連載小説
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前編
 
 鬱蒼と茂った緑の中を歩くだけでも俺の頬からは汗が流れ落ちる。さっき軽く気温を測ってみたが軽く40度は越えているだろう。暑い地域が真夏であってもそうそう越えない気温。そこからさらに暑くなっている様な気がするから、さらに気温が上がっているのかもしれない。
 
 ―…やべぇ…帰りたい…。
 
 道を殆ど踏破しているとは言え、その暑さに心が折れそうになるのは仕方が無いだろう。ただでさえ俺は胸だけを覆うようなブレストプレートと片手剣を腰に下げているのだ。軽く10キロ以上はあるその装備を身につけながら『山登り』をするなんてその時点でかなりの労力を使う。
 
 ―ついでに言うなら…ここは火山だしな。
 
 しかも、噴火寸前の。燃え滾るようなマグマをまるで男のアレのように吐き出そうとしているのだ。勿論、その山肌では気温が跳ね上がるし、火の元素が踊り狂っている。水も殆ど枯れ、木々は殆ど萎れていた。このまま続けば、完全に乾燥するのが先か、或いはマグマに飲み込まれてその命を失うことになるだろう。
 
 「あー…マジ断ればよかった…」
 
 そんな風に呟く俺の脳裏に浮かぶのはある依頼の事。それは火山の麓近くにある町の長からの依頼で、火口の様子を見てきて欲しいと言うものだった。少し妙な依頼だが、火山と言う危険を加味しても破格と言っても良いくらいの金額で、金欠であった俺は思わず受けてしまったのである。まぁ、話を聞いても特に命の危険があるとは思えなかったし、此処ではないとは言え暑い土地で生まれ育った俺ならば、まぁ大丈夫であろうと言う楽観もあった。
 
 ―だけど…これが調子ぶっこきすぎた結果だよ…。
 
 確かに町長の言う通り命の危険は無い。この暑さに殆どの魔物娘が逃げ出し、登っている間にその気配も感じなかった。恐らく野生動物も同様だろう。変に道に迷わなければ、ローリスクハイリターンの素敵な依頼だ。…その暑ささえ加味しなければ。
 
 ―暑いぃ……。
 
 もう何十度目になるかさえ分からない言葉を思い浮かべながら、俺はそっと頬を拭った。そこはもう脂汗と表現するのすら生易しいくらいの汗が浮かんでいる。ついさっき拭ったばっかりなのに、もうこれだけの汗が出るのか…そろそろ水を飲んでおいた方が良いかもしれない。
 
 ―ふぅ…でも…火口までもうすぐ…だな。
 
 町長から受け取った地図が正しければ、後30分も歩けば着く頃だろう。なのに、まだまだ緑が鬱蒼と生い茂っているのが気になるが…方角も間違えていないし、正しい筈だ。ううん。そのはず。確証は無いけど、きっとそう。
 
 ―んじゃ…火口に乗り込む前に水の補給でもしておくか。
 
 これからより一層、暑さは厳しくなっていくだろう。危ないと思ったときにはもう限界になっている可能性も高い。暑い地域では水と言うのは命を護るものと同義でもあるのだ。早い内の給水を心がけないと、熱と言う者は何より冷酷に命を奪っていく。
 
 ―ん?
 
 そんな風に考えていると、こっちへと近づいてくる何かの気配を感じる。野生動物か?とも考えたが、迷わず一直線に進んでくるその様子は基本的に人から逃げようとする野生動物とは思えない。よっぽど鈍感か、或いは人を主食にしているのであれば別だが、こうまで無防備に進む野生動物と言うのは少ないだろう。なら…考えられるのは人間…或いは魔物娘くらいなものだ。
 
 ―でも…有り得るか?
 
 何せここは噴火寸前の火山なのだ。下の町ではもう大半が別の土地に避難している。その中には元々、この山に住んでいた魔物娘もかなり混じっているという話を聞いた。と言う事は彼女達もこの火山が噴火すると言う事を知っていると言う事だろう。そして知っているのであれば、好き好んで残ろうとする奴が居るなんて思えない。居たとしても自殺志願者くらいのものだろう。しかし、はっきりとしたその気配は決して生に絶望したような相手とは思えない。
 
 ―さて…何が出るかな。
 
 心の中でそう呟きながら、俺は剣の柄に手をかけた。所謂、量産品の一山幾らの長剣。けれど、俺のような中堅程度の冒険者にはそれで十分すぎ…長年、俺の命を護り続けた相棒でもある。その使い慣れた感覚を感じながら、俺はがさがさと揺れる茂みの奥を油断無く見つめた。
 
 「よ!」
 
 ―茂みの奥からそんな風に現れたのは女だった。
 
 薄黒い赤に染まった髪はまるで水のように艶があり、美しい。暑くて鬱陶しいからだろうか。その髪を束ねて、ポニーテールのように纏めている。それを束ねるリボンも艶のある黒をしていて、薄黒いその髪に良く似合う。
 その下にある顔は間違いなく美人と言っても良いくらいだ。勝気そうなイメージにそって上手に配置された顔のパーツ。釣りあがったその目も生意気さよりも活力を伝えている。それは爛々と光り輝く炎のような瞳の所為だろうか。まぁ、何はともあれ八割は間違いなく美人と言うだろう顔立ちをしている。
 そしてその身体も美しいというに相応しい。均整の取れた肢体をまるで見せ付けるようにしている彼女の衣装のお陰でそれが何より良く分かる。すこしむっちりした太股ときゅっとしまったウェストへのラインなど手を這わせてみたいくらいだ。勿論、胸も大きくブラのような形をした赤黒い何かに覆われている。勿論、下半身も紐パンのような黒い下着に覆われているという眼のやり場に困るような姿だ。しかし、それがまた薄褐色の肌に良く似合っていて、男である俺の目を引く。
 
 ―そう。間違いなく相手は美女だった。…その身体にリザード属独特の鱗や耳、そして燃え上がるような尻尾さえなければ。
 
 正確に言うなら美魔物娘と言うべきか。…いや、まぁ、魔物娘に美しくない人なんて居ない訳だから、その表現もおかしいのかもしれない。ともあれ相手は人間ではなく、魔物娘…しかも、リザード属のサラマンダーだ。
 
 ―こりゃまた厄介な奴に出会ったモンだ…。
 
 「や、やぁ…」
 
 引きつりそうになる頬を必死に堪えながら、俺はあくまでフレンドリーに手を上げた。勿論、剣の柄からは手を離している。リザード属の魔物娘は他の連中と少し異なり、武の道一直線なのだ。下手に刺激すれば決闘を申し込まれる可能性も高い。こんなクソ暑い火山で必要以上に体を動かすなんて真っ平、御免だ。そんなイベント、回避出来るなら回避したい。
 
 「何やってるんだ。ここはもうすぐ噴火するんだぞ」
 
 ―…少なくとも戦いに来たわけじゃないらしい。
 
 それに内心、安堵のため息を漏らしながら、じっと彼女の顔を見た。そこには俺への敵意はまるでない。純粋に心配してくれているらしい。…見ず知らずの相手にそこまで心を許す姿はまるで世間知らずの子供のようだ。
 
 「知ってる。ただ…依頼を受けてな」
 「依頼…?」
 「あぁ。火口の様子を見てきて欲しいと、麓の町長さんに」
 
 ―…あれ?
 
 俺の説明を聞く彼女の顔は爛々と輝き始めていた。どうやら俺は何か地雷を踏んだらしい。そう思ってまだ数度しか交わしていない会話を思い返すが特に問題があるようには思えなかった。けれど、彼女に顔に灯るその輝きは間違いなく…『玩具』を見つけた子供のソレである。その『玩具』にされるであろう側としては…此処から先のイベントは全力で回避したい。
 
 「そっかー…んじゃ、アンタ、冒険者なんだな」
 「ま、まぁ、そんな大したもんじゃないけどな。いや、もうホントに。俺とかホント、ゴミ屑ですから。毎日がエブリホリデーな感じですから!!」
 
 恐らく、依頼と言う単語で俺が冒険者であると察したのだろう。襲われた時の為に装備もしっかり身に着けてきているから、言い逃れも出来ない。そして…その冒険者と言う単語だけで、彼女は今、俺に狙いを定めている。リザード属が持つ『決闘』への欲求を満たす相手の。
 
 ―冗談じゃねぇぞ…!!
 
 以前、あるリザードマンと戦ったことがあるが、文字通り手も足も出なかった。俺の振るう剣の一発も掠る事なく、文字通り叩きのめされたのだ。ソイツ以外と戦ったことは無いので、相手がリザードマンの中でも強かったのか、或いは弱かったのかさえ分からない。しかし、図鑑に紹介されているように武の道を究めようとする彼女らが並みの冒険者程度じゃ相手にならないレベルにあるのは良く分かった。
 
 ―そんな相手と戦っても無駄になるだけだろうが…!!
 
 勿論、サラマンダーとリザードマンは同じリザード属と言う括りにあるだけで別種だ。もしかしたら、彼女はあの戦ったリザードマンよりは遥かに弱いのかもしれない。だが…例え勝ったとしても俺にメリットは殆ど無いのだ。負ければそれだけ損であるし、勝ったとしても旨味は殆ど無い。そんな相手と戦って体力を無駄にしていられるかと、俺は必死に自分を貶め続けた。
 
 「謙遜するなよー。その剣…随分、使い込まれているじゃないか。かなりの使い手だってすぐ分かるぜ」
 「あ、あはははは、いや…これ実は借り物で…」
 
 しかし、俺の謙遜もまるで意味は無かったらしい。それどころかその尻尾の炎をより激しく燃え上がらせて、こっちにニコニコと笑いかけてくる。それはとても朗らかで邪気なんかまるで見えない可愛らしい笑みだ。…しかし、その背に燃え上がる炎が、俺の危機感を掻きたて続けている。
 
 ―やばい…これ積んだかも…。
 
 リザードマンと違い、サラマンダーはその尻尾の燃え具合で興奮の度合いを測れるという。そして、直情型の多い彼女らはその興奮をまるで抑えないと聞く。…つまり、出会った頃よりも炎の勢いを激しくしている目の前のサラマンダーは興奮しているのだろう。無論、性的な意味ではなく、決闘的な意味で。
 
 「それは…ヤれば分かるよなっ♪」
 
 ニコニコと嬉しそうな笑みで、まるで初めて犬とじゃれる子供のような笑みで、彼女は腰の剣を抜いた。彼女の赤黒い鱗のような柄から伸びる黒金の刃は、しっかりと手入れされている。俺は刃物には詳しくないが…少なくとも大量生産の俺の相棒よりはよっぽど切れる事だろう。
 
 「じゃあ…行くぜぇ!」
 「っ!!」
 
 ドンと茂みの後ろが爆ぜる音と共に一気に彼女が突っ込んでくる。人間には決して出せない速度、そしてパワー。初速だけで目で追うのがやっとのそれに俺の経験は確かに反応してくれた。両手で鞘ごとぶつけるようにして彼女の剣を迎撃する。ガキンと金属同士がぶつかる甲高い音が響き、相棒の鞘が真っ二つになった。
 
 ―おいおい…!マジかよ…!!
 
 彼女の一撃には構えも何も無い。ただ片手で持った剣を叩きつけるだけのソレであった。あの時戦ったリザードマンのようなしっかりと裏打ちされた技術がある訳でもない。ただの力任せの一撃だ。…だけど、それに『両手』で対抗したはずの俺の腕が痺れを覚える。身体能力が違うとは分かっていたが、ここまでとは。正直な話…両手で攻撃されると耐え切れるかどうか分からない。
 
 ―くっそ…!相変わらず規格外な…!!
 
 普通の人間では決して追いつけない力を見せ付けられる俺が一気に怒りの念を覚える。これでも俺は男の子だ。やっぱり剣の道を進んでいる以上、ある程度の努力もしている。しかし、それを身体能力だけであっさりと超えられる姿を見て、怒りを覚えないはずもなかった。
 
 ―せめて…吠え面くらいは…!!
 
 その感情のままに俺はそっと剣を引いた。その所為で前屈みになった彼女が前へと重心を移動させる。一気に踏み込もうとした彼女の足に合わせて、俺の脚は地面を撫でる様に動く。彼女の足を払おうとしたそれは思いの外強固な重心に阻まれてしまった。弾かれる様な事は無かったが、狙ったように倒れこむことは無く、彼女は大きく開いた身体で不完全な一撃を振り下ろした。
 
 ―ズオンッッ!!
 
 …何度も言うがそれは不完全な一撃だ。腰も何も入っていないただ肩で振り下ろすようなそれ。しかも、足を無理矢理大きく開かされて力もちゃんと篭っていない筈だ。…しかし、それは今まで聴いたことの無いような重い音を俺の耳元にかき鳴らした。それは重心がずれたお陰で当たらなかったものの、クリーンヒットしていれば内臓が破裂していてもおかしくはない。
 
 「ッ…!!」
 
 今まで感じたどの恐怖よりも鮮烈なそれに俺の背筋が泡たった。このまま密着していてはいけないと全身が警告を出して、二歩三歩を離れる。それに彼女は追撃してはこなかった。振り下ろした剣の先に出来た軽いクレーターを見ながら、肩を震わせている。
 
 「…はは…!」
 「…?」
 「あははは!楽しいねぇ!これが戦いって奴なのかー!!」
 「っ…!!」
 
 いきなり笑い出した彼女に突っ込む余裕すらない。何故なら逆に彼女の方がこっちに突っ込んできたからだ。そのまま片手で右へ左へと何の技術も無く剣をなぎ払う。勿論、スピードがあるとは言え、ただ振るわれるだけのそれに早々簡単には当たらない。時に彼女の身体を制し、時に剣で受け、時に足を使って逃げる。…だが、逆に言えば俺はそれしか出来なかった。何の技術も無い相手に、中堅冒険者である俺が何の反撃の糸口も掴めない。
 
 ―くっそがぁ…!!
 
 情けない自分に思わず罵りつつも、打開策は見当たらない。いや、それどころか、ドンドンと彼女の動きが早くなっていた。元々、力任せにしては素早い動きではあったが、それがどんどん正確になっている。まるで不器用な動きを戦いの中で矯正しているようなそれに俺はドンドン追い詰められていっていた。
 
 ―しかも…コイツ…!!
 
 身体のバネが半端じゃない。右へと振り切った後に、左へ振り替えすのにタイムラグが無い。まるでそこに壁でもあって弾かれているように一気に左へと戻ってくる。ソレは勿論、左側でも同様だ。それは伸びきった身体を引き戻すバネに天性のモノを持っているからだろう。そして、そのバネによって一振り一振りの間に速度を上げているのだ。多分、これは殆どウォーミングアップであり…まだまだその剣速を増して俺に襲い掛かってくるだろう。しかし、情けない話であるが、今の時点でさえ隙が完全に見当たらない。
 
 「あは…っ!!あはははははっ!!」
 
 そんな俺の目の前で本当に楽しそうに彼女が笑う。よっぽど嬉しいのだろう。その尻尾の炎はぼうぼうと燃え上がっている。ちょっとした焚き火くらいの大きさになっているそれは、それだけ彼女が興奮しているという証だ。しかし、ベッドの上でなら兎も角、戦いでそんなに興奮されても、喜べない。
 
 「さぁさぁ…!もっと本気を出しておくれよ!!」
 「本気だ…っつの!!」
 
 誘うような言葉と共に振るわれた剣を相棒の根元で受け止める。しかし、それだけでバキンと嫌な音がして、相棒の刃筋が砕けた。恐らく次に同じ場所に受けてしまったら折れてしまうだろう。そんな事を考えるが、この速度で剣を振るう相手に受ける場所を選べるほど俺は器用な人間じゃない。次に同じ場所に当たったら間違いなくジ・エンド。相棒も根元から折れて使い物にならなくなるだろう。
 
 ―冗談じゃねぇ…!!
 
 どうして俺に何の利益も無い戦いで相棒を折られなければいけないのか。余りに理不尽な未来予想図に俺の身体が燃え上がる。それに応えてくれたのだろう。俺の視界がさっと開けて、目の前で踊る彼女の動きが遅くなった。
 
 ―クロックアップ。
 
 極限の集中とも言われるそれはそこそこ戦いに慣れた人間にとって一度は経験のあるものだろう。例えば死の間際、襲い掛かる剣をやけに遅く感じたり、凶刃を受けた仲間が倒れるのを防ごうとしても世界が遅く感じたりするのがコレだ。一流といわれる冒険者はこれを自分の意思で使いこなしているのだろう。だが、所詮、凡人で中堅が精一杯の俺は一度だって自分の意思で引き起こせたことは無かった。
 
 ―だけど…今は…!!
 
 理不尽なこの状況を打開する為に主神様が加護でもくれたのか、彼女の動きがはっきりと分かる。もし生きて帰れたら教会に寄付くらいはしてやろう。そんな事を考えながら、俺は隙を見つけようと彼女を見据えた。
 
 ―…綺麗だな。
 
 ふと浮かんだその感情は決して間違いではないだろう。右へ左へと剣を振るう彼女のソレは偶然か或いは必然か。まるで踊るような動きだった。トントンと地面を跳ねる足先がステップのように、右へ左へと振るわれる動きが誘うように。勿論、それは錯覚なのだろう。腰も入っていない不器用で、愚鈍な攻撃ばかりなのだから。けれど、俺はそれに一瞬、心を奪われてしまった。
 
 「ほらほらっ!どうしたぁ!足が止まってるよ!!」
 「くっ…!!」
 
 そんな俺に向かって声を掛ける余裕さえ見せながら、致死の一撃が振るわれる。何度も何度も右へ左へ縦横無尽に。それはもう普段の俺では捌き切れない速度になっていた。いや、それどころかクロックアップと言う運の要素を加えても、同じ場所で攻撃を受けないのが精一杯になっている。勿論、そんな状況では反撃する余裕さえなく、俺の相棒はただ打ち据えられた部分を砕かれるだけだ。
 
 ―う…そだろ…!?
 
 自分の実力以上の力を発揮してもまだ届かない。その現実に俺は力なく呟いた。けれど、目の前のソレは間違いなく本物である。右へ左へと振るわれるそれはまるで雪だるまを転がしているように、加速度的に大きくなり、通常よりも全身を酷使している俺でさえ目で追うのがやっとになってきていた。
 
 ―暴風。
 
 それを例えるならそれが一番、適切だろう。方向性も何も無く、技術も伴わないただの暴れるだけの風。だが、それが時として大岩を転がし、何百キロもの馬車をも押し流す。その前に下手な小細工は通用しない。それに打ち勝つか、流されるかの二択だけ。そして…俺は打ち勝つ地力なんて持っているはずも無く…そして――。
 
 ―俺の相棒はついに砕かれ、それでも押さえ切れなかった一撃にブレストプレートさえも砕かれて意識を失ったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…あ?」
 
 目を開けるとそこは見慣れない天井だった。しっかりとした木で組まれたそれはまるできっと腕の良い大工が作ったのだろう。素人目ではあるが、ちょっとやそっとでは壊れなさそうな頑丈さを感じさせる。そのまま視界を横へとずらすと同じように木で組まれた壁が目に入った。そこに嵌めこまれた窓からは何処か元気の無い茂った緑が見える。
 
 「…ここ…は…」
 「おや…気がついたかい?」
 
 まだ状況が上手く飲み込めない俺に向かって、はきはきとした声が届いた。その方向へ視線を向けると、ついさっきまで戦っていたサラマンダーが白いエプロンを身に着けている。その手に大きな鍋を持っているし、背中の方にはキッチンらしきものが見えるから料理でもしていたのかもしれない。
 
 ―しかし…意外と似合うな。
 
 快活そうなイメージが強いが、フリフリエプロンを着込んでもまるで違和感無く馴染んでいる。いや、それどころか妙なギャップさえ生じさせていた。勝気で快活。だからこそ出る妙な魅力が、今の彼女にはあった。
 
 「…そんなに見つめないでおくれよ」
 「あ、悪い」
 
 流石にじろじろと見すぎたらしい。サラマンダーの彼女はそっと顔を赤らめて、目を背けた。出会った時からは想像もできないような初々しいその姿に思わず謝りつつ、俺も気恥ずかしくなって窓の外へと視線を向けてしまう。
 
 ―…何やってんだか。
 
 まるで初々しい恋人同士のやり取りに俺は内心、溜め息を吐く。別に俺はそんなキャラじゃない筈だ。冒険者と言う堅気ではない仕事をしているだけあって童貞と言うわけでもないのだから。娼婦相手であればもっと気恥ずかしくなるようなプレイだってしている。それなのに…どうしてそんな風に目を背けてしまったのか自分でも分からなかった。
 
 「それで…傷の方は大丈夫なのかい?」
 
 目を背けたまま投げかけられたぎこちない言葉にそっと身体を見下ろした。彼女の剣が直撃した胸は幾重にも包帯が巻かれている。それが何処か痛々しいが、特に痛みは無かった。もう俺も若いと言う訳ではないので、明日に痛みがぶり返してくるかもしれないが、とりあえず折れた肋骨が内臓を傷つけていたなんてオチはないだろう。意識を失ったときは肋骨が折れたと思ったが、どうやら俺の相棒とブレストプレートはしっかりとその役目を果たしてくれたらしい。
 
 ―後で供養でもしてやらないとな。
 
 俺の命を救ったかもしれない武具に感謝の気持ちを捧げつつ、他の部位にも気を配るが特に痛みを訴える箇所は無い。とりあえずは大丈夫と判断して良いだろう。そんな風に結論付けて、俺は返事の為に口を開いた。
 
 「あぁ。特に問題は無いみたいだ」
 「そうか。そりゃ良かった…」
 
 俺の言葉にほっと胸を撫で下ろすその様子にやっぱり邪気は見えない。それどころか本気で俺を心配していた様子さえ見て取れた。自分から喧嘩を売ってきてどう言う事だ…とも一瞬思ったが、こうして手当てをしてもらった以上、文句は言えない。相棒と防具を失ったのは痛いが、実力が無い事が悪になるのが冒険者と言う家業では俺の方が悪いのだから。寧ろ、放置されなかっただけ御の字と結論付けるべきだろう。
 
 「悪いね。その…アタシは誰かとあぁやって戦うのなんて初めてで…加減が効かなくてさ」
 「あぁ…なるほど」
 
 そして安心したその表情をばつの悪そうな顔に変えて、彼女がポツリと漏らした。そう言えば確かにそんな事を最中に言っていた様な気がする。当初は目の前にはっきりと命の危機が迫ってきていたのであまり深く考えなかったが、そう言う事もあるのかもしれない。
 
 ―…あれ?
 
 しかし、サラマンダーと言えばリザードマンと同じく武の道へ進む魔物娘ではなかっただろうか。その習性まで詳しくは知らないが、確か自らの剣を子供に教えていくのはリザードマンと同じであったと思う。しかし、彼女のそれは剣術と言うには余りにもお粗末過ぎるもので…そして、こうして戦ったことが無いって言う事は――。
 
 「自分から叩きのめしてこんな事言うのもおかしいけどさ。動けるのならさっさと出て行ったほうが良いよ。ここはもう危ない場所だからね」
 
 何処か悲しい響きを伴った彼女の言葉に思考が中断させられてしまう。驚いてそちらを見ると悲しそうに顔を歪めて、彼女がテーブルに鍋を置いているところだった。そして、彼女が鍋の蓋を開けると部屋中に甘い香りが広がる。恐らくこれはクリームシチューなのだろう。コトコトと煮込まれた野菜とミルクの香りはそうとしか思えない。
 
 「お詫びに御飯くらいは奢ってあげるけど…それが終わったら麓まで降りるんだよ。その方がアンタの為だからね」
 「ま、待てよ…」
 
 言い聞かせるような彼女の言葉には納得が出来なかった。別に依頼がどう言うという訳ではない。いや、それも金欠の俺にとっては大事なことだろう。でも、それとは比べ物にならないくらい大きな問題が俺の前に広がっているのだ。それを無視する事は俺には出来ない。
 
 「…アンタはどうするんだ?」
 「アタシかい?そうだねぇ…」
 
 俺の言葉に彼女はそっと微笑んだ。それは微笑んでいるはずなのに…俺が見てきたどんな表情の中でも暗い。絶望している訳ではない。けれど、大事な何かを諦めてしまったその顔に俺の胸がぎゅっと掴まれるように感じる。一気に息苦しくなったその感覚は…きっと彼女の感情に中てられてしまっているからなのだろう。
 
 「…ここはトト様とカカ様が眠ってるからね」
 
 そしてぽつりと漏らされた諦めきった言葉。それを聞いた瞬間、俺は自分の受けた依頼の本当の目的を知ったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―結局、俺がそこに足を下ろしたのは夜も間近な頃になってからだった。
 
 既に日も暮れかけているというのに、そこはまだ明るい。それはすぐ近くの火山から激しい炎が吹き上がっているからだろう。夜を焼くようなその炎のお陰で夜であるというのにまるで暗さを感じない。そんな中だからだろうか。俺が依頼を受けたその町は今も様々な物資を避難場所へ運ぼうと一丸となって働いている。
 
 「…はぁ…」
 
 元々は山に住んでいたのだろう魔物娘達と共にあくせくと働き続ける住人達。最初はその光景に人の活力と言うのは凄まじいと感心したものだ。火山の噴火でこの町も灰と土石流の下敷きになると分かっても絶望せず、次の場所へと移る準備を進めているのだから。幾らまだもう少し時間の余裕があるとは言え、町単位で他人を助け合い、一丸となって助かろうとする姿は魔物娘を排斥しようとする連中に見せてやりたいくらいだ。
 
 ―…だけど、その中にアイツはいない。
 
 唯一、あの山に残っている魔物娘――サラマンダーのベルは俺の傍には居なかった。それだけで本来、喜ばしい光景が妙に悲しい。その素晴らしい光景の中に、たった一人が居ないというだけで、俺の心は押しつぶされそうになるのだ。
 そんな鬱屈とした気持ちのまま、俺は待ちの中央にある町長の家へと入った。緊急時の為だろうか。常に開けっ放しにされているその扉に遠慮など必要は無い。小さくノックしながら玄関を潜り、すぐ右手にある開けっ放しの書斎へと入った。
 
 「…よぉ」
 「おぉ、どうじゃった?」
 
 陰鬱な気持ちを込めた挨拶にも怯まず、立派な机に座った男がこちらを見据えた。年の頃は60くらいだろうか。顎鬚を蓄えた姿はそれだけの年季を感じさせる。白髪交じりの髪はまだまだ薄くなってはいないが、所々に刻まれた皺と言い確かな年月を男が過ごしてきたことを伝える。目元は優しく全体として優しそうな雰囲気ではあるが、田舎とは言え町長の座に収まっている以上、それなりの権謀を生き抜いてきた猛者なのだろう。
 
 「火の元素は大分、濃くなってるな。ただ、今すぐ噴火するほどじゃない」
 「ほぅほぅ」
 
 そのまま頷く町長に言われた通りにチェックしてきたポイントを伝える。火口周辺の隆起の数。マグマの色。噴煙の様子などなど。それに幾つか突っ込まれた質問にも答えて、『依頼』の報告を終えた後…俺は我慢できなくなって口を開いた。
 
 「爺さん。…悪い」
 「…どうした?何かあったのか?」
 「…アンタの本当の依頼、達成できなかった」
 
 ―…元々、おかしな話だったのだ。
 
 確かに噴火間際の火口の周辺は危険とは言えわざわざ冒険者を雇う必要はない。自分達が足を運んだ方が早いし、何より安くつく。町長の爺さんが駄目ならば、町の若い衆にでも行かせれば良いのだ。それが出来なかったと言う事は…つまり、冒険者で無ければいけない理由って奴があったって事だろう。
 
 ―それは多分…あのサラマンダーのベルの事で…。
 
 アイツは誰かと戦うのが初めてだといっていた。と言う事は…この町の人々を襲っていたわけではないのだろう。元々、自発的に男を襲うタイプの魔物娘ではないし、当然だ。…けれど…それじゃあアイツをあの山から下ろしてやれない。噴火目前のあの火山の山で…自分の親の墓を護って死ぬのだと微笑んだアイツを連れ去る事が出来ない。…だからこそ、この爺さんは冒険者を求めたのだろう。自分から命を捨てようなんていう馬鹿なサラマンダーを打ち倒し、妻としてここへ連れて来てくれるように…一縷の望みを託して。だからこそ、俺が受け取った地図には彼女の家の前を通るルートしか書いていなかったのだろう。
 
 「…俺じゃあ…力が足りなかった…!」
 
 それは実力的な事もそうだし…言葉的にも。死んだ人間に義理立てして墓ごと死のうなんていう馬鹿な考えを思いとどまらせることが出来なかったのだ。どれだけ綺麗事を並べても、どれだけ心情に訴えてもアイツは首を縦に振らず…結局、俺は一人で山を降りてきてしまった。
 
 「…何の話かワシは分からんのう。…それよりこれが成功報酬じゃ。よくやってくれたのぅ」
 
 とぼけた顔で爺さんが俺の前にズシリと音を立てて、皮袋を置いた。其処には約束された報酬が入っているのだろう。それを受け取れば依頼は完遂。俺は晴れて自由の身になる。後は…後は全部忘れて、この町を去れば良い。結構な金が入ったのだ。都会にまで出て思いっきり女を侍らして遊べば今の陰鬱な気分も吹き飛ぶだろう。…普通の冒険者だったら、そう考えるのかもしれない。
 
 「…受け取れねぇよ」
 
 ―けれど、俺はそれを受け取ることが出来なかった。
 
 これは冒険者としてじゃない。男のプライドとしての問題だ。女一人置き去りにして一人逃げ帰った俺にその金を受け取る資格は無い。爺さんの本当の望みに気付いていながら、何の役にも立たなかった俺が…受け取れるような金じゃないのだ。
 
 「…これは依頼の正当な報酬じゃ。受け取ってくれねばワシが困る。…それでもこれを受け取るのに心が痛むというのであれば……あの子の事を忘れないでやってくれ」
 「…………」
 
 俯く爺さんの言葉に俺は何も言えなくなってしまう。…辛いのは俺より爺さんの方だ。ついさっき出会ったばっかりの俺とは違い、この爺さんは私財を投げ打ってでもベルを助けようとしていたのだから。この二人の間に何があったのか俺は知らない。けれど…アイツはサラマンダーで、ここは魔物娘を比較的受け入れている土地だ。時折、この町に降りてきたベルと爺さんに交流があってもおかしくはないだろう。
 
 「分かった…」

 
 そんな風に言葉を交わしながら、俺は皮袋を受け取った。それはさっきの音から予想した重さから余り外れておらず、俺の腕にズシリとした感覚が圧し掛かる。けれど…それは俺が一人の女を見殺しにした重みだ。そう考えるとどうしても喜べない。…喜べるはずがなかった。
 
 「…うむ。それじゃあ…もう夜も遅い。宿は手配しておいたからゆっくり休んでくれ」
 「…あぁ、爺さんも…ちゃんと休めよ」
 
 最後に優しい爺さんの言葉を受けて、俺はそっと背中を向けた。そのまま一歩二歩と踏み出した足がどんどん早くなって行き、まるで逃げ出すように町長邸から出る。しかし、それでも俺の脚は止まらず、作業を続けて活気付く町から逃げるように郊外へと伸びていった。
 
 ―俺は…俺は…っ!!
 
 「クソが…!!」
 
 湧き上がる怒りを持て余してマトモな思考を練る事が出来ない。ここまで心を乱されるなんて、冒険者としては二流所か三流だろう。本当はこんな考えなんてすぐに捨てて、早く手配してもらったという宿で休むべきだ。何せ今日一日中ずっと山登りをしていたのだから。身体中にはじわじわと乳酸が溜まっていて、強い疲労を訴えている。
 
 ―だからって…!!あんな顔した奴を見捨てて……!!
 
 けれど、そんな身体とは裏腹に俺の心は猛り狂っていた。その理由は勿論、分かっている。別にあのベルに惚れたとか…そんな色っぽい理由じゃない。ただ…アイツの最後の諦めきった顔が俺の中のトラウマに重なるからだ。何もかも諦めて、自分に言い訳をするような…死ぬ寸前の親の顔に。
 
 ―俺の生まれはここのように暑苦しい場所だった。
 
 ただ、ここのように自然が多かったわけじゃない。寧ろ少なかったと表現した方が良いだろう。何せ俺の生まれた村は砂漠のど真ん中にあったのだから。渇ききった砂漠のマトモに植物なんて殆ど育たず、村全員で協力してようやく生きているような有様だった。勿論…それは魔物娘も例外じゃない。協力せずとも生きていける都会はどうか知らないが、極地では人手を遊ばせておく余裕など無いのだ。手伝ってくれるというのであれば魔物娘でも遠慮なく使う。それが共存と言えるかどうかはまた別だろうが、ともあれ俺の村は昔から魔物娘が普通に出歩くような場所であった。
 
 ―…でも、そのお陰か…俺の子供時代はそこそこ幸せだった。
 
 勿論、腹いっぱい飯が食えるわけじゃない。だけど、毎日、子供として遊ぶ程度の余裕はあった。時には両親にさえ遊んでもらう余裕があったように記憶している。それは砂漠生まれの子供としてはかなり恵まれている方なのだろう。冒険者として旅に出てから似たような村を回ったが、そこの子供はちゃんとした労働力に数えられているか、人買いに売られるかの二択しかなかったのだから。
 
 ―だけど…それもある日、壊れた。
 
 近くに出来た魔界の調査に立ち寄った教会軍は、魔物娘と一緒に暮らしていた俺の村が気に食わなかったらしい。魔物娘を引き渡すように勧告をしてきた。…今から思えばそれはまだ理知的な対応だったのだろう。あの傲慢な教会の軍がいきなり村を焼き払わず、譲歩案を出してきたのだから。けれど…俺達の村はそれに憤慨した。当たり前だが…そこそこ魔物娘に対する愛着があったのだろう。村の中には魔物娘と結婚した若者も少なからずいたし、彼女達がいなくなれば生活だって立ち行かなくなるのだ。抵抗を選ぶのが自然の流れと言うものだろう。
 
 ―…だけど、何の装備も無い村と魔界の調査をしに立派な装備に身を包んだ教会軍では勝負になるわけが無い。
 
 戦いと言う形にさえならず、俺の村は蹂躙された。抵抗した大人たちは皆殺しにされ、食料もその大半を奪われてしまう。けれど…そこの指揮官はよっぽど理性的な奴だったらしい。焼き払うような真似はせず、抵抗しなかった住民は残した。そして…抵抗しなかった住民に当たる俺たち一家は何とか命を永らえることが出来たのである。
 
 ―だけど、それで生活が立ち行くわけが無い。
 
 何せ俺達の生活は完全に分業制だ。水は近くに井戸があるが、その管理の仕方なんて全く分からない。レンガ造りの職人だった親父は干し肉の作り方一つ知らず、俺達の生活はあっという間に追い詰められていく。そんな村に見切りをつけて一人、また一人と村から姿を消し、砂漠の向こうへと消えていった。そんな中、俺達も村を離れる必要性に追われて、家族と共に砂漠へ出なければいけなくなる。
 
 ―けれど…それは無謀の極みだ。
 
 方向感覚を狂わせ、殺人的な気温差を誇る砂漠。そこを旅のイロハも知らないような村人が歩くのは、旅とは言わず自殺行為というのだろう。俺達はあっさり迷って、食糧も水も殆ど尽きかけていた。元々、大した量を持ち出す事も出来なかったのだから当然だろう。そして…いよいよとなった時に両親が選んだのは自分達ではなく子供である俺を生かす選択であった。
 
 ―その時は…色々、言い訳されたのを良く覚えている。
 
 子供のお前であれば食べ物も水も少なくて済む。だから、これはお前が持っていきなさい。そしてもし、誰かに出会ったら、助けを呼んできてくれ。…大まかに言えばそんな所だろう。けれど…彼らが生きるのを諦めきったのは子供の俺から見ても分かるくらいで…でも、子供の俺は彼らを納得させる言葉も持たず…そのまま言われたとおりに砂漠を一人で彷徨い始めた。
 
 ―それから三日後に交易する商人の一団と出会って…。
 
 彼らはとても気の良い連中だった。ただの子供である俺の話を真摯に聞いてくれて、旅に加えてくれたのだから。身包み剥がされて殺されても文句は言えない立場だっただけに本当に運が良かったのだろう。彼らに出会わなければ俺は今、生きてはいられないのは確実だ。…だけど…俺はその代わり両親を見殺しにしたのである。
 
 ―…だから…二度とそんな真似はしないと…誓ったつもりだったんだがな。
 
 彼らと旅をする間に護衛する冒険者達に気に入られた俺は、もう誰も見捨てなくて済むように…そして出来れば教会に復讐したい、と、生きる術と剣を学び始めた。けれど、俺には才能なんて無かったらしい。どれだけ努力しても中堅や二流止まりが限界だった。そんな自分が嫌で一時期は精霊使いになろうとも考えたが、身近にいた炎の精霊は結局、一度たりとも応えてはくれなかったのである。まぁ…そっちにも才能が無かった所為だろう。火山で元素の濃さを感じられたのも、一度は精霊使いを志して得た知識と技術のお陰だ。
 
 「…はぁ…」
 
 そして冒険者になっても夢のような活躍が出来る訳ではない。装備も大量生産の一般に流通しているようなものが精一杯で、教会への復讐よりも日々を生きる事を第一に考えなければいけないくらいだ。無論、冒険者と言う阿漕な商売は、忙しい時期はそれこそ金が唸るほど手に入るが、常に何かしらの依頼に参加出来る訳ではない。常に何かの依頼に入っているような連中なんてそれぞれのギルドの中でもトップクラスの実力者くらいだろう。
 
 ―だから…諦めたつもりだったんだけどな…。
 
 両親を見捨てて護った自分の命を無駄にする訳にはいかない。だから、冒険者と言う家業の中で誰かを見捨てたことは山ほどある。そんな俺はもうただ日々を生きるだけのゴロツキになってしまったのだろう。もう歳も若くない。数年すれば身体も動かなくなり、ロートル扱いされて萎びながら死んでいく。そう思っていた。――あのベルに会うまでは。
 
 「……帰ろう」
 
 気がつけば俺は町の外に出てしまっていた。周りを見ると萎れかけている植物ばかりで、それだけで陰鬱になりそうである。宿の中で横になったほうがマシだろう。少し冷静になった思考がそれを受け入れ、俺の脚は引き返すように後ろへ回った。
 
 「…はぁ…」
 
 けれど、その足取りは重く、中々前には進まない。勿論、疲労で身体が重いのもあるのだろう。しかし、何より重いのは俺の心だ。想起された思い出がずしりと圧し掛かって、自責と共に俺を押し潰そうとしているのだから。まして…俺の手にはあのベルを見捨てて手に入れた金があるのだ。ちょっとした一財産になるそれは命の金も同然である。今すぐにでも投げ捨てたいが、無駄遣いをする事なんて許されない。
 
 「…ふぅ」
 「いらっしゃいですー」
 
 陰鬱な気分のままこの町唯一の宿屋の扉を開くと明るい声が届いた。それにふと顔を上げると、フェアリーがカウンターで飛び回っている。疑問に思って顔を左右に向けるが、他に従業員らしき人間はいない。
 
 「…何名様ですー?」
 「あ、あぁ。町長の所で依頼を受けた冒険者だ。手配をされているという話を聞いたんだが…」
 
 戸惑いながらもそう返すのは、その小さな体に必死になって羽ペンを持ちながら台帳に記入しようとしているからだ。…どう見てもサイズがあっていない。羽ペンは確かにフェアリーでも持てる位に軽いが、それは人間のサイズに合わせたモノである。彼女の身長では羽ペンの方が大きいくらいなのだから、上手に動かせるはずもなかった。
 
 「あ、聞いてるですー。お部屋は二階の奥になってるですー」
 「有り難う」
 
 そう言って、フェアリーがカウンターの後ろから一束の鍵を持ち出してきた。パタパタと必死に羽を動かして、手渡そうとしている姿は妙に可愛らしい。…しかし、彼女一人に任せて、従業員は何をやっているのだろうか?そんな事がふと気になった。
 
 「お夕食は別になっているんで、営業時間内に降りてきて注文するですー。また朝食はサービスなので七時までに降りてくるですー。チェックアウトは10時でそれを過ぎると追加料金が発生するのでご注意するですー」
 「あ、あぁ。分かった」
 
 宿において定型文とも言うべき台詞であるが、フェアリーが言うとまた違う。慣れない敬語を必死に使っているからだろうか。妙に間延びして、「です」ばかりが語尾についている。積極が余りに不慣れな様子から察するに、きっとこの子もあの山から避難してきた子なのだろう。けれど、ただ避難するだけではなく自分なりに人の役に立とうとしている。悪戯好きなフェアリーでさえこの状況に協力しているという事に少しだけ胸が軽くなった。
 
 「では、ごゆっくりですー」
 
 その言葉と同時に鍵を受け取って、俺の脚は言われたとおり二階へと上がる。そのまま八つほど並ぶ部屋を抜けて一番奥へ。そして、鍵を回して扉を開け、荷物を床に置いてベッドへと一気に倒れこむ。
 
 ―…疲れた…。
 
 瞬間、身体の底からどっと疲労感が湧き出してくる。慣れない山歩き、しかも活火山だったからだろうか。身体中に溜まった乳酸がじわじわと染み出して止まらない。襲い掛かってくる眠気に身を委ねて、少し早いが寝てしまいたいくらいだ。
 
 ―…だけど、それはなぁ…。
 
 眠ればこの落ち込んだ気分はマシになるのかもしれない。けれど、何となくそんな気分にはなれなかった。そもそも武具の手入れをしなければいけない。壊れてしまった俺の相棒とブレストプレートもそうだが…ベルから受け取った装備はまだまだ調整が必要だろう。
 
 ―…あの後、詫びの印だとベルは奥から一揃えの武具を取り出してきた。
 
 俺が着込んでいたのと同じブレストプレートと長剣。そしてナックルガード。だけど、それは俺と同じとは口が裂けても言えないような高級品ばかりだった。よほど名のある男が身に着けていたのだろう。男用に調整されたそれらの武具は見るからに磨き上げられていて、素材からして別物に見える。もしかしたら並みの冒険者では手に入らないミスリルの武具なのかもしれないが、素材まで見抜く目を持っていない俺には分からない。
 
 ―…そして…もう使わないから詫びに受け取って欲しいと押し付けられ…。
 
 その方がこの子達も幸せだろうしね。そんな風に笑うベルに何も言えなかった。男用の装備…そしてもう使わないという言葉。詳しく突っ込んではいないが……多分、この武具は彼女の父親が遺した遺品なのだろう。
 
 ―…そう。ベルの親はあの火山で眠っている。
 
 何処の世も空気の読めない馬鹿と言うのはいるもので…ある日、この町に勇者が現れたらしい。壊滅的に空気の読めないソイツは魔物娘を敵としてみており、火山にサラマンダーが住んでいると聞いて討伐に向かったそうだ。本来、勇者とは主神の加護を受けるような善良な人間が多いはずだが…ベルとその親は見事に外れを引き当てたらしい。誰にも迷惑を掛けずに暮らしている家族にその凶刃を向けた。…けれど、仮にも勇者と呼ばれる相手に早々、勝てるはずも無い。彼女の両親は善戦したがそれでも殺されてしまった。
 
 ―…彼女の目の前で。
 
 家に隠れていろと告げられ物陰に隠れていた彼女は、両親の呻き声を聞いてついつい出てきてしまったらしい。…だが、丁度、それは両親が死んだ所だったそうだ。それに小さく呻き声を上げたが、勇者もまた致命傷を負っていたらしく、ベルには構わず山を降りて言ったらしい。…その後の行方は分からない。多分、何処かで野垂れ死んでいるんだろう。とは彼女の弁だ。
 
 ―つまり…何の事は無い。少し考えれば分かる話だ。
 
 幼い頃に両親が殺されたから誰とも戦ったことが無く、手加減も知らなかった。両親が殺されたからこそ、まるで技術も何も無い荒削りな剣の振り方しか出来なかった。両親が殺されたからこそ、ベルは何処か子供っぽかった。そして…両親が自分を護って殺されたからこそ、彼女はその墓を護って死ぬつもりだ。…ただ、それだけ。それだけの話だ。
 
 ―…クソが…!
 
 両親を殺されたサラマンダーがどれだけの辛さを覚えたのかは俺は分からない。だけど…話を聞く限り、あの天性のバネは才能だけじゃなかったと言う事なのだろう。才能を持つ少女が他に何も知らず、愚直なまでに素振りをしたが故に到達した境地。それは並みの感情じゃ出来ない事だろう。
 
 ―でも…ベルは……。
 
 彼女はもう諦めてしまっていた。そう簡単にたどり着けないだけの執念を見せておきながら、その結果を余すところ無く発揮しながら、ベルは生きる気力を失ってしまっていたのである。それだけ彼女にとって両親が大きな存在であったのかもしれないし、他に何かあったのかも知れない。あくまで出会っただけの俺にはそこにあったであろう苦悩さえ想像出来ないのだ。
 
 「俺は…どうすれば良い…?」
 
 思わず口から出た問いかけるような言葉。しかし、それに応える相手は誰一人として存在しない。この部屋の中には俺の他に誰もいないのだから当然だろう。そもそもその問いは誰かに向かって問いかけられたものでもなかったのだ。
 
 ―強いて言うなら…自分に向かって…か。
 
 その問いかけに答えるように俺の胸からは幾つか考えが湧き出てくる。冒険者としての俺は金も貰った事だし、さっさとこの町を去るべきだと告げている。男としての俺は明日、彼女の元へと向かい、また、説得すべきだと言っていた。相反する二つの考えに挟まれてしまった俺は、どちらも取る事が出来ず、暗い部屋の中で小さくため息を吐く。
 
 ―どうするか…なぁ……。
 
 そんな事を考えながら俺はそっと窓のほうを見据えた。しっかりと閉じられているそこはカーテンが開かれ、真っ赤な炎の色が飛び込んできている。それはまず間違いなく活発化した火山の色だろう。この宿は比較的、町の外れの方にあるというのにそこにまで届く強い光に関心とその力強さに恐怖を覚えた。
 
 ―…これをベルは一人で見ているんだな…。
 
 それもこんな優しいようなものではなく、もっと激しい身を焦がすような色を。三人で暮らして、幸せな思い出の染み込んだあの家で。何時、自分を襲うかもしれない死を待ちながら。……そう思うと、俺はもう居ても立ってもいられなくなってしまった。
 
 「あぁ…!クソ…!!!」
 
 苛立ちを声に上体を起こすと思ったより悪い気分ではなかった。これからどうするか、その腹が決まったからだろうか。口調こそ悪いものの、さっきよりは気分が爽やかに透き通っている様だ。
 
 ―ったく…簡単なんじゃねぇか。
 
 そう。ぐだぐだ悩んでいても、話は簡単な事だったのだ。俺がベルを見捨てて、武具や報酬だけ貰うのが嫌なのであれば、見捨てなければ良い。噴火で命を落とすかもしれないのであれば、その命さえ盾にして説得してしまえば良い。説得が出来ないのであれば実力行使をすれば良い。…その為の実力が足りないなら、補ってしまえば良い。そして…その為に貰った報酬を使えれば、俺の気分も多少は晴れるだろう。
 
 ―うし…そうと決めればまずはやらなきゃいけない事があるな。
 
 貰った武具のサイズ合わせなんかは後回しだ。それよりも手に入れなきゃいけないものが山ほどある。そう考えて、俺はベッドから立ち上がった。その手にぎゅっと報酬の皮袋を掴んで、町長邸へと足を向ける。けれど、その足取りはさっきとは比べ物にならないほど軽い。完全に吹っ切れたからだろうか。手に持つ皮袋さえ軽く思える。
 
 ―見てろよ…目にモノ見せてやる…!!
 
 あっさりと俺を打ち倒したサラマンダーに向かって、決して届かないであろう言葉を呟きながら、俺は焼けた空を背にするように走り出したのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―それから三日後、俺はまた火山の中を装備を身につけて歩いていた。
 
 三日前と比べてさらに火山が活発になっているからだろうか。鬱陶しいくらいに緑色をしていた植物の中には枯れているものもいる。だらりと葉や茎をタレ下ろしたその姿は三日前の俺であれば、見るだけで陰鬱な気分になっていただろう。しかし、今の俺はそれを見ても殆ど心を動かされなかった。しっかりと覚悟を固めたからだろうか。流れる汗を拭いつつも、後退の意思はまるで無かった。
 
 ―何せ…かなりの金をつぎ込んだからな。
 
 あの後、俺は町長のコネを使い、幾つかのハーピーに手紙を託したのだ。勿論、噴火前の町に自分から立ち寄るハーピーなどいない。今回もコネと多額の危険手当を払って、ようやく受けてもらえたのだ。その危険手当と、俺が欲しがっていた『ある物』の代金で報酬が殆どそのまま飛んでいってしまったのである。それは…俺の同業者からすれば馬鹿にしか見えない行動だろう。…実際、俺が見ているだけの立場であれば思いっきり馬鹿にする。…だけど、もう腹を決めたい上、後戻りも後悔も出来ない。
 
 ―っと…この辺りか。
 
 そんな事を考えていると、以前、ベルと始めて遭遇した辺りにまで来ていた。二度目の登頂とあって、多少は慣れが生じているのだろう。その身体は以前よりは疲れては居なかった。これであれば以前よりはマシな勝負ができるだろう。しかし…それでもマシというレベルだ。俺ではあの天性のバネから生み出される暴風のような斬撃をかいくぐる術はない。
 
 ―勿論…装備も新調してるけれどな。
 
 あの日、ベルに施しを受けた武具は、殆ど調整しないでも俺の身体にぴったりと馴染んだ。あまりに馴染みすぎて、彼女の父親が娘を助けるために力を貸してくれているのだとそんな下らない事を考えた位である。実際はただ体格が似通っていただけなのだろうが、それでも何となく後押しを受けているような気がするのは事実だ。…とは言っても、多少、装備が変わっただけでかてるような甘い相手でもないのだが。
 
 「ん?」
 「…お」
 
 そんな事を考えていると茂みから一度、見たことのある顔が飛び出した。薄黒い赤の髪に、勝ち気そうな釣り目。そして、健康的な薄褐色の肌を見るまでも無く、三日前に俺を叩きのめしたベルだろう。そもそも、火口にも近いこの辺りに暮らしている魔物娘なんてサラマンダーである彼女くらいしか居ないのだから。そんな事を考えながら、俺は小さく言葉を紡ぎ、腰につけた皮袋のヒモをそっと緩めた。
 
 「…どうしたんだい?まさかまた懲りずに依頼を受けたって言うんじゃないだろうね?」
 「まぁ…似たようなものかな」
 
 まさかまだ俺がここに居るとは思わなかったのだろう。ベルは驚いた色をはっきりとその顔に浮かばせていた。そんな彼女に答えた言葉は嘘ではない。勿論、これは誰かから頼まれたものではなく…俺が自主的に…身銭を削りながらやっているだけだ。それは決して依頼と呼べるような代物ではないだろう。だが、こんな酔狂としかいえないような状況は、これは俺自身が俺に頼んだ依頼に他ならない。
 
 「やれやれ…まぁ、アタシは構わないんだけどさ。命はもっと大事にしなよ」
 「お前が言うな」
 
 命を大事にするどころか投げ捨てようとしているサラマンダーにだけは言われたくない。そんな気持ちを込めてはっきりと言い放ってやったら嬉しそうにその顔を笑みの形に変えた。…どうやらツボに入ったらしい。別に笑わせるつもりなど無かったが、ちゃんと笑えるのだと――まぁ、戦闘中も馬鹿みたいに大笑いしていたが――少し意外に思った。
 
 「ははっ!まぁ確かにアタシにだけは言われたくないかもしれないねぇ」
 「分かってるのなら、山を降りろよ」
 
 それはもう三日前に何度も繰り返したやり取りだ。けれど、それでも止められない。説得でどうこう出来るなら其の方が良いのだ。俺としても折角手に入れた『ブツ』が邪魔になるのは悲しいが、使うに越した事が無いの位は理解している。
 
 「…悪いけど、アタシはもう二度とトト様とカカ様を見捨てて逃げないって決めたんだ」
 「アレは…ただの墓だぞ」
 「そんな事くらい分かってるよ。墓の義理立てしたって意味無いって事もね」
 
 そこで言葉を区切ってそっとベルは目を閉じる。それはまるで自分の世界に閉じこもるようなものだった。もしかしたらその瞼の裏には幸せだった頃の記憶でも再生されているのかもしれない。
 
 「けど…それじゃあアタシが納得しないのさ。例え意味の無い行為であっても…アタシはあの二人を今度こそ護りたい」
 「それは…お前の両親が望んでいることとは違うぞ」
 
 ふと脳裏によぎる苦々しい記憶。俺もまた砂漠で両親を見殺しにした人間である。其の事に深い自責を感じて生きてきた。そのあまりの重さに両親の事を恨んだ事さえある。だが…成長したお陰だろうか。其の時の両親の気持ちもまた分かるようになってきたのだ。自分の命を捨ててまで生きて欲しかった子供…それが命を無駄にするのは彼らとて決して本意ではないだろう。
 
 「それも以前言ったけど…分かってるさ。でも…アタシの出来る親孝行ってこれくらいだろ?」
 「お前は…親孝行って言葉を履き違えてるぞ」
 
 そんなもの生きて何ぼだ。生きて、余裕があってこそ初めてするものではないだろうか。余裕無く、命さえ投げ捨てるようにして孝行されて何処の親が喜ぶだろう。俺はベルの両親と会った事はないが、マトモな神経の親ならば、ここは生き残って欲しいと思うだろう。
 
 「かもね。…でも、アタシは決めたんだよ」
 「…それだけ身体を鍛えてるのにかよ…?何かやりたい事があったんじゃないのか?」
 「…復讐はしたかったかもね。でも…それももう意味がないだろ?」
 
 諦めたように笑うその顔はもう見たくは無いものだった。けれど、ここで声を荒上げてもまるで意味は無い。それは俺の勝手な事情だ。それを口走ったところでベルは困惑するだけだろう。それならば…まだ冷静さを持っていられるこの辺りで切り上げておくのが後々の為にも良いかもしれない。
 
 「…そうか」
 
 ―結局、今回も説得に失敗した。
 
 まぁ、それは良い。そもそも俺だって成功するなんて思っては居ないのだから。三日前と繰り返しのような話の展開を辿ったのは少しだけ悔しいものの、おおむね予想通りだろう。それに肩を落とす必要は無い。…だけど、俺とベルは何処か似ている所為だろうか。俺の言葉が届かないのが少しだけ悲しかった。
 
 「それよりアンタはまた火口を見にきたのかい?地震も頻発してるから気をつけなよ」
 「あぁ、今回は別件だ」
 
 そのまま去ろうとするベルに声をかけながら俺は腰からそっと剣を抜いた。火口から溢れ出る赤い光に照らされた白銀の刀身は俺が何かするまでもなくしっかり手入れされている。恐らく彼女が毎日、しっかりと手入れしていたのだろう。しかし、それは三日前にまるで形見分けのようにして俺の手に渡った。大事にしていたのが刀身に透ける様な美しい剣だけに、今の彼女の決めた覚悟が見え隠れする。
 
 「ベル。少しだけ賭けをしないか?」
 「…賭けだって?」
 
 いきなり剣を抜いた俺を訝しげに見ながら、彼女はそう聞き返した。警戒の所為だろうか。其の背からはチリチリと焦げるような音が鳴っている。サラマンダーが敵意を持たなければ無害であるというその炎がそこまで燃え上がるというのは…ベルもまた俺の姿から何かを感じ取ったのかもしれない。
 
 「あぁ。俺が勝ったら…なんでも一つ言う事を聞け。お前が勝ったら…そうだな。両親の墓を壊すのを止めてやろう」
 「っ…!アンタ…!!」
 
 其の目にはっきりと怒りの色を浮かべる姿に背筋がゾクリとなった。この前の『じゃれあい』のようなものではなく、はっきりと向けられる敵意に俺の身体は死の予感を身近に感じる。当然だろう。俺と彼女の間にはそれだけの実力差があるのだから。元々の才能の差か、或いは種族としての差なのか。同じような道を辿り、同じように剣を取ったはずなのに、俺とベルの間には歴然とした差が存在する。
 
 ―だけど…ここで逃げるわけにはいかない。
 
 ここで勝たなければ、頑固な彼女を山から引き摺り下ろす手段は無くなる。それは…俺がまた誰かを見殺しにすると言う事と同義だ。無論、冒険者と言う家業をやっているだけあって、誰かを見捨てたのは一度や二度ではない。だけど、俺と同じような道を辿ったベルを見捨てる事だけはしたくなかった。
 
 「勿論、受けなくても良いぜ?その代わり…お前が寝ている間にでも墓を滅茶苦茶にしてやるがな」
 「……そうかい…」
 
 告げられた返事は思いのほか冷たかった。この前はアレだけ楽しそうに俺と戦っていた奴と同じ奴とは思えないくらい冷え込んだそれは、ベルも大事なものを盾にして喧嘩を売る馬鹿を相手にする覚悟を決めたと言う事なのだろう。間違いなく…本気で来る。その予感に俺の全身はかつての衝撃を思い出して震えた。剣とブレストプレートをたやすく打ち砕いたそれをもし別の部分…保護されていない場所にでも受ければ真っ二つになってもおかしくは無い。
 
 ―諦めろ…!もうここまできてしまったんだ…!!
 
 逃げろと叫び始める臆病な自分と震えそうになる足に喝を入れた。それに少しだけ思考が落ち着くのを感じるが、冒険者としての本能がうるさいくらい勝てないと逃げろと叫び続けている。それに耳をふさぎながら、俺は努めて不敵な表情を浮かべた。
 
 「悪人とは思えなかったからその武具を託したんだけど…どうやらアタシの見込み違いだったようだね」
 「こんな山の中に引きこもってるから、人を見る目を養う余裕もねぇんだよ」
 
 腰からすらりと剣を抜いた彼女に言った言葉は本心だった。何せ俺は間違いなく悪人だ。両親も、同僚も見捨てて今まで何とか命を永らえてきたのだから。そんな俺が悪人じゃないように見えたなんて何かの冗談としか思えない。それもこれも彼女がこんな山の中に引きこもって誰とも会わず、墓だけを護ってきたからだろう。そう思うと少しだけ胸が痛んだ。
 
 ―…彼女はもっと世界を見るべきだ。
 
 まるでずっと幸せだった過去に逃げ込むようにして、この山に居るのは止めにすべきだ。他のサラマンダー達の様に好敵手を探しに世界中を旅して、色々なモノを見て…其の見聞を広めるべきなのだ。少なくとも…ここで投げ捨てて良い命ではない。無論、それはお節介なのだろう。俺が逆の立場であれば、押し付けのようなそれに憤慨していたに違いない。
 
 ―だけど、俺は別に彼女の為だなんて思っては居ない。
 
 これは俺の自己満足だ。だからこそ、俺自身による俺自身への依頼だと思っているし、私財だって投げ打った。これが誰かの為などであれば、私財を投げ打つ様な真似はしないだろう。少なくとも、二回しか出会ってない上にファーストコンタクトが最悪なベル相手には決してしない。だから、例え死んでもそれは彼女の所為ではなく、俺自身の所為だ。…そう思うと少しだけ身体の震えが収まった。
 
 「それじゃあ…行くよ…!!」
 
 其の声と共に上段に構えた彼女が思いっきり突っ込んでくる。正眼に構えていた俺は、それを受け止めるようにして上へと構え直した。
 
 ―そして襲い来る衝撃。
 
 それは三日前のじゃれあいのときとは比べ物にならない一撃であった。両手で構えた剣が痺れて、握力が中々戻らない。剣を落とさなかったのは奇跡のようなものだろう。しかし、二度目は無い。痺れた俺に向かって一歩引いて、もう一度、上段から一気に振り下ろしてくる。
 
 「っ…!」
 
 それを何とかバックステップでかわした…と思った瞬間、俺の額が裂ける。ぱっくりと開いた額の肉からダラダラと血が流れ始めた。それは目の方へと垂れてくるが今のところ目に入るような事はない。少なくとも戦闘に支障はないと判断しながらも、この前とは比べ物にならない一撃に肝を冷やした。
 
 ―やっぱり…一撃で貰えば終わる…!!
 
 さっきの一撃だけでもクリーンヒットすれば意識をたやすく刈り取られるだろう。それどころか死んでもおかしくは無い一撃だ。当たり前だが…怒らせた分、手加減は無い。手加減を忘れていたと言っていたが、以前のはあくまで楽しむための戦いであり…今回のような相手を倒す戦いとは一線を画す。その身体はもう燃え上がっていて、既にある程度の速度へと達していた。
 
 ―やばい…な。
 
 分かってはいたが正攻法ではどうしても及ばない。勿論、タダで死んでやるつもりは無いので勝つつもりではあるが、その勝機が何時来るのかさえ分からなかった。そろそろだとは思うものの、キレのある彼女の身体には何の変化も無い。
 
 「はぁっ!!」
 「っ!!」
 
 そんな風に見つめた俺に向かってベルは一気に踏み込んでくる。そして振るわれる気合を込めた声と共に横凪の一撃。それを痺れる手で必死に剣で叩いた。斜め上へと通り抜けた一撃が俺の髪を何本か持って行く。だが、それに気を向ける余裕は無く、三角を描くように斜め下へと振り落とされた。
 
 ―やば…!!
 
 再び上段から振り下ろされるそれを受ける余裕は無い。下から跳ね上げるようにして迎撃した俺の身体はベルとは違い、バネに優れているわけじゃないのだ。どうしても切り替えしには多少、時間が掛かる。剣を持っている状態であれば、それはほんのコンマ数秒ほどの差で間に合わない。
 
 「くぅぅっ!!」
 
 どの道、このままじゃ真っ二つになるしかない。そう判断した俺は苦悶の声を上げながら、剣を投げ捨てた。そのまま一か八か空いたナックルガードで裏拳を叩き込むように振り下ろしを弾く。けれど抑え切れなかった一撃が俺の肩に触れて服と共に幾つかの皮を剥ぎ取っていった。
 
 「ぐ…あぁ…!!」
 「喧嘩売ってきた割には随分と無様じゃないか?えぇ?」
 
 膨れ上がった熱と痛み。それに苦悶を上げる俺にベルが冷たく言い放った。それも当然だろう。以前とは比べ物にならない速度で俺は消耗しているのだから。強い強いとは思っていたが、本気で戦うサラマンダーとここまで実力差があるとは思わなかった。正直、予想外にも程がある。そんな俺に呆れているのか、彼女の背の炎は冷ややかなまでに大人しかった。
 
 ―これは…本格的にやばいか…。
 
 腕からの出血はちょっと洒落にならなかった。痛みは大した事ないが早めに止血しないと俺の意識も飛んでしまうだろう。麻色の服はもう流れ出る血に真っ赤に染まって、血の匂いを溢れさせているくらいなのだから。
 
 「別に命までは取るつもりは無いよ。…渡した武具を置いていくなら命だけは見逃してやる」
 「そうかい…」
 
 この期に及んでもまだ人の命を助けようとするベルの言葉に頷きながらも、俺は内心、イラついていた。一度ならず二度までも情けをかけるような言葉をかけられたのだから当然だろう。しかも今度は俺が完全に売った喧嘩だ。後が無いからこその余裕なのかもしれないが、だからと言って安っぽいとは言えプライドを刺激されてしまう。
 
 「俺は二流だが…一つだけお前に教えておいてやる」
 
 其の気持ちをはっきりと言葉に込めながら、俺はきっとベルの方をにらめ付けた。だが、それでも彼女は怯まない。そもそも…俺なんかじゃ決して勝てないって事は分かっているのだろう。完全に見下し、油断しきった目で俺を見ている。もし、彼女に親が健在であれば、叱咤したであろうそれにまた胸をざわつかせた。
 
 「獲物の前に舌なめずりは…三流のすることだ」
 「…へぇ…」
 
 この期に及んでここまでの大言を吐くとは思っていなかったのだろう。其の表情に少しだけ関心のような色を浮かべて、ベルがじろじろとこっちを見てくる。そこにはまだ敵意の表情が見え隠れするものの、以前のようなこっちを見下し、油断した色は無い。まだ何かをするつもりだと、注意深くこちらを注視する動きに変わっていた。
 
 ―だが…それが勝機だ。
 
 「…まぁ、三流でも構わないさ。ただ…死んでも恨むんじゃないよ!」
 
 そのまま数秒ほど俺の様子を見ていた彼女は難しく考えるのを止めたらしい。其の言葉と共に一気に踏み込んで、左右へと剣を振り回す。それは三日前に受けた暴風のような連撃。恐らく自分の持つ最高の力でしようとする『何か』ごと粉砕しようと言うのだろう。分かりやすい脳筋の思考に拍手さえ送りながら、俺は一歩二歩と剣撃から逃げるように後ろへと下がった。
 
 「ほらほらほらぁっ!!!」
 「チッ…!!」
 
 右手は痛みに鈍り、マトモに動かせるのは左手だけ。そんな状態で彼女の連撃を受けきれるはずも無い。しかし、逃げようにも回りは木々に囲まれていてマトモな逃げ場は殆ど無かった。右や左へ逃げようにも素早く左右に振るう彼女の脇に隙は無く、かといって後ろを振り向く隙などベルが見逃してくれるはずも無い。自然、ただ振り回すだけのベルにさえ追い詰められ、俺の背は木に押し付けられるように逃げ場を失ってしまう。
 
 ―くそ…!まだかよ…!!
 
 既に仕掛けは講じてある。後はそれが発現するのを待つだけだ。しかし、待ち望んでいるそれが中々、来てはくれない。もう後が無いと言うのに、まるでその顔を見せないそれに不安を抱いてしまう。しかし、既に喧嘩を売ってしまった俺が他に生き延びる方法は無く、『それ』が偽者出ない事を信じて、左手のナックルガードを構えた。
 
 「これで…終わりさ…!」
 
 そんな俺に向かって放たれる横薙の一撃。速さ。パワー。角度。どれも申し分ない。首へと一直線に伸びるそれに当たれば、俺の胴体と首は悲惨な別れを経験してもおかしくはないだろう。当たり所が良くても重度の障害くらいは残るかもしれない。…だが、それは全て当たればの話だ。
 
 「っ!?」
 
 ―その一撃を振るうベルからはどんどんと力が抜けていった。
 
 最初こそ威勢がよかったそれはどんどんと失速し、最後には子供だって目で追えるような速度になる。そこに勝機を見出した俺は身を捩りつつ左手を打ち出す。健康的なレベルで割れた腹筋は硬いというより柔らかく、触れた左手に柔らかい感触を伝えた。しかし、そこに色っぽい何かを感じる余裕も無く、そのまま俺は足を踏み出して足から肩、そして腕へと力を込める。
 
 「ぐぁ…!!」
 
 予期せぬカウンターを受けて、仰向けに吹っ飛んだベルの顔には困惑の色が浮かんでいた。当然だろう。さっきのは何も彼女が自分の意思で手を抜いたというわけではないのだから。『自然』と抜けていく力に困惑しながら、彼女は震える身体を何とか立ち上がらせようとしていた。
 
 「はは…形勢逆転って奴だな」
 
 まるで物語に出てくるヒーローのような勝ち方に俺の胸中と頭が喜びで沸き立つ。まさに土壇場での逆転劇だった。俺の脳内からは興奮物質がドバドバと分泌されていて、腕の痛みがまるで気にならないくらい。
 
 「アンタ…アタシに何を…!」
 
 抑えきれない喜悦と興奮を顔一杯に浮かべる俺に向かって忌々しげに彼女が言った。しかし、そこにはさっきまでの迫力は無い。今も剣を何とか立っているような状態なのだから。少し押せばあっという間に倒れてしまいそうな彼女の様子に、俺はまた笑い声を上げた。
 
 「ははっ…!気づかなかったのかよ?ずっとお前が風下に居た事をさ!!」
 
 あまりの喜悦に思わずネタ晴らしをしてしまいたくなる。だが、それはさっき俺が言ったとおり三流だ。俺は実力的にも心情的にも中途半端で一流になれない小物である。だが、三流にまで降りるつもりはなく、勝ち誇った笑みでベルへ向かって近づいていく。
 
 「や…め…!来るんじゃない…!!」
 
 今まで戦った事もほとんど無いベルは負けるのも初めてなのだろう。その表情に恐怖の感情を浮かべながら、必死に剣を振るった。しかし、わざわざ高い金を支払って手に入れた即効性の麻痺毒は彼女の身体をしっかりと蝕んでいて、そこにさっきまでの迫力はない。元々、今まではしっかりと構えて剣を振っていた訳ではないのだから、その莫大な身体能力を麻痺させた今、その一撃が怖いはずもなかった。
 
 「お前が負けを認めるなら考えてやるよ」
 「っ!!誰が認めるもんか…!どうせ卑怯な手段でも使ったんだろう!?」
 
 ―まぁ…そうだよなぁ…。
 
 さっきの意趣返しとして言い放ったが、俺だってそうしてくれるとは思っていない。ここで認めてくれると話は早いが、悪く言えば単純、良く言えば純真なベルが剣以外の方面での受け入れるはずも無いだろう。死と隣り合わせで生きてきている冒険者であれば素直に受け入れるだろうが、ここでずっと親の墓を護ってきた彼女にそこまで求めるのは酷過ぎる。
 
 「じゃあ、仕方ないよな」
 
 結論をそう言葉にしながら、俺は一歩踏み込んだ。そのまま右手を横隔膜へと押し当てるように鳩尾を射抜く。マトモな状態であれば決して当たらないであろう人間の一撃をベルは無防備な状態で受けて、その身体を震わせる。麻痺した身体を打ち抜いた衝撃に苦悶の表情を浮かべた後、彼女は膝から崩れ落ち、そっと意識を失った。
 
 「…やれやれ……」
 
 男として女に手を上げる趣味は無いが、これは仕方ないだろう。そんな気持ちと命のやり取りをしていた疲労感を込めて、俺は小さなため息を吐いた。そんな俺の視界がぐらりと揺れて、俺もまた倒れ付しそうになってしまう。さっきまでの勝利の余韻で気づかなかったが、右腕からの出血は指先から地面へと垂れ落ちる位にまでなっていた。このまま放置すれば彼女が起きるよりも先に俺が失血死しかねない。そんな事を考えて、俺はズボンのから包帯を取り出した。そのまま軽く消毒と応急処置を終えて、一息吐く。
 
 「何とか勝ったか…」
 
 応急処置を終えて湧き上がる勝利への実感。正直、何度も駄目だと思った。俺はここで無様に死ぬのだと、こんな自己満足止めておけばよかったと何度も思ったか分からない。けれど、俺は今、生きて大地を踏みしめている。それは俺が精霊使いになろうと魔術を勉強していたお陰でもあるのだろう。結局、俺に才能は無くマトモな魔術一つ使えないが、粉末状にした麻痺毒を彼女の元へ届けるくらいは出来るようになっていた。
 
 ―努力は人を裏切らないというが…本当だな。
 
 そもそもその技術さえなければ、俺はベルに挑もうだなんて考えなかっただろう。けれど、結果としてそこまで実力差のある相手に俺は勝った。勝因は彼女の油断や経験不足という方が大きいものの、その技術がなければ勝つことは不可能だっただろう。勿論、それは挫折した苦々しい記憶の残滓ではあったものの、こうして役に立ってくれたのだ。
 
 「とりあえず…どうするかな」
 
 自分に言い聞かせるように口に出して、俺は周りを見渡した。まず茂みの向こうへと飛んでいった形見の剣を回収しなければいけない。その上で彼女を背負って下山。流れとしてはそんな所だろう。だが、止血したはずの俺の右腕からは今も血が溢れて、何重にも巻いた包帯を真っ赤に染めていた。勿論、そんな腕に力が入るはずも無く、マトモに動かせるかも妖しい。
 
 ―…仕方ないな。
 
 そんな風に結論付けながら、俺はそっと腰の皮袋の口を閉じた。そのまま剣を放り投げた先へと向かい、茂みに引っかかったままの剣を拾う。せめて地面にでも突き刺さってくれれば格好もつくのに、茂みに引っかかったその剣が俺の不恰好さを象徴しているようで笑みが漏れた。
 
 ―…っと笑ってる場合じゃねぇか。
 
 刻一刻と流れ出る血液は早めに処理をしないと命さえ奪いかねない。普段ならばすぐさま医者を呼んで安静にしていなければいけない傷だろう。だが、俺はこれから安静にするどころか、ベルを背負って山を降りなければいけないのだ。一応、勝者であるとは言え、俺に残された余裕と余裕は殆ど無い。
 
 「よし。それじゃあ…」
 
 彼女の剣もその鞘に収めてやりつつ、勢いづけるように言葉を漏らした。そして、仰向けに倒れたベルの腕を両手で持ち上げる。そのまま彼女に背を向けて、腕を交差させるように首に回させた。それがしっかり固定されたのを確認しながら、今度は腕で彼女の太腿を抱えるように持ち上げる。俗におんぶとも言われる格好になったのを確認しながら、俺はそっと足を前へと進め始めた。
 
 ―しかし…軽いなぁ…。
 
 勿論、しっかりとした作りをしている剣を身に着けているので、今、俺が感じる負荷はお世辞にも軽いとは言えない。けれど、それはあくまで剣の分を加味した重さだ。彼女自身の重さは言うほど強いものではない。寧ろ普段からちゃんと飯を食っているのか不安になるくらいだ。
 
 ―…まぁ、しっかりと成長してるから喰ってるんだろうけどさ。
 
 そう胸中で呟きつつ、感じるのは背中に押し付けられる二つの双丘だ。戦闘中にもふるふると揺れて、目を引いた魅惑的なそこはどうしても男としては気になってしまう部分だろう。そんなものを気にしている暇は無いとは言え、男としての本能が、その柔らかい部分を揉みしだきたいと叫んでいた。こんな非常時に何を考えているのだと思いつつも、どうしても魅惑的なおっぱいの感触が頭から離れない。
 
 ―待て…こういう時は素数を数えるんだ…!…1…3…5…7…11…!!
 
 しかし、素数を数えても男の煩悩がなくなってくれるわけがない。そもそも男と言うのは本能的に助平な生き物なのだ。おっぱいを前にして心を落ち着かせられるような男はそういないだろう。
 
 「おっと…!!」
 
 しかし、そんな事を考えていたのがいけなかったらしい。俺の足は一瞬、足場から踏み外れそうになってしまった。元々、二人分の体重と剣を支えているのである。普段とは違う重心を制御するのに精一杯なくらいだ。その上、山道を下っているのだから、体調が万全であっても厳しい。怪我をしてどんどんと右手の感覚が失われていく今の俺なら尚更だろう。
 
 ―…戻るか…?
 
 一瞬、そんな事も考えたが、活発化した火山が何時、噴火するとも分からない。三日前は一週間は大丈夫だと見込んだものの、最近はまた加速度的に噴火の予兆が進行しているのだ。麓の町も何時、噴火しても良い様にほとんどの住民が避難している。もうあそこに残っているのは町長や医者を含めた少数の人間だけだ。
 
 ―…ここで死んだら無駄死にってレベルじゃないしな…。
 
 もし、山頂付近に残っている時に噴火が起こればそれこそ生き残る手段は無い。それなら多少無理をしてでも麓に降りていったほうが良いだろう。最悪、俺が動けなくなっても彼女だけ逃げてもらえれば何とか生き残れるかもしれない。まぁ、そうタイミング良く噴火が起こるとは思っては居ないが、常に最悪を想定しておけば悪いようにはならないだろう。
 
 ―…っと…。
 
 そんな事を考えているとまた身体が揺れてしまった。どうやら…少しばかり俺の体力も危ないらしい。まだ視界ははっきりとしているが、思ったより体力の減りが早かった。このままでは歩けなくなってしまうのも時間の問題かもしれない。
 
 「んん……」
 
 揺れてしまった所為だろうか。俺の背中で気絶し続けている彼女が小さく呻き声を上げた。それを聞いて一瞬、身体を跳ねさせたのがいけなかったのだろうか。背中の上でゆっくりとベルが目を覚ます気配を感じる。
 
 「ここ…は…」
 「よぉ。随分、早かったじゃないか」
 
 冗談めかしてそんな風に言った瞬間、彼女の意識も覚醒したのだろう。ぎゅっと抱きつくように腕に力を込めて、俺の首を締める。けれど、そのまま意識を締め落すつもりはないらしい。はっきりとした敵意が伝わり、背筋に冷や汗が浮かぶものの、その締め付けは苦しいだけだ。
 
 「…何のつもりだい?」
 「決まってるだろ。約束通り俺の言う事聞いて山を降りてもらってるんだよ」
 
 その言葉に俺の背中ではっきりとした怒りの色が灯るのを感じる。当然だろう。いきなりやってこられて喧嘩を売られたと思ったら卑怯な手段で負けさせられ、あまつさえ山を降りろというのだから。ヤクザだってここまで酷い真似はそうしないだろう。だが、それが二流でしかない俺の精一杯だ。これ以上、スマートにやれと言われても俺には無理である。
 
 「アタシは…アタシはそんな事頼んでない…!」
 「当たり前だろ。俺が勝手にやってるんだからな」
 
 ただの自己満足だ。そう付け加えるように言いながら、一歩二歩を踏み出していく。そんな俺の背中で怒りを滾らせながらも彼女は何も言わなかった。恐らくだが、これからどうしようと考えているのだろう。そんなもの俺を締め落してその辺に捨ててからでも十分だろうに。そこまで頭が回っていないのか、或いは俺にこれ以上、危害を加えようとは思っていないのか。いや、間違いなく前者だな。うん。
 
 「…誰かの依頼って訳かい?」
 「違うな。…まぁ、強いて言うならそうかもしれないが…まぁ、多分、違う」
 「…まるで分からないんだけど…」
 
 要領を得ない俺の言葉に呆れたようにベルが言う。しかし、まぁ…俺自身になってよく分かっていないのだから説明しにくいのだ。自分に似ているというだけで自腹を切ってここまでやったって言うのは説得力が薄い気がするし、町長からの依頼が果たせなかったというのも無関係ではない。けれど、それを納得させるものとして形にする事がどうにも出来ないのだ。
 
 「まぁ、俺がやりたかったからやっただけだ。誰かの為でも…増してお前の為とかじゃ決してない」
 「…なんだかねぇ…」
 
 はっきりと言い放つようにそう言ってやると俺の後ろで小さく溜め息を吐いた。呆れるようなその溜め息の理由も…まぁ、分からないでもない。正直、俺がやっているのはただの我侭だ。何せ彼女自身がそれを望んでいないのだから。色々、綺麗事を並べても説得されなかったベルは本当に覚悟を決めていたのだろう。そんな彼女を無理矢理、引きずり降ろす為、ここまで無茶するなんて馬鹿の極みでしかない。
 
 「その割には随分、必死だったじゃないか」
 「つい三日前に手も足も出なかった相手に喧嘩を売ったんだぞ。そりゃあ必死にもなるさ」
 「まぁ…そりゃそうかもしれないけどさ」
 「ん…?」
 
 今度はどうにも彼女の方が要領を得ない。それに首を傾げようとしたが、きっちりと締まった彼女の腕がそれを許さなかった。まぁ、俺を締め落すつもりもないのであれば今のところはそれに抵抗するつもりは無い。それだけの権利は彼女にはあるし、何より強く締まった分、柔らかい感触が俺の背中に広がるのだ。男としてどうしても惹かれるその感触だけでも十分、プラスと言えるだろう。
 
 「まぁ、良いさ。それでアタシに山を降りさせてどうさせるつもりなんだい?」
 「何も」
 「…はぁ?」
 
 俺の答えはどうにも不満だったらしい。呆れた…というより驚いたようにベルは聞き返してくる。しかし、俺としては本当に何も考えていなかったのだ。聞き返されてもそうとしか答えようがない。
 
 「だから、本当に何も考えてなかったんだって。ただ、噴火が落ち着くまで避難して欲しかっただけでお前の私生活にそれ以上、干渉したいとは思っちゃいない」
 「……ここまでやっておいて信じられると思う?まだアタシを奴隷商人にでも売るって言った方が説得力があるよ?」
 「と言われても…なぁ…奴隷商人の伝手なんてねぇし…そもそもサラマンダーを売るって言っても誰が買うかよ」
 
 何せ敵意を持てばその炎に焼き尽くされると説明されるような魔物娘なのだ。下手に拘束した所であっさりと逃げられてしまうのがオチだろう。例え逃げられなくても、その実力や筋力は並の男では決して太刀打ち出来ないレベルである。そんなサラマンダーを奴隷に出来るかと言えば、まず否だろう。まぁ…そもそも魔物娘が勢力を広げるにしたがって、奴隷商人と言う職業自体が減っていっているという話もあるのだが。
 
 「…じゃあ、本気でアタシに何かさせるつもりじゃなく山から下ろす為だけにアレだけの啖呵を切ったって訳かい?」
 「あぁ。まぁ…信じられないかもしれないけどさ」
 「信じられないって言うか…馬鹿過ぎて呆れてるよ」
 
 再びはぁ…と溜め息を吐いたベルはその腕をそっと緩めた。どうやら一応、俺に敵意が無いと言う事は信じてくれたらしい。とは言え…まだ許してくれた訳ではないのだろう。呆れた声音の中にもはっきりと怒りの色が混じっている。まぁ、俺も許してもらえるとは思っていない。何せ彼女は完全に俺の被害者であるのだ。怒るだけの権利は確実にある。
 
 「じゃあ…親の墓を護って死にたいと生きてきたアタシの慎ましい日々を掻き乱して、アンタは自分の自己満足を取ったって事で良いのかい?」
 「あぁ。その通りだ」
 「……ふざけんじゃないよ」
 「怒るのは当然だと思うが…お前は敗者なんだぜ。これ以上、子供っぽく駄々をこねて恥を掻きたくなければ、大人しく言う事を聞いておけよ」
 「あんな一方的な要求も卑怯な手段での勝ちも無効だって言えば通ると思わないか?それに…約束を護らなくともここでアンタを殺せば、誰にも知られず…そして恥にもならない」
 
 ―…む。
 
 何やら妖しくなってきた雲行きに俺は眉を顰めた。駄々はこねられると思っていたが、まさかそんな風に言われるなんて思っても見なかったのである。以前戦ったリザードマンであれば誇りだの何だのを刺激してやれば上手くいけそうな感じだったのだが、ベルにはそういう観念は余り無いらしい。サラマンダー自体に誇りを重視するような傾向は余り無いのか、或いは彼女がそう言った教育を殆ど受けてこなかった所為なのか。それは分からないが…兎も角、俺の目論見とは違う方向に進んでいるのは事実だった。
 
 「何より…アタシは死ぬことを望んでる人間だよ。あの世に行けば恥も何も無いさ」
 
 あくまで軽く言い放ちつつも、その言葉には覚悟の色が滲んでいた。勝負に負けたとは言え、その覚悟の感情はまるで色褪せていない。寧ろ俺なんかに負けて堪るかとその色を強くしているようにも感じられた。
 
 「つまり…アンタの目論見は全てご破算ってことさ。残念だったねぇ」
 「むぅ…」
 
 ケラケラと笑うそれに反論の余地は無かった。確かに彼女の言う通り…俺の目論見は完全にご破算になっている。そこまで覚悟を決めた彼女に俺は何も言えるような言葉が無い。何せ彼女の覚悟を変える為に取った最終手段が今回の実力行使なのだから。
 
 「このまま町に連れ帰ってもアタシは家に帰るからね。アンタのやっていることは無意味さ。だから、もう降ろしな」
 
 ―とは言っても…なぁ。
 
 ここで降ろすとそれこそ高い金を払って何をしたのか分からない。折角、勝ったのだ。卑怯な手段ではあったが、膝を屈させたのは俺の方である。それなのに…ここで終わりと言うのは余りにも意味が無さ過ぎるんじゃないだろうか。
 
 「その武具は勝った報酬としてくれてやるよ。だから、もう二度とアタシに顔を見せないでくれ。アタシも死ぬ前とは言え…アンタみたいな自己中野郎の顔を見て、心を乱したくは無いしね」
 
 しかし、どれだけ考えても突き放すような彼女の言葉にさえ反論が出来ない。…いや、そもそも俺の頭の回転が鈍くなっているのか。さっきから頭がどうにも重く、働かない。身体もまるで全身に鉛を身につけているようだ。彼女のむちむちとした太股を支える右腕は出血のし過ぎか感覚が殆ど無く、支えられているのかいないのかさえ分からない。
 
 ―やば…いな…。
 
 クラクラと揺れる頭と思考が纏まらない。それどころか足元を見る視界さえ滲んで、次は何処に足を進めれば良いのか分からなかった。多分…いや、まず間違いなく、出血のし過ぎが原因だろう。元々、人一人背負って山を下りれるような体調ではないあったのだ。ある意味、それも当然と言えよう。
 
 「なぁ、聞いてるのかい?」
 
 次に足を勧める場所さえ分からず、足を止めて立ち往生する俺に向かって苛立ちを込めてベルがそう言った。しかし、それにどう返せば良いのかさえ今の俺には分からない。困惑する気持ちが頭の中で一杯で、如何すれば良いかと思考が揺れ――そして、その思考もどんどんと薄れて行き――俺の身体は横へと倒れこむ。
 
 「ち、ちょっ…きゃああっ!!」
 
 そんな可愛らしい声を聞きながら、俺の意識は寒気さえ感じるような闇の中に飲み込まれていったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…あ…れ…?」
 
 ふと気付くと、俺の視界はまるで水でも落したように滲んでいた。一体、どう言う事なのだろうか。そんな風にはっきりしない意識が考えるが、まるで答えは出ない。背中に感じる柔らかい感覚やしっかりと被せてある白い何かから察するにきっと俺は何処かに眠らされていたのだろう。そこまでは理解できたものの、滲んだ視界からはマトモに情報を得られず、俺は胡乱な目で辺りを見渡した。
 
 ―そこはどうやら病室か何からしい。
 
 ベージュ色の布のような何かはきっと区切りなのだろう。視界がはっきりしない上に夜なのか薄暗くて良く分からないが、壁や天井も似たような淡い色使いをしている。患者が安心できるようにと凝らされたその嗜好は、病院などでしか見られないだろう。
 
 ―…でも、どうしてこんな所に…?
 
 ふと記憶を探っても上手く思い出せない。まだ意識がはっきりとしていないからだろうか。纏まらない思考をどれだけ繰り返しても、記憶の扉を開けることは出来ない。まぁ、意識がはっきりすれば思い出すだろう。そんな風に結論付けて、俺は逆側に視界を向けた。
 
 ―そこは赤かった。
 
 右側にあるそれはまるでインクを零したように真っ赤に染まっていた。それが何なのか記憶が曖昧な俺には分からない。しかし、本能的に強い恐怖を覚えた俺は小さく悲鳴を上げて身体を動かそうとした。しかし、意識さえはっきりしない状態で身体が動く筈もなく、右腕を中心にしてまるで感覚が無い。
 
 ―な、何なんだよ…何が…起こってるんだ…?
 
 視界も滲んでマトモな状況判断が出来ない。その上、身体も動かず、思考も働かない。そんな状況でパニックになるなと言う方が難しいだろう。勿論、俺だって冒険者であり、そこそこの視線は潜っている。しかし、真っ赤な上に何重にも赤を重ねたそれは人の中に刻み込まれた本能的な恐怖を呼び覚ますのだ。
 
 「あ…ぅ…ぅ…」
 
 今の俺には脅えるような声を漏らすしか出来ない。けれど、それが良かったのだろう。さっきまで真っ赤な『何か』に気を取られて、気付かなかったが、右側の『何か』…いや『何者か』がいたのだ。それが俺の反応によって、もぞもぞと動き、滲んだ視界でもはっきりと分かるような薄黒い赤を揺らせる。
 
 ―なん…だ…?
 
 見覚えのあるその色に首を捻ってみるが、滲んだ視界では思い至るだけの情報量を得られない。けれど…俺にとってその薄黒い赤は妙に安心する色であった。この薄暗く、赤が迫ってくるような部屋で一人じゃないと思えたからだろうか。差し込むような赤によって引き起こされた恐怖心が収まり、ゆっくりと冷静な色へと戻っていく。
 
 「…あ…」
 
 そんな俺に反応するようにその薄黒い赤はゆっくりと起き上がった。恐らく、さっきの声で起こしてしまったのだろう。それに申し訳ない気持ちを抱きながらも、この訳の分からない状況を打開してくれるであろう相手の目覚めに俺は喜びを感じていた。
 
 「……起きたのね」
 「…あ…?」
 
 何処か安心したような…それでいて冷たい声が俺の耳に届く。しかも、それはとても聞き覚えのあるものであった。一体、何処で聞いたのか、と首を傾げた瞬間、『ソレ』が呆れたように二の言葉を紡ぐ。
 
 「まったく…アンタのお陰で死に損なったじゃないか」
 
 呆れるようなその言葉に俺の記憶が一気にフラッシュバックする。依頼。苦悩。打開。準備。決闘。そして…転倒。ここに至る経緯までをはっきりと思い出した俺の視界もまたクリアなモノになっていった。はっきりと焦点の合った視界は、俺のベッドの脇に眠っていた『何者か』――ベルの姿を捉える。
 
 「…俺…は…?」
 「出血多量で意識不明。あまりの重体に医者が匙を投げそうになってたよ」
 
 無茶しすぎなんだよアンタは。そんな風に付け加えつつ、ベルはそっと笑った。何処か安心したようなその笑みは、心配させていたことの裏返しなのだろう。しかし、俺の記憶では敵意は向けられる理由はあっても、こんな風な笑みを向けられる理由は無い。俺が寝ている数時間の間に何かあったのかもしれないが…ずっと寝ていた俺に分かる筈もなかった。
 
 「そう…か…」
 
 ずっと眠っていた所為だろうか。さっきから咽喉が上手いこと動かない。ちゃんとした言葉を紡ごうとするたびに咽喉が引きつったような痛みを走らせるのだ。たった数時間寝ていただけなのに、どうしてここまで咽喉が痛んでいるのか。それさえも今の俺には分からず、ガラガラとしわがれた声を漏らした。
 
 「…先に水でも飲むかい?」
 「そう…す…る……」
 
 そんな俺に気を使ってくれたのだろう。ベルはベッドの脇から水差しを取って、コップに入れてくれる。それを受け取ろうと手を伸ばそうとするが、どうしてか右手が動かない。いや、それどころか肩から下の感覚さえなかった。それを不審に思って視線をそちらへと向け…俺は絶句する。
 
 「…え…?」
 
 そこには文字通り何も無かった。本来あるべき腕がぱったりと消えている。まるであった事の方が夢であったように跡形も無く。訳が分からないソレに頭を抱えたくなるが、軋む身体はそれさえも許してくれなかった。まるで寝たきりの老人のように腕が持ち上がらず、足も僅かに感覚が残っているだけである。
 
 「…な…んで…俺…腕…ぇ」
 
 困惑を声一杯滲ませた俺に思いの外、優しい視線が向けられた。勿論、相手はベルだ。他に誰もいないのだから当然だろう。だが、何度も言うように俺はそんな視線を向けられるようなことは一度だってしていない。それに困惑を強めるが、それに対して何かを出来る訳もなく…子供のように優しく身体を抱き起こされた。
 
 「ちゃんと説明してあげるから今は水を飲みな。ただ…身体が驚くかもしれないからゆっくりとね」
 
 その言葉と共に俺の唇にそっと冷たいコップが押し当てられる。そのままゆっくりと傾けられたコップから、俺の口に生温い水が流れ込んできた。それをまるで久しぶりに受け入れるかのように俺の咽喉が蠢き、ゆっくりと嚥下していく。渇ききった咽喉に生温い感覚が通り抜けるのが妙に優しい。それをもっと味わおうと俺の首はそっと傾き、ゴクゴクと咽喉を鳴らした。
 
 「はい。良く出来たね」
 
 飲みきったコップをそっと離しながら、相変わらず優しく言ってくれる。だが、それが妙に落ち着かない。別に苛めて欲しがるような趣味など無いが、俺の知るベルとの関係はこんなものじゃなかったはずだ。それなのに、妙に優しいその様子にどうにも違和感を拭いきれない。
 
 「じゃあ…何から聞きたい?」
 「…とりあえず俺がどうなったか…だ」
 
 外から差し込むあの赤い光――分厚いカーテンを射抜くような強い光も気になるが、それよりも俺の今の状況の方が大事だろう。そう考えての選択だったが、それはベルにとってはお見通しであったらしい。にこりと一つ笑みを浮かべて、口を開いた。
 
 「そうだね。アンタは倒れたところまでは覚えてるかい?」
 「あぁ」
 「じゃあ、そこからだね。…アンタと一緒に投げ出されたアタシはびっくりしたさ。今まで普通に歩いてた奴がいきなり倒れたんだから。それで、悪態吐きながら立ち上がったら、アンタの右腕が真っ赤に染まってるじゃないか。明らかに命に関わるレベルの出血だったんで、アタシは麓までアンタを担いで降り立って訳さ」
 「…色々と聞きたいことはあるが…続けてくれ」
 「それで医者に見せたら、匙を投げられてね。腕は壊死してて、魔術でも治せない。そもそも出血が激しい上に輸血出来る血液も移転の準備で残ってないと来た。それにアタシは怒ってね。使うのならアタシの血を使えって啖呵を切ったのさ。それで諦めた医者がアンタの手当てを始めて…何とか腕を切り落とす事で生き残れたって所だね。ただ、意識はずっと戻らないままで今はもう倒れた日から二週間経ってるけれど」
 「……そう…か」
 
 色々と突っ込みたい所があるが、とりあえずの経緯は分かった。ならば、今度はその突っ込みたい所を突っ込んでいくべきだろう。何せ今のベルはまるで別人だと思うくらい俺に優しい一瞥をくれるのだ。その理由の一端くらいは掴めなければ安心も何もできない。
 
 「とりあえず…どうして俺を助けたんだ?放っておいても良かっただろうに」
 「そりゃあ…アタシはアンタに対して怒ってたけどね。でも…別に憎んでいた訳じゃない。それに何よりアタシが着けた傷で倒れたって言うのに見殺しにするってのも夢見が悪いじゃないか。だから、最初は命だけは助けてやろうと思って運んだつもりだったんだけどね」
 「ふむ…」
 
 それは以前のベルの様子から察するにそれほど的外れな答えではない。確かに彼女ははっきりと俺に対して怒っていたが、別に憎悪していた訳ではないのだ。戦いの最中こそ本気で命を取りに来ているような斬撃こそあったが、アレも手加減が効かなかっただけなのだろう。その証拠に俺の背中で起きてからの彼女は俺に危害を加えなかった。その気になれば絞め殺す事も可能だったのにも関わらず、である。
 
 「…で、魔物娘の血液って輸血に使えたのか…?」
 「さぁ?」
 「おい」
 
 軽い様子で首を傾げる彼女に思わずすごむように言ってしまう。何せ俺にとってはかなりの死活問題なのだ。魔物娘の中には唾液から男をインキュバスにするタイプも存在する。サラマンダーは確かそうではなかったが、その血に魔力が籠もっているのは確かだろう。そんなものを輸血されればインキュバスになっている可能性だって否定できないのだ。
 
 「いや…アタシだって別に全部見てたわけじゃないから分からないさ。血は確かに抜かれたけどね。それが今、アンタの身体に流れているかまでは保障しかねるって所さ」
 「あぁ…なるほど…」
 「まぁ、アタシは自分の血がアンタに流れてるって信じてるけどね」
 
 確かに俺の横に寝転んだベルから直接、血液を抜いて俺の身体に入れた訳ではあるまい。まぁ、医者だって変に嘘を吐く必要は無いのだから、血液が無かったのは本当だったろうし…彼女の血が俺の身体を今も巡っている可能性は高いだろう。
 
 「それじゃあ…なんで俺を看病してるんだ…?」
 「人手が足りなかったからさ。と言ってもアタシも最初はここまで深入りするつもりはなかったんだけどね…」
 
 そこで言葉を区切ってベルはそっと窓を見つめた。傍目にも分かるくらい分厚いカーテンに仕切られているはずのそこからは、抑えきれない赤の光が入り込んでいる。本能的な恐怖さえ感じた強すぎる赤は、もしかしたら――。
 
 「最初は一日二日程度看病して義理を果たしたら帰るつもりだったんだけど…ね。アンタが倒れた次の日に噴火が始まってさ」
 「そうか…」
 
 やはりこの赤は今も活発に蠢く火山の光なのだろう。そう思うと本能的に感じたあの恐怖も良く分かる。俺は噴火の瞬間になど出会った事は無いが、あの赤を見ているだけで生きた心地がしなかったのだから。
 
 「それで元々居た場所も避難が始まって…とは言え、噴火が始まった中、寝たきりの重病人を運んでいる余裕なんて普通の人間にある訳が無いじゃないか。結局、アタシがアンタを担いで避難所まで運んだって訳さ」
 「ってことは…ここは…避難所の…」
 「そう。お察しの通りここら周辺にあった町を一纏めにした避難場所。その仮設医療所さ。そして、手が空いてたアタシは四方八方から運ばれてくる病人や怪我人なんかを無理矢理、看病させられてね…その中にはアンタも含まれてたって事だよ」
 
 きっと根がお人好しの彼女は病人の相手を断れなかったのだろう。ズルズルと流されるまま看病していた姿が何となく脳裏に浮かんだ。けれど…今回ばかりはそれが悪い方向に転んだのだろう。何せ…死ぬ決意をしていたはずのベルに死ぬ余裕さえ与えなかったのだから。何とも運の悪い…いや、運の良い話なのかもしれないが。
 
 ―神様って奴がいるなら…今回ばかりは感謝してやるよ。
 
 閉じた世界に篭りきりであったベルに広い世界を見て回る機会を与えてくれた。親を殺された時点でずっと止まっていた時計を進める時間をくれた。もし、それが神の所業であるというのであれば、その神を信仰しても良いとさえ思う。まぁ…間接的に親の仇である教団はやっぱり憎いし、そもそも魔物娘を滅ぼそうとしているという主神がサラマンダーの彼女を助けようとは思わないだろうが。
 
 「…それで噴火は…?」
 「そろそろ収まりかけてる…って所かな。降って来る鬱陶しい灰も大分、ましになったよ。とは言え…吹き出たマグマはまだまだ熱いまんまだけれどね」
 「そうか…」
 
 少なくとも小康状態には陥っているらしい。ならば、もう火山弾の恐怖はもう無いだろう。俺の記憶が正しければ、教えられた避難所は火山からかなりの距離を離れて高台に位置する筈だ。どれだけ激しいマグマもここまではやってはこまい。となれば、恐らくはもう安心だ。火山灰が落ち着けば、普段どおりとは行かないまでも普通の生活が出来るだろう。
 
 「……で、どうするつもりなんだ…?」
 
 死に場所と家を失わせてしまった彼女にそう尋ねると、困ったように笑った。多分、どうするかまでは決めていないのだろう。今まで流されてきたのだから当然だ。けれども、俺は自分の責任として彼女から恨み言一つでも聞いておきたい。そう思って、答えを待つように彼女の目を見つめた。
 
 「…アタシはさ。ここで色んな人を看病してきたんだけれど…人ってあっさり死ぬんだよね」
 「…………」
 
 独白のように始まったそれに何も言えない。何せ俺もまた冒険者と言う、その死に近い人間なのだから。村の中で平和に暮らしていた時には考えられないくらいあっさり人が死ぬ光景は常に目の当たりにしてきた。そして…しみじみとした言葉から察するにきっと彼女もそれ相応の地獄を見てきたのだろう。それは何処か遠い方を見つめるその目を見れば分かる。
 
 「アタシが降りた麓の町は前々から準備してたみたいだから怪我人くらいだったんだけど…離れた村とかはまったく対策していなかったりしてね…マグマに飲み込まれたり、降ってきた岩に押しつぶされたりしたみたい」
 「…そうか」
 
 その光景は想像するしかないが、何となく分かる。目の前に危険が確実に迫っている人間はある程度、対処しようとするだろう。それで確実に助かるとは言えないが、今回は町長の指示で辺りの村や町と提携して避難所が作られ、そこに避難する事が出来た。だが、その危険から少し離れて巻き込まれる「かもしれない」と言う位置であればどうだろうか。少なくとも俺が居たあの麓の町ほど必死に対策はしないだろう。それが結果として…普段、中々、見ない天災の力を見誤った事になり、重症の人間を多数、生み出した。
 
 「アンタがまだマシって思えるレベルの重症な人とかバンバン運び込まれてきてね…それはもう発狂するかと思ったくらいさ」
 
 ふと俺の向こうを見つめる彼女の視線に追従して左側を向いた。しかし、そこには誰かが居る気配が無い。目が覚めてから軽く混乱し続けていたので気付かなかったが、ここは病室で仕切りの向こうには誰かが居てもおかしくはないのだ。今の今まで俺はベル以外の気配を感じたことが無い。俺の感が鈍っているという可能性も否定できないが…多分、俺と同じ病室に居た人たちは――。
 
 「そんな人たちの手当てや…死んでいる所を見てさ。死にたくないって呟く人の姿や…親兄弟を無くして茫然自失としてる人たちを慰めていたらさ…アタシは死にたかったんですなんて言えないだろ」
 
 何処か悲しげな笑みを浮かべるのはその時の光景を思い浮かべているからか。恐らく面倒見の良い彼女は必死になって人々の看病をしていたのだろう。けれど、それは必ずしも報われるとは限らない。いや…この静かな病室を省みるにその殆どが報われなかったのだろう。
 
 「それに…もうトト様の墓もカカ様の墓も皆、マグマの下さ。…それに追従して死ぬのもなんか違うって思ってね…」
 「…そうか」
 「と言っても、アンタを許したつもりはないよ。アンタの我侭でアタシが迷惑を被ったのは事実なんだ。…でも、アンタは片腕を失った。償いとしちゃそれで十分すぎるくらいさ」
 
 何処か冗談めいた色を含めているが…多分、それは彼女の本心なのだろう。俺は決して許されたわけではない。しかし、彼女がその償いが終わったと考えてくれている。だからこそ…俺が意識を失う寸前のように敵意を向けてきたりはしないのだろう。最初はあの優しい表情に戸惑いこそしたが…アレが彼女の本当の表情なのかもしれない。
 
 ―だけど……。
 
 彼女は償いが終わったと言ってくれているが、俺はそうは思えない。何せ…俺の我侭で彼女を巻き込んだのは否定出来ない事実なのだから。しかし、現実、俺が何か彼女に出来る事は無い。ベルを倒す為に仕入れた薬に殆どの金をつぎ込んだし、利き腕を失った俺に出来る事なんて数えるほどしかないだろう。寧ろ…今まで意識を失っていた俺が彼女にかけた迷惑の方がよっぽど大きい。
 
 「…悪い」
 「何さ。いきなり」
 「いや……その…」
 
 しかし、それをどうにも上手く口にする事が出来ない。謝らなければと分かっているのに、上手く自分の気持ちを表現できないのだ。元々、俺は学の無い人間だから仕方ないかもしれないが、片腕と言う状況と相まってやけに情けなさを感じてしまう。
 
 「アンタの我侭の件ならもう償いは終わったって言ってるだろ。それに…アタシに喧嘩売ってまで貫いた我侭なんだ。今更、謝るんじゃないよ」
 
 そんな俺に向かってベルが助け舟を出してくれるが…今の俺に気持ちからは少しだけズレている。勿論、それも重要だ。俺の自己満足の為に彼女を巻き込んだのも本来は謝らなければならない事である。だが…それよりも俺は…今のこの状況の方に謝りたくて――。
 
 「あーーー!もう!!うじうじしてるんじゃない!!」
 「う、うわっ!!」
 
 言葉が出てこずに思考が渦を巻いている俺の頭をぐしゃっとベルが崩した。それは撫でるなんて優しいものじゃない。わしゃわしゃと髪を散らかすような乱暴なモノである。だけど、彼女の手がとても暖かいからだろうか。妙に心が安心して、じんわりと暖かくなる。撫でられるだけで機嫌を直すなんて子供のようじゃないかと思うものの、未だ重い俺の身体はそれを払いのけてはくれなかった。
 
 「アンタは仮にもアタシに勝った男だよ?それがそんな風にうじうじしててどうするんだい!!」
 「いや…でも、それは…毒に頼った結果で…」
 
 実際、毒が無ければ勝負にもならなかっただろう。いや、毒があっても効くのがもう少し遅ければ俺の命は無かったかもしれない。そんな薄氷の上を歩くような勝利だったのだ。勝ったと言われても、正直に受け止めることは出来ない。
 
 「毒を持ってるからって言ってサラマンダー相手に喧嘩を売る馬鹿が何処に居るって言うんだ。アンタは馬鹿も馬鹿。大馬鹿なんだよ。だから、下手に考えるんじゃない。馬鹿みたいに胸張ってれば良いんだ」
 
 そんな風に言いながらわしゃわしゃと俺の頭を撫でるベルに悪い感情は見られない。寧ろ見ているだけで暖かくなるような眩しい笑顔を浮かべている。それに少しだけ元気付けられて、俺は釣られるようにそっと笑った。
 
 「それって慰めてるのかよ」
 「あ?アタシがアンタを慰めるって?馬鹿お言いで無いよ。別に仕返しをしようだなんて考えてないけれど、アンタのした事を許したわけじゃないんだからね」
 
 そう言い放ちつつも、ベルの笑顔は崩れない。多分だが…口ほど許していないわけではないのだろう。そもそも…本当に許していなければ俺の看病なんてしちゃいない。まぁ…何だかんだで彼女は優しい性根をしているようだから、ただ見捨てられなかっただけと言う可能性もあるが…それは余り考慮しなくて良いだろう。何せ…俺の意識が戻った時に彼女は俺の脇で眠っていたのだ。本当に許していない相手の脇で無防備に寝るのは余り考えられない。
 
 「…有り難う」
 
 ―感謝の言葉は思ったより素直に出た。
 
 謝罪の言葉よりもあっさりと出たそれにベルの笑顔はまたさらに暖かくなった。それはずっと何処か諦めた表情を浮かべていたあのサラマンダーとは同一人物だとは思えないくらいである。両親の思い出の染み付いた小屋の中で世界から引きこもるようにして生活していたベルから、そんな表情を引き出したと言う事が妙に嬉しい。勿論、俺の取った方法は決して褒められたものじゃないけれど、その選択を後悔しない程度には俺の心は浮き上がった。
 
 「これは借りだからね。何時か返しておくれよ」
 「…あぁ。善処する」
 
 そんな風に言葉を交わした瞬間、ずっと俺の身体に眠気が圧し掛かってきた。彼女の言葉が正しければかなりの日数を寝たままに過ごしてきたというのに、まだ睡眠を欲す自分の身体に呆れそうになってしまう。しかし、幾ら呆れたところで湧き上がる眠気には逆らえない。目蓋もゆっくりと閉じるように下がっていき…俺の思考がまた愚鈍なものへと変わって行く。
 
 「…悪い…また…寝るわ…」
 「ん。ゆっくりお休み」
 
 思いの外優しい言葉に俺はそっと瞳を閉じる。そして、視界が閉じた瞬間、一気に身体中の眠気が牙を剥き…俺の意識は再び闇の中に囚われたのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11/04/27 17:25更新 / デュラハンの婿
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