連載小説
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第五章 交わらぬ二人:グランドワームの巣

―4―

 グランドワームの巣。名前通りワームさんが住んでいるというのは想像がついたけど、まさかその巣が地中にあるなんて思いもしなかった。
 地中に埋まった魔宝石や、壁や天井に植えられた魔灯花が煌々と輝いて、まるで太陽の下にいるのかのように錯覚するそこは、まるでもう一つのドラゴニア。ジパングだと見かけない構造で、城壁の中に街があった。そしてその中心には巨大なお城。
 ぼく異世界に迷い込んでないよね? ちょっとばかり長く歩いたりはしたけど、まず間違いなく竜翼通りの建物の階段を降りてここにやってきたはず。途中、ポータルを通ったり転送魔法を受けた感覚もなかった。
 でもこの光景を地下だと信じるには、開放感がありすぎる。空なんてないんだけど、ワイバーンさんがゆうゆうと飛べるくらいには広い。
「もうドラゴニアに来てから驚かなかった日なんてないよ……」
 城壁の門をくぐってすぐにぼくを出迎えたのは、鼻腔をツンとする刺激する匂いだった。お酒の香りだ。ここに来るまでもワインの香りを放つ陶酔の果実のようなものがいっぱい地中から生える蔦に生っていたけど、ここはその香り以外も色々混じってる。ジパングでよく飲まれている清酒の香りさえもしていた。
 大通りの行き来はあまり激しくない。でも一人でいるのはぼくくらいだった。道を行き交う魔物、立ち止まって何かしている人は、顔を朱に染めて肩を組んだり談笑したりしている。
 通りを歩いてすれ違う人は皆、アカオニさん顔負けの真っ赤っか。それに片手には、ある人は両手には、お酒の瓶や四角い金属の容器があり、頻繁にそれをあおっていた。
 誇張表現なしで、本当に皆が皆お酒を飲んでいる。お酒を飲んでないのに加えて、一人でいるぼくの方が異質だ。
 三角屋根に大の字で寝転がっていびきをあげているアカオニさんも……あ、落ちた。
 でもすぐに起き上がって笑っている。それを見た周りの人も弾けたように笑い、そのアカオニさんにお酒を勧めていた。
 本当に楽しそう。見ているぼくもなんだか楽しくなってくる。
「おー、チビちゃん、どしたーこんなところで一人で」
 声をかけられたのはそんなとき。真っ赤な顔したワームさんがぼくの隣に立って顔を覗き込んできた。ワインを飲んだからそうなったのかなって思っちゃうくらい、ワインと同じ色をした竜鱗を持っていて、当然のように手にはワインボトルが握られていた。
「子供が出歩くにはちょっぴり刺激が強すぎるとこだぞー」
「え、えっと」
 長い黒髪を揺らしながら、ぐいっとワインをラッパ飲みする。
「ぷはぁ……父ちゃん母ちゃんのおつかいか? んん〜?」
 ワームさんの性格はおっとりとしたイメージだったけど、この人はすごく豪快そう。ウシオニさんに近い雰囲気を感じる。
「迷子なら上まで案内してやろうか?」
「い、いま来たばかりです、あの、ちょっと用事で」
「ほうほうふーん、名はなんてんだ?」
 ぐいぐい来る人だなぁ。
「て、呈って言います」
「テイ、呈。変わった名前だなー。でも……良い名だ。うちはメッダー。ここに住んでる」
「あ、ありがとうございます、メッダーさん」
 ワームさんがぼくの前を這い歩いていく。ちょっと進んだところで、こっちに振り向き怪訝な顔で首を傾げた。
「ついてこないのか?」
 今度はぼくが首を傾げた。
「ここ初めてだろ? 案内してやるって言ってんだ。ほら来な」
「おー、メッダーがまたお節介焼いてるぞー」
「またかよー、前みたいに途中でほっぽり出すなよー」
「途中で酒に釣られてお節介終了にシャルドラゴニアン」
「酔いつぶれてお節介終了にドラネ・ロンティ」
「酒に呑まれてお節介終了にレスカティエ・デ・ルージュ」
「あっははははは! 賭けにならねー!」
「うるせー! 黙って酒呑んでろ! ていうかほっぽり出してねーし! あのときは案内してた娘が男見つけたから気ぃ利かせていなくなっただけだし!」
「案内していた娘に先越されてる! ぶわっ! 全魔物娘が泣いた!」
「てめぇええらあああああああッッ!!」
 わーわーぎゃーぎゃーとどんちゃん騒ぎ。ジパングじゃあ宴会のときくらいしか見ない光景。でもここだと日常茶飯事なんだろう。
「ふふっ」
 なんだか、楽しいや。
 追いかけっこに興じているメッダーさんたちを見て、ぼくは自然と笑みがこぼれた。

「……すっごいなぁ」
 どんちゃん騒ぎ。
 道の往来もすごかったけど、巣の中心であるお城の中はもっとすごかった。番いの義みたいな催しがあったわけでもないのに、完全に酒池肉林の様相を呈していた。
「あっはははは〜真昼間からお酒飲むの最高〜」
「酒飲みセックス最高〜、上からお酒〜下から精液ごくごくだ〜」
 ジパングでもよく見かける赤い肌の鬼アカオニさん二人が、城内の廊下で男性の顔と腰にそれぞれ跨り、一升瓶をあおっていた。男性も腰を振っているあたり合意の上らしい。
「じゅぶ、うぐっ、じゅるるるるっ、ちゅぷ、ぷはぁ……出そう? ふふ、いいわよ、ここにたっぷり注いで、ほらぁ、いっぱいしこしこしてあげるから――あは! 出た出た。ふふ、オチンポミルクとワインのミックスブレンド、いただきまぁす」
「あっ、それいいなぁ。じゃあ私は……ふふ、媚薬入りワインをペニスにぶっかけて……ふふ、美味しそう。真っ赤かだねぇ、すーぐ気持ちよくしてあげるからね?」
 サテュロスさんカップルとワームさんカップルが、それぞれの男性を壁に押し付けて精液を搾り取っているみたい。
 これはほんの触り程度で、もうまともに見ちゃうと羞恥で卒倒しちゃいそうなくらい激しい営みをしている人たちもいた。全員が全員エッチなことばかりしている人じゃなくて、魔物娘同士でおしゃべりしながらお酒を呑んでいる人もいた。
 絢爛豪華なシャンデリアと純白のクロスが敷かれたたくさんのテーブルが出迎える大広間に着くと、エリューさんたちみたいなサテュロスさんの吟遊詩人カップルが、舞台の上で何組も並んで大規模な演奏を披露していた。それを聴きながら、ここにいる人たちは思い思いにお酒を楽しんでいるみたい。歌と談笑と喘ぎ声が入り混じってもう大狂宴。皆楽しそうだった。
「ドラスコグラスが欲しいっつーから、せっかくだし城に連れてきたけど。ここで良かったか?」
 あのあとドラスコグラスを探している話をして、ここまで案内してもらった。
「ここにあるんですか?」
「ああ、ありゃあグランマが地竜の蔦に魔力を注いで作った魔法道具だからな。あれあれ」
 メッダーさんが指差した場所には、純白のテーブルクロスが敷かれた丸テーブルに、逆さまに置かれた蔦が絡まって形を成したような杯だった。ワイングラスの口を少し大きくした形状。でもひとつひとつ微妙に違いがあった。
「手作り、だったんですね」
「まー、グランマのことだから魔法でちょちょいのちょいだろうけどなぁ。楽しければ何でもいいし、何でもするから。妥協も手抜きも一切なし。魔力は全て享楽のために使う、って方だし」
 グランマ。確か、グランドワームの巣と呼ばれるこの城塞都市を治めているお方。名前はグリューエ様とキサラギさんから聞いた。
「とても慕われてる方なんですね」
 この光景を見ていたら不思議とそんな言葉がついて出た。
 メッダーさんはちょっと驚いたように眉をあげて、すぐに照れたように笑う。
「うちは……いやここにいる皆、グランマのことが大好きさ。楽しいお方だしな。優しいし、大らかだし。上のデオノーラさまももうちょい、弾けたらいいのにって思うよ」
 お堅いんだよなぁ、と腕組みしながらうんうんと唸るメッダーさん。でもデオノーラさまを嫌っているという風な感じじゃなかった。本当にそうなったらな、と思っているのだと思う。
「まっ、何はともあれ呈のお目当ての杯はあれだぜ。ありゃあいいもんだ、どんな飲みもんも旨い酒に早変わりだ。うちのオススメは竜泉郷から買ってきたホルスタウロスビターミルクだな。ほんのりとした苦味とミルクの甘みが同居するあれにグッと来る濃厚なワインの風味がプラスされて……たまらねぇっ!」
「よ、涎出てますよ」
「おっといけねぇ。まぁ最高に旨いからな。持ってきてやるよ」
 思い立ったら即行動なのか、ぼくが声をかける間もなく、びゅーと飛んでいってすぐに戻ってきた。速い。さすがに壁をぶち抜いたり人を弾き飛ばして駆けてはいかなかったけど、途中あわや他のワームさんと正面衝突しそうになってた。慣れたように避けてたから、いつものことなんだろうけど。
「ほらよ。ぐいっといきなぐいっと。欲しかったんだろ?」
 所々ハート型の葉で飾られた蔦のグラスには、なみなみとホルスタウロスビターミルクが注がれていた。魔界豆の香ばしい匂いに混ざってワインの香りが漂ってくる。不思議な匂いだ。でも悪くないかも。
 ただ……。
「あの、ぼく、ドラスコグラスが欲しいんですけど」
「ん? だからドラスコグラスが欲しいんだろ?」
「え?」
「ん?」
 んんっ? なんだかすれ違いが起きているような。
「あの、ぼくはグラスそのものが欲しくて」
「ありゃ? これで酒が呑みたいんじゃなかったのか? 酒呑むためのもんなんだから」
 本格的に勘違いを起こさせてしまっていたみたい。
「ぼくはドラスコグラスを取ってきてほしいってお仕事をもらってやってきたんです。お酒を呑みに来たんじゃなくて」
「あー。あーあーあー……なーんだ、そういうことかよ。まさかそんな理由だったとはなぁ。全然考えもつかんかった」
 お酒を呑むのが当たり前の場所。だからお酒を呑むため以外にドラスコグラスを欲しがっているとは思わなかった、ということなのかな。
「そういうことならほら」
 新しいドラスコグラスをメッダーさんがワームの尾に巻きつけて持ってきてくれて、それをぼくに差し出してくれる。
「あ、勝手に持って行っていいのかって話なら気にしなくていいぜ。誰も気にしないし、持っていってる奴らなんざ幾らでもいるからな」
 ぼくが尋ねようとしたことを先回りして教えてくれた。これで気兼ねせずにキサラギさんのところへ持っていける。大切に鞄の中にグラスを仕舞い、このお仕事も完了。メッダーさんのおかげでスラドラゼリーのときよりも順調だった気がする。
「……ただよ、それ。どこに持っていくんだ?」
 と思っていたときだった。
「えっと、上の竜の寝床横丁にあるお店、ですけど……」
 ぼくが答えると、メッダーさんは竜の大きな手で額を覆い隠して残念がるように天井を仰いだ。
「悪いけど、呈。それ、無理だぞ」
「え?」
「ドラスコグラスはその状態でも実は生きててな。その養分はワームの魔力なんだ」
「ワームの魔力……?」
「ああ。この巣はワームの魔力で満ちててな。もしそれが無くなったり、ワーム以外の奴らが巣の外に持ち出したりすると、すぐに枯れちまうんだよ」
 そういえばここに漂っている魔力は、どれもメッダーさんみたいな魔力の感じがする。お酒の香りに紛れて、というか入り混じりすぎてよくわからなかったけど、意識すればなんとかわかる。
 ワームの魔力かぁ。
 持ち出すとすぐに枯れてしまうとのことだけど、メッダーさんのお話だとワームさんがいれば大丈夫みたいなようだった。つまり、ワームさん――メッダーさんに上までついてきてもらえば、キサラギさんにドラスコグラスを届けることができるってこと。
 でも……ううん。ダメ元でも一度頼んでみよう。ついてきてくださいって。言葉にしなくちゃ始まらないもん。
「その、メッダーさん! ぼくと一緒に上まで言ってくれませんか!」
「いいぞ」
 あう。そうですよね。そんなにすんなり行ってくれるわけ……………………あった!?
「い、いいんですか? ぼくなにもできることがないんですけど」
 お金もないし、交換するものも持っていない。せいぜい魔力をあげることくらいしかできないけど、リゼラさんにいっぱい吸われちゃったし、あれは状況が特殊だっただけで他人の魔力が欲しいって人なんてそうそういない。
「なんだなんだ? うちをそんな小せぇワームだと思ってたのかぁ? 心外すぎるぜ、ホント」
 やれやれと言わんばかりにメッダーさんが肩をすくめて首を横に振る。べしんべしんとワームの尾が床を叩いた。
「地上に一緒に行くなんざわけないぜ。たまには上の旨い飯でも食いながら酒でも呑みたいしなしな。早いとこ男も欲しいし」
 地下だからかあんまり来ないんだよなぁ、とメッダーさんは愚痴る。酒好きが来ることはあるらしいが競争率が高いらしい。
「め、メッダーさん……ありがとうございます! でも、ついてきてくれるんでしたら、どうして最初は言いにくそうにしたんですか?」
 もうメッダーさんの中では解決法が見つかっていたのに、どうしてだろう。
「あー、いや。確かに持っていくことはできるけどよ。そのグラス欲しがってる奴、ワームじゃないだろ?」
「はい」
「じゃあ、うちが帰ったあとグラスは枯れちまうんだよなぁ。ワームの魔力なくなって」
「あ……」
 ものすごい単純な話だった。
「でもまぁとりあえずはそこまでついて行ってやるよ。そのあとのことはそんとき考えりゃあいい」
 ニッと笑ってメッダーさんがぼくの頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。竜のゴツゴツとした手だけど温かかった。
「まあ行く前にほら、それ呑んでけよ。陶酔の魔力も牛っ子ミルクのおかげでもマイルドになってるし、味も呑みやすくなってるからな。せっかくここまで来たのに一杯も呑んでいかねぇのはもったいねぇ」
「はい、ありがとうございます」
 もしかして、ぼくのことを気遣ってこれを持ってきてくれたのかな。
 メッダーさんに促されて呑んだホルスタウロスビターミルクinドラスコグラスは、竜泉郷で飲んだものにワインの独特な香りが加えられて、それがとてもマッチしていて美味しかった。
「はは、顔を見りゃあ美味しかったってわかるぜ」
「はい、ご馳走様でした!」
「よーし、まずは竜翼通りまで出るとすっか」
「少々、お待ちいただこうか」
 不意のこと。
 ぼくたちが大広間から出ていこうとした、そのときだった。
「ドラゴンさんと、リザードマンさん?」
 ぼくたちを取り囲んだのは黒い礼装に身を包んだドラゴンさんとリザードマンさんたち。腰には竜を象った鍔のある長剣が差されていた。
 守衛さん? 少なくともここでただ普通に酒盛りして楽しんでいる人たちじゃないってことはわかる。
「なんだぁ? うちらは急いでんだが」
「グランマの命だ。二人ともこのまま外に出ることは許さない」
「あん? グランマの?」
 一歩前に出た言った黒髪のドラゴンさんの言葉に、メッダーさんが怪訝な表情を浮かべた。
 グランマ様? グランマ様がどうしてぼくたちを?
「もしそれでも出ていくというのであれば、その鞄に入れた杯を返していただこう。それはグランマの所有物だ。あくまで貸出しているに過ぎない」
 ぼくの鞄を見据えて断ずるドラゴンさんは、空気が凍るような威圧感を放っていた。頭が真っ白になりそうになったけど、それよりも早くメッダーさんがぼくとドラゴンさんの間に割って入ってくれた。
「んだよ、ケチくせーな。いいだろ、他の奴らも適当に持って帰ってんじゃねーか」
「グランマの命だ」
「そのグランマの命ってのはなんだよ。何すればこのまま行かせてくれるんだ?」
「グランマはとある余興をお望みだ。それを受け、勝者となればその杯はそこの少女に授けよう。さらに特別にワーム以外のものが持ち出してもすぐには枯れないよう我が膨大な魔力を込めてやる、と仰っている」
 それはある意味で願ってもない申し出。だけど。
「何を、すればいいんですか?」
「おい呈、あんまり真に受けねえ方がいいぞ。こういう場合はたいてい――」
「飲み比べの勝負をしてもらう」
「酒に関わることだから」
 飲み比べって。お酒をどれだけ呑めるか勝負ってこと?
「こいつガキだぞ。飲み比べ勝負なんざできるわけねぇだろ」
 メッダーさんがかばうようにドラゴンさんに食いかかってくれる。
「先ほど杯で呑ませていたように見えたが?」
「無理矢理酒呑ませても誰も得しねぇってことだよ。こいつにゃあ、無理だ」
「ふっ、そう侮っていいのか? 飲む比べの相手はお前だぞ」
「あぁ?」
「え?」
「おいおいおいおい、うちと呈で飲み比べ勝負させようってのか? 正気か? それこそ無理に決まってんだろ!」
 触れるところがあったのか、メッダーさんが声を荒げる。さすがに周囲の人たちも気になりだしたようで、視線が集中していた。演奏は止まってないから遠くの人たちは気づいていないみたいだけど。
「つーか、うちが手ェ抜くって考えねーのか!?」
「グランマにそれしきのことが見抜けないとでも?」
 冷ややかな笑みをドラゴンさんは浮かべる。そうなった場合、どうなるかは言わずともわかるだろうと言わんばかりだ。
「ぐっ、おい、呈。こんなの受けることはねぇ! バカバカしい! それにさすがに今回の余興にゃあうちは乗れねーぞ! ガキ酔い潰して何が楽しいんだ!」
「それを決めるのはお前ではない。だろう、呈?」
 視線がぼくに集中する。人見知りなぼくはたったそれだけで喉がひくついた。砂漠のど真ん中に落とされたように、喉が涸れてひゅうひゅうとかすれた息が漏れた。
 頭の中が真っ白になる。どうしたらいいの? 逃げる? 杯を置いて? メッダーさんの言うとおり、こんな勝負を受けずに出ていけばいい?
 でもそうしたら、ぼくはキサラギさんに杯を届けられない。天の柱に登るための装備を揃えられない。
 スワローと一緒に、いられない。
「おい、呈。悪いことは言わねぇ、断れって」
「……」
「……呈?」
 頭に響く自身の声がすぅっと治まった。視線が気にならなくなった。
 そうだ。ぼくはいま、スワローと一緒にいるためにここにいる。
 そのためなら何でもすると今日誓ったばかりじゃないか。
「受けます。その余興、ぼくにさせてください」
「お、おい!」
「ごめんなさい、メッダーさん。こんな、巻き込む形になっちゃって……でも、ぼくはどうしてもこの杯が、ドラスコグラスが欲しいんです」
 メッダーさんの瞳をまっすぐ見つめると、その緋い瞳が揺れて細まり、諦めたように瞼に塞がれた。ため息が彼女の口から漏れる。
「……チッ。しゃーねぇ、こうまでまっすぐ、ガチの瞳を向けられちゃあ断れねぇし無理矢理やめさせらんねぇよ。いいぜ、うちが相手になる」
「よろしい。では」
 ドラゴンさんがパチンッと指を鳴らす。すると、大広間中央のテーブルがふわりと持ち上がり、大きくスペースが作られていく。そこにいた人たちはそそくさとお酒とグラスを持って端に走っていった。
 そして、どこからともなく、赤いお立ち台のようなものがそこに築かれていき、テーブルと椅子が二つずつ置かれる。ぼくとメッダーさんが着席すると、空中に様々な色に移り変わる炎のようなもので文字が描かれた。
『サラマンダーキッス! 飲み比べバトル!! テイVSメッダー!!!』
 ファンファーレのような演奏でサテュロスさんたちが派手に演出してくれた。
 は、恥ずかしい……視線が集中してるよ……。
「サラマンダーキッス? おい、カシドラとかじゃねーのか」
「アルコールの度数を考慮した結果だ」
 照明がぱっと消え、すぐさま橙色の灯火がドラゴンさんの周囲を飛び回る。
「だけどよ、ありゃあ」
「さて! 今宵の余興は飲み比べ対決とさせていただく!」
 ドラゴンさんがメッダーさんの言葉を遮って、この大広間によく通る声を響かせた。
「挑戦者は遥か東方ジパングより訪れた龍の巫女。紅き眼に雪を纏いし白蛇! 呈!」
 蒼炎の灯火がぼくを照らした。暗いけど視線が痛いほど突き刺さっているのがわかる。
「子供じゃない」「大丈夫かしら?」「自棄酒のメッダーとやるとか無謀」「それ聞かれたらあとで絞められんぞ」
「そこのワイバーン聞こえてんぞこらァあッ!」
「挑戦者を迎え討つは、嫁入り先越された回数星の数、自棄酒あおり猪突猛進! ついた二つ名は『憤怒の城壁崩し』! 緋色のワーム! メッダー!!」
「てんめぇええええええええ!!」
「ちなみに酔いが覚めたあとは城壁をいそいそと直している姿が見られるぞ」
「可愛い」「可愛い」「あれは萌えた」「でもちょっぴり悲しい」「誰か男紹介してあげて!」
「てめぇら! これ終わったら飲み比べ勝負だからな! ぶっ潰してやるッ!」
 もはや半泣きになりそうに顔を真っ赤にさせてるメッダーさんに、会場は笑いの坩堝に陥っていた。混沌。ぼくの脳裏に過ぎった、いまこの状況を説明するに相応しい言葉はそれ。
 数瞬前に感じていた緊張なんてもうすでに飛んでいっちゃって、不思議と肩が軽くなったような気がした。
「……」
 気負っていた、のかな。うん、スワローと一緒にいたいから、その思いが強いから気負いすぎていたのかも。
 勝負は大事。勝たなくちゃダメ。それは絶対必要。
 でも、楽しもう。皆楽しそうだもん。ぼくも楽しみたい。
 大広間全体がうっすらと明るくなった。
「さて、ルールを説明させていただく。使用する酒は魔界カクテル『サラマンダーキッス』だ」
 ワゴンを押してやってきたサラマンダーさんが、ぼくたちの前にそのお酒を置いた。
 ぼくは目を見張った。
 カクテルグラスに注がれているお酒は、サラマンダーと名のつく通り、炎を身に纏っていた。大海を思わせる蒼い炎。それがカクテルの上を泳ぐようにゆらゆらと幻想的に揺らめいている。炎が収まり消えていくに従って、サラマンダーキッスに変化が訪れた。ゆっくりと溶岩のような紅いカクテルに滲み交わる様に大海の雫が広がっていったのである。そしてゆっくりと混じり合い、最後は見るだけで酔いを促すような幻想的な紫のカクテルへとその色を変えた。
「これは飲み比べ勝負でもよく使われる、皆にも馴染み深いカクテルだろう。この中にもこれで夫と結ばれた者もいるのではないか?」
 男性と顔を見合わせる竜さんたちがそこそこいた。それだけ有名ということだろう。
「これで魔物同士の飲み比べ勝負はあまりないが、挑戦者が子供であることも考慮し、アルコール度数の低いこのカクテルとさせていただいた」
「度数ねぇ……」
 何やらメッダーさんが不機嫌そう。なんでだろう。
「さて具体的な勝負内容だが。制限時間制の呑んだ数を競ってもらう。制限時間は三十分。その間に多く呑めた方の勝利だ」
 楽しみたい。うん、楽しみたい。でも、あれ。これってそもそも勝ち目ないような。
 今更ながら無謀なことに挑もうという気がしてきた。
 だけどまだドラゴンさんの説明は続いていた。
「が。これではまず間違いなく勝負にならないだろう。それではつまらない。余興にはならない。結果の見えている勝負は夫との夜の真剣勝負か、教団兵を婿入りさせるときだけで充分だ」
 そうだろう? という問いに口笛やら歓声やら、たまに喘ぎ声やらで観客の竜さんや鬼さんたちが返事する。
「なので挑戦者には勝利条件をもう一つ設ける。追加勝利条件は、三十分の間にサラマンダーキッスを三十杯飲み切ること。その条件を満たせれば、対戦相手の呑んだ量に関わらず勝利とさせてもらう。メッダーもそれでいかがだろうか?」
「構わねぇぜ」
「あとメッダーのサラマンダーキッスは量を十倍とさせてもらう」
 最初に置いたメッダーさんの分のサラマンダーキッスを引いて、三回りくらい大きなグラスに入れたそれが持ってこられた。普通カクテルグラスは指先でつまむのが普通だけど、これは拳で掴まないと到底持ち上げられない。なんというか、ここまで大きいと火事に見える。紫色の大火事。
「おまっ」
「体格差もあるんだ、構わんだろう?」
 ニィと笑うドラゴンさんはエンターテイナーだった。どっと笑う観客の皆の空気に押し切られて、
「チッ、いいぜ、別に」
 渋面になりながらもメッダーさんは了承する。
「こうなったらうちだってとことんはっちゃけてやらァッ! これで時間内に百杯呑んでやる。無理だったら、うちの秘蔵の酒全開放だッ!」
 これまでで最大の歓喜の声が大広間に響き渡った。もう肌にビリビリと来るくらいの激しい歓声。
 あれだけ皆お酒呑みまくっているのにこんなに喜ぶなんて、どれほど珍しいものを持っているんだろう、メッダーさんは。
「……ふぅ」
 深呼吸。勝利条件はわかった。多分、呑んだ数じゃあ量に十倍の差があってもメッダーさんには勝てない。だから狙い目は三十杯。サラマンダーキッスを三十杯呑む。これならぼくがやりきれさえすれば、目的を達成できる。ぼく次第だ。
 やるぞ、絶対にドラスコグラスを持ち帰るんだ。
「では、これより呈VSメッダーのサラマンダーキッス、飲み比べ勝負を開始する!」
 戦いの始まりを告げる号令に合わせて、大広間にリュートと竜魔笛の音が力強く響いた。

 ハート型の台に鱗が折り重なったような脚のあるカクテルグラス。ぼくの前にあるグラスに注がれているサラマンダーキッスの量はだいたい30から40mlくらい。とても少ない。周りの席で竜さんたちが飲んでいるグラスよりもずっと小さなものだ。これなら三十杯も行けそう。お腹がたぷたぷになりそうだけど、曲がりなりにもぼくはラミア属。きっと大丈夫。
 隣ではメッダーさんが意気揚々と豪快にグラスを持ち上げてごくごく喉を鳴らしていた。カクテルってそういう風に呑むものなのだろうか、と疑問に思わなくもないけど時間制限もあるのだし、この際細かいことは言いっこなし。
 負けじとぼくも竜鱗が重なったようなグラスの脚を摘んで、クイッと縁に口をつけた。甘酸っぱい葡萄の香りが鼻の奥をくすぐって、それから唇がカクテルに濡れる。唇を開いてカクテルを口の中に迎え入れると、完全に熟しきった葡萄の味が口いっぱいに広がった。
 美味しい!
 アルコールのツンとした感じなんてほとんどない。ジュースと言い切ってもいいくらい。とても甘い葡萄の中に、熟しきった夫婦の果実の甘味と酸味が調和して混じり合っている。舌どころか、頬や喉の奥も蕩けさせてしまいそうなほど完璧な配合。スワローと一緒に呑んだドラゴ・ラブバード。もしもあれをスワローと一緒に呑まずに呑んだなら、こっちの方がずっとずっと美味しい。これなら何杯でも飲めちゃう!
「おかわりください!」
「良い飲みっぷりだ、頑張れ」
 サラマンダーさんに持ってきてもらったサラマンダーキッスを景気よく一息で呑む。ヒューと周りで口笛と歓声が聞こえた。二杯目でもうなんだか気分が良くなってきた。
 楽しい! 美味しい! もっと欲しい!
 量もこれじゃあ全然足りないくらい。もっと呑みたい。もっともっと。
「ノってきたな! 頑張れちっこいの!」
「いっそのことメッダー負かしちゃってもいいのよっ!」
「頑張れ蛇ちゃん〜!」
 えへへ、よし! このまま三十杯まで一気に行くぞっ!
 ぼくは勢いよくグラスを口に運んだ。

 開始してから十分ほど経った頃だった。
「……はれぇ……」
 最初の飛ぶ鳥落とさん勢いはどこへやら。ぼくの手は止まっていた。
 おかしい。視界がクラクラする。焦点が定まりきらない。えっと、幾つ呑んだっけ? 十? 二十? あれ、グラスの数が数えられないや。
 ぼく、酔ってる? でも意識はそんなに濁ってない。物は考えられる。でも、身体があまり言うことを聞かない。
「チッ、もう酔いが回ってきたか」
 隣からメッダーさんの声だ。
「ひょ、よい?」
 でも、お酒の度数は低いって最初に。
「魔力酔いだよ」
「まりょく……?」
「サラマンダーキッスには我々竜の魔力が多分に含まれている。アルコール度数は低いが魔力度数はかなりのものだ。飲み比べ勝負をしていた男性が目の前の竜に欲情し、我を忘れて交尾勝負を挑んでしまうほどにはな」
 メッダーさんの言葉を引き継いで、審判のドラゴンさんが説明してくれる。
 ああ、さっきのこのお酒で男性と結ばれた、とか言っていたのはそういうことだったんだ。でも、ぼくは妖怪だ。自分の魔力がある。上位種である竜の魔力だからってここまで酔ってしまうもの?
「見たところ、かなり魔力が減っていたみたいだな、君は」
 しまった。そういえば、クイーンスライムの竜の分体、リゼラさんにこれでもかと魔力を吸われたんだった。
 ぼく自身の魔力がこうも減っているいま、サラマンダーキッスの竜の魔力の影響を受けるのは当然。完全に陶酔しかけている。
 そして、ドラゴンさんは、もっと言えばグランマさんはこのことを知っていた?
 会場がやけに静かに聞こえる。酔いのせい? わからない。意識ははっきりしているのに、身体がやけに重くて知覚がうまく働かない。
「残り十五分だ」
「ッ!!」
 呑まなきゃ。早く。呑んで、呑みきって、ドラスコグラスを持ち帰るんだ。
 腕に力を込める。でもろくに動かない。プルプルと震える。テーブルに突っ伏さないようにするので精一杯だ。
「あまり無理しないほうがいい。竜の魔力はそうでない身体を持つ者には強すぎる。お前はこの国の生まれではないだろう? 意識を持っていかれるぞ」
「チッ。なぁに心配そうなフリしてのたまってやがる。どこが結果の決まっている勝負はつまらないだ。最初からこうなるのわかってたんだろ?」
 静かな会場に、メッダーさんの言葉がやけに通る。ぼくを心配してくれる声が、わずかに耳に届いた気がした。無理はしない方がいいと。
「日ィ改めさせろ。こんなベストコンディションじゃないときに勝負したって面白くもなんともねぇ」
 ぼくを思ってくれているメッダーさんの言葉が心に沁みていく。
「呈、今日は一旦帰ってまた明日明後日にでも来い。そんときドラスコグラス賭けてもう一度勝負だ。グランマにはまた勝負できるよう頼んでおくからよ」
 メッダーさんの優しい言葉。
「頑張った、頑張ったよ」「私たちからもグランマにお願いしておくからさ」「もう一度やってくれなきゃ暴動だ!」「メッダーと一緒に城壁ぶち破り祭りする!」と観戦してくれている皆のぼくを労わる言葉が、ぼくの心に沁みて――。
 ぼくの心を折ろうとしている。
 折れていい。諦めていい。最初から無理だった。決まっていたことだ。わかりきっていたことだ。無理な勝負だった。勝ち目はなかった。頑張った方だ。すぐには酔わず十杯は呑めた。ベストコンディションならきっと三十杯はいけていた。だから今日は帰っていい。また挑戦すればいい。そして次に勝てばいい。
 良いんだ。それで良いんだ。
「私は、初めから勝負はついていると思っていた」
 ぼくにかけられる優しい言葉。その中に、違い毛色の言葉が混じっていた。審判のドラゴンさんの言葉だ。
「だが、グランマは言った。『決まっていない』と」
「お前、何を」
 メッダーさんの言葉を遮って、グランマさんの言葉をドラゴンさんはぼくに告げる。
「『大切な人のためなら、私たちはどんなことだってできるのだから』」
「……!」
 大切な人。ぼくの、大切な人は。
「スワロー。ダメッ!」
 ぼくは全身に力を入れて、前のめりになる身体を持ち上げた。
「お、おい呈!?」
 後日じゃダメだ。あとじゃダメなんだ。いま。いま勝たなきゃいけないんだ。
 全身に入れた力を確認する。ぼくの身体で一番まともに動いてくれる場所。そこを探る。
 手。ダメ。顔と首。自由に使うには少し心もとない。尻尾。尾先。動く。まだ動いてくれる。きっと竜の魔力がそこまで浸透しきっていないからだ。
 尻尾をテーブルの下から出し、長い下半身をテーブルの上に乗せる。子供のぼくでも長い尻尾は相当な重量がある。ギシギシとテーブルの脚が嫌な音を立てた。
 いますごく行儀悪いことをしている。もしお母さんに見られたら叱られちゃうけど、大和撫子にほど遠いことをしていると思うけど、でもいま勝つために、恥も常識も全て捨てる。
 尻尾の尾先でゆっくりとカクテルグラスの脚に巻きつけ、ぼくはそれを口元に持っていった。カクテルグラスはその形状からあまり傾けなくても呑むことができる。いま身体をあまり動かしたくないぼくにはそれがありがたい。
 サラマンダーキッスが口へ、喉奥へと流れていく。美味しさを感じるのは一瞬。そのあと、竜の魔力が全身に染み入り襲いかかってくる。苦痛はない。忘我に陥りそうなほどの陶酔の魔力がもたらす快感がぼくに襲いかかってくるのだ。
 たった一杯でこれ。あと何杯呑めばいい? わからない。グラスを数えられない。でもやることは変わらない。終わるまで、時間が切れるまで、呑み続ける。
「て、呈……どうしてそこまで」
 ぼくを案じてくれるメッダーさんの顔が目の端に映る。勝気な彼女の表情は、目尻が下がってとても弱々しくなっている。
 そんな顔をさせてしまってごめんなさい。でもぼくには必要なことだから。
 ぼくがこうするのはドラスコグラスが欲しいからじゃない。勝負に勝ちたいからでもない。そんなことはどうでもいい。
 ただ一つ。
「一緒に、いたい人がいるんです。ぼくの大好きな、大好きな人が」
「呈の好きな人」
「ぼくはその人のためなら……なんだって……するっ」
 サラマンダーキッスを呑む。竜の魔力を全身で受け止める。スワローの顔を思い浮かべ、意識を繋ぎ留める。
「はぁはぁ、はぁ……だから、諦めません」
「ッ! わかった! わかったよ、呈!」
 頬を赤くして、目の端に涙のようなものを見せて、メッダーさんが叫ぶ。
「ならうちももう止めやしねぇ! 最後まで付き合ってやる」
 豪快に、ぼくを引っ張ってくれるように大きなカクテルグラスに注がれているサラマンダーキッスを、メッダーさんは呑み干す。
 メッダーさんが一緒に呑んでいてくれている。それがものすごく心強かった。
 お礼は、サラマンダーキッスを呑みきることで答えた。
 観戦していてくれている人たちも、もうぼくを止めようとはしなかった。ただ応援してくれていた。それどころかぼくたちと一緒に歩調を合わせてお酒を呑んでくれた。
 もうぼくの尻尾が止まることはなかった。
 そして。
「終了。そこまでだ」
 飲み比べ勝負は、ドラゴンさんの言葉で終わりを告げられた。
 幾つ呑めたのだろう。確認しようと思ったけど、身体は動かなかった。勝負を終えた安堵からか、身体を支えていた腕の力が急速に萎えていった。視界がぐらりと傾く。顔が地面と口づけようとしたところで、ぐいっとぼくの身体は何かに支えられた。
 仰向けに、誰かに抱き寄せられた。
「お疲れさん、よく頑張ったな、呈」
 メッダーさんの勝気な笑顔と、ぼくを褒めるその言葉を最後に、意識はまどろみに沈んでいった。

―5―

「まさか本当に勝ち取ってくるとは思わなかったっすねぇ」
 半ば呆れた調子で呟いたのは、カウンター席に座る茶釜商店「キサラギ」店主のキサラギだった。グランドワームの巣の女王グランマの配下である黒服ドラゴンに差し出されたドラスコグラスを見下ろして、そんな感想を抱いたのだった。
 グランマの魔力の炎を灯されたサラマンダーキッスを“呑ませるのが目的”の体の良い言い訳だったわけで、まさか本当に手に入れるとは露程も思わなかったのである。
「なかなか面白い余興だったと、グランマは満足しておられた。子宮が疼いた、とも」
「それは良かったっす。急なお願いでしたのに快く受けてくれてありがとうございました、と伝えてくださいっす」
「伝えておこう」
 軽い調子でキサラギは言ってのける。全て計画通り、ドラスコグラスが手に入ったことを考えれば計画以上の結果とも言えた。まぁドラスコグラス自体はおまけに過ぎないが。
 呈はもうすでにスワローの家に帰してある。その役目はメッダーに任せた。もういまごろは家についているだろう。無理をさせてしまったようなので、呈と仲良くなったメッダーからは睨まれてしまったが。とはいえ多少の睨みにビビっては商売などやっていられないので、キサラギは全く堪えていなかった。
「では約束の物は渡した故、これで私は失礼する」
「わざわざご足労ありがとうございましたっす。何か入用があったらうちにいつでも言ってください。サービスさせてもらうっすよ」
「ああ」
 ドラゴンがベル付きのドアを開けて外に身体半分を出したところで、キサラギへと振り返った。
「そうだ、もう一つ伝言があった」
 思い出したように言ったドラゴンの瞳孔が縦に割れる。
「自分に悪役(ヒール)をやらせたのだから面白いことが起きるのでしょうね、だそうだ」
 ピシッ、と棚に置いてあった瓶に亀裂が入る。同時に棚が地震に見舞われたように一瞬揺れた。
 キサラギはその言葉と気迫で、ドラゴンにグランドワーム・グリューエの姿を幻視した。
 しかしそれでも、キサラギは笑みを崩さない。むしろますます笑みを深める。そして、揺るがない自信を以て断言する。
「あるっすよ。そう遠くない未来に」
「……ならいい。だが、グランマを悪者扱いするような依頼は二度とするな」
「約束するっす」
 それでもう用件は済んだはずであったが、ドラゴンはまだ何か言いたげにその場から動かなかった。しばし長考したあと、もう先ほどまでの覇気を潜めて、キサラギに向き直る。
「お前は、何故このようなことを?」
 その問いに、今度はキサラギが返答にしばらくの時間を要した。
 だが、答えは決まっていた。どう答えるかに窮していたのだ。
「人生、もとい魔物娘生はそう都合良くはいかない。これは“備え”っすよ」
「……お前には何が見えている?」
「見えていたら備えなんてしないっすよ。うちらには何にも見えていないっす。ただ」
「ただ?」
「自分たちが見たいモノのために尽力するだけっす」
「ッ」
 ドラゴンの表情が僅かに強ばる。その表情に、自分の仮面が剥がれてしまったのだとキサラギは確信した。単なる「好色」という言葉だけでは言い尽くせない、欲望と情欲に塗れた表情。普段は表には出さない素の表情。が、もういまさら取り直そうとは思わない。
 このときドラゴンは、グリューエの下に以前訪れた白黒のリリムのことを思い出していたが、そのことをキサラギは知る由もない。目の前のドラゴンが自分をどう思おうと然したる問題ではなかった。
「失礼する」
 ドラゴンが店を出ていく。キサラギは、半分残してあったスラドラゼリーをドラスコグラスに投入する。さらにウンディーネの天然水で少々割った。前々からしたいと思っていた味わい方。呈のおかげで望みが叶った。
 蔦の杯を傾けながら、キサラギはますますその笑みを深めて呟く。
「楽しくなってきたっす。ねぇ、ミクス?」
 薄暗い店内のせいか、彼女の目は白と黒が反転しているように見えた。
17/09/03 21:57更新 / ヤンデレラ
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■作者メッセージ
グランマは超お優しいお方ですよ! 母性マックスですよ! 多分!

今章はなかなか楽しく書けました。荒々しいというか勢いあるキャラは書きやすい。
メッダーさんは今日も城壁崩しに邁進中。

それではまた次回。

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