連載小説
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中編
 「…やばい…これは死ぬかもしれない」
 
 そう呟いたのははっきりと近づく死の予感を感じているからだ。いや…それはもはや予感とは言えないだろう。確定したそれは足音と形容した方が的確かもしれない。
 
 「……ここで…終わりか…」
 
 何だかんだでどんな時だって生き残ってきた。ソレは勿論、常に何かを犠牲にしての事であったが…今回ばかりは相手が悪い。何せ…人間が決して勝てないであろう最強の敵なのだから。どうあがいても…今の俺になす術は無い。
 
 「…腹減ったな…」
 
 ―そう。人類最強の敵『飢え』。
 
 ぐぅぅっとなる腹に手を当てれば、胃の辺りがぐるぐると蠢いているのを感じた。一週間近く、食べ物らしい食べ物を一つも入れていないそこは胃酸で焼きつくような熱ささえある。まるで食べ物を催促するような熱さと蠢きではあるが…俺にだってどうする事も出来ないのだ。
 
 ―何せ…俺には『飢え』だけでなく『金が無い』という最悪の敵まで憑いているのだから。
 
 財布も開けても一回の食事さえままならないような小銭しかなかった。倒れた時の医療費は待ってもらっているので、別にあの病院でケツの毛まで毟られた訳じゃない。もっと別な…詰まる所、仕事的な問題だ。
 
 「…はぁ……」
 
 そんな風に溜め息を吐くのは本日、十一件目の求人を門前払いされたからだ。今のこの避難所で一番必要とされているのは男手である。そこらの村から人が避難してきて一気に膨れ上がった人口を養う為にも、彼らの小屋なんかを作るのが必須なのだから。それには屈強な男がどれだけ居ても足りないくらいだ。勿論、俺は身体はしっかり鍛えている。だが…今の俺には片腕が足りないのだ。
 
 ―…やれやれ…こんな事なら冒険者を続けてれば良かったかな…。
 
 流石にもう片腕では冒険者はやってられない。そう判断して、ここに腰を落ち着かせるつもりであったが…どうやらここに俺の居場所は無かったらしい。当たり前だが学の無い俺が肉体労働以外に出来る仕事など無いのだ。しかし、その肉体労働も片腕が無い所為や、前の経歴が冒険者であり何をしていたかまるで分からないという理由で跳ねられてしまう。
 
 ―まぁ…それも当然だよなぁ…。
 
 ただでさえここ最近、一気に人口が増えて諍いが多くなってきたのだ。街角で演説してるあの町長の話だと全員を養うのに十分な食料を確保しているらしいが、人はパンだけで生きるにあらず、とも言う。大災害の後で荒んだ人々はあちこちで衝突を繰り返している。特に後からやってきた避難民は身のみ着のままであることもあり、その食料を配給に大きく頼っている状態だ。この避難所の基となった町から避難してきた住民は今も貨幣で食糧を買っている為、どうしても不満が噴出する。その摩擦は小さな衝突を生む程度で大規模なものに発展してはいないが、このまま放置すれば大きな火種にもなりかねない。
 
 ―そんな状況で完全に外からやってきた元冒険者を信頼できるかって言ったら…否だよなぁ…。
 
 しかも、出来る事が制限される片腕と来ている。それで雇おうと考える方が異常だろう。その感情は俺にも理解できた。しかし…理解した所で俺の腹が膨れる訳じゃない。またくぅぅっと一鳴きした腹を押さえて、小さく溜め息を吐いた。
 
 ―まだ…売るものはあるといえばあるんだがなぁ…。
 
 ベルから押し付けられた数種の武具。それはまだ俺の手元に残っている。見事な意匠と素人目にも分かる素材の良さから、これを売れば一財産くらいは出来るはずだ。だが…これはベルから預かった大事な遺品なのである。それを売るような下種な行為は、流石の俺にも出来なかった。
 
 「…となると八方塞な訳で…」
 
 自分を取り巻く状況を確認すると、あまりの詰みっぷりに笑えてくる。金は無い仕事は無いプライドは売れない。無い無い尽くし過ぎて、どの方向にも進めないのだから。このまま飢えの中で死んでいくのが、俺の運命なのだろう。
 
 ―まぁ…それも悪くないか…。
 
 冒険者と言う因果な商売をしてきていたのだ。ずっと死に対する覚悟と言うものはしてきた。流石に街中で餓死するというのは予想していなかったものの、今まで多くの人間を見捨てて裏切ってきた俺の最期には相応しいものだろう。そう思うと、こうやって必死で働き口を探しているのが馬鹿のような気がした。
 
 「…まぁ、良いか…」
 
 ぽつりと呟いたのは完全に心が折れた証なのだろう。両親がくれた命と言う事も忘れて、俺はその場にそっと座り込んだ。辺りは広く開けていて、まるで公園のようになっている。もう日が落ちている時間だというのに、子供がはしゃいでボールを蹴るような音がする辺り、開拓された場所を子供が遊び場にして使っているのだろう。無邪気な声が妙に耳に障る反面、少しだけ羨ましい気がした。何せ俺はそんな風に無邪気に遊んでいた記憶と言うのが殆ど残っていないのだから。
 
 ―…っと……それよりも…此処で死ぬわけにはいかないな…。
 
 ここで死んでしまうと俺の死体を子供の目に触れさせることになる。大災害の最中はここも多くの死に溢れていたが、子供の目に触れるような場所では殆ど無かっただろう。そんな子供達に死体と言うのは少々、刺激が強すぎる。幾ら俺が下種とは言え、死んでからも人様に迷惑を掛けるような趣味は無い。せめて人目につかない場所に行こうと腰に力を入れた。
 
 ―…あれ…?
 
 だが、一度、折れてしまった心に従った俺の身体はまるで立ち上がってはくれない。鉛のようにずっしりと重く指一本すら動かす力が湧いてこなかった。それどころか重い身体に従うように、別に死んだ後の事まで気にしても仕方ないじゃないかと諦めにも似た気持ちが顔を出す。
 
 「…やれやれ…」
 
 弱気な感情にあっさりと飲み込まれ、俺の心は立ち上がるのさえ諦めてしまった。そんな流されやすい自分に対する自嘲が浮かび上がってくるが、それもすぐに消えていってしまうだろう。そう思うと少しだけ悲しい気がするが…かといって俺に何か出来る訳が無い。寧ろ俺は頑張った方だと考えを閉ざし、現実から逃げるようにして俺はそっと目を閉じた。
 
 ―…風が気持ち良いな…。
 
 勿論、火山に近いこの避難所はかなり暑い。少し北に上がれば天と地ほど快適さが違うだろう。だが、そんな気候にも俺はもう慣れてしまった。元々、砂漠暮らしだったこともあり、暑さに強いというのもあったのだろう。日が落ちて大分、気温が下がっているのもあり、べったりと張り付くような湿気の無い風であれば心地良さを感じる事が出来るのだ。
 
 ―…ん?
 
 けれど、そんな風の中に小さな靴音が聞こえる。きゃっきゃと無邪気に遊ぶ子供達とは別方向から俺に近づいてくるようなそれに俺は閉じた目蓋をそっと開いた。
 
 「…アンタ、何をしてるんだい?」
 「…ベル」
 
 訝しげに俺の顔を覗き込む相手はこの避難所ではもっとも見知ったサラマンダーのベルだった。勿論、暑い場所に暮らしているだけあって何時も通りの下着をヒモで繋いだような魅惑的な格好である。しかし、それに胸をときめかせる余力さえ俺には残っておらず、誤魔化すようにそっと微笑んだ。
 
 「なんでもねぇよ」
 
 ―ここでベルに助けを求めれば、命は繋げるかも知れない。
 
 だけど、俺はただでさえ彼女に迷惑を掛け続けているのだ。火山から無理矢理引き摺り下ろしたのもそうだし――無論、それについてはもう後悔はしていないが――看病をさせていたのも勿論、含まれるだろう。最近はそういう手間だけでなく、請求された医療費の肩代わりまでしてもらっている。本人は自分でさせた怪我だから気にするな、と言ってくれているが、元々、俺が売った喧嘩であるし、気にしないわけにもいかない。
 
 ―そんな俺が…これ以上、ベルに迷惑を掛けられるかよ。
 
 他の誰かであれば話は別だったのかもしれない。けれど、ベルにはどうしてもそんな気持ちが先立って、助けを求められなかった。そんな風に強がってられる状況ではないと言うのは勿論、分かっているが、彼女に対してはどうしても意地のような気持ちが顔を出してしまう。
 
 「なんでもないって…そんなやつれた顔で言っても説得力は無いよ。アンタ…ちゃんと食べてるのかい?」
 「大丈夫。食ってるよ…」
 
 誤魔化そうとはっきり言ったが、どうやら説得力は無かったらしい。ベルの疑わしそうな表情は変わらず、俺を覗き込んできていた。いや、寧ろ俺の嘘を見抜こうとしているかのようにずいずいと近寄ってきている。爛々と輝く炎のような瞳から逃げようと足に力を入れるが、力尽きた俺の身体は少しも動く様子は無かった。
 
 「吐くならもう少しマシな嘘を吐くんだね」
 「う…」
 
 動こうにも動けない様子を見抜かれたのだろう。呆れた様子を前面に出してベルにそう言われた。それを否定しようと頭の中で必死に思考を回そうとするが、糖分の足りない今の俺では単純なベルを騙せる答え一つ出てこない。まるで誰にもかみ合わない歯車のようにくるくると空回るだけだ。
 
 「とりあえず家に来な。どうせ行く場所も無いんだろ?」
 「いや…でも…」
 
 これ以上は迷惑は掛けたくない。そんな風に尻込みする俺の腕を俺よりも遥かに強靭な彼女の腕が掴んだ。そのままぐいっと一気に引っ張られて、無理矢理立たせられる。しかし、俺の脚にはもう力が入らず、そのままストンと腰をその場に落としてしまった。
 
 「…思ったより重症だねコレは」
 「いや…ちょ、ちょっと腰が抜けてるだけだから…気にするなって」
 「何度も言うけど、その顔で言っても説得力が無いよ。…仕方ないね」
 
 俺の反論を一刀両断にしつつ、ベルの両腕が俺の腕を掴んだ。そして、一本背負いをするようにその腕を持ち上げる。そのまま自分の首に押し当てるようにしながら、一気に俺の身体を負ぶさった。彼女の背中に燃える炎に密着し、一瞬、身体が燃えるのではないかと身構えたが、まるで熱くは無い。それに小さく安堵した瞬間、俺は今の状況を思い出して一気に心を乱した。
 
 「い、いや…ちょ…おま…!!」
 「危ないから暴れるんじゃないよ。バランスを崩したらアンタだって痛い目を見るんだからね」
 
 慌てる俺とは裏腹にベルは子供に言い聞かせるような言葉を放った。だけど、これで暴れないと言うのは中々、難易度が高い行為ではないだろうか。何せ俺の身体は俺よりも一回り小さい彼女に負ぶさられているのだ。それがどれだけ人の目を引くかベルは分かっていないのだろうか。
 
 「アタシだって恥ずかしいんだ。だから、おアイコさ」
 「おアイコってお前…」
 
 どうやら流石にそこまで鈍感じゃなかったらしい。とは言え、恥ずかしいといいつつも、後ろから見れる範囲ではまるで朱が差していなかった。彼女が嘘を吐くとは思えないからある程度の羞恥を感じているのは事実なのだろう。だが、それは少なくとも表に出るようなレベルではないのは確かだ。
 
 「あー!あの男の人、大人なのにおんぶされてるーーー!!」
 「恥ずかしー」
 「いやらしー」
 「こりぶりー」
 
 ーあのガキどもは何時か殴る。
 
 さっきの羨ましいような感情は何処へいったのやら。女に負ぶさってもらっているという今の情けない俺は羞恥心が先行し過ぎて、本来持つべき大人の余裕と言うやつが全く無かった。子供のからかう声でさえその心をざわめかせて怒りの感情を抱いてしまう。そんな自分を大人気ないと思う余裕はあるものの、冷静になれるはずも無い今のシチュエーションでは感情を抑えることが出来ない。
 
 ―…っていうか、コレは明らかに俺の方が恥ずかしいと思うんだが…。
 
 そこそこでかい図体をしながら女に負ぶさられている俺の方へと視線は集中している。その殆どが何をしているか、と言わんばかりに悲しいものだ。逆にベルの方へと注がれるのは同情の色が強い。本来は別の立場であるはずなのだから、それらの視線も当然だろう。まぁ…当然であると理解する事と俺の羞恥心とはなんの関係もない訳だが。
 
 「も、もう歩けるから!!もう歩けるから離してくれ…!!」
 「どうせまた強がってるんだろ。顔を見なくても分かるよ」
 
 あまりの羞恥心にそう叫ぶが、彼女はまるで取り合ってはくれない。それどころか俺を逃がさないようにぎゅっと太股を押し上げる腕に力を込めた。人間なんぞより遥かに力強いサラマンダーにそうやって力を込められれば、下手に暴れても無意味だろう。こんな事ならば、最初から変に強がらなければ良かった。そんな風に思いながら、俺は黙って運ばれ続けた。
 
 「さぁ、着いたよ」
 
 そんな恥ずかしい状態で過ごすこと十分ほど。周りの視線を独り占めにし続けてきた俺達がたどり着いたのは仮設住宅の区域だった。豊富にある森林から切り出したのだろう木材で、仮組みされているそれらは素人目で見てもしっかりとしている。かなりの腕の職人が作ったのだろう。同じような建物が立ち並ぶその区域は殆どが均一で、殆ど歪みが見えない。
 
 「っと、それじゃあ鍵を開けるから…しっかり捕まっておくれよ」
 「うぅ…」
 
 しかし、その区域も人がいない訳ではない。寧ろ夕方過ぎと言う時間だけあって、子供が辺りを走り回っていたりするのだ。そして、勿論、それらの視線は俺達に注がれている。少し視線を横に向ければひそひそとこちらを見ながら噂話をする奥様方と目が合った。…きっとある事ない事、囁かれているのだろう。そう思うとただでさえ陰鬱な気分がさらに落ち込んだ。
 
 「よっと…それじゃあ中に入るから頭をぶつけないようにね」
 「もうどうにでもしてくれ…」
 
 投げやりな気分のまま彼女に従い、俺達はそっと扉を潜った。仮組みのまま放置されていた外形とは裏腹に中はすっきりと整頓されている。てっきりベッドだけの簡素な部屋かと思いきや、リビング兼キッチンには扉が二つ着いていた。入り口の近い側には簡素ではあるが、ルーンを刻まれたキッチンが設置されていて料理も出来るようである。
 
 「…おぉ…」
 
 それはもはや仮設住居なんて呼べないような立派な内装だろう。都会にある鮨詰めのような安宿に比べればまるで天国だ。こんなのが後、何百軒も並んでいると考えるとその手間暇や資金がどれだけ掛かったのか素人の俺には想像も出来ない。本当に町長は町を上げて、この避難所を作ったのだろう。それほどの入れ込みようが仮設住宅一つから見て取れた。
 
 「待ってな。今、昨日のシチューを温めるから」
 
 そんな風に感動する俺をそっと椅子に降ろして、ベルはすぐ前のキッチンへと足を進めた。途中、そっと壁のルーンに触れて明るい照明が灯る。夕方の薄暗い光からはっきりとした証明に変わったキッチンを見渡すと、一つの鍋が置かれていた。恐らく、それが彼女の言うシチューなのだろう。嗅覚に気を割けば部屋の中には彼女の匂い以外に甘いミルクのような香りが漂っている。それがまた俺の食欲を刺激し、口の中に唾液を溢れさせた。
 
 ―そう言えば…以前食べたベルのシチューは美味しかったよな…。
 
 初めて出会った時に戦った侘びとして、彼女から振舞われたシチューは本当に絶品だった。彼女の外見からは想像もできないような繊細な味付けで、酒場なんかの乱暴な味付けが殆どであった俺は強く感動したのを覚えている。流石に何度もお代わり出来る様な心情ではなかったので余り味自体は覚えては居ないがその瞬間の感動を呼び起こされ、俺の腹はまたぐぅぅぅっと唸った。
 
 「あはは。やっぱり腹が減ってたんじゃないか。待ってな。すぐアタシ特製のシチューを食べさせてやるからね」
 
 快活なその声を受けて、俺の顔は真っ赤に染まった。何せ今の今までずっと否定してきた事が嘘だとバレてしまったのだから。勿論、彼女は俺の言葉が嘘だと見抜いていたわけだけれど、男として意地を張って吐いた嘘がバレるのはやっぱりどうしても恥ずかしいのだ。
 
 「ふーふふーん♪」
 
 唐突に鼻歌を歌いだしたベルの背中をそっと見つめる。まるで下着だけのような刺激的な格好をしている彼女は後ろも大きく肌を露出させているのだ。簡素な防具と鱗を除けばブラのヒモくらいしか俺の視界には残らない。勿論、パンツも履いているのだが、燃える尻尾が揺れていて、お尻までは視界に入らないのだ。それが何処か残念な反面、ゆらゆらと上機嫌に揺れる尻尾が妙に可愛らしい。
 
 「っと…そろそろかな。お皿は…これで良いか」
 
 一人暮らしが長かったからだろうか。独り言を呟きながら炎を消し、彼女の手がそっと棚から皿を二つ取った。どうやら彼女もまたお昼を食べていなかったらしい。少なくとも食事中にずっと顔を見つめられているようなシチュエーションは回避できたらしい。それに小さく安堵の溜め息を吐いた俺の目の前で、ベルは手際よく二つの皿にシチューを盛り付けていく。その度にそっと湧き上がった湯気が部屋中に甘いシチューの匂いを広げて、俺の咽喉をゴクリと鳴らした。
 
 「はい。待たせたね」
 「お、おう…有り難う…」
 
 そんなやり取りと共に俺の目の前にそっとシチューが置かれる。どろりとした乳白色の液体の中に鶏肉やニンジン、ジャガイモ、ブロッコリーなど多種多様の野菜が見え隠れしていた。その一つ一つでさえ咽喉から手が出る程欲していた俺はもう我慢できずに、一気にそれに食いついてしまう。
 
 「あぁ…もう…急いで食べると大変だよ」
 
 呆れたように言うベルの言葉も俺の耳には入らなかった。何せ俺の思考は目の前の美味しいシチューにその大半を割かれていたのだから。甘くて芳醇で野菜の旨味がたっぷりと詰まったシチューは一口で天にも昇りそうなほど美味しい。ここ一週間ほど何も食べていなかったから、と言うのは勿論あるだろうが、その期待を裏切らないだけの美味しさが彼女のシチューにはあった。
 
 ―…美味い…っ美味い…!!!
 
 一週間ぶりに口の中に転がる野菜の味と歯ごたえを噛み締めるように味わう。しかし、野菜の味とはこんなに優しいものだっただろうか。とろとろになるまで煮込んだミルクの甘さとはこんなに身体の芯に染み入るようなものだっただろうか。しっかりと暖められた料理とはこんなに心を暖かくしてくれるものだっただろうか。一噛み一噛み毎に帰ってくる歯ごたえはこれほどまでに甘美な感覚だっただろうか。それらは一週間ぶりどころか今までの一生を振り返っても類を見ないほど美味しい。余りに美味しすぎて焦る気持ちだけが先行し、不慣れな俺の左腕が上手くスプーンで掬う事が出来ないくらいだ。
 
 「んぐっ!!」
 
 しかし、そんな甘美なそれもいきなり湧き上がる吐き気に中断されてしまう。思わず口を押さえて堪えたが、後から後から湧き上がるそれは俺の最高の瞬間を邪魔をしていた。どうしたのかと自分の身体に意識を向けると、胃がびくびくと痙攣し、胃液を溢れんばかりに吐き出している。シチューとは別の不快な熱が広がる感覚に、俺は強い苛立ちを覚えた。
 
 「ほら、言わんこっちゃ無い。まずは水を飲みな。それからゆっくりと身体に教えるように食べるんだよ」
 「んぐ……んぐっ…!ごくっ…!!」
 
 呆れるように言いながらも、ベルはコップに水を注いでくれた。そして、俺の方へと差し出されたソレを受け取り、一気に咽喉へと流し込む。無理矢理、吐き気を胃の中に押し戻すようなソレに俺の身体もゆっくりとだが落ち着きを取り戻していった。
 
 「…ふぅ…悪い。助かった」
 「別に構わないけどね。アンタは二回目なんだから、ちゃんと学習しなよ」
 
 冗談めかして彼女が言うのは病院で久しぶりに食事を食べた時の事を言っているのだろう。意識が無い時は殆ど流動食を流し込まれていただけの俺は、久しぶりに味わう食事に興奮しすぎてこうして吐き気を覚えたのだ。俺としてはその時と今回は色んな意味で別だと主張したいが、原理的には同じなだけに何も言えない。
 
 「まぁ…それだけ美味かったって思ってくれ」
 「おやおや…それは光栄だね。でも、そんなお世辞よりも今は自分の身体を労わりな」
 
 ケラケラと笑いながら、彼女もまたスプーンを動かす。小屋で一緒に食事をしたときもそうだったが、そんななんでもない動作が妙に似合っていた。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に意外と仕草の一つ一つは女らしいからだろうか。少なくとも髪が汚れないように髪を掻き揚げつつスプーンを動かす仕草はぐっと来るものがある。
 
 「…何だい?人の顔をじっと見てさ」
 「あ、いや、悪い」
 
 どんな相手であろうと食べている所をじっと見られて良い気分はしまい。そう分かっている筈なのに、注意されるまで視線を背けられなかったのはそれだけベルが魅力的な女性だからだろう。口調こそガサツなイメージが先行しているが、こうして料理の腕もしっかりしているし、ちょっとした動作が女らしかったりする。元々、美人とはっきりと言えるような美貌をしているので、それらが妙に魅力的に見えてしまうのだ。
 
 ―ギャップ萌えってこういう奴かね…。
 
 少なくとも普段の様子からは全く想像もできない姿に俺が心動かされているのは事実だ。自分でも山ほど迷惑を掛けた相手に見惚れるなんて、現金過ぎると思う。だが、俺の視線は分かっていてもチラチラと様子を伺うように彼女の方へと向かっていくのだ。
 
 「…そんな風に見られると食べ辛いよ」
 「…すまん」
 
 流石にそろそろ我慢の限界だったのだろう。はっきりと俺に向かって言う彼女の声には呆れたような色が強く混じっていた。それに謝りつつ、俺は再びシチューの方へと視線を落とす。未だにほかほかと白い湯気を立ち上らせるそれにスプーンを潜らせ、そっと口の方へと運ぶ。
 
 「ふぅ…ご馳走様」
 
 そんな作業を数度繰り返した後、俺の皿は空になってしまった。一週間ぶりの食事の身体が満足感を覚えている。皿一杯のシチューだけで腹が膨れるなんてついこの間までは想像もできなかったくらいだ。しかし、一週間の間に小さくなった俺の胃はもうこれ以上は食べられないと必死に主張している。
 
 ―まぁ…もう少し食べたくはあるんだけれどな。
 
 白旗を揚げる身体とは裏腹に俺の意識はもう少しこの美味しい料理を味わいたいと言っていた。だが、タダで食事を提供してもらっている身でお代わりなんて頼めるはずがない。それに何より…無理矢理、詰め込んだ所で、衰弱している俺はすぐに吐いてしまうだろう。今日だけでかなりの醜態を見せたものの、これ以上、情けない姿は見せたくない。
 
 「お粗末様。でも、良いのかい?お代わりならまだあるよ」
 「いや…これ以上食べるとまた吐きそうだしな。有り難う」
 「そうかい?まぁ、アンタが良いならアタシは何も言わないけどね」
 
 そんな突き放すような言葉とは裏腹にベルは心配そうな目で俺を見ていた。口調こそぶっきらぼうなままではあるが、何だかんだで心配してくれているのだろう。知り合いと言うだけで俺に食事を提供してくれるくらい彼女は性根が優しいのだから。
 
 「所で…どうしてこうなるまで放っておいたのさ」
 「いや…その…なんだ…」
 
 彼女としてもそれは勿論、気になるところだろう。俺だってベルが行き倒れるようにして飢え死にしかけていれば同じ事を尋ねる。だが、そうと分かっていても、俺の口は中々、言葉を紡いではくれない。どうしても羞恥心やプライドと言ったモノが邪魔をしてくるのだ。
 
 「いや…その仕事が無くてな…」
 
 それでも折角、手料理を振舞ってもらったのだ。無碍には出来ない、とぽつりぽつりと漏らし始める。冒険者であると言う事が大きなハンデになっている事。本来、求められる力仕事も隻腕の所為で難しい事。罵倒を浴びせられる所か門前払いを喰らうことも少なくない事。それらを話している間に、どうにも情けなくなった俺の目からはボロボロと涙が零れた。
 
 「それだったら…預けた武具を売れば良かったじゃないか」
 「そこまでの不義理する程、俺は下種じゃねぇよ」
 
 ぽつりと漏らした彼女の言葉に、涙を拭いながら強い意思を込めて返した。勿論、それを考えなかったと言えば嘘になってしまう。アレだけの装備だ。売ればちょっとした商売も始められるだろう。だが、それでも俺はそれだけはしたくなかった。そんな下種な真似をするくらいならば死んだ方が良い。我侭を貫いて彼女に迷惑を掛けたときのように、俺は根拠も無くそう思っていた。
 
 「でも、死んだらそこで終わりだよ?それは…アンタも良く知ってると思うんだけどね」
 「それは……」
 
 それは勿論、分かっている。彼女には俺の過去を話したことは無いが、死のうとする彼女を連れ出したのは俺なのだ。そんな俺が簡単に死のうとしてるなんてベルからすれば認められないことだろう。その感情には少しばかり苛立ちの色が見え隠れしていた。
 
 「…やっぱりアンタ変わったね」
 「……」
 
 しみじみと呟かれたソレに反論する言葉を俺は持たなかった。変わったと言われても俺が目を覚ましてからもう二週間ちょっとしか経っていない。彼女と別れたのはさらに短く、ほんの一週間と少し前だ。だが、たったそれだけの期間で変わるほど、何かがあったとは思えない。確かに門前払いを食らい続けたというのは正直、かなり辛い経験ではあったが、それだけで何かが変わったと実感できる訳でもないのだ。だが…しみじみと漏らす彼女の言葉は本当に実感が篭っていて、やすやすと否定出来ない強い力を持っている。
 
 ―俺が変わった…ねぇ…。
 
 一体、彼女がどの時点の俺から変わったと言っているのかは分からない。分からないが…彼女がそう言うのであれば多分、間違いではないのだろう。少なくともベルは俺とは違って、無意味な嘘を吐くようなタイプではない。こうして言葉にしたと言う事はそれだけの理由があると考えられるだろう。俺としては実感が無いが…もしかしたら無意識の内に何かしら変わってきているのかもしれない。
 
 「まぁ、良いさ。ともあれ、行く場所が無いんだろ?それなら仕事が決まるまで此処にいなよ」
 「は?」
 
 そんな風に考えに没頭する俺の耳に何か聞き逃しちゃいけない言葉が聞こえる。それに驚いてベルの方を見ると、ニコニコと抑えきれない笑みを浮かべる彼女と目が合った。何故か上機嫌な彼女の姿に違和感を感じながらも、俺は口を開く。
 
 「いやいやいやいや…それは……その、やばいだろ!?」
 「ん?何がやばいんだい?」
 
 どうやら何も気付いていないらしい。いや、そもそも意識さえされていないのか。そう思うと妙に悲しいが、今はそれはどうでもいいだ。重要じゃない。彼女が『それ』の重大な危険性に気付いていないのであれば、俺が言葉にして教えなければいけないのだから。
 
 「いや…だからな。うら若い男女が同じ部屋の中でってのは…拙いだろ」
 
 一生を美しい姿で過ごす魔物娘の年齢を当てるのは本当に難しい。俺からすればまだまだ子供っぽい所を残すベルも多分、俺よりも遥かに年上なのだろう。しかし、だからといってその魅力が減るだなんて事はまるで無いのだ。どれだけ年上であろうと、俺の目の前に居る明るくてさばさばしてる癖に、所々が妙に女っぽいサラマンダーが美人であることに変わりは無い。今は恐れ多くてそんな事をする気は無いが、同棲生活の中で俺がトチ狂わないとは言い切れないだろう。…と言うかまず確実にトチ狂う。自信を持って言うが、俺にはまるで自制心って奴が欠けているのだから。
 
 「何?アンタがアタシを襲うって話かい?」
 
 けれど、深刻に考える俺とは違って、彼女はケラケラと笑っている。まるで、俺が何か冗談でも言ったような反応に内心、むっとした。そりゃ…俺だって男である。男として当然の帰結であろう結論をそんな風に鼻で笑われると良い気はしない。自分でも安っぽいと思うプライドが刺激されて、むっと彼女を睨んだ。
 
 「あ、ごめんよ。別に馬鹿にするつもりは無かったんだ。…でもさ。今のアンタがアタシを襲って勝てると思う?」
 「それは……」
 
 まぁ、まず無理だろう。そもそも前回の勝利だって、薬を使ってギリギリの勝利だったのだ。今の片腕の俺であれば勝負にもならない。前回と同じように彼女に分からないように薬を撒いてみれば話は別かもしれないが…どの道、それには入念な準備が必要になる。つまりそれは衝動的には襲えないって事になり…そして衝動的でないのであれば幾らでも俺が自制する時間があるだろう。
 
 「それにアンタは相手の事を思って申し出を断れるような立場かい?」
 「…う……」
 
 はっきりと核心を突く彼女に返せる言葉が無い。何せ俺は宿すらないその日暮を続けてきたのだ。預かった装備品だけは大事に手元に置いていたが、それも何時までも続けられないだろう。…と言うか、そもそも金がない今の状態では食べ物一つ買えない。今の状態が続くのであればそう遠くない未来に餓死するか、また彼女に頼るかしかないだろう。
 
 「別に悪い条件じゃないと思うんだけどねぇ…炊事洗濯掃除はアタシがやるし、アンタは仕事を探すだけ。見つかったら見つかったで、酒の一つでも奢ってくれればそれでチャラにするよ」
 「むぅ……」
 
 それは破格とも言える条件だろう。一応、冒険者として一人である程度の家事は出来るように仕込まれているが、今の体で満足に出来るとは思えない。それでもやれと言われれば幾らでもやるつもりであるが、仕事を探す時間はなくなってしまうだろう。そして見つかった後に酒でチャラと言うのは余りにも魅力的過ぎる。彼女がどれくらい飲むのかは分からないが、それでも俺と同棲を続けるようなリスクを背負うには小さすぎるリターンだろう。
 
 ―…結局、受けるしかないな。
 
 これだけ破格の条件を出してくれて、プライドを優先するほど俺は意志の強い人間ではない。様々な考えが脳裏に過ぎるがそれら全てを一蹴して、俺はそっと頭を下げた。
 
 「…すまん。頼む」
 「あいよ。まぁ、そんなかしこまらなくて良いから。ここはもうアンタの家でもあるんだし、ゆっくりしていきなよ」
 「そうは言うがな少佐」
 「誰だよ少佐って。まぁ、殆どが支給されたものだから、変な事をして壊さなければ何も言わないよ」
 
 ケラケラと笑う彼女にそれに辺りを見渡すが、支給されたと片付けるにはどれも整っている。さっきまで俺の口にシチューを運んできてくれていた木彫りのスプーンだってそうだ。俺達の体を受け止める椅子やテーブルも簡素ながらしっかりと作りをしているし、支給されたものであるとは思えない。
 
 「しかし、随分、立派だな…」
 「あぁ。魔物娘にも幾らか手伝ってもらったらしいよ。火山地帯だしね。ドワーフ族なんかも麓の町にはかなり逃げ出してきているらしいよ」
 「なるほど…」
 
 そんな気持ちを込めて呟いた疑問が彼女の言葉によって氷解する。確かに火山地帯は地底の底から湧き上がるマグマに流され、鉱石などが豊富と聞く。それを目当てにドワーフ族が多く住んでいても不思議ではない。そして、手先の器用な彼女らの力を借りれば、これくらいの家具ならあっという間に組みあがってもおかしくはないだろう。
 
 「あの町長はかなり昔から噴火に気付いて準備してきたみたいだしね。山にも何度か噴火の事を知らせに来てたよ」
 「あぁ…だから、山の魔物娘も殆どこっちに移住してきたのか」
 
 思い返せばまだ灰の残る町の中をピンク色の髪をしたドワーフを相手に子供達がきゃっきゃと遊んでいる所を見たことがある。殆ど移動しないアルラウネも灰の所為で日光浴が出来ないことに不満な色を浮かべている所も目撃した。他にもゴブリンはホブゴブリンの一団がせっせと資材を運んでいる所に出会ったこともある。他にも思い返せばキリが無いくらい魔物娘たちは、この避難所に根付いていた。
 
 「そう言う事。で、人と魔物娘が手を取り合ってこうして立派な仮設住宅が出来ました…って訳さ」
 
 まるで自慢するように両手を広げる彼女は何を思っているのだろうか。人と魔物娘の愛の結晶であり、両親を『勇者』に奪われた彼女は。それは俺には分からない。きっと世界中の誰だって今の彼女の気持ちを正確に察することは出来ないだろう。だが、嬉しいような、悲しいような、複雑な色を浮かべているのだけは俺にだって分かった。
 
 「それでお前は今や看護師…と」
 「だね。いやぁ…アタシも似合わないと思うんだけどねー」
 
 しかし、その複雑な色もケラケラと笑う笑顔の奥にそっと隠されてしまう。単純なようで実は複雑な一面を持つ彼女は意外と『看護士』と言う職業に向いているのかもしれない。
 
 ―そう。ベルはアレから看護士という職業になった。
 
 流されるままに仕事をしていたとは言え、彼女なりに必死に看病していたのだろう。それが医者の目に留まり、アルバイトと言う形ではあるものの、今は看護士として働いている。俺が仮設病院に居た頃は主に力仕事や看病くらいしかしていなかったが、それでも一生懸命、働いているのが一目で分かる姿だった。
 
 「まぁ、そこそこ楽しんでるよ。人の世話をするってのはどうやらアタシに合ってるみたいだしね」
 
 ―だろうなぁ…。
 
 そうで無ければ俺のような迷惑を掛けっぱなしの奴にまで世話を焼かないだろう。普通は見て見ぬ振りをする。一応、入院代を立て替えてもらっているという繋がりこそあるが、それよりも今までに掛けた迷惑の方がよっぽど大きい。正直、今、ここで殺されても文句は言えないようなことをしてきているだけに、彼女のお人好しという言葉では表せないような優しさが少し怖かったりもする。
 
 「そういや…さっきは帰りだったのか?」
 「そうさ。今日は朝早かったからねぇ。忙しくさえなければこの時間には帰ってこれるさ」
 
 その言葉に時計を見れば何時の間にか時刻は夕方を過ぎて夜に入ろうとしていた。入院していた頃は、俺が起きる七時にはもう出勤していて誰かの世話を焼いていた記憶がある。それに間に合わそうとするならかなり早い時間に起きなくてはいけないだろう。
 
 「…大変だな」
 「まぁ、人の命に関わる仕事だしね。それでも半人前なんだから、早く一人前になんないと」
 
 何時ものケラケラとしたものではなく、優しそうな笑みをそっと浮かべて、ベルは椅子から立ち上がった。その両手に皿を持つ彼女はさっと流し台の上に置いて、そっとルーンに触れた。それに応えるように蛇口から水が溢れる。座ったままの俺からは見えないが、多分、皿を水に浸しているのだろう。だが、それくらいなら俺にでも出来る筈だ。
 
 「洗い物くらい俺がやるっての」
 「そうかい?…それじゃあ悪いけど頼もうか。アタシもそろそろシャワーを浴びたいしね」
 
 そんな風に言葉を交わして、ベルはそっとテーブルの脇を通った。そのままリビングから伸びる扉を開けて別の部屋へと出て行く。彼女の言葉が正しければ、そこはシャワールームに繋がる脱衣所なのだろう。…つまりそれは彼女が俺のすぐ近くで裸になっているって事で――。
 
 ―いやいやいやいや…!流石にその妄想は拙いだろ…!!
 
 何せ俺は彼女の弱みに付け込んだ居候だ。別に聖人君主なつもりはないが、『そう言った衝動』を彼女に向けることだけは止めるべきだろう。…しかし、そう思う俺の脳裏に艶かしく服を脱いでいく彼女の姿が再生されて――。
 
 「ふんふふーんふーん♪ふーんふふーんふーんふーん♪」
 
 ―…気楽に鼻歌まで歌いやがって。
 
 扉のすぐ向こうにいる男がどんな妄想をしているのかも知らず、気楽に鼻歌を歌う姿に脱力してしまう。まぁ…変に俺の事を意識するよりも遥かに『ベル』らしい姿ではあるが…それでも、もうちょっとこう…警戒してくれないとこっちとしても困ってしまうのだ。何せ彼女はかなり魅力的な魔物娘なのだから。
 
 ―…まぁ、とりあえず洗い物を済ませるか。
 
 ここでじっとしていても妄想が加速するだけで何の進展も無い。それなら頼まれた分だけでも先に終わらせておこう。そんな風に結論付けて、俺も椅子を立ち上がった。その瞬間、少しだけふらついたが、ぐっと堪える。少なくとも彼女に食事を提供してもらえたお陰で歩くのに問題ない程度には回復しているようだ。ここで倒れこんだらそれこそ恥ずかしいって言葉じゃ済まないだけに、少し安堵する。
 
 ―さて…それじゃあっと……。
 
 心の中で小さく勢い付けながら一歩二歩と流し台の方へと歩いていく。そのまま彼女がやったようにルーンに触れて水を出した。急造の避難所なのに上下水道がそこそこしっかりしているという状態に正直、感心する。この辺りは火と土が強いので水の精霊であるウンディーネはいないと思うのだが…地下水でも汲み上げてきているのだろうか。いずれにせよ簡単にはできない事業であるのは明らかだろう。
 
 ―やっぱあの爺さんただ者じゃないな…。
 
 時勢を読む能力と言うか、必要とされる場所に力をどれだけ注ぐべきかがはっきりと分かっているのだろう。食糧の配給も今の所、順調だという話だ。流石に避難所の人口が一気に増えたお陰で俺のような完全な余所者までカバーしてくれている訳ではないが、余所からの避難民には無料で食料も配っている。お陰で今は特に餓死者も出ていないらしい。人間とは屋根のある場所で眠れて、食べ物と水さえしっかりあれば早々、不満は漏らさない生き物だ。このままずっとこの状態が続けば話は別かもしれないが、少なくとも当分は大丈夫だろう。
 
 ―本格的にここに根を下ろすつもりなのかもな。
 
 麓と言うのは山の恩恵を受けるには良い場所だが、ここは火山地帯だ。大噴火が起こった事で当分は火山も大人しくしているだろうが確実とは言えない。そんな考えも町長にはあるのだろう。最近では近くの村からの避難民も仮設住宅が回され、受け入れ用の大きな講堂も空いていると聞く。この避難所の中でもしっかりとした作りをしている講堂が空いているのは忍びないと言う事で、そこで学校を始めるという話も持ち上がっているそうだ。
 
 ―まぁ…丁度良いといえば丁度良いのかもな。
 
 これまで分かれていた村や町が、この避難所で今、一つになっている。逆に言えば、それはこの避難所が大きく発展するチャンスでもあるのだ。それが分かっているからこそ、あの町長も甲斐甲斐しく流入者を世話しているのだろう。何れこの地に根付いて一つの町を作り上げる為に。
 
 「おっと…」
 
 そんな事を考えていると洗い物も終わってしまった。それに小さく声を漏らしながら、そっとルーンに触れて水を止める。そのまま流しの横に立てかけられてあるタオルで食器を拭いて元の棚にしまった。それを確認して一息吐くと…やはりどうしても意識がシャワールームの方へと飛んでいってしまう。
 
 「ふふふふーん♪ふーんふーん♪ふーんふふーんふーんふーんふーん♪」
 
 ―…何を歌っているんだか。
 
 すぐそこのシャワールームから相変わらず上機嫌な鼻声が聞こえる。何でそれだけ機嫌が良いのかは分からないが、兎も角、丸聞こえである。勿論…それと一緒にぱしゃぱしゃと水が跳ねる音も。俺と同じ人間が出しているとは思えないくらい魅惑的なその音は俺に中の様子を想像させようとしている様だ。
 
 「な、何かする事は…」
 
 思わず下半身の方に熱が集まる妄想から逃れるように何かする事はないかと部屋を見渡してみるが何も見当たらない。強いて言うなら、天井から下着が降りているのでそれを片付けるくらいだろうk――って下着!?
 
 「ちょ…!?…え?はぁ…!?」
 
 それは丁度、俺の座っていた椅子の後ろ辺りに干されていた。だからこそ、今まで俺の視界に入らなかったのだろう。だが、そう冷静に理解する俺とは別に、軽いパニックに陥った思考は妙な言葉を口走りながら視線を背ける。しかし、鮮やかな下着は既に網膜に焼き付いてしまったようだ。刺激的な赤い色をした下着は目を背けている筈なのに、俺の脳裏にチラチラと現れる。それが妙に気恥ずかしくて、何度も何度も頭を振るが、それは中々、俺の中から消えてくれなかった。
 
 ―あぁ…もう!!十代のガキじゃないんだぞ俺は…!!
 
 冒険者と言う職業に就いているだけあって娼婦を抱いた回数はそれなりにある。つまり下着如きでうろたえる様な子供ではない筈だ。それよりももっと刺激的で魅惑的なことも経験してきている。しかし、魔物娘の下着と言うやつはやはり別格なのだろうか。どうしてもそこに視線を惹き付けられ、胸が高鳴ってしまう。
 
 ―…つか、アイツって下着なんて身に着けてたんだな。
 
 真ん中にレースをあしらって透けているそれは、そのままで外出するには余りのも刺激的過ぎる。普段がヒモパンのような露出の多い格好をしているだけに気付かなかったが、やはりこの下着の上からあのヒモパンのような服を着ているのだろう。そう思うと妙にシュールな光景ではあるが、自らの欲望と戦っている俺にソレを笑う余裕は無かった。
 
 ―ガラララ!!
 
 「うぉ…!!!」
 
 唐突に後ろから聞こえた音に心臓と身体が大きく跳ねた。余りに不意打ち過ぎて痛いほど高鳴った胸に手を当てながら振り向くと、シャワールームではなく、脱衣所から布擦れのような音がする。何時の間にか水の音も止んでいるし、シャワーを浴び終わったのだろう。
 
 ―あ、危なかった…。
 
 何が危なかったのかは自分でも分からない。しかし、俺は何となくそう思って胸を撫で下ろした。その胸は未だドクドクと激しく脈打っているが、少なくとも痛みは訴えていない。それに安心した瞬間、脱衣所の扉が開く音が聞こえた。
 
 「ふぅ…さっぱり。アンタもシャワー浴びなよ」
 「あぁ、ありが…と…う……」
 
 ―言葉が途切れ途切れになったのは俺の目の前をベルが歩いていったからだ。
 
 無論、それは普通の格好ではない。バスタオルを胸に巻いただけの目のやり場に困るような姿だ。と言うか、彼女自身がそこそこ身長が高いため、若干、丈が足りていない。歩くたびに太股をチラチラと除かせるそれは少し動いたら丸見えになってしまいそうだ。
 
 「ちょ…お、お前…!!なんて格好を…!!」
 「ん?これかい?…と言っても、普段より露出度は低いから良いじゃないか」
 
 男の前で余りにも無防備すぎる姿に思わず声を荒上げるが、ベルは何とも思ってないらしい。寧ろケラケラを笑って胸を反らして見せる。自然、くいっと引きあがった裾が上に上がり、薄褐色の魅惑的な太股を俺の前に晒した。もう少しで見えてしまいそうな姿に思わず、ゴクリと咽喉を鳴らしてしまうが、彼女はそれさえも何とも思っていないようである。
 
 「そ、そういう問題じゃねぇよ…!!」
 
 勿論、普段の格好も目のやり場に困るといえば困る。だが、あれは一応、服なのだ。下着ではない。そう何とか自分を納得させる事で誤魔化す事が出来る。だが、バスタオル一枚は拙い。その薄いタオルの下は下着さえ身に着けていない裸であろう。そう考えるだけで興奮が加速するというのに、風呂上りの独特の香りが俺の鼻腔を擽るのだ。正直、ここまで来ると誘われているんじゃないかとさえ思えて来る。
 
 「良くは分からないけど……アタシが気にしないから良いんじゃないかい?」
 「良くねぇよ!!流石にちょっと無防備すぎるぞ!!」
 
 無論、ベルが俺を誘うなんてことは天地がひっくり返っても有り得ない話であるから、本当にこれは何も知らないが故の無防備なのだろう。しかし、両親が早くに死んで、今まで共同生活らしい共同生活をした事が無かったとは言え、これは余りにも酷すぎる。少しは男の目も気にしてくれないとただでさえ我慢強く無い俺の精神が擦り切れてしまう。
 
 「と言っても…アタシはそもそも普段着がコレな訳で、あんまり着込むって苦手なんだよねぇ。尻尾もあるし」
 「別に着込まなくて良いから!と言うか、パジャマくらいならあるだろ!!それ持って行けよ!!」
 「いや?アタシ、寝る時は何時も裸だからパジャマなんて使ったことないよ」
 
 ―なん…だと…!?
 
 告げられる衝撃的な事実に一瞬、俺の脳裏にその光景がフラッシュバックする。薄いタオルケットの下ですぅすぅと規則的な寝息を立て、豊満な胸を上下させる彼女。そして、その薄褐色の太股はタオルケットから無防備に投げ出され、寝返りを打つ度にそっとタオルケットが捲れて――い、いや…!!それ以上、考えるな!!考えるんじゃない…!!
 
 「と言うかそもそもアタシが家主なんだから、アンタに遠慮する必要って特に無いよね」
 「ぐっ……」
 
 妄想で思考が停止していた俺とは違い、あくまで冷静なベルの言葉に何も言えなくなってしまう。確かに俺はただの居候であり、ヒモ男だ。その俺に選択権なんてあろうハズも無い。家主である彼女がソレで良いと言ってしまえば、俺の事情を貫くことなんて無理に決まっている。
 
 「…どうやら異論は無いみたいだから、アタシはこれからもこの格好で出るからね」
 「好きにしてくれ…」
 
 結論付けるような彼女の言葉を肯定しながら、俺はそっと肩を落とした。正直に言えば、今の俺の状況は羨ましいものなのだろう。美人の魔物娘と一緒に暮らす居候生活。しかも、相手はそう言った羞恥心には比較的無頓着ですぐに無防備な姿を晒す。ティーンズ向けの物語だって、ここまであからさまな展開はそう無いだろう。だが、何の覚悟も無くそこに放り込まれた俺にとっては、自分の欲望を戦い続けなければならない日々を思って頭が痛くなってしまうのだ。
 
 「納得してくれたようで何より。あ、納得ついでで悪いんだけど、そこの干してある下着、取ってくれない?」
 「お前は何処まで俺を追い詰めれば気が済むんだ!!」
 「???」
 
 トドメを刺そうとしているようにしか聞こえない彼女の言葉に思わず叫んでしまう。だが、やっぱり彼女はそう言う事には無頓着なタイプらしい。可愛らしく小首さえ傾げている。そんな彼女に向かって何か言う気力も萎えてしまった。まるで倒れこんだ時のように脱力した俺はパタパタと手を振りながら、力無く口を開く。
 
 「…流石に下着までは勘弁してくれ。男としてこう…大事なモノを失ってしまいそうだ」
 「…良く分かんないけど、まぁ、本気でアンタが嫌がってるってのは分かったよ」
 
 分からずとも納得はしてくれたのだろう。うんうんと何度か頷いて彼女はそっと下着を手に取った。そのまま俺の目の前で履こうとする姿に急いで目を背ける。しかし、それでもすらりと伸びた足に下着が登っていく姿が見えてしまい、俺の胸をまた強く興奮に彩った。
 
 「と言うか、男としてはこういうのは寧ろ喜ぶモノだと思うんだけどねぇ…」
 「相手と状況に寄るっての。お前だって魔物娘だけど、恋人でもない男の裸を見ても喜ぶとは限らないだろうが」
 
 しみじみと言うベルにはっきりと返してやる。別に俺としては特におかしい反応をしているつもりは無いのだ。それをまるでインポのような言い方をされるのは流石に良い気分ではない。怒るほどではないにせよ、今の俺の気持ちを少しでも分かってもらおうとそう例え話を繰り出した。
 
 「…んー……まぁ、そうかもね」
 
 見た事ないから分かんないけどさ。と続ける彼女に大きく肩を落とす。まるで反省の色が見えない今の姿から察するまでも無く…これからも続けるつもりなのだろう。ついさっき結論を出したばかりなのでそう簡単に変えて貰えるとは思っていなかったとは言え、これから先、磨り減っていくであろう神経の事を考えると自然と肩が落ちた。
 
 「よしっと。じゃあ、アタシはそろそろ行って来るよ」
 
 気合を入れるような言葉に再び視線を元に戻せば、何時の間にかベルは防具を除けば普段の姿に戻っていた。仮設とは言え一応、病院と言う場所に勤めているのだからそれが相応しいのかは分からないが、医者が何も言わないという辺り、別に構わないのだろう。ある意味、患者の迷惑にもなりそうな刺激的な格好に慣れていく自分を感じつつ、俺がそっと口を開いた。
 
 「何処か行くのか?」
 「ちょっと配給を配るのを手伝いにね」
 
 何でもないように言い放つ彼女の姿に少しばかり感心してしまう。自分だって仕事で疲れているだろうに、さらにボランティアまでしようというのだ。そのバイタリティは中々、真似できるものじゃない。少なくとも、人の世話をするのが好き…と言うだけでは簡単には片付けられないだろう。
 
 ―何かあるのかね…?
 
 とは思いつつも俺には彼女の心に突っ込む言葉を持たない。なにせ俺はただの居候なのだ。これが傷ついていたり、落ち込んでいるのであれば兎も角、普段と余り様子が違わないのであれば、突っ込むべきではないだろう。
 
 「あぁ。気をつけてな」
 「うん。あ、暇だったら部屋の中を適当に荒らしてくれて構わないよ。あ、勿論、下着でちょっとくらいオイタしても…」
 「早く行け」
 
 何故か性的な方向に話しを持っていこうとするベルにはっきりと言い放つと、彼女はケラケラと嬉しそうに笑った。どうやらからかわれただけらしい。多分、俺の今の顔は真っ赤になっている事だろう。勿論、からかわれていることが恥ずかしかったのと…そして、そのオイタの意味と内容を思わず考えて。
 
 「ははっ!ま冗談だってのにそんなに顔を真っ赤にしちゃってさ。意外と初心だねぇ」
 「うっせぇばーか!!」
 
 俺だってここまで自分が初心だなんて思っても見なかったのだ。彼女が今までにまったく無かったタイプだからだろうか。どうにも調子が狂ってしまう。性的な方面で無い限り特に普通であるが…そもそも女を相手にそういう話題を口にすること自体、割りと良くやってきたことだ。そんな俺がどうしてこんなティーンズのような反応をするのか自分でも分からない。
 
 「まぁ、部屋の中を適当に弄ってくれても良いってのは本心だよ。これからは一応、アンタの部屋でもあるんだからね。居候だからって遠慮しないことさ」
 「…そんなに軽くて良いのかよ」
 「家主がそう言うんだ。誰が文句言えるって言うんだい?」
 
 ―…相変わらず大雑把と言うかおおらかと言うか……。
 
 ある意味、器が大きすぎて感心するくらいだ。ついこの間まで明らかに敵意を向けていた相手だって言うのに、この大盤振る舞い。しかも、別に恋が芽生えたからと言う甘い展開がある訳じゃなく、ただ、知り合いだったからと言うだけ。多分、犬猫やペットの類のように受け止められているのだろうが、余りにも警戒心が無さ過ぎるんじゃないだろうか。…ちょっとベルのこれから先が不安になった。
 
 ―…変な奴に騙されないか注意してないとなぁ…。
 
 まぁ、俺自身が紛れも無く変な奴なのだが、これ以上、壊滅的な被害を受けないように色々、気を配っておいてやろう。でないと、少し弱い姿を見せられれば詐欺野朗に引っかかってしまいそうだ。
 
 「っと、そろそろ時間が危ないね。それじゃあ、アタシは本当に行って来るよ」
 「…おう。いってらっしゃい」
 
 ―その言葉は何故かすんなり出てきた。
 
 今まで殆ど言った事がない言葉。両親を見殺しにしてからは、一度も口にしていない言葉。両親に向かってだけ言っていた言葉。それは自分の中である意味、禁忌にも近いものであった。当然だろう。その言葉一つで幸せな記憶と両親の最期の姿を思い出してしまうのだから。水も殆ど無く、力も残っていないというのに笑顔で、いってらっしゃいと俺を送り出してくれた二人の姿を。
 
 ―けれど、それは出てきた。
 
 胸が潰れる位、苦しい。どうにも出来ない過去の事を思って、のた打ち回って暴れたくなってしまう。だが、それでもそれは言葉と言う形を得た。それは形を得たといっても、勿論、一瞬だけ空気を震わすだけの音の羅列でしかない。だけど…それでも、俺にとっては大きな意味を持っていて――。
 
 「…うんっ!行ってきます!!」
 
 満面の笑みを浮かべるベルもまた…俺と同じような意味を持っているのかもしれない。何せそれは今まで診たことが無いくらい嬉しそうで幸せな笑みだったのだから。両親が死んでからずっと一人暮らしを続けていた彼女も俺と同じく、その言葉を殆ど言った事が無いのかもしれない。
 そんな事を考えていると、俺の視界でベルが扉を潜った。そのまま、ばたんと閉じる扉の音を聞きながら、俺はそっと胸に手を当てる。
 
 ―…なんだかねぇ…。
 
 背筋には思い出したくは無い記憶を掘り返されて、冷や汗が浮かんでいるし、胸はうねる様な痛みを走らせている。だけど、そこには悪いものだけが存在する訳ではない。ドクドクと脈打つ心臓の鼓動は決して嫌なものだけじゃなく…暖かい形容しがたい気持ちも含まれていた。
 
 ―止め止め…!こんなの俺には相応しくない…!!
 
 しかし、その気持ちを言葉にするよりもどうにも拒絶の感情が先立って、俺は頭を振った。そのままの勢いで何か別の事を考えようと部屋を見渡すと、シャワールームとは別の扉が目に入る。
 
 ―まぁ…折角だしちょっと探検して見るか。
 
 許可ももらっていることだしな、と自分を後押しするように続けて、俺はそっと扉を開けた。その向こうはちょっとした通路になっていて、奥にはトイレと書かれたプレートが下がった扉が見える。そして、視界を少し左にずらせば、また別の扉が目に入った。
 
 ―シャワールーム、トイレ、キッチン、リビングと揃ってるから…これは寝室か?
 
 仮設住居でそれほど多くの部屋を作るわけが無いから、残るは寝室くらいなものだろう。それくらいは俺にだって分かる。だが…そうと仮定するとここで重要な問題が一つあって――。
 
 「…寝室が一つしかないっぽいんですが…」
 
 あくまでここは仮設住宅なのだ。家族連れなどでもある程度は住める様にと配慮されているのかそこそこ大きな作りにはなっているが、あくまで仮設である。寝室らしき扉は一つしかなく…つまりそれは同じ部屋で寝るとあの大雑把なサラマンダーが言い出しかねないって事で……!!!
 
 ―…確認すべきか…?いや、でも、寝室って言えば私室も同然だし…。
 
 確かに部屋の中を弄っても良いとは言ったが、寝室まで入って良いとは言ってはいない。…いや、もっとやばいことを言われたような気もするが、俺は彼女じゃないのでその意図まで正確に察することなんて不可能なのだ。寝室に入って良いのか悪いのか。確認したい自分と、そこまで踏み込んじゃいけないと自制する自分に挟まれ、俺は悶々と頭を抱える。
 
 ―あーーーー!!もう…!
 
 勢いづけるように胸中で叫んで、俺はそこから立ち去った。流石に寝室だか私室だかまでを覗く趣味は無い。配給を手伝いに行ったベルが何時に帰ってくるのかは分からないし、変にリスクを犯す必要は無いだろう。どの道、彼女が帰ってくるのはそう先の話ではないのだ。気になるのであればまた聞けば良い。
 
 「そうと決まれば…どうするかな」
 
 踵を返しつつ言葉にしてみるが、特にやることと言うのが思いつかない。既に夕方を過ぎて殆どの就業者はそれぞれの部屋に帰っている頃だろう。よっぽど仕事が進んでいないのであれば話は別だが、今から出向いても誰もいない所が殆どだ。何だかんだとこの部屋の鍵も受け取っていないし、ベルがいない状態で部屋を留守にする訳にもいかない。
 
 ―まぁ…何れ行かなきゃ行けないんだけれどな。
 
 急激に大きな規模になってきた避難所とは言え、ある程度、指示系統と言うのは纏まっている。元からその仕事に従事してきた人間の下に人が集まり、一つの団体のようにして仕事をしているのだ。これまでの一週間でもうその殆どの団体には当たり…そして玉砕してきた。もう俺が断られていない集団を探す方が難しいだろう。
 
 ―とは言え…やらなきゃいけない。
 
 このままベルに迷惑を掛けっぱなしと言うのは俺のプライドが許さない。それ以上に…色々と無頓着な彼女との共同生活は俺の精神が擦り切れてしまいそうなのだ。俺の為にも、彼女の為にも、早々に職を見つけて独立しなければいけない。
 
 「……はぁ」
 
 思わず溜め息を吐いてしまうのはその難しさ故だろうか。少なくとも今まで返ってきた手応えはまるで無い。自分でもその理由が良く分かっているが、俺自身にどうしようもないのもまた事実だった。
 
 ―…やばいな。思考が悪い方向に向かっている。
 
 そう遠くない内に餓死するというのを、ある種の諦めにしていた所為だろうか。こうしてベルの部屋に居候させてもらえることが決まって、思考が一気に悪い方へと逆流を始めた。どうにかしなきゃいけないのに、その方法も分からないという状況が一気に俺の心に焦りを齎す。
 
 ―…まずは落ち着くべきだな。
 
 何も出来ない今の状態で焦っても何の意味も無い。それならばシャワーの一つでも浴びて精神を落ち着かせるべきだろう。そんな事を思いながら、俺はそっとリビングから脱衣所の方へと足を進める。そのまま扉を開けて――俺の足はピタリと止まった。
 
 「…え?」
 
 俺の目線の先にあるのは漆黒の布切れだ。艶やかな黒に染まり、しっかりとした存在感を放つそれは意外なほど小さい。…いや、寧ろこれが普通と言うか…そもそも小さいものだからと言うべきか。…いや、自分でも良く分からないけれど、その…アレだ。つまり…そこにはベルの脱ぎたての下着がある訳で……。
 
 「む、無頓着すぎだろあの馬鹿…!!」
 
 まるで隠すつもりもなく、籠の中に白いバスタオルと一緒に放り込まれているそれに思わず言葉が漏れ出た。しかし、俺としてはそれも当然であると主張したい。何せシャワーを浴びたのは俺が居候するのを決めた後なのだ。部屋の中に下着を干していたのは灰の影響もあるから仕方ないとは言え、これは余りにも無防備すぎる。…いや、今に始まったことじゃないけれど。
 
 「…はぁ…もう…なんつーか…」
 
 気にしている方が馬鹿らしく感じるような無頓着さに思わず溜め息が漏れ出てしまった。これからの平穏な居候生活の為にも早めに慣れた方が良いとは分かっているのだが、やはりどうにも焦りが先に出てしまう。ここまで彼女の方が無防備だと逆に意識するほうがギクシャクする気もするのだが…俺もまだまだ若いと言う事か。
 
 「…ま、ともかくとっととシャワーを浴びよう」
 
 よくよく考えるとここ一週間ほどはシャワーなんて浴びたことが無かった。自分の嗅覚はもう麻痺しているので分からないが、ベルからすればよっぽど酷い匂いだっただろう。今更な話ではあるが、負ぶさられる前には地面の上に倒れこんでいたのだ。彼女は何も言わなかったがが、今の俺はよっぽど汚れているだろう。
 
 ―…先にシャワー浴びてから歩き回ればよかったかな。
 
 しかし、それは今更の話だ。シャワーを浴びた後に汚れている場所があれば掃除をする事で償いとしよう。そんな事を思いながら、鏡の前で服を脱ごうとした。しかし、それも片腕では中々、上手く行かない。病院ではベルを始め色んな人に手伝ってもらっていたが、一人では一般的なシャツ一つ脱ぐのも一苦労だ。
 
 「ふぅ…」
 
 上手く身体を捩り、何とか上着を脱ぐことに成功する。こうなると後は楽だ。ズボンのホックは片手でも十分に外せるし、下着は言わずもがなであろう。そして、それを証明するように瞬く間に俺はズボン、下着を脱いでいき、脱衣所からシャワールームへと足を進めた。
 
 「へぇ…」
 
 そこはシャワールームと言うよりはちゃんとした風呂と表現した方が良いような場所だった。こじんまりとしているが、しっかりと浴槽までついている。床も浴槽も全部が木で作られている為、滑りやすいという弱点こそあるが、仮設住宅のものだと考えれば悪くは無い。いや、寧ろかなり上等な部類に入るだろう。正直、ここまでしっかりとした作りになっているとは思えなかった。
 
 ―魔物娘ってホント、凄いな…。
 
 そっとシャワーのルーンに触れながら、そんな事を思う。少なくとも人間だけではこの短期間で此処までの物は作り上げられなかっただろう。避難所が作れなかったとまでは言わないが、ここまで施設が充実しているのは間違いなく彼女らのお陰だ。冒険者だからこそ実感することであるが、魔物娘を積極的に受け入れている親魔物領と教団の支配力の強い地域では大きく技術力が異なる。ここは避難所であるが、ここまで上下水道が整っているのは教団の支配力が地域だと珍しい。昔ながらの井戸を使った素朴な生活をしている町と言うのもまだまだ少なくは無いのだ。
 
 ―サイクロプスにドワーフ…人に恩恵を齎してくれるって意味じゃアルラウネ、ホルスタウロス辺りもそうかな。
 
 思いつく限り人の生活良くしてくれる魔物娘を上げてみるが、それこそ枚挙に暇が無い。特にサイクロプスにドワーフと言った魔物娘は人には及びもつかない技術力を持っている。彼女達から齎される技術や恩恵は人の生活を何十年分も発展させている事だろう。そこに精霊まで加われば、まるで別世界のような技術の開きが生まれる。
 
 ―…まぁ、その代償ってのは大きいわけだけれど。
 
 生まれ故郷に魔物娘が多く住んでいたので彼女達に特に偏見は無い。加えて言えば冒険者と言う家業をしてれば、どうしても彼女らと面識を持つことも多いのだ。少なくとも教団が言うような人を食べる悪い連中ではない事は身にしみて知っている。とは言え、別に俺は魔物娘を完全に絶賛している訳じゃない。魔界化や魔物娘からは男が生まれないと言う問題。それらには気付いているし、大きな代償であると思っている。今はまだ伸びた寿命で補われているから良いが、最初の方に魔物娘と結ばれた夫婦あたりが死んでいったらどうなるか。小さな村くらいであればあっさり消えてしまうかもしれない。
 
 ―…ま、俺には関係ない事か。
 
 個人の損得勘定だけで考えるなら、魔物娘は付き合って悪くは無い連中だ。勿論、性的な意味で襲われる可能性もあるが、そういう意味で気に入られなければ下手な人間よりも信用できる。そういう意味で気に入られても…まぁ、彼女らの大抵は美女か美少女であるし、悪くは無い生活を遅れるだろう。と言うか、下手な生活よりはよっぽど幸せなのは確実だ。冒険者と言う家業上、幸せそうに魔物娘と暮らしている男連中と言うのも割りと良く見かけているのだから。…とは言え、あまり深入りしすぎると火傷じゃすまない相手だろう。
 
 ―…じゃあ、ベルはどうなんだ…?
 
 ふと自分の中に沸いた疑問。俺は今までずっと誰かと一線を引いて接してきた。勿論、それはイザと言う時に見捨てても心が痛まないようにする為だ。その為、俺には仲間と呼べるような連中はおらず、この歳まで一人寂しくソロ活動を続けてきたわけである。…だが、そんな俺がプライドを護る為に、もっと言えば彼女から預かった武器を護る為に餓死を選ぶことも厭わなかった。…それは一体、どういう意味なんだろうか。
 
 「……俺は…」
 
 ―ガチャ。
 
 「ただいまー」
 
 そこまで呟いた瞬間、扉を開く音と共に能天気な声が聞こえた。それに中断された思考がまるで霧のように霧散していく。あと少しで形になりそうな考えに少しだけ悔しい気もしたが、まだ答えを出すのは早計という気持ちもある。どちらにも寄っていく無節操な気持ちに苦笑めいた表情を作りながら、俺はシャワールームから声を張り上げた。
 
 「おかえりー!」
 「っと、シャワーかい?背中流そうか?」
 「あー……」
 
 気遣うような彼女の声に少しだけ躊躇の感情が顔を出す。正直、病院で何度も身体を拭いてもらったりして裸を見られているだけに今更、背中くらいなら恥ずかしくない。ムスコを見られるのは未経験なので流石に恥ずかしいが、それ以外はもうとっくに見られてしまっているのだ。どうせならすっきりしたいし、ここは彼女に手伝ってもらうのも手かもしれない。
 
 ―…でもなぁ…。
 
 今の俺は股間を隠しているタオルも何も無い状態だ。丁度、俺の前には鏡もあるし、少し角度をつければ股間まで見えてしまいそうである。流石に、それは恥ずかしい。それにこの風呂は思ったよりしっかりしているとは言え、やっぱり広いとは言いがたいのだ。二人ではいるとどうしても窮屈なのは否めなく…もしかしたら密着してしまう可能性だってある。ここ最近は自分で『処理』する機会なんてなかったから、そんな事になったら即勃起モノだろう。
 
 ―…流石にそこまで恥は掻きたくないな。
 
 「いや、良いよ。一人で身体洗うのにも慣れないといけないしな」
 
 何時までもベルとに頼ってはいられない。何れは俺もこの部屋から出て行かなければならないのだ。その時、一人で体も洗えない状態であれば笑い話にもならない。そんな気持ちも合わせて、俺は彼女の申し出を断った。だけど、まるでそれが聞こえないようにトストスと規則的な足音がこっちに近づいてきて――
 
 「遠慮するんじゃないよ」
 「うわああああああああああ!!!」
 
 いきなりがらりと開かれた扉に思わず大声を挙げて、前屈みになってしまう。睨むように後ろに視線を向けると予想通りベルがタオルを持って立っていた。
 
 「ちょ…!ばっ…お前っ!!!」
 「何さ。今更、遠慮するような仲じゃないだろ?」
 
 ―いや、まぁ、確かにそうだけどな!!
 
 喧嘩を経てお互いに遠慮しあうような関係を一足飛びに飛び越えてしまっている。それは確かだ。だけど、こんなシチュエーションで言われるともっと別の意味を想像してしまうというか…まぁ、俺の裸なんて見慣れているのは確かなんだろうけど!!でも、俺が言っているのはそういう意味じゃなくて――
 
 「遠慮とかそう言うんじゃ無くて…本当に構わないんだってば!」
 「…もしかして恥ずかしがってるのかい?裸なら何度も見てるから今更だろ」
 「身体を拭く為に服を脱いだ状態と本当の意味での裸を一緒にするんじゃない!!」
 
 きょとんとした顔のまま首を傾げる様子は、別にからかっているというわけではなく本当に分からないのだろう。…確かにベルはそう言う事を教えてもらう前に両親を亡くしているから――いや、そもそも居たとしても、そういう羞恥心が育っていたかは不明だけれど――分からなくも無いのだが…だけど、その被害に会っている俺としてはどうにも嘆きたくなってしまう。
 
 「でもさー…アンタに埃や灰が残っているとアタシも困るんだよね」
 「うっ……」
 
 俺はあくまで居候の身の上である。その家主からそう言われてしまえば反論の余地もない。ここ一週間ほどマトモにシャワーも浴びれていないので、今の俺がかなり酷い状態なのも分かっている。また俺が下手に汚れを残した状態だと居候させているベルの部屋も汚れてしまうのだ。それらを考えるとこの申し出を無下に断ることも出来ない。
 
 「…分かった。じゃあ、背中だけ頼む」
 「あいよ」
 
 勝ち誇ったような笑みを後ろで浮かべるベルにそっと溜め息が漏れそうになってしまう。居候させてもらっている立場で背中まで洗ってもらえるのだ。本来であればそう悪いものじゃないだろう。だけど、俺とベルの性別が大きな問題となって、そこには鎮座していた。どうしても彼女を『女』として強く意識してしまう俺は美人に背中を流してもらえると言うシチュエーションよりも、恥ずかしさが際立ってしまうのである。
 
 「それじゃあ適当に腰を屈めておくれ。あ、一応、椅子もあるから安心してね」
 「…分かった」
 
 何故か上機嫌な彼女の言葉に従いつつ、そっと腰を下ろす。何時の間にか移動させられていたのだろう。その腰をそっと硬い感覚が受け止めた。彼女の言葉が正しければ、それは脇に置かれていた木製の椅子なのだろう。
 
 「じゃあ石鹸でわしゃわしゃっと……」
 
 手に持ったタオルを泡立てる姿が鏡に映る。両手をすり合わせて一生懸命、泡立てるそれは何処か小動物的で可愛らしい。けれど、そのリズムに合わせてたゆんたゆんと揺れる彼女の一部がそのイメージを完全に吹き飛ばしていた。自覚しているのかしていないのかは分からないが、跳ねるように動く胸はまるで誘惑しているようにも言える。
 
 ―…いや、まず確実に自覚してないな。
 
 そんな相手であれば俺の心労はもっとましであっただろう。これが完全に素であるからこそ、注意しづらく、また性質が悪いのだ。…まぁ、これが素でなかったら俺は今頃、居候させてもらえず、あの場所で餓死していただろうが。そう考えるとベルの天然っぷりが俺の命を救ったといっても過言ではないのかもしれない。
 
 「よし。じゃあ、強めに洗ってくからね。痛かったら言いな」
 
 そう前置きしてからベルはそっと膝立ちになり、ごしごしと俺の背中にタオルを押し付ける。ごわごわとしたタオルの感覚と、石鹸で泡立てられた感覚が妙に気持ち良い。やっぱり大分、疲労が溜まっているのだろうか。僅かな痛みこそ感じるが、力強く現れる感覚に俺はそっと息を漏らした。
 
 「はは…っ大分、気持ち良さそうだね」
 「そりゃ…なぁ…」
 
 そもそもこうして身体を洗うの自体、かなり久しぶりなのだ。埃や灰だけじゃなく垢も大分、溜まっているだろう。その上、固い地面の上で此処一週間寝ていたという疲労までも加わるのだ。背中に溜まったコリまで解されるような感覚が気持ち良くない筈が無い。彼女の前なだけに変な声を上げるのだけは我慢しているが、気を抜けば最初のように息を漏らしてしまいそうだ。
 
 「ふふ…そう言ってもらえると申し出た甲斐があるね」
 「良く言うよ。殆ど脅迫だった癖に」
 「何か言ったかなー?」
 「い、痛っ!!ちょ…強く擦りすぎだろ…!!」
 
 急に身体に走る痛みに慌てて抗議するが、ベルの表情は変わらない。にこにこと嬉しそうな笑みだけを浮かべて、リズミカルに腕を動かしている。勿論、それに伴って彼女の胸が上下に揺れているのが鏡越しに視界に入った。それは立っていたさっきと比べてはっきりと見えるものじゃないものの、俺の肩からチラチラと覗くそれにどうしても視線がそっちへと向かってしまう。
 
 「おやぁ…何処を見てるのかなぁ」
 「うっ…」
 
 流石に少しあからさま過ぎたのだろう。ニヤニヤとからかうような表情を浮かべながら、ベルが此方を見つめてくる。それに顔を急いで背けたが、どうやら誤魔化せなかったらしい。からかうような色をベルはより強くしていった。
 
 「まったく…アタシの胸なんか見慣れてるだろうに、ホント、初心だねぇ」
 
 勿論、見慣れているといえば見慣れている。普段から、下着同然の服しか着ていないのだ。自然、男である俺の視線は彼女の胸や太ももと言うようなセックスアピールに集中する。だけど、それと見慣れていると言うのは完全に別問題だ。そもそも…女性のセックスアピールに慣れるなんて男としては枯れた時くらいのものじゃないだろうか。
 
 「…つーか、それ別の意味に聞こえるから」
 
 別に俺とベルは恋人でもなんでもないのだ。さっきの発言の意図も下着のような服装をしているからこその物だったのだろう。だが、背中を洗ってもらっているという甘いシチュエーションの所為だろうか。まるで普段から俺が彼女の胸を見ている恋人のような立場のようにも聞こえるのだ。本来は特に気にしないであろうそれもベル相手であれば妙に気恥ずかしく、俺の顔にまた強い熱を灯す。
 
 「ん?あー…別の意味って…あぁ。なるほど」
 
 納得したようなその顔に再びからかうような色を強くした。しかし、それでも何も言わないのは俺に気を使ってくれているからだろうか。……いや、ないな。悪戯っぽい表情を見る限り、黙っていた方が面白いと判断しただけだろう。
 
 「はい。それじゃあ腕をあげて。脇の下まで洗うからねー」
 「…あいよ」
 
 まるで玩具のようだと思ったが、今更、抵抗しても無意味だろう。そんな事を考えながら俺はそっと左腕を上げた。そのまま彼女は固定するようにぎゅっと俺の腕に手を添えて、洗っていく。…けれど、それは勿論、俺と彼女の身体が密着するってことで……。
 
 ―お、おおおおおおおおお落ち着け!!冷静になるんだ!!!!!
 
 ふにゅふにゅと背中で形を変える何か柔らかい感触に鏡に移る俺の顔は林檎のように真っ赤に染まった。まるでギャグか何かとしか思えないような変わりっぷりであるが、今の俺にはそれを笑っている余裕など無い。背中で感じるおっぱいの感触に、むくむくと湧き上がるムスコを抑えるので精一杯なのだ。
 
 ―こ、こういう時は素数を…って素数って何だっけええええぇぇぇぇ!!
 
 パニックになる俺の背中には相変わらずむにゅむにゅと柔らかい感触が揺れた。大半が俺と同じ成分で出来ているとは思えないくらいそれは柔らかく、そして何よりオスの本能を擽る。解された身体に別種の熱が灯り、ゾクゾクと背筋に冷たい何かが走った。それが下半身に降りないよう腕が震えるくらい手に力を込めたが、あまり効果があるとは言えず、むくむくと俺の下半身でムスコが起き上がってくる。
 
 ―待て…!べ、別に今までおっぱいを触ったのは一度や二度じゃないだろう…!?
 
 一夜限りの性欲処理の相手として娼婦と遊んだのは一度や二度じゃない。と言うか少なくとも、胸を押し当てられるのよりももっと淫らな行為も経験しているのだ。例えば豊満な胸でムスコを扱いてもらったり、泡立てた胸で全身を洗ってもらったりとか――…ベルにもしそんな事をしてもらったら俺はどうなるんだろう?
 
 ―ってそうじゃなくて!!そうじゃないってば!!!
 
 明らかに興奮を助長させる方向に進もうとする妄想を思いとどまらせようとするが、中々、上手くいかない。それならばもはや元を絶つしかないだろう。そう考えた俺は真っ赤に染まった顔を鏡に映しながら、そっと口を開いた。
 
 「あ、あの…ベルさん?」
 「んー?」
 「…いや、その…ね。胸がですね。当たってる訳なんですが…」
 「あー…そうだね。アタシの胸なんか押し当てられても嬉しくないだろうけど、我慢しな」
 
 ―嬉しいから困ってるんだろうがああああああああ!!!!
 
 流石にそれを言葉にする訳にはいかない。いかないが…反射的に叫びそうになったのは仕方ないことだろう。何せ…ここまで鈍感だとは思ってもみなかったのだ。いや…今までの反応から察するに自分が美人だとはあまり思ってはいないようだから当然かもしれない。だけど、その…なんていうか、そう言われると今にもハッスルしちゃいそうなオスの本能を堪えている側としては困るのだ。その…とっても。
 
 「しっかし、やっぱりそこそこ鍛えてるねぇ」
 「そう…か?」
 
 しみじみと呟いたのは気を紛らわせようとしているからか。それさえ余裕の無い今の俺には察することが出来ない。だが、何にせよ彼女から話しかけてきてくれたのは好都合である。ここは会話に集中して、背中に広がる魅惑的な感覚から目を逸らすのが最善だろう。
 
 「病院でも思ってたけどさ。細身に見える割には背中にもしっかり筋肉が着いてるよ」」
 
 自分では背中までは殆ど見れないが、彼女が言うのであればそうなのだろう。とは言え、特に何かしら鍛えようと思って何かをしていたわけではない。恐らく普段から荷物なんかを背負っていたので自然と鍛えられた分なのだろう。そう思うとそれが冒険者であった頃の勲章であるような気がする。
 
 「ありがとうな。…いや、礼を言うのは何か間違ってる気もするけど」
 「どういたしまして…で良いのかね。まぁ、ともあれ、腕も洗い終わったよ」
 
 そんな風に言葉を交わしながら、そっとベルの身体が俺の背中から離れる。勿論、ソレに伴って魅惑的なあの感触も消えてしまった。一瞬、それに残念な気持ちを覚えるのは男としては仕方のない事だろう。そんな風に言い訳をしながら、俺は俺は胸中でそっと溜め息を吐く。天国のようで地獄のような辛い時間がようやく終わったのだ。半勃ちにまで成長したムスコの事にも気付かれなかったし、何とかやり過ごすことが出来たと言えよう。
 
 「さて、流石に前はアンタが嫌だろうし、アタシは頭でも洗ってあげるかな」
 「いや…別に背中を洗ってもらえるのも喜んでた訳じゃないんだが…」
 「股間のモノをそんなに勃起させてて何を言ってるんだい?」
 
 ケラケラとからかうような声に思わず思考が凍る。何せついさっき気付かれなかったと思っていたばかりだったのだ。それがまさか気付いてないフリをしてくれていただなんて思ってもいない。自然、予想外からの刺激を加えられた俺の思考は軽いパニックに陥り、無意味な言葉の羅列だけを回す道具に成り下がる。
 
 「き、ききき気付いてたのなら、とっとと離れてくれれば…!!」
 「…え?冗談だったんだけど……まさか本当にそうだったの…?」
 
 ―…え?……え???
 
 二の次の言葉に俺の思考は完全に停止した。そのまま、二秒、三秒と鏡越しに視線を交わし、俺の顔が真っ赤に染まっていく。それを認識した瞬間、自分が盛大に墓穴を掘ったことに思い至り……その、あまりの恥ずかしさに頭を抱えた。
 
 「い、いや、その仕方ないよね!アタシみたいなガサツ女の胸でも、女日照りだったら大きくなっちゃうさ!だ、だから、そんなに落ち込まなくとも…」
 
 そんな俺を彼女は必死でフォローしようとしてくれているが、その言葉の大半が俺の耳には入ってこない。と言うか、ベルも冷静じゃないのか、その殆どがフォローじゃなかった。寧ろ、自分を貶めているようにしか聞こえない。余りの恥ずかしさにスムーズに動かない思考がそれに小さな怒りを覚える。それは何故かは分からないが、恥ずかしさで死にそうになっている胸が灯した小さな怒りは、凝り固まった思考を動かし、言葉を紡がせた。
 
 「別に俺はガサツ女だなんて思ってないぞ。…と言うか寧ろかなり女らしいというか…無防備過ぎて困る事はあるけど、それもお前が美人だからで…だから…その…アレだ。女日照りってのは関係なくて――」
 
 ―…待て。俺は何を言ってるんだ?
 
 紡いだ言葉は勿論、支離滅裂だった。当然だろう。何せ俺はさっきの墓穴からまだ完全に復帰できていないのだ。その恥ずかしさが頭の大半を支配して凍り付いている。しかし、それでも、と怒りのままに発した言葉は殆ど本能にも…いや、俺の内心にも近く、余りにも無防備な言葉であって――。
 
 「え?え?え???」
 
 真っ赤になって頭を振るベルを見て、俺の言葉は完全に止まった。次に何を言うべきか心は分かっている筈なのに、どうしても言葉が出てこない。それは何かしら意地になっているものがあるのか。自分でもソレを良く理解できないまま、俺と同じように真っ赤になったベルと鏡越しに視線を交わした。
 
 ―そのままお互いに沈黙して十秒、弐十秒と時間が経ち……。
 
 最初に冷静に戻ったのはベルの方であった。いや、冷静ではなかったのか。顔を真っ赤に染めたまま、恥ずかしそうに両手を振って、一歩二歩と後ずさる。ただでさえ滑りやすい木のシャワールームでそんな事をすれば滑るのではないかと思ったが、持ち前のバランス感覚の所為か、彼女は無事に扉までたどり着き、逃げるように扉を開けて立ち去った。そのままバタバタと走るような音が聞こえたが…多分、外にまでは出ていないのだろう。
 
 「…何をやってるんだ俺は…」
 
 そこまで認識してようやく落ち着き始めた俺が溜め息を共に言葉を漏らした。余りにもらしくない…と言うか甘酸っぱいやり取りに抱えたままの頭を思いっきり壁にぶつけたくなる。けれど、そんな事をすればベルに迷惑や心配を掛けるだけだ。身体の内側から沸き起こるような自傷衝動を必死に抑えつつ、俺はベルが落としていったタオルを拾って、他の部分を洗い始める。
 
 「ぬぅ…」
 
 だけど、やっぱり片手ではどうしても洗いにくい。これからは一人で入浴もしなければいけないので、早々に慣れなければいけないが、それは当分、先の事になりそうだ。試しに背中を洗おうと腕を後ろに回してみたが、まるで洗えている気がしない。今回に限ればあんなアクシデントこそあったものの、背中を強引にでも洗ってもらえたのは正解であったと言えるだろう。
 
 ―しかし…どうするかねぇ…。
 
 俺の台詞の余りの恥ずかしさに逃げ出したベルは恐らくリビングの方にいる。何をしているのかまでは分からないが、薄い壁の向こうに何かの気配を感じるのは確かだ。と言う事は…シャワーを浴び終わったらどうしても彼女と顔を合わせなければいけないと言う事である。それも…この気まずいシチュエーションで。
 
 ―…冗談だった……ってのは…効かないよなぁ…。
 
 そもそも効かせるつもりもあまりない。アクシデントこそあったが、アレは俺の本心だ。恥ずかしい事この上ないが、俺はベルをガサツ女だなんてまったく思っていない。大雑把で無防備ではあるが、それは器の大きさの裏返しであるとも思うし、仕草一つとっても女らしい要素が多い。確かに今まで困った部分も多々あるが、胸を押し当てられて嬉しくない程、魅力のない女だとは思っても居ないのだ。
 
 ―まぁ…それに…あんな風に自虐されるってのも気分が悪いし。
 
 俺のフォローに自虐から入った彼女はきっと自分に女としての自信が無いのだろう。考えても見れば、今まで男と殆ど接した事の無い生活をしてきたのだ。自分がどれだけ男にとって魅力的かなんて自覚が無いに違いない。それに何かしらの負い目が相まって、ベルは自分の魅力に気づいていないのだ。…そして、まぁ、悪くは思っていない女にそんな風に自虐されるというのもやっぱり気分が悪いものである。
 
 ―…と言う事は基本的な方針は…さっきのを追従する形で…。
 
 「…やべぇ…恥ずかしすぎて死ねるかもしれん…」
 
 追従と言ってもさっき何を言うつもりだったのかは完全に忘れてしまった。けれど、さっきの言葉を否定するわけにもいかない。別に女としての魅力に自信満々になって欲しいと言うわけではないが、変に自虐されるとこっちも困ってしまう。それに…自分が魅力的だと自覚してくれればあの無防備さに少しは歯止めが効くかもしれない。そう思うと、恥ずかしい思いをするだけのメリットはある気がする。
 
 「…よし。やるか」
 
 そんな風に勢いづけて、椅子から立ち上がる。そのまま泡を洗い流してくれていた温水を止め、ベルが開け放しにしていた扉を潜って脱衣所へと戻った。
 
 「あ」
 
 だが、俺はそこで重要なことに気付く。それは着替えの問題だ。基本的に荷物を少なくする冒険者であった俺は最低限の衣類しか持っていない。それらは殆どあの噴火の中で失ってしまい、ついさっきまで俺が着ていた服が一張羅である。けれど、それは俺の一週間分の垢や埃、そして灰を吸い込んで汚れに汚れきっていた。それを今更、身に着けたところで逆に身体が汚れてしまうだろう。
 
 「…どうすっかねぇ…」
 
 とは言え、選択肢は二つしかない。汚れた服を身に着けるか、ベルに倣ってバスタオル姿で出て行くかだ。そのまま身体をバスタオルで拭きつつ悩んだものの、これ以上、部屋を汚すのも可哀想であるし…彼女自身もそう気にしないだろう。そう結論付けた俺は身体から水気の殆どを拭ったバスタオルを腰に巻いて、リビングへの扉を開いた。
 
 「あ、あぁ、おかえ――って、何、ハダカで出てきてるんだい!?」
 「え?」
 
 しかし、丁度、テーブルの対面に立っていたベルの反応は予想していたものとまるで違っていた。それこそ彼女が言う通り俺の裸なんて見慣れているはずである。それをまるで始めてみたかのような反応に俺も戸惑いを隠せない。もしかしてバスタオルがずれているのかと思って身体を見下ろしてみるが、股間の部分にしっかりと巻かれているままだ。
 
 「いや…つか、シャワールームでさっき見てただろうに」
 「そ、それはそうだけど…そうだけど…!!」
 
 顔を真っ赤にして手をバタバタと振るう姿は妙に可愛らしい。どうして意識しているのかは分からないが、初めて見る彼女の様子に思わず笑みが漏れ出る。しかし、それがベルには気に入らなかったのだろう。テーブルの上に乗せられていた服を幾つか手にとって、乱暴にこっちに投げてきた。服だけに当たっても特に痛くは無いが、驚いた俺の口から情けない声が漏れ出る。
 
 「うぉ!!…ってどうしたんだこれ?」
 「…どうせ着替えが無いと思ってね。ボランティアの報酬として分けてもらってきたのさ」
 
 素っ気無く言うベルの言葉に片手で広げてみると、若草色に染められたシャツとズボンだった。目測ではあるがサイズも大体、合っているだろう。まぁ、少しくらい窮屈であったり大きくとも、我慢すれば問題ない。今はともかく清潔な服があることの方が有難いだろう。
 
 「さっさと着てきな。そんな格好じゃ目のやり場に困るよまったく…」
 
 呆れたように視線を逸らすベルはついさっきまで俺の事をからかっていた相手とは思えない。もしかしてさっきのやり取りで少しは男として意識してもらえたのだろうか。そう思うと少しだけ嬉しい気がする。
 
 「笑ってる暇があったら、さっさと着てくれないかねぇ…?…これ以上、グズグズしてると入院してる時みたく、アタシが無理矢理、着せてやるよ」
 
 ―男として意識されてるなんて…別にそんな事は無かったか。
 
 威嚇するような言葉に病院での嫌な記憶が蘇る。未だ身体を上手く動かせなかった頃は、ベルに着替えまでさせていたのだ。まるで着せ替え人形にされているような感覚は何度味わっても慣れる様な代物ではない。思わずその時の羞恥の感情なんかを思い出し、俺はそっと背筋を振るわせた。
 
 「分かった。分かったから!!」
 
 まるで母親に言い訳する子供のように言い放ちながら、俺はそっと脱衣所の方へと戻った。そのまま受け取った衣服を身に着けていく。下着までは流石になかったが…まぁ、仕方ないだろう。下着も無くズボンを――しかもおそらく誰かの古着を――履くと言うシチュエーションはお世辞にも気分が良いとはいえなかったが、この状況で我侭も言っていられない。幸い目測どおりサイズもぴったりであったし、これ以上を望むのは流石に酷という奴だろう。
 
 「っと、お待たせ」
 「…うん。サイズはぴったりみたいだね」
 
 脱衣所から出た俺の上から下までをじろじろと見ながら、納得したようにベルは頷いた。恐らく自分でも自信が無かったんだろう。その顔には安心の色が多く見て取れた。
 
 「有り難うな。服まで調達してくれて」
 「まぁ…あの格好のままで歩かれるとアタシも困るからね。それに今更、御節介の一つや二つじゃ変わらないよ」
 
 素っ気無く返しつつも、ベルの頬には少しだけ朱が指していた。さっきの光景を思い出したのか、それとも単純に照れているのか。…いや、後者だけは無いな絶対。今更、礼くらいで照れるような相手じゃないし。
 
 「それで…さっきの…シャワールームでの話なんだが…」
 「う……」
 
 せめて嘘や冗談じゃない事だけでも伝えようと紡いだ俺の言葉にベルの顔にあからさまな動揺の色が走った。…どうやら彼女としてはあの出来事は思い出したくは無いものらしい。それは俺も同感ではある。だけど、今更、後に引くつもりが俺にあるはずもなく、二の次を紡ごうと口を開いた。
 
 「あ、アレは忘れろ!!良いね!忘れるんだよ!!」
 
 けれど、ソレよりも先にベルの言葉が部屋に響いた。どうやらよっぽど恥ずかしかったらしい。はっきりとこちらを見据えるその顔は、真っ赤に染まっている。それどころか普段は強気に爛々と輝く炎のような瞳にも強い動揺の色が浮かんでいた。
 
 「いや…でもな」
 「忘れるんだよ!!アタシも忘れるから!って言うか、もう忘れたから!!」
 
 話は終わりだと言わんばかりにそっぽを向きながら、ベルは口を噤む。まるでそれ以上、この件に関して話すつもりは無いと主張するような様子だ。多分、これ以上、何を言っても無駄であろう。まぁ…俺としてもあまり思い出したくは無い記憶であるので異論は無いが…とは言え、言いたいことだけでも言わせて貰おう。
 
 「分かった。忘れる。でも…その前に…アレは嘘や冗談のつもりはないからな」
 「うぅ……」
 
 はっきりと言いたい事だけ告げた俺の言葉にそっとベルが俯いた。その頭からは湯気が出そうなくらい真っ赤になっている。体調が悪いのかと思わず心配してしまいそうになったが、彼女の心情を表す尻尾は爛々と燃え上がっていた。少なくとも体調が悪ければそんな風には燃えていないだろう。ならば…これはきっと単純に恥ずかしがっているだけだ。
 
 「まったく…こんなのアタシのキャラじゃないじゃないか…」
 
 ブツブツと呟く言葉もしっかりと俺の耳に届いていた。けれど、流石にソレを突っ込んでやるのは可哀想で、笑顔を浮かべるだけに留める。と言うか、俯くベルの姿が妙に微笑ましいのだ。妹を見る兄の心境と言うのはこういうものなのだろうか。普段は彼女の方がしっかりしているだけに強いギャップも覚えてしまう。
 
 ―…っと。
 
 そんな事を考えていると俺の身体に急激な眠気が襲ってきた。今までずっと硬い地面の上で野宿ばっかりで、食事もろくに取れていなかった所為だろうか。食事と寝床を得て、身体のコリまで解してもらった俺は今までにない程の眠気を覚えていた。
 
 「ん…どうした?眠いのかい?」
 「だな…ちょっと…限界みたいだ」
 
 それに気付いたのだろうベルにそう返しながらも、俺の目蓋は今にも落ちそうになっていた。今はまだ自分の足で立てているが崩れ落ちてしまうのもそう遠い未来ではないだろう。そして、そんな俺を見る彼女もそれを察したのか、こちらへと近づいて俺の身体をそっと支えてくれた。
 
 「じゃあ、今日はもう寝てしまおうか。アタシも今日は早かったしね」
 「悪い…」
 「構わないさ。アタシも実は結構、眠かったんだ」
 
 反射的に謝った俺にそう返しながら、ベルの足が脱衣所とは別の扉へと近づいていく。そして、俺を支えたまま扉を開けて、廊下へ。そのままさっきも見た光景の中を歩きながら、彼女は俺が開けなかった扉に手を掛ける。そのままそっと開いていって――
 
 「さぁ、ここが寝室だよ」
 「…寝室ってお前…」
 
 ―そこは人が住んでいる気配が殆どしなかった。
 
 備え付けの家具と比較的大き目のベッド。あるのはそれだけで、私物らしい私物がまるで見えない。微かに香る彼女の爽やかな体臭が、ここを彼女の部屋であると教えてくれるだけだ。その匂い意外にはここに誰かが住んでいる形跡は殆ど見れない。
 
 「殺風景な部屋で悪いね。でも、殆ど私物は持って来れなかったしさ」
 「あ…」
 
 ケラケラと笑う彼女に私物を持ってこれるような余裕を与えなかったのは他でもない。俺である。俺の看病なんてしていたからこそ、ベルは噴火から身のみ着のままで逃げ出す事になってしまった。勿論、それが彼女の命を救ったという側面もあるが、俺が何か言える義理ではないのは事実だろう。
 
 「…すまん」
 「別に気にしてないよ。整理する手間が省けて楽なくらいさ」
 
 そう言ってベルは気楽に笑っているが…実際、表層ほど単純な感情ではないのだろう。何せ彼女が住んでいた小屋には、両親との思い出と、その品が沢山、詰まっていたのだ。それら全てを失い、アレほど執着していた墓まで失った彼女が「楽だ」と割り切れる筈も無い。まず間違いなくその言葉には幾らか強がりが入っているだろう。しかし、そうとわかっていても、俺は彼女に言う言葉を見出せなかった。
 
 「それよりゆっくり倒すよ。良いね?」
 「あぁ、頼む…」
 
 もう半分ほど閉じた目蓋に従うように身体の殆どは自由に動かない。まるで一週間ぶりに目覚めた時のように、身体が重くて仕方ないのだ。そんな俺の身体を支える彼女は俺から力が抜けていっていることに気付いてくれたのだろう。そっとベッドへと降ろすようにして俺の身体を横たえてくれる。勿論、それは恥ずかしいものであったがリハビリで似たようなことを何度もしている俺にとっては幾分、慣れた事であった。
 
 「っと……じゃあ、アタシも…っと」
 「へ?」
 
 そのままベルもベッドの中へと潜り込んでくる。それに俺の思考は本日、何度目かになる停止を味わう事になった。余りの驚きに目が冴えてしまい、見開いた俺の視線の向こうでも向き合うようにしてベルがこっちを向く。何処か悪戯っぽい表情に朱色が指しているのに気付いた瞬間、ようやくこれが同衾であることに気付いて俺は言葉を発した。
 
 「な、なななななっ!なんで一緒のベッドなんだよ!?」
 「何って…仕方ないだろ。家にはこれしかないんだ。贅沢言わないの」
 「いや…そういう問題じゃないだろ!?」
 
 無頓着だとは思っていたが、まさか此処までだとは思ってもみなかった。そう思うのは本日何度目だろうか。しかし、多分、これ以上は無いだろう。何せ…まだ性欲に滾っている若い男と同衾しているのだ。もうちょっとこう身の危険って奴を感じてもらいたい。
 
 「別に俺ベッド無しで良いから…って言うか、一緒の部屋で寝ること自体、おかしいだろ!?」
 
 ついさっきまでは眠気で気付かなかったが、まずはそこからが突っ込みどころだ。そもそも俺が彼女の部屋で眠ること自体がおかしい。俺たちは別に恋人でもなんでもないのだ。俺はただの居候であるし、他に部屋があるのであれば、そこで十分過ぎる。これでも一応、冒険者であるし、雨風さえしのげればそこそこ体力が回復するのだ。
 
 「俺はリビングで寝るから、ここはお前が――」
 「何?遠慮してるのかい?そう言うのは良いって言ってるじゃないか」
 「いや…遠慮じゃなくてだな」
 
 極一般的な常識の話をしているつもりなのだが…どうやらベルには通じていないらしい。…いや、そもそも俺がおかしいのか?そこまで意識するって言う方が有り得ない話なのか!?…いや、俺は間違ってない筈だ。うん。そのはず…自信がなくなってきたけど……。
 
 「それに一人床で寝かせて自分だけベッドでって言うのも気分が悪いじゃないか。家主命令だ。ここで寝な」
 「うぅ…理不尽だ…」
 
 伝家の宝刀である『家主』と『居候』と言う関係まで持ち出されてしまえば、俺に言えることは何も無い。あくまで俺の立場は彼女よりも遥かに下なのだ。彼女が命令すればそれに逆らえる筈も無い。
 
 ―そもそも…命令って別の方向に使われるものだと思うんだが……。
 
 これがリビングで寝ろって話ならば分からなくも無いのだが、自分の気分が悪いから一緒に寝ろ…と言うのはちょっと方向性が間違っているんじゃなかろうか。自分の本能の激しさを知っている男としてはそう思わざるを得ない。割りと切実に。
 
 「…ちなみにベッドの補給などは…」
 「毎日、一軒は仮設住宅を建ててるこの避難所に既に作ってる住宅に回すベッドの余裕なんてあると思うかい?」
 「ですよねー……」
 
 唯一の希望までばっさりと切り捨てられて、思わず溜め息が漏れ出た。今も住宅が足りていないこの避難所でベッドを手に入れるというのはさっきの服とは比べ物にならないくらい難しい。金さえ出せば売ってくれる人もいるかもしれないが、それは並大抵の金額ではないだろう。俺は元より最近働き始めたばかりの彼女も裕福と言うわけではないから、ベッドを手に入れるのは不可能に近い。
 
 ―まぁ…そこそこ広いのがせめてもの救いか。
 
 幸いにも俺達が横になっているコレは大人でも横に二人、子供であれば三人は並べる大きなベッドだ。一人用のベッドを複数作るよりはこうした比較的大きなモノを作った方が手間暇もかからず楽なのだろう。それに…まぁ、この避難所には魔物娘も多いし、『そういう用途』も兼ねているのかもしれない。
 
 ―…とは言ってもなぁ…。
 
 お互いに両腕を伸ばせるほど大きなわけではない。自然、向かい合う俺達の顔は今までに無いくらい接近しているのだ。それが妙に恥ずかしくて視線を背けてしまうが、その逃げ場さえ殆ど無い。それにどうしても触れ合ってしまう腕や足などに意識が向いてしまって眠れる気がしないのだ。
 
 「…やっぱ止めないか?」
 「駄目。それ以上言うなら、アタシは普段通り裸になるよ。一応、今だって結構、譲歩してるんだからね」
 「…それは譲歩とは言わねぇ…」
 
 ばっさりと切り捨てたベルにそう言い放ちつつ、俺はぽつりと溜め息を吐いた。俺としては決して断れない交渉の場に引きずり込んでおいて何が譲歩だ、と言いたくなる。…まぁ、彼女が俺に気を使ってくれているのは本当だろうが、もう少し別の方向での気遣いを欲したい。
 
 「そんな事を言ってる暇があれば寝たらどうだい?大分、疲れてるんだろ?」
 「そうしたいのは山々なんだけれどな…」
 
 実際、さっき目が冴えたお陰で眠れる気がしない。今も激しく脈打つ心臓からは興奮が漏れ出て止まらないのだ。身体中に熱を運ぶような鼓動のお陰で身体中が興奮している。指の先まで広がった熱はさっきまで俺に襲い掛かっていた眠気を完全に駆逐してしまっていた。
 
 「目を瞑れば眠れるよ。それじゃあお休み」
 「あ…ちょ…!!」
 
 気楽に言い放ちながら、そっとベルは瞳を閉じた。そのまま数秒もしないうちに安らかな寝息が聞こえてくる。あまりの寝つきの良さに呆れるよりも先に関心してしまう。何かの冗談にしか見えない寝つきっぷりに頬を突いてみるが、完全に眠っているようで呻き声をあげるだけだった。
 
 ―…無防備にも程があるだろ…。
 
 男を部屋に連れ込んで、同衾。その上、男よりも先に寝ると来た。ここまで揃うと男として意識されなさ過ぎて逆に情けなくなってしまう。別に意識されたい訳ではないと思うのだが…どうにもこう…もう少し別の方向に気を使って欲しいと言うか、男のどす黒い欲望に気付いて欲しいと言うか…。何とも形容しがたい気持ちになって、俺は小さく溜め息を吐いた。
 
 ―…寝よう。
 
 このまま起きていても何の進展も無い。それならばさっさと眠って体力の回復に努めた方がましだ。今更ながらそう結論付けて、俺もベルに追従するようにそっと目を閉じる。しかし、視界を閉じる事ですぅすぅと間近で聞こえる寝息や時折、触れ合う腕や足に気を取られてしまう。
 
 ―ああああぁぁぁっ!!もう!!
 
 「…はぁ……」
 
 一向に眠れる気配のない自分に小さく溜め息を吐きながら、そっと目を開けた俺はベルから逃げる様に寝返りを打った。何の塗料も塗られていないむき出しの壁が俺の視界を塞ぐ。目を閉じれば見えないとは言え、向き合ったままで寝るよりは少しはマシだろう。そんな風に考えて、俺が再び目を閉じた。
 
 「あんっ♪や…っちょ…もう…♪」
 
 ―…あれ…?
 
 そんな俺の耳に小さな声が届いた。とは言え、微かと言う程ではなく、特に注意しなくとも聞こえる程度の大きさはある。けれど、所々、途切れるような声にはほんの少し違和感があった。まるで何かに媚びるような甘い声は――
 
 「もう…そんな悪戯ばっかりしちゃって…悪い子…♪あんっ♪もう…そんなキモチイイ所触っちゃ…ひゃんっ♪」
 
 ―…まぁ、アレしかないだろうな。
 
 この避難所には山から避難してきた魔物娘も多いのだ。そして、魔物娘と人間が一緒に暮らしてそういう展開にならないはずがない。声しか聞こえないので普通の人間の可能性もあるが…まだ夜が始まったばかりであるというのにヤっちゃう馬鹿はそういないだろう。となると、本能的に、或いは食事的に精が必要となる魔物娘の可能性が高い訳で――。
 
 「やぁんっ♪もう…そんな激しくしたら聞こえちゃうってばぁ…♪」
 
 ―…聞こえてるんだよクソがぁぁぁぁぁ!!!!
 
 思わず叫びたくなってしまうのは仕方のない事だろう。何せこちらはただでさえベルと同衾して悶々としているのだ。その上、近くから最中の声まで聞こえたら本格的に胃が荒れてしまってもおかしくはない。だが、相手はこちらの都合なんておかまいなしに――或いは聞かせているというシチュエーションが興奮するのかもしれないが――喘ぎ声をあげ始める。
 
 ―…もう勘弁してくれよ…俺が何をしたって言うんだ…。
 
 前門に喘ぎ声、後門にはベル。勿論、それは吹っ切ってしまえばただのご褒美になるのだろう。だが、居候と言う立場でそれを楽しめるほど俺は大物ではなく、キリキリと胃が痛むのを感じた。目を閉じたままそっと下腹部に手を当てれば、ついさっきシチューを食べたばかりの腹がぐるぐると空腹とは別の意味で唸っている。
 
 ―…寝よう…もう寝るしかない…!!
 
 現実逃避気味にそう考えたが、そう簡単に眠れるのであればこんな状況には陥っていない。そんな事は俺にも分かっていた。しかし、既に退路を絶たれてしまった俺にはそれしかもう取れる手段が無く――
 
 「っっ!!」
 
 そこまで考えた瞬間、俺の背中に何か柔らかいものが押し当てられた。シャワールームでもはっきりと感じたその感覚は相変わらず魅力的で、俺の脳裏に焼きついてくる。ハリと弾力、そして柔らかさの三つを併せ持つそれは勿論、言うまでも無くベルのおっぱいなのだろう。まるで抱きつくようにして俺の首に手が回っているし、抱き枕か何かと勘違いしているのかもしれない。
 
 「あ、あのあのあの…ベルさん?」
 「すぅ……ふゅぅ…」
 
 念の為、問いかけてみるが、吐息にまるで変化が無い。どうやら本当に眠っているようだ。横に居るだけで抱きついてくるとかどれだけ寝相が悪いんだと心の何処かで思ったが、それを表に出す余裕は俺には無い。何せ現在進行形で背中に柔らかい胸の感触が広がっているのだ。小さく身動ぎする度にふるふると揺れるそれは男の思考をそれ一色に染めるには十分過ぎる凶器である。
 
 ―あぁぁぁ!!もう俺にどうしろって言うんだよ!!!
 
 壁の薄い仮設住宅から聞こえてくる喘ぎ声。そして無防備に俺に身体を押し当ててくるベルに挟まれて、俺の目は冴えきったまま夜が更けていくのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―人生には岐路と言う奴が存在する。
 
 身近な例を挙げるならソレは職業選択だろう。小さな集落などであれば大抵が親の仕事を引き継ぐ形になるが、少し大きな町だと職業選択はそこそこ自由だ。勿論、親の声と言うのは何時の時代も大きく地域差もあるので絶対とは言い切れないが、以前ほど親の仕事を引き継ぐという形ではなくなっている。親魔物領なんかであれば、かつては旅の最大の障害である魔物が魔物娘になっている事もあり、比較的積極的に冒険者と言う職業を選ぶ人間もいるらしい。
 
 ―そんな風にして選んだ職業が…後の人生を大きく変える。
 
 冒険者と言う職業を選び、意気揚々と故郷を出た若者がいるとしよう。それから彼が魔物娘に負けて結婚するのか、或いは最中に無残にも死んでいくのか、或いは冒険者として成功を収めるのかは誰にも分からない。だが、それを選んだと言う事は…彼の後の人生を大きく左右するのは確かだろう。勿論、その選んだ後の振れ幅は少なくないが、職業を変えればガラリと後の展開が変わる。…そして、その選ぶ地点――岐路で、その先の展開を知るのは神様だって無理だろう。
 
 ―まぁ…何が言いたいかと言うとだな…。
 
 「ワシはこれなんかが良いんじゃないかと思うんじゃがなぁ…」
 「えー…コイツがか?」
 「いやぁ…意外と似合っとると思うぞ」
 「そうかなぁ……」
 
 そんな風に俺の目の前で会話する一組の男女。片方はこの避難所を取り纏めている町長だ。辺り一帯から続々と避難してくる連中を纏めて、町の形を維持できているのは一重のこの爺さんの手腕のお陰だろう。余り想像はし難いがそれぞれの村や町の有力者を抑えて今の地位を護り続けている辺り、実は傑物と言えるのかもしれない。
 そしてもう片方はもう御馴染みとなったサラマンダーのベルだ。相変わらず男にとっては刺激的過ぎる格好で、俺の前に座っている。勿論、座っているのは彼女の部屋のテーブルだ。二人がけのテーブルに無理矢理、椅子を寄り集めるようにして俺たちは顔を突き合わせている。
 
 「…つか、お前ら俺を差し置いて勝手に話を進めるなよ」
 「じゃあ、どれを選ぶんじゃ?」
 「う…それは…」
 
 町長の言葉に思わず呻いてしまうのも仕方のない事だろう。何せ俺の目の前にはこの町で俺が出来そうな職業が纏められた紙が広げられているのだ。しかし…当たり前ではあるが、そこに並んでいるのは全て頭脳労働系の仕事である。今まで冒険者としてしか生きてこず、その上、二流止まりだった俺は一つだって上手くこなせる自信は無い。
 
 「残念じゃがこれら以外でワシが口利きできる職は無いぞ?」
 
 ―当たり前だが、俺を雇ってくれる職場なんて殆ど無かった。
 
 この部屋に居候することに決まった次の日から俺は今まで以上に熱意で仕事を探し始めた。勿論、それはベルにこれ以上、迷惑を掛けられないという理由も大きかったが、何より重要なのは寝る時の問題である。結局、初日から殆ど眠れなかった俺は居候する以前とは別の意味で命を削っていたのだ。最近はようやくそれにも慣れ始めたが、ソレと反比例するように仕事は見つからず……そしてつい先日、俺は全ての職場で『お断り』された訳である。
 
 ―そんな俺が避難所で頼れるのがこの爺さんだけで…。
 
 唯一、俺がこの避難所――いや、もはや町と言った方が適切か――で頼れるのは町長であるこの爺さんだけであった。ベルと出会ったあの一件以来、プライベートでは殆ど会っていない相手に頼るのも気が引けたが、町長は快く俺の頼みを引き受けてくれた。それに感謝しつつ、こうして彼が持ってきた紙を眺めている訳だが――。
 
 「…教師とか家庭教師とかそんなのばっかなんだけど」
 「そりゃあそれ以外に紹介出来る仕事って無いからのぅ…」
 「でも、コイツが教えるのなんて出来るのかねぇ…」
 
 ―…正直…今の自分が情けなくて仕方が無い。
 
 その紙に並ぶ文字を見れば見るほど、どうしても二の足を踏んでしまう。そんな自分が情けないと心の何処かで思うものの、それで変われるのであれば苦労はしない。変わりたいという気持ちは確かにあるし…何よりベルはそんな俺を養ってくれているのだ。
 
 ―しかも…何も言わずに…何も責めずに。
 
 それどころか毎日、門前払いを喰らい続けている俺を労ってくれている。励ましてくれている。それがどれだけ心苦しいか…言葉にし難い。自分では半ば無理だと諦めているのに、ベルは優しい言葉を掛けてくれるのだ。正直、男のプライドなんてズタズタである。そんな今にも死にたい状況から逃げ出そうと…プライドを投げ捨てて町長を頼った訳であるが。
 
 ―とは言え……。
 
 「……言っとくが俺が誰かに教えた事なんて今まで無いぞ」
 
 頼った以上は何かしら応えようとは思っていた。少しくらい身体を酷使して、給金が安かろうとベルにこれ以上、迷惑を掛けないのであれば何でもしようとそう思っていたのだ。…だが、現実に俺の目の前に広がるのは思ったより好条件ながらも、今まで就くなんて考えもしなかった教師と言う職業ばかりで……。
 
 「そんなもの知っておるよ。じゃが、教師なんて教科書通りに話を進められれば誰でも出来る職業じゃろう?」
 「おい、今、お前は色んな方面に喧嘩を売ったぞ」
 
 軽く言ってくれる町長に突っ込みながら、俺は小さく溜め息を吐いた。勿論…この町長がわざわざ持ってきてくれるくらいなのだから条件は悪くない。寧ろ俺が出来るであろう仕事の中では最高の待遇だと言って良いだろう。俺の胸に宿る不安さえ何とかすれば、何の問題も無い。だが、今まで入るとも思ってなかった分野で俺が役に立てるのか。また奇異の目で見られるんじゃないだろうか。そんな風に思うとどうしても足を踏み出す勇気が出ない。
 
 ―やれやれ…どうにも…チキンになったもんだな…。
 
 明日をも知れぬ冒険者と言う職業を選んだ頃に比べれば、教師を選べるだなんて安定している。俺のプライドと不安さえ捨て置けば、寧ろ出世したといっても良いくらいだ。だが、向こう見ずで馬鹿だった子供の頃と比べて…変に狡賢く育った大人の俺は中々、決めることが出来ない。
 
 「とりあえず話を戻すけどさ…実際、それしか選択肢が無いならこれを選ぶしかないんじゃないかい?」
 「それは…そうだが…」
 
 勿論、理屈上は彼女の言う通りだ。これからもベルのヒモ生活を続ける――まぁ、俺達は恋人でも何でもない訳だから、ヒモと表現するのは間違っているかもしれないが――つもりが無いのであればここから選択するしかない。そんな事は俺にだって分かっている。
 
 「そもそも、町長がこんな風にしてコネを使ってくれるだけでも有難い話なんだよ」
 「それも…分かってる…」
 「…それじゃあ、一体、何が不満なのさ?」
 
 ベルの言葉に俺は何も言えない。さっきも言ったが、これだけの好条件は俺には望めないくらいだ。それに不満なんてあろうはずもない。そんな事を言ったらこれよりも遥かに悪い条件で働いている人々に失礼だろう。…だけど、今までの自分が全く通用しない分野にどうしても尻込みしてしまう。そして、そんな自分が格好悪いと自覚しているからこそ、彼女の前で口にしたくはなかった。
 
 「不満なんて無い」
 「じゃあ、何でさ?ゆっくりで良いから話してごらんよ」
 
 それは言い聞かせるような優しい言葉だった。これがただ、考えが形になっていないだけなら、たどたどしく口にしていたのだろう。だが、俺の言葉を遮っているのは形にならない不定形な霧ではなく、はっきりとした形を伴った羞恥心なのだ。それを見抜かれるのが嫌で、俺は頭を振ってそっと紙の一番上を指す。
 
 「…分かった。…それじゃあ、コレをやるよ」
 「やるよって…アンタねぇ…!!忙しい所を来てくれてる町長に…!」
 「あ…悪い。そんなつもりは…」
 
 怒るように声を荒上げる彼女の怒りも当然だ。意図しなかった事ではあるが、まるで嫌々やってやると言わんばかりの響きを伴っていたのだから。俺自身、そんなつもりはなかったのですぐさま謝罪はしたもののベルの怒りは収まらない。興奮とは違う真っ赤な炎を燃え上がらせて、俺の方をきっとにらめ付けて来る。
 
 「いや、ワシは構わんよ。でも…良いのかのぅ?」
 
 けれど、そんなベルとは違って、町長の表情は変わらない。寧ろ嬉しそうに笑顔を浮かべながら、小さく何度も頷いている。その瞳の奥で一瞬、試すような光が映った気がするが…一瞬過ぎて確証は無かった。
 
 「良いって…何がだ?」
 「こんな若くて綺麗なねーちゃんとのヒモ生活を手放して良いのか?と思ってのぅ」
 「大きなお世話だクソジジイ」
 
 にやにやといやらしい笑みを浮かべる様子にはさっきの試すようなそれは見えない。多分、俺の見間違えだったのだろう。そんな風に結論付けて、俺は小さく肩を落とした。
 
 「じゃあ、そのクソジジイは二人の甘い生活を邪魔しても悪いので退散するとするかのぅ」
 「甘いって…だから違うっての」
 
 確かに同棲こそしているが、ベルの俺への扱いはペットか何かだ。人間だとは思われていると思うが、決して色恋沙汰のような甘いモノではない。基本、性根が優しい彼女は顔見知りが困っているのを見捨てられなかっただけだろう。その証拠に今までのヒモ生活の中でそんな雰囲気になった事は一度も無いのだ。お互いに何かしらの他意を持っていないので当然と言えば当然だが…少しだけ寂しい。
 
 ―い、いや…そうじゃなくてだな…!!
 
 しかし、この町長からはそうは見えないらしい。俺達が同棲していると知ってから、何度もこうしてからかってくる。傍から見ても一目で分かるくらいさばさばとした関係であると思うのだが…この爺はそうは見えないらしい。
 
 「町長。今日は本当に有り難う。お陰で…コイツも更生出来そうだ」
 「更生ってお前…まぁ、ヒモだから特に否定しないけどさ」
 
 そもそもずっとヒモ生活を続けてきた俺が否定できるものでもない。一応、仕事こそ探していたものの、彼女の世話になりっぱなしだったのは事実なのだから。俺としては自分で望んでそんな風になったのではないと主張したい所だが、まぁ、表現的には間違っていないのだろう。
 
 「別にヒモなのが悪いんじゃないよ。別に養うのは構わないんだ。だけど……いや、良いさ。今のアンタにゃ理解できそうに無いしね」
 
 しかし、どうやら俺が言ったのは少しズレていたらしい。困ったような、悲しんでいるような形容しがたい笑みを浮かべて、ベルがそう言った。それに首を傾げて考えてみるがどうにも思いつくことが無い。そもそも養うのが構わないっていうのに更生ってのはどう言う事なのだろう。俺達は別に恋人でもないし…養う養われるって関係を一生続けていくわけにはいかないと思うんだが……。
 
 「やれやれ…お熱いのぅ。さて、ワシも帰って嫁とイチャイチャしてくるか…」
 「熱いって…別に普通のやり取りだろうが。まぁ、サラマンダーのコイツは確かに熱いけどさ」
 「そこの宿六はもう黙りな。まぁ、それはさておき、見送りに…」
 「いやいや、構わんよ。どうせすぐそこじゃしのぅ」
 
 ガタリと椅子を動かしながら立ち上がった町長はパタパタと手を振った。しかし、ここまでしてもらって見送りも無しとなると、変に礼儀正しいベルにまたどやされるだろう。別に怒られて喜ぶ趣味は無いので俺もまた見送ろうと椅子を立ち上がった。ついでにそのまま剣を手に取り、腰へと靡く。
 
 「それだと俺がどやされるんだよ。一応、ここの重要人物なんだから爺さんはしっかり護衛されとけ」
 「ふむ…しっかり尻に敷かれとるらしいの。どうじゃ。ワシはあの安産型なヒップに敷かれるのは中々、心地良いと思うんじゃが…」
 「いい加減、黙れよこのエロジジイ」
 
 そこには初めて出会ったときにカリスマ溢れる姿はない。今の俺の目の前に居るのはエロネタ、下ネタを平気で言うエロジジイだ。最初は優しそうな風貌の中にしっかりとカリスマを見出して、これが町長になる器か。と感心したものだが…今の彼にはその影さえ見えない。こうやって色々、良くして貰っている身ではあるが、このエロネタやすぐにからかう癖だけは何とかして欲しいと切実に思う。
 
 「ははっ!まぁ、アタシのお尻は大きいしねぇ。でも、心地良いと感じる以前に顔を押し潰しちゃうかもしれないよ」
 
 しかし、そんな爺さんの下ネタにもベルはケラケラと笑って対応する。まるで気にしていないその姿に何処か違うんじゃないかと言う感覚がどうしても拭い去れない。まぁ…別に女は下ネタに恥らうべきだ!と言う先入観を持っているわけではないのだが…余り豪快に受け止められるとこっちも反応に困るというか――。
 
 「ってまた話が脱線してるぞ。とりあえずそこまでなんだから送ってく。どっちにしろ今日の『訓練』も未だだしな」
 「そうか…それじゃあよろしく頼むとするかのぅ」
 
 ほッほと嬉しそうに笑いながら町長はこの部屋の扉の方へと向かう。その背について歩きながら、そっとベルに手を振った。その動きにそっと笑みを浮かべて、小さく手を振り返してくれる。そんな言葉すら交わさない小さなやり取りに暖かいモノを感じながら、俺もまたそっと扉の外へと出て行った。
 
 「よし。それじゃ行くか」
 「うむ。良きに計らえ」
 「…なんだよ。その『良きに計らえ』って。何処の言葉?」
 「何処でも良いだろ!お前は言語学者かよ!!」
 「何でいきなりキレられてんの!?」
 
 そんな下らないやり取りをしながら大分、灰が消えた町並みを歩く。仮設住居が立ち並ぶこの町は大災害の後と言ってもしっかりと生きていた。既に灰が収まった空の下では子供達がボールを蹴って遊んでいるし、灰が取り除かれた町を魔物娘が野菜を抱えて歩いている。町中のそこかしこから灰を集める仕事をする男の声や、足りない住居を作る為に資材を運び込む男の声が飛び交っていた。それらの活気はついこの間に噴火と言う大災害を経験したとは思えないくらい強く、輝いている。
 
 「良い町だな」
 「…そうじゃな」
 
 勿論、住居の殆どは少ない資材で作れる仮設のモノだ。間取りこそしっかりしているが、どうしても壁は薄くなってしまう。別に耳を凝らさなくとも遠くから魔物娘の喘ぎ声が聞こえてくるくらいなのだ。そんな一面だけ見れば決して良いとは言えないだろう。
 
 ―だけど、そんな中でも人は足掻き、生きている。
 
 勿論、今も家族や友人を失い、悲しみに沈んでいる人はいるだろう。けれど、そんな人を飲み込むようにこの町は成長しているのだ。今日より明日が素晴らしいものであると、此処がどん底であるから後は這い上がるだけだと言わんばかりに。それらの活気は生み出そうと思って生み出せるものではない。寧ろ…噴火と言う大災害に絶望し、暗くなるのが殆どではないだろうか。だが、この町はそうじゃない。それが妙に魅力的で…俺はこの町に残ろうと決めたのだ。
 
 「これも町長様の手腕のお陰…ってか」
 「からかうんじゃない。ワシは大した事はしておらんよ」
 「いや…大した事なんじゃねぇかなぁコレ」
 
 少なくとも噴火以前から行商人などと直接打ち合わせ、食料のルートを確保した手腕。今まで備蓄していた金庫を開き、保存の利く食べ物を集めた思い切りの良さ。そして住民全員に落ち着いた対応と協力を求め、これ以上無いと言う程の避難を行った人望。どれだけ切り取っても間違いなく大した事だろう。少なくとも、この町長でなければ、今のこの町はこれほど活気付いては居ないはずだ。
 
 「…そうかのぅ…。御主のような餓死者も出しそうになった訳じゃし、ワシにはそうは思えん」
 「いや…なんつーか、それは仕方ないだろ」
 
 無遠慮に食料だけを供給していれば、備蓄なんてすぐに吹き飛んでしまう。補給ルートを確保しても、対価となる金が必要なのだ。そして、この町には今、その対価が圧倒的に不足している。町の中で循環するのではなく外の世界に流れ出ていくのが殆どなのだ。一応、魔物娘から手に入る恩恵――例えばアルラウネの蜜やドワーフなんかが作った工芸品など――を今は対価として支払っているらしいが、それが何時まで保つかは分からない。収入を魔物娘に頼りきりにならない為に、最近は木材を切り出した所を畑にする計画なんかも始めたらしいが、それが形になるまでもう少し掛かるだろう。
 
 ―そして、その為には切り捨てることも考えなければいけない。
 
 まず第一には俺のような余所者だ。特に冒険者と言う職業はかなり個体差が激しいが、大体、総じて屑である。無防備に炊き出しなんてしていならタダ飯を食いに幾らでも近寄ってくるだろう。それを防ぐ為にも余所者は可能な限り切り捨てなければいけない。それは決して非情な選択でもなんでもないだろう。この町だって余裕がある訳ではないのだ。当然の選択である。
 
 「それに俺自体がかなりイレギュラーなんだ。気にするなよ」
 
 それでも余所者を完全に受け入れないかと言えば答えは否である。余所から働き口を求めて、こっちへと顔を出した余所者と言うのは少なからず居るのだ。そんな連中はちゃんと力仕事に従事して貰った給金で生活している。俺も怪我さえなければその中に入れたのかも知れないが…まぁ、今から言っても仕方のない事だ。
 
 「…そうか。…だが…すまんの」
 「気にするなって」
 
 軽くそう言って見たが隣を歩く町長の表情は晴れない。やはり今の町の状態を作ったものとしては色々、考える所があるようだ。俺としてはここまで噴火が大規模になって、避難所が膨れ上がるなんて予測出来る訳が無いのだから気にしなくても良いと思うのだが…変な所で彼は甘いのだろう。
 
 「うむ…分かった。あの子は最近どうじゃ?」
 「あの子って…ベルの事か?」
 「うむ。何か…困ったことでもないかと思ってのぅ」
 
 ―困ったことと言われてもなぁ…。
 
 元々、世話好きだったみたいで仕事は特に問題ないみたいだし…そもそも最近は怪我人も少なく、落ち着いてきたので空いた時間に医療の勉強もしているという話は聞いた。話を聞く限り仕事上での関係は良好みたいであるし、特に悩みは無いだろう。
 となるとプライベートだが…これはまず俺が第一に挙がる。何せ今の俺はただの居候なのだ。しかも、恋人でもなんでも無い癖に世話になっているという情けないオプション付きの。その他のプライベートと言っても…休日は大抵、家にいるので男の影はないだろう。となると、正直、先の展望もまるで見えなかった俺を心配させていたのが一番、大きな悩みなんじゃないだろうか。
 
 「俺が一番、困らせてるんじゃないかなぁ…」
 「うむ。そうじゃの」
 
 別に否定してくれると思っていたわけじゃないが即答されると流石に凹む。まぁ、町長の目から見ても、俺が一番、ベルを困らせているのは確かだったと言う事だろう。勿論、それは辛いが…かといって否定できる要素は無い。
 
 「…何を勘違いしとるのかその顔を見ればすぐに分かるが…別にあの子は養う事や先の展望が見えない事に悩んでおるんじゃないと思うぞ」
 
 そんな俺をフォローするように横に立つ町長が付け加えた。その意味が分からなくてそっと彼の方を見るが、優しそうなその表情からは何も読み取れない。否定するでも肯定するでもないその様子に俺は首を傾げるしかなかった。
 
 「まぁ…あの子が言う通り、今の御主に何かを言った所で気づきはせんじゃろう。だが……一つだけ御節介として言うのであれば、じゃな。…もう少しだけ自信を持って良いと思うぞ」
 「自信ねぇ…」
 
 とは言っても、自分の何を信じろというのだろうか。冒険者としての実力は二流。生き残る為に何でも手を汚してきた割には御節介で、その上、自分のケツも拭けずにベルに迷惑ばかりを掛けている。片腕も失い、力仕事にさえ従事できず、こうしてプライドを捨ててようやく仕事が手に入るかどうかだ。そんな男の何を信じられるというのか。俺がもし、そんな男を見たとしても、何一つとして信用出来る要素が無い。
 
 「まぁ…その辺りはワシじゃなく、あの子に教えてもらうんじゃな。ワシとしても男に何か教えるよりも、嫁にエロい事教えた方が面白いし」
 「爺さん…アンタ、何歳だよ…」
 
 未だに盛んらしい爺に呆れたように言い放つが、まるで応えた様子が無かった。それどころか嬉しそうに肩を上下させて笑っている。そこにはさっきの曇った表情は見えない。少なくとも今は、俺をからかう事に集中しているようだ。そう思うと少しだけ安心する反面、からかわれていると言う事に拗ねるような気持ちを覚えてしまう。
 
 「まぁ…あの子の事は頼むぞ。何だかんだで世間知らずじゃからのぅ」
 「俺の方が世話になってるけどな。まぁ…職に就いたらあの部屋は出るつもりだが、それ以降もたまには顔を見せるよ」
 
 職さえ決まれば、あそこに居る必要は特に無いのだ。一応、この避難所には外から来る行商人用に宿も作られている。定期的にお金が入るのであればそこと賃貸契約しても良いだろう。今はまだまだ仮設住宅の数は足りないが、落ち着けば俺の方にも回ってくるだろうし、その後はそっちに移るのも良いかもしれない。
 
 「あ、それ駄目じゃから」
 「え?」
 「あの子と同居しておかないとワシ紹介しないから」
 「なにそれこわい」
 
 俺としてはとっとと彼女との居候生活を脱出して、自由気ままな一人暮らしを満喫しようと思っていたのに、町長の言葉がそれを遮った。それに信じられないような視線を向けるが、彼の顔にはもうからかうような色は無い。寧ろ真剣そうな色を強く浮かべていた。少なくとも、条件を出してまで俺とベルを一緒にさせたいのは確実のようである。
 
 「…なんでだ?」
 
 だが、正直、その理由が分からない。俺はお世辞にも良い男と言えるような奴ではないのだ。寧ろ世間様一般で言えば明らかに『地雷』と称されるような男である。そんな男とそれなりに気に掛けている女が一緒に居て、良い気分にはならないだろう。俺が逆の立場であれば思いっきりぶん殴って、無理矢理、離れさせている。だが、町長はまるで俺とは逆の道を突き進むように、言葉を翻さない。
 
 「まぁ、理由までは教えてやれん。そもそも…まだ気付いてなさそうじゃしのぅ」
 「…訳がわからん」
 
 主語さえ抜かれたその言葉を理解できるのはエスパーか化け物くらいだろう。そのどちらでもない俺は呆れたように肩をすくめるしかない。そんな俺を見ながら楽しそうに笑っている町長を睨めつけるが、余り効果はないようだった。
 
 「ともあれ、職を紹介して欲しいのであればあの子と一緒にいてやれ。職についてからも離れたら即クビじゃからな」
 「なにこの独裁者こわい」
 
 とは言え、俺に拒否する選択肢などあろうはずもなかった。そもそも俺はもう全ての方面で『お断り』を頂いているのである。この町で生きていくにはどうしてもこの町長を頼るしかない。そして、その為の交換条件としてベルの傍に居るのを提示されるのであれば、それを呑むしかないのだろう。
 
 「でも…どうしてそこまでベルを気にかけるんだ?」
 
 ―そう。それはずっと気になっていたことだった。
 
 勿論、この爺さんは比較的温和で優しい人間だ。だが、一方でその権力の使い方には無駄が無い。余所の村から避難してきた村長などの権力者を抑えているのも、言う程簡単なことではないだろう。いや、それ以前に非情にならなければ今の地位には立てなかったはずだ。そんな男がどうして山の中に篭っていた小娘一人を気にかけるのか、どうしても腑に落ちない。
 
 「そもそも最初の依頼だって…いや、まぁ、俺の推測が正しければ…だが、アイツを引き摺り下ろす為だったんだろう?その為に…アレだけの報酬を用意した。今回の事だって、ベルの事を強く念押ししている。…それだけ執着するだけの理由がアイツにあるのか?」
 
 問いかけたそれに隣の男は応えない。ただ、何処か遠い何かを見つめるような目をしている。それに惹かれるように俺も先を見つめてみたが目に入るのは沈みゆく、夕日くらいなものだ。だが、きっとこの男にはそれ以外の何かが見えているのだろう。多分、それは『過去』と言われるようなモノで…俺にはどうあっても見えないものだ。
 
 「まぁ、ワシにも色々あったんじゃよ。若気の至りとか…色々な」
 「そういうもんか」
 
 少なくとも話すつもりは無いらしい。それが分かっただけでも十分だ。別に俺としても二人の関係にそこまで執着しているわけじゃない。ただ、少しだけ好奇心が疼いたというだけで…誰しも触られたくは無い過去がある事くらい良く理解しているのだ。
 
 「それじゃあ、ここまでで良いからのぅ」
 「って、まだもう少し距離があるぞ?」
 
 この町である意味最も有名なこの爺さんの家はもう少し先だ。とは言え、もう道の半分以上を過ぎているわけだから、襲われる心配と言うのは無いだろうが…それでも用心に越したことは無い。
 
 「だって…一緒に帰って噂されると恥ずかしいし…」
 「よし。一発殴らせろ爺」
 「まぁ、それは冗談にしても、ワシにだって独りになりたいことくらいあるんじゃよ」
 「…そういうもんかね」
 「そういうもんじゃ」
 
 やけに真剣な表情に思わず握り拳を作った手を解いてしまう。まだ何処か遠い目をしているこの町長は本当に独りになりたいと思っている。それが分かったからだろうか。
 
 「…悪いな。変なこと聞いて」
 「何。御主の立場なら聞いて当然の言葉だったと思うぞ」
 
 そして、それはきっと俺が変なことを突っ込んでしまった所為だ。その気持ちを込めて謝罪すると彼は少しだけ笑った。何処か嬉しそうなその笑顔の理由も俺には勿論、分からない。分からないが…まぁ、悪い気分じゃなかった。
 
 「そうじゃ。最後の一つだけアドバイスをしておこう」
 「ん?」
 「御主はもう少し他人よりも自分に目を向けたほうが良いぞ。他人に鈍感なのは笑い話にも出来るが、自分に鈍感なのはギャグにもならんしのぅ」
 「…おう」
 
 そのアドバイスの意味が理解できないが、とりあえず頷いておく。それに町長はそっと微笑んで、一歩二歩と歩き出した。何処か軽やかなソレを後ろから見つめると意外なほど隙が無い。もしかしたら、昔、何か武術でも嗜んでいたのかもしれなかった。
 
 「あ、有り難うな」
 「感謝は要らんよ。その代わりあの子を泣かしたら承知しないからのぅ」
 
 そんな風に言葉を交わして、爺さんはそっと去っていく。その背中を数秒ほど見つめていたが、俺もまた踵を返した。そのまま元来た道ではなく、別方角へと足を進める。夕暮れ時の所為だろうか。家へと戻る子供達と何度か擦違った後、俺は小さな広場に足を踏み入れた。
 
 「さってと……」
 
 そのまま左手で腰に靡いた剣を抜く。夕暮れ時のオレンジの光に照らされた白銀の刀身は今日も美しい。俺の不慣れな手入れでも曇り一つ残さないその長剣に感心さえ抱きながら、俺は一回、二回と剣を振るい始めた。
 
 ―最初は…剣を振るう事さえマトモに出来なかったんだよな…。
 
 利き腕ではなかった左腕は失った右腕と比べるとどうにも弱く、最初は一回振るうごとによろけていたのだ。重心を制御することも出来ず、剣に振り回されるような様だったのを良く覚えている。だが、今の俺は一回一回に素早く剣を振るい、思ったとおりの位置で止める事が出来た。それは毎日の弛まぬ努力のお陰だろう。
 
 ―と言っても…暇だから始めただけなんだけどな。
 
 仕事を探すのとは別の時間は殆ど俺の自由時間だ。一応、ベルの家事を手伝ったりもするが、それだってすぐに終わる。とは言っても、暇な時間にダラダラと駄弁るような関係ではなく、勉強するベルと違って俺は暇を持て余していた。そんな俺の目に彼女から預かったままのこの長剣が目に入り、暇潰しついでに剣を振るうようになったのである。最近ではこうやって剣を振っていないと落ち着かないくらいで、俺の生活に深く食い込んでいた。
 
 「101…102……」
 
 勿論、その構え方も大分、変化している。以前は正眼に構えていたモノから左腕を前に出すような構えへ。まるでレイピアを構えるようなそれが恐らく今の俺には一番適している。何せ、俺には片腕しかないのだ。防御出来る面積も攻撃できる範囲も小さい。そんな俺が無い頭を絞って考え出したのが、左腕一つで防御と攻撃をこなせるこの構えだ。
 
 「152…153…!」
 
 ―……でも…自分に鈍感…か。
 
 剣を振るいながら、さっきの町長の言葉を考える。別に俺は物事や心の機微に敏感なつもりは無い。けれど、別に鈍感なつもりも無かった。正直、あんな事を言われたのは初めてである。だが、初めてだからと言って、邪険にできるほど、あの男の言葉は軽くなかった。
 
 ―ってことは…俺は自分で自分の何かに気付いていないんだよなぁ…。
 
 思い返してみるものの、それで気付けるのであれば苦労はしないだろう。そもそもここ最近はずっとベルとの居候生活で頭が一杯だったのである。それ以外の事なんて考える余地など殆ど無かった。
 
 ―そもそも…毎日、人を洗ったり…バスタオル一丁で出てきたり…ベッドまで相変わらず一緒だし……!!
 
 初日に味わったそれらは勿論、今でも続いていた。多少は気を使うような素振りも見せ始めてきたが、ベルも譲るつもりは無いらしい。最近はそれに少し慣れてきたとは言え、それ以上にエスカレートしている方面もあった。
 
 ―この前は面倒だから一緒に入ろうって裸で乱入しようとしてくるし…。
 
 流石に乱入前に扉を押さえ込んで阻止したが、アレは危なかった。今でも思い返して冷や汗が流れるくらいである。後、一秒でも遅ければ俺は裸のベルと対面していたことだろう。それが少しだけ惜しく感じるが…もし、対面していたらガチ勃起したムスコも見られてしまっただろうし、アレで良かったのだ。毎度、人がシャワーや風呂に入っていると頭や背中を洗おうと乱入してくるので裸を見られるのは慣れたが、流石にムスコを見られるのだけは一度も無いのだから。
 
 ―まぁ…悪い奴じゃないのだけは確かだな。
 
 と言うか確実にベルは良い奴だろう。でなければ、知り合いと言うだけで異性を部屋に居候させて養ったりはしない。寧ろ良い人を通り越して無防備すぎるくらいだ。背中を流すのも俺が片腕では辛いだろうと気を使っているからだろうし、ベッドが一緒なのも俺を床で眠らせないためだろう。まぁ…性的な方面に無頓着なのは少し治して欲しいが、それ以外には非の打ち所の無い女だ。
 
 ―気遣いも出来る。料理も美味い。それに美人と来てる訳だしなぁ。
 
 姉御と言う言葉が似合う彼女。その反面、料理も美味く、所々の仕草が妙に女らしいベル。常に快活で明るいが、時折、妙な部分で照れるサラマンダー。そのどれもが彼女であり、どれもが魅力的だ。正直、そんな相手と一緒に暮らしてきて、今までよく理性がもったものだと感心さえする。
 
 「499…500!!…っと…」
 
 そんな事を考えていると日課の素振りが終わってしまった。ふと空を見上げれば、もう夕日も沈んでしまったのか何処か薄暗い。仮設住宅を立ち並ぶ方からは優しい光が漏れているし、そろそろ夜の時間だろう。ベルが料理を作って待っているだろうし、そろそろ帰らなければいけない。
 
 ―帰る…か。
 
 どうやら俺は何時の間にかあの声が丸聞こえな仮設住宅を自分の帰る場所であると認識していたらしい。それが妙におかしくてクスリと笑みが漏れ出た。しかし、そんなに悪い気分ではない。…いや、寧ろ浮かれるような今の気分は良いと表現した方が正しいだろう。そんな風に結論付けながら、俺はそっとその脚を家へと向けた。
 
 ―そのまま数分後、我が家の扉を開いた俺は――
 
 「おかえり。もう御飯出来てるよ」
 「…あぁ、ただいま。今日の飯は何だ?」
 
 そんな風に言葉を交わして、何時も通り、彼女の美味しい御飯に舌鼓を打ったのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11/04/27 17:25更新 / デュラハンの婿
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