連載小説
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period 8
「あらイロハ。おかえりなさい」
 風呂上りらしく、上気して赤みを帯びたすべすべした柔肌をバスタオルに包み、居間のソファに座っていたミレニアは、足を組み替えつつそう言った。濡れてしっとりした髪、水気を帯びた肌、体に張り付いてその輪郭を浮かび上がらせるバスタオル。脚を組んでいるせいもあって、今の彼女はこの上なく煽情的だった。
 彼女本人は意識しているのかいないのか、風呂上りの水気を帯びた肌とバスタオル一枚という組み合わせは、健全な少年であるいろはには少々刺激が強い。
「ああ、ただいま」
 思わず見入ってしまいそうになる胸の谷間やあちらこちらから、意志力を総動員して視線をそらすいろは。
 しかし、いろはとしては必至で押し隠したつもりだったのだが、どうやらミレニアにはバレバレだったようだ。いつも彼女が浮かべている笑みが、より深くなったのが分かった。
 まだ大人とはいかないものの、何もかも明け透けな子供ではない……少なくとも自身をそう思っているいろはにとってそれはあまり面白いことではなかったが――同時にいろははミレニアの前ではどんな人物だろうと赤子同然に思考を丸裸にされてしまうことも知っていた。
「ふふ、隠す必要は無いのよ? イロハが望むなら褥を共にすることだって厭わないわ」
 いろはの感情も、ミレニアには手に取るようにわかるのだろう。冗談めかした物言いも、それゆえの彼女の気遣いなのだ。
 少なくとも、ミレニアとのじゃれ合いに似た軽口の応酬は、不思議と嫌ではなかった。
「誰がするか! 俺たちにはまだ早い! あと早く服を着ろ!」
「もう、つれないのねぇ……」
 他愛もない雑談の合間に制服から私服に着替え、カバンなどを片付けるいろは。できればこのまま熱い風呂に入りたいところだったが、それより急を要する要件が残っていた。
 なおも蠱惑的に笑い続けるミレニアに向き直り、真剣な表情で告げる。
「……なあ、ミレニア。まじめな話なんだが」
 そのいろはの声色の変化を耳ざとく聞きとったミレニアは、深い血色の相貌をすっと細める。
 たったそれだけで、先ほどまでは無防備な少女だったはずの彼女が表現しえない妖しさを帯びるのは、やはり何度見ても慣れるものではない。
 ミレニアもまた――今日の帰り道に出会った女性と同じ存在なのだと、改めて思い知らされる。
 もっとも、ミレニアが悪魔だろうとなんだろうと、いろはに選択肢は無いのだが。
「今日の帰り、不思議なひとに会ったんだ」
「――詳しく聞かせてもらおうかしら」
 そう言ったミレニアの瞳は、確かに堪えきれない愉悦の色を含んでいた。

 ◇◆◇◆◇

「いろは先輩。お待たせしました」
「ああ、別に待ってないよ。俺も今来たところだし。悪かったな、無理言っちゃって……」
「いえ、私が今日が良いって言ったんですし……」
 待ち合わせ場所でいろはが待っていると、約束の時間のきっかり5分前に渚がやってきた。今日も服装はおとなしめで清楚な装いだったが、この前に比べると若干胸元が開いていたりと、少し大胆さも垣間見えている。
 持っている荷物は小さなカバンだけで、それも肩からかけているので両手は自由だった。いろはも渚のことを詳しく知っているわけではないが、なんだかいつもよりもずいぶんと活動的な気がした。
「……? どうかしましたか? いろは先輩」
 その小さな違和感が気にかかって、無意識に渚に視線をやっていたせいだろう。渚が小首をかしげて問いかけてきた。
 その言葉にいろはは自分のしていたことに気づき、あわてて手を振るようにして弁解する。
「あ、ああごめん。不躾だったよな」
「いえ……不思議そうな顔をしてたので…」
「……いや、なんかいつもより活動的だなって思ったんだよ。この前よりもちょっと元気っていうか……。あ、いつもは元気が無いってわけじゃないぞ?」
 いろはがそう答えると、渚は少し顔を赤らめ、
「あ、ありがとうございます……」
「いやいや、お礼を言われるようなことは言っちゃいないさ……」
 いろははミレニアという規格外の存在が常にそばに侍っているおかげで誤解されがちだが、女性経験が豊富というわけでは全くない。むしろ彼自身は奥手で、異性との接触は苦手な部類に入るだろう。ミレニアや渚と普通に会話をこなせるのは、彼女たちがいろはにとって友達としての距離が近いからに他ならないのだ。
 そんないろはのこと。少しでも会話が途切れれば、容易に次の話題を見失ってしまう。そして、奥手なのは渚も同じなのであった。
「………」
「………」
 ちらちらと互いの顔を窺いながら、赤い顔で次の話題を模索する二人の姿は、甘酸っぱい初デートの様子そのものだった。
「せ、先生遅いよなー。早く来てくれればいいのに……」
「……来てはいたとも。ただ少年少女たちの初々しい乳繰り合いを邪魔しては悪いかと思ってね」
 恥ずかしさを紛らわすように言ったいろはは、後ろからかけられた聞きなれた声に驚いて振り向いた。
 そこには、いつものように得体の知れない笑みを浮かべる据わりきった目と、寝癖まみれでよれよれの白衣を纏った小さな少女(に見える大人)が立っていた。
 いつの間に、と思ったのはいろはだけではないようで、渚も突然現れた倉名に対して驚きの表情を浮かべていた。もっとも、この人物の奇行にはずいぶんと耐性が付いてしまったいろはの驚きは少なかったが。
 倉名はそんな二人の事はこれっぽっちも気にかけず、悟りきったような表情で遠くを見つめつつ独白じみた言葉を紡ぐ。
「しかし……人とはわからぬものだな。さも純朴そうな表情を浮かべつつすでに二人もの可憐な少女を手籠めにし、さらに何も知らぬ小鳥のような少女まで手にかけようとする男が、こんな石を投げれば一山いくらで当たりそうな平凡な少年だとは」
「人聞きの悪いこと言わないでくれますか先生」
「人聞きも何も、本当の事ではないか。それとも、尻尾も翼も角もない女性は守備範囲外かね?」
「俺はそんなニッチな趣味の持ち主じゃないです」
「ほう? その言葉、ゆめゆめ忘れないことだ」
 へらへらとした軽薄の笑いを浮かべて言った倉名は、白衣のポケットから高価そうな懐中時計を取り出してふたを開き、時間を確認した。
「さて、行くとしようか少年少女。特に少年には今日一日たっぷりと付き合ってもらうので、覚悟するように」
 懐中時計をポケットに戻し、少女じみた外見に得体のしれない笑みを浮かべた倉名は、そう言って二人を先導して歩き始めるのだった。


 ◇◆◇◆◇


 夏の残り香ともいえる熱気も大分和らぎ、そろそろ冬服の人物も見かける季候になってきたこの街も、やはり体を動かせばそれなりに暑い。
 走ったり跳ねたりなんて言わずもがな、軽く体を動かしただけでも少し汗ばむ程度には体が火照る。
 少し前からだんだんと荷物が増えてきたいろはは、両手がふさがっているために汗をぬぐう事すらできず、黙々と荷物持ちに徹していた。
「ふむ。次はあの店だな。行くぞ、少年少女」
「あ、はい……」
「………」
 商店街の中に何故こんな店があるのかと疑いたくなるような店を次々と訪れては、なぜこんなものが置いてあるのかと疑いたくなるような品物を次々と購入する倉名。
 この平和な日本に「イモリの黒焼き専門店」が存在するとは、また少し賢くなったいろはだった。
「ふむ……ではそちらのものは後で家に届けてくれ。こっちは今持っていくよ。優秀な荷物持ち君がいるのでね」
「へい。御代は?」
「もちろん現金で払おう」
 もう倉名はこの店の常連なのか、店主とも平然と商談を纏めている。
 女性用下着コーナーに紛れ込んでしまった男性客のような居心地の悪さを感じて下手に店内をうろつけないいろはと渚は、入り口で固まってぼそぼそと言葉を交わしていた。
「いろは先輩……教職員って儲かるんですかね……?」
「いや……詳しくは言えないけど、アレは規格外だぞ……」
「ですよね……まっとうな教師が何に使うかわからない物品をこんなに買ったりしませんよね……」
「そしてそれに生徒を付きあわせるあたり、ダメっぷりが加速してるな……」
「ふふふ、聞こえているぞ少年少女」
 すでに山のようになっているいろはの抱える荷物の上に、さらに今回買った荷物を載せつつにやにや笑う倉名。
 そのまま三人は連れだって店を出て、表の通りへと出る。
 朝から始めたこのウィンドウショッピングだが、いつの間にか日は傾き始め、あたりをほのかな赤色に染め始めていた。同時に商店街の終わりまでたどり着いてしまったらしく、先ほどまでの賑わしさとは打って変わって通りはしんとした静寂に包まれている。
 このまま進んでもあるのはさびれた森、戻ってももう新しい店は無い。その事実に、いろははようやく終わったか、とほっと胸をなでおろした。
 その時、倉名は森から懐かしい気配を感じた。はっとしてそちらを睨むが、気配は一瞬で消え今はその残滓すら感じられない。
 しかし、彼女にはそれで十分だった。
「……鷹崎少年」
「え、はい?」
 いつものおどけた口調ではなく、珍しくまじめそのものの口調で以て、彼女は告げる。
「今すぐ帰れ。少女をエスコートしてな。私は少し野暮用が出来てしまった」
 その口調の変化にいろはは気づいたものの、それが何を意味するのかを理解できず言葉を紡げない。
「それと。私の家の鍵を渡しておこう。私の書斎……位置は知っているな? そこに君の助けになるものが置いてある。自由に使うといい。
 まったく、たまには普通の少女らしい贈り物がしたいものだが……やっぱり私は最期までこんな役割だったようだ」
「先生……最期って……何を言ってるんですか」
「……最期くらい、クラナと真名を呼ばれたかったよ、いろは」
 幼い少女の顔に、ひどく妖艶な悲しい笑みを浮かべ、倉名はいろはを見る。その顔に、いろはは彼女の涙を見た気がした。
 何か、とてつもなく嫌な予感――。その不吉な気配に突き動かされるように、いろはは倉名を引き留めるべく手を伸ばそうとした。
「先生!」
「さあ、もう夕暮れだ。未成年は帰るといい。大人はこれから一杯ひっかけていくのでね。
 では――さようならだ」
 しかし荷物に阻まれた右腕は空を切り、歩き出した倉名の肩を捕まえることは適わなかった。
 倉名はもう振り返ることもなく、一人森の中へと歩いていく。
 それを見ていた渚は、何が何だかわからないという顔をして、いろはと倉名を交互に見ている。
「あの……えっと、いろは先輩……」
「……ああ、ごめん。渚。じゃあ、帰ろうか……」
 ここまで来るのにかかった時間を考えれば、家に帰りつくころには日が暮れていてもおかしくは無い。すぐにでも帰り始めなければ、いろははともかく渚はいろいろとまずいだろう。
 それでも、心に刺さった小さなとげのように引っかかる倉名の言葉。
 いろはは、その確信じみた予感を無理やり振り払うと、くるりと踵を返した。
(大丈夫だ……。先生に限って、めったなことは無いさ……)


 ◇◆◇◆◇


 暗い森の中、魔女と悪魔は言葉を交わす。
 互いの瞳に浮かぶ光は、かつてを懐かしむようなもので――同時に激しい殺意の表れでもあった。
「――別れを惜しむ時間をくれるなんて、ずいぶんと大人になったじゃないか」
 魔女はいつもの相手を馬鹿にしたような笑みを持って答え、
「ふん、主こそ策も持たずにのこのこと出てくるとは、随分耄碌したのう、クラナよ」
 悪魔は相手を嘲笑するような笑みで以て答える。
「恋は人を盲目にするものさ。恋に狂って死ぬのなら――悪くは無い」
「言うのう! 我が手加減するとは――思うなよ!」
 どちらの力が上か、それは両者にとっての共通認識。
 打開策も対応策も持たず、無策の策士はそれでも笑う。
「ああ、構わんよ師匠。策に溺れた策士の力、とくと見るがいいさ――」
12/05/14 19:40更新 /
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■作者メッセージ
こんにちは、湖です。

更新が遅くて済みません。できるだけ急ぎます。

では、ここまで読んで下さった皆様に精一杯の感謝を。

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