連載小説
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第2話 抵抗勢力【レジスタンス】
 【リブラ】脱落の報は少なからず残りの四人を動揺させた。戦場での敗北ではなくレジスタンスの突発的な襲撃、言わば事故による落命は、戦わずして負けるという彼ら超人にとってはあまりにも不名誉な最期だった。

 「前々から胡散臭ぇ野郎とは思っちゃいたが、ここまで腑抜けた奴だったとはな。面汚しとはこういうこったな」

 口を突いて出る悪態とは裏腹に、その動揺は【タウロス】もまた同じだった。

 超人とは文字通り、「人」を「超」えた存在だ。身体能力を向上させた第一世代、五感の拡大と知能の上昇を可能とした第二世代、それらを凌駕する第三世代である自分たちは無敵の存在なのだと信じて疑わず、またそう確信するだけの性能にも裏打ちされていた。

 ところが蓋を開ければ、栄えある超人兵士の一人は呆気なく、そしてあっさりと退場した。あまりの呆気なさに【タウロス】の中にあった超人としての自負がひび割れ、音を立てて崩れるような錯覚を感じさせた。他の人間と、ただの人間と同じように自分たちも何の変哲も無いまま命を落としてしまうのではと……。

 「【タウロス】、平気?」

 「【ヴァルゴ】……」

 ふと視界に手が入り込む。声を掛けた本人はいつもと変わらぬ澄ました顔で、その手には見慣れた飴玉を持っていた。

 「お前から話しかけてくるなんざ珍しいな。どういう風の吹き回しだ?」

 「別に。なんか落ち込んでたから」

 「落ち込む? 誰が? 俺がか? 冗談だろ」

 「そう。違うなら、それでいいの」

 「…………いや、お前にはかなわねえな」

 観念したように呟き飴玉を口に放り込む、その姿には普段の覇気は無く、【ヴァルゴ】の言った言葉が真実であると如実に語っていた。対する【ヴァルゴ】はそれ以上追及はせず、同じように飴を頬張りながらしばし沈黙を守った。

 「お前とは長い付き合いだな。確か、計画に志願したのが時期一緒だったっけか」

 「そうね」

 「始まった時は数十人もいた候補から、最終的に残ったのは俺ら二人だけ。俺が第一号で、お前が二号。てめぇで言うのも何だが、まさか俺が最後まで残るとはな」

 「そうね。でも少し違う。超人になったのはあなたが先。だけど、プランとして先に挙がっていたのはわたしの方だから」

 「変なとこに拘るよな、お前」

 実際、【タウロス】と【ヴァルゴ】は互いに気心知れた間柄であることは事実だ。今のどちらが先か後かという発言も、彼女以外の者が口にしていれば間違いなく意地の張り合いから諍いに発展していたことだろう。逆に言えば多少互いの腹を抓り合ったところでどうこうなってしまうような、そんな柔な信頼関係ではないということを伺わせた。

 「懐かしいぜ。連邦のため、人民のため、既に戦場に出た同志のため。色んな期待を背負い込まされて、俺たちは人間を『やめさせられた』。実際のとこは、ただ恩給欲しさに志願したってだけなんだがな」

 「そうね。わたし達以外にも、そういう人いたんじゃないかしら」

 「そういう連中しかいなかったよ。どっかの家の次男坊や三男坊、一旗揚げようと出てきた田舎モン、街中のゴロツキ……みんな食い詰めて金が入用な連中ばっかだった」

 「そして……わたし達以外は、処分された」

 別に隠されていた訳ではない。計画それ自体は秘匿されていたが、その経過に伴う危険性については志願者全員に再三に渡り説明がされていた。良くて生活に支障が出るレベルの後遺症、悪ければ……命を落とす、と。

 その上で参加者は残った。そして過酷な訓練と非人道的な実験の末、二人を除き全員が脱落した。それが第一回超人化計画の結末である。

 「俺たちは厳しい選別を乗り越えてここにいる。それはいけ好かねえ【アリエス】も、頼りない【アクエリウス】も同じだ。ヒトを超えた俺たち超人は、ヒトと同じところがあっちゃならねえ。生き方、在り方、そして死に方さえも、俺たちは何一つとして人間と同じじゃ駄目なんだよ」

 「そうじゃなきゃ、ヒトを超えた意味がない……でしょ?」

 「そういうこった。なのに、あの日和見野郎がっ……!!」

 【タウロス】は怒っていた。たかが人間如きに遅れを取った【リブラ】に対する失望よりも、その胸の内には自分たち超人の存在価値を否定された事への闘志があった。

 「許せねえんだよ! 人間を超えた俺たち。その俺たちと同じ超人になったくせしやがって、野郎は先に逝っちまった。呆気なく、あっさりと、『人間のように』不甲斐なくなぁ!! そのだらしなさに腹が立つ! そして何よりも……!!」

 「わたし達の仲間を奪ったことが許せない……。でしょ?」

 「俺はあいつを好いたことは一度も無ぇ。だけどなあ、そんな野郎でも同じゾディアークだった。なら仇討ちしねえ理由は無いよなぁ!!」

 握った拳で全身の筋肉が隆起する。戦意の熱を感じ取った【ヴァルゴ】は肯定も否定もせずに、ただ静かに闘志の昂ぶりを見つめていた。

 「いいぜ、やってやるよ!! 鯨狩りの前の肩慣らしだ、まずは中央に巣食ったネズミ共を片っ端から捩じ切って、轢き潰してやらあ!!」

 ゴキリ、バキリと、全身の各部から歪で不吉な音が鳴らされる。それは『金牛』の二つ名には程遠い、まるで巨大な甲殻類が顎ハサミを打ち鳴らすような、獰猛な捕食者の舌鼓に聞こえた。

 予定に変更はない。

 明日、彼らは中央に向かう。





 ゲオルギアでは生産第一主義の下、徹底して社会全体の動きを推進するという名目で個人の主義思想は抑圧される傾向にある。貴族の圧政を嫌って革命を起こしたが、実態は首から上が挿げ変わっただけであり、下々の暮らしぶりは良くなるどころか悪化した所さえあった。

 そんな生活が長く続けば、初めと同じように抑圧を打開しようという志を持つ者が少なからず現れる。やがて同じ意志を持つ者同士が寄り集まり、今ある体制を破壊しようという試みを行い始める。

 レジスタンスの存在を連邦が知ったのはここ最近のこと。それまでは表立っての活動はせず、水面下からの草の根運動が主だったため、その全容を体制側に悟らせないことに成功していた。その裏で彼らは着々と力を蓄え続け、最近になりようやく具体的な活動を行うようになり、それぞれ独自のやり方で中央に対し反旗を翻しつつあった。

 無論、彼我の戦力差はわざわざ比較するまでもない。正面からまともにやり合えば物量差で擦り潰されるのがオチだ。加えて現体制は彼らレジスタンスのやり方を熟知している。然もありなん、元々は彼らこそが反体制派だったのだ。先達であり十八番、どのように動くのかはもちろんのこと、どうすれば抵抗を封じられるかまでお見通しだった。

 だからこそ、今回のこの襲撃は大戦果だった。首都で、それも白昼堂々と襲撃を掛けた上に比類なき大成功を収めて見せたのだ。しかもその相手が長年に渡り自分たちの頭を押さえ付けてきた国軍の眼を司る所ともなれば、勝利の美酒も一塩というものだった。今回の一件は体制側の牙城を切り崩す一突きになり、逆にこちら側に属する者らにとってはその士気を鼓舞する効果を発揮してくれるだろう。

 今日この日、作戦を決行した抵抗勢力の面々は喜びに沸き立っていた。人が去って久しい廃屋、その地下を掘り進んで作った空間には彼らのアジトがあり、そこでは作戦の成功を祝って細やかながら宴が催されていた。手に手にグラスを掲げ、流し込む安酒も普段より美味に感じるほどの喜びに誰もが浮かれていた。

 一時のみ許された戦勝祝い。誰もが喜びを分かち合い、これからの展望に思いを馳せるそんな席で……一人、静かに過ごす者もいた。

 「…………」

 地下室の隅に置かれた椅子に腰かけ、酒も飲まずただ静かに本を読む。そんな祝いの席には不似合いなほど落ち着いた人物は、よく見ればまだ若い、見方によっては幼さすら残した少年だった。この場にこうしているということは、彼もまたレジスタンスの一人。若い身空でありながら大人たちに混じって活動するその姿は、この国が抱える抑圧の矛盾を象徴するような光景にさえ見えた。

 「何を、読まれているのですか?」

 「同志(ダヴァーリシシ)……」

 声を掛けられた少年は本を閉じ姿勢を正す。淀みないその動きは彼も戦いに身を置く者として訓練した事を表し、言葉遣いにもそれは如実に表れていた。レジスタンスとして活動した時期が長いのか、その佇まいは本職の軍人のようにも見えた。

 「珍しい書物をお持ちですね」

 「これですか。同志もご存知なんですね」

 閉じた本の表紙にあるタイトルを見て、感心したように呟く。

 「『比翼連理紀行』……。確か、この国では発禁処分になっていたはずでは?」

 「元商人の仲間が持っていた物を、無理を言って譲っていただきました。もう繰り返し読んでいますが、飽きは来ません」

 「好きなんですね」

 「ええ。遠く異国の冒険譚……並みいる敵を己が力だけで打ち負かし、突き進んでいくその姿勢……。まさにこの国を変えようとする私達に相応しい在り方が、ここには詰まっています」

 『比翼連理紀行』。それは、現在この大陸の各地で最も多くの読者を獲得した冒険小説のシリーズだ。ある一人の男を主人公、彼に同行する伴侶をヒロインとし、旅先で出くわす事件や危機を二人が解決しながら大陸中を渡るというストーリーだ。

 元勇者の主人公と魔物娘のヒロインが、立ち塞がる敵を薙ぎ倒していく痛快な描写は広い年齢層に受け入れられ、十数巻に渡って続編が出され続けている人気作だ。最近では教国で開発された活版技術の普及により、山脈以南の国々では重版に次ぐ重版と聞いている。まさにベストセラーと言うに相応しい人気ぶりだという。あくまで南の国々では、だが。

 「こんな素晴らしい本を発禁にするなんて、ゲオルギアは自国の文化を殺すつもりでしょうか」

 「彼らも必死なんですよ。自分たちの権勢を脅かすものは、例え可能性だけであっても摘み取らないと気が済まない性質なのでしょう。彼らにとって民衆とは、あくまで上の意思のままにただ生産を繰り返す歯車であるべき……物語に出てくるような『英雄』は、自分たちの寿命を縮めるものと理解しているんです」

 思想は、指向。水と同じように一定の方向性を持たせる事が可能であり、水と同じで大量に貯め込めば制御不能になる。過去に自分たちが経験しているからこそ抜かりはなく、彼らは静かに、そして徹底してそれを潰してきた。そうする事で反乱の芽を潰し、大多数の民衆の思想が体制に迎合するという方向へと剪定を繰り返してきたのである。

 しかし、それも今日から変わる。

 「ですが、今日の成功は大きな意味を持ちます。初撃で中央に痛手を負わせたことで、各地に散った同胞らへの戦意高揚の効果は計り知れません。中央の脆弱さが露呈した今こそ、我々の連携を密にする必要があります」

 「ここからが正念場ということですね」

 「そうです。ですが……切り替えは大事です。今だけは我々の成功を喜びましょう。明日になれば更に忙しくなりますから」

 そう言って持ち込んだ杯に酒を注ぎこむと、少年の前に差し出す。お世辞にも上物とは言えない、すぐそばで皆が飲んでいるのと同じ粗悪な酒だが、これこそは正しく勝利の美酒と呼ぶに相応しい一杯だった。

 「では……」

 互いに杯を手に、それを高く掲げ厳かに今回の勝利を祝う男が二人。

 「同志ズベンの協力に感謝して……」

 「同志ユーリィの活躍を祈って……」

 「「乾杯!!」」

 自分たちが何に挑んだのか。何に喧嘩を売ってしまったのかを、この時はまだ誰も正確なところを知る由も無かった。

 故にここから先の流れは必然で、どうしようもない決定事項だ。

 これは民衆の物語ではない。非力な人々が力を合わせ巨悪に立ち向かい、最後には平和を勝ち取る……そんな分かり易い、「愛と勇気と正義のお話」ではない。

 これは『英雄』の物語。図らずもユーリィ少年がそう望んだように、選ばれた者だけの物語なのだ。「強い者が弱い者を制する」、ただそれだけの筋書きだ。

 故に、彼らに勝利は無い。

 彼らは只人であるが故に、『英雄』が現れる前に『怪物』によって食い尽くされる。

 二十時間後、彼らレジスタンスは壊滅させられる。





 超人は、最初からヒトを超越していた訳ではない。歴史を紐解けば連邦が勃興して間もない頃、いつか山脈を越え南に攻め込む時を想定して生産が始まった。

 初期の段階、第一世代は単純な身体機能の向上に留まった。常識の範疇で訓練を課し、常識の範囲内で肉体を強化させる。この時点ではまだ対人、あくまで同じ人間を相手に優位に立つのを目的としていただけに過ぎなかった。

 ベクトルが変わったのは第二世代以降のことだった。

 五感の拡大増幅、反射速度の上昇、極限環境での耐性、体内で生成可能な魔力量の増大。それまで常識の範疇で収めていた「強化」を、ここで急に「改造」と言って差し支え無いほどの術式を施すようになった。当時の関係者曰く、第二世代は対魔、つまり対魔物を想定しておりその結果として超人化技術は更なる飛躍を遂げたとされる。

 そして第三世代がそれを完成させた。

 「着いたわ」

 「おう」

 雪が降り積もる首都の外門に四つの影が接近する。夜通し続いた吹雪の直後にも関わらず、四人が四人ともまるで春の陽気の下で動くような、簡素な防寒マントのみを羽織り、その下はいつも通りの装備だった。

 通行証の提示で難なく入都を果たした彼らは、それまで厳冬の雪原を走破したばかりとは思えぬ急ぎようで現場へと向かう。そこはつい昨日、レジスタンスの襲撃により甚大な被害を受けた戦略情報室の分室が存在していた建物だ。

 襲撃、と言っても、馬鹿正直に正面から殴り込んで来たのではない。何の前触れもなく、それこそ魔術や魔法でも使ってか一瞬の内に建物が、それも分室を置く区画だけが爆破された。しかも分室は「爆心地」だ。それはつまり、内部から直接攻撃を受けたということ。

 「おまけに、掘り出した死骸は身元を確認できただけでも、こっちの身内ばかり」

 「そして、調査班の報告によれば、現場には魔術等を使用した痕跡は無い」

 「それってつまり……?」

 「つまり、外部から大量の、一部とはいえ建物を吹き飛ばすほどの炸薬を持ち込み、最大の被害を出せる頃合いを見計らって爆発させた……ということだ」

 「で、でもそんなこと! 誰にも勘付かれずにやり遂げるなんて?!」

 「常識で考えりゃ不可能だわな。連中は口先だけのモヤシばかりだが、あいつらだって節穴じゃねえ。自分たちの脇に爆弾仕掛けられてんのに、それでも涼しい顔してられるはずがない」

 「姿隠しもせず、外からの強襲でもなく、しかし実際に内部から爆破されている。となれば、導き出される結論は簡単だ」

 恐らくそれは事件現場を精査した調査班も予想しているだろう。現状で想定し得る「最悪」だ。

 「手引きした奴がいる。十中八九、確実に」

 ここは連邦首都中央区。そもそもからして、武装蜂起が一番あり得ない場所だ。常に官吏の眼が光り、誰も彼もが互いを監視し合う仕組みが出来上がっている以上、一度水面下に引きこもれば浮かび上がる可能性は絶無だ。隠れたものは隠れたまま、自然消滅か、あるいは居所を察知され虱潰しにされるか。どちらにせよ現在の連邦は徹底して人的内憂に対し強化が施されている。

 であれば必然、そこで白昼堂々の事件を起こせるとしたら、これはもう協力者がいると考えないほうが不自然だ。それも国家戦略の要に対し仕掛けられるような、こちらの内情を知り尽くした内通者が。

 「【ヴァルゴ】、頼めるか?」

 「りょーかい」

 「それと【タウロス】、君もだ。普段から大口叩いているんだ、これぐらい安い御用だろう」

 「誰に口利いてやがる」

 確認するべき事項は全て確かめた。情報の共有が成された今、次にやるべきことは一つ。

 「当局に恩と名前を売っておく良い機会だ。キートムィースを離れた今、我々は正式稼働のゾディアークだ」

 「独自の判断で、独自に行動ができる」

 「そうだ。上には報告がてら僕から話を通しておく。もうすぐドクタルも見える。それまでに、二人で街を『掃除』しておくんだ。念入りに、綺麗にな」

 「いいように顎で使ってくれちゃって、まあ」

 ここから先は別行動、【アリエス】と【アクエリウス】は彼ら小隊の元締めに当たる陸軍へと赴く。片やもう二人は静かな昼前の街へと紛れ込む。

 別れ際、ふと思い出したように【アリエス】が言った。

 「【タウロス】、一つ言っておく。これは決して『報復』ではない、『意趣返し』ではない。そこだけは弁えておいてほしい」

 「弁えてなけりゃ、何だってんだ?」

 「僕たちは超人だ、“獣”じゃない。だが相手は獣だ。我らが連邦の崇高なる理念を解さない獣、我らの庭に土足で入り込み粗相をした獣だ。そんな獣相手に正当な『報復』なんて、笑い話にもなりはしない。これは『屠殺』だよ」

 「あいよ。初めててめえと気が合ったぜ」

 それをもって『金牛』と『乙女』は街に繰り出す。

 先日、分室を襲撃した下手人は全て捕らえたと聞く。だが内通者の存在が前提となった今、捕縛した者だけで全てという可能性は低い。むしろ実動したのは勢力の有志、少数精鋭であり、大多数は未だ地下に潜伏しているというのが今の予想だ。

 昨日今日の出来事なので調査班はその居所を掴めていない。そして突き止める頃合いには、相手はもう既に次の作戦の準備を終えて別の場所に移っているだろう。まるでイタチごっこだ。そうして連中は当局の目から逃れ続けてきた。

 だが、それも今日までだ。

 「あんまり、これ、やりたくない」

 「文句垂れんな。すぐ済ませりゃいいだろ」

 【ヴァルゴ】が自らの手を虚空に差し伸べる。それまで身に着けていた手袋を外し、寒空の下で露になった指先は透き通る白、凍て付いた湖面を思わせる白銀だった。まるで古代の彫像がそのまま動き出したような美しさだが、無論ただ美しいだけが取り柄の超人ではない。

 変化は刹那の後に現れる。

 「さむっ」

 身震いする【ヴァルゴ】。指先からはその拍子に雫が垂れ落ちた。そう雫、水滴だ。夏の暑さとはまるで無縁なこの北の大地で、今の【ヴァルゴ】の手からは大量の汗が滲み出ていた。

 それは汗ではなかった。否、それが発汗という生理現象であるはずがない。じゃばじゃばと流れ落ち液体は次第に量を増し、掲げた掌はまるで泉のように滾々と水を吐き出し続けていた。人肌に等しい温度のそれは落水と同時に足元の雪を溶かし、溶けた雪も混じって瞬く間に【ヴァルゴ】の足元は大雨でも降ったみたいな水たまりが形成される。

 「溶けなさい、染みなさい、広がりなさい……」

 溢れ出る水流は大河となりて大地に拡散する。

 液体の一滴一滴、水のひと掬いに至るその全てが、余すことなく「彼女」だ。其は目であり、鼻であり、耳であり、舌でもあり、そして肌となって大地に浸透する。街ひとつに染み渡るまで二分も掛からない。

 拡散した水面の乙女に掛かれば、この街の人口を正確に知ることさえ可能だ。こと探知という一点において【ヴァルゴ】の右に出る者はいない。失われた【リブラ】が戦略の眼なら、彼女はまさに“戦場”の眼。もはやこの街はその肌の上、伝承に語られる千里眼はここに成立した。

 そして、蔓延る害虫を労せず……。

 「……見つけた」

 湧き出す水がその流れを止める。後に残るのは水浸しになった地面だけ。本体との繋がりが途切れた今はもうただの水だ。

 「三ヵ所、詰めてる数は多くない」

 「ってこたぁ、今まさにお引越しの最中ってか。逃がすかよ、ネズミ共が!」

 「手分けしても一ヵ所余っちゃう。どうするの?」

 「俺が先に潰して二つ目に行きゃ済む話だろ。何なら、場所だけ教えてくれりゃあ俺だけで全部やってくるが」

 「無茶言わないで」

 「なら決まりだ」

 行動は迅速だった。瞬く間に二人の姿は消え、それぞれの狩り場へと向かった。





 ユーリィ少年は、孤児である。

 別に珍しくはない。この国に限らず孤児とはいつの時代も必ず出てくる社会問題だ。彼以前にも、そして彼以後にも同じような存在はこれからどんどん出てくる。ユーリィ一人だけが特別な存在というわけではない。

 拾われた先がレジスタンスだったことも、何ら特筆すべき事柄ではない。生産性こそを重視するゲオルギアにおいて、孤児は老人の次に利用価値がない。故に大半は道端で野犬の餌になるか、運が良ければ人格者に拾われ育てられる。ユーリィの場合は後者だった。

 ユーリィ少年は、理知的だった。

 レジスタンスは組織であると同時に、縦横の拘りを持たないひとつの家族だった。そうしたコミュニティの中で育つ内に、彼は歳に不相応なほどの多角的な視点と、その視座を有効的に使いこなす柔軟な思考を手にしていた。

 情熱的で、冷静。硬派であり、柔軟。革新的でありながら偏った思想に取り付かれず、それでいて理想に燃える熱さも有している。実際その中身は、同年代と比べて少し利口な、どこにでもいる極々普通の少年だ。

 ユーリィ少年は、英雄に憧れる。

 周囲の大人たちが国を導く指導者を求めるのに対し、彼は物語に出てくるような英雄に憧憬を抱いた。先陣に立ち皆を導き遠くに仰ぎ見るべき指導者ではなく、中心に立ち皆と共に戦い抜く英雄を。

 この二つに違いはないのかもしれない。時と場合にはイコールで結ばれる事さえあるだろう。少なくともユーリィの中においては、この二つには明確な彼独自の線引きがあるのかもしれない。無学の身でありながら字を覚えたのも、英雄の活躍が描かれた物語を読み耽りたいが為だった。

 だが彼自身は英雄ではない。人を傷付けることはもちろん、武器を手に持ったことさえ、身を守る技術を培う部分でしか経験はない。

 英雄とは、戦う者。戦う手段を持つ者のこと。例え素質に恵まれていようとも、その手に武器を取り戦うことをしなければ英雄にはなれない。

 故に、ユーリィは英雄ではない。

 今は人間、ただのヒトに過ぎない。

 ただのヒトであるからこそ……。



 『怪物』に蹂躙される。



 「はぁ、はぁ、はぁ!!」

 「急いで! もっと速く! 走るんです!!」

 レジスタンスのアジトは放棄され朽ち果てた地下水道を拡張する形で存在している。王国の治水技術を参考に建造されたこの構造物は、厳冬の連邦では水の凍結を防ぐ術が無く、そのまま放棄されてしまった空間だ。地下深く張り巡らされ拡張に次ぐ拡張の末、もはや全体像は根城にしているレジスタンスしか把握できていない。

 まさに理想的。攻めるに難く、守るに易く、逃げるに最上。そのはずだった。

 つい、昨日までは。

 「同志ズベン、奴は一体……!?」

 「動きが速すぎる! 予測以上だ、これはまずい……! 彼らの到着より先に仕掛けて来るとは!!」

 襲撃があるだろうことは予測していた。相手も愚鈍ではない。国家の目に当たる部分に泥を塗られて、歯軋りして終わりというわけには行かない。きっと報復があるだろうことは明白だった。だからこそ昨日の今日で足早にここを離れ、どこか別の場所に身を隠さなければいけなかった。

 だがその前に敵は来た。

 「同志! 奴は何者なんですか!?」

 「あなたも……噂ぐらいは聞いたことがあるでしょう。人がヒトを超える為に、無原罪の真体を目指して生み出した、その雛型を」

 体制側にはレジスタンスに通じている者もいる。他でもないこのズベンもまた、体制の腐敗を嫌ってこちら側に寝返った一人だ。その彼がもたらした情報の中に合致するものを、ユーリィは瞬時に導き出す。

 「ではあれが、“超人”!?」

 「そうだぜ!」

 「ッ!!?」

 暗闇の空間に響く第三者の声。荒々しい猛獣の雄叫びにも似たその主は、獰猛な笑みを浮かべながらズベンとユーリィに迫ってくる。

 地下水道は決して大きな場所ではないが、それでも天井に届きそうな巨躯から放たれる威圧感は、そこにただ存在し呼吸するだけで空間を圧迫するほどであった。

 「やっぱネズミだな、お前ら。こんなドブ川に好き好んで住み着くなんざ、頭がおかしいぜ」

 「鈍重そうな見た目に反して結構足が速いことだ」

 「よく言われるぜ。これでもかなり急いだからなぁ」

 ぴちゃり、ぴちゃりと、水滴が垂れる音がこだまする。

 そんなことは有り得ない。使われなくなって久しいこの地下水道で水は既にどこにも流れていない。

 「てめぇらが悪いんだぜ? 八方散り散りに逃げてくれるもんでよぉ、いちいち追っかけるのも手間だった」

 水滴の音は巨体が近づくにつれて大きくなる。発生源は迫り来る男の足元、僅かに粘性を含むその音が接近するにつれ、嗅ぎ覚えのある臭気が水道に満ちる。

 「おかげで、こんな汚ぇところを『まっすぐ』突っ切る羽目になっちまった。見ろよ、一張羅も台無しだぜ」

 血の匂い。むせ返るほどに濃い鉄臭い、生命の匂い。一人や二人ではない、頭のてっぺんから爪先に至るまで桶に溜め込んだものを被ったような、そしてそれをするのに必要な数をこの男は……。

 「てめえらで最後だ。さくっとヤってやっから、何も言わずに即死ねや」

 その巨躯は余すことなく血に塗れていた。

 血、血、血。

 赤、紅、朱。

 壊、殺、死。

 混じり合う暴力的原色の液体は、総数二十七名もの人間から搾り出した生命の原液。決して柔らかくはないはずの人体を微塵に引き裂き、押し潰し、轢き殺した暴虐の証。如何なる手段を用いてか、彼は惨殺せしめたのだ。もはやこの地下水道にユーリィとズベンを除くレジスタンスは生き残ってはいない。もう彼らだけなのだ。

 「ユーリィ……先に行きなさい。ここから先は君だけで……」

 「いけません、駄目です! 同志に倒れられては、何のためにここまで!」

 前に進み出るズベンを庇おうとする。しかし、ユーリィは逆に押し留められてしまう。

 「履き違えてはいけません。私と君、どちらがここから逃げ果せる確率が高いのか、少し考えれば理解できるはずです」

 この地下水道はレジスタンスのアジトだった場所。物心ついた頃からここで生活しているユーリィからしてみれば、それこそ庭のようなものだ。長きに渡る潜伏の間に密かに拡張が繰り返され、その全容を知るのはもう彼一人。右も左も分からないズベンを連れて逃げ回るより、単身で行った方が生き延びる可能性が高まるのは自明の理だ。

 だが、それはつまりズベンを見殺しにするという意味でもある。

 「お行きなさい。奴の言葉が真実なら、私がもたらした情報を知っているのはもう君だけ、君だけなのです! 君にはそれを同胞に伝えるという使命があります」

 「ですが!」

 「行きなさい!! 『英雄』は振り返ってはいけない。前へ、ただ前へ行くのです!!」

 状況は絶体絶命。ズベンの身を挺したこの行為でさえも三秒も時間稼ぎすれば良い方だ。抵抗によるものではなく、その体を八つ裂きにするのに要する時間という意味だが。

 しかして、奇跡と偶然は些細な気紛れより生じることもある。

 「おうおう、カッコつけちゃって。これだから身の程ってのを弁えてねえ奴は怖いぜ。気合とか根性とか? 意気込みっつーのだけで何とかなるとか、本気でそういうことを考えちゃってる類の、ある種のバカって奴だ。俺も身内からバカだバカだと言われちゃいるが、真性の前じゃ霞んじまうってもんだよなあ」

 それによ、と身を屈めこみ上げる笑いを堪えながら巨体の主は、その実二人を嘲笑っていたのである。

 「言うに事欠いて、『英雄』たぁな。阿呆もここまで来ると、気の毒を通り越して笑いもんだ。おう、そこの! 理想主義のガキには『英雄』ってのが何なのか分かってねえみてえだから、親切な俺が教えといてやる」



 「『英雄』ってのは、俺らのことだ」



 「てめえが『英雄』ってのをどう定義してんのか、何でそんなのを目指してんのかはこの際どうでもいい。興味もねぇ。だがな、一つ覚えとけ」

 狂猛な笑みが闇の中でユーリィを嘲笑いながら、こう告げた。

 「『英雄』ってのは、戦う奴だ。守る奴だ、殺す奴だ! 敵と戦い、民衆を守り、『怪物』を殺す! それが古今東西変わらねぇ、『英雄』って奴の在り方よ!」

 他人からの受け売りだけどな、と“超人”は呆気にとられるユーリィを気にせず更に続ける。

 「てめえは知らねぇ事かもしれねえが、この国は今とんでもねえ奴に喧嘩吹っ掛けられそうになっててよ、俺たちはそれと“真正面から”殴り合う為にいる。分かるか? 俺たちは、てめぇらのような弱くて、小さくて、怯えて震えているだけしか出来ない連中を“守って”やってるんだぜ」

 「何を……! お前のような存在が! 民衆を虐げ、搾取するお前たちこそが、『怪物』だろう!!」

 「世間知らずは言うことが違うねぇ。てめぇの言う『怪物』なんてのは絵本の中に出てくるような、まんま“絵に描いたような”もんしか想像してねぇだろ。俺たち『英雄』が、いや……これから『英雄』になる俺たちは、てめぇの想像している以上の奴と戦う。虐げる? 搾取? 抑圧だぁ? ッハ! よくもまあ現状の何も知らない連中が、あーだこーだと囀れるもんだぜ!」

 「何を言っている!! お前は、何をっ、言っているんだ!!?」

 「耳を貸してはいけない! まやかしです、ユーリィ!」

 「てめぇは黙ってな!」

 「ぐがっ!!!」

 巨体の腕がハエを追い払うような仕草でズベンに触れると、その体はボールとなって壁に激突した。大した力を振るったようには決して見えず、事実本人も虫けらを除ける程度の力しか出していないはずだった。

 単純な腕力ひとつ取って見ても、奴ら“超人”との間にある差をまざまざと見せつけられ、同胞を救おうと奮い立ったはずの心は徐々に尻込みする。

 「震えてんぜ、おい? チビってねえのは褒めてやるが、そんなんでお仲間を助けられんのかねぇ。なあ、小さな『英雄』さんよお」

 「黙れ……! どんなにお題目を並べ立てたところで、結局お前たちの行いは不義だ、悪徳だ!! 民草を虐げる行為に正義など有りはしない!」

 「勘違いが多いな。俺たちは一度も正義を名乗っちゃいねえ。それにな……無駄を省いてやってんだ、感謝こそされ、恨み言を吐かれる筋合いなんざこれっぽっちも無いんだぜ。あー、もう、いちいち説明すんのも面倒だな!」

 痺れを切らし苛立ちの声を上げる“超人”に、遂にユーリィは尻込みして一歩後退してしまう。じりじりと迫る脅威を前に成す術は無く、義憤によって辛うじて成り立っていた対抗心は萎え、もはやその足に抗する気力は欠片ほどしか残されていなかった。

 その巨腕が空を薙げば、その瞬間にユーリィは絶命する。それは決して変えられない事実。「今のまま」では逆立ちどころか、天地が引っ繰り返ろうとユーリィが勝てる道理など無い。高きから低きへ流れる水の如くに、全ては決まりきった結末を迎えるはずだった。

 「気に入ったぜ、お前」

 ほんの些細な気紛れにより、運命は容易く捻じ曲げられる。

 良くも悪くも、だが。

 「丸腰のくせに俺に盾突くその度胸、買わないわけにはいかねえな。本当は尻尾巻いて逃げ出してぇのに、よくもまあ見栄を張れるもんだぜ」

 「……!?」

 「鈍いな。見逃がしてやるって言ってんだよ。ここでてめぇを泳がせておけば、各地に散らばった他の連中が勢いづく。そうなりゃ、俺たちの出番だ。いつでも捻り潰せる」

 「お前は……」

 「俺たちの手に掛かれば、『鯨狩り』なんざすぐに終わる。そうなったら今度の戦線はいつになるか分かりゃしない。分かるかよ? てめぇらは俺らの『遊び相手』だ。簡単に潰れてくれちゃ面白くないんだよ」

 語る言葉の軽薄さとは裏腹に、滲み出る憎悪を多分に含んだ意志をユーリィは感じ取っていた。

 簡単には終わらせない。じわじわと、徹底的に苦しませ、そして轢き潰す。わざと希望を持たせ、今度こそはと立ち向かってきたその時こそ、この男は喜々としてそれを鏖殺するのだ。それはさながら、野生動物を巣穴ごと殺し尽くす狩人の如く。

 「行けよ。さっさと行って、他にいる有象無象のクズ共に助けを乞いな。ここにいるたった一人のお仲間を見捨ててよぉ」

 「こ、のっ!!」

 怒りに身を任せて突撃してしまいたい衝動に駆られる。だがそんな蛮勇を発揮したところで勝てる相手ではない。今重要なのは敵に勝つことではなく、この場から一刻も早く脱出すること。この男の気紛れを利用して、少しでも多くの同胞らに有益な情報をもたらすこと。その為に戦術的撤退をすること。

 分かっている。理解している。だが、しかし……。

 「行きなさい……早く。私のことは、気にせずに」

 「同志ズベン!!」

 叩き付けられた拍子に頭を打ったのか、今やもう一人の逃亡者ズベンは起き上がることを止めていた。仮に立ち上がったとしても恐らくそこまで、彼はもう逃走することは出来ない。目の前にいる“超人”がそれを許さない。生贄を望む傲慢な怒りこそがその命を喰らうからだ。

 「行きなさい!! 行って証明するのです! この国の有様を、この男の間違いを……そして、あなたの意志こそが、『英雄』に相応しいのだと」

 「ズベン……」

 「行きなさい……! 振り返らず、真っすぐに」

 それがユーリィと彼の最後のやり取りだった。

 ひょっとしたら続く言葉があったのかもしれない。他に何か重要なことを言おうとしていたのかもしれない。

 だがこれ以上留まれば未練になる。そう予感したユーリィは自らを奮い立たせ、言葉に従い脇目も振らずに走り出した。“超人”の気が変わらぬその間に彼の姿は複雑に入り組んだ地下水道に消え、その匂いすら悪臭を放つ闇の中に紛れ込んだ。

 ユーリィ少年は逃げ出した。

 彼は戦いを選ばず、逃走を選んだ。

 彼の在り方は、未だ「英雄」ではない故に。





 「あーぁ、ほんとに行っちまいやんの。薄情な野郎だぜ」

 “超人”……【タウロス】は約束を守った。逃げ出したユーリィを追い詰めるような真似はせず、彼の存在が己の知覚範囲から離脱するまでその場に留まり、そして遂に動くことはなかった。無力な少年はその暴腕より逃げ果せたのである。

 「で、残ったのはあんただけだ。どうすっかなぁ」

 「ぐっ……!」

 足元に転がるズベン、その頭に容赦なく足を乗せ踏みつける。その膂力を以てすれば頭蓋は高所から落とした卵の如くに粉砕されるだろう。

 「実を言うとな、一番頭にキてんのはてめえの存在だ。聞けばこっちの情報を漏らしてくれたそうじゃねえか。畑が違うもんでいちいち覚えちゃいねえが、おおかた分室所属の誰かさんてとこか」

 踏み付ける力を少し強める。断頭台の刃はもはやズベンの命を押し潰す、その秒読みに入っていた。

 「泣け、叫べよ。無様に命乞いでもしてみな」

 「命、乞い……。私が……あなたに、ですか。は、はは……ハハハハハ」

 「おいおい、気でもふれたかよ」

 逃れられない死を目前に狂気に走ったかと思うほど、暗く冷たい笑い声。さしもの【タウロス】さえ一瞬素に戻ってしまうほどだった。

 「あなたは、愚かだ。あなたは、自分達を脅かす存在を……排除する、唯一の機会を失った。滑稽だ、愉快だ、爽快だ……これは笑わずには、いられません」

 「……何が言いてえ?」

 「せいぜい、怯え竦みながら待つといい。人を超えたなどと驕る、その傲慢……。ならば、いずれ必ずや出会う事でしょう。たかが“人を超えた程度”では立ち向かう事も出来ない、『怪物』の存在に」

 脳裏をよぎるのは未だ会敵ならず、しかしいずれ激突すると「予言」されている未知の敵。単騎で街を落とせる“超人”が複数集まってようやく対抗可能となる規格外の仮想敵……『白鯨』。一言、怪物と言われて思い浮かべるものはそれしかない。

 「下らない虚栄心を抱きながら……いずれ“燃え尽き”、“虚無に落ちる”この地表にしがみ付きながら…………空しく滅びてしまえばいい。自分達がくべられた薪の一本であることも知らぬまま、無残に、無意味に、そして無価値に消費されるがいい! それが、それこそが、あなた達の辿る末路────」

 「うるせえよ」

 身の毛が弥立つ音が響いた後、地下水道で呼吸を行う生物はたった一人だけになっていた。人体の可動域を遥かに逸脱した方向に捻じ曲がった首は、一目でその人物が絶命したと判断するに足る有様で、これを以てズベンの死は確定した。

 口数の減らない裏切者に死をもって償わせた【タウロス】。しかしその表情は決して、仲間の仇討ちを完遂したにしてはどこか微妙な、浮かない表情をしていた。

 「敗けるって言いてえのか……。この俺が、俺たち“超人”が、ゾディアークが! 無様に醜態を晒して敗北するって、こいつはそう言いたかったわけか」

 有り得ない。そんな事は天地が逆転し、海の水全てが地上に溢れかえったとしても、絶対にありえない。

 “超人”は負けない。“超人”は敗れない。完成形たる我ら十二の使徒は、何があろうとも敗北することは無い。

 『そんな事になれば全てが無意味になる』

 『そんな事が許されれば全ては無価値になる』

 『そんな事態に陥れば……』



 全ては、無駄になる。



 「俺は……何を」

 一瞬、意識が揺らぐ。自分では無い他の何者かが囁き掛けてきたような、無意識の呟きに戸惑いを隠せない。

 だが逡巡したのはやはり一瞬のこと。ほんの瞬きの間に【タウロス】は自身に降りかかった現象に対する疑問を振り払い、もう用は無いと踵を返した時には完全に忘却していた。

 報復は成った。たった一人の生き残りは“超人”の脅威を伝える広告塔となり、自分たちに歯向かおうなどと奇特な連中は自然と駆逐されるだろう。

 これでいい。何も間違ってはいない。

 「…………」

 見逃した少年の去った暗闇を一度だけ振り返り、やがて彼は去った。

 残された死骸に意味は無い。その内に腹を空かせたネズミによって食い荒らされるだろう。

 廃棄された地下水道の惨劇を知る者は、地上には誰もいない。





 「エル・アクリビが落ちました」

 「そうか。情報は?」

 「滞りなく。各地に潜伏する個体に既に『同期』は完了しております」

 「引き続き経過を観察せよ」

 「承知。そちらの準備はどうでしょう」

 「問題は無い。このまま行けば万事順調に…………いや、すまん。たった今問題が発生した」

 「?」

 「つい今しがた入った報告によれば、うちのバカが一人、制止を振り切り先行した。もう間もなく連中のテリトリーに入ってしまう」

 「いけない! 止めなければ!」

 「奴は弾丸と同じ、出てしまえば止められぬ。何人たりともな」

 「どうすれば?」

 「予定が少し早まっただけのこと。急ぎ我輩も出て補助に回る。すまんが、細かい部分での調整は任せるのである」

 「ご武運を」





 「あぁ? 侵入者だぁ?」

 地下水道から引き上げた【タウロス】を迎えたのは、次なる指令を抱えた【ヴァルゴ】からの言葉だった。

 彼女もまたここに来るまでに二十数名のレジスタンスを始末しており、その手際は相手に「その瞬間まで襲撃を悟らせない」という異質極まる手腕でそれを成し遂げた。

 「国境付近の結界に破られた形跡あり。巧妙に隠されてて、警備兵の見立てだと突破されたのはちょうど二十四時間前。途中まで洗えたルートから推測して、まっすぐここに向かってる」

 「タイミング的に今さっき潰した連中の、外部協力者ってとこか。たまたま街に居合わせた俺らにお鉢が回って来たと」

 「そういうこと。【アリエス】も今知ったって。どうする?」

 「どーするも何も、決まってんだろ。命令ならしゃーないわな。世間知らずの田舎モンに、密入国は重罪だって教えてやんないとな」

 「じゃあ、行きましょう」

 レジスタンスを大量虐殺したばかりとは思えない気軽さで、二人の“超人”は征く。

 最強であり、無敵。

 完全にして、無欠。

 有象無象がいくら束になって掛かろうとも一蹴できる。その自信の表れが足取りにありありと出ていた。

 金牛の頭にはさきほど手に掛けた男の忠告じみた言葉など、もはや欠片たりとも残ってはいない。





 これは、滅びに抗う前日譚。

 『英雄』と『怪物』の物語。

 『英雄が怪物を打ち倒す』物語。

 この物語に、『人間』の入る余地は無い。
17/06/21 18:11更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
次回、第3話
「白鯨再来【モビーディック】」。

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