連載小説
[TOP][目次]
羽繕いと白い鳥
その日は、要素が欠けていたがために、とても幸せとも思えぬ朝だった。
雨が降っていたのだ。空は薄暗く、気温はぐっと下がっている。タバコの先の800℃が酷く頼りなく感じる冷気に、俺はぶるりと身を震わせてちらりと隣のベランダとを遮る壁を見た。
内守さんが出てこない。雨が降っていても彼女はカッパを被って飛び立つのだが、今日に限って出てこないのだ。青い空も白い鳥も見えない状況は、俺になにか不穏なものを感じさせた。
俺はその場でしばらく色々と躊躇して、ため息ひとつ大人しく自室へと戻った。
今日は大学をサボるか……。めんどいし……。
ごろりと壁際の万年床に寝転び、壁を背にして適当にスマホを弄る。
特に見るものもなく、退屈を感じていたところ。
とつ、とつと壁から音がした。
「…………?」
内守さん側の壁だ。俺は首を傾げた。まだ家にいるのだろうか?
しばらく様子を見ていると、また「トン、トン」と音がする。
そこで俺は何を思ったか、こん、こん、とノックを返してみたのだ。
そうすると、またノックの音が帰ってくる。
「はは」
なんだか下がっていた気分が良くなった気がして、俺は再びスマホを手に取った。
ノックの会話を続けながら、調べるのは白い鳥の画像だ。
レアな白いスズメやシマエナガに始まり、目元の青色が愛らしいカンムリシロムク。
カモメやハクガン、季節によるがライチョウも。そろそろ毛が黒くなり始める頃かな。
サギ種はあんまり好きじゃないなぁ、怖いし。などと思っていると、ある一つの画像が目に留まった。
「シロフクロウ……」
例の魔法使いのアレだ。オウルメイジである内守さんの種でもある。
とん、とん。ノックはまだ続いている。
俺は唾を飲み込むと、シロフクロウの生態を調べ始めた。何かいけないものを見るような気分だった。
「肉食。あまり木に止まらない。へえ、元々日中でも活動するんだ……えっ」
温度変化に弱い。俺はその文を見て、思わず何もない壁を見つめた。「とん、とん」とノックは続いている。
これは、もしかして。
俺は堪らず部屋を飛び出して、内守さんの部屋の扉をノックした。インターフォンを鳴らすも、反応がない。一応壁を叩く元気はあるのだろうが、流石に不安であった。
しばらく様子を見ても、反応がないことに不安が募ってきたところで。
ガチャリとドアが開いて、顔が赤くなった内守さんが顔を出した。
「お、おはようございます。大丈夫ですか?」
内守さんはわずかにぼんやりした目で俺の顔を見ると、にこっと薄く笑った。
「大丈夫じゃ、ないかな」
やっぱりか。よし。俺は一念発起した。「看病するんで、部屋に入って良いですか?」
「うん。ありがとう」
助かるよ、本当に。と内守さんは俺を部屋に招き入れた。
部屋は綺麗に片付いていた。女性の部屋らしく、全体的に可愛らしい家具で揃えられており、アロマまで焚かれていて果物のような香りがした。
「じゃあとりあえず、ご飯お願いしていい?」
「任せて下さい」
俺が上着を脱いで腕まくりしていると、「頼んだよ」と言った内守さんがその場でもたもたと服を脱ぎ出した。俺は堪らず目を背けた。
「ちょ、なにしてるんですか!」
「私寝るときは裸だから」
「パジャマは無いんですか?」
内守さんは首を振った。「使わないものは買わないから」なるほど道理だった。
「せめてTシャツでも着てください! あとパンツも!」俺は顔を真っ赤にして懇願した。
逆羞恥プレイ。魔物娘には良くあることらしいが、まさかこんなタイミングで受けることとなるとは。
俺は気を紛らわすため、目の前の仕事、すなわち料理に専念した。
といってもそう難しいものは作れないし作る気もない。元が肉食というところを踏まえて、お粥にダシと醤油で煮た鶏肉を入れただけのものだ。
「できましたよ」と、テーブルに椀を持っていくと、内守さんは金色の目を細めてこちらを見ていた。俺は気恥ずかしくなって目をそらした。
「ふふ。期待で寝てられなかったよ」
「食べたら寝てくださいね」
ベッドからのっそりと床に座りなおして、内守さんはあーんと口を開けて言う。
「食べさせて?」
「ええっ」
驚いた俺の両腰に、内守さんがもふりと翼を当てた。「掴めないから」どうもそういうことらしい。
いつになく甘えてくる内守さんの様子を見れたことを少し嬉しく思いながら、俺はスプーンを手に取った。のだが。
「んふふ」
それがまた大変なのだ。内守さんは俺を隣に座らせ、右の翼で包むようにしてくるし、ちょっとずつ内守さん側に寄せられている気もするし、なんなら内守さんもちょっとずつ寄ってきている。
そしてきらきらと悪戯っぽく光る金色の目と、口の端から零れた白い粥が艶かしい舌に舐めとられるのを至近距離で見つめる羽目になったのだから。ついでにブカブカのTシャツから乳首が見えそうになっている。
「あーん」
そう言って口を開け、舌を動かして催促する内守さんに、俺は甲斐甲斐しくお粥を差し出し続けた。親鳥の気分だ。
「ご馳走様でした」
と内守さんが言う頃には、俺はもう半身をふかふかで暖かな翼に包まれ、動くに動けない状態だったのだ。しかも反対側は殆ど内守さんに密着している。
「えっと、お粗末様です」
俺が困ったような顔をしているのを内守さんはじっと見て、ニヤニヤしたかと思うとぱっと翼を広げた。ふわりとした暖かさが消え、代わりに冷たい空気が肌をてきめんに刺激した。
内守さんはごろん、とベッドに寝転んだ。
俺は尋ねた。「暖房は、つけないんですか?」
内守さんは言った。「それこそ体調崩れるからね」そしてシャツの裾を器用に持ち上げて言う。「あちこちに羽毛があるから、暑くてしょうがなくなる」
暑いのはダメだ、と内守さんはそのままベッドに倒れたが、俺はそれどころでは無かった。
内守さん。俺の脳内にシャツの下の光景がフラッシュバックする。確かに腹には羽毛があった。そしてその下にも細い毛が。そして。その先は今、ぶかぶかのシャツが垂れて隠れている。視線を誘うように、太腿が艶かしく擦られた。俺は思わず大きな声を出した。
「パンツ履いてって言ったじゃないですかぁ!」
「シャツ着てるんだからいいじゃん。それにしんどいんだよパンツ履くの。シャツより難しい。履かせて?」
「ぐうっ……」
ぐうの音しか出ない。
内守さんの脚はハーピー種らしく羽毛があり、膨らんでいる。手が翼になっていることも含めて考えればそれを履くのはさぞ大変なことだろう。
「人化の魔法……」
「私ね、体調悪いの」
内守さんはここぞとばかりに体調の悪さをアピールした。
俺はその甘えた声に免じて追求をやめることにした。食事はちゃんと完食してくれたし、何より下手に追求すると本当に俺がパンツを手ずから履かせることになりかねないからだ。
「あ、そうだ。ちょっと、テーブル使うから上のもの全部のけて?」
「え? はい」
俺はキッチンに椀を移し、リモコンなどを整理した。何をするんだろうか。
「じゃ、ちょっとこっち来て」
頭の方、と顎で示されたので移動する。俺が首を傾げていると、内守さんがうつ伏せになって片側の翼をぐぐっと広げた。
「うーっ……」
「あ、これか」
俗に言う"スサー"である。スサーとは、鳥が行う翼を伸び下ろすストレッチだ。ピンと翼を伸ばすとすぐには戻せないため、リラックスできる安全な場所で行う必要がある。揃った羽根が見えるのは壮観だ。しかもオウルメイジの翼ともなればそれはそれは大きい。
ほう、と息が自然と出た。
確かフクロウだと脚が見えるようになるんだよな、と視線をやると尻が丸出しだったため慌てて戻したのは余談だ。
「あ、乱れ」そして見つけた羽根の荒れをつい指で整えると、「ひゃ!?」と内守さんが奇声を上げた。
俺が慌てて謝ると、しかし内守さんは。
「い、今の、もっとして! 早く!」
と明らかに平常でない様子で俺を急かしてくる。その切羽詰まった様子に言われるがままに翼に手を伸ばす。
「あっ、ふぁ、んぁっ」
明らかに性的なニュアンスを孕む息遣いに明らかに興奮しながら、俺は興奮を発散するように一生懸命に羽繕いをした。
羽根の一枚一枚を掬い、丁寧に根元から滲み出る油を塗り広げていく。その度に内守さんが嬌声を上げる。着実に美しくなっていく羽根の流れ。白地に黒い模様が映える。感覚が違うのか、根元に寄ると声の質が変わる。その瞬間間違いなく内守さんは楽器で、俺は演奏家だった。
一通り奏で終わり、息も絶え絶えな内守さんが水に濡れたような声で言った。部屋中に、俺でもわかるほどの女性の匂いが立ち込めていた。
「こっちも……」
そう、まだ片翼が残っている。俺はアンコールへの期待に胸を高鳴らせながら、そっと指を下ろした。部屋に響く嬌声。もう、それしか聞こえなかった。
そして。
「すっ、すいません!」
両翼の羽繕いを終えると、俺は頭を下げて慌てて部屋を出た。
何かあのままではヤバいことになりそうだった。生物として致命的なレベルで心臓が高鳴っていたのだ。
それは万年床に崩れ落ち壁を背にしている今も変わらない。荒い息遣いがやけにうるさい。落ち着く為にシャワーを浴びようとも思ったが、身体に残る匂いがそれを押し留めた。
冷たい水を飲み、恐ろしく長い時間をかけてなんとか身体がクールダウンしきるのを待つ。
「寝るか……」
どうせ今日は何も予定はない。思う存分に惰眠を貪ろう。
俺はゆっくりと眠りに落ちていった。

明くる日。
「昨日は助かったよ、ありがとう」
朝起きると、ベランダにぶかぶかTシャツ姿の内守さんがいたので、慌てて出るとそう言われた。
内守さんの何も無かったかの様子に、俺はひょっとしてあれは夢だったのではとふと思った。
「はいこれ。吸うでしょ?」
「あ、ありがとうございます」
差し出されたタバコは、例の蜜が塗られたというタバコであった。しかし、今は明らかに別の匂いがしていた。というかベタつきさえある。
昨日、身体に染み付くほどに嗅いだ匂いだ。
内守さんと目が合う。内守さんは金色の瞳を細めて楽しげに俺をじっと見ていた。
そして俺は無言でフィルター部分がベタついたタバコをしばし見つめてから、それを咥え、そっと火をつけた。
女性を感じさせる匂いがふんわりと広がった。内守さんの匂い。
すかさず内守さんが顔を近づけてくる。
じ、と紙の燃える音。
シガーキス。まだ、たった二度目だが、既に何度もやってきたかのように俺は平然とそれを受け入れた。
今日は天気がいい。青い空に白い雲が流れている。
俺の隣にしゃがみ込んだ内守さんが言った。
「昨日さ」
「はい」
「羽繕いしてもらってさ」
「はい」
俺は頷いた。そりゃ夢じゃないよな。夢であって欲しくもなかった。
内守さんはふっと煙を空に吐き出した。
「幸せだったんだよね」
「俺もです」
幸せすぎて死ぬかと思ったのだ。幸せと興奮が急に血管に雪崩れ込んできて、心臓が決壊しそうだった。
「ねえ」内守さんが何でもないことかのように言った。「これ取って」
俺が指を伸ばしてタバコを摘むと、内守さんは優しく指にキスを落とした。
くすりと笑った内守さんが背中から俺にぴったりと抱きついてくる。背中に柔らかい感触。艶のある翼で俺の身体を包み、晴れたとはいえ冷たいはずの空気が熱を持ったように感じた。
肩から顔を出した内守さんはぴったりと頬を合わせて言った。
「これから一生」そしてまた、何でもないことのように。「私の羽繕いしてよ」
「喜んで」俺もまた、何でもないことのように。タバコを咥えた時にはもう、覚悟はできているのだ。
そして、俺たちはほんの少しだけ顔を傾けて、口の端を重ねた。
内守さんが恥ずかしそうに言う。
「ファーストキス、だね」「俺もです」「知ってるよ」
俺は何も返せず、タバコを口に咥えた。まさか知っているとは。
「ねえ」
「なんです」
「タバコ、一口ちょうだい」
「自分のがあるじゃないですか」
「君のがいい」
そう言われればしょうがない。タバコを挟んだ指を口元に差し出すと、彼女はすっと息を吸い込んで少し顔を離した。
そして。
ほぼ同時に、煙を吐きあったのだった。
俺たちはどちらともなく笑った。
こんなやりとりがどうしようもなく楽しく、青い空が、愛しい白い鳥がいて。
どうしようもなく幸せだったのだ。
19/07/27 14:35更新 / けむり
戻る 次へ

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33