に正しいのか、それを確かめに行ってきます」などと、そんな事を伝えられるはずがなかった。

 彼の脳裏に、幼い頃の記憶が浮かぶ。
 心からの疑問を伝え、殴られ、閉じ込められ、解放された六歳の日のこと。
 自分を迎えに来てくれた両親が見せた、不安や喜び、恐れや親しみが入り混じった、あの複雑な泣き笑いのような表情。
 この旅の決意を告げれば、両親はあの時と同じ様な……いや、きっとあの時以上の、絶望に満ちた表情を浮かべることだろう。

 だから彼は、ありったけの金をかき集める間も、密かに旅の道具を揃える間も、何も言わず、告げず、ほんの些細な素振りすらも見せなかった。
 ただ一人だけ……子供の頃から兄と慕う、父方の従兄弟にだけは、本当の事を伝えた。

 彼の思いと言葉を受け止めた従兄弟はしばし沈黙した後、深く頷きながら言った。

「お前の気持ちは、わかるような気がする。叔父さんと叔母さんには、俺から何とか伝えてみるよ。だからお前は、しっかりと旅をして来い。男になって来い。それと……間違っても、死ぬなよ。いつか必ず、ここに帰って来いよ。お前の『家』は、世界で一つ、ここだけなんだからな」

 それは、旅立つ直前の出来事。
 彼は涙を流して従兄弟の優しさに感謝し、夜の闇に紛れ、盗人のように静かに『家』を離れた。

 世界を見つめ、疑問と向き合い、大きな人間になって必ず帰って来ると、そう心の中で何度も何度も繰り返しながら。



「ふ〜ん……なるほどね」

 彼が話し終えると、コナツは眉間に皺を寄せながらそう言った。
 食べ終えたリンゴの芯を手の中で弄びながらも、その表情はとても真剣だ。
 彼は、そんなコナツの整った横顔を見つめながら、次の言葉を待った。
 そうしてたっぷりと十分近い時間が経った後、コナツが口を開いた。

「あなた、なかなか大したもんね。あれこれ悩む人間は多いけど、実際に世界に向かって飛び出せる男なんて、そうそういるものじゃないわ。ましてや、魔物嫌いの国で育った人間が、ね」
「そう、でしょうか……自分では、よくわかりません」
「いや、自信を持っていいわよ。あなたは、大した男だわ」

 自信なさげに呟いた彼に、コナツはきっぱりと断定するような口調で告げ、さらに言葉を続けた。

「で? 魔物と仲良しの国はどう? いや、そもそもその前に、色んな魔物を見てどう思ったの?」
「そうですね……それはやっぱり、一言では言い表せないくらい衝撃的でした」

 彼は、今日に至るまでの道程を思い浮かべながら、ゆっくりと語り始めた。



 彼が歩んだ国の姿勢を順に並べれば、こんな感じになる。
 反魔物国家にも親魔物国家にも汲みしない中立国・中立国・親魔物国家・親魔物国家・親魔物国家。

 彼は、しみじみと思う。
 親魔物国家に入る前に、中立国を二つ経由して良かったと。
 そして自分の故郷が、中立国と国境を接していて良かったと。
 もしもそうでなければ、自分はショックのあまり心臓発作を起こして死んでいたかもしれない……彼は、半ば本気でそんな事を考えていた。

 彼が一番最初に目にした魔物は、中立国の広場で大きな露店を広げる行商のゴブリンたちだった。
 狡猾で邪悪と教えられていたゴブリンが立て板に水の如く見事な口上を並べ、多種多様な品物を人々に向けてアピールしている。
 その声に対して人々は自然と足を止め、何か良い物がないかと探したり、値引きの交渉を持ちかけたりしている。

 その光景を見た彼は、クラクラと目まいを感じて倒れそうになった。
 これは……全く普通の商店の、あるいはバザールの雰囲気そのものではないか。
 一般の人々と商人の、何の変哲もない日常の営みそのものではないか。

『魔物だからといって冷遇しないが、厚遇もしない。住みたければ住めば良いし、出て行きたければ行けばいい。その自由は大いに認める。しかし、社会を乱すような行いや、我が国の自治独立を汚すような愚挙に及んだ時は、ためらいなく張り倒すので、そのつもりで』

 彼が旅をした二つの中立国。その魔物に対する姿勢をわかりやすく表現すれば、そんな感じになる。
 一見すると魔物に対して冷たく素っ気無い対応のようにも思えるが、実はその存在と意思を認め、対等に扱う大人の関係とも言えた。

 教団の教えに従い、ただひたすらに魔物を悪しき者、憎き者、汚らわしき者として嫌悪し続ける故郷よりも、こちらの方が遥かに国としての精神年齢が高いのではないだろうか……。
 三ヶ月という時間をかけて二つの国を通り抜けながら、彼はそう思った。

 またその三ヶ月の間に、少しずつではあるが、彼の中に魔物への『慣れ』も芽生え始めていた。
 もちろん、最初の頃は魔物の姿を見かける度に「うわぁ、本物の魔物だ!」と心の中で叫んでいた。彼女たちと目を合わさないよう必死になっていたし、声をかけられた時には脱兎の如く逃げ出したりもした。

「……俺、何やってんだろ」

 旅へ出るに至った理由と矛盾する自分の行動に、彼は何度も落ち込んだ。
 慣れていないんだから、しょうがない。反魔物国家で生まれ育ったんだから、しょうがない。
 自分自身にそう言い聞かせても、背筋に流れる汗と無駄に早い鼓動は、なかなか治まってくれなかった。

 だが、そんな葛藤も、いつの間にか時間が解決してくれていた。
 グイと近くに寄って来られると、まだまだ腰が引けてしまうものの、ワーキャットが店番をしている果物屋でリンゴを買ったり、人間とウンディーネの夫婦が営むカフェでお茶を飲んだりと、それなりに自然な振る舞いができるようになったのだ。

 結局、基本は同じって事なのかな。
 故郷のモノとはひと味違うお茶を飲みながら、彼は思った。
 自分が相手を疑ってかかれば、相手も疑念を抱きながら向かってくる。
 自分が笑顔で挨拶をすれば、相手も朗らかな笑顔と挨拶を返してくれる。
 自分が何かを伝えたいと奮闘すれば、相手もその意思を汲み取ろうと耳を傾けてくれる。
 人間同士の付き合いがそうであるように、魔物との付き合いもそんなごく当たり前の、何と言う事はない一歩から始まるのかもしれない。
 頭でっかちにならず、目の前で起こる一つ一つの出来事をゆったりと見つめることが出来れば、自分はもっと色々な事を理解できるようになるのかもしれない……。

「お客様、お茶のおかわりはいかがですか?」
「へっ!? あ、う、や、は、はい、お、お願いします!」

 不意に、磨きぬかれた銀のポットを持ったウンディーネに声をかけられて、彼は飛び上がらんばかりに驚いた。
 ウンディーネはそんな彼の反応を見てクスっと笑いながら、温かいお茶をカップに満たしてくれる。

「それでは、どうぞごゆっくり」
「ん、あ、は、はい! あ、ありがとえございまふ!」

 ぎくしゃくした動きと噛み噛みのお礼を返しながら、彼は深く反省した。
 前言撤回です。『それなりに自然な振る舞い』なんて、まだまだ身についていません。毎日毎日、心臓バクバクです。ちょっと、カッコつけてみたかったんです。ごめんなさい。

 そんな情けない調子ではあったものの、彼の旅は順調に続いて行った。
 路銀を節約するため、食事は一日一食半。
 夜は安宿に泊まるか、やんちゃな魔物に手を出されないよう注意しながらの野宿で乗り切る。
 当然体重は軽くなったし、見た目も小汚くなってしまったが……そんな自分自身の変化が、彼には何だかとても心地良かった。
 旅の汚れが体に染み付くかわりに、心は長年の疑問や教団の教えから解放され、どんどん軽くなっていくような、不思議な感覚を味わっていたのだ。

 そうして歩み続けた彼は、遂に故郷とは正反対の考えの土地……親魔物国家へと足を踏み入れた。
 そして、思い知った。
 あぁ、なんて世界は広いんだろう。これは、本当にまいったなぁ、と。

 中立国では、魔物たちが『住人』として、あるいは人間の『隣人』として存在していた。
 しかし、親魔物国家での彼女たちはそこからさらに深く、【家族】・【友達】・【妻】・【相棒】・【恋人】などなど、人間にとって「そこにいて当然」どころか「いなければ困るし、さみしいよ」という所で生きていたのだ。

 例えば、最初に訪れた街で、彼が衝撃を受けたもの。
 それは、工務店の店頭に掲げられた幾つかの絵と解説文だった。

《素敵なケンタウロス属のお嬢さんと結ばれたあなたへ、二人の新生活をより素敵なものにするリフォームのご提案!》

《愛するラミア属の奥様のために、お肌に優しい新素材の床材はいかがですか?》

《ジャイアントアントの匠の技が、今ここに! 彼女たちとの業務提携を記念して、今なら素敵な地下別荘が驚きの価格であなたのものに!!》

 人間がいて、魔物がいて、出会って、恋に落ちて、結婚する。
 人間と魔物の間には、体の構造という違いがあるから、新居にも色々と手を加えたい。
 だから、工務店はそのための提案と、具体的なイメージを生み出すための絵と、詳細な解説文を掲げて商売をする。
 それを見た人間と魔物の夫婦は、「あ、これ素敵だね」と微笑み合いながら、店の中へと入って行く。
 それは、どこまでも必然的な仕組み。全く無理のない流れ。
 しかし、だからこそ彼は、深い納得と共に大きな衝撃を受けたのだ。

 そうか。そうだよな。うん、そりゃそうだよ。
 呆然と工務店の前に佇みながら、彼は心の中で何度も何度もそう呟いた。

 人間と魔物が共に暮らすのなら、こうした商売が必要だし、需要と供給が成り立つんだよな。
 違いを持つ者同士が日常を歩むのなら、それ用の準備や改装が必要なのは当然だよな。
 どうして今までの自分は、こんな当たり前のことに気が付かなかったんだろう?
 そうか。そうだよな。うん、そりゃそうだよ。
 あぁ、でも、こりゃたまげたなぁ……まいったなぁ……。

 旅をした三つの親魔物国家は、取り立てて裕福な国々ではなかった。
 しかし、どの国のどの街、どの村にも、のびのびとした活気と穏やかな空気が満ちていた。
 いつもどこかが暗く、何かが重い故郷の空気に対して、それはとてつもなく大きな安息を感じさせるものだった。

 例えば、朝。
 共に鞄を背負った人間の子供たちと魔物の子供たちが、手をつなぎ、歌を歌いながら学校へと駆けて行く。
 パン屋から出て来た人間の老夫婦は、袋から漂よう素敵な香りに微笑み合い、支え合うように歩みながら、家へと戻って行く。
 とある家の玄関先では、出勤する夫へラミアの妻が長〜いキスを送り、「早く帰って来てね!」と笑顔で送り出している。
 路地を歩きながら今日の訓練予定について語り合っている若い女性とケンタウロスの二人は、自警団に所属する団員同士なのかもしれない。
 広場ではゴブリンたちが忙しなく動きまわり、露店の準備を整えているが……その傍らで、椅子に座ったままのホブゴブリンが、かっくりかっくりと船を漕いでいる。

 例えば、昼。
 人間と雪女の夫婦が営む、安くて美味いと評判の定食屋の前には、人魔を問わない長い列が出来ている。
 公園の小さな噴水脇のベンチでは、弁当を食べながら恋の悩みを大声で叫んでいるサラマンダーと、苦笑いしながらそれに付き合う二人のミミックがいる。
 オープンカフェの一席で、ユニコーンの新妻に優しく手芸のいろはを教えている白髪の婦人は、彼女の義母なのだろうか。
 バサバサという賑やかな音に目をやると、ハーピーの運送屋が商店の前に降り立ち、荷物の受け渡しを行いながら、若い男性店員と親しげに談笑している。
 ジパングの物産品を扱う店の中では、二本のカツオ節を握りしめ、どちらにしようかと真剣に悩んでいるネコマタと、その様子を笑いながら見守る主人の男性がいる。

 例えば、夕方。
 開店したばかりの酒場の中では、早くもミノタウロスとオーガが絶好調で呑んでいる。
 惣菜屋では、人間の若夫婦にワーラビットの店員が今日のおすすめ品を紹介している。
 広場では、子供たちの遊ぶ様子を眺めながら、中年のご婦人方とラージマウスが、家計や献立のやりくりについて、互いの知恵を披露し合っている。
 額に大きな絆創膏を貼り、しょんぼりしている十代半ばの男の子。そんな彼の傍らで、懸命に励ましの言葉をかけているリザードマン。どうやら二人は、同じ道場に通う幼なじみのようだ。
 狭い路地から聞こえて来る声に耳を澄ませば、幼い妖狐が意中の男の子に「明日デートしようよ!」とおませなお誘いをかけている。

 例えば、夜。
 レストランの一席では、眼鏡をかけた凛々しい雰囲気の女性とアヌビスが、今後の仕事の展開について意見をぶつけ合っている。
 お気に入りの店で持ち帰りの料理を注文し、家への帰り道を歩く人間とホルスタウロスの夫婦は、穏やかに語り合いながら、仲良く手をつないでいる。
 「パパ、お帰り〜っ!」と叫びながら、仕事帰りの男性に飛びつくスフィンクスの子供は、本当に心底パパの事が大好きなのだろう。
 居酒屋のテーブルに旅行案内のパンフレットを広げている若い人間の女性とオークの二人は、卒業旅行について考える仲良しコンビのようだ。
 そして、隣の大衆酒場から響く大きな笑い声に目をやれば、すっかりごきげん状態のアカオニと、ドワーフと、おじさんたちが、何やらワイワイと騒いでいる……。

 彼は、思った。
 一体この日常の、営みの、交流の、どこに邪悪さや愚かさがあるというのだろう。
 もちろん、この国の日々にだって悩みはあるし、問題もあるだろう。笑顔で暮らす人達がいるならば、悲嘆と共にもがく人々だっているはずだ。
 しかし、そうした明暗や喜怒哀楽は、人が人として生きる中で自然に存在するもののはずだ。
 少なくとも、そこには教団の主張にあるような、魔物による害や堕落などは関係ないはずだ。

 泣いたり笑ったり、転んだり立ち上がったりしながら、人は生きていく。
 時に家族に支えられ、時に友に励まされ……そして、時に魔物に抱き上げられ。

 人間は、物事をややこしくするのが上手い。人間は、未知のものと触れ合うのが怖い。
 蓄えすぎた知恵は時に暴走し、神の存在すらも利用して自らの考えを押し通そうとする。自分は、正しいと。奴らは、おかしいと。
 そんな『信念』の全てが悪いとは思わない。そんな風に突き進めるからこそ、人間は人間で在り続けられるのだと思う。
 でも、今、現在進行形で続いているこの人間と魔物の幸福な日常を否定するのは、おかしいと思う。

 寛容になれとは言わない。信念を捨てて生まれ変われとも言わない。
 もっとざっくりとした、大雑把な感覚を持つだけで、何かが大きく変わるはずだ。
 そう、言葉で表現するのなら、『それならそれで良いじゃないか』とでも言うような……。


「この世界に居られるのは、人間か魔物か、どちらか一方のみ。睨み合って、戦い合って、覇者を決めよ。この世界と生命は、そのためにある。……なんて、悪趣味極まりないでしょう? そんなことを言う奴は神様でも何でもなく、ただの愚か者だと思うんです。少なくとも僕は、そんな神様を信じたくはない」

 ゆっくりと夕方へと近づいていく空を見上げながら、彼が言った。
 そして、横顔にコナツからの視線を感じつつ、こう続けた。

「確かに、人間と魔物の間には問題もあります。このまま互いの距離が近づき続ければ、生まれて来る命は全て魔物の女の子になってしまいます。人間は、魔物を産まない。魔物は、人間を産まない。これを『長い時間をかけた侵略』と呼ぶのなら、それを否定することは難しい……」
「でも、人間と魔物は互いが思っている以上に相性が良いし、仲良くできるし、愛し合えちゃうのよね。これが」

 コナツの言葉に、彼は「そうなんです」と頷き、貰ったリンゴを初めて齧った。
 手のひらの温度が移って温くなっていたが、それはとても甘くて美味しいリンゴだった。

「今日までの旅の中で、わかったことが三つあります。一つは、【魔物を一方的に嫌い続けるのは、間違った行為である】ということ。そしてもう一つは、【魔物と交流するには、未来の人間やこの世界のあり方を考えた覚悟が要る】ということ」

 そこまで言った所で彼は言葉を切り、シャクリ、シャクリと林檎を二口齧った。
 コナツはそんな彼を急かすこと無く、静かにその様子を見つめている。
 そうして噛み砕いたリンゴを胃袋へ送り出した後、彼はふぅと小さく息をつき、視線を自分のつま先へ落としながら、口を開いた。

「そして三つ目は、【世界は広くて深いから、その二つの理解が本当に正しいのかわからない】ということ。つまり、【わかったことは、まだわからないということ。自分はもっともっと世界を見なければいけない】ということ、です」
「……じゃあ、これからあなたはどうするの?」

 その問いかけに答えるため、彼はコナツの方を向いた。
 コナツはベンチの背もたれにゆったりと体を預けて、微笑んでいた。
 あぁ、本当に綺麗なアオオニさんだなぁ、と思いながら、彼は答えた。

「現実的な問題として、そろそろ路銀が底をつきそうなんです。だから、出来ればこの街で仕事をして、お金を貯めなければいけません。ただ、それがちょっと怖いんです」
「……怖い?」
「はい。この街は本当に居心地が良さそうだから、働いているうちに旅をする気持ちが失せてしまいそうで。見えてきたこと、知りたいこと、現実問題として乗り越えなければいけないこと、そして不安なこと……」

 彼がそこまで言った時、コナツは合点がいったと言う様な「あぁ」という声を出した。

「そういうのが入り交じってゴチャゴチャになってたから、難しい顔をしてこのベンチに座ってたのね」
「はい。そういうことです」

 コナツの指摘に、彼は照れと苦笑が混ざったような表情で頷いた。

「そもそも、何の仕事をするのか、それ以前に仕事を見つけられるのか……という所から始めないと駄目なんですけどね」
「うん。その辺は大丈夫よ」
「……へ?」

 予想外の軽い返事に目を白黒させながら、彼は思わず変な声を出してしまう。
 しかし、そんな彼に頓着することなく、コナツは軽やかな口調でこう告げた。

「いくつか仕事を紹介できて、来年辺りジパングまで里帰りする予定を立てていて、美人で、頭が良くて、お酒が強くて、お色気たっぷりなお姉さんが、きっとあなたを助けてくれるわ」
「え……それって……」

 突如として、彼の背中に恐怖と緊張の汗が流れる。
 それは、旅を始めたばかりの頃の、あの感覚。
 あ、魔物だ、と。
 これはマズいんじゃないか、と。
 色々な意味で『喰われる』んじゃないか、と。
 とりあえず目線を外して、俯いておいた方が良いんじゃないのかな、と。

 眼の前に居るこのアオオニさんは確かに美人で落ち着いていて頭も良さそうだけどよくよく考えてみればバリバリの魔物さんなんだよなあぁそうだよな何故かついさっきまで一緒にいることが心地良くなっちゃって求められるままに熱く語っちゃったけどこの状況ってマズいんじゃないかいやいやでもでも相手を疑ってかかるのは良くないことだよな本当に親切心とお茶目なジョークで言ってくれているかも知れないしあと胸の大きさとか腰のくびれとか良い感じの腹筋とかに若干のスケベ心を抱いたのがバレちゃってからかわれてんのかな正直かなり好みのタイプではあるけどあぁでも今はそういう問題じゃないよなあらこれどうしましょう。

「私よ。このコナツ姉さんが、あなたとあなたの旅の面倒をまとめて見てあげるわ」

 ほんの一瞬の間に様々なことを考えていた彼に構わず、コナツは笑顔でそう言った。
 そして同時に、彼は心の中で「やっぱりだーっ!!」と叫んでいた。
 加えるならば、「美味しくいただかれてしまうーっ!!」とも叫んでいた。

「まぁ、だいたい何を考えてるのかわかるけど……嫌とは言わないわよねぇ?」

 激しく目を泳がせている彼の右肩を、コナツがバシっと左手で掴む。
 互いの間に置かれていたはずの彼女の荷物が、いつの間にか地面に下ろされている。
 油が切れたカラクリ人形のように、ギギギっとぎこちなく首を動かす彼。
 そんな彼へと一気に距離を詰めるコナツ。

 彼の右肘に豊かな胸を当て、フゥと吐息をぶつけながらコナツが言った。

「言ったでしょ? 『私、ちょっとあなたに興味が湧いて来たわ』って。あれは、【あなたは私の眼鏡にかなうレベルの男よ】って意味だったのよ?」
「……ソ、そウだっタンでスカ?」

 最早何かを考えることすらままならない状態の彼が、声を裏返しながら問いかける。
 するとコナツは、楽しそうにクスクスと笑いながら頷いた。
 その拍子に、彼の右肘近辺はより一層コナツの胸の柔らかさに包まれる。

「親魔物国家の暮らしが体験できて、路銀も確保できて、ジパングまでの旅ができて、美しくて頼もしいパートナーができて……どう? これ以上の破格の条件、いくら探してもないと思うけど?」
「……ソ、そんなニ僕ばっカリ得をスルのは申し訳ナインですが」
「あらあら、そんな事はないわ。私だって、色々といただくわよ?」

 彼の言葉に、コナツは満面の笑顔で応える。

「心配しなくても、奴隷扱いなんて絶対にしないわ。ただ、私の晩酌に付き合ってくれれば良いのよ。あと、ちょっとおツマミになってくれれば、もう言う事なしね。あなた、お酒は?」 
「……ド、同級生の仲間内でハ、それなりニ呑める方でしタ」
「うんうん、最高ね! あ、もちろん住む所も世話してあげるから。私の家は二階建てなんだけど、二階部分は全く使ってなかったのよ。だから全部自由にしていいからね。結構広くて快適なのよ?」
「……ホ、ほぉ〜」

 緊張のあまり、彼は完璧に聞き逃していた。
 コナツは『晩酌に付き合って、おツマミを作ってくれれば』と言った訳ではない。
 【晩酌に付き合って、おツマミになってくれれば】と言ったのだ。
 淫ら上戸として名高いアオオニの晩酌に付き合い、おツマミとしての役割を任されるということは……つまりはまぁ、そういうことである。

「で、真剣な話、ね」

 ふと、コナツは押し付けていた胸を彼から放し、声のトーンを一段落として言った。

「私は、あなたの探究心や旅を続ける気持ちに賛成するわ。だから、ジパングへの里帰りにも招待したいし、私という魔物との暮らしによって得られるものも、どんどん吸収して欲しいの」
「……はい」

 まだ心臓が早鐘を打っているものの、コナツの力強い言葉と視線に、彼は乱れていた居住まいを正しながら頷いた。

「この街での暮らし、私との交流、そしてジパングへの旅。その全てをあなたの血肉に変えなさいな。あなたがこの世界を見つめて、考えて、成長するためなら、私はその材料になってあげるわ」
「……ありがとうございます。でも、一つ訊いてもいいですか?」

 コナツの言葉に神妙な表情で聞き入った後、彼はゆっくりと問いかけた。
 そんな彼に対して、コナツは表情で「どうぞ」と伝える。

「どうして、僕にそこまで良くしてくれるんですか? 僕とコナツさんは、今日たまたまこの場で出会って、話をしただけの関係ですよ? その……例えば、僕の言ったことが全部作り話で、実は反魔物国家の工作員だったら、とか思わないんですか?」
「……ふっ。アハハハハハ!」

 彼がそう言い終わるか言い終わらないかのうちに、コナツは大きく口を開けて笑い出した。
 もう何度目かわからない予想外の展開に、またしても彼はポカンとした表情を浮かべてしまう。

「アハハ……あ〜、ごめんごめん。いやいや、でも、あなたが工作員だなんてねぇ? そんな綺麗な目をして、小さなことにきちんと悩めて、それでいて世界に飛び出す勇気を持った工作員なんて……アハハハ! そんな希少生物がいたら、私は網を持って追いかけるわね!」
「いや、あの、僕は真剣に訊ねたんですけど」

 豪快に笑い、目の端に涙を浮かべながら喋るコナツに、彼は少しだけ不満そうな調子で言った。
 だがコナツは、相変わらず愉快そうに彼の肩をバシバシと叩きながら続ける。

「あのね、私はもうあなたに自分の考えを伝えたはずよ? 私はあなたに『興味が湧いた』って言ったし、『大した男』だとも言ったし、『人間的に成長するための材料になってあげる』とも言ったわ。あと、『オニの洞察力をナメちゃ困る』ともね。オニの言葉に、嘘も二言も横道もないの。私の言葉は、そのまま素直に受け止めて頂戴」

 確かに、オニが無意味な嘘をつくということはないだろう。
 暇つぶしにからかったりすることはあるだろうが、ここまでの話を聞いた上で、それを無視した妙な事をするとも考えにくい。
 それがアオオニという種族ならば、なおさら。
 さらに、このコナツという理知的で、けれども笑うと少女のようにあどけない表情になる……正直、かなり素敵な女性ならば、さらになおさら。
 心身ともに大きな疲労感を覚えながら、しかしきちんと覚悟を決めて、彼は口を開いた。

「……はい。僕は、コナツさんを信じます。お世話になっても……いいですか?」
「もちろん。これからよろしくね」

 彼の言葉に、コナツは即答で応じる。
 そして、茶目っ気たっぷりにウインクをしながら、こう言った。

「人間も魔物も、目標があれば強くなれるものよ。まずは、来年の旅立ちに向けて、しっかりと準備をしていきましょう。私は誰よりも一番近くで、あなたの成長を見届けさせてもらうわ」

 そこまで言うとコナツは立ち上がり、出会った時のように右手に買い物の荷物を持ち、左手に大きな酒瓶を抱えた。
 彼も、そんなコナツの行動に促されるように立ち上がり、「よっ、と」と声を出しながらザックを背負った。
 そうして、ゆっくりと歩き出したコナツの左隣に立ち、共に進み始める。

「今更遅いかも知れないけど、オニとの暮らしは結構キツいわよ? ついて来れる?」

 イタズラっぽい微笑みと共に、コナツが問いを投げかける。

「……それこそ、さっき僕は言いましたよ」
「え?」

 しかし、その問いかけに動揺すること無く、彼は落ち着いた調子で言葉を返した。

「『魔物と交流するには、未来の人間やこの世界のあり方を考えた覚悟が要る』って。これからの時間は、大きなことから小さなことまで、コナツさんと一緒に立ち向かうつもりですから。まだか弱い苗木みたいなレベルですけど……一応、覚悟はできてます」
「あらあら、素敵じゃない」

 そんなうれしそうな呟きと共に、コナツが左肩でドンと彼を押す。
 その可愛い攻撃に、彼は少しだけふらつきながら笑顔を返し、静かに言った。

「五年後になるか、十年後になるか、あるいはもっと先になるかわかりませんけど……毎日少しずつでも成長して、いつか故郷に帰ります。この旅を終えます。そして、人間と魔物の未来について、何か行動を起こしたいなって……そう思うんです」
「うん。でもその時に、私はどうなってるのかしら?」

 彼の言葉に頷きつつも、左の眉をクイと上げてコナツが訊ねる。
 だが、彼は迷いも慌てもせず、こう告げた。

「もちろん、一緒に来てもらいますよ。僕の……パートナーとして」
「うん。上等ね! 今からその日を楽しみにしてるわ!」
 
 彼の返答に、コナツは満足した様子で笑った。
 そして、夕方の色を帯び始めた空を見上げて、宣言するように言った。

「あぁ、何だか今日は良い日だわ! 明日も晴れると良いわね!」




 ……その後。

 彼がその日のうちに美味しくコナツにいただかれてしまったり、相思相愛のラブラブ夫婦になったり、山あり谷ありのジパングへの旅路を経験したり、コナツの故郷でものすごい歓待を受けたり、愛らしい二人の子宝に恵まれたりしたのは、また別のお話。



 ……さらにその後。

 彼の故郷で、ついに王と教団に対する反旗が翻り、大きな革命運動が起こったこと。四十歳になった彼がその革命に身を投じ、民主化と魔物との友和に向けて全力を尽くしたこと。そんな彼を、妻であるコナツが献身的に支えたこと。そして……新たな、心優しき親魔物国家が誕生したこともまた、別のお話。
11/10/05 19:00更新 / 蓮華
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■作者メッセージ
大変ながらくのご無沙汰でございます。

およそ一年ぶりに戻って参りました。蓮華でございます。

魔物娘さんに対する愛情は全く変わらなかったものの、
日常のあれやこれやが色々と変化し続け、SSを書く事が出来ませんでした。

しかし、遂に戻ってくることが出来ました!

次のお話をお見せできるのがいつになるかはわかりませんが、
これからもコツコツ、ちょこちょこと色々なものを書いていきたいと思います。



さてさて、次にこのベンチにやって来る魔物娘さんは……
ユニコーンかワーシープ、あるいはグリズリーなんかを予定しております。
気長にお待ち頂ければ、幸いでございます。

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