連載小説
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Nr.2 The Other Day, I Met a Bear.
 木漏れ日の射す中、彼はあてもなく歩いていた。
 平原を進み、岩を乗り越え、藪を抜け、鬱蒼とした森林へ入り…、可能な限り真っすぐな足跡を刻むように進み続けている。
 なぜそうする必要性があるのかという記憶はおぼろげだが、誰かからそう指示を受けたという事だけは彼の脳裏に焼き付いていた。
 石や沼を踏むたびに姿勢を崩し、無機質な白い肌を泥や砂で汚す。膝を着くたびに立ち上がり、愚直なまでに指示に従う。
 視界の端を小さな生き物が過ぎ去ろうとも、彼の視線がそちらに向くことは無かった。多くは身を縮こませ警戒するか茂みに逃げ込むか、どちらにしろ彼からすれば乱立する木と大差ないものに見えていた。
 また膝をつく。これで何度目かといった事すら、彼は考えていなかった。
 膝に手を付き立ち上がろうとする。しかし彼の行く手に、彼の視界に、初めてこちらに近寄る動く物が映った。
 蒸栗色の明るい毛の塊と、そこから生える三本の鋭利な突起物。それが二つ、視界の奥の茂みから現れ、そして立ち止まる。
 彼は頭をゆっくりと上げ、それの全貌を視界に入れようとした。
 二つの毛玉は同色の毛並みに包まれたしなやかな脚へと続き、大腿の半ば程で艶のある肌色へとかわる。
 腰には丈の短い赤の下衣を履き、くびれのある腹部、脚と同じ色の毛に包まれた双丘と、女性的なものである事が見て取れた。
 首元の首輪まで視線を上げたところで視線に気がつき、更に上へと視線を上げる。金色の瞳と眼があった。
 途端、彼は顔に柔らかい感触を覚えると共に、仰向けに薙ぎ倒されていた。目にもとまらぬ肉球の一撃、彼には避ける暇もなかった。
 彼女が脚の付け根辺りに圧し掛かる。両腕は手首が肉球と毛の心地よい感触に包まれており、身動きが取れない。
 彼が右腕を上げようとすると彼女…ワーキャットは抑えつける力をより強め、逃がす気はない事を行動で示した。
 「ほのかな雄の匂いに身を委ねてみれば…にょっほほぉっ♪美味しそうなチビっこゲットだニャンっ!今日は良い日…そして記念すべき日だニャン♪」
 紅潮し、肩を揺らし、荒れた息遣いを静謐な森に響かせる。彼女は明らかに冷静さを欠いた様子だった。対して下敷きにされている側の表情は変わらず、空色の瞳で無表情のままに彼女の顔を見つめている。
 「こ〜んな時期にこ〜んな所をこ〜んな格好で…ぐっへへぇ…まったく悪い子だニャンッ!お姉さんがお望み通りお仕置きしてやるのニャスッ♥」
 舌なめずりの後、口を尖らせたワーキャットの顔がゆっくりと彼の顔に近づく。
 毛や肉球の感触は心地よく、人肌の熱も悪いものではないと考える彼だったが、迫りくる唇には内心驚いていた。
 どうにか止められないものかと彼は周囲を見回し、自身から生えた白い尻尾を見つける。とっさの判断でそれを動かし、目と鼻の先となった彼女の顔面に押し付けた。
 「ブホッ…モンッ…ムフッ…ンンッ…ブボハッ!なんニャッ!往生するのニャッ!!大人しく食べら…れ……?」
 ワーキャットは自身の接吻を妨害したものを見ると共に、言葉が途切れる。
 それを触り、手で付け根を辿る。しっかりと身体から生えている事を確認すると、今度は彼の頭へと手と眼を向ける。
 撫でつけるようにするワーキャットの手の動きに合わせ、彼は反射的に耳を寝かせていた。
 一瞬の沈黙、彼女は深いため息と共に項垂れ、彼の上から腰を上げ、恨めしそうな視線で彼を睨みつけた。
 「クールになって見てみれば、ショタっこにしては随分おなごベクトルにプリチーすぎニャ…ロリロリなのニャ…。」
 再び、溜息。
 「お前さんも魔物かにゃ?ったく…こんな時期に…ホントのホントに紛らわしいのにゃ…。雄の臭いをひけらかしニャがら歩くニャんて…良い性格してるのニャ……お幸せにニャ…ケッ!。」
 ぼりぼりと音を立てて尻を掻きつつ、女性は彼から離れて行く。
 「もうこの際ジャリボーイでも良いと思ったら…あ゙ぁ゙ーマジでないニャア…あんな小娘にすら後れを取るニャンて…。」
 彼は尻尾で身体を押し上げて立ち上がり、自分から遠ざかっていくワーキャットの背中を黙って眺めていた。
 初めて自分以外の人に会えた彼にとって、出会いはどうあれ彼女が初めての温もりだった。
 彼には、彼女を追いたいという感情が芽生えていた。彼女は暖かく、柔らかく、一刻の間ではあったがとても満たされた気分だった。
 しかし彼が彼女を追う事は無かった。姿が見えなくなるまでその背を見送り、見えなくなると共に、進んできたのと同じ方向に再び脚を伸ばす。
 進む時間に比例するかのように緑は濃くなり、陽を遮る枝葉も増え、辺りは暗さを増していく。日が沈み始めたのも原因の一つだった。
 暗がりでは足を取られる事も増え、周囲の茂みが騒めき、何者かの視線を度々感じるようにもなった。すぐそばに何かがいたとしても、彼の側からそれを知る事はできないだろう。
 蛇の出す威嚇の音も、蛙のしゃがれた鳴く声も、木々の間を縫って響く野犬の遠吠えも。彼にとっては初めて聞く音であり、無知であるがために足を止める理由にはならない。
 すっかり陽が落ち、月が頭上高く輝く頃合いになって、ようやく彼は木に背を預けるようにして座り込んだ。
 疲労や夜の森への恐怖といったものは感じていなかった。しかし彼の足は何かが枷となり、それ以上進む気力が失せていた。
 膝を抱え込み、尾を体にまきつけ暖をとる。夜の森は冷え込み、既に悴みから感覚がない部位もあった。
 ふと手持ち無沙汰から、木々の僅かな隙間に覗く空を見上げた、道程に比べ枝葉の幕が薄く、濃紺の空に星が瞬く。だが夜空に浮かぶ月も星も、彼からしてみれば始めて見るよくわからないものであり、足元を照らしてくれる薄明るい月光以外に関心は持てなかった。
 僅かといえど光差す事で、今までの道中よりは森の中が見渡せる。視界の広さは、彼の心に僅かながらの暇を生み出した。
 ぼんやりと空を眺め、陽があった頃に出会ったワーキャットの事を彼は思いだしていた。
 今頃あの人はなにをしているのだろうか、あの人はなにをしようとしていたのだろうか…そんな事を考える。今の彼にとって、退屈しのぎになるものはそれぐらいしかなかったが、それだけでも満足だった。
 足を止めさせたもの、それが孤独感であるという事を彼は知らない。胸にぽっかりと穴が開いたような感覚すら、うまく自覚できてはいなかった。
 少ししたらまた進もう、言われたとおりに。そう思いつつも腰を上げる気にはなれず、時間だけを食いつぶしていく。
 地面の小石を裏返してみたり、月明かりに目を細めたり、虫の輪唱に耳を預けてみたり…。思いつく限りの暇つぶしを試してみるも、全てすぐに飽きてしまう。
 どれほどそうしていただろう、周囲がしんと静まりかえっている事に気が付いたのは、重い瞼を必死で閉じぬよう堪えている時だった。
 あれほど騒がしかった虫の声一つしない、静寂に包まれた世界。その静けさの中から、小枝や落ち葉を踏みしめる音が近づいてきている。
 歩調は遅く、しかし一定の間隔をあけて聞こえてくる。軽快とは言い難く鈍重な印象を受けるそれは、着実に彼の元へと向かっていた。
 音の主が、悠然と暗闇から姿を現す。青白い光にまず照らし出されたのは、密に生えた茶色の毛、太く発達した顎と牙の冴え揃った口。丸い耳とつぶらな瞳はそれだけなら愛嬌を覚えるが、淀んだ錆色の瞳は空腹を彼に訴えかけていた。
 愛おしさすら含むその視線は間違いなく獲物へ向けるそれであり、抱擁を迫るかのように一歩また一歩と気負って進む脚は、逃げてくれるなと訴えるかのようだった。
 純粋な飢餓を抱く巨大な熊に迫られる。しかし彼は物怖じする事なく、それを眺めていた。人でもなく、風景の一部でもないその生き物をジッと観察し、感じたことのない肌を刺すような気迫に新鮮味を感じていた。
 その生き物が後ろ足二本で立ち上がり、ゆったりとした動作で両前足を広げた。
 熊がその大口を開き、腹の底から咆哮を響かせる。静まり返っていた森に雷が落ちたかのように大気が震え、息を潜めていた小動物が蜘蛛の子を散らすように離れていく。
 両の腕を更に上げる。丸太のような腕が木の根元に振り下ろされ、木の幹に六本の交差する線が刻み込まれた。
 熊の手は生暖かい土だけを捕らえていた。その下に獲物の姿はなく、じんわりと伝わる諸刃の痛みに熊はその眼をより鋭くする。
 巨体の首が右へ曲がる。暗い森の中でも映える、白い肢体の彼が立っていた。彼もまた熊の双眸を見つめてはいるが、僅かにへの字に曲げた口元以外はまったくと言っていいほどに表情を変えずにいる。
 四つの太い足で二度三度と地を蹴り、再び肉薄すると同時に、今度は右前足左前足と続けざまに振り下ろす。彼は熊の足をしっかりと見つつ当たる直前で背後に軽く跳び、鈍い音と共に地にめり込むそれから身をかわす。
 彼女と比べれば、あの毛玉の動きは遅すぎる。彼がワーキャットの肉球の弾力を思いだす一方で、熊は顎をめいっぱいに開き喉を震わせ、唾液をまき散らす様に怒声をあげていた。
 横薙ぎの腕は屈んで避け、打ち下ろす腕は左右後方に退き、牙が迫れば鼻先に跳び乗り額を踏み台に跳び退く。一方的な攻めではあるものの、始めのうちは熊に分の悪さが目立った。
 単調な攻めの手に慣れ、作業を熟す感覚で往なしていた時だった。跳ねて着地した彼の足はぬかるんだ地面に飲み込まれ、玉砂利の上に尻もちをついた。脚を引き抜く最中、熊の脚が彼の腹部へと振るい落とされる。
 追い追われのうちに彼らは森を抜け、開けた渓流へと出ていた。丸石ばかりで木も生えていない岸辺は、その下に水気に富んだ柔い土を隠しており、用心抜きで踏み入れば途端に足を取られる様子だった。
 更に逆の脚で薙ぎ払われる。彼の身体は宙を舞い、玉砂利の上を転げまわった。肩を擦り、頭を打ち、脚を折り…沢の浅瀬辺りでようやく止まる。
 「……………。」
 奇妙な事に彼の身体は無数の傷を負いつつも血を流すことは無く、致命打となるに十分な一撃を二度も受けていながら、息絶えるどころか気を失う事すらしていなかった。
 泥水に顔半分が浸かっているも、相変わらずの表情のまま視線を熊へと向けている。熊の方はと言うと、ぐったりと動かなくなった彼を討ち取ったと思い込み、余力を振り絞り彼へ駆け寄ろうとしていた。
 立ち上がろうとするも、彼の身体はまともに答えてはくれなかった。立ち上がるどころか顔を上げる事すら敵わない。指先だけ僅かに動くのが、彼にはむしろ癪だった。
 眼を細め、諦めたように静かに閉じる。手足が動かないのではどうしようもないと、彼は微睡みに身を任せる事にした。
 熊にとっては幸福だった。あと少し獲物を取るのが遅れれば、飢えで狩りすらもままならなくなり、朝日を拝めていたかすらも怪しい。彼らに感謝といった概念はなかったが、血肉となる獲物がこれほど魅力的に見えているのは初の事だった。
 しかし、あと少し歩を進めればご馳走にありつけるという所で熊は脚を止めた。歓喜に開け広げていた口を閉じ、両耳を忙しなく動かす。
 羽虫が羽ばたく音。しかしそれより遥かに大きく、力強い煩わしい音、それをたどり空を仰いだ時、熊の眼から希望が薄れた。
 月の光を遮り、何かが見下ろしている。熊に匹敵する巨体、しかし多くを曲線で構成する熊とは対照的に、その影はいたる所に鋭角を備えている。
 それは羽ばたくのを止め、獲物と熊との間に割って入る。鎧のような外骨格に身を包み、甲虫の様な下半身から延びた四本の関節肢で降り立つと、右手に備わる巨大な鋏を数回鳴らし、脅す様に広げたそれを熊へと向ける。
 ここで退けば明日を生きることはできない、本能が警鐘を鳴らす。何度目かのお預けに、既に熊は限界を迎えていた。
 胃液を吐き出す勢いで雄叫びをあげる。搾りかす同然な最後の力を全身に込める。筋力を、体重を、体格を最大に活かした一撃に全てを賭け、鈍色の甲虫に突進を仕掛けた。
 踏み固められた泥が水を吐き出す。踏みしめられた石が砕け散る。普段でも出せない力…生命力そのものを纏った熊が、ソルジャービートルに迫る。
 重々しい音が木霊した。熊の一撃は細い腕にあっさりと抑えこまれ、その頭は開き切った鋏の中に収まっている。
 たった一瞬。たった一度の攻防で、勝負は決した。
 鋏がゆっくりと閉じられる。冷たい凹凸が皮に、肉に、骨に達し、メキメキと音をたてる。
 飢えた獣は恐怖に固まり眼を閉じる事すら敵わず、情けない唸り声を漏らすことしかできなかった。
16/11/07 21:38更新 / Snow Drop
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■作者メッセージ
約5000文字。
三日に分けて書いた結果、日ごとに文体が変わってしまってます…。

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