準備を終えた凱と瑞姫は、朱鷺子とフロゥの見送りを受けながら嘆きの渓谷へと出発した。

飛行訓練を兼ねた移動では早速、騎竜術が役立った。
先人の知恵を齧った程度とはいえ、以前とは違う乗り心地と互いの意思疎通のし易さを実感出来ていたのだ。だが、瑞姫を離さんとする凱の粘り腰が瑞姫の体に己の陰部を密着させ、瑞姫は愛する婚約者の陰部を感じて無意識に魔力を繋げている事をこの時の二人は気付けていなかった。

互いの変化に気付きもしない二人は僅か一時間で嘆きの渓谷に到着するも、渓谷からの洗礼を早速受けていた。谷間から常に吹き付ける強風は頑丈に作ってある吊り橋を揺らし、集中を乱すと風で振り落とされかねない程の強さで、その風は谷間を通って慟哭のように聞こえてくる。
まばらな木々に自然に出来たいくつかの洞窟、谷間を走る激しい川。
まともな準備をしないまま出ていたら食料調達が厳しいであろう環境である事は一目瞭然だった。

「必ず、俺達は這い上がる」
「負けたくない。大好きなお兄さんのためにも」

一番大きな洞窟に入った二人は手を取り合いながら決意を新たにすると、竜翼双伝に記された文章を元に飛行訓練に入った。風の被害が少ない場所からひたすらに練習し、互いの精神的なリンクにも助けられ、瑞姫は凱を振り落とさなくなった。だがそれで半日が終わってしまう。
半日分の保存食を食べた二人は、夜に食べる分の食料を現地調達する為、飛行訓練も兼ねて周辺の捜索を始める。ワームのように木の周辺を見渡せる訳ではないので、出来得る限り低空、そして飛行速度を落とす事に努めた。

そうして日が落ち始めた辺りにようやく虜の果実が実っている樹を見つけ、五個ずつ採取して洞窟に戻る
頃には辺りは真っ暗闇になっていた。
凱は照明石に魔力を注いで明かりを確保し、採取した虜の果実を一個だけ食べる。
瑞姫もそれに倣って虜の果実を一個だけ食べ、凱の隣に寄り添う。

「……お兄さん」
「ん？」
「わたし、ドラゴンになってよかったって、思ってる」

突然の瑞姫の言葉に若干動揺する凱だったが、瑞姫の目を見ながら言葉を返す。

「瑞姫が生きていてくれてるだけで、俺は嬉しい。ドラゴンってのは予想外だったけど、それでも今は瑞姫の言う通りかもしれないな」
「本当は、わたし一人だけをお嫁さんにして欲しかった。でもね、お兄さんは魔物娘を惹き付ける何かを備えてしまった気がするの……。わたしの……せいなのかな……？」
「なるようになるしかない。瑞姫がいてくれるから、今があるんだ」
「うん……」
「今日は早いけど寝るか。この暗さじゃ何も出来そうにないし、せめて入口にトラップ仕掛けるか」

凱は明かりを頼りにしながら爆裂石に魔力を注ぎ、洞窟の入口に埋め込む。
そうして瑞姫の傍に戻ると、今度は毛布を二枚取り出す。一枚を地面に敷き、もう一枚を被る形だ。

「さあ、これで良いよ」
「どうやって寝るの？」
「俺が下になって、俺の上に瑞姫が乗る。そうすれば少しは毛布をゆったりと使える筈さ」
「きゃん！」

凱の言葉に、瑞姫が悲鳴を上げながら顔を覆う。つまり抱きあって寝ると直感したのだ。

「おいおい、何もセックスする訳じゃないぞ？」
「え？　本当？」
「一週間もこの地域で過ごさなきゃならないんだ。食料と資材は限られてるし、体力も無闇に浪費出来ないんじゃセックスは無謀だぞ」
「それは……そうだけど……」
「とにかく今は寝よう。体力を温存させないと」
「……わかった」

互いに折り重なって毛布に包まれて就寝しようとするが、瑞姫が凱の耳元で囁く。

「お兄さん。今夜は……こうさせて」
「――っ！」

脳髄と下半身にぞくりと、それでいて甘美な刺激が襲い来る。
瑞姫はそれに構う事無く、愛おしい婚約者の耳元で耳打ちするかのように囁き続ける。

「大好きなお兄さん♥　ほら。わたしのお腹に、お兄さんのが、大きくなって、当たってる♪　うふふ♥」

くすくすと囁くように笑う瑞姫の声は凱の心を欲情させるかように甘く、なおかつそっと耳たぶをちろちろと舐め回している。

「ちゃんと……わたしを……あっためてね♥」

この瞬間、二人は互いをきつく抱きしめあい、互いの体温を共有し合いながら眠りに就いていく――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

翌日。
二人はゆっくりと目覚め、身体を起こす。
相も変わらず谷間からの強風は哭くように響き渡り、遠くから黒雲が垂れ込み始めている。
程無く雨になるだろうとは容易に判断出来た。
よって、二人は食料と水の確保を優先し、その行程を飛行訓練と騎乗での槍術訓練に利用する事で意見が一致した。
入り口に埋めていた爆裂石の魔力を解除して回収し、万が一の為に印も打って行動を開始する。

食料と水の調達にはそれほど時間を要しなかったが、飛行訓練と騎乗での槍術訓練には時間をかけてしまった。
小屋を作る考えもその時に浮かぶが、無闇に木を伐採して小屋を作るのは天候の問題から非効率的であったし、何よりも反対勢力の一角である第五陸上部隊からのクレームが予期された為、断念した。
天候が悪化すれば一気に修羅の地へと変貌するドラゴニアの圏内にある以上、時間的な余裕も無い。
いよいよ黒雲が頭上を覆い始め、飛行と槍術の訓練を断念した二人は前日入っていた洞窟に戻り、洞窟の奥に行ってみる事にした。

照明石を灯しながらゆっくりと進むが、土と岩だけの何の変哲も無い風景が続く。
二人は努めて無言でいた。余分な体力を消費するかもしれないと考えたからだ。
無駄と思えるくらいに長く、曲がりくねっている洞窟の中を延々と歩いていると時間の経過を感じる事が出来ない。
もっとも、中世レベルの文明である図鑑世界において、時計と言うものは個人がそうそう持てる代物では無い。時計塔や時刻を知らせる鐘はあっても懐中時計は一部の貴族が持っているに過ぎず、凱と瑞姫のような状況においては時計自体が意味を為さない。
そもそも現実世界（＝人間界）でさえ、17世紀までは日時計が一番正確と言われたくらいだ。

話は戻るが、二人が歩いて暫く経った時、突如として視界が開けた。
しかしその瞬間、凱は油断から足を踏み外して落下してしまう。寸でで瑞姫が救出したものの、少しでも遅れていたら地表に激突してどれだけの怪我を負う事になるか分かったものではない。

「お兄さん！　油断しすぎ！　わたし……、わたし、必死だったんだから！」
「……すまん」

怒る瑞姫に、凱はただ謝る以外の行動は出来なかった。

「もっと気をつけてよ。訓練はまだ――、え？　何、あれ……」

瑞姫が指差した方向にあったのは、半ば朽ちた神殿らしき建築物。

「行って……みるか？」
「……うん」

恐る恐る建築物の中に入る二人だったが、中が暗過ぎて照明石では僅かしか明かりが届かない。
そこで二人はそれぞれの魔力を同時に注ぐ事で光を強くしようと試みる。
下手をすると照明石が壊れてしまう危険がある。複数用意していると言っても不測の事態を考えれば一個たりとも無駄には出来ないが、それでも今はやるしかなかった。
自分達が注げる限界近く、かつ照明石がひび割れないという難しい調整は何とか成功し、二人してへたり込んだその時、二人の目に驚くべき光景が広がっていた。

壁面に描かれたドラゴンと騎士。それは絵物語と言うのだろうか。
互いに心を通わせて敵を退ける竜騎士、その後の起こったのであろう彼らへの仕打ちと国の終焉を予期する絵が描かれている。
「始まりの竜騎士」デル・ロウよりも古代に存在した英雄でありながら、権力者達の嫉妬と悪意によって故郷を追われたドラゴンと騎士。やがて王族と上民が権力と言う甘い蜜を啜りたいが為に法の暴力と圧政で竜と低い身分の人間を虐げる醜さが端々に綴られている。

祭壇らしき場所の両脇にあったのは、所々崩れながらも原形を留めるドラゴンと騎士の彫像。
恐らくは壁画に描かれたドラゴンと竜騎士を祀ったのであろう。
中央に置かれている箱らしき物体を二人は恐る恐る開けてみたが、中に入っていたのは一枚の羊皮紙と七色の輝きを持つ宝石が二個だけ。
羊皮紙にはこう書かれていた。

・・・・・

いつか、この地を訪れた者達へ。

竜と人は手を取り合い、助け合わねばならない。
ドラゲイという地獄を繰り返してはならない。
槍と竜乗りの術を極めんと志すならば、心せよ。
愛する心は力となり、怒りや憎しみもまた力となる。
愛する者を守る為に悪を成す事を厭わぬ強き志を持て。

国を守る事よりも、愛する者一人を守る事こそ至難を極めるもの也。

宝石は我が竜がたった一度だけ流した、「竜の涙」と名付けた涙石。
よき者の手にある事を願う。

・・・・・

凱には思い当たる節があった。
彼が読み耽っていた竜翼双伝の中に似たような一文が含まれていたのだ。
まさかと思いもしたが、羊皮紙にある文章の主が同一人物であると言う物証は何も無かったし、今この時点でそう決めつけるには早計でもあったが、改めて調査する必要があるとの確信は出来た。

「この七色の石、どうするの？」
「……この羊皮紙と一緒に持っていこう。そしてもう一度、みんなでここを調べるんだ」

瑞姫に問われた凱はそう答えて涙石の片方を彼女に預けると、雷の音が鈍く響き渡る。
外が雷雨になっていたのだ。二人は食事を摂った後、下側にもある地下道に足を伸ばした。
同じような道をずっと歩いてようやく出口が見えた時、外は激しい風と雷雨に支配され、眼下には水かさを増して濁流となった川が轟々と流れている。外に出るのは危険でしかなかったし、既に夜だった。
これ以上の探索は無意味と判断した二人は同じ道を逆に伝って神殿跡に戻り、道の出入り口に爆裂石を仕掛け、神殿の中に入る。
洞窟内で十分雨露を凌げるが、より安全を確保する目的から神殿跡の中で休息する事を選んだのだ。

「明日一日は槍と騎乗の訓練かな……」
「賛成！　わたし、何となく感じるの。竜騎士達がここに集まってくるような気配を……」

瑞姫の予感じみた感覚はあながち間違いではなかった。
ドラゴニアの皇都でも雨が降る中、王城では凱と瑞姫が最終訓練に出発した日から連日連夜の会議が行われ、彼らにぶつける竜騎士達の選抜に紛糾していたのだ。
正規団員のみならず候補生と訓練生からも名を上げようと続々と志願している始末で、部隊長と教官らは志願者の多さに驚きつつ、実力の検証に追われている。
デオノーラのみならず、凱擁護派のアルトイーリスら三人はそんな様子に辟易しているのだが、迂闊に口を出せば話が余計に拗れる事も分かっていた。故に彼女らは反対派の意見を出すとこまで出させる事で騒動を終わらせようと考えていた。
出ては騒ぎ、騒げば出るの繰り返しを延々と眺めながら……。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

皇都の動きを知る由も無い二人は夜明けと共に起床。
午前中は凱個人の槍術訓練を行い、それに区切りを付けた後は瑞姫に乗っての飛行・槍術訓練を行った。
飛行しながらの白兵戦は馬に乗る以上に難しい。振り落とされないようにするのもそうだが、常に動きまわる為に視点が上手く定まらないのが最大の理由だ。
正面突撃はインパクトで勝っていても、鱗の硬さや体力には限界がある。馬鹿みたいに繰り返せば巨体故に即座に読まれ、弓矢や大砲による一斉射撃あるいは砲撃で沈んでしまう。
竜乗り同士の戦いに至ってはドッグファイトだ。
どれだけ素早く自分達の攻撃圏内に相手を捕らえるかに全てがかかる。

強靭な体力と優れた知性を持つ地上の王者ドラゴン――
体力と知性で劣りはするが、ドラゴンを凌駕する機動力で翻弄するワイバーン――
高くない知性を補う超パワーで障害を踏み潰し、敵をねじ伏せるワーム――
常に天を舞い、天候を操り、高度な術式を繰り出す龍――
催淫効果のあるブレスで相手を無力化させるジャバウォック――
不死の肉体と腐敗のブレスで敵を圧倒するドラゴンゾンビ――

その秀でた特徴を活かすも殺すも、全ては互いの技量と信頼次第。

襲いかかってくる以上、二人に逃げる事は許されないが、龍、ジャバウォック、ドラゴンゾンビが来ない事を祈るしかなかった。幸いにも龍は竜騎士団では少数だし、ジャバウォックは不思議の国に生息するドラゴンだ。ドラゴンゾンビは戦闘や公務よりも伴侶との交わりを優先する傾向が強いらしい。
凱は瑞姫の予感を信じて武術の鍛錬に励み、瑞姫も凱の信頼に応えるべく全力を以て鍛錬に励んだ。
自分達が実力を示す以外に竜騎士団を納得させる方法は無いのだから。

竜騎士団本部でようやく候補を出し終わったのは三日目の宵の内（日が暮れて、間もない時。現実の気象庁の基準では、18時から21時までを言う）。
凱と瑞姫が槍と騎乗の訓練に費やした一日を終えようとしている時だった。

二人は翌日に備えて食事を摂って深い眠りに落ち、運命の日を迎える――

■作者メッセージ
「竜の涙」についてはかなり後ですが、もう一度出す予定です。