連載小説
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ブレスよりも熱く
 主街道から離れた、今はほとんど使われることのなくなった旧街道沿いの辺鄙な山奥に、ひっそりとたたずむ古びた石造りの砦があった。
 もともとは人間が対魔物用に築いた砦である。ただ、砦はかなり年代もので、今では魔物に対して役に立たないとされ、建造されなくなった古い建築様式の砦だった。
 そんな砦の正面城壁は、切り出した石を隙間なく高く積み上げ、ほぼ垂直にそびえたた壁になっていた。それだけでなく、容易によじ登れないようにするため、岩を落としたり、油を流したりする仕掛けもさまざま施されていた。
 城壁の上は、守備兵士が自由に行き来できるように壁に守られた回廊になっており、壁の上端には凹みが等間隔に配置され、その凹みより城壁の外にいる敵に矢を射掛けることができるようになっていた。
 城壁の外側には堀がめぐらせてあり、近くの川より水を引き込んでいる。砦の正面にある門は、堀を越えるための跳ね橋と兼用になっており、ちょっとやそっとでは打ち破られないように、太い木材を重厚な金具で束ねて作ってあった。
 素人目には、どれも有効な防御設備に見えるかもしれない。外敵に対して絶対的な拒絶と難攻不落を主張しているように見えるだろう。
 しかし、空を飛べる魔物に対して城壁や堀は無意味である。空を飛べない魔物でも、身体能力の優れた魔物であれば、楽々と堀を飛び越え、垂直の壁を軽々と駆け上がるだろう。そうして、砦を守る兵士たちが罠を作動させることもできず、矢を番える暇すらもなく、弓の弦を切られることになるのは容易に想像できた。
 重厚な門も少し威力のある魔法の前には脆弱であるし、魔法を使わなくとも、怪力を誇る魔物が本気になれば、それこそ、紙を破るよりたやすく門扉を打ち破ることができるだろう。そもそも、高火力の魔法を使えば、城壁すらも打ち破るのは難しいことではない。
 かつて、これらが有効であったのは、魔物たちが人間を必要以上に傷つけないように、できうる限り手を抜いて砦攻略をしてくれていたためであった。昨今、人間側の魔法をはじめとする技術の進歩により、魔物たちも手加減の割合を減らしてきた。結果、この砦のような古い防衛設備は魔物に対して役に立たなくなっていた。
 それにくわえて、勢力地図の変化などに伴い、人間側の防衛線は砦が現役だったころからはかなり退いていた。そのため、補給路の確保できない砦は戦略的価値を失って、ずいぶんと前に放棄されたのであった。今では、それを作った人間側も、この砦の存在を憶えているものが少なくなっていた。
 そんな人間にとって無用となった砦だが、その周辺の魔物には有用な場所になっていた。
 雨風をしのげて、砦ゆえに窓が小さい個室が多く、薄暗い屋内は思う存分、人間の男と愛を確かめ合うのにちょうどいい物件と隠れた人気になっていた。
 一時は、魔界るるぷにも「カリスマ・サキュバスがおすすめ! 大人の隠れ家――愛の巣絶頂ポイント特集」などで紹介されたこともあったほどである。他の雑誌にも掲載されることもしばしばだった。
 しかし、魔物たちの嬌声で満ちていたこの砦も、ある魔物がそこに住み着いて以来、その砦を訪れて愛の巣として利用する魔物は減少した。そのおかげで一時は、秘め事をする魔物たちの放つ気により魔界になりかけていたこの砦周辺が、魔界にならずに人間界で留まっているのは、ある意味、皮肉とも言えよう。
 それはさておき、砦は、城壁など外観はそのままであったが、内部は魔物たちの愛の巣とするために大幅な増改築がされていた。
 目を見張るのは、かなり裕福な王城ぐらいしか施されない磨きぬかれた大理石の床や壁だろう。
 ただ、人間の城と違うといえば、磨きぬかれ過ぎて鏡のようになっている床があげられた。もし、この上を短いスカートの女性が歩けば、女性の下着を見ないようにするため男性は上を向いて歩かねばならないだろう。しかし、上を見上げても、天井には一面、魔物娘と人間の男が睦み会う天井画が扇情的に描かれており、劣情を抑えるのは苦労しそうだった。
 しかも、それだけではなく、廊下には、魔物娘が男を誘うようなポーズの彫刻像が飾られ、各部屋には魔物娘が人間の男と交わる様を描いた絵画やレリーフ、タペストリーが飾られていた。
 そんな廊下をミニスカートのメイド服を着たサキュバスに先導され、一人の大柄の男性騎士が歩いていた。
 騎士は、防御魔法が発達したおかげで、鎧が比較的軽装となりつつある昨今、骨董品でしか見ることがなくなった白銀のフルプレートメイルに身を包んでいた。鎧の表面には海のような深い青色でさまざまな文様が美しく刻まれていて、それも古式ゆかしさを醸し出していた。ある意味、騎士の姿は、この時代がかった砦にはよく似合っていた。
 さらに、背中には大きな盾を背負っており、これにも同じように青の文様が刻まれている。腰に帯びた剣が彼のような大柄の騎士にしては短くあったが、それは彼の主武器が、その手に持っているハルバードだからであることは一目見れば判断がついた。
 彼の持つハルバードは、柄の部分や斧の刀身に彫金が施されており、それが武器と言うには少し躊躇われるほどの美しさがあった。鎧同様、このハルバードも一つの美術品としての価値も高そうなものであった。
 面頬を上げて、そこからのぞく騎士の顔は、お世辞にも二枚目とは言いがたかった。歳は若く見積もって三十代前半ぐらい。身にまとった鎧の優雅さとは対称的に、顔つきに世間擦れした泥臭さがあり、貴族出身ではないと断言できるものがあった。好意的に言っても武骨、正直に言えば、むさ苦しい。そんな、あまり女性受けしそうにない風貌の男であった。
 女性にもてそうにないとはいえ、この騎士が先導するサキュバスのお尻を追いかけているわけではなかった。
 騎士が放つ泰然自若の構えには、武人としての風格らしきものがあった。なので、魔物の砦であるにもかかわらず、毅然とし、悠然としていた。まるで、自らの領地を歩く将軍のようであった。
 だいたい、普通の男であれば、サキュバスの無意識に行う男を誘うなまめかしい腰の動きに劣情を催すところである。しかし、騎士の男は性的に欠陥があるのかと思うほど、その魅惑の腰の動きに関心を示さずにいた。
 メイド姿のサキュバスは、最初は無意識の本能的な誘惑ではあった。しかし、それでもなんの反応も示さない騎士に対し、淫魔としてのプライドをほんの少しばかり傷つけられた。
 彼女はすでに夫がいる身ではあるので、他の人間男性に興味などはないが、自分の魅力がないと見られるのは悔しかった。そこで自発的に男性を誘う歩き方をした。
 腰だけでなく、脚はもちろん、背中、肩、うなじ、かすかに後ろを振り返る視線。彼女がこれまでに培った誘惑の知識と技を総動員した積極的な魅了であった。
 もし、これで襲い掛かってこられたとしても、メイドサキュバスにはそれを避ける自信はあった。そして、興奮した騎士に向かって、こう言うつもりであった。
「強引で素敵ななお誘いをありがとうございます。でも、私にはすでに約束を交わした夫がいますので、あなたのお誘いを受けるわけにはいきません。申し訳ありません」
 興奮させておいて寸止めするなど意地悪いことこの上ないが、彼女の中では傷つけられたプライドと秤にかければ、相殺されると考えていた。
 それに、この後のことを考えれば、この騎士を少しでも性的に興奮させておくのは、悪いことではないとまで考えていた。
 だが、そんなメイドサキュバスの思惑など獲らぬ狸のなんとやら。騎士はそれまでと変わらずに、身を包んだ鎧の合わせが鳴らす音を規則正しく響かせながら、彼女の後ろを平然と歩いていた。
 ここまでして無視されると、さすがの淫魔も自信喪失して、続いてやり場のない怒りがこみ上げてきた。そして、完全に逆恨みであるが騎士を憎んだ。
 メイドサキュバスは大きな扉の前で足を止めた。そして、騎士の方を振り返り、ふてくされた表情を見せた。
「姫様はこちらでお待ちでございます」
 いつもの柔らかな甘い果実の匂いのような声でなく、棘のある甘い果実のような声で騎士に告げた。
「うむ。わざわざの案内、ご苦労であったな。礼を言う」
 騎士はメイドサキュバスに向かって軽くであるが、誠意のこもったお辞儀をした。
「……姫様のためですから」
 労をねぎらう言葉はうれしくはあったが、傷つけられたプライドが邪魔をして、紳士な騎士にそっけなく応えた。
「うむ。それでも、便宜を図ってくれたことはありがたいこと。感謝する――それとだ」
 そういって、騎士はそれまで引き締まった顔を無邪気に破顔した。
「そなたの魅力を注ぐ相手はすでに決まっておろう? 他の男にそれを振りまいていては、夫が心配するぞ。そなたに魅入られたものが、そなたを奪っていくのではないかとな」
「……!」
 メイドサキュバスは改めて誘惑したことを指摘され、恥ずかしさに顔を真っ赤にした。そして、それが夫への不貞だと気づかされて顔を青くした。
「安心せよ。そなたの夫は、妻が美しくあろうとして、自分の魅力を腕試ししたことぐらいのことを許せぬほど狭量ではあるまい? 腕試しした魅力、次は思う存分に夫に注げばよいだけのこと。もっとも、こういうことはあまりせぬ方が夫は安心だろうがな」
 胸中を全て見透かす台詞を笑顔で吐かれ、メイドサキュバスはますます顔を赤らめてうつむいた。
「案内ご苦労であった。しばらくは危険ゆえに、誰もここへは近づかせぬよう。よろしく頼む」
 メイドいじめはそのあたりで切り上げ、騎士は再び表情を引き締めた。
「ご安心ください。今、この砦にいるもので、それを知らぬものはおりません。もし、誰かが巻き込まれるようなことがあれば、その者のせいでございます。お気に病むことはありません」
 メイドも真面目な表情になり、騎士に向かって一礼した。そして、少し迷ったが、一言だけ付け加えた。
「ご武運を」
 敵である騎士の武運を祈るのはどうかという声があるかもしれないが、彼女にとっては、それは裏切りでもなんでもなかった。
 彼女はこの騎士に対し、少しばかりは恩義があったし、彼女の主である姫様もそれを咎めることはないことはわかっていた。
「かたじけない」
 メイドは騎士を一人残して今来た廊下を戻っていった。その後姿を見送ってから、騎士は改めて扉の前に立った。
 そして、扉の向こうにいるだろう魔物の姿を思い浮かべ、軽く身震いした。武者震いなのか、怖気づいたのか。どちらかわからない自分自身に向かって笑みを浮かべた。
「難儀な性分だな」
 笑みでもれた気合を再び高め、樫の木でできた重たい扉を無造作に開いた。そして、なんら警戒することなく、自分の部屋に入るがごとく悠然と部屋の中へと踏み入った。
 戦場において、それはあまりに無用心極まりない行動である。これで不意撃ちをされたとしても、皆は騎士の不注意を責めるだろう。しかし、運がよいのか、騎士は不意撃ちを受けることなく無事に部屋の中に入ることができた。
 もし、初めてこの部屋に踏み入った人間なら、部屋の光景に度肝を抜かれただろう。
 その部屋は、ちょっとした規模の舞踏会でも開けるほどの大広間であった。これだけなら驚くに値しない。驚くべきは、その部屋がまぶしい煌きにあふれていたことであった。
 煌きの正体は、部屋の両脇の壁沿いに無造作に積み上げられた宝石を中心とした金銀財宝であった。それが部屋の奥まで続いているのである。そして、一番奥には更に大きな財宝の山が築かれていた。
 騎士の身につけている立派な鎧や槍も、これらの財宝の中だと、さして価値のないものに見えるほど圧倒的であった。
「以前よりも、また増えているようだな」
 財宝の山を軽く一瞥して、感動も呆れもなく騎士は部屋の一番奥、財宝の山の前に立つ黒い人影に向かって言葉を発した。
 黒い人影は、財宝の光が少しまぶしく、シルエットしかわからなかったが、それでも角と翼、尻尾を持つもの――人外の魔物であることは容易にわかった。
「久々に会って、開口一番がそれとは、ずいぶんなご挨拶ね、騎士ゲオルギオス」
 艶のある女性の声が騎士の声に応えた。
「お前がここに来るのは、一年と三ヶ月ぶりなのよ。それだけの時間があれば、財宝が増えるのも当然よ」
 黒い人影は、ゆっくりと財宝の山から離れて、部屋の中央に向かって歩き始めた。騎士もまた、部屋の中央に向かって歩を進めていたので、黒い人影と騎士との距離は縮まり、影の輪郭が鮮やかになっていった。
 姿形の基本は人間の女性であった。それもかなり美しい部類の。どれぐらいかというと、彼女がどこかの城主に少しおねだりでもすれば、その城が傾くまでおねだりを聞き入ってくれるほどの美貌の持ち主である。
 一歩ずつ歩くたびに漆黒の長い髪の先が踊るように揺れていた。透き通るほど白い肌だが、程よく赤みがさしているのが、人形でない美しさと色気を放っている。シャープな顔のラインと通った鼻筋がスマートで、少し気の強い印象を与えていた。不敵に笑う赤い唇が妖しく光り、その印象が正しいことを証明しているようだった。
 しかし、そんな整った顔立ちの中で一番に目を引くのは、やはり彼女の琥珀色の瞳であった。この部屋の、どの宝石よりも美しい輝きを放つ瞳は、その意志の強さと絶対的な自信があふれんばかりであり、意志が弱いものであれば、無意識に膝を折るほどの相手を服従させる圧迫感があった。
 ただ、美しいとはいえ、その腕や足はたくましく、硬く黒い鱗に覆われており、先端には凶悪な鉤爪を持っていた。腰の辺りから生えている羽根は、サキュバスのような柔らかないやらしさを一切持たぬ鱗に覆われた膜翼である。尻尾もワニのごとく、硬い鱗に守られ、太くたくましい武器の一つであった。仕上げに、頭上に生えている角は人に恐怖を与える要素に満ちており、どこを見ても他者を威嚇するものしか感じられない。
 彼女は、その傾城の美貌を圧倒するほど、内包する暴力で人を威圧する。はっきり言ってしまえば、死を連想させる恐怖の象徴をその身に備えていた。
 現魔王の魔力により人間の女性に近い姿になったとはいえ、まさに地上の王者であり、最強の魔物――ドラゴンの風格は失ってはいなかった。
「しかし、お前も堕ちたものね、騎士ゲオルギオス」
 ドラゴンは嘆息を漏らすように、ありありと失望の色を琥珀色の瞳に浮かべた。
「ほほう。私が堕ちたと申されるか、ラシア・ドラゴン殿」
 騎士はドラゴンの表情に反して軽く笑みを浮かべた。その笑みが気に障ったのか、ドラゴンの表情が険しいものと変わった。
「案内のものを疑いもせずについていき、通された部屋に警戒もせずに真正面から入る。それで武人と呼べるか! 案内のものが偽りの部屋に案内することもできたし、そこで罠にかけることもできた。それでなくとも部屋に入る時、私が奇襲していれば、お前は成す術なく敗北していた。無用心極まりない。これでも堕ちていないと言い張るか!」
 ドラゴンは怒りを隠しもせずに吼えた。大音量に財宝だけでなく、広間の一番奥に大きく開けられた窓のガラスも震え上がった。
「なるほど。ラシア殿の言葉、一理あるな」
 騎士はその怒号にも臆せず、彼女の言葉を大きくうなずいて認めた。
「しかし、古い異国の言葉に、敵を知り己を知らば百戦危うからず、という言葉がある。貴殿が、だまし討ちをするような卑劣な罠を仕掛けてくることはせず、扉を開けた瞬間に襲い掛かってくるような無作法などしない、誇り高き尊敬できる敵であると私は知っている。警戒などする必要はなかろう。ただそれだけだ」
 怒りをあらわにするドラゴンに対して、騎士は平然と応え、それどころか最後はドラゴンに微笑みまで向けた。
「……っ! お、横着者め!」
 微笑まれて、怒りはやり場を失って彼女の頬を膨らまし、騎士から視線をはずし、そっぽを向いた。
「力の入れどころと抜きどころを心得ていると言って欲しいな」
 そっぽを向くドラゴンに騎士はにこやかに応じた。ドラゴンの方は「入れどころ抜きどころ」という言葉に、何か変な想像を刺激され、少し顔が赤くなった。だが、騎士はそんなつもりで言ったわけでもなく、第一、そんな言葉に反応されるとは想像もできなかったため、赤くなるドラゴンに少し怪訝な表情を浮かべた。
 怪訝な表情を浮かべはしたが、一通りの挨拶は済んだと、騎士は騎士は背中に背負った盾を外し、部屋の柱に立てかけると、槍の石突きで床を鳴らして姿勢を正した。
「さて、我らはいつまでも世間話をする茶飲み友達ではない。そろそろ、用件を伝えよう」
 騎士の声に、ドラゴンも顔を赤らめるのを中断し、まじめな顔に戻し、まっすぐに騎士と向き合った。
 第三者がこれまでの会話を見れば、二人はまるで、ふざけあう恋人同士のようである。だが、二人は過去、三度ほど刃を交えている。そういう間柄なのである。
「ラシア・ドラゴン殿。王宮より奪い去った宝玉、カーバンクルをお返し願おう」
「断る」
 騎士の言葉をドラゴンは瞬時に全力で断った。聞いているものがいれば、清々しさを感じるほどだろう。あまりにも見事な断り方に騎士は一瞬笑みをこぼした。しかし、すぐに表情を引き締めた。
「では、力ずくでということになるが、よろしいか?」
「もとより、そのつもりであろう?」
 ドラゴンのその答えが戦闘開始の合図であった。
 騎士は少し後ろに飛び退き、自分の間合いの少し外で愛槍を両手で構えた。一方、ドラゴンの方は特に構えを見せることもなく、自然体であった。
 格闘マンガであれば、「す、隙がない」など汗がにじむお見合いを始めるところであるが、生憎と騎士にはそんな趣味はなかった。隙がないなら、作らせるのである。
 裂帛の気合とともに、間合いに飛び込み、ドラゴンに槍を繰り出した。そして、突くよりも速く引き、再び突く。一呼吸の間に五回の突きを繰り出した。並みの魔物であれば、これで勝負が決まっていただろう。しかし、相手は地上の王者と称されるドラゴンである。その全ての突きを見切ってかわした。
 騎士は最初から全力ではあったが、そう簡単に勝負が決するなどと甘く見ていない。必殺の連続突きをかわされても動揺することなく、攻撃を終えると後ろに飛び退き、攻撃が終わった後にできる最大の隙に備えて間合いを取った。
 騎士が下がるタイミングに合わせて、ドラゴンは攻撃に転じた。騎士が飛び退くよりも深く踏み込み、その太くたくましいドラゴンの腕を大きく振り上げ、袈裟切りに鋭い爪を振り下ろしてきた。
 ただ、その攻撃は洗練も何もなく稚拙であった。振り上げた腕など丸わかりで、どちらかと言うと力任せの雑な攻撃と言えた。だが、基本性能が遥かに高いと、そんな雑な攻撃であっても技など意味がないほど必殺の攻撃になる。
 騎士は最初から下がったところに合わせてくるのを読んでおり、ドラゴンの攻撃が当たらぬように、もう一歩分、下がる余裕を残していた。その一歩のおかげで、ドラゴンの爪は彼の目の前を通過して、顔に風を感じるだけで済んだ。受けることも可能であるが、防御してもガード越しにダメージが通る重い攻撃である。回避できるに越したことはなかった。
 そして、避けたことで、いくら速くて強い攻撃であっても、基本が雑な攻撃であるためにドラゴンは空振りした腕につられて体勢を崩していた。この好機を見逃すほど騎士はお人よしではない。
 ハルバードの側面に突き出た突起――ピックをドラゴンの身体に引っ掛けて、更に崩すよう槍を振るおうとした。しかし、その寸前で突如、騎士はそれを中止して、渾身の力で槍を下から上へと跳ね上げるように回した。
 かなりの名槍である彼のハルバードが悲鳴を上げるような重い手ごたえがあった。
 ドラゴンは、腕を振り下ろして崩れ体勢を立て直そうとはせずに、逆にそれを加速させ、凶悪な太い尻尾を胴回し蹴りの要領で騎士に向かって打ちつけてきたのである。
 騎士が槍を回したのは、その攻撃を弾き逸らすためであった。
 尻尾の攻撃を弾かれたドラゴンは結果として体勢を更に崩した。しかし、攻撃を弾いた騎士の方も渾身の力をこめての防御だったので、その隙に乗じることは難しかった。しかたなく、騎士は更に間合いを取るように後ろに下がった。
「腕は落ちてないようね。安心したわ」
 ドラゴンは騎士が予想していたよりも早く体勢を立て直していた。先ほどの隙を無理して攻め込めば、返り討ちにあっていたかもしれない。雑な攻撃はこちらの油断を誘うための前振りだったようだ。
「そちらも、財宝を眺めていただけではなさそうで、なによりだ」
 騎士は内心、舌を巻きかけたが、そんな素振りは見せずに笑みをこぼした。もっとも、半分は本心からの笑みであった。
「強がりをいうな」
 今度はドラゴンからの攻撃であった。数歩の短い助走で高く飛び上がると、そのまま騎士に向かって蹴りを繰り出した。
 普通、武術ではジャンプすると空中では自由に動けなくなるため、大きなジャンプはしてはならないというのが定石である。だが、魔物にあっては、それは定石ではない。
 騎士は空中から襲い来るドラゴンを迎撃しようと槍を繰り出した。普通なら避けることはできないが、ドラゴンは翼の抵抗と尻尾や腕のカウンターウェイトを使い、容易に空中で体勢を変えて槍を避けた。
 とはいえ、地上よりも動きが鈍いため、何発かは騎士の槍を食らっていた。だが、それはきっちりと手の甲を覆う固い鱗か、足の鱗で防御されて弾かれ、有効な打撃とは言いがたかった。せいぜい彼女の蹴りの軌道を変えるにとどまった。
 騎士も、もとより空中にいるドラゴンに有効打を与えることは期待していなかった。本命は、ドラゴンが着地する瞬間、槍を回し、ドラゴンの足を槍の側面にある斧の部分――アックスで足払いをかけることだった。
 狙いもタイミングも完璧であったが、ドラゴンは最初からその足払いを受けるつもりでいた。自分が転ばされる前に騎士を鈎爪に捉えられると腕を伸ばしてきていた。
 騎士は、このまま槍を振り抜いてドラゴンに足払いを掛けて転ばせるよりも、自分がドラゴンに捕まる方が早いと瞬時に判断し決断した。
 足払いをかけていた槍を払いから突きに切り替え、穂先でドラゴンの足のある場所から更に奥の床を突き、その反動で身体を後ろにそらした。
 足払いをそのままされると踏んで、騎士の位置を計算していたドラゴンの騎士捕獲作戦は、計算に狂いが生じて失敗に終わった。
 ただ、ドラゴンはそれを悔しがる暇を与えられなかった。
 今度は騎士が床を突いた槍をひねって引き戻した。斧の部分でドラゴンの足を後ろから引っ掛けようというのである。騎士の崩れた体勢からの攻撃に、一瞬油断していたドラゴンは見事に足を引っ掛けられた。
 騎士はこの好機を逃すものかと、体勢は崩れても力技で槍を引いた。ドラゴンは足をかけられ、後ろに身体をそらした。
「ちっ!」
 短い舌打ちをしたのは騎士だった。
 槍を完全に引き戻し、のけぞっているドラゴンに突きを繰り出した。だが、その前に、のけぞったドラゴンは床を蹴り、そのまま伸身の後ろ宙返りをして、美しく槍をかわして減点無しに着地した。
 もしこの世界に、床の上で身体能力を競う四年に一度の世界的競技会があれば、その美しさと技術の高さで優勝していただろうが、今は生憎と戦闘中であった。ゆっくりと回転する伸身で大きく跳ぶのでなく、速く回る屈伸で小さく飛ぶべきであった。
 騎士はドラゴンの宙返りの優美さに目を囚われながらも、身体はすべきことを実行していた。着地する瞬間を狙い、ドラゴンに向けて渾身の突きを追撃するように繰り出した。
 ドラゴンも自分の宙返りに少し酔いしれていたのか、その追撃の突きに対する防御が遅れた。自分のみぞおちを狙う鋭い突きを避けるのは無理と判断し、ドラゴンは騎士の突きを腕の硬い鱗でブロックし、後ろに飛んで突きのダメージを抜いた。
「こんなに早く後ろに下がらされるなんて、また腕を上げたわね」
 ブロックした上に後ろに飛んでいるため、ドラゴンにダメージは全くなかった。しかし、それでも彼女は感嘆の声を上げた。
 何も知らないものが見れば、この戦闘は一方的に騎士が押されているように見える。それはその通りである。だが、それが実はすごいことであった。
 もし、戦場にドラゴンの姿があったとする。すると人間側の将軍は、ドラゴンのために主力の精鋭部隊から千人規模で兵を割いて、彼らに全滅覚悟で彼女の足止めをするように命令することになる。文字通り、ドラゴンは一騎当千の存在であった。
 もし、人の身でドラゴンを殺そうとするならば、主神の祝福をかなり受けた大物の勇者が、伝説級の武器と防具を装備することが挑戦の最低条件になる。その上で、勇者をサポートする優秀な従者が数十人は必要である。そして、綿密な計画を練り、さまざまな好条件を揃えて、運が味方して、ぎりぎり倒せるかどうかだろう。それを証明するかのように、ドラゴンを屠ったという勇者は、そのほとんどが伝説の中の伝承か、酒場の与太話かで、証拠がないものばかりであった。
 それほど絶対的存在が、ドラゴンというものであった。
 ただ、騎士に対してドラゴンは手加減していた。それは驕りではなく、魔物の共通の性質とも言える。
 特にドラゴンのようなハイレベルの魔物が人間相手に本気で戦えば、勇者でも並みのものなら瞬殺してしまうほど実力に差があった。しかし、人間を愛する魔物にとっては、それは悪夢以外の何者でもない。なので、自分の生命の危機がなければ、自然と人間相手は手加減してしまうのである。
 更に言うならば、人間と格闘勝負しようとする武人系魔物のほとんどは、対戦ハンデを自らに課していることが多かった。そうしないと勝負にならないのである。
 今、騎士と戦っているラシアの場合、一対一の勝負であれば――
 ドラゴンブレスは使わない。
 羽根を使って空中に浮かない。ただし、姿勢制御はよい。
 周囲に置いている宝物を傷つけない。
 相手の攻撃を受けて下がらない。床に膝や手をつかない。有効打を受けない。
 もし、これを破れば、自分で反則として、減点していく。減点三で自分の敗北としていた。それまでに対戦相手を気絶か退却させれば、ドラゴンの勝ちである。
 ちなみに、ブレスは一発アウトの減点三。翼は一瞬なら減点一。明らかに使えば、減点二。他は減点一としていた。
 つまり、先ほど、ドラゴンは後ろに飛んだので、騎士は一点獲得したわけである。
 これまで、このドラゴンに挑んだ勇者たちは、大抵、一点も獲得できずに敗北していた。それどころか、手加減されていても攻撃を一度も防ぐこともできず、瞬時に気絶させられて、砦の外に放り出されていた。そして、砦やその周辺に住む魔物たちが敗北した挑戦者を手厚く介抱して、快楽の世界へと導いてあげるという万全のアフターフォローがされている。
 かつてはカップルのたまり場だったが、今はひそかにナンパの名所になっていた。ただ――
「宝石好きの黒いドラゴンに財宝を盗まれたら、それは無かったものと諦めろ」
 それがこの周辺での人間たちの合言葉になっていた。
 というのも、何人ものそこそこ著名な勇者がラシアに挑み、返り討ちにあっていた。教団では、実害の少ないラシアに手を出して、貴重な主神に祝福を受けた勇者戦力を失うことを恐れ、基本、彼女への討伐を許可していなかった。
 そのラシアを減点させたのは、ここ数十年で彼ぐらいであった。
 もっとも、騎士ゲオルギオスはほとんど無名であったため、それを信じるものはいなかったが。更に言うと――
「ラシア殿との勝負は、一勝一敗一引き分け。五分ともなれば、修練にも気合が入るというものだ」
 騎士は好敵手からの賛辞を素直に喜び、ニッと子供のような笑顔を浮かべた。
 彼女を初めて敗北させたのも、彼であった。
「一勝一敗一引き分け?」
 ドラゴンは眉を跳ね上げた。その表情に騎士は怪訝な顔をした。
「お前の二勝一敗でしょうが! 間違わないで欲しいわね」
 ドラゴンは戦闘中にもかかわらず、腰に手を当てて呆れたように騎士の間違いを指摘した。
「ちょっと待って、ラシア殿。こちらが一勝二敗と言うならまだしも、なぜ二勝なのだ? どう考えてもおかしいぞ」
 騎士は槍を下段に構えて、防御の構えで反論した。
「おかしくなんてない。人間でもボケるには早いぞ」
 ドラゴンの方は、この問題が解決するまでは攻め込むつもりはないと腕を組んだ。
「当たり前だ。これでも、まだぴちぴちの中年だ!」
 騎士は妙に自信たっぷりに胸を張った。いつの間にか、気取った物言いがくずれ、彼の地であろう喋り方になっていた。
「ぴちぴちかどうかも異議があるが、それよりも二度目の勝負。あれを引き分けにしているのだろう? あれはお前の勝ちだ」
 異議は認めない。と顔に書いてあるかのように断言した。だが、ドラゴンに挑む騎士がそんなことでは引き下がらない。
「あの勝負はお預けになったのだから、引き分けだ」
「こちらの都合で勝手に中断したのだ。それに、宝玉も返しただろう。だから、私の負けなのだ。強情な奴め」
「それはお互い様だ」
 騎士とドラゴンは、対戦している時よりも熱くにらみ合った。
「だいたい、中断の原因は、魔王の勅使と名乗るサキュバスがやってきて、魔王に呼び出されたからであろう? なら、文句は魔王にでも言うしかない。不可抗力というものだ」
 騎士はそう付け加えて、二度目の勝負での中断がドラゴンのせいではないと改めて主張した。
「だから、魔王にはちゃんと文句は言ってきたわよ」
 鼻息荒くしてふんぞり返った。騎士はその姿に、怖いもの知らずというか、世間知らずというか、言葉を迷った。
 魔物の中でもドラゴンクラスともなれば、魔王の魔力に完全に支配されているわけではない。その気になれば、魔力をそれなりに消費はするが、旧魔王のころの姿にも戻ることもできる。
 そこにくわえて、元々、忠誠心とか、統率などが希薄な魔物の陣営である。ドラゴンたちが自分たちを魔王の配下と思っているわけがなかった。さらに、魔王側もドラゴンたちを無理に使役しようとはせず、協力を要請するといった形で彼女らの顔を立ててくれていた。それゆえに、魔王とは力の差はあれ、対等という感覚が彼女たちにはあった。
「まあ、なんだ。文句の言える立場でも、宮仕えではないにしても、世話になっていることもあるだろう? わざわざ使者を立てられては、無碍に断るわけにもいかない。そうだろう?」
 騎士は、わがまま勝手なドラゴンでも色々としがらみの中に生きているのを感じ、何かおかしさがこみ上げてきた。
「なに笑ってるのよ! ええ、その通りよ。今の魔王には世話になったこともあるし、あれでも魔物の長だから敬意は払う……払うわよ……」
 といいながらも、身体を小刻みに振るわせはじめた。騎士は何か野生の勘が働いて、何気なく自分の盾のある場所を確認した。
「でもね! 楽しみにしていた勝負をお預けにされてまで呼び出された要件が、魔王の旦那に新調した鎧をプレゼントしたいから、その性能テストに協力して♥なんて、どうかと思う! しかも、ひさしぶりに来たんだからと、強引に魔王城に引き止められて、のろけ話を延々と……黒炎のラシアが砂を吐くところだったわよ!」
 怒りをあらわに床を蹴っていた。さすがの騎士も、初めて聞いた勝負を中断させた召喚理由に目が点になりそうになった。そして、「魔物の世界は奥が深いな」と逆に感心した。
「それは……災難、だったな。しかし、そちらに非がない中断なのは変わりない。本当なら、俺の負けでもおかしくないぐらいなのだぞ。引き分けにするのも、気が引けるぐらいだ。それに、その時に勝負を中断したお詫びとして宝玉は返してもらったのだ。詫びを受け取って、勝ちまで受け取れるか」
 騎士としては、目的を果たしたが、その達成が腑に落ちず、もやもやした気持ちを抱えて、宝玉を王宮に持ち帰ったのだった。
 凱旋した彼は城で英雄扱いされたが、そんな賞賛など無視して再びドラゴンとの勝負を望み、鍛錬に明け暮れた。そして、一年ちょっと経って、宝玉が再びドラゴンに奪われたと聞いた時は歓喜の叫びを上げないでいることがかなり苦痛なほどだった。
 こうして、ドラゴンとの再戦を果たし、見事に彼女に打ち勝ったのだった。その真の意味で宝玉を奪還した戦いが、一年三ヶ月前の前回の戦いだった。
 なので、前々回の対戦を勝ちにされると、前回の対戦での勝利の値打ちが下がってしまう気が騎士はしていた。
「だ・か・ら! 宝玉の奪い合い勝負でしょうが。それなら私の負けになるでしょ。わかんないわね。いい? 私の都合で勝負を途中で止めたんだから、私の負け。お前だって、逆の立場で、この部屋から撤退したら負けとしたでしょ」
 しかし、ドラゴンはそんな騎士の思いは理解できず、何で自分の言っていることが理解できないのかが理解できないという表情を浮かべ怒りを露わにしていた。
「そう言われてもだな、これでも闘いの神を信奉する武人の一人だ。完全に負けていたのに、相手の都合で譲ってもらった勝ちを勝ちと数えるのは武人として恥ずかしい。それもわかってくれないものかな?」
 男のというより、武人の意地があることを伝えた。口に出してもわかるかは微妙だが、出さない限りはわからない。
「わからないわよ、そんなこと。だいたい、魔物よりも弱い人間なのに、そうやって対等になろうとするのが理解に苦しむわ」
 案の定、騎士の意地は理解されず、ドラゴンは本気で不思議な生き物を見たという風に騎士をまじまじと見つめた。
「その人間に合わせて手加減までしてもらっているのだ。こちらも少しは意地を張らねば格好が悪い」
 力の差は歴然としている。騎士の力では本気のドラゴンが相手なら、十回も刃を合わせれば騎士の死をもって勝負を決してしまっているだろう。もっとも、それでも人間とすれば十分すごいのだが。
「本気でよくわからないわ。だいたい、その槍からして、何よ!」
 ドラゴンは再びイラつき始めて、騎士の持つ槍を凶悪な鉤爪で指差した。
「この槍に何かあるのか? 普通の槍だが?」
 騎士は、年代ものではあるが、それなりに名の知られた名工の作である愛槍を見た。
「なんで、刃を潰しているのよ? それじゃあ、単なる鉄の棒も同じでしょう!」
 なまくらでドラゴンに挑むなど、古今東西の英雄、勇者でも聞いたことがなかった。しかし、騎士はそのドラゴンの言葉に、「なんだ、そのことか」という顔をした。
「刃がついていたら、突いたり斬ったりしたら痛いじゃないか」
「当たり前でしょ! それが槍なんだから」
 騎士の答えにドラゴンは先ほどの魔王召喚の理由をいう時と同じぐらい地団駄を踏んだ。
「魔物はよほどのことがなければ人を殺さないのだ。ならば、こちらも同じことだ。それに、この槍は刃がなくても、本気で突けば、魔物でも結構、痛いぞ」
 刃を引いていても、魔法の金属が混ざっている素材を使い、魔法を施している槍なので、単なる鉄の棒などよりもダメージを与えられる。彼の腕であれば、そこそこの魔物でも気を失わせることができた。
 しかし、それでも、ドラゴンに対しては弱すぎる攻撃力である。
 彼の槍は名槍と呼ばれるものだが、それは品質がいいという職人レベルの名槍である。そのレベルでは、例え刃があったとしても、クリーンヒットしてドラゴンの鱗にかすり傷をつけれるかどうかといった程度だった。
「魔物を舐めすぎよ! 私を愚弄するつもり?」
 噛み付くといわんばかりに口を軽く開いて、鋭い牙を見せて威嚇した。
「愚弄などしていない。それはお互いに戦ったもの同士、わかってくれると思うが」
 騎士はドラゴンの言葉に初めて怒りのような感情をのぞかせて言い返した。
 ドラゴンも自分の失言に悔いて顔をゆがめ、目をそらしたが、発言を撤回するようなことをする素直な彼女ではなかった。
 しかし、騎士も彼女の性格をよく知っているので、その表情だけで十分で、それ以上の追求はしようとはしなかった。
 そんな自分に対する理解も、ドラゴンには腹立たしく感じて、更に苛立ちが募った。
「だいたい、お前ぐらい腕があるなら、教団の加護を受けて、もっとよい武器や鎧、道具を使うこともできるだろう。教団の信奉する神に祝福を受ければ、その名を大陸にとどろかせる勇者となれるというのに。そうしないなんて変な奴だ……」
 ドラゴンは何かしら文句を言いたいのだろう、騎士の生き方に苦言を言い出した。
 この騎士は勇者ではない。
 勇者とは、教団の信奉する主神に祝福を受けて、魔王を倒す任務にあるものをいう。もっとも、実際は勇者となったからといって、必ずしも魔王討伐に赴くわけではないのだが、一応はそういうことになっていた。
 騎士は、主神からは祝福を受けていないが、代わりに闘いの神から祝福はされていた。ただ、その祝福の力は、魔物に対しては主神ほど強力ではない。しかも、どちらかというと攻撃の力よりも、防御の力を優先的に高めてくれる。それは闘いの神は主神と違い、人間の死と同じく魔物の死も積極的に望んでいないためであると言われていた。
 ともあれ、大半の人間たちが、主神を信奉する教団に属している中、反魔物国家で、これほどの実力がありながら教団に属していないのは、かなり異端な存在であった。
 それもあって、この騎士の名はほとんど知られておらず、知られていても、ほとんどが悪評ばかりであった。
「教団か……。今は世話になっている国から騎士の身分を与えてもらっているが、俺は元はただの兵士だったからな。前線で戦い、生き残れば残るほど、教団の言葉が額面どおりでないことぐらい馬鹿でも気づく」
 騎士の顔は、酸味と苦味が口の中に広がったような表情になったが、それもほんの一瞬のことだった。
「そういうことなら、魔物と今も戦っている勇者たちは大馬鹿者になるわね」
 その表情に気づかず、ドラゴンはからかうように皮肉った。矛盾を感じる歴戦の勇士たちが多いなら、とっくに戦争は終わっているはずである。
「ある意味はそうだな。俺たち、兵士にとっては、勇者になれるという言葉は甘く心地よい。戦士としての栄達と尊敬、そして、金と権力。地べたに這いつくばっている人生からの脱出だ。そんな甘い蜜を目の前で垂らされれば、その言葉を蜜と一緒に飲み込むことを俺は責められない」
 支配者層による搾取で貧困にあえいでいる下層の人間は、教団や国の兵士となり手柄を立てるしか這い上がる方法がない。しかし、兵士になっても、屯田兵として男手を失った土地を開拓をするだけか、貧相な装備を与えられ、大した訓練もせずに捨て駒のように戦場に送り込まれるだけであった。
 そんな使い捨ての兵士が、運よく魔物にさらわれず、手柄を立てて、帰還できれば、教団からそれなりの報奨金をもらえる。さらに、そのうち、勇者に推挙すると言われれば、大半のものは教団の嘘に目をつぶろうと考える。
「お前は違うの? 甘い蜜を吸おうとは思わなかった? 清廉潔白な騎士様」
 ドラゴンは冷やかすように騎士を挑発した。
「残念だが、それほど俺は清廉潔白ではない。正直なところ、教団の嘘など、どうでもいい。戦う理由はいつでもどこでも、ほとんどが嘘まみれだからな」
 騎士は苦笑いを浮かべた。魔物相手だけでなく、人間同士の戦争にも参加したことはあった。
「ならどうして?」
「魔物は人を殺さないのだろう? 相手が不殺なら、こちらも不殺で戦いたいのだ。ただそれだけだ」
 教団にいては、魔物を殺すことを強要される。また、魔物を殺すことでしか手柄を認められない。
「お前のその余裕が気に食わないわ。弱いくせに」
「そうだな。それと、夫を持つ魔物を殺してしまうと、その夫が悲しむだろう? 中には命を絶つものもいるらしい。これが平等に殺し合いの戦争ならば、死力を尽くして戦った結果といえるが、そうではないからな。魔物を殺すことは、よほどの理由がなければできん」
 実を言うと、夫がいるような魔物は滅多に戦場などに姿を現すことはない。戦場に行くぐらいなら、夫といいことをしていた方が何百万倍も素晴らしいという価値観は魔物共有のものである。
 「いい人ができたから軍を辞めます」という辞表は「なら、仕方ない」と魔物全員が納得する理由であった。人間で言うならば、「親が倒れたので実家の商売を継ぐことにします」ぐらい引き止めにくい退職理由である。したがって、魔王軍は独身の魔物がほとんどである。
 むしろ、魔物にとって戦場は、命がけではあるが、合コンや婚活パーティなのである。そんなところに、夫のいる魔物が行く理由も用事もなかった。だが、騎士はそこまで魔物世界に精通しているわけではなかったので勘違いをしていた。
「立派なものね、騎士ゲオルギオス」
 騎士の勘違いを差し置いても、その考えが立派なことはドラゴンにも理解できた。それに、騎士ほどの実力があれば、魔界奪回の先陣を任されるかもしれない。そうなれば、魔界に住む夫のある魔物が防衛戦をすることになり、騎士のいう悲劇が現実となることもあったかもしれない。
「ちょっと面倒な生き方をしているだけだ。立派というのは……もう少し、人に尊敬される。魔物ではなくてな」
 宝玉の奪還で英雄扱いされたものの、それは小さな一国の中で、しかも一時のことである。大半は教団に逆らう異端としての評価の方が大きい。最近では、宝玉を奪回できたのも魔物に通じていたためという噂も流されていた。
「じゃあ、魔物の軍門に下れば、お前も魔物の仲間入りよ。そうすれば、仲間からの賛辞になるじゃない。立派になれるわよ」
 ドラゴンは少し上ずった声で言うと、喉の渇きを覚えたのか、生唾を飲み込み、乾いた唇を二股に分かれた舌で舐めた。
「お、お前がどうしても――どーうしてもよ? 私の……魔物の軍門に下りたいと言うなら……特別に、この私が、口を利いてあげてもいいわよ。ドラゴンの私が人間のお前を推挙すれば、皆が驚くわ。こんなことは滅多にないことだから。お前は必ず魔物の中で重用されるし、尊敬もされるわ。ど、どうかしら? お前にとって、悪くない……こんなにいい提案はないはずよ」
 かなりしどろもどろになりながら、途中で何回か声がひっくり返りながらもドラゴンは言い切った。そして、相手の反応を待って、じっと騎士を見つめた。その間、彼女の尻尾が無意識に左右に動いて、床をせわしなく叩いていた。
 騎士は全てがわかった。そして、少し考えてから口を開いた。
「確かに魅力的な提案ではあるな」
「そうよ。私の提案だもの」
 ドラゴンはその琥珀の瞳を輝かせて身を乗り出した。尻尾が床を叩く音がテンポアップしている。このままでは、怒りの地団駄でも割れなかった床の大理石を叩き割るのは時間の……たった今、叩き割った。
 騎士は一度目をつぶり、呼吸を整えた。次の一言を発する覚悟を決めるために。そして、決心して、目を見開いた。
「だが断る!」
 騎士の一言で部屋の空気が固まった。ドラゴンの尻尾は中途半端なところで緊急停止していた。まるで、部屋の時間が止まっているかのようであった。
「な……なんで?」
 固まっていたドラゴンがかろうじて、声を絞り出した。
「すまない。俺はロリコンなんだ!」
 騎士のとどめの一撃で部屋の時間は再起動した。ただし、ブルーバック、もしくは爆弾マークで。
「……。……っ。……この変態!」
 ドラゴンの怒号が、そのままブレスになって彼女の口から吐き散らかした。黒い炎が部屋に満ち、財宝がその熱で溶けていった。
 騎士はこれを予測していたので、事前に確認していた盾の場所へ、とどめの一言を言った直後に迷わずにそこに飛んでいた。そして、ドラゴンブレスが来る前に盾を構え、その盾に仕組まれている防御魔法で直撃を免れることができた。
 それでも有り余る熱量が空間を満たし、輻射による膨大な熱が騎士に襲い掛かった。その熱は鎧の防御魔法に助けられ、致命傷までにはならずにすんだ。
 しかし、至近距離から必殺のドラゴンブレスを受けたのである。盾は無残に溶け落ちて原形をとどめず、鎧も青い塗料が防御の許容限界を示す赤へと変色しきっていた。当然、防具を通過したダメージは騎士が負うことになり、ダメージは避けられなかった。
 やがて黒い炎が霧散すると、部屋にあった財宝の三分の一ほどを宝石の混じった金と銀の合金にしていた。床石が溶けて赤い溶岩になっている場所もあった。これほどの威力を持つため、ドラゴンも禁じ手にしていたのである。
 騎士が生き残れたのは、ドラゴンが無意識に騎士に直撃させないように手加減してくれたおかげであった。もし、明確に殺意をもって攻撃されていれば、確実に三回ぐらい死ねるほどオーバーキルされていただろう。
「馬鹿! 変態! 大っ嫌い! えーと、えーと……おまえのかーちゃん、でべそ!」
 ブレスを吐き終わった彼女は、知能の高いドラゴンにしては貧弱なボキャブラリーで罵った。そして、琥珀色の瞳からいくつかの竜水晶を床に落とすと、窓を突き破り、空の彼方へと飛び去っていった。
「ちょっ!」
 騎士はその飛び去る後姿に手を伸ばしたが、炎と距離の壁に遮られ、届くことは無かった。
「これはミスったな」
 ブレスの業火に焼かれた絢爛豪華な部屋の中、騎士は困った顔で頭をかいた。
16/09/10 23:45更新 / 南文堂
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■作者メッセージ
バトルものを書きたくなって、書いてみました。
わかっていたことですが、難しい。ちゃんと描写できていればよいのですが。
三話で完結予定をしております。
そこまでお付き合いいただければ幸いです。

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