読切小説
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手におさまるまで小さく砕いて
 男は家路を急いでいた。
 城下に届けるものがあって、村でも若く健脚なこの男が出向いたのだ。
 慣れぬ仕事に手間を取って、もう陽が少し傾いていた。
 だが、日暮れには村に帰れるだろう、か。
 そう目算をし始めた。
 そんな時に、男はふと、人の気配に足を止めた。

 茂みの向こう、木陰の暗闇の中のそれに、一瞬目を留めてしまった。
 微かに、人の眼の白い照りが見えてしまって、目をやってしまった。
 女か?
 魔物のようであったが。
 茂みの枝葉の絡み合う向こう、その隙間から女の肌が見えた。
 それが錆びた銅のような深い緑青色なのは、木陰の色ではなく、肌そのものの色で、髪はやはり薄く黒錆を浮かべた青鋼なのは、近くの淵の照り返しの色ではなく、髪そのものの色であった。
 だが魔物とは言え、木陰の青緑色の陰の中にほとんど裸で佇む女の姿に、中に詰まった生気に肌をはち切れんばかりしたその肢体に、男は魅入ってしまっていた。
 あのような女体が男を受け入れた時、どのように爆ぜるのであろうか、などと考えて、まだ若いこの男は、自分のそれを手で抑えてしまっていた。

 魔物の女は、男が覗いている前で、獣毛に覆われた腕で自らの乳房をまさぐっていた。
 何かを見つけ、それに猛るように。
 男がそれに気付いた時、その魔物も男を魅入っていたのだ。
 そして、にたり、と笑った。  
「いいなぁ、おまえぇ」
 ぞっとするような声の響きに、男は魂を握られたように思えた。
 男はその時ようやく思い至った。
 魔物だと? ならばあれはなんという魔物なのだ。
 男は逃げ出した。
「逃げるなぁっ」
 茂みから女が飛び出した。
 女体の上半身の下に、毛むくじゃらのおぞましい蜘蛛の体があった。
「うわあぁっ! ウシオニだぁっ!」
 やはりだ。
 それは、ウシオニという凶暴な魔物であった。
 ずしゃり、と男の前に着地すると、腕を伸ばして男を捉えようとする。
 男は、自分を掴もうと伸ばされたその手を振り払い、その腕をくぐり抜けた。
「逃げたか、逃げられたかぁっ」
 がしゃらぁっ…、がしゃららららららぁぁっ!
 ウシオニは六本の太い蜘蛛の脚を忙しなく動かし、絡ませるようにしながら、後ろへと駆け抜けた男の方へと振り向く。
「そぉうかっ、お前は俺にはまだ大きすぎるのだなぁ、だからこの掌では溢れて持ちきれずに、そちらにひかれて逃げてしまうのかァっ!」
 ウシオニは、指の代わりに大きな爪を揃えた、毛むくじゃらな手を見た。
 にたり、と、また笑って。
 男の駆けて行く方を見やった。
「お前より大きなお前が、そっちにあるのだァ?」
 男の頭の上を、剛毛に包まれた巨大な蜘蛛が飛び越えて行った。
 行く手に回り込まれたと思った男は、咄嗟に道の脇の茂みの中に飛び込んだ。
 また、ずしゃり、と背後で、中に詰まった肉を揺らした、虫の殻が揺れるような音がした。
 男は振り返らず、その中を走った。
 草が絡み、茨が腕や脚を引っ掻いた。
 ひりひりとした痛みが、すぐに体中に刻まれて行く。
 それでも男は走り続けた。

 暫く走って、
 あれほどの大きな体躯でこの茂みだ。追われれば音で知れよう。だが、そのような音など聞こえては来なかった。
 その事に気付いて男は、息が切れるままに走る脚を緩めた。そして立ち止まった。
 自分が茂みを掻き分ける音が消えると、やはり男自身の乱れた息の音しか聞こえなくなった。
 暫し様子を伺い、すると何処からか郭公の啼く声が聞こえて来た。
 鳥が逃げないのを見て男は、あの化け物が自分を追って来ていない事を知った。

 大きく息を吐いた。
 へたり込むように、尻をついた。
 あの化け物が追って来ないと知れると、力が抜けていた。有りっ丈の力を出し切ってしまったようだった。
 暫く動けずに、できる事も無く、それで男はウシオニが言っていた不自然な言葉を思い出していた。
 お前より大きなお前が、と言っていたな。
 大きな自分とはなんだろうか。
 大きな自分があちらにあると、男の行く手、村の方に向かって言っていた、か。
 男は立ち上がった。
 まだ息が落ち着いていない。それでもこの森で夜を迎えるつもりなど無かった。のろのろと、茂みの草を掻き分けながら歩き始めた。
 道に戻ればまた、あのウシオニと出くわしそうであったので、男はそのまま山の中を茂みを分けながら村に向かって歩いて行った。少し時間はかかるが、仕方が無い。

 樹の茂みの合間から覗く空の色は、空の青に乳白色を混ぜたようになっていた。それは、日が暮れて行く狭間の色であった。
 それでも男は、なんとか日没までには村の縁に辿り着けそうであった。
 道中、ウシオニどころが魔物の一人とも合わなかった。
 もうすぐ森を抜ける。
 木立の向こうが明るい。あの明かりは夕陽だろうか、真っ赤に染まっていた。
 ふと、男は鳥が啼いていない事に気付いた。
 そう思った時、森を抜けて視界が開けた。

「なっ……」
 男は絶句した。
 木立をすり抜けて森を照らしていた光は、それは夕陽などではなかった。
 自分たちの村の田畑が、燃え盛る色であったのだ。
「ああ……なんて、……なんてっ!?」
 一面に篝火を焚いたように、橙色に照れるそれは、まだ遠くに居る男の頬までもを熱くした。
 男は村へと駆け出した。

 村の方では、土煙が上がった。
 家が突き崩されていた。土壁が崩れ、柱が藁のようにバラバラになって、屋根の萱が荒れ狂いながら舞い上がっているのが見えた。
「まだぐわぁっ!? どれだぁ!?」
 破壊するものを探し、それが見つからず破壊し尽くして行く者の声が、響き渡っていた。
 あのウシオニが、村を襲い暴れていた。

 男は駆けた。
 灼ける田を抜けて、村に向かった。
 その灼かれる火の粉は、そんな男の頬を撫で焦がした。
 稲穂が灼ける匂いが、走って大きく息をすればする程、嫌でも鼻や口の中を満たした。
 灼けて立ち上る煙が、炎の熱で蜷局を巻きながら舞い上がり、そこら中でのたうち回っていた。
 何処もかしこも煙で真っ白になり、その中を男は突っ切ろうとした。何も見えないその先を見ようと見開いた眼が、煙やら灰やらに刺されてチリチリとした酷く痛んだ。
 涙があふれ、それで流しても、それでも痛んで、男は目を瞑って走った。
 稲や草が灼ける煙と、やがてそれに様々な物が灼ける煙とが混じり始めた。

 村の家々は、次々とウシオニに薙ぎ倒されて、屋根を落としていった。
 それが夕飯時の竃の上に落ちて、その火に萱が炙られて、爆ぜる音が至る所でした。火はやがて倒れた柱にも燃え移り、木を割る大きな音を立て始めていた。炭なり灰になって、支えを喪ったものが崩れ去る大きな音が、村中に溢れ始めていた。
 そして、それらどんな音よりも大きく、ウシオニによって物が薙ぎ倒される音が鳴り響いていたのである、薙ぎ倒せる物が壊し尽くされるまで、それが鳴り止む事は無かったのである。

 男が着いた頃には、ウシオニはすっかり村の何もかもを壊し尽くしていた。
「よぉ……俺は、お前のどれくらいを壊した? お前はどれだけ小さくなったァ?」
 ウシオニは、そう尋ねて来た。
 その身に纏わりつかせた、ありとあらゆる物がぶつかり、擦れ、まるでそれらが摩擦で焦げたかのような臭い匂いが、その吐く息に引きずられて、男に降り掛かった。
 そのしゃくる頭から、縊り出したような、雄牛のそれよりも太く括れた角に、この化け物は今まで突き崩して来たもの全てをまとわりつかせていた。土、藁、木屑……、追い払う為に揮ったであろう武器代わりの鍬や鋤などの金物すらも鉄粉にして、それはこの化け物の髪をギラギラと光らせていた。
「俺はお前の田を抱えて行けぬから、灼いたぞぉ。俺はお前の家を持って行けぬから、壊したぞぉ。
 でも、どれがお前の物かは解らぬから、片っ端からこのザマだぁ」
 にたぁっ、と笑った。
 その表情は、手にしたいものを、もうほぼ手中にした事を感じているものであった。手にして、どうやっていたぶってやろうかと言う、愉悦のようであった。 
 そして、それを手に入れると言う興奮をまだ味わいたくて、もっとその興奮を味わう為に、その術と物とを探して、辺りを嬲ってもいた。

「後は、こいつらだけだ」
 村の者が一カ所に集められていた。
「この中にお前の家族は居るかぁ? 友人は居ないかぁ? 俺の手ではお前一人しか抱けぬのよ。お前の全てを抱えられぬのよ。だからお前独りにするのよぉ。田も家も、そして家族や友人も壊して、俺でも抱えられるようにするんだ……ァ」
 この魔物が言っていた事だ。
 大きすぎる。
 お前より大きなお前とは、この男の持ち物、関わる全ての事であった。それを持って行けぬから、それを壊して行くのだと、この魔物は言うのだ。
 化け物だ、化け物め。
 男には抗う術は無かった。
「俺にはもう、家族なんか居ない。
 この村には友人も居ない。
 だからもう、
 やめろ」
 家族を見ないようにして、力を合わせて田を耕して来た仲間から目を背けるようにして、男はそれらを棄てた。
「そぉかぁ……お前は独りになったのだな?
 お前の全てを壊し尽くしたのだな。お前はもうお前だけなのだな?
 ならば俺ぁ、ようやく抱えられる程小さくなったお前を、持って行こぉ……。
 嬉しいぞおっ。
 もうお前は、何もかが俺のもんだアッ!」
 男を毟り取るように抱え込んだ。
 そしてウシオニは飛び去るように、山へと帰って行った。

 人が分け入れぬほどの山の奥深くまで、ウシオニは男を連れ去った。
 見知らぬ大きな滝の前に来ると、男はその水の落ちる先にある岩場に置かれた。
 そしてウシオニは月が零れ落ちる滝壺に、身を踊らせた。
 盛大な水柱を上げる。
 水中でもがくようにして、自分で立てたそれの何倍もあって、それもずっと滝壺に突き立てられ続ける滝の流れ逆らっていた。落とし込まれる水が、呑み込む何もかも揉み砕こうとするその力に、魔物は抗って、そして浮かび上がる。
 すっかり、身に食いついた汚れや蚤を落として。

 男はそれを、ただ座り込んで眺めていた。
 男を縛めるものは、何も無かった。
 ただ、逃げる気力も無かった。どこに逃げろと言うのか。逃げるたびに、こいつは、この化け物は、男に関わるものを壊しにやってくる。逃れた先の荒れ地から田を拓いても、森から樹を切り出して家を建てても、嫁を迎えて家族を育んでも、このウシオニはいつかはやって来て、その一切合切を壊して、また男を人間一人分にしてしまうのだろう。
 逃げる意味を喪って、彼はここに居たのだ。

 男は、何故ここに連れ去られたのか。
 魔物が男を勾引す理由は一つしか無い。
 この化け物が、我が子を孕む為の種を得る為だ
 男はこれから、子種を注ぐ番いの片割れとして化け物と交わるのだ。自分の種で、この化け物を生み殖やさすのだ。
 なんて事だ、俺は、こんな化け物を栄えさす為にされるのか。
 やはり、逃げようと思った。

 ウシオニを見る。
 髪を、人が指と指の間に通すのを真似て、太い獣の爪で握って扱き通して、含んだ水を搾っていた。
 その絡まった髪を引っ掻き梳く感触を、目を細めて感じていた。
 うなじを男に向け、その肩越しに男の姿を流し見て、誘うように微笑んだ。
 まるで、人の女が男と対したように。
 手招きするように、髪に櫛を入れる。
 それは村から奪って来たものだ。
 乱暴に扱って所々の歯が抜け、村を焼いたのと同じ炎で焦げて所々が炭になっていた。
 ウシオニが、化け物がそうしたのだ。化け物だからその櫛はそうなったのだ。
 それを手にして、その焦げ目や傷を見て、ぽつりと呟いていた。
「俺は、鬼なのだなぁ……」
 そんな櫛を、ふと髪を梳く手を止めて、じっ見ていた。

 男はそちらを見た。
 そこにはただ、化け物ではなく、まるで女が一人佇むばかりのようであった。


 ……にたぁ、と笑われる。
 今のそれが、まるで体の中に滾る熱にうなされていたからのように、それが覚めた事を知ったかのようにまた、化け物は笑った。
「お前が、俺の事しか考えられないようにしてやろぉ……」
 逃げて、何処かに田を拓き、家を築き、自分以外の女を娶って増えようとせぬように。
 男の今までの全てを奪ってやったのだから。だから今この時から、男がこのウシオニ以外の何物も持てぬように。まだ何かが残っていたとしても、それでも思い出さぬようにしてやろう。
 熊のような爪を、自ら胸に当て、力を篭めた。
 張り裂けて行く、弾けて血飛沫が上がる。
「ぐるぅあぁあぁぁっ!」
 自らに深い傷を刻み、その痛みで声を上げたと言うのに、満足げな笑みを浮かべた。
「ふぅ、ふぅぅ……この血ぃ……この傷を舐めよぉ…ふぅ…くふぅ…っ」
 男は、その返り血を浴びていた。
 浴びた血が熱い。何かが肌から染みて行くのを感じていた。
 ウシオニは男の頭を掴み、それを胸に押さえつける。
「この傷が塞がらぬうちに、溢れるこれをぉっ」
 男は、それを口に含んでしまっていた。
 舌が灼けるように痛い。しかし、彼女の血と言うものは、痺れるように心地よくもあったのだ。肌から、口から、差し込むように自分の中に入ってくる。いつまでも滾るその欲望を、自分に向けられているを感じる。
 濃厚な魔力を含んだ血を浴びせられ、やがて男の体は熱くなって行った。

 この熱で、皆、灼いてしまおうか。
 男はそう思った。
 家族を、そうせねばならなかったとは言え、棄てるように失い、生まれ暮らした住処を失い、糧を得る為に精根を尽くして来た田も灼かれた。
 そうされても、これからは、この魔物を愛してしまわねばならない。我が身の性に一時でも憂うかのようにしたこの女を、抱き包んでやらねばならんのだ。
 そんなふうに思ってしまったのかもしれない。そうしてしまおうと、思ったのかもしれない。
 だから、過去は忘れてしまった方が良いのだ。失ったもの全てを、この浴びせられた血に含まれる魔力で、灼かれて灰にしてしまうべきなのだろう。

 男のものが固くなっていった。それはこの魔物を、化け物すらを貫き通せる程になる。
 それを感じ取って、ウシオニの息が競り上がってくる。早くなって行くそれに堪え切れなくなっていた。
「くふぅ…っ、行くぞ…、いぐぞぉっ!」
 そして待ち焦がれていたものを呑み込んだ。
 一番前の一対の小さな脚で男の腰を掴んで、続く前脚を折って倒れ込んで。肌と言う薄皮の中を、はち切れんばかり生気で満たしたその中に、そこを男に貫かせて、爆ぜさせた。
「ぐるおぅあぁぁぁっ!」
「ぐぅおあぁぁぁぁっ!」
 化け物は絶叫し、人の男もまた、絶叫した。
 突き込んでしまった、その薄皮の内で滾っている熱に半ば灼かれるように感じながら、男はウシオニを抱こうとした。浴びた魔物の血に含まれる魔力のままに、化け物を愛して交わろうとした。
 しかしあれは、そんな男すら壊してしまうかのようにした。
 脚をわななかせ、関節を鳴らし、獣毛を激しく波立たせる。蜘蛛の腹を持ち上げ、のしかかるようにして重々しい音を立てて、何度も何度も、衝動に駆られるままに男へと叩き付けて。
 その擦り合わさる音は、まるで租借する音の様で。

 ずしゃり、ずしゃり……と。
11/06/16 06:07更新 / 雑食ハイエナ

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