上 春は目覚めの時期
とある早朝、レスカティエ第３７駐屯地の片隅にひっそりと掘られた穴の中に隠れる者達がいた。
「ふふふ･･･。ようやく力が戻ってきたわ」
明りのない穴の中に、ツンと尖った印象を与える女の声が響く。その声には、封じられていた自分本来の力が戻ってくるのを感じた喜びが込められていた。
「今回もやるのかい？」
若々しいが落ち着いた男の声が穴の中に小さく響く。その声には、女の声に含まれた喜びと好戦的な匂いに対する心配が込められていた。
「ええ！やるわよ！今度こそ、どちらが女王に相応しいかはっきりさせてあげるわ！あーはっはっはっはっは！」
女は戻ってきた自分の力に酔いしれたように高らかに笑った。男はその様子に、今回も失敗する未来しか想像できずため息をつくのだった。
❖
春の匂いが風に乗ってくる季節、レスカティエ第３７駐屯地司令官を夫に持つトトリは週に３日訪れる３時間の別離・・・、仕事という名の長き苦行を始めようとしていた。
エルフ特有の耳は気だるげに垂れ下がり、その眼には憂鬱さがありありと現れている。
司令官を務める夫は意外と忙しい。
この駐屯地は辺境にあり戦線からは遠く離れているので、軍事的な忙しさは、あまりない。 昨年晩秋の頃に行った遠征はとても珍しいことであった。
「あ〜、ベットに戻りたい。ふかふかの布団とオリオに包まれたい。貴女もそうだよね〜」
そのため、戦闘好きな種族や戦場で夫を求める若い魔物たちには人気がなく、以前は小ぢんまりとした村のような駐屯地であった。
「ん〜、あったかくなってきたから大掃除もしたいな〜。貴女用の道具を置くスペースも確保しないといけないし、いずれは部屋も用意してあげないといけないね」
膨らんだお腹を擦りながらまだ見ぬ相手に話しかける。
「貴女は可愛らしい部屋がいいかな？それともシックなお部屋がお好みかな？ふふふ」
しかし、数年前とある事情でこの駐屯地一帯が明緑魔界に変わると、事情が一変した。
「それにしても・・・。口寂しい・・・・・・」
パクッ
自身の人差し指を咥えてみる。
「ちゅっちゅ、ぺろぺろ」
（物足りない、やっぱり夫のおちんぽを！・・・いや何か食べてごまかそう。ｺﾞｿｺﾞｿ・・・）
暗黒魔界の仄暗かった大地に青い空と輝く太陽、そして緑の草木が戻ってくると、それを好む植物型や獣人型、昆虫型、妖精型の各魔物たちとその夫たち、それ以外にもスローライフを送りたい夫婦が移住するようになり、人口が急増しているのだ。
「モグモグ、ヨーグルトに苺のジャムは定番だよね。ほかのジャムでももちろんいいけど、苺の甘さと種のツブツブ感がいいのよね〜♪」
人口は増えても彼らは兵士ではない。なので、それぞれがそれぞれで事業を起こして生活の基盤を整えている。
農業を行い穀物や野菜、果実を育てるトロールやワーラビットたち。
乳牛を育てるホルスタウロス、ふかふかの羊たちの間に入り込んで眠っているワーシープと牧羊犬のように彼らをまとめるコボルトたち。
「モグモグ、はちみつも入れよう」
ドリアードやエルフが木を育て林や並木を作り、木々に守られるようにアルラウネやリリラウネが草花を育てて花畑を作る。妖精たちは花に誘われ遊びまわって鱗粉を振りまき、その横で蜜や樹液を求めるハニービーと夫がミツバチを飼って養蜂家になる。
集まった蜜を狙うホーネットやグリズリーたちも拡大する駐屯地の警備に一役かっている。
「モグモグ、ごっくん。今日の報告書は何かな・・・・・・。夏に向けた宿泊施設の建設に・・・、春の第一便の目録ね」
明緑魔界として環境が整うと、暗黒魔界とは大きく違う景色を求めて観光客が訪れるようになった。特に親子連れに人気で、レスカティエの魔界化後に生まれた子供たちに人間界に近いここの景色を見せてあげたい親も意外と多いようなのだ。
また、明緑魔界ならではの人間界の野菜や果物、花や材木、それにホルミルクやワーシープウール、アルラウネの蜜やハニービーとミツバチの蜂蜜、妖精の鱗粉などがレスカティエの各地に出荷されてこの地の重要な産業となってきている。
ただ、これらの住人たちを管理する町としての機能がまだ整備されておらず、町長としての役割も駐屯地司令官が兼任しているため、定期的に仕事の時間を取っているのだった。
「よーし、一回深呼吸して、気分を切り替えようかな！」
ホルミルク製の美味しいヨーグルトを食べきると、トトリは窓を開けて大きく深呼吸を行った。
春の始めとはいえ朝の風は今だに冷たいが、夜通し温まった体と頭には丁度よい目覚ましになる。
だが･･････。
「あれ？ちょっと空気が甘いかな？」
明緑魔界の空気は魔界だけあって人間界より甘い匂いをただよわせている。
しかし、トトリの感じた匂いはもっと濃い、暗黒魔界に近いもので・・・。
「あ〜、去年より少し早いかな？予定より少し早いけど。ランタさんたちを呼ばないとね」
事情を察したらしきトトリはそう呟くと、机に向かって座り、夫の実家へ手紙を書くのだった。
❖
トトリが手紙を出してから２日後のお昼前、１頭のワイバーンがレスカティエ第３７駐屯地を訪れた。
そのワイバーンは夫と一緒に人や物の輸送を業としており、今回は１組の夫婦を籠にのせて運んで来たのだった。
「ランタさーん！いらっしゃいませー！お待ちしていましたー！」
出迎えるのは大きく手を振りながら挨拶するトトリと、ワイバーンの見事な着陸に心奪われているクーシーの軍師見習い、プーリである。
「は〜い！トトリちゃ〜ん。お待たせいたしました〜。妊娠おめでと〜！」
おっとりした声で返事を返すのは、みずみずしい褐色の肌と艶めかしい肢体をわずかな布と包帯で隠し、黄金の装飾とペットである深紅のコブラを巻きつけた女性。
ファラオ：ニトランタ・シエクリスである。
先ほどまでワイバーンに夢中だったポーリもニトランタが籠から下りて近づいてくると、その王者の気配にあてられたのかがちがちに緊張してしまっている。
そんな新人にクスリと笑いながら、トトリは正面まで近づいたニトランタとその夫を出迎えると。
「トトリちゃん、妊娠おめでと〜！これ私たちとシロさんやシブンさん達皆からのお祝いよ！」
「わー！こんなに沢山！有り難うございます！皆さんにも有り難うございます！とお伝えください！」
早速とばかりに妊娠祝いの品を山と渡された。多分出産祝いはもっと多くなるのだろう。
ニトランタはニコニコと機嫌よく膨らんだトトリのお腹に話しかける。
「まあまあ、大きく育って。もうしばらくの辛抱でちゅよ〜。お母さんのおなかの中ですくすく育って元気に出てきてくだちゃいね〜」
頬を緩めたファラオが、赤ちゃん言葉で胎児に話しかける姿は、なにかご利益がありそうだ。
「それにしてもトトリちゃんこれで何人目です？私たちは２人も授かって幸運な方だと言われるのに」
「うーん・・・。完全に魔物化してからは、３人目ですね」
「３人！その前にも３人産んでましたよね！・・・６人も産めるなんて・・・羨ましいです」
トトリは空笑いで物欲しそうに膨らんだお腹を見つめる視線をごまかすと。お祝いの品をプーリに預け、改めてやってきた夫婦に挨拶する。
「ダワンさん、ランタさん今回もご足労頂き有り難うございます。何時間ものフライトでお疲れでしょう。美味しいお茶を用意しておりますよ」
トトリの言葉にダワンと呼ばれた男性が答える。
「いえいえ、こちらこそ妻がいつもご迷惑をおかけします。空の旅はとても楽しいですよ。普段はワイバーン便に乗る機会なんてないですから。それにどんなに籠が揺れても妻と繋がっていれば怖くもなんともないですしね。」
穏やかに挨拶を交わした最後にニヤリと笑うダワンに、ニトランタはあらあらと呟いて照れたように頬に手を当てる。布に隠された彼女のお股からは新鮮な雄の匂いがたっぷりと立ち上っている。
プーリは頬を染めながらニトランタのお股を凝視し、トトリはダワンの言葉にそうだろうそうだろうと笑顔でうなずく。
「は〜い、のろけ話はこれくらいにして。それでトトリちゃん、アプアちゃんは元気にしていますか〜？」
うっかり顔を寄せてきたプーリの鼻先を指先でちょんとタッチしてビックリさせつつ、２人の反応に意外とシャイな一面をもつ女王様は話をもとに戻す。
「はい、また隠れてランタさんのことを襲おうと計画していたので私の部下と、ポアラちゃん達が捕まえに行ってます。」
「あらあら、あの子はまた私に挑もうとしてたのですか？」
トトリに向かって、頬に手を当て困ったはというジェスチャーをしながらニトランタが言う。
「まあ、普段は君の魔力に汚染されている状態だからね。一冬も君から離れていれば本来の魔力と魔物の本能が戻ってくるさ。」
「それはそうなのですが、去年も一昨年もやって失敗してるんですよ。そろそろ学習してもよいのではないでしょうか？」
夫の言葉にそちらへ振り向きながら疑問をぶつけるニトランタ。
「まあ、ファラオを襲うのは、彼女の種族的な本能だからね。ある意味健全なんじゃないかな」
「むー、その言い方だと、私たちと普段いる状態が不健全みたいじゃないですか」
夫の言葉に心外だというように、ニトランタがほっぺを膨らませる。
「ん〜・・・。気位が高く、他の魔物娘たちを汚染する側であるはずのアポピスが、逆に汚染されて従順にされちゃうなんて、少なくとも普通の状態ではないですよね。」
「トトリちゃんまで〜」
トトリにまで突っ込まれてしまい、半泣きのニトランタ。主人を慰めるかのようにコブラがほっぺをちろちろ舐めてあげている。
その時・・・・・・。
「のこのことやって来たわねファラオ・ニトランタ！今日があったが１００年目、今度こそ私が真の女王に相応しいということを証明して見せますわ！」
大きな声と共に森の影から巨大なラミア種が飛び出してきた。紫の人肌と闇色の蛇体、蛇と瞳の意匠が施された襟巻とティアラは王の威光を表すように輝き、胸を張って威風堂々とニトランタ達と相対する。ファラオを狩る者、アポピス：アプアである。
ただ、胸を張って突き出た巨乳はほとんどが露わで、唯一身に着けたニップレスも、体の動きに合わせてハートの飾りが扇情的に揺れ動いている。王というよりも踊り子や娼婦のような印象を強くしていた。
「まあ！アプアちゃんおひさしぶり〜！元気にしていましたか〜」
威圧的なアプアとは対照的に、ニトランタは久しぶりに会えた親友に接するかのように喜び、元気に挨拶している。
その親し気な挨拶に、襲撃者として怖がらせようと威圧を込めていたアプアの方が慌てた。
「えっ！えっ！お、おひさしぶりですは。ええ、夫に一冬たっぷり可愛がっていただいたのですっかり闇の力が戻って元気に・・・くっ！しまった、私を混乱させて気勢を削ぐ作戦ですか！そうはいきませんわ！ あと、貴女にちゃん付けで呼ばれる筋合いはないわ！！」
完全に混乱して自然とあいさつを交わしていたが、自身に戻った闇の力を思い出して無理やり気勢を上げるアプア。 彼女の慌てぶりを表すかのように蛇の尻尾が右へ左へと世話しなく動く。
その慌てぶりを見た者達は。
「うふふ、いつも通りね〜」
「いつもあんなうっかり者なのかワン？」
「うん、大体いつもあんな感じよ」
「いやー、俺としても聞いてて恥ずかしくなるな、はっはっはっは！」
アプアは普段の従順な時には示せない王者の威厳というのを示したいのだろうが。誰からもそうは見てもらえない。
そんなかれらに･･････。
「まあ、まあ。そう言ってあげないでくれ。彼女もこれで頑張っているんだから」
蛇体の上から降りた男が声をかけた。
「え！ダワンさん！？」
プーリが驚きの声を出す。
その男はニトランタの夫、ダワンと全く同じ姿をしていた。
プーリが混乱するなかニトランタの隣にいるダワンが手を上げる。
「よお！俺！元気にしてたか？」
アプアの隣の男も手を上げる。
「おう！俺！そっちこそ体調は問題ないか？」
２人のやり取りに困惑するプーリに、問題ないと返事を返していたダワンが振り向いて説明する。
「向こうにいるのは俺の分身だよ。アプアも俺の嫁さんなんだ」。
嫁を一人で出張に出す分けにはいかない。そう考えたダワンは分身薬で作った分身をアプアに同行させたのだという。
サバトが販売する魔法の薬の一つ、分身薬。
服用者と全く同じ姿の人物を作りだす魔法薬で、その名が示すとおり作り出された人物は元となった人物の姿形や遺伝子、記憶や思考、趣味・嗜好まで同じくする文字通りの分身である。もちろん精の味も・・・。なので魔物妻にとっても分身の精はちゃんと食事になるのである。
「あと、サバト側も数か月の長期間、分身を維持して元の人体に影響がないかを確認するって実験も兼ねてるんだよ。」
ダワンが親切に説明してくれる。
「あなた達、ポアラ団長と私の部下達が捕縛に向かったはずよ、彼女たちはどうしたの！？」
２人が話し込む横でトトリがアプアたちに詰問する。
その声にアプアはニヤリと笑って機嫌よく答える、尻尾の先も機嫌よく膨らむ。
「のろまなウサギさん達なら私の掘った穴に閉じ込めてやったわ！」
アプアが定期的に高笑いを上げていた穴はしっかりと住人に発見され、ポアラたちは制圧のためその穴に入ったのだが・・・。
アプアたちはコッソリ穴の外に隠れ、ポアラたちが入ったのを確認すると入り口を大きな岩で塞いで固定の魔法をかけて動かなくしたのだという。
「そ、そんな・・・、いつもうっかり屋のアプアちゃんにそんな計画的なことができるなんて！？」
「き！貴様〜！私を馬鹿にするのもいい加減にしなさい〜！！！」
ニトランタのなんとも間の抜けた反応に、アプアもついついムキになって声を荒げてしまい、尻尾をバタバタと大地に打ち付ける。
そんな二人のやり取りと同僚の失態に眉間を揉んでいたトトリが声をだす。
「なるほど、それで安心してこちらに姿を表したわけね。でも、そんな対策で安心してていいの？ こんな辺鄙な駐屯地とはいえ、ポアラも団長を務めているのよ？」
その問いにアプアはフッと笑う。
「あら〜、あなた。子ウサギちゃんのことを随分買ってるのね？私からしたらいつもおどおどとしているだけの臆病者なんて何の脅威でもないわ！あんな様子だからいつまでも夫ができないのよ！」
アプアは調子に乗って要らぬ暴言まで吐いてしまう。
トトリはその言動にあちゃーっと顔を隠す。
「さて、お喋りもここまでよ！ ニトランタ、今日こそあなたをこの毒牙にかけてあげるわ！」
アプアはそういうと分身のダワンを下がらせ、勢いよくニトランタに向けて地を這うように疾走を開始した。
「トトリちゃん、下がって！私が止めます」
「いいや、妻を止めるのは夫の役割だ。俺が止める！」
疾走しだしたアプアにトトリが目を細めると、ニトランタとダワンが前に出た。トトリがアプアを止めた去年のありさまを思い出した２人は内心冷や汗をかきながらアプアを力強く見つめる。
その二人を気にした様子もなくトトリがアプアに話しかける。
「臆病なうさぎ・・・ね。確かに彼女は臆病よ。周りの意見や感情にどう対処すればいいか分からず、すぐにオロオロするし。自分で決めるのが苦手でいつも周りはどうするのかってキョロキョロしてる。・・・・・・でもね、やることが明確なら彼女は人の何倍もの力を発揮できるのよ。私が団長を任せられるほどにね」
「「アプア！！！」」
トトリが言い終わる直後。２人のダワンから緊張した声が放たれ、アプアも夫の焦りに疑問を持ち少し速度を落とした。
その時、アプアの頭上でヒュッと風を切る音がすると、次の瞬間。
ズドン！
アプアの鼻先で巨大なまさかりが大地を穿った。
「へべ！！」
突然できた斧の壁に勢いよくぶつかったアプアが潰れた声を出す。
「なによ〜突然〜」
アプアが鼻を抑えて呻きながら顔を上げると。
トン
突き立つまさかりの石突にウサギの足が着地する。どれほど高く飛んだのか、膝をグッとまげて着地の勢いを殺すと。ゆっくり体を伸ばす。
アプアに見せる背中の服は大きく開かれ、逞しい肉体と香しい雌の汗を晒している。
話をすれば影が差す・・・ではないが、話題の人物の登場にアプアの目じりが吊り上がる。ウサギはウサギらしく、食べられてればいいのだと毒牙が疼き、蛇の尻尾が天を向く。
だが、ウサギの背がゆっくり振り向き、その眼を見たとたんアプアの眉はへひゃりと下がり、尻尾も力なく折れ曲がった。
ウサギの魔界戦士団団長の眼光は・・・・・・。ウサギとはとても思えぬ、怒れるトラやオオカミのごとき眼光であった。
「あ、あの、その、今のはあれで、物のたとえというか、なんというか」
完全に襲う側から襲われる側に転落したアプアは、先の暴言を取り繕おうと手をバタバタ、口をアワアワするが全く言葉がまとまらない。尻尾はくるくると丸まっていく。
そうしている間に、ポアラはまさかりからアプアの脇に飛び降りると・・・。
「ぴゃ！」
アプアの首根っこをひっつかみ、アプアが泊まっている家に向かって引っ張っていくのだった。
「はぁ・・・、言わんこっちゃない」
去っていくアプアたちを見送りながら、トトリはため息をつき。
（（（（ポアラさん怖い）））））
残された他の４人は普段は大人しいワーラビットの意外な一面に震えるのだった。
「ふふふ･･･。ようやく力が戻ってきたわ」
明りのない穴の中に、ツンと尖った印象を与える女の声が響く。その声には、封じられていた自分本来の力が戻ってくるのを感じた喜びが込められていた。
「今回もやるのかい？」
若々しいが落ち着いた男の声が穴の中に小さく響く。その声には、女の声に含まれた喜びと好戦的な匂いに対する心配が込められていた。
「ええ！やるわよ！今度こそ、どちらが女王に相応しいかはっきりさせてあげるわ！あーはっはっはっはっは！」
女は戻ってきた自分の力に酔いしれたように高らかに笑った。男はその様子に、今回も失敗する未来しか想像できずため息をつくのだった。
❖
春の匂いが風に乗ってくる季節、レスカティエ第３７駐屯地司令官を夫に持つトトリは週に３日訪れる３時間の別離・・・、仕事という名の長き苦行を始めようとしていた。
エルフ特有の耳は気だるげに垂れ下がり、その眼には憂鬱さがありありと現れている。
司令官を務める夫は意外と忙しい。
この駐屯地は辺境にあり戦線からは遠く離れているので、軍事的な忙しさは、あまりない。 昨年晩秋の頃に行った遠征はとても珍しいことであった。
「あ〜、ベットに戻りたい。ふかふかの布団とオリオに包まれたい。貴女もそうだよね〜」
そのため、戦闘好きな種族や戦場で夫を求める若い魔物たちには人気がなく、以前は小ぢんまりとした村のような駐屯地であった。
「ん〜、あったかくなってきたから大掃除もしたいな〜。貴女用の道具を置くスペースも確保しないといけないし、いずれは部屋も用意してあげないといけないね」
膨らんだお腹を擦りながらまだ見ぬ相手に話しかける。
「貴女は可愛らしい部屋がいいかな？それともシックなお部屋がお好みかな？ふふふ」
しかし、数年前とある事情でこの駐屯地一帯が明緑魔界に変わると、事情が一変した。
「それにしても・・・。口寂しい・・・・・・」
パクッ
自身の人差し指を咥えてみる。
「ちゅっちゅ、ぺろぺろ」
（物足りない、やっぱり夫のおちんぽを！・・・いや何か食べてごまかそう。ｺﾞｿｺﾞｿ・・・）
暗黒魔界の仄暗かった大地に青い空と輝く太陽、そして緑の草木が戻ってくると、それを好む植物型や獣人型、昆虫型、妖精型の各魔物たちとその夫たち、それ以外にもスローライフを送りたい夫婦が移住するようになり、人口が急増しているのだ。
「モグモグ、ヨーグルトに苺のジャムは定番だよね。ほかのジャムでももちろんいいけど、苺の甘さと種のツブツブ感がいいのよね〜♪」
人口は増えても彼らは兵士ではない。なので、それぞれがそれぞれで事業を起こして生活の基盤を整えている。
農業を行い穀物や野菜、果実を育てるトロールやワーラビットたち。
乳牛を育てるホルスタウロス、ふかふかの羊たちの間に入り込んで眠っているワーシープと牧羊犬のように彼らをまとめるコボルトたち。
「モグモグ、はちみつも入れよう」
ドリアードやエルフが木を育て林や並木を作り、木々に守られるようにアルラウネやリリラウネが草花を育てて花畑を作る。妖精たちは花に誘われ遊びまわって鱗粉を振りまき、その横で蜜や樹液を求めるハニービーと夫がミツバチを飼って養蜂家になる。
集まった蜜を狙うホーネットやグリズリーたちも拡大する駐屯地の警備に一役かっている。
「モグモグ、ごっくん。今日の報告書は何かな・・・・・・。夏に向けた宿泊施設の建設に・・・、春の第一便の目録ね」
明緑魔界として環境が整うと、暗黒魔界とは大きく違う景色を求めて観光客が訪れるようになった。特に親子連れに人気で、レスカティエの魔界化後に生まれた子供たちに人間界に近いここの景色を見せてあげたい親も意外と多いようなのだ。
また、明緑魔界ならではの人間界の野菜や果物、花や材木、それにホルミルクやワーシープウール、アルラウネの蜜やハニービーとミツバチの蜂蜜、妖精の鱗粉などがレスカティエの各地に出荷されてこの地の重要な産業となってきている。
ただ、これらの住人たちを管理する町としての機能がまだ整備されておらず、町長としての役割も駐屯地司令官が兼任しているため、定期的に仕事の時間を取っているのだった。
「よーし、一回深呼吸して、気分を切り替えようかな！」
ホルミルク製の美味しいヨーグルトを食べきると、トトリは窓を開けて大きく深呼吸を行った。
春の始めとはいえ朝の風は今だに冷たいが、夜通し温まった体と頭には丁度よい目覚ましになる。
だが･･････。
「あれ？ちょっと空気が甘いかな？」
明緑魔界の空気は魔界だけあって人間界より甘い匂いをただよわせている。
しかし、トトリの感じた匂いはもっと濃い、暗黒魔界に近いもので・・・。
「あ〜、去年より少し早いかな？予定より少し早いけど。ランタさんたちを呼ばないとね」
事情を察したらしきトトリはそう呟くと、机に向かって座り、夫の実家へ手紙を書くのだった。
❖
トトリが手紙を出してから２日後のお昼前、１頭のワイバーンがレスカティエ第３７駐屯地を訪れた。
そのワイバーンは夫と一緒に人や物の輸送を業としており、今回は１組の夫婦を籠にのせて運んで来たのだった。
「ランタさーん！いらっしゃいませー！お待ちしていましたー！」
出迎えるのは大きく手を振りながら挨拶するトトリと、ワイバーンの見事な着陸に心奪われているクーシーの軍師見習い、プーリである。
「は〜い！トトリちゃ〜ん。お待たせいたしました〜。妊娠おめでと〜！」
おっとりした声で返事を返すのは、みずみずしい褐色の肌と艶めかしい肢体をわずかな布と包帯で隠し、黄金の装飾とペットである深紅のコブラを巻きつけた女性。
ファラオ：ニトランタ・シエクリスである。
先ほどまでワイバーンに夢中だったポーリもニトランタが籠から下りて近づいてくると、その王者の気配にあてられたのかがちがちに緊張してしまっている。
そんな新人にクスリと笑いながら、トトリは正面まで近づいたニトランタとその夫を出迎えると。
「トトリちゃん、妊娠おめでと〜！これ私たちとシロさんやシブンさん達皆からのお祝いよ！」
「わー！こんなに沢山！有り難うございます！皆さんにも有り難うございます！とお伝えください！」
早速とばかりに妊娠祝いの品を山と渡された。多分出産祝いはもっと多くなるのだろう。
ニトランタはニコニコと機嫌よく膨らんだトトリのお腹に話しかける。
「まあまあ、大きく育って。もうしばらくの辛抱でちゅよ〜。お母さんのおなかの中ですくすく育って元気に出てきてくだちゃいね〜」
頬を緩めたファラオが、赤ちゃん言葉で胎児に話しかける姿は、なにかご利益がありそうだ。
「それにしてもトトリちゃんこれで何人目です？私たちは２人も授かって幸運な方だと言われるのに」
「うーん・・・。完全に魔物化してからは、３人目ですね」
「３人！その前にも３人産んでましたよね！・・・６人も産めるなんて・・・羨ましいです」
トトリは空笑いで物欲しそうに膨らんだお腹を見つめる視線をごまかすと。お祝いの品をプーリに預け、改めてやってきた夫婦に挨拶する。
「ダワンさん、ランタさん今回もご足労頂き有り難うございます。何時間ものフライトでお疲れでしょう。美味しいお茶を用意しておりますよ」
トトリの言葉にダワンと呼ばれた男性が答える。
「いえいえ、こちらこそ妻がいつもご迷惑をおかけします。空の旅はとても楽しいですよ。普段はワイバーン便に乗る機会なんてないですから。それにどんなに籠が揺れても妻と繋がっていれば怖くもなんともないですしね。」
穏やかに挨拶を交わした最後にニヤリと笑うダワンに、ニトランタはあらあらと呟いて照れたように頬に手を当てる。布に隠された彼女のお股からは新鮮な雄の匂いがたっぷりと立ち上っている。
プーリは頬を染めながらニトランタのお股を凝視し、トトリはダワンの言葉にそうだろうそうだろうと笑顔でうなずく。
「は〜い、のろけ話はこれくらいにして。それでトトリちゃん、アプアちゃんは元気にしていますか〜？」
うっかり顔を寄せてきたプーリの鼻先を指先でちょんとタッチしてビックリさせつつ、２人の反応に意外とシャイな一面をもつ女王様は話をもとに戻す。
「はい、また隠れてランタさんのことを襲おうと計画していたので私の部下と、ポアラちゃん達が捕まえに行ってます。」
「あらあら、あの子はまた私に挑もうとしてたのですか？」
トトリに向かって、頬に手を当て困ったはというジェスチャーをしながらニトランタが言う。
「まあ、普段は君の魔力に汚染されている状態だからね。一冬も君から離れていれば本来の魔力と魔物の本能が戻ってくるさ。」
「それはそうなのですが、去年も一昨年もやって失敗してるんですよ。そろそろ学習してもよいのではないでしょうか？」
夫の言葉にそちらへ振り向きながら疑問をぶつけるニトランタ。
「まあ、ファラオを襲うのは、彼女の種族的な本能だからね。ある意味健全なんじゃないかな」
「むー、その言い方だと、私たちと普段いる状態が不健全みたいじゃないですか」
夫の言葉に心外だというように、ニトランタがほっぺを膨らませる。
「ん〜・・・。気位が高く、他の魔物娘たちを汚染する側であるはずのアポピスが、逆に汚染されて従順にされちゃうなんて、少なくとも普通の状態ではないですよね。」
「トトリちゃんまで〜」
トトリにまで突っ込まれてしまい、半泣きのニトランタ。主人を慰めるかのようにコブラがほっぺをちろちろ舐めてあげている。
その時・・・・・・。
「のこのことやって来たわねファラオ・ニトランタ！今日があったが１００年目、今度こそ私が真の女王に相応しいということを証明して見せますわ！」
大きな声と共に森の影から巨大なラミア種が飛び出してきた。紫の人肌と闇色の蛇体、蛇と瞳の意匠が施された襟巻とティアラは王の威光を表すように輝き、胸を張って威風堂々とニトランタ達と相対する。ファラオを狩る者、アポピス：アプアである。
ただ、胸を張って突き出た巨乳はほとんどが露わで、唯一身に着けたニップレスも、体の動きに合わせてハートの飾りが扇情的に揺れ動いている。王というよりも踊り子や娼婦のような印象を強くしていた。
「まあ！アプアちゃんおひさしぶり〜！元気にしていましたか〜」
威圧的なアプアとは対照的に、ニトランタは久しぶりに会えた親友に接するかのように喜び、元気に挨拶している。
その親し気な挨拶に、襲撃者として怖がらせようと威圧を込めていたアプアの方が慌てた。
「えっ！えっ！お、おひさしぶりですは。ええ、夫に一冬たっぷり可愛がっていただいたのですっかり闇の力が戻って元気に・・・くっ！しまった、私を混乱させて気勢を削ぐ作戦ですか！そうはいきませんわ！ あと、貴女にちゃん付けで呼ばれる筋合いはないわ！！」
完全に混乱して自然とあいさつを交わしていたが、自身に戻った闇の力を思い出して無理やり気勢を上げるアプア。 彼女の慌てぶりを表すかのように蛇の尻尾が右へ左へと世話しなく動く。
その慌てぶりを見た者達は。
「うふふ、いつも通りね〜」
「いつもあんなうっかり者なのかワン？」
「うん、大体いつもあんな感じよ」
「いやー、俺としても聞いてて恥ずかしくなるな、はっはっはっは！」
アプアは普段の従順な時には示せない王者の威厳というのを示したいのだろうが。誰からもそうは見てもらえない。
そんなかれらに･･････。
「まあ、まあ。そう言ってあげないでくれ。彼女もこれで頑張っているんだから」
蛇体の上から降りた男が声をかけた。
「え！ダワンさん！？」
プーリが驚きの声を出す。
その男はニトランタの夫、ダワンと全く同じ姿をしていた。
プーリが混乱するなかニトランタの隣にいるダワンが手を上げる。
「よお！俺！元気にしてたか？」
アプアの隣の男も手を上げる。
「おう！俺！そっちこそ体調は問題ないか？」
２人のやり取りに困惑するプーリに、問題ないと返事を返していたダワンが振り向いて説明する。
「向こうにいるのは俺の分身だよ。アプアも俺の嫁さんなんだ」。
嫁を一人で出張に出す分けにはいかない。そう考えたダワンは分身薬で作った分身をアプアに同行させたのだという。
サバトが販売する魔法の薬の一つ、分身薬。
服用者と全く同じ姿の人物を作りだす魔法薬で、その名が示すとおり作り出された人物は元となった人物の姿形や遺伝子、記憶や思考、趣味・嗜好まで同じくする文字通りの分身である。もちろん精の味も・・・。なので魔物妻にとっても分身の精はちゃんと食事になるのである。
「あと、サバト側も数か月の長期間、分身を維持して元の人体に影響がないかを確認するって実験も兼ねてるんだよ。」
ダワンが親切に説明してくれる。
「あなた達、ポアラ団長と私の部下達が捕縛に向かったはずよ、彼女たちはどうしたの！？」
２人が話し込む横でトトリがアプアたちに詰問する。
その声にアプアはニヤリと笑って機嫌よく答える、尻尾の先も機嫌よく膨らむ。
「のろまなウサギさん達なら私の掘った穴に閉じ込めてやったわ！」
アプアが定期的に高笑いを上げていた穴はしっかりと住人に発見され、ポアラたちは制圧のためその穴に入ったのだが・・・。
アプアたちはコッソリ穴の外に隠れ、ポアラたちが入ったのを確認すると入り口を大きな岩で塞いで固定の魔法をかけて動かなくしたのだという。
「そ、そんな・・・、いつもうっかり屋のアプアちゃんにそんな計画的なことができるなんて！？」
「き！貴様〜！私を馬鹿にするのもいい加減にしなさい〜！！！」
ニトランタのなんとも間の抜けた反応に、アプアもついついムキになって声を荒げてしまい、尻尾をバタバタと大地に打ち付ける。
そんな二人のやり取りと同僚の失態に眉間を揉んでいたトトリが声をだす。
「なるほど、それで安心してこちらに姿を表したわけね。でも、そんな対策で安心してていいの？ こんな辺鄙な駐屯地とはいえ、ポアラも団長を務めているのよ？」
その問いにアプアはフッと笑う。
「あら〜、あなた。子ウサギちゃんのことを随分買ってるのね？私からしたらいつもおどおどとしているだけの臆病者なんて何の脅威でもないわ！あんな様子だからいつまでも夫ができないのよ！」
アプアは調子に乗って要らぬ暴言まで吐いてしまう。
トトリはその言動にあちゃーっと顔を隠す。
「さて、お喋りもここまでよ！ ニトランタ、今日こそあなたをこの毒牙にかけてあげるわ！」
アプアはそういうと分身のダワンを下がらせ、勢いよくニトランタに向けて地を這うように疾走を開始した。
「トトリちゃん、下がって！私が止めます」
「いいや、妻を止めるのは夫の役割だ。俺が止める！」
疾走しだしたアプアにトトリが目を細めると、ニトランタとダワンが前に出た。トトリがアプアを止めた去年のありさまを思い出した２人は内心冷や汗をかきながらアプアを力強く見つめる。
その二人を気にした様子もなくトトリがアプアに話しかける。
「臆病なうさぎ・・・ね。確かに彼女は臆病よ。周りの意見や感情にどう対処すればいいか分からず、すぐにオロオロするし。自分で決めるのが苦手でいつも周りはどうするのかってキョロキョロしてる。・・・・・・でもね、やることが明確なら彼女は人の何倍もの力を発揮できるのよ。私が団長を任せられるほどにね」
「「アプア！！！」」
トトリが言い終わる直後。２人のダワンから緊張した声が放たれ、アプアも夫の焦りに疑問を持ち少し速度を落とした。
その時、アプアの頭上でヒュッと風を切る音がすると、次の瞬間。
ズドン！
アプアの鼻先で巨大なまさかりが大地を穿った。
「へべ！！」
突然できた斧の壁に勢いよくぶつかったアプアが潰れた声を出す。
「なによ〜突然〜」
アプアが鼻を抑えて呻きながら顔を上げると。
トン
突き立つまさかりの石突にウサギの足が着地する。どれほど高く飛んだのか、膝をグッとまげて着地の勢いを殺すと。ゆっくり体を伸ばす。
アプアに見せる背中の服は大きく開かれ、逞しい肉体と香しい雌の汗を晒している。
話をすれば影が差す・・・ではないが、話題の人物の登場にアプアの目じりが吊り上がる。ウサギはウサギらしく、食べられてればいいのだと毒牙が疼き、蛇の尻尾が天を向く。
だが、ウサギの背がゆっくり振り向き、その眼を見たとたんアプアの眉はへひゃりと下がり、尻尾も力なく折れ曲がった。
ウサギの魔界戦士団団長の眼光は・・・・・・。ウサギとはとても思えぬ、怒れるトラやオオカミのごとき眼光であった。
「あ、あの、その、今のはあれで、物のたとえというか、なんというか」
完全に襲う側から襲われる側に転落したアプアは、先の暴言を取り繕おうと手をバタバタ、口をアワアワするが全く言葉がまとまらない。尻尾はくるくると丸まっていく。
そうしている間に、ポアラはまさかりからアプアの脇に飛び降りると・・・。
「ぴゃ！」
アプアの首根っこをひっつかみ、アプアが泊まっている家に向かって引っ張っていくのだった。
「はぁ・・・、言わんこっちゃない」
去っていくアプアたちを見送りながら、トトリはため息をつき。
（（（（ポアラさん怖い）））））
残された他の４人は普段は大人しいワーラビットの意外な一面に震えるのだった。
18/07/30 22:45更新 / 焚火
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