連載小説
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第3話 白鯨再来【モビーディック】
 キートムィースには一つの伝説がある。

 かつてこの岬の沖には島があった。だがある時、七日七晩に渡って続いた地震の後、その島は人知れず海中に没したという。

 滑稽至極、荒唐無稽な噂話だ。そも地震が衰えず七日間も途切れなく連続して発生する事など無いし、島一つが没するほどのものが起きていれば岬の村どころか、大陸の国が壊滅する大惨事だ。現にキートムィースは健在であり、過去何らかの「自然災害」によって大量の死者を出したという記録も無い。

 明らかに風説や流言飛語、後の世でいうところの都市伝説の類。しかし、キートムィースの伝説がそれらの噂話とは一線を画す部分が一ヵ所存在している。

 公式の記録では、二十年前までは確かに島が「あった」のだ。

 およそ十年ごとに連邦全土で行われる地理調査、それにより作成された資料が示すところによれば確かに二十年前には島が実在しており、岬に昔から住む住人もまたその存在を証言していた。公式の記録にも残されていた歴とした孤島だったのである。

 しかし、現実に島はもう無い。殺人的厳冬ゆえに潜水調査は不可能だが、もはや洋上にその痕跡を確認することは出来ない。消失した島の存在を誰もが忘れ、時代の流れと世代交代の末にその事実すら忘却されていった。

 興味深い証言はまだある。

 島が消えた瞬間を目撃した者はいない。だが、島の消失と前後して断続的な地表の揺れが岬にて発生した。国土調査員が正式に観測した訳ではないが、やはり当時の住人が口をそろえてそう証言しており、その揺れが収まった後に島は煙のように消えたという。

 更に、その揺れが発生する数日前、岬の村に旅人が訪ねて来たという。その旅人は村に着くなり小舟を借り、流氷満ちる北海へと漕ぎ出したと。その行き先には例の島があった。旅人の存在と地震、そして島の消失という一連の事件が繋がっているのかどうかは不明のままだ。

 島の消失後、その姿を見た者はいない。





 二人の超人が街の地下で抵抗勢力を潰している最中、【アリエス】と【アクエリウス】の二人は中央管区のとある一室に出頭していた。ゲオルギア連邦陸上軍・中央管区指令室、そのすぐ近くに設けられた応接室だ。

 「同志中将閣下におかれましては、ご健勝かつ益々のご清栄、まことに喜ばしく。招集命令により超人兵科『ゾディアーク』、【アリエス】参じました!」

 「同じく【アクエリウス】、参じました!」

 「うむ。長きに渡る調練、ご苦労。まずは掛けたまえ。楽にするといい」

 上質な生地を使った軍服を身に着け、胸元には軍のトップ、その一人であることを示すバッジが朝日を受けて輝いていた。

 「さて……まずは、つい昨日の分室襲撃の件だ。回収された遺体に対し更なる検証と、二重三重にも及ぶ確認作業を行った結果、やはり【リブラ】の遺体であることが確定的となった」

 「そうですか」

 「中央での蜂起を許したという事実、そして貴重な新戦力をこんな早期で失ってしまった事に対し、いずれ各担当部署は詰め腹を切るだろう。無論、その累は私にも及ぶ。諸君には現場の杜撰な警戒体制と、私自身の不徳が招いたこの事態をまずは謝罪したい」

 「閣下ほどの方が……」

 「階級は関係ない。むしろこの不始末に対してはトップである私こそが、率先して責任を取る立場にある。現に反体制勢力の炙り出しすら満足に出来ていなかった訳だからな。私はその整理に追われる事になるが、その前に……」

 傍に控えていた副官が進み出て、まとめられた紙の束を【アリエス】の前に差し出す。表紙には簡素に調査書類と銘打たれ、そのナンバリングと許可のない持ち出しと写しを拒む「極秘」の印が押されていた。

 「これは【リブラ】及び分室がまとめていた、『白鯨』に対する観測記録と、その調査資料になる」

 二人は揃って息を呑んだ。分室の襲撃により大半の資料は失われたと思われていたが、ゾディアークの活動に必要な物に関してはより管理の徹底した中央管区の資料室に保管されていたのだ。

 本来なら今日この日、合流を果たした【リブラ】自身の手でこの資料は各人に渡されるはずだった。恐らく現状において敵を最もよく知っている者が【リブラ】だけだ。残りの四名は、暫定隊長の【アリエス】ですら敵を、『白鯨』が如何なる存在なのか全く知らない。

 そう、誰も知らないのだ。戦うべき相手の事をその名以外なにも知らない。

 「拝見しても?」

 「その前に、君は『白鯨』という存在に対しどんなイメージを持っている?」

 「イメージ、ですか?」

 「そうだ。人を超えた存在、“超人”……その最先端、第三世代超人兵科『ゾディアーク』。旧い人間など足元にも及ばない新人類。単独で一個小隊にも匹敵する戦力。そんな諸君が、十二人全員揃って臨まなければならない規格外の仮想敵……。最初にそう聞いた時、どう思った? 個人としての感想で構わない。聞かせてほしい」

 中将の言葉は食い入るようで、とても興味本位だけでそれを聞いているようには思えなかった。恐らく、いや確実に、中将はこの資料に目を通している。その上で問うているのだ。

 「……正直なところ、今の状況では如何とも返答しかねます。ですが、個人の直感的な言葉で構わないのでしたら、強いて述べることは出来ます」

 「聞かせてくれたまえ」

 「率直に、『ありえない』とだけ」

 「その理由は?」

 「驕るつもりはありませんが、我々には自負があります。自信があります。およそ地上に並び立つものなど無いと、それだけの性能を与えられたのだと自覚しています。今の我々を凌駕し得る存在など、それこそ地上に顕現する神性を除いて他にいません」

 だがそれは有り得ない。他の土地ならいざ知らず、徹底的に信仰を「殺した」このゲオルギアにおいては神性の降臨それ自体が有り得ない。天地が引っ繰り返っても、などとよく言われるが、天地逆転が絶対に起こりえない事柄であることは常識だ。

 そう、「常識」なのだ。

 疑う余地の無い、そもそも信じると念じる必要すらない当たり前。きっとそれは自分たちを創り出した“彼”ですらそこは共通するのだろう。

 だからこそ、その「常識」を揺さぶる規格外の存在をまずは認めなければならない。

 「ですがその『ありえない』とされるものが存在しているという以上、それは脅威に他なりません。我々はその事実を受け止めた上で万全な対策を講じる必要があります」

 【アリエス】は優秀だ。真の優秀な存在とは自らの才能を自覚し自信を持ちつつ、決して驕らない、絶対に油断も慢心も無い精神的盤石さが求められる。その意味では彼は合格点であり、眼前の中将もそこを正しく認識できた。

 「試すような事を言って済まない。これでもし何の思慮も無く『勝てる』などと即答していたら、さしもの私も開示を躊躇っただろう」

 ここに居るのが【タウロス】でなくて良かったと、心の底より安堵する【アリエス】だった。絶対の自負しか持っていない彼なら確かに何の思考もせずに即答しただろうことは容易に想像できる。

 「では、君の言うところの『ありえない』ものが、この国に刻み付けたその爪痕を……確認したまえ」

 今一度、【アリエス】は調査資料を凝視する。およそ指一本分の厚さに纏められた紙の束には、これから対峙するであろう怪物について事細かに記されていることを予想させた。

 端に指が伸びそれを捲り上げる。

 その資料の出だしは、ひとつの『神話』から始まった。





 ユーリィが地上に出た時、そこは中央から離れた下町、その更に路地裏だった。大小様々なゴミが散乱する路地、その一部が開き地下水道から脱した彼はひとまず物陰に身を潜める。

 「追跡者は……いない、か」

 敷き詰められた生ゴミの山は年中通して吹き荒れる寒風のお陰でなかなか腐敗が進まず、体臭を掻き消し且つ身を隠し続けるにはそれほど苦でもない環境を作っていた。さりとて衛生的にも精神的にも長いしたい場所でもなく、追手の有無を確認するとユーリィはすぐにその場を離れるのだった。

 さしあたっては人通りの多い所に出て紛れ込み、そこから事前に決められていたアジトを目指す。道中の尾行に気を付ければ辿り着けない距離ではない。

 急がなければならない。

 だがそんな思いとは裏腹に、ユーリィはものの十数歩も行かないところで腰を下ろし、そのまま座り込んでしまった。動かないのではない、動けないのだ。彼の足を止めた原因、それは肉体的な疲労でもあり、そして……。

 「同志……」

 想起するのは仲間の顔。逃亡の際に自ら見捨てた、見捨てざるを得なかった仲間のこと。恐らくはもう生きてはいない、自分を助けるため身を投げ打った偉大な同志。

 ズベンという男は不思議な男だった。潜伏期間が長引き体制側の動向を察知するのが難しくなっていたレジスタンス、行き詰った自分達の前に現れた彼はいとも容易く体制側の情報をリークしてくれた。最初は半信半疑だったレジスタンスの面々も、もたらされる情報の正確さが裏表の無いことを雄弁に物語り、次第に信頼を寄せるようになるのに時間は掛からなかった。

 彼には先見の明があった。まるで何でも知っているかのように、未来に起こり得る事柄をぴたりと言い当てて見せた。「私は知っている事しか知りませんよ」とは本人の弁だが、それでは逆に知らない事とは何なのか問い質したくなるほど物知りだった。

 戦略情報室の襲撃も彼が立案した。かつて自分が所属していた古巣は国家戦略の要といえる部署であり、そこを直接叩くことで得られるアドバンテージの重要性は誰もが認めるところだった。危険は伴う、ともすれば生きて帰れないだろう。だが事前に念を押しても多くの者が作戦実行に志願した。

 そして、再三に渡り危険性を説いていたズベン本人が、その報復によって命を落とした。そしてユーリィは見捨てるように彼を置いて行くしかなかった。そうするしかなかったとはいえ、その事実は今後ずっとユーリィの胸中に暗い影を落とし続けるだろう。

 「同志ズベン……僕が、僕が弱かったばかりに……」

 悲しんでばかりではいけない。今ここで動かなければ、それこそ彼の身を呈した犠牲の精神は無駄になってしまうだろう。気持ちを奮い立たせた彼は勢いをつけて走り出した。

 しかし、わずか数歩のところでその足は全くの逆へ向かった。

 「いけない!!」

 進行方向にマズいものを見つけたわけではない。まるで忘れ物でも思い出したような急転換で彼は今来た道を猛烈に引き返し始めた。

 事実、忘れ物を彼はしてしまっていた。

 「無い、無い無いッ、無い!!」

 懐を何度もまさぐりながら彼はどんどん逆戻りする。いつ追手が来るとも分からない、接触してしまう確率が上がるというのに彼は、まるで止まろうとはしなかった。

 ようやくその足が止まった時、彼は最初に這い出したゴミ捨て場まで戻って来ていた。幸いにして追跡者はいないようだったが、それでも長居するべき場所ではないことに変わりはない。にも拘わらず彼はその場を離れるどころか、あろうことか周囲にうず高く積み上げられたゴミの山を片端から掘り返し始めたではないか。

 「出る時に、ちゃんと持ち出したはずなのに……!」

 大切なものだ。文字通り肌身離さず持ち歩くほどに。もちろんそれはアジトから脱出する際にも間違いなく手元にあったはずだった。

 だがゴミの山を漁れども目的の物は見つからない。これはいよいよもって水道に落としてしまったのではと、焦燥感に駆られるままユーリィはその場から動けなくなってしまった。常態とは異なり混乱に陥った彼の思考は急速に冷静さを失い、探し物ひとつの為に今来た道を更に引き返さんばかりだった。放っておけばそのまま地下水道に逆戻りする勢いだろう。今まさに追手が差し向けられているかもしれない地下にだ。

 そんな彼の混乱に歯止めを掛けたのは……。

 「おい」

 嗄れ声は突然聞こえてきた。

 「っ!!?」

 地獄の底から響くとはよく言ったもの、声帯をナイフで何度も刻み込み、そこから更に熱湯を飲み干せばこんな声を出せるのだろうか。掠れているはずなのに存在感に満ちた声は、混乱の坩堝に墜ちようとしていたユーリィを瞬時に引き上げて見せた。

 声の主は労せず見つかった。ゴミの山から僅かに離れた民家の壁際に、およそ寒風を防ぐには心許ない限りのボロ布を幾重にも身に纏い、顔は見えず痩せ細った枯れ木の腕のみが覗く幽鬼の如き男……それがいつの間にかそこに在った。

 「おい」

 「な、なんでしょうか」

 ただそこに居るだけ、ただ座っているだけ、ただ在るだけ。それ以上の事は何もない。にも関わらず、その佇まいに尋常ならざる威圧感を覚えたユーリィは自分から動くことが出来ず、再度の呼び掛けに対し返答をするのがやっとだった。

 「ガタガタ、ガタガタと喧しい。癇に障るんだよ」

 「も、申し訳ありません。その……ここの近くにお住まいだとは、露知らず……」

 顔は見えなくても分かるのは、とにかくこの男が「怒って」いるという一点だけだ。怒りとは、その発生が認められた時点で他者を委縮させる波動となる。この男のそれは疲労と混乱に見舞われたユーリィにとって、轟々と燃え盛る炎の熱波に当てられているのにも等しいものだった。

 「何を探している」

 「大切なものを……。ここに来る途中で落としてしまったらしくて」

 「それはなんだ」

 「……本、です。これぐらいの、持ち運びできる」

 そう、本だ。そしてユーリィが肌身離さず持ち歩く書物など、ひとつしか存在しない。

 「おまえ、文字が読めるのか。珍しいな」

 「え、ええ。独学で……」

 「そうか。このゴミ溜めだ、失くしたらもう戻らない」

 騒々しくしていた理由が正当なものとして認めてもらえたのか、謎の乞食の怒りは少し収まったようだ。身を磨り潰されるような圧迫感は消えてなくなり、ユーリィは再度探し物に直った。

 「いい加減にしろ。諦めてどこかに行け」

 「行けません。僕にはあれが無いと、あれを失くしてしまえば……!」

 申し訳なさを覚えながらユーリィは機嫌が悪くなった乞食に事情を説明しようとした。

 そこでようやく彼は気付く。

 「っ!? 失礼ですが、それは!?」

 「そこで拾った。やけに珍しいものが落ちていると思った」

 乞食の手にはいつの前にあったのか、一冊の本。何度も読み返されたことで表紙は擦り減り、ページの端々は滲んだ指の脂で色褪せが見て取れるほどだった。結構年季の入っている書物に見えるが、それでも廃棄物の山と化したこの場所にあっては不自然なほど保存状態が良好であることは事実だった。

 「それです……。その本を僕は探していました」

 「おまえの? これが? 冗談だろう」

 無造作にペラペラと中身を捲り確認する乞食の声は、馬鹿にした風ではなく心底不思議そうなものだった。確かに本の特徴それ自体はさっきユーリィが述べたものと一致するが、乞食がそれを疑わしく思うのは至極当然とも言えた。

 「おまえ、外国の字が読めるっていうのか」

 タイトルは、『比翼連理紀行』。英雄に憧れる少年、ユーリィの愛読書。その本にゲオルギアの字で書かれているページは何処にもない。政策により発禁となった為、元からこの国の言葉に翻訳された物は一冊も存在しないのだ。

 「この国の子供は読み書きすら怪しいと聞いていたが、まさか王国公用語を自力で習得する奴がいるとはな」

 「お願いします、返してくれませんか。あなたにとっては偶々ゴミの山で拾った物かもしれませんが、僕にとっては大切な物なんです。どうか、どうか……」

 「別に欲しくもない。鬱陶しいから、もう失くすな」

 放り投げられた書物は緩やかな放物線を描いて、すっぽりとユーリィの手に収まった。目立った汚れも破損も無いことを確認し、ユーリィはやっと安堵の溜息を吐いた。

 「これを読みたい一心で文字を学びました。今では書くことも出来ます」

 「おれには理解出来ない。そこまでしてまで読むほどの価値が、その本には無い」

 乞食は心底どうでも良さそうに呟くと、さっさと去ねと言わんばかりに手をひらひらと振って見せた。どうやら当分ここに居座るつもりのようだ。

 普通ならここまで人を寄せ付けないあからさまな態度に辟易して去っていくところなのだが、曲りなりにも彼のお陰で失せ物探しが長引かずに済んだユーリィは……。

 「訂正してください」

 「はぁ?」

 「僕の趣味嗜好をとやかく言う事は、百歩譲って不問にしましょう。ですが、この本を悪し様に言う事だけは納得できません。それはこの本に関わる全ての人々を侮辱する行為だからです。だから、どうか……」

 今度は自分が威圧する番だとばかりに、ユーリィは乞食に詰め寄った。さきほどまで感じていた圧迫はもう、どこ吹く風だ。

 「どうか、取り消してください」

 人生に分岐点が、トロッコの切り替えポイントのような物があるのだとすれば、それは正しくこの瞬間のこと。

 もし彼が愛読書を落とさなければ。

 もし乞食がそれを拾わなければ。

 もし、二人が出会っていなければ……。

 恐らく少年は『英雄』にならずに済んだのかもしれない。





 「そもそも『白鯨』ってのは何だろうな?」

 国境を越えた密入国者の足跡を追って、【タウロス】と【ヴァルゴ】は街から離れ南へ向かう。その道中で何となしに口にしたのがこの言葉だった。

 「その躰は船十隻よりも大きく、その尾の波打ちは島を沈め、その顎に並ぶ牙は島を喰らう。船乗りの間で語り継がれてきた伝説、それに出てくる『神代の獣』……らしいわ」

 「あぁ、お伽噺な」

 「昔から何度か見たとか見てないとか言われてるって。最後に船乗りが『白鯨』の姿を見たのは、遠くジパングの東の海で三百年前……らしいわ」

 「らしい、らしいって、結局噂だけじゃねーか!」

 「そう、あくまで伝説。伝説の白鯨と、わたし達が戦う『白鯨』は違う。わたし達の方は伝説に因んだ呼び名が付けられているだけ。全くの別物。でも、伝説に見合うだけの力はあるのかもしれない。情報が一切伏せられているのも、公表することで発生する無用な混乱を極力排除したいから?」

 「それを俺ら相手にもやってる時点で、上は俺らの実力を信用しちゃいないって事だ。胸糞悪いったりゃありゃしねえ」

 少なくとも件の『白鯨』が小島ほどの大きさ、ということだけは有り得ないだろう。そんな事ならとっくに連邦全土、その半分を放棄しなければならない。あくまで対象に便宜上付けられたコードネームということだ。深い意味は無い。

 だがそうなると次の疑問が浮上する。ある意味ではこちらがメインだ。

 「じゃあ、その『白鯨』は何をやらかして連邦の敵になったんだ?」

 『白鯨』が個人や集団、そのどちらを示す名なのかはこの際どうでもいい。問題は、それがどうして国家の敵として認定されたのか、その経緯だ。通常、国家が政策として敵と認定するのは、国境が隣接し互いの利害が反目し合う国家同士になるのが常だ。国一つが国費を注ぎ込んでまで勝利したいのだ、それぐらいの規模でなければ務まらない。

 だが南下進攻は未だ計画段階。それ以前にアルカーヌムとレスカティエが相手ならそう明言されているはずだ。その二つ以外で連邦に痛手を負わせた存在など、寡聞どころか全く聞かない。

 ここまで隠匿されていると、そもそもからして『白鯨』なる存在が実在しているのか怪しく思えてくる。事実、その迎撃を任されている自分達でさえ何も聞かされていないのだから。

 「会敵にはまだ猶予がある。敵の正体も、作戦も、その時に伝えられる」

 「だといいがな。っと……! こういうのほんと何とかしてほしいぜ、一応首都だろここ」

 愚痴を垂れる【タウロス】の視線の先には通りから離れた路地の裏、道行く人々の死角に位置する場所。そこに無作為に溜め込まれた廃棄物があった。こういう無秩序な廃棄場は街の至る所に存在し、特に清掃処理もされず公然とゴミ捨て場として定着してしまっている。衛生環境などどこ吹く風だ。

 ここもその一つ。下手すれば積まれたゴミの山が民家の二階にまで達しそうだが誰もそれを改善しない。当然。通りがかっただけの二人も何もしない。陰で蓄積する不平不満を誰も解決しようとしない、この国の実態を表しているようだった。

 この角を曲がれば嫌でもその視界にゴミの山を入れることになる。さっさと通り過ぎようとしたのか、次第に二人の足は速くなり、そして……。



 真紅に染まった鮮血の丘を見た。



 「こりゃあ……!」

 「わお……」

 足が速くなったのは不快な光景を見ないようにする為ではない。

 その逆、二人はゴミ山を一刻も早く確認するために急いだのだ。強化された彼らの嗅覚は漂う悪臭の中から嗅ぎ慣れた匂いを感じ取っていた。

 その正体がこれだ。

 「一、二、三……五人、ちがう、六人? よくわからない」

 分からないのも無理はない。その物体は、もはや元が何なのか判別することは非常に困難を極めた。

 手があった。潰されていた。

 足があった、裂かれていた。

 胴体があった。裏返しになっていた。

 頭があった。半分個体で、半分が液体だった。

 引きずり出された中身があった。もうただの泥団子だった。

 殺害、などと生易しいものではない。もはや物体として意味を成さないほどに「破壊」し尽くされ、「かつて人体だった何か」と化したガラクタの捨て場。それがここだった。

 「数えるのは調査班にでも任せとけ! んなことより憲兵呼べ! たしか近くに詰所があんだろ!」

 「呼んでも無駄」

 「どういう意味だ!?」

 ぐちゃぐちゃに掻き回された惨状に臆せず足を踏み入れると、【ヴァルゴ】の指先は肉と臓物の山から血まみれの何かを引っ張り出した。真っ赤に染まって見辛いが、見覚えのある刺繍はそれが憲兵隊の腕章であることを示していた。そしてそこには文字と数字の組み合わせでどの地区の隊かが一目で判別できるようになっている。

 惨殺されたのは、この地区の担当憲兵だった。

 「こりゃ何の冗談だおい……!!」

 戦慄する【タウロス】。仲間内では愚鈍と罵られることもあるが、こと戦闘面に関して言えば彼の頭脳の回転は迅速だった。

 まだ乾いていない血を見るに、虐殺があったのはまだ最近、恐らく十分も経っていない。それこそ二人がほんのニ、三区画手前を歩いていた頃にそれはあったのだろう。厳しい訓練を潜り抜け治安維持を任された精鋭数人、それを一度に滅殺せしめたその所業……想像を絶する。

 「これは、人間の仕業?」

 「以外にあるわけが無ぇ。魔物は人間を殺さない。人間が愛玩動物を殺さないようにな。だからこれは人間の仕業だ」

 そんな事があるはずがない。ここだけ地震と台風と火災が一度に発生したかのような大惨事、そんな現象を引き起こせる存在が人間であるはずがない。何をどんな手段を用いればこれだけの数を瞬時に破壊できるというのか。

 だがそれ以外に有り得ない。凶暴な魔界獣も飼育されていないし、山からも離れている以上、ここで人外の類が暴れ回ったとは考えにくい。何より、そんな存在が白昼堂々と闊歩していれば嫌でも騒ぎになる。

 「どうやら、密入国云々って状況じゃなくなった。【ヴァルゴ】ォ!! お前はすぐにここら一帯の憲兵隊をかき集めろ!」

 「上の判断は?」

 「ゾディアークは状況に応じて独自に作戦行動権を発揮する!! いけ好かねえ【アリエス】の判断なんぞ待ってられっか、俺たちだけで仕留めるんだよ!!」

 死骸の一つを無造作に掴み、鮮血をべっとりと浴びた手に鼻を近付ける。猟犬以上に強化された嗅覚が、鉄分を豊富に含んだ液体の中から不自然なひとつの匂いをキャッチするのに一秒も掛からない。

 「感知完了、追跡開始! 待ってろよ、すぐに終わらせてやる! ゾディアークで真っ先に手柄を立ててやるよぉ!!」

 走り出した【タウロス】に迷いはない。待ちに待った「実戦」、力量と性能の全てを発揮できる機会を己が真っ先に頂くというこの事態を彼は心底喜んでいた。

 今日はツいている!

 一度ならず二度までも。しかも地下に潜るだけが能のレジスタンスとは違い、今度は曲がりなりにも憲兵を一方的に虐殺するような敵が相手だ。正しく相手にとって不足なし、これを率先して撃滅したとなればゾディアークとしてだけでなく、【タウロス】個人としても箔が付くことは間違いない。

 一番槍の栄誉は誰にも譲らない。それはいけ好かない【アリエス】はもちろん、唯一の同期とも言える【ヴァルゴ】であっても同じこと。ゆえに彼は【ヴァルゴ】を遠ざけた。己一人が手柄を独占する為に。

 金牛は行く。その猛進を止めることは能わず。





 「…………」

 【ヴァルゴ】は、予感する。

 古来より、神の言葉を伝える巫女や未来を告げる予言者は、総じて女性が多くを占めた。現在においても神託を受けるメッセンジャーの大半は女がその任に当たる。女性は男性と比べて感覚が受け身であり、受け取る情報を処理する器の容量が大きい。その大きい容量を使って彼女らは時に男では予想もつかない直感を得ることがある。

 俗に言う、「女の勘」というあれだ。豊富な容量を使って導き出される推測は五感から得た情報をフル活用した結論であり、故に古今東西そうした女の直感とは当たるものなのだ。

 男にも同じ機能がある。人類が未だ毛皮を纏い狩りで生計を立てていた頃、生命の危機という極限状況に対してのみ、彼らは無意識に感覚を鋭敏化させる術を身に着けた。それは農耕を覚え、壁を築き都市を造り外敵の襲来とはほぼ無縁になった今なお、その遺伝子の中に刻まれている。

 一般的に言う、「嫌な予感」だ。命の危機を前提とした予知能力である為に、この直感も的中率は高い。

 性別に関係なく、こうした自己に対する直感と他者に対する直感、二つの第六感を人間は誰しもが備えている。

 何が言いたいかと言うと……。

 「【タウロス】……」

 今の彼女は、その二つを感じ取っていた。

 はっきりとは分からないが、戦友の身に何かが起こる。

 どうしてかは分からないが、自身の身に命の危機がある。

 呟いた名は警告しようとしたのか、あるいは止めようとしたのか。だがどちらにせよ、声が届く前にその姿は見えなくなってしまった。

 「…………」

 乙女は何も言わなかった。紡ぐ言葉を口に含んだ飴玉と一緒に飲み込み、彼女は与えられた役目をこなすべく自らも移動を開始した。単騎で先駆けた彼の手助けをせんと。





 「おれは、嘘が嫌いだ。媚び、諂い、ごますり、おべっか……どれもこれも、くだらない」

 「それが、この本とどう関係するんです」

 「創作は、嘘だ。他人を、どこぞの誰かを、気持ちよく、気前よく、気分よく酔わせる嘘だ。そういう嘘に連中は群がる」

 心底、本当に心の底よりうんざりとしたような声で、乞食は滔々と語る。それは本のみを指して非難しているのではなく、もっと根深い、彼なりに何か差し迫った事情のようなものを感じさせた。

 「いい事じゃないですか。誰も傷つかない」

 「群がるとなぁ、『うるさい』んだよ。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、がたがたがたがた、どいつもこいつも虫のように群がりやがって! やかましい、捻り潰すぞ! ああ、うるさいうるさい、うるさいぃぃ!!!」

 「な……なにを」

 何か様子がおかしい。それこそ、「たかが本一冊」に向けるにしては不相応なほどの質量を有した、これは……“怒り”。不倶戴天の怨敵を前にしたかのように、乞食の内側から憤怒の波動が漏れ出る。

 「この本は、僕が知り合いから譲ってもらった物です。申し訳ないですが、貴方には関わりないかと」

 「そうだ、関係なかった。こんなものがいくら世に出回ったところで、おれ達の在り方は変わらないはずだった。変えようが無いはずだった」

 話が嚙み合わない。もはやユーリィの言葉に符合する、全く別の事柄を怨嗟を交えて垂れ流しているに過ぎない。聞かせているのでも、語っているのでもない。ただ自らの内から湧き出す怒りのままに感情を羅列し、それが辛うじて言葉や言語として成立する最低限のラインを保っているに過ぎない。

 「これは、創作です。英雄が敵を倒し、善を為し悪を敷く物語のはず。そこに、どうしてそこまでの憤りを向ける要因が……!」

 「理由? 理由だと! おまえ達が群がり、喰らい、貪り尽くしたからだ! おれに理由を求めるな、おまえ達こそがっ、理由そのものだろうが!!」

 きっと彼は気狂いなのだ、妄想と現実の区別が付かず、どこかの誰かの不条理を我が事のように語って聞かせるだけの、気狂いなのだ。

 そう、思いたかった。少なからずそんな頭のおかしい人物を見た事のあるユーリィは、そう思い込むことでその怒りを受け流そうとした。

 しかし、違う。

 これはきっと、直にやり取りしなければ分からない。直にやり取りしたユーリィだからこそ分かる。この男が抱く憤りは「本物」だと。何某かの不条理、不合理を体験したが故の過剰なまでの憤怒が彼にこれだけの怨嗟を吐き出させているのだ。

 「……おれは、嘘が嫌いだ。害虫が群がり易いよう、美味く加工された嘘が特に嫌いだ。話はそれだけだ」

 「つまり貴方は何が言いたいんですか?」

 「おれは嘘が嫌いで、おれも嘘は言わない。その本はおれの人生で稀に見る害悪だった。ただ、それだけの真実だ」

 つい、とユーリィの手から一瞬で本が奪われる。

 「何をするんです!?」

 「何の意味も無い。こんな本に意味も、価値も無い。だから、こんな物にかかずらう暇があるのなら────」

 男の手はよりにもよって一度は拾い上げた本を、あろうことかもう一度ゴミ山に向かって放り投げた。常識では考えられないその暴挙にユーリィは怒り出すよりも先に駆け出した。視線は真っすぐ、放物線を描きページを乱しながら落下していく本にのみ向けられ、他の一切は何も見えていない。

 ただ声だけが聞こえた。己の背後、嗄れ声なのによく通る矛盾したその声は……。



 「さっさと、“逃げろ”」



 警告より刹那の後、ゴミ山に何かが「降って」きた。

 雷の如く唐突に、何の前触れも無く飛来した超重量のそれは、音を置き去りにして地表に激突した。衝撃で地面に激震が走り、ゴミの山が緩衝材となって尚周囲の建物が縦に大きく揺れ動いた。

 「おいおい。おいおいおいおい、どういうこったこりゃあ?」

 舞い上がったゴミがパラパラと降り注ぐ中、見覚えのある巨大な影がゆらりと立ち上がった。

 「何かよぉ、嗅ぎ覚えのある匂いがすんなあ」

 「!?」

 こちらも聞き覚えのある声だった。幸運にもユーリィが見つからずに済んだのは、吹き散らされた大量のゴミが偶然にも彼に覆い被さる形となり、その結果姿を隠すことに成功したからだ。でなければとっくに、この巨影の主は喜々として彼を殺戮していただろう。

 「あー、他の悪臭がキツすぎて分かんねえな。嗅覚が発達するってのも考えもんだぜ」

 更に幸運にも相手にこちらを探す気が無かったこともあり、わざわざ引っ繰り返ったゴミ山を更に掘り返すようなことはしなかった。だが自分を探していないだけで他の何かを探索していることは、僅かに観察したユーリィも察せられた。

 「クソが!! ゴミに紛れて匂い消そうたってそうは行くかよ!! てめえも同じように曳き毟ってバラバラに解体してやるぜ!!」

 「っ……」

 隠れ蓑となったゴミの中で身動きが取れないユーリィ。つい数十分前に刻み込まれた強烈な死への恐怖が、その動きを縛っている。ものの十メートルも離れていないこの状況では、身じろぎしただけで居場所を突き止められるだろう。そうなればこの苛立ちよう、瞬く間に縊り殺されてしまう。

 「どこだぁ……!! いるんだろ、近くによお! 出て来いよ」

 暴虐の超人が闊歩する空間に取り残され、絶体絶命の危機にユーリィは……。

 「おい……うるさいぞ」

 ひとつの、光明を見る。





 「まずいことになった」

 中将から資料を受け取った【アリエス】は迅速に【タウロス】らとの合流を求めた。単に時間が無くて急いでいるのではない。彼の中では既に、そうしなければならない理由が出来ていた。

 「すぐに二人を呼び戻せ。レジスタンスがどうこう、などと言っていられる場合じゃない」

 「どういうことでしょうか?」

 引き連れる【アクエリウス】だけが、未だ完全にはその意図を理解できていなかった。しかし、彼の無垢な疑問にいちいち答えている余裕すら、今の【アリエス】には無い。

 「後期型のロールアウトを待たされるのはこれが原因か。いや、だとすれば……ドクタルは初めからこの事実を……」

 「【アリエス】さん」

 「いや、いやいや、ちょっと待て待ってほしい。後期型の設計思想は……つまり、それは……」

 「【アリエス】さん!!」

 「っ! すまない、少し考え込んでいた。どうかしたか?」

 特定の波長を与えられた魔力を発信し、遠くにいる者と会話を行う通信石。それを手に持ちながら【アクエリウス】はさっきからずっと呼び掛けていた。どうやら通信の相手は【ヴァルゴ】のようだ。彼女に限ってトラブルで身動きが取れないなどというのは想像できなかったが……。

 現実は、その通りだった。

 「すぐに合流できない? 憲兵の指揮権……? なぜそんな話になっている!? たかがレジスタンスを一掃するのに、君たちほどの戦力がこれ以上を欲してどうする!」

 地下に潜伏したレジスタンスの数は粗方把握できていた。二人の力なら掃滅に三十分も掛かるはずが無かった。

 だが蓋を開ければ、レジスタンスの掃討からこちら、何やら余計な仕事に手を付けている様子。しかも二人の位置はここから距離を置いた場所まで移動してしまっていた。合流するにはそれなりの時間を要し、加えて【タウロス】は更に単独行動を重ねているという事実まで発覚した。

 「密入国者? 憲兵の殺害? 何のことだ、何の話をしている!?」

 だがそれ以上に、双方には致命的な食い違いが横たわっていた。

 しかし、その事実に気付いた時には……。

 「僕はそんな命令は出していないっ!!」

 もう何もかもが手遅れだった。





 「おう、爺さんよ。ここがあんたのお家かい。悪かったなあ、あんまりにも汚いもんでよお、人が住んでるなんざ思いもしなかったぜ」

 ゴミの中から声を上げた「勇敢な」男を見つけると、さも嬉しそうに【タウロス】は詰め寄る。見るからに小汚い、不潔や不衛生の概念を詰め込んでヒトの形を取らせたかのようなその男を見て、【タウロス】は挑発し返す。

 「お家を荒らして回ったことを謝ってほしいのかい? だがなあ爺さんよ、定住地を持たねえ浮浪者は国の方針で処理する決まりになってるんだ。悪ぃが、ここはあんたのお家じゃねえよ」

 街中で発見された浮浪者は治安法及び労働法に基づく違法不定住者と見なされ、対価が必要ない「原価ゼロの労働力」として国家に接収される。その多くはおよそ意味を見出せない長大且つ迂遠な国土開発事業に投資され、延々と過酷な肉体労働を強いられることになる。当然、課せられた労働期間を明けて戻って来た者はいない。

 「不幸だと諦めな。俺も立場上、見逃すわけには行かないんでなあ」

 そう言いながら【タウロス】の手は拳となる。初めに生意気な口を利いたくらいだ、きっと素直に「はい、そうですか」と聞く訳がない。そうなれば、イラついている彼からすれば理想的な玩具の出来上がり、あとは適当な理由を付けて自らの内からこみ上げる嗜虐心のまま暴力に訴えればいい。連行の際に抵抗したからとでもしておけばいい。最悪それで死んだとしても、自分はその言い分が罷り通る立場にあるのだから。

 「おらっ、立てよ! 労働局に突き出してやる。しっかり御国に仕える喜びってのを噛み締めるんだな!」

 僅かに身に纏った衣服、その端を乱暴に掴み乞食を立たせようとする。

 その腕は……。

 「……………………」

 「あ……?」

 ぴくり、とも。

 動かなかった。

 【タウロス】は、金牛と名付けられたコードネームに反する事なく、純粋な腕力なら右に出る者はいない。少なくとも「現時点」においてのゾディアークでは彼と真正面からの力勝負が適う者は一人も存在しないし、力自慢の彼が持ち上げられない物も無い。

 今までは、そうだった。

 「くっ! こっ、の……!!」

 動かない。微動だにしない。根が張ったような、いや、根深い大樹程度なら引っこ抜いてしまえる。

 やがて引っ掴んでいたボロ布の方が耐え切れずに千切れ、支えを失った体が大きく仰け反る。尻もちをつく、とまでは行かなかったものの、一人無様な醜態を晒したことに対し頭に血が昇り、怒りに任せた猛悪な拳が反射的に繰り出された。

 「野郎がぁっ!!!!」

 拳は砕くだろう、その頭を。比喩ではなく巨岩すら粉砕し得るその五指の塊は────、



 「五月蠅い」



 はた目には瞬間移動したように見えるだろうが、粉塵の如く舞い上がったゴミの軌跡と、軌道上に存在する家屋が跡形もなく破壊されていた。

 その大地を抉る弾道の起点に立つのは、ボロ布を纏う男が一人。

 「おれに触れるな。殺すぞ」

 突き出される拳からは蒸気が立ち昇る。人体に宿りえないはずの熱量は、彼自身の放ったエネルギーと衝突した巨体の相乗効果。だが対する巨体はその衝撃に耐えきれず、爪先で蹴飛ばされた石ころの如く遠くへと蹴散らされてしまった。

 「…………」

 一部始終を目の当たりにしていたユーリィだけが、事態を正確に把握していた。

 結論だけ言うと、憎き超人の体は「真っすぐ」、「減速せず」、「地平線の向こう」に、「消えた」、それだけだ。

 それだけの、とんでもない大事件が起こっただけのことだ。

 「何だあれは。少し、固い……いや、重かったな」

 超人の握り拳、それ以上に硬く引き締まった五指が解放され、その内側の熱気が最後の蒸気となって空に上がる。その時に一迅の風が吹き、男がずっと纏っていたボロ布が解かれて宙に舞った。

 「あぁ……!」

 その露わになった姿が白日の下にさらされた時、思わずユーリィは驚嘆の声を上げずにはいられなかった。

 「ここは、やっぱり寒いな」

 声は相変わらず嗄れている。しかし、その姿は決して老人などではない。否、その強靭な肉体が老い衰えているはずがない。

 枯れ木のように痩せ細ったと誰が言ったか。その腕は、脚は、全身は、これ以上ないほど極限にまで圧縮された筋肉により引き締まっていた。枯れ木などでは断じてない、今しがた彼方へと突き飛ばした超人の肉体を岩石に喩えるならば、これは正しく“鋼”、あらゆる手段を用いて究極まで鍛え抜かれた鋼鉄の五体。

 あるいは、そう……幾星霜もの間、太古の昔より地中で鍛え上げられた金剛石の如し。その質量が、密度が、熱量が、「養殖物」とは雲泥の差となって顕現した。

 だが、鍛えられた肉体ばかりに驚いたのではない。むしろ、ユーリィが本当に言葉を失ったのは、その顔だった。

 「おい、逃げなかったのか」

 「あ……あなた、は」

 解き放たれた髪は、白。雪降り積もる真冬の山脈を切り取り、一本一本の糸としたような白銀の髪。女性と見紛うような美しき髪は、既に風が止んだにも関わらず妖しく揺れ動き、異様な雰囲気を醸し出していた。

 そして、その眼。

 その眼は、髪とは相反する血塗られた真紅。

 血の赤。炎の赤。宝玉の朱。

 神々しく、仰々しく、雄々しく、恐ろしく、力強く、弱々しく、凛々しく……その全てであり、しかし、そのどれでもない。

 その瞳はきっと、燃え盛る怒りに満ち満ちていた。

 「あなたは……まさか……!」

 この瞳を、ユーリィは知っている。何百と目を通し、何千とその情景を思い描いていた。始まりの一行から終わりの一文に至るまで、その全てを絵物語のように鮮明に思い浮かべられるほどに。

 長年思い描き続けた。単なる空想に過ぎないと思っていた。だが確かな根拠もないのに確信できる。

 「さっきの、続きだが」

 そんなユーリィの胸中を知ってか知らずか、眼前の男は指を突き付けながらこう告げる。その指先はユーリィではなく、その胸に抱え込まれたあの本に向けられた。

 「もし、それを書いた奴がいたら教えろ。縊り殺してやるから」

 ユーリィの憧れ、その原型がそこに在った。

 英雄は実在した。

 およそ、英雄と称えるには禍々しい気配を伴って。










 『第三次対“白鯨”調査に関する資料』

 『“白鯨”とは、およそ■■■■年前から、あらゆる伝説伝承においてその実在が確認されてきた超存在である』

 『「いと旧き巨いなる神」であり、大自然の化身、天災の元凶。「三頭」の一角にして、かつて「海を飲み干す者」と呼ばれたモノ』



 『そして現在は、それを完全に駆逐した者に冠せられた銘である』
18/06/11 00:55更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
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「金牛強襲【アタック・オン・タウロス】」

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