連載小説
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period 5
 満月が見守る、夜の街。夜が訪れても街からは明かりが消えることは無く、闇の帳を打ち払う人の明かりが街を染めていた。
 そんな、人の領域からは少し離れた場所。明かりも何もない廃ビルでは、今まさに竜と人の決戦が行われていた。
「――っ」
 人体など一瞬でただの肉塊にできそうな爪が少年を襲い、少年の持つ異形の刀が竜を狙う。少年の息は既に荒く、対して竜の表情は余裕のそれ。両者の力量差は既に明らかだった。
「どうした、武士」
 早くも見え始めた相手の底に、つまらなさそうに眉をひそめた竜が言った。
「このままでは先の戦いと何も変わらない。まさか、また本調子でないなどと戯言を言うつもりか?」
「はっ、それこそまさかだね。そっちが本気で来ないから俺も手加減してるだけだ」
「その強がり、どこまで保つか見ものだな」
 竜はそう言い捨て、歩数にして五歩ほど開いていた少年との距離を一瞬で詰める。虚を突かれた少年は反応が遅れ、なんとかかわしたものの頬に浅手を負った。
 傷を気にせず跳び退った少年は再び剣を下段に構え、竜の出方を窺う。
「どうした? 火は使わないのか? 尻尾は? 翼は?」
「……挑発のつもりか?」
 クリーンヒットこそないものの、既に少年は体中傷だらけだ。しかしよほど受け身が上手いのか、数度コンクリートの床に叩きつけられたにも関わらず彼は未だ自らの足で立っている。
 対して、少年が竜に入れた攻撃はゼロ。そもそも少年が攻撃をしないのだから、竜が傷を負うはずもない。
 こんな状況で挑発とは、何を考えているのか、と竜は思った。しかし、次の瞬間そんな思考を止める。
 ――罠があるなら力ずくで突破すればいい。たかが人間の男一人、どうということはない。
 正に傲岸不遜。圧倒的強者のみが持ち得る、論理や作戦を一切必要としない力ずくの戦法だった。
「――あっぶね!」
 次の瞬間、ビルの屋上は火の海になった。竜の吐いた火は彼女の目の前全てを焼き尽くすべく、紅蓮の劫火となってコンクリートを灼く。その炎によって、月明かりに照らされているだけだった屋上が一気に明るくなった。
 少年はその炎によって開けた視界を頼りに、炎のない竜の横に回り込む。
「甘い」
「おうっ……!」
 少年が回り込んだ先には、竜の尾が待ち構えていた。力強い尾で身体をしたたかに強打され、少年は炎に向かって打ち飛ばされる。その体は屋上の手すりにぶつかって止まったが、もし手すりが無ければ地面に叩きつけられていただろう。さもなくば炎の海に叩き込まれ、生きながら火葬の憂き目に遭ったかのどちらかだ。
 少年は武器を持ったまま、どさりと倒れる。しかし気絶してはいないようで、懸命に立ち上がろうともがいていた。その瞳には、未だ燃え尽きぬ闘志の炎がある。
「武器を離さなかったのは褒めてやろう」
 やっと立ち上がり、膝を突いて剣を構えなおす少年に竜が迫る。背の翼を広げ風を蹴り、鋭利な爪を振りかぶった。
「―――ッ!!」
 肉を断つ音がし、宵の闇に深い赤が散った。
「なにッ――!?」
「ちッ!」
 少年は悔恨に、竜は激痛に顔をしかめた。
 見れば、竜の爪は少年を切り裂く手前で止まり、逆に少年の異形の武器――刀の刃部に幾重にも札が貼り付けられたもの――は竜の肩口を刺し貫いている。
 あと少しずれていれば、その刀は肩ではなく急所を貫いていただろう。その事実に、竜はうすら寒いものを感じた。
 竜は並大抵の武器では傷つかない。その事実と、今まで逃げ回るだけだった少年に油断していた。少年は最初から、この勝負を初撃で決めるつもりだったのだ。竜が少年を侮っている内に、一撃で狩り果たすことによって――。
 大した策士だ、と竜は思う。逆に自分が一撃で倒れる可能性もあるというのに、少年は確実に竜を倒すためにギリギリまで策を出し渋った。その賭けは少年の勝ちで、竜が未だに生きているのはただ運が味方したからに過ぎない。
「なるほど……私はあなたを見くびっていたようだ。名前を聞かせてもらえるか?」
「いろは。鷹崎いろはだ。あんたは?」
「ニルティフィア。ニファと呼ぶ者もいる」
「了解、覚えた。ニファ」
 再び距離を取った両者は武器を構えあう。いろはは異形の剣を、ニファは爪を、互いの急所へポイントする。
 いろはの構えは今までのような地の構えではなく、烈火の如き火の構え。相手の動きを見切り、攻撃に転じる際にいろはが多用する構えだ。格上相手には向かない構えだが、全身全霊で打つという覚悟をよく表していた。
「行くぞっ!」
 今までの防戦を一転し、攻めに打って出るいろは。しかし振りかざすのは竹刀ではなく、竜を切り裂く異形の魔剣。ニファもその切れ味は身を以て知っているので、やむなく避ける。
 しかし、無論ニファともあろうものが防戦一方に追い込まれる事は無い。
「舐めるなッ!」
 時に剣を弾き、いなし、その隙に反撃を叩き込む。
 竜と人の決闘は、未だ決着の時を迎える気配がなかった。


 ◇◆◇◆◇


 不穏な予感と胸騒ぎに、渚はいつもならとっくに布団に入っている時間を迎えても眠る事が出来ずにいた。
 握りしめた携帯電話は、とある人物に電話をするか否かを渚に問いかけている。あとは通話ボタンを押すだけで、この文明の利器は渚と相手の間に距離を越えた会話をもたらしてくれる。
「………」
 だが、押せない。夜遅いし、とか、いきなり電話して迷惑じゃないだろうか、というネガティブな妄想が渚の親指を押し止める。
 嫌われたくない、という思いがある。むしろ、好かれたいという思いがある。
 渚は、この感情の名前を知っていた。
「……いろは先輩」
 恋だ。
 渚は、鷹崎いろはが好きだった。いや、好きになった。
 夏休み前までは渚も彼を意識しておらず、“剣道の強い先輩”くらいにしか思っていなかった。実際彼はコミュニケーションの得意な方ではないようで、口数も少なく目立たない存在だったのだ。
 しかし、彼本人は気づいていないかもしれないが、彼は夏休み中に変わった。何がどう変わったのか、渚にも分からない。だが、どこか生き生きとしている彼を見て、彼の事をもっと知りたいと思うようになった。
 思えば、それが恋の始まりだったのだろう。恋のきっかけなど些細なものだと何かの本にも書いてあった。
 それでも、渚が自身の恋心に気付いたのは最近のことだ。数日前、彼と一緒に東京タワーに出かけた日。あの日、渚は外から飛び込んでくる謎の生物から彼に庇われた。それどころか、彼は身を挺してタワーに居た人々全員が逃げるだけの時間を稼いで見せた。
 そこまでされて、惚れない方がどうかしていると渚は思う。
 しかし、渚は奥手だ。自分から思いのたけを伝えるなんてとても出来ないし、そもそも異性とのコミュニケーションの経験が圧倒的に不足している。その上、彼にはどこで知り合ったのか、さる国の貴族の血を引くという恋人までいるのだ。
 対して、いろはにとっての渚は“剣道部の後輩“でしかない。両者の差は歴然だ。
「でも……」
 諦めたくない、と渚は思う。いろはの事を思う気持ちは、ミレニアだけでなくこの世の誰にも決して負けていないと思う。
 これから努力すれば、好きになってもらうことだって、きっと――。
「……やっぱり、止めておこう」
 いろはとはまた学校で会える。今、無理をしていろはに連絡を取るより、ずっと賢い手段だ。そう自分に言い聞かせ、渚は携帯電話を畳んだ。
 携帯電話を枕元に置き、布団に横になる。すると、十分もしない内に渚は静かな寝息を立て始めた。
 すっかり寝入ってしまっていた渚は、
「フフフ……ミツケタ………」
 明かりの消えた部屋に灯る青白い明かりと、その小さな呟きを知ることは無かった。


 ◇◆◇◆◇


「逃げたぞ」
「逃げたわね」
 ニファは腰に手を当てて、ミレニアは前で腕を組んで言った。
 ニファの表情が苦々しげなものなのに対して、ミレニアのそれはこの状況を面白がるような笑みだった。
 いろはの策の内、剣の力を隠しての一撃勝負は失敗。ならば、次はどんな手で竜を追い詰めるのか? ミレニアはそれが気になって仕方がない。
 不意を突いての奇襲か、意表を衝いての奇策か。あるいは、無策に正面勝負を試みるつもりか。
「決闘の舞台はこのビル全体よ? まだ彼はここから出ていないのだから、勝負は継続よね」
「それは……そうだが」
 竜と人が激しくぶつかり合っていたとある廃ビルの屋上は、頑丈な筈の鉄筋コンクリートがめくれかえっていたり、金属パイプで作られた手すりが半ばから切断されていたりと、とんでもない有り様だった。端の一部など、とてつもない高音に晒されたのを示すように表面が融解してすらいる。
 およそ、人の成せる業ではない。屋上に刻まれた傷跡、それを成した攻撃の一つでも人がまともに受ければ、瞬きをする間もなく一瞬で絶命するだろう。無論、そんな化物を相手取って十分も勝負を演じてしまう少年も規格外なのだが。一度でも判断を誤れば、即、死の顎に囚われる。そんな状況で冷静に身体を動かし続けられるその胆力は、どこか神話の英雄に通ずるものがあった。
 しかし、今の屋上に竜と悪魔の姿はあれど、人の姿はそこには無い。
 それもそのはず、彼は上の開けた屋上で戦うのは不利と判断し、あろうことか屋上から飛び降りたのである。翼も命綱も無しに屋上から身を躍らせた少年は二階下のバルコニーに着地し、そのまま割れた窓からビルの内部へと入って行った。
 それを敵前逃亡と罵るのは容易いが、常人であれば逃げる事も難しい。
「それも立派な戦法よ? 逃げたと罵られても仕方のない事だけど、彼はそんな事はしないわ」
「……ああ、分かっている。手を合わせて分かった。イロハは尻尾を巻いて逃げだすような男ではない」
 肩口から血を流し、全身にも無数の刀傷を刻んだニファが言った。そう言った顔は、いつの間にか不敵な笑顔になっていた。
 強敵を見つけ、それと全力で戦える喜び。戦士たるものの魂に秘められた悦びによる笑みだった。
 かつてニファに挑んだ命知らずは無数に居たが、その全てが自らの浅はかさを悔いる事となった。ニファも弱敵と戦っても興が乗らず、適当に戦って追い返していたのだが、
「久々に、面白い戦いになりそうだ」
 そもそも、ニファは傷を負ったことすら久しぶりだった。生まれてこの方、闘争の日々を送って来たというのに、である。
 久しぶりに受けた傷の熱い疼きは、長い間忘れていた戦いの悦びを呼び起こすには十分だったと言っていい。先ほどまではいろはの予想外の行動に呆気に取られていたが、
(成程……確かに、それくらいやってもらわねば面白くないな……)
 武と智を使い分けるその戦法の、その先を見てみたくなった。
「すっかり本気ね、ニファ」
「正直、初めはまた上手くお前に乗せられたのだと思っていたが……あれほどの戦士はそういまい。こちらに来て正解だった」
「当然よ。だって彼は、この私を倒した男だもの」
 惚れちゃだめよ? とミレニアは言う。その台詞は、もしいろは以外の異性が聞いていたなら、一瞬で彼女の虜になってしまうであろうほど艶っぽい響きを孕んでいた。
「イロハは私のものなんだから。他の誰にも渡さないわ」
「ほ、惚れるなど……。そんな目で戦士を見るのは失礼だぞ」
「ふふふ、ニファったら初心よねー。まあ良いわ。でも、彼の本妻は私なの。それだけは忘れないでね」
 ミレニアの言葉に、ニファはフン、と鼻を鳴らし、翼を広げた。
「私は戦士だ。――言われるまでもない」
 それだけを吐き捨てるように言い残し、ニファは満月の輝く空へと飛び立つ。目指すは階下、悪魔殺しの少年の待つ戦場だ。


 いろはは廃ビルの三階で柱にもたれて座り込んでいた。彼の纏う学生服のあちこちは焦げていたり、少量の血が乾いてこびり付いたりしていた。恐らく、白いシャツの下には無数の傷が刻まれているのだろう。
 しかし、なんとか彼は未だ五体満足だった。
「……死ぬ! もう一回同じ事したら死ぬ!」
 このビルは四階建て。いろはは先ほど、屋上という極端に不利な戦場を強制的に変更するため、屋上から二階下の三階に飛び降りたのだ。もちろんちゃんとバルコニーに降りられるように飛び降りたのだが、それでもビルの屋上からのダイブは恐ろしく心臓に悪かった。
「……これから夢に見るな。ここから生きて帰れたらだが」
 それでも武器を手放したり悲鳴を上げたりしなかったのは、自分で自分を褒めてやりたい程だ。
 いろははバルコニーからここに這ってくる間に気が付いたのだが、廃ビルの中には、数は少ないものの当時使われていたであろう机やソファ、観葉植物などが残されていた。それらはいざ戦いとなった時にいろはの障害物として立ちはだかるだろうが、室内ならばニファに飛ばれて上空からの急襲を喰らう可能性も少ない。
 しかし、一端逃げてしまえばいろはもニファが何処に居るかを把握できない。現在いろはがビルの奥まったスペースで背中を柱に預けているのも、できるだけニファの進入経路を少なくして注意を集中させておくためだ。その代償として自身の逃走経路も犠牲になるわけだが、いろはにはこれ以上逃げるつもりはなかった。
 ――この場所で決める。そのための布石はすでに打っておいた。あとはニファが素直にそれに引っ掛かればよし、失敗したならあと幾つか用意してある策を用いるまでだ。
 今のところ、勝てる確率は3:7ほどだろうか、といろはは思う。もちろん、実際に戦いになってしまえばこんな数字に意味などないのだが。
 その時、いろはの耳は何処かの窓ガラスの割れる音を捉えた。
「……来たか」
 まだ激しい疲労を訴える身体に鞭打って、いろはは立ち上がる。先ほどの戦いで受けたダメージも抜けておらず、立った瞬間に走った痛みにいろはは少し顔をしかめた。
 それでもいろはは両手で剣を構え、迎え撃つ姿勢を整える。
 瞬間、50メートル程先の廊下のT字路、その右側から緑鱗の竜が姿を現した。恐るべきことに、彼女はこの狭い廊下で翼を広げ、飛行していた。
 どうやってかいろはの位置をあらかじめ知っていたようで、長い髪をなびかせ、竜は一直線にいろはに向かって飛んでくる。
「……ここでも飛ぶか…!」
 ニファは廊下に設置された自販機やソファ、観葉植物を巧みにかわし、翼を器用に羽ばたかせて狭い廊下を飛行する。対して、遠距離攻撃の手段を持たないいろははそれをどうすることもできなかった。
 結果として、いろはは簡単にニファの接近を許してしまう。
 いろはが独り言に似た呟きを漏らした直後、ニファの体当たりが来た。爪での一撃でなかったのは、流石にこの狭い空間ではニファもバランスに余裕が無かったせいだろうか。
「殺す気かっ!」
 そのミサイルのような突撃を身を投げてなんとかかわすいろは。ニファはその背後で強引なランディングを決め、地面に降り立つ。廊下にニファがスパイク代わりに立てた足の爪の痕がブレーキ痕のように残った。
 急激な減速に、ニファの長い髪が舞うように広がる。
「とんでもない登場だな!」
「翼も無いのに空を飛ぼうとするあなたに言われたくはない」
「……男には月一で重力に逆らいたくなる日が来るんだよ」
 ゆっくりと身を起こすいろは。受け身に失敗し、床で胸を強打したが、あの突進をそのまま受けていたらあるいは五体がばらばらになっていたかもしれない。いろははその事実に戦慄に似た寒気を感じながらも、手の中の武器を構える。その口元に浮かぶのは強がりの笑み。
 最早、様子見の必要などない。長期戦になれば持久力に欠けるいろはの方が不利だ。いろはは剣を構えて斬りかかる。
 大胆な踏み込みからの袈裟切り、続いて切っ先を返しての横薙ぎ。しかし、そのどちらもがニファの甲殻に阻まれて硬質な音を立てるにとどまった。倉名は竜であれば鱗でも甲殻でも斬ると豪語したこの天羽々斬剣だが、ニファの甲殻を切り裂くことはできない。
 ニファの右の細腕が、剛腕の衝撃を纏っていろはの目の前を通り抜ける。続いて放たれた左の爪をいろはは横に転がって避けた。不安定な体勢から横に転がったせいでいろはは背中をしたたかに強打したが、それでも爪の一撃を受けて肉片に加工されてしまうよりは幾分かマシだ。
 それだけの犠牲を払った甲斐はあり、ニファの爪はコンクリートの壁に鋭利な爪痕を刻むだけにとどまる。
 しかし、いろはには少女と言っても差し支えない見かけの竜がもたらした、可憐な破壊に見惚れているだけの余裕はない。彼女の爪が空を切ったあるかなしかの隙に身体を起こし、追撃を避けるために牽制の一撃を入れた。
 やはり、ビル内部の廊下という狭いスペースではニファは思う存分に力を発揮できないらしい。回避もままならず、彼女の腕の甲殻にまた一つ傷が増える。
「くっ……!」
 翼を広げて飛び退ろうにも、ここは狭い廊下。外で速度を蓄えて突っ込んでくる滑空飛行ならまだしも、この中で羽ばたこうとしてもそうはいかない。いろはは苦々しく歪められたニファの表情に、自身の策の一つが成功したのを知った。
 しかし、まだだ。ニファの無尽蔵とも言える体力は未だ尽きておらず、その爪も炎も封じてなどいない。相変わらず一歩間違えばその瞬間に勝負が決まってしまう状況には変わりがなかった。
 視線を合わせたまま竜と人は数合打ち合う。竜の一撃必殺の爪が人の頬を浅く切り裂き、人の竜を屠る剣が竜の首に小さな傷を付けた。
 互角の勝負――に見えるのは、いろはが奇をてらい策を弄しているおかげだ。一つ一つの効力は薄い策でも、幾つか組み合わせれば何とか生き延びられる程度には勝負の行方を持って行くことが出来る。
 だが、やはり地力の大きすぎる差は徐々に戦況に暗い影を落とし始める。
「まだ息も乱れないか……! どんな体力してんだよ」
 身体中の傷から血を流しながらいろはは呟く。
 夏休みの決戦でも味わった、血と共に体力まで流れ出ていくような錯覚に見舞われながらも、彼はそれを悟られないように平静を装っていた。しかし、どうしても殺しきれない弱い心が彼に呟きを漏らさせる。
 いろはの呟きを聞き取ったニファは、僅かににやりと笑う。その笑みはまだ余裕のそれだ。
「敵の体力を気にするとは、既によほど辛いのだな。大人しく負けを認めた方が良いのではないか?」
「俺が負けを認めたら、どうなる?」
「あなたは見どころのある武士だ。連れ帰って育てることにでもしようか」
「じゃ、諦める訳にはいかないな。俺にも生活ってもんがあるし、こっちの世界にも友達が沢山いるんでね!」
 言い終わるのと同時に、いろはは手に持っていた剣を投擲した。距離にして五歩分を回転して飛んで行った剣は、しかしいとも簡単にニファに払い落とされる。
「自棄でも起こしたか? あなたらしく――」
 あなたらしくもない、という言葉を最後まで言い切ることが出来ず、ニファの視界はぐるりと回った。
 投擲した剣に注意を向けた一瞬で、いろはが足払いを仕掛けたためだ。今の今までいろはの剣による猛攻をしのいでいたニファは、突然仕掛けられたそれに対処できずにきれいに足を払われた。
 仰向けに倒れたニファに、のしかかるようにいろはが覆いかぶさる。その手には、打ち払われて宙を舞っていた剣がしっかりと握られていた。
 いろはが握っているのは剣の刃部。真剣であれば指が無くなっているところだが、倉名の造り出したこの剣は竜以外を傷つけることはない。
「ニファ、軽いな」
「……褒めているのか? 貶しているのか?」
「喜んでる。で、チェックメイトだろ?」
 まるで押し倒されたか弱い乙女のように仰向けに倒されたニファと、少女と良からぬことをしようと企む暴漢のように、ニファを押し倒した姿勢のいろは。吐息が互いの顔に掛かるほどの至近距離で二人は見つめ合う。
 月光に妖しく照らし出されたニファの姿態は、その凛とした雰囲気とは裏腹な婀娜っぽい艶をも内包していた。いろははニファの首に剣の切っ先を突きつけたまま、生唾を飲み込む。
 ニファが炎を吐くよりも、爪を振り下ろすよりも、いろはが剣を突きだす方が早い。ニファもそれを理解しているがために、迂闊には動けない。
 だが、
「詰めが甘い」
「ぐふっ!?」
 空を切る音と共に振るわれた鞭のような尻尾に身体を強打され、横へ打ち転がされるいろは。その拍子に、遂にいろはの手から剣が飛んで行った。
 いろははすぐに身を起こすものの、剣まではおよそ三歩。そして、目の前には右手を振りかぶるニファ。
「くっ――」
 鈍い音がして、勝負が決まった。
12/02/18 13:34更新 /
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■作者メッセージ
すみません、湖です。
性懲りもなく鈍足更新で本当にすみません。

一章がもうすぐ完結するので、もしよろしければ最後まで付き合ってやってください。

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