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第五幕 節制の死神:後編
 王都の首切り役人、ジャック四世が盗賊に襲われた事件は瞬く間に街中を駆け巡った。『残虐な処刑人、凶刃に死す!?』という触れ込みで号外が出回り、首切り役人を襲った命知らずの盗賊たちの暗躍に人々は恐れ慄いた。誰もが恐れて止まない『ぶつ切りジャック』、それが不意討ちとは言え襲撃を受けたという事実に人々は言い知れぬ不安を覚えていた。

 ジャック邸の被害は主に調度品を始めとする値打ち物が大半で、権利書や金貨などを入れた金庫など、持ち運びに不便な物品には全く手を付けていなかった。運べる物を運べるだけ、決して欲張らず、しかし最大限の利益を掻っ攫う。しかもそれらを十分という短時間でやってのける統率された動き。もはや盗賊というよりは軍隊、それもかなり密な訓練を施された連中だと推察された。

 犯行も行きずりのそれではなく、ジャック邸が周囲の民家と隔絶された一種の無人地帯であることを事前に調査した上での行動と推察され、かなり用意周到に計画された犯行だと知らされた。

 国家の冷酷な刃として名を馳せた処刑一族もとうとう年貢の納め時、市井の民は皆揃ってそう口にした。今まで刑場で必要以上に惨たらしい死を撒き散らした報いを受けたのだと。

 だが、ジャックは生きていた。

 「此度の一件、まことに災難であったな。本来なら病み上がりのそなたを斯様な場に呼び出すことは避けたかったのだが、そなたの無事を確認しておきたかった」

 「ジャックの刃は王国の刃。首刈りしか能の無い我が一族を取り立ててくださった王室の召集に、何故拒むことがありましょうや」

 頭に包帯を巻き、顔の左半分にガーゼを貼り付けたままの痛々しい姿ながらも、ジャックは生きていた。幸いにも五体は満足、ケガは見た目ほどの重傷ではなく、殴打された後頭部にも重大な障害等は残らなかった。歩く際に杖も要らず、レイナード三世の呼び出しにもこうして問題なく応じられている。

 流石のジャックもこの国の支配者の前では普段の気狂いを慎み、玉座の前で恭しく跪いて謁見に臨んでいた。名役者顔負け、借りてきた猫という言葉も陳腐に落ちる変わり身の上手さだった。

 「国家の威信に懸けてそなたを襲った賊を捕らえさせよう。その暁には法の裁きの下に必ずや報いを受けさせると誓おう」

 「是非、刑の執行にはこのジャックめを……と、言いたいのですが、実は陛下にお願いの儀がございまして」

 「許す、申してみよ」

 「は。この度、ひと月ほどお暇をいただきたく」

 「それはつまり、刑の執行そのものを停止すると?」

 「手前勝手と分かっておりますが、屋敷があの有り様でありますれば、何卒お許し願いたく。それに……」

 「ああ、存じておる。そなたの働きには目を見張るものがある。これを期に少し羽を伸ばすと良い。刑の執行はそれまで延期とする」

 「ありがとうございます。では、これにて失礼をば」

 最後まで調子を崩すことなく去って行くジャックの姿を玉座より見送るレイン王と、その傍らにて一部始終を見守っていた宰相。やがてジャックの姿が見えなくなると、口を開いたのは宰相の方だった。

 「よろしかったのですか? 彼にこれほど長期の暇を与えてしまわれて」

 「別にいいだろ。それに、オレはあんな猫被ったジャックなんぞ見たくない。さっさと本調子に戻って罪人をバッサバッサと切り殺す仕事に戻ってもらわないとな」

 「陛下がジャックの熱烈なファンとは理解しておりましたが、そこまで肩入れするほどでは……」

 「あいつの働きを考えれば、一ヶ月の休暇さえ短いほどだ。せめて心安らかに休暇を過ごせるよう、一刻も早く下手人を引っ捕えねばな」

 王の臣下たる貴族を害されたとあっては王室の、ひいては国の名折れ。必ずや賊どもを全員引っ捕え八つ裂きにせんと、王は街の官憲や衛兵らに何としても生かしたままの確保を命じた。いつか復帰した死神がその首を刈り落とすことを期待して。





 ジャックが受けた被害は、邸宅にあった物ばかりではなかった。その中には、もう何をどうしても取り返せないモノも含まれていたのだ。

 「六十五……大往生じゃないか」

 「そだね。長生きしたよねー、爺や」

 ジャックの呼びかけに、主人の言葉に返事する老執事はもう居ない。ジャックの留守を預かっていた彼は襲撃時に賊の一人によって、無残にも切り捨てられその命を散らした。四十年も首切り一族に使えた老執事の、あっけない幕切れだった。

 ジャックとローランの前には新しく建てられた墓石があり、妻も子も居なかった老執事の墓前には二人分の花しか供えられていなかった。

 「あーあ、爺やのパスタが食べられないなんてなぁ。こんな事なら普段からもっと作ってくれるよう頼むんだったな。次の執事は誰を雇おうかな。ねえ、ローラン! どっかイイ執事知らない? 知ってたらまた紹介してよ!」

 どこまでも無邪気に、そして陽気にそう聞いてくるジャック。昨日の今日、まるで死んでしまった奴に興味なんか無いと言わんばかりに、屈託のない笑顔を前にローランが鼻白む。

 「キミは寂しくないのか。生まれた時から自分を世話してくれた、家族も同然の男が死んでしまって、悲しくはないのか?」

 すれ違ったまま父を亡くしたローランが投げかける本心からの問い。それに対してジャックは……。

 「全然。え、なに? これ悲しまなきゃいけないアレ? ごめん、ちょっと待ってて! 今目薬出すから」

 「…………」

 「はい泣いたー! 今泣いたよー、号泣ですだよー! うおーん、うおぉーん! 爺やぁぁー!」

 「もういい、やめろ」

 パーティーの小道具のように目薬を顔にドバドバと振り掛けて盛大に泣き崩れるジャック。しかしそれは嘘泣き。自分が生まれた時から世話してくれた老執事に対し、この男はただの欠片も微塵も悲しんでなどいなかった。むしろ逆、老執事が死を迎えたことを喜び祝福しているのだった。死という絶対の安寧に辿り着けたその事実を、死神は心の底から寿ぐ。

 「君も祝ってあげてほしい。彼は今、安息の中にいる。彼は生前は手にすることの無かった揺るぎない平穏を、その死によって自らのものとした。嗚呼! 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな! 諸人よこれを祝えよ、ハレルゥヤ」

 「キミはやっぱり、狂ってるよ。家族同然の男が死んで尚、悲しむ素振りすら見せないなんて」

 「素振りはしたじゃん。もしここで目ん玉ドロドロに溶け出すぐらい、鼻から液状化した脳髄がひり出るぐらい泣き叫べば、爺やが墓穴からコンニチワしてくれるのかい? 死は、死だ。爺やは死んだ、夜盗に襲われて命を落とした。たったそれだけのシンプルな答えだよ」

 悲しみも無ければ恨みも無く、淡々と事実だけを見据えた物言いにこれ以上の問答は無駄と悟ったローランは何も言わなかった。激務の果てに過労死した先代の葬儀でも涙一つ流さず、それどころか今のように笑さえ浮かべていたと言う。死を想い、死に重きを置く、静謐なる死神の論理、それは幼い自分から既に発揮されていたのだ。

 ただ、そんな死神にも悔やみ事がある。

 「どうせ死ぬんだったら、いっそこの手で殺してあげたかったなぁ」

 老執事の死因は、盗賊と揉み合った末にナイフで胸を一突き、そのまま失血。何とも単純、何とも鮮やか、そして何とも……つまらない死に方だった。

 そんな安っぽい死に方じゃ誰の記憶にも留まらない。年間どれだけの人間が通り魔に刺し殺されている、それを思えば老執事の何とも面白みのない白ける死に方よ。揺り椅子に座り日に当たりながら老衰で息を引き取る、そんなチープな死に方と遜色ない駄作ならぬ“駄死”、そんなものが最期を飾ってしまった老執事の不幸だけが心残りだった。

 「目を刳り貫き、鼻を削ぎ、口を裂いて、それから、それから……えっと、ああ! 生皮を剥ぐ! これだ、これは外せないよね。内臓はアシが早いからポイしちゃおう、ポイって! 皮は壁紙にして、ワタ抜きした肉は門前にモニュメントとして飾る。最高だ……きっと爺やも喜んでくれたよ!!」

 「いい加減にしておけよ……! 死者を愚弄するな!」

 「愚弄? 愛だよ、愛! ラヴ、リーベ、アモーレ、エロス! 言葉が色々あるように、愛の形も人それぞれなんだよ、ローラン君。爺やの殺され方には愛がない。邪魔だから、面倒だから、目に付いたから、だから殺した。娼婦が愛の無いキスをするように、爺やは愛の無い死に方をした。それだけが……悲しい。悲しい……悲しいぃ、かな、しぃぃぃ、うわぁぁぁぁあああ!!!」

 堰を切ったように慟哭するジャック。流れる涙はさっきとは違い本物で、普段子供のように笑うジャックは、その泣き様も子供のように周囲の目も気にすることなく墓石に向かって泣き続けた。

 だが勘違いしてはいけない。ジャックは決して死を悼まない。死そのものを悲しむことは絶対にしない。今こうして滂沱の涙を流すのも、その理由はたった今彼自身が語って聞かせたことが全てだ。

 「それで、今日私を呼んだ理由は何だ。そんな猿芝居を打つために貴重な休暇を潰させたのか?」

 「グスッ……ローランに頼み事」

 「頼み?」

 「ていうか、ローランと、ローランの奥さんに」

 要領を得ないと言いたげな顔のローランに、ジャックが頭に被っていた帽子から羽飾りを抜き取り手渡す。それは初めて会った日にジャックが抜き取った羽根。

 「探して欲しいんだ、この羽根の持ち主だった子を」

 あの夜、ミルヤムは姿を消したまま戻ってこない。気が付けば病院に担ぎ込まれていて、自分以外にベッドに眠る者はいなかった。

 「……悪いことは言わない、あれの事は忘れるんだ。見目麗しい女が盗賊どもに拐かされれば……分かっているはずだ」

 ミルヤムは魔物娘の中でも最も穏やかな種族の一つとして知られるキキーモラだ。食い物や女に飢えたならず者たちに掛かれば、彼女のような魅力的でいて非力な女性がどうなるかなど想像に難くない。

 だがジャックにはそんな事はお構いなしのようだった。

 「そういうのはどうでもいいから、奥さんに匂いを辿るよう言っておいてね。じゃあ、帰るから! あと、ローランにはちょっと調べて欲しいことがあるんだ。それはね……」

 一方的に言葉をつらつら並べた後、急ぐからと言ってジャックは屋敷に帰っていった。後を追うにも馬車に飛び乗った彼の姿は墓地を離れて街角へと消えてしまっていた。

 「あ、おい! 待て! そんな事頼まれたところで…………行ってしまった。あいつ、私の家内を失せ物探しの犬か何かと間違えていないか」

 本来ならこんな頼みを聞き入れてやる義理はない。自分は判事、妻は隣国の外交官、それぞれお互いに都合がある身の上だ。それにこの事件は放っておいても役人たちが調べてくれる。その過程でミルヤムの行方が掴めるかもしれない。それを差し置いてでも自分たちが調べる必要性を感じないのが本音だった。

 だが……。

 「あれでも一応は私の友人だからな」

 互いに友人の少ない者同士、そんな奴が頭を下げての頼みともなれば断り難い。ローランは受け取った羽を懐にしまい、妻にどう説明するべきか上手い言い訳を考えながらの帰路についた。





 ジャックを襲った盗賊だが、街の治安を守る役人たちは既に下手人の目星をつけていた。と言うのも、同じ一派による犯行と推察される事件がここ最近の王都で多発していたからだ。

 同一犯とみなすその根拠は、やはりその鮮やかな犯行の手口だった。犯行に要した時間はどれも短時間で、長くて十分、短かければ三分で犯行を終わらせたと思しき痕跡もあり、欲の皮を張って自分たちに繋がる証拠を現場に残すというヘマもせず、盗れる分だけ手にして嵐のように去っていた。

 だがそれと同時に、押し入った家の住人は皆殺しにされており、発見は常に一晩経った後の翌朝か昼間。当然その時には下手人は逃げおおせており、目撃者は誰もいない。今回のジャックだけが一連の事件唯一の目撃者なのだ。

 それまでに連中が狙っていたのは主に商売などで成功した町民が殆どで、厳重な警備を敷いた貴族の家を狙ったのは今回が初。周囲に人の通りが無く住人も少ない、その上まとまった財産を持つジャックの家は奴らにとって恰好の餌食だったのだろう。

 迅速かつ的確な行動を心がける計画性と、住人を惨殺して口封じをする残忍性、それらを併せ持った集団による犯行というのが現状分かっている全てだった。構成員の詳細については現在調査中とのこと。

 「ではもう一度、事件当夜の状況についてお聞きします」

 「え〜、またぁ? いい加減ネタ切れ、もう振っても何も出ないってば」

 唯一の生存者であるジャックの元には連日役人がやって来て事情聴取という名の調査が行われ、盗賊について可能な限りの情報をかき集めようとしていた。

 「何度も言ってるけど、暗くて周りがよく分からなかったところを一撃だって。数だって十人か、二十人だったか。まあ、百じゃないことだけは確かだったね。多分、帰宅した時にはもう敷地に潜んでたんだ、全員が」

 「何でも良いんです、何か有力な情報は無いんですか?」

 「むしろこっちが聞きたいぐらいだよ。何のもてなしも出来なくて悪いけれど、今日はもう勘弁してよ。午後から用があってここに来る人がいるんだ」

 「お客人ですか」

 「ううん、仕立て屋さん。よそ行きの上物を作ってくれるように依頼してるのさ」

 「どこかへお出かけの予定でも?」

 「うんにゃ。ていうか、作ってもらうのは女物の服だし」

 「それは……」

 役人たちも聞き及んでいる。この家にはキキーモラの使用人がおり、事件当夜にジャックと共に行動していたと。現場には彼女がいた痕跡すべてが消えており、唯一の証拠はジャックの帽子にあった羽飾りのみ。調査をするまでもなく、あの場にいた盗賊たちに攫われたことは明白だった。

 一部の盗賊は違法な奴隷売買にも関わっているとされる。人攫いなど連中の通常営業だ。値札が貼られて売買が完了してしまえば行方を追うのはほぼ不可能だろう。

 「帰って来るとお思いなのですか?」

 「ダメ?」

 「いや、駄目というよりその……。あまり期待なさらぬ方がよろしいかと。あのキキーモラは生き残るだけの運を既に使い果たしたものと思われます」

 「どゆ意味?」

 「ローラン判事からお聞きになっていませんか? あの娘は奴隷商人に売られそうになっていた所を我々が保護したのです」

 意外かも知れないが、アルカーヌムでは奴隷の売買自体は禁止されていない。王国が手を付けている貿易の品目には奴隷を始めとする安価な労働力の売買も含まれており、正規の手続きを経れば誰でも奴隷貿易や奴隷商を始められる。

 問題は正規ではないモグリの方だ。ギルドや組合に属すれば手厚い保護を受けられる代わり、売上の何パーセントかを管理費という名目で上納する義務が生じる。更に商品の品目によっても入荷数や値段の付け方が細かく定められ、荒稼ぎによる相場の崩れを防いでいる。

 だが単純に利益だけを追求する連中からすれば、頭を押さえつけられながらの商売は面白くない。だから地下にモグり違法な商売に手を染める。ミルヤムを売り買いしていた商人がまさにそれだったのだろう。

 「気の毒に思われた判事が違法商人を裁いた後、雇用先の口利きのためにジャック様にお話を持ち掛けられたと、そういう次第です。二度も拐かされたとあっては、その幸運も切れたと思った方が……。」

 「ふーん。難しい話は分かんないけど、大丈夫だよ。あの子は無事さ。だからあの子が帰って来た時のために服を仕上げなきゃなんないからぁ、あんたらは出てけーい!!」

 「うおわぁっ!? し、失礼しましたぁ!!」

 首の切断に使う処刑剣をおもむろに振り回して役人を追い回すと、彼らは命からがら屋敷から飛び出していった。これでしばらくは邪魔しに来ないだろうと、ようやく書斎の椅子にどっかりを腰を落ち着ける。

 暇を貰ったからと言って仕事がない訳ではない。今回の一件に対し周辺貴族から形ばかりの心配を記した手紙が何通か届けられている。それらに対する返信をしなくてはいけない。もらったら貰いっ放しというのは礼儀に反してしまう。

 取り敢えず昔父がもらった手紙の内容を丸写しして返すことにした。向こうだって馬鹿正直に手紙の中まで読まないだろう、穢らわしい首切り役人からもらった物など尚更だ。

 それらをしたためた後、特に何もする事が無いのか棚からボトルを取り出して酒を呷り、更に今の今まで嗜んだ事すらなかった煙草を取り出して火を点ける。書斎に満ちるアルコールとタール臭が壁や書物に染み、ジャックの衣服も同様に悪臭に沈める。傍から見れば自分の置かれた理不尽な境遇を前にやけ酒をしているようにしか見えない。

 「あぁ゛〜、肺が真っ黒になるぅ゛〜。これがタバコの味かなのかぁ゛〜」

 まあ、そんな事はなかった。相変わらずジャックはジャックだった。何をするでもなく、ただ呑んでただ喫うだけの時間がダラダラと流れ、安物の葉巻がそろそろ三本目に突入しようとした頃……。

 「おい、呼んでも返事がないが、上がらせてもら……くさっ!? くっさ!! 何だこれは、くっさ!! 酒とタバコくっさ!!?」

 「は゛や゛か゛った゛ね゛ぇ゛〜」

 「何が、早かっただ!! 換気だ! 窓を開けろ、窓を!! 私の声までガラッガラになるだろう!!」

 三日と経たず朗報を持って来てくれたローランを出迎えるついでに少しうがい。ニコチンでガラガラになった喉を潤しつつ、発声確認。少し調子がおかしいが、問題はない、「これでいい」。

 「で、何か見つかった? 予想してたよりずっと早かったけど」

 「キミが頼んできた事だろ! まったく……。まずは、頼まれていたものを資料に纏めた物を渡しておく。キミの家を襲った連中、そいつらが過去に関与したと思しき事件の調書だ」

 法曹界に身を置くローランはその辺りの関係者に顔が利く。その彼に過去の事件を発掘するよう頼んだのがジャックだ。

 どさりと置かれた紙の束を前にジャックが早速検分に取り掛かる。

 「一応、それは部外秘なんだ。慎重かつ丁寧に扱ってくれなければ私の立場が……」

 「あ、ごめん。ちょっと黙ってて。いま集中してるから」

 「この……!」

 不躾な物言いに一瞬血が上るローランだったが、ぐっと堪えて我慢する。デスクの上に置かれていた飲みかけの酒瓶を乱暴にひったくると、それに直接口をつけてラッパ飲みにした。冷静沈着を絵に描いた両断判事とは思えない苛立ち様だった。

 しかし、友人のそんな姿には目もくれず、ジャックの紙をめくる速度は増し、紙面に記された情報の全てに隈なく目を通し吟味を進めていった。普段は気味が悪いくらい笑顔を浮かべている顔も、面を貼り付けたような無表情のまま眼だけがギョロギョロと動き、さながらカメレオンが獲物を探すような視線の動きをしていた。

 そして五分後、全てに目を通したジャックがこう漏らす。

 「五件目と十一件目、それと十七件目は違う。手口が似てるだけで犯人は別だよ」

 「何故そんなことが分かる?」

 「この三つには容疑者の名前が無い。他には全部、下手人の仲間が載ってる」

 「何だと!?」

 ジャックの衝撃の発言に驚いて思わず身を乗り出し、ローランも調書内容を確認する。だが既に精査と吟味が済み、彼自身も何度も目を通している。だが判事として数多の事件を見てきた彼の目でさえ、ジャックが見抜いた真実にすぐにはたどり着けなかった。

 そもそも、この調書には被害者の名前しか載っていない。狙われた財産の持ち主とその家族、彼らが雇っていた使用人と、たまたまその日そこに居合わせた不幸な知人や客人、後は誰もいない。その上でこの名前の中に盗賊の一派が潜んでいたのだとすれば……。

 「事前に仲間を送り込んでいた、だからここまで鮮やかな犯行が可能だったのか! 先んじて屋敷の内部や周辺の地理を把握した上で事に及んでいたとすれば……」

 「多分、内部犯の存在はお役人さんも勘付いてると思うよ。さてさて、そこで優秀なローランくんに出題です。問題、テケテン! はたしてこの中の誰が下手人の仲間でしょーか? 見事正解すればジャック四世謹製、頭蓋骨ディッシュをプレゼント〜! わーわー、どんどん、ぱふぱふ〜!」

 「だから要らないと言ってるだろう! あー、おいおい! どこへ行くんだ!?」

 「どこって、ローランの奥さんに頼んだでしょ?」

 「まさか本当に行くのか?」

 「当たり前だよ。早くあの子を迎えに行ってあげなきゃいけないんだ、早く教えてよ!」

 生きている者にはてんで関心が無い、生を軽んじ死を重んずると言うのがこの男、ジャックの感性のはずだった。極端な話、彼は自分を含めた生者には何ら興味を持たない。いずれ死んで消え果てる存在、忘れ去られるもの、そうと分かっていて何を拘泥することがある。死神はいつだって「死んだ者」と「死にゆく者」しか見えていない。それがジャックという男のはずだった。

 だが今はどうだ。死を想い、死に傾倒し、死に最も近いジャックが、たった一人の生者のために体を張っている。会えるか会えないか、それどころか生きているかさえ分からない相手のためにだ。

 (変わったな、キミは)

 互いに子供の頃からの知り合いだからこそ、友人の変化に僅かながらも喜びを覚えたローランだった。ならば友人としてそれに応えない訳にはいかない。

 「キミがそうまでしてミルヤムを助け出したいと言うのなら、私も微力ながら……」

 「は? 誰がミルヤムを助けるなんて言ったのさ?」

 「え?」

 「え?」





 王都は王族及び王室付きの大臣や貴族が居を構える中央を除けば、法を犯さぬ限りにおいて自由な場所に住むことが保障されている。先立つものがあって認可を受けられればどこにでも住むことが出来る。同じ出身や職業で寄って固まる事もあるが、それも寄り合い以上の意味を持たない。

 だが、自由に住処を求められる王都においても、誰も好き好んでは腰を落ち着けない場所もある。浮浪者や乞食、ならず者が辿り着く最後の地、社会の吹き溜まりのような汚れ荒んだ界隈。人はそこを、こう呼んだ。

 「ハニーバケット・ストリート……『肥溜め通り』とは、よく言ったものだよねぇ。ま、実際、肥溜め以下なんだけども」

 ジャックが足を踏み入れたここ、ハニーバケット・ストリートとは、その吐き気を催す名称の通りに腐敗と悪臭、退廃と倒錯が満ちるこの世の餓鬼道だった。

 ここにいる連中は物乞いや浮浪者などはまだ聖人君子の部類。スリや強盗、物盗りなどは悪ガキのイタズラ程度の扱いでしかない。ここに行き着いた連中は自分が生きる為なら何だってする。そう何でも、決して誇張でも脅しでもない。

 例えば通りの入口に腰掛ける老人。彼は一ヶ月以内に三人殺したついでに食い物を奪っている。

 窓から身を乗り出している女。昼日中から上半身に何も着けていないが、下半身は既に梅毒でボロボロだ。

 子供の姿もチラホラ見える。生まれて初めて食べた固形物が、親の死骸だった事を彼らは覚えているだろうか。

 何でもする。醜怪なまでに生に執着する彼らに良心などどいうタガは存在しない。邪魔なら壊し、欲しければ奪い、そして要らなければ殺す。この界隈で生き抜くための基本原則にして、言葉にするまでもない常識、それに忠実に従っているに過ぎない。ヒトが文明を得ると同時に捨てたはずの原始のルール、即ち『単純な力による支配』が今なお息づく腐敗と暴力と幻滅のバビロンがここだ。

 「ローランの奥さんが手前までしか辿れなかった訳が分かったよ」

 ここの臭いは酷い。クソとゲロを混ぜて一週間日陰に干したものを大気にばら撒いたみたいな臭いがする。この街の住人はここへ来てから、元からの住民はそれこそ生まれた時から水浴びすらしたことが無く、カビの生えた残飯が主食だからか当然吐き出す息など公害の域だ。常人の神経をしていれば一日どころか一時間だって居たくないと実感できるだろう。嗅覚に優れた魔物娘などは尚更だ。

 だがジャックはここに用がある。用があってここに居る以上、鼻を突く悪臭がどうこうという理由で踵を返すことは出来ない。

 「さてさて、鬼が出るか蛇が出るか、それは覗いて見てのお楽しみ」

 本来なら貴族が共も連れず足を踏み入れればその瞬間に身ぐるみ剥がれる場所だが、今のジャックはパッと見てイイとこの出身とは分からない格好をしている。泥水に漬け込んで乾かしたボロ布を身に纏い、バフォメット印の毛生え薬で無精ヒゲを出し、体に汚水を被って頭には油を塗りたくり、全身から清潔感を駆逐していた。今の彼を貴族だとは誰も思わない姿形だった。

 加えて口を開けば酒と煙草の混成臭。ローランが来る前にしこたまタバコを喫い酒を呷ったのには、実はこうした裏があったのだ。

 とは言え、長居したくないのも事実だ。早く目当てのものを見つけなければ、程なくここは騒がしくなってしまう。その前に見つけ出し連れ戻すのだ、「彼女」を。

 悪臭の中に混じるほんの僅かな「別の匂い」を頼りにジャックの足は迷うことなく肥溜め通りを進んでいく。人間である彼の鼻は真水と塩水を嗅ぎ分けるような芸当は出来ないが、こと「ある匂い」に関して言えばその嗅覚は地上のどんな生物でさえ及びもつかない力を発揮する。

 (五人……三人……こいつは七人で、あの子は二人……。どいつもこいつも殺しすぎでしょ)

 ジャックの鼻は血を嗅ぎ分ける。いつ、どこで、どんな状況、どれだけの量……それが血にまつわる臭気であれば処刑人の嗅覚は敏感に感じ取ることができる。これから自分が殺す相手が過去に何人手にかけたかさえ、調書を見なくてもすぐに分かる。

 ちなみに今まで嗅いだ相手で一番殺した数が多かったのが、元軍人の殺人鬼。従軍中に敵兵を殺害した経験が歪んだ性癖を開花させ、無辜の市民を夜中密かに虐殺すること九十八人。『霧吹き通りの98人殺し』と呼ばれた人物を嗅いだ時など血の匂いしか感じなかった。

 閑話休題。

 そのジャックの鼻は見抜いていた。通りの奥へ進むごとに鉄臭い血の香りがどんどん濃くなり、遂には元からの悪臭と相まって鼻腔が完全に麻痺し始める。もはや息を吸ってるのか吐いてるのかすら曖昧になってきた。

 だがどうにか気絶する前にその足は目的地へと辿り着くことが出来た。まだこの界隈が健全だった頃は酒場だったのだろう。扉には分かりやすく木彫りのジョッキが彫られており、中にはそれなりの人数が詰めているらしき気配を感じた。

 古めかしい木戸を押して中に入れば、昼間にも関わらずガラの悪い男が酒を呷っている姿が目に飛び込む。恐らくは密造酒、それも混ざり物ばかりの粗悪な物を飲んでばかりだ。汚水や雨水など些細なもの、中にはアルコールという分類は同じだが明らかに人間が口にしてはいけない物まで混ぜて飲んでいる輩もいる。酔えれば何でもいいのだろう、例え数年後に失明する羽目になったのだとしても、彼らはいつだって今日の事しか考えない連中だ。

 「よっこいしょ、っと」

 入ってすぐの空いていた席に腰掛け、それとなく周囲を見回す。どいつもこいつも酒に浮かれてご機嫌だが、その本性はどいつも人でなしばかりだ。数だけ見ればどれも件の『98人殺し』には遠く及ばないが、残忍性に限って言えばジャックがこれまで見てきたどの犯罪者よりもヤバい匂いばかりだった。人を殺す事を何とも思わないどころか、むしろそれが当然のように振る舞える異常性、頭のネジが何本かと言うよりそもそも留め具が無く脳が剥き出しになっているようなものだ。

 (こりゃ、バレたらケツを掘られた挙句に腑分けして内臓まで売り飛ばされそう)

 と、そんな事を考えていると席に近付く者があった。どうやらこの酒場の従業員のような事をしているらしい。

 「ミード(蜂蜜酒)ちょうだいよ。氷で割ったあっさり風味な奴をさ」

 「ウチにそんな上等なモンは無ぇ。帰んな、ここにアンタに飲ませるような酒は無い」

 「それはちょっとヒドいんじゃない? 一応客のつもりで来てるんだし、お金だってほら……」

 「懐の中身は考えなしに見せびらかすモンじゃねぇ。胸の肉ごとポケット抉られてぇのか」

 いくら文明社会からはぐれて生活しているとは言え、金の魔力には逆らえない。こうしてこの人物が胸を押さえて警告してくれなければ、今頃この場は醜い富の争奪戦が始まっていただろう。当然、もののついでとばかりにジャックの五体も引き裂かれていたに違いない。

 だが、この人物は親切で止めた訳ではなさそうだ。

 「シマを荒らされるとこっちも迷惑なんだ。さっさと帰んな、“貴族のお坊ちゃま”」

 どうやら最初から正体がバレていたようだ。

 「皆酒飲むのに夢中だから気付いてないが、大声で言いふらしてやろうか? ついこの間カモにしてやった貴族の坊ちゃんがノコノコやって来たってな」

 「やっぱり君たちだったんだね、屋敷を襲ったのは。別に言ったって構いやしないけど、ここに来る前に君たちの犯行の手口全てをお役人にタレ込んで来たから、直にヤサガシが始まるよぅ?」

 「ハッタリだ」

 「じゃあ、聞かせてあげるよ。君たちがどうやって襲う計画を立て、どうやって実行し、そしてどうしてそれを繰り返すことが出来たのか」

 「フン……」

 当てられるものなら当ててみろと、従業員改め盗賊の一味が向かいの席にどっかりと腰を落ち着ける。目は相変わらずジャックの一挙手一投足を注視して見逃そうとしないが、そんな無形の圧力など知らんとジャックは語り始める。

 「まず最初に気になったのは、君たち盗賊団が普段どこを根城にしているかって事だった。いくら夜中で人目の少ない時間帯だって言っても、十人、二十人の人間がそれまで居なかった場所にたむろしていたら誰だって気が付く。なのに世間の誰も盗賊がどこに潜んでいるのか噂も出ないぐらいに無知だった。そりゃそうだ、盗賊はどこかからやって来たんじゃなくて、最初からこの街の近くにいたんだから」

 それがこの肥溜め通り。ならず者の寄り合い所帯は身を隠すには打って付けで、下の連中を力と利益で押さえつけておけば役人らに対し自分たちに不利になる情報は渡さない。ここに逃げ込んだ犯罪者が捕まり難いのにはそうした理由があるのだ。

 「次に君たちが短時間で犯行を行えた理由だけど、これだって簡単さ、最初から標的の屋敷や敷地に侵入する手引きをする奴がいただけの事。屋敷が手薄になる日付、逃走経路から人通りが少なくなる時間帯、自分たちが短時間に盗める物がどこにあるかを知るために家の見取りも把握させた。そういう事を担当した仲間がいるんじゃ無いかとね」

 でなければあんな短時間に犯行を完了させるなど、単純な手際の良さだけでは不可能だ。長期に渡り標的周辺の地理や内情を把握する役目を負った者が必ず存在し、それが現場への手引きを行った。

 だがそうなると別の問題が浮上する。

 即ち、どうやって屋敷内部へ潜り込んだか、その方法だ。穢多の極みにあるならず者が少し小綺麗にしたぐらいでは、どの屋敷も門前払いを受けるし、仮に入り込めたとしても怪しまれることは確実だ。

 「その前に……ある商人の話をしよう。かわいそうな、かわいそうな、ある商人のお話を。上玉の奴隷を買わされたのに、それを売ることなく密告されてお縄にされた、かわいそうで間抜けな商人。確認するけどさ、奴隷を売ったのも、相手の商人を通報したのも君たちでイイんだよねぇ?」

 「…………」

 「肥溜め通りに官憲のメスが入ってないのは、君たちがそういう違法な商人をチクってお目こぼしをしてもらってたから。違う? その傍らで君たちは自分達で『奴隷』という名のスパイを送り込む準備をしていた。役人に没収された荷が検められる事を見越してね」

 「…………」

 「沈黙は肯定と受け取るよ。荷の中身がナマモノだった場合、この国の法律だとそれを保護し、適当な職に就けさせる事になってる。大抵はまぁ、荷運びとかドブ浚いとかゴミ拾い、そういう底辺のお仕事に回される事になってる。元が奴隷だからね、仕方ないね」

 元より奴隷の仕事とはそう言ったもの。必ずしも豪邸で使われる人夫として潜り込める保証はどこにもない。よしんば潜り込めたとしても、庭師の真似事をさせられ屋敷には一歩も入れてもらえない確率の方がずっと高い。

 「だけど君たちは違った。確実に仲間を内部に送り込む手段を持っていた。ある程度まとまった資産があって、個人で人を雇い入れる余裕があり、それでもって屋敷とその周辺を把握できる仕事に就ける方法をね」

 ジャックの追及に言葉が出ないのか、既に卓は彼の独壇場と化していた。向かいの人物はただ沈黙を保ったままその言葉を受け止める。

 「調べて分かったんだけど、被害にあったお金持ちの家は皆殺しって……実際は違うよね? これまでの事件全てに共通して、被害者の中に事件直後に姿をくらました人が必ずいるんだ。お役人さんは盗賊に攫われて慰み物にされてるなんて言ってたけど、この行方不明の一人こそが、不幸な奴隷に扮して屋敷に忍び込んだ盗賊の一味だったとしたら?」

 被害を受けた家から姿を消した最後の一人は決まって女性、それも屋敷に雇われて十数日から一ヶ月のメイド。

 調書に書かれていた名前は、「メイリ」、「ムイ」、「メノー」、「マァル」、「モーラ」、等々。

 そして────、



 「ねぇ、『ミルヤム』」



 種族、キキーモラ。

 ジャックの前に座る人物は、ほんの数日前まで彼の家で働いていたメイド、キキーモラの「ミルヤム」がそこにいた。

 「驚かないんだな」

 「何とな〜く予想してたしねぇ。あの夜、既に賊は屋敷にいたのに後ろから殴られた。あの時後ろにいたのは君だけだよ」

 メイド姿で自分の身の回りをしていた姿と、今目の前にいる彼女の姿はかけ離れている。麻袋を編んで作ったみたいな服装はもちろんだが、普段ヘッドドレスで隠れていた髪はボサボサに解き放たれて清潔感の欠片も無く、男言葉に乱暴に頬杖をつき忌々しそうに床に向かって唾を吐き捨てる様など、どうして同一人物と見えよう。

 だが何より違和感があるのは、その目。元来キキーモラとは、屋敷に住み着き怠け者を貪り食う凶悪な魔物。鈴をつけたような可憐な目はどこにもなく、今やその目はかつて祖先がそうであったように薄く研がれ獲物を狙う猛禽の如き視線をしていた。眉間にシワがより、眼光がジャックの急所全てを射抜くように見つめている。一歩退いた場所から主人を見守っていたあの優しい目は、もうどこにもない。

 「はっ! ちょいと仏心を起こして見逃してやったら、トチ狂ってこんなとこまでお出ましになるたぁな。気狂いも極まれり、こんな頭オカシイ奴の家政婦をしてたなんざ、我ながらどうかしてたよ」

 「どうでもいいけどさぁ、ミードまだぁ? お喋りしすぎて喉渇いたんだけど」

 「てめぇは自分の立場が分かってんのか、あぁ!? いいか、よく聞けよ。アタイは七の頃からこの商売をしてきた。肥え太った貴族や商家の豚野郎どもに媚びへつらい、最後にはそいつらをケツの毛も毟り取る勢いでのし上がってきた。てめぇが何のつもりでここへ来たかなんて知らないし知りたくもねぇが、命が惜しけりゃとっとと帰んな! アタイが合図するだけでアンタは身ぐるみどころか、皮は服に、肉は食料に、内臓はクソと混ぜられて肥料にされんだぜ? アンタが死刑囚にやってた以上のことがここでは平然とやってのけられるんだ、分かってんのか?」

 「ミルヤム」の言ったことは脅しでも何でもない。ここでは人の命など羽毛より軽い。再三警告している彼女自身も気を抜けば背後から殺られる、そんな生き馬の目を抜く地獄なのだ。

 だが相手はジャック、死をちらつかせた程度で大人しくするほどまともな神経はしていなかった。退屈そうに欠伸を一つかますと、けろっとした顔でこう言った。

 「話終わった? じゃあ、一緒に帰ろっか」

 テーブル越しに「ミルヤム」の……名も分からぬキキーモラの手を掴むジャック。予想しなかった展開にキキーモラの方は少し沈黙し……。

 「はぁ?」

 間の抜けた声しか出せなかった。しかしその沈黙さえ勝手に肯定と解釈したのか、ジャックの無邪気な催促が続く。

 「早く早く〜! 君のためにせっかくドレスを作らせたんだから、一緒に帰って着付けしようよ! サイズ合ってるとイイんだけど、まあ大丈夫だよね!」

 言葉の意味を理解した彼女の顔が赤く染まる。もちろん羞恥ではない、怒りによる紅潮だった。

 「てめぇは……馬鹿か! アタイはアンタの知ってる女じゃねえってんだよ!! アンタを甲斐甲斐しく世話してくれた『ミルヤム』なんて女はなぁ、嘘っぱちのデタラメ、演技だったんだよ! ケツの青いイカ臭ぇ童貞が、居もしない女にいつまでも入れ揚げてんじゃねぇぞコラ!!」

 「何で? ここに来たのは最初から君を迎えるためだよ」

 「はぁぁぁ!? 馬鹿……バッカじゃねぇの! アタイはアンタが知ってる女じゃねぇ、『ミルヤム』ってのはキャラ作ってただけだっつってんだろうが!」

 「どうしてローランと同じこと聞くかなぁ? だーかーらーっ、君を、きぃみぃをぉ、迎えに来たんだって言ってるじゃん。名前も知らないキキーモラさん」

 忘れていた、この男はこういう人物だった。噛み合っているようで噛み合わぬ会話、「こんなことはしないだろう」というこちらの予想をいとも容易く裏切ってくれる言動、狂人の行動理念を解するなど誰にも出来ないということをすっかり失念していた。

 「何だよ……何なんだよ、てめぇ……。ワケわかんねぇ」

 「言ったでしょ、君の事を気に入ってるって。世間だとやれ変人、やれ狂ってるだのキチガイだの好き放題言われちゃいるけども、気に入った何かを手元に置いておきたいと思うほどには普通なつもりさ。それが君のような綺麗で、美しく、可愛らしい人ならなおさらね」

 「そりゃ嫌味か。誰の、何がっ、何だって言った? あぁ?」

 「そうそう、それそれ! そういうムキになった方が畏まってるよりずっとイイ! お淑やかさなんかクソ食らえって顔の方が、何倍も、何十倍も、いや何百、何千、何万倍だってイイ!! どうして最初からその顔を見せてくれなかったんだい?」

 彼女の手を両手で包み込み、愛おしそうに頬擦りするジャック。それは愛情表現というよりは、まるで犬猫が飼い主に甘えるような仕草。この極限の状況にあって警戒という自己保存の本能すら放棄した行動に、最初の頃の勢いはどこへやら、かつてミルヤムを名乗っていたキキーモラは身をよじり抵抗するような動きをした。

 その仕草はまるで彼女自身が否定したはずの恥じらう乙女のものだった。

 「やめっ……やめろよ! こんなコトしたってアタイは違う、『ミルヤム』なんて女じゃねぇんだよ、何で分からねぇんだよ!」

 「分からないよ、うん分からない。君がどんな色が好きで、どんな食べ物が好みで、休日には何をしたりとか、子供の頃の思い出とか何も知らない。そりゃそうだ、君とは赤の他人同士、たかが一ヶ月かそこら屋敷に勤めて、やった仕事と言えば処刑道具の後片付け。これでお互いを理解し合えって方が無茶だ、うんうん、それは君の言うとおりだよ」

 でもね、と続けてジャックの手がキキーモラの体を引っ張った。思わず前のめりになったその瞬間にジャックの手がその面食らった顔を包む。互いに鼻の息すら感じ取れるほどの距離、まるでキスを交わす寸前の恋人同士。

 だが、ジャックの目からは色が消えていた。

 「やっぱり、君はまだ『生きて』ない」

 以前、これと同じ眼を見た。熱が失せ、光が消え、命を否定する死神の眼。零下の氷を刳り貫いたような視線に見据えられ、全身から血の気が引くのをキキーモラは感じていた。

 「君は『生きて』ない。偽物の仮面を剥ぎ、ここまで素の自分を剥き出しにしてるのに……それでもまだ『生きて』いない。これはどういうこと? 何が君をそうさせてるの? 生まれ持った性格? 育った環境? ていうかさぁ……」

 死という究極の真理を見据える冷たい眼は、その本質を裸にする一言を投げかける。

 「君が『生きて』いないのはさぁ、誰かに『殺され』てるからじゃないの。誰なの? 君を抑えつけ、肉を削ぎ、目を抉り、骨を砕くのは……誰? そんな愛の無い『殺し』をするのは誰なんだ、答えろよ」

 口調が乱暴になるに連れてジャックの目に熱が灯る。それは怒り。義も理も愛も無いまま一つの命を弄び、その魂を忘却の水底に沈めようとする、そんな度し難い行為に対する義憤。死を想い、死を重んじ、死を愛する彼にとって、目の前の少女の置かれている状況は決して見過ごせるものではなかった。

 知りたい、知りたい、知っておきたい……どんな形にせよ『愛した』女の事は何でも知っておきたいと願うのが男のサガ。それはこの死神と呼ばれた男も変わりない。

 だが、そこに不穏な影が這いずり寄る。

 「おい、マリアぁ……んだぁ、その男はぁ……!」

 死神の冷気から、暴虐の熱気へと、酒場の空気が塗り潰され一変する。と同時に、浮かれ騒いでいたならず者達が一斉に席を立つ。その動きはまるで上官の来訪にそれを出迎える兵士のように統率されており、彼らこそが金持ちの家々を襲った盗賊であるとここで判明した。

 そして彼らが出迎える者、今まさにジャック達に声を掛けたこの男こそ、盗賊を率いる首魁。この肥溜め通りに君臨する真の強者。

 「んん〜? 見ねぇツラだなぁお前ぇ。新参かぁ、んん?」

 黒々と生い茂る髪とヒゲはライオンの鬣にも似て、呼吸するたびに荒い音が口から漏れ出す様はまるで獣の唸り声。酒に酔った赤い顔でジャックをしげしげと眺めるが、その眼は酒をたらふく飲みながら決して眼光は衰えず、欲望燃え滾る業火の眼は彼を値踏みするように睥睨していた。

 「マリア、なぁマリアよぉ。オレの知らねぇ間に随分仲良くしてたみてぇだなぁ? お前がオトコを作ってたなんて全然知らなかったぜぇ」

 「違っ、これは違うんだオヤジ!!」

 「あ、親御さん? 言われてみれば目元とか似てるね〜。ていうか本名『マリア』って言うんだ、君にピッタリの可愛い名前だね」

 「てめぇは黙ってろ! ぶっ殺されてぇのか!?」

 これ以上余計な口出しをさせて場を乱すのは許さないと、キキーモラのマリアが口を封じる。

 しかしその手が僅かに震えているのをジャックは見逃さなかった。その震えは命の鼓動、自己を守ろうとする本能が恐怖という形で発露した、紛うことなき『生』。それまでずっと感じることのなかった『生きている』鼓動を、ジャックはこの時ようやくマリアに見出す事ができた。

 マリアから『生』の脈動を奪っていたのは恐怖。そしてその根源こそ、盗賊の首領にして彼女の実の父。

 「おいおいマぁリア、オレは娘に彼氏が出来たからって顔真っ赤にして嫉妬するほどヤワな親父じゃねぇよなぁ? むしろファミリーが増えるんだ、大歓迎だぜえ。ここに居る連中みぃんなそうじゃねぇかよ」

 「いや、だから、話きいてくれよオヤジ! こいつは……!」

 「あぁん、なんだてめ……オレがいいって言ってんだぜ。もしかして、文句があるってわけじゃあねぇよなあ、マぁリぃアぁ?」

 「っ……!」

 父親の目に射すくめられ黙るマリア。彼女にとって己の父は肉親ではなく、盗賊を率いる絶対の支配者。親子の情ではなく恐怖によって縛られている。

 「いやぁスマナイなぁ。見てん通りの照れ屋で困る。こんなオンナで良けりゃ、まあ好きにしてやってくれや。ほれ、お近づきの印に……」

 「どもども〜」

 そう言って手を出す頭領。どうやらジャックの事は知らないらしい。ここは事を荒立てるのはよそう、とかいう考えがあったかどうかは定かではないが、ジャックはすんなりと右手を差し出した。

 固く交わされる握手。人のいい笑みを浮かべた盗賊の頭と、悪人を裁断する首切り役人の、世にも奇妙な組み合わせ。



 刹那、ジャックの右腕に鉈が落ちた。



 テーブルもろともに粉砕する勢いで下ろされた刃は一瞬でジャックの腕を切り落とし、間欠泉のように断面から噴き出た鮮血がマリアの顔を濡らした。

 「ひっ……!!」

 「ゲェハハハハ!! なにてめぇ人様のモノに色目使ってんだぁ、ああッ!? これで一生マスかけねぇ体にしてやったぜ、ざまあねぇなあ!! グゲハハハハハァハーハハハハッ!!!」

 切り離された右手を投げ付けて頭が高笑う。その左手にはいつの間に取り出したか鉈が握られ、今しがた振り下ろされたその刃にはてらてらと赤い血が染み付いていた。

 「オ、オヤジ……違う、違うんだよぉ! こいつは何も関係ない、関係ないんだ! アタイがちょっとガンくれてやっただけの、ただそれだけなんだよ。見逃してやってくれよ、頼むよ……なぁ」

 「てめぇはよぉ、いつまでいつまで……甘っちょろいコトぬかしてんだゴラァ!!」

 「あがッ!!」

 マリアの顔面に向かって振るわれる鉈。峰の部分とは言え容赦なく娘を打ち据える頭の顔は、まさしく鬼の形相と呼ぶに相応しいものだった。

 「口を開けばグチャグチャと……! 年取るたびにあの女と同じことぬかしやがる。あぁ、あぁ、ウザってぇ! ウザってぇなあお前よぉ!! それでもオレの娘かよオイ!! 親のやる事なす事にいちいち反発しやがって、誰のお陰で食っていけてると思ってやがんだぁ!! 言ってみろよ、なぁッ!!! またブタ共のオモチャにしてやってもいいだぞ、なぁッ!!!」

 床に倒れたマリアを、今度は容赦ない蹴りが襲う。足を、腹を、肩を、背中を、顔を、聞き分けのない犬を躾けるように。初めは衝撃の度に悲鳴を上げたマリアも次第に反応を返さなくなり、頭を抱え背を丸め暴力が過ぎ去るのをじっと待つことしか出来なかった。それでも苛立ちが収まらない首領は最後に一際強く脇腹を蹴り上げ、枯れ枝が折れるような音も無視して酒を呷った。

 「あーあーこんなにヨゴれちまってよぉなぁ! 明後日にはまた樽詰めの『奴隷』にして送り出さなきゃなんねぇのになあ! いや、むしろ多少傷があってもいいのか? その方が……」

 「『その方が潜伏先の金持ちに可愛がってもらえそうだ』って?」

 「ああそうだ……って、あん?」

 「いやぁ流石は今をときめく大盗賊のお頭サマ、こんな手の込んだ計画を考えるなんてよっぽどの暇人……もとい、聡明な頭脳をお持ちのようで。あ、そこのお兄さん、パンない? パン? 適当に切れ込み入れて肉サンドにするからさ」

 「…………なに、やってんだ……てめぇ」

 頭の顔がここで初めて驚愕の色に染まる。その目は平然と食事するジャックに向けられており、他の盗賊らも一様にギョッとした顔でその食事風景を見ていた。

 腕を切り落としたのに平然としている事はもちろん驚きだ。何せ腕、それがまるごと一本体から切り離されたのだ、それを戸惑うどころか痛がる素振りすら見せない時点で既にイカレている。だがそんなのは物の数ではない。

 「前々から人肉って興味あったんだよね。まさか自分の……んぐっ、腕を食べる事になるとは思わなかったけど。うぇ、意外とマズぅ」

 骨が剥き出しになり血が滴る断面に齧り付き、チキンを頬張るようにむしゃぶりつく様子に、人殺しを生業としてきたはずの猛者たちの顔が蒼くなる。今まで自称他称問わず狂人と呼ばれる者を見てきた彼らだが、「本当の狂人」を前にしてその心に恐れが生じてしまった。どんな荒くれ者も縊り殺してきた彼らでさえ、「悪魔」はやはり恐怖の存在でしかないのだ。

 やがて口に含んだ分をゆっくり咀嚼し、味わい、飲み込む。健在な左手で口元の汚れを拭い取り、さてと前置きをしてからジャックの目が頭領を見据える。腕が切られた事にも動じない狂人の視線に、さしもの盗賊の頭も気味悪いものを感じて恐れ慄く心を禁じ得なかった。

 「ねぇねぇ、お頭さん。ダメだよそんな愛の無い扱い方しちゃったら」

 「愛、だとぉ?」

 「罵り方、殴り方、蹴り方、痛めつけ方……何ていうか、素人っていうかお子ちゃまって言うかさ。掃除が下手くそな人を見てるとイラってきちゃうじゃん? 今の君がそうだよね」

 「てめぇ何を言って……」

 「君とは違うよ。自分なら愛して悲しませる事が出来る。愛して怒らせることも、愛して怖がらせることも、愛して痛めつけることも、愛して喜ばせることも当然出来る。分かるかなぁ、猿芝居にも劣る素人芸を見せられたこの気持ちがさ」

 「だから、何を言って!!」

 「だから、要らないなら頂戴。て言うか寄越せ」

 懐に手を突っ込んだジャックがそこから取り出した何かを放り投げる。天井すれすれまで飛んだそれを目で追えば、その正体は何かの液体を詰めたガラス瓶。しっかりと封がされたそれは重力に従って床に接触、中なら液が漏れ出す。

 瞬間、外気と触れた液は化学反応により一瞬で気化、大気と混じったそれは濃い煙幕となり瞬く間に酒場の中全てを覆い隠した。

 突然の事態に混乱する空間。その喧騒と煙を割って二人の影が飛び出した。

 一人はジャック。纏っていたボロ布を捨て、口には切り落とされた自分の右腕を咥えていた。

 そして左手で引くもう一人は……。

 「何で、アンタ……!」

 「契約更新さ。君にはまだうちで働いてもらうんだから!」

 背後から迫る怒号に脇目も振らず、ただ一目散にストリートを駆け抜けるジャックとマリア。薄汚れた路地から日の当たる表通りに向かって、ジャックは握った手を離さぬようしっかりと掴み駆け抜けた。

 二人が表に飛び出すと、それと入れ替わりに武装した役人達が一斉になだれ込む。背後で繰り広げられる大捕物を見物することもせず、二人の足は街の喧騒を離れ、どこまでも一緒になって駆けて行くのだった。

 右腕から垂れた血の跡だけが点々と足跡をなぞっていた。





 「元は地方で荘園やってる農家で働いてた下女だった。仕事は忙しかったけど楽しくて、結婚相手もいたんだ」

 田舎で忙しくも慎ましく、さりとて心荒ぶような場所ではない、そんなところで彼女は一人の女性として確かな幸せを手に入れようとしていた。

 だが実際はそうならなかった。

 「山を根城にしていた盗賊が襲ってきた。人はぶち殺されて、作物は奪われ畑は荒らされて、家には火を放たれた。死にはしなかった。けど代わりに、盗賊団の男に手篭めにされて首輪を掛けられて暮らす羽目になっちまった」

 キキーモラは見目麗しい魔物娘にありながら非力で、脆弱で、そして儚い。何もかも奪われ生きる気力を失くした彼女は為すがままの生活に身を委ね、次第に心を閉ざしていった。蹂躙と陵辱の果てに命を落とすその日まで。

 「一年してアタイが生まれた。アタイは生まれた瞬間からオヤジの道具で、オヤジが率いる盗賊団のペットだった。体のいい発散の道具……汚ぇ野郎のチンポコやタマを舐めたり、ケツをほじったりほじられたり、クソと精液まみれのパンを食べて、変な趣味した奴に肉抉れるまで鞭で打たれたりもした。そうしてないと、てめぇが使えるって事を示し続けないと、生きていけなかった」

 最初に恥を捨てた。次に未来を捨てた。そして最後には己を己たらしめる誇りすらも捨てて、マリアはただ自分の命を食い繋ぐことだけに腐心した。何をして生きるのでも、何かのために生きるのでもない……ただ「生きる為に生きる」、それがいつしか彼女の行動原理になっていた。他に望みなど無かった。いや、そんなモノを抱いたところで何の意味もないと知っていたから。

 「そして君は、『生きる』ことをやめた。生きながらにして死ぬことを選んだわけか」

 「てめぇに何が分かるんだよ……。自分が何で生まれて、何で生きてて、何のために生き続けるかも分からなくて……自分の体に流れる血の半分が、あんなクズ野郎の血だと知らされて……それでどう『生きろ』ってんだよ。そんなクズの下で飼い慣らされてなけりゃ満足にメシも食えなかったのに、他にどんな生き方をすれば良かったってんだよ」

 彼女がキキーモラに生まれたのは皮肉だった。首輪を付けられ、手足に枷を嵌められた彼女は薄汚れた男どもに「奉仕」することで自分の生き方を確立していった。自分が価値のあるモノだと、利用できて役に立つのだと示し続けなければ、切り捨てられるかもしれなかったから。寝ても覚めてもマリアは生きる為に生き、その代わりに心を殺していった。そうすることでしか非力な彼女は生きる術を持たなかった。

 ただ生きるためだけに身も心も切り売りし、誇りも何もないケモノ同然に地を舐めるように暮らす……それはとても屈辱的なことだが、もはやマリアにはそれを辱めと思う心さえ質に売り飛ばした。泥から生まれた蛆虫が、泥を啜りクソを出し、そのクソ混じりの泥を啜ってまた生きる。そんな暮らしにすっかり身をやつしてしまっていた。

 哀れ、ただただ哀れな生き方。聞けばその境遇にきっと誰もが憐憫を寄せずにはいられない。

 唯一、この男を除いては……。

 「あっそ。なら死ねば?」

 「え……?」

 ひょいと投げ捨てるように渡されたのは抜き身のナイフ。果物の皮を剥くのに使われる小振りのものだが、こんな物でも手首に当てれば余裕で動脈をスライスできる。

 「掻っ切るのは嫌い? じゃあ、これも」

 次に渡されたのは荒縄。丈夫な木の枝に括りつければ天使が首を釣り上げてくれる。

 「まだあるよ。ほら、ほら、ほら、ほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほら……ほら!」

 次々に渡されるのはどれも自ら命を断つための道具ばかり。焼身用の揮発油、茶色の小瓶に詰められた毒薬、雷獣の体液から取り出した感電液に、先端に毒を塗り込んだクロスボウ、投身や入水に適した場所を記した地図まで、実に様々な道具を笑顔のままマリアに押し付けるように渡してきた。

 ここにあるのはどれもそれを実行すればたちどころに効果覿面、確実にあの世の旅路につける代物ばかりだ。

 「さあ、死んでよ」

 死神の囁きが脳髄に食い込む。冷たい鋼の手に心臓を鷲掴みにされたような、底冷えする感覚に全身が総毛立ち身震いする。目の前にずらりと並べられた「死を司る道具」が放つ波動に呑まれ、マリアの顔が青褪める。

 「どうしたの? 遠慮はいらないよ、さあ死のう! 今死のう、すぐ死のう! この世に未練なんか無いんだろう? 自分がどうして生きてるのか分からない、生きる意味も価値も分からない。なら死ねばいい」

 「……ぅ、あ……」

 「生きるという事に飽いたなら、手首を掻き、毒を呷って、首を吊り、油を被って火を点けて死ね。肉は爛れ、脂肪が融け出し、グズグズの内臓と、剥き出しの骨を晒して死ね。『まだあんな年若いのに』、『きっと辛い事があったんだね』、『可哀想に』……理由も事情も背景も知らない有象無象、別にそんなに多くない人に勝手に心配されて、三日後には忘れ去られて死ね」

 「……だ……ぁ、だ……」

 「ほら、ほらほら! どうしたの? 怖いの? 怖くない怖くない、だって今までどんな苦しみにだって耐えてきたんだ、そんな事ぐらい平気じゃないか! 苦しみは一瞬だけ、それが終われば後はもう何も考えなくていいんだ。これまでに味わってきた苦痛に比べりゃ屁みたいなものだよねぇ?」

 死神の冷たい左手がマリアにナイフを握り込ませる。光を反射する刃に映るのは、蒼を通り越し白くなったマリア自身の顔。

 「さ、どうぞ……死ねよ」

 「っ!?」

 思わず離そうとする。だがナイフを持つマリアの手を包むようにジャックの手が握り、それを許さない。彼女が自らの手で自分の命を断たない限り絶対に離れない。死神の鎌はすぐそこに、マリアの背後、刃は首筋に当てられていた。

 死ね。

 死ねばいい。

 死んでしまえ。

 「…………や、だ……」

 「え、なに? 聞こえない」

 「……いや、だぁ……」

 「はぁ? この期に及んで何を言っちゃってるんですかぁ? イイから死ねよ」

 握らせたナイフに力を込め、マリアの胸に近付ける。鋭い切っ先が僅かに触れるか触れないかの距離、そして冷たい先端が柔肌を掠めた瞬間────、

 決壊した。

 「イヤだぁぁぁぁあああああああああっっ!!!! イヤだァァ! イヤだ、イヤだぁあぁぁあああああああああーーーっっっ!!!! まだぁ……まだ生きていたい、死にたくなんかないんだぁぁぁあああああ!!!」

 身を削り、心を切り刻み、全てを諦め俯瞰していた少女の、芯からの叫び。それは絶望の死ではなく、醜くても汚くても生き続ける生への渇望だった。

 「ウマいもの食いたいよ……キレイな服が着たいよ……一度でいい、雨に濡れない風に吹かれない場所で、ぐっすり眠りたいよぉ……。まだ、まだ何もしてないのに……死にたくなんかない、まだ生きていたいよぉ」

 生まれてからずっと押さえ込んでいた奔流は蟻の一穴で容易く崩れ、溢れ出した心が涙と共に流れ落ちる。孤独と絶望に身を浸し続けたマリアの心は、壊れる寸前に軋み悲鳴を上げることしか出来なかった。

 そう、それまでは……。

 「そうだよ、マリア。それが『生きる』ってことだよ」

 蹲り咽び泣くマリアを包むようにジャックが抱きとめる。残った左腕は彼女の背を、切り落とされて短くなった右腕で不器用に頭を撫でる。その視線は死神の眼から一変し、慈愛の色を湛えていた。

 「前に言ったっけ。何をしていたってどうせ死ぬ、人生の中で幾つかある出来事なんて有っても無くてもイイって」

 「…………」

 「確かに、死んじゃったら結局は同じだよ? でも、どうせ過ぎ去る余興だと知っているのなら、それを目一杯楽しんで味わってから死にたいって思わない?」

 「楽しんで……」

 「うん! 美味しいものをいっぱい食べよう。綺麗にオシャレしてお出かけしよう。フカフカのベッドで朝まで眠って、夜は暖炉の前で夜更ししよう。好きな人と、愛している人と一緒に過ごそう……死ぬまで」

 今日は死ぬには良い日だ。

 だが、「死んで良い日」など、「死ぬまで無い」。

 昨日死ぬはずだったつもりで今日を生きろ。今日死ぬつもりで明日を迎えろ。明日死ぬつもりで未来を思い描け。

 それが、それこそが……。

 「一緒に『生きよう』。君の血に濡れてない手に恋をしました。共に居てください、美しい人」

 死が二人を分かつまで。

 涙に濡れたマリアの手を取り、そっと唇を当てる。冷たく固まっていた皮膚に熱が宿り、それが全身に駆け巡り火を灯し、生まれ落ちてずっと『死に』続けていたマリアの心は今……。

 「う……わぁぁぁぁぁぁ」

 やっと、息を吹き返した。





 「なぁ……ほんとにヤるの」

 「何か問題?」

 落ち着いたマリアをベッドに連れ出し、あれよあれよという間に柔らかい羽毛布團の上には服を剥かれ身を清められたマリアが横たわっていた。風呂上がりの体からは仄かに湯気が立ち上り、女性特有の甘い香りがシーツに染み付いた。

 そんな彼女の目線の先では左腕一本で服を脱ごうと悪戦苦闘するジャックの姿が。

 「あのさぁ、腕ちょん切られてんだからさ、無理するなよ」

 「だいじょーぶ! バフォメットのお医者さん曰く、断面が綺麗だったから繋げるのは簡単だって。小腹が空いて食べちゃったところはネズミが齧ったって誤魔化した!」

 「んなこと言ってアンタ、預けて帰って来ちまっただろ。その腕だって止血しただけなんだろ?」

 「あー……うーん……あ、あのさぁ、ホントのこと言っていい?」

 「どーぞ」

 「ぶっちゃけ、痛い。マジ痛い。いや、ちょっと待って、なにこれ本当に痛い! 正直泣きそう! て言うか泣く、泣いていいよねマリー!!」

 「あぁもう、鬱陶しい!!」

 痛い痛いと喚きながらやっと服を脱ぎ捨てたジャックがマリアに飛びつく。彼女の特別大きくも小さくもない極めて平均的な胸に顔を埋め頬擦りする。姿は完全に甘えたがりの犬であり、頭をぺしぺしと叩くマリアもそれ以上の抵抗をしない辺り、特に不快に感じているわけではなさそうだった。

 「フフフ、マリー」

 「あんだよ」

 「マリー!」

 「そのマリーってのやめろ」

 「マリア、マリア、嗚呼愛しいマリア。君が欲しい。イイよね? 食べていいよね、飲んでいいよね、貪ってもいいよねぇ?」

 頬は紅潮し息は荒く、指先はいつでも抱けるように柔肌の上を撫でている。男にあるまじき蠱惑的な雰囲気に当てられそうになるマリアだが、それをぐっと堪えてマリアが訊ねる。

 「アタイでいいのか。こんな、薄汚い野郎の手垢が付いた、クズの血を引いたオンナで……」

 「んー、それってつまりさあ、処女みたいに気を遣わなくてもイイってことだね! やったー!」

 「ちがっ! そう言う意味じゃ……!」

 「はーい、御開帳アーンド、ジャック行きマース!」

 「ひぅッ!!?」

 予告もなしに怒張が下腹部を貫いた衝撃に、マリアの口から思わず間抜けた声が漏れ出す。今まで何度も盗賊団の男達に性欲の捌け口にされてきて、もう男の扱いなど手に取るように分かっているつもりだった。

 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 「だ、大丈夫? ヌく? 一度ヌく? 発射じゃなくて後退の意味でヌく?」

 「イイっ、このままで! ちょっと、ちょっとだけ驚いただけだからぁ……」

 違う、何か違う。何がどうとははっきり言えないが、それでも今まで自分を散々慰み物にしてきた男たちと、この気狂いは絶対的に違う。男根などオスがメスを虐め抜く道具としか思えなかったマリアにとって、下腹を走った衝撃が快感だと認識するのに少し時間がかかった。

 自分を抱く男は今は隻腕、なのでその動きはぎこちなく拙い。正直言えば、オンナをこます才能に長けた盗賊の方がテクニックは遥かに上だ。だがこの男が腰を僅かに動かすその度に、マリアの脳裏から自分を好きなようにしたケダモノの顔が一つ一つ消えていく。

 (セックスって……こんなキモチイイもんだったっけ……)

 何故だろう、涙が止まらない。こみ上げる衝動が、感情が、言葉では言い尽くせない何かに変わって目から溢れ出す。だが少ししてその正体が何なのか分かった。

 「キモチ、イイッ……。あぁ……イイ、とても……とっても、しあわせ」

 体の奥から湧き上がる多幸感に、視界は歪み、耳鳴りが鼓膜を澄ませ、意識が酩酊する。震えが四肢から起こり、骨も筋肉も全身すべての器官がまるで薬物の禁断症状にあったように震動が収まらなくなる。寒さでも恐怖でもなく、幸せで震える事があるのだとマリアは初めて知った。

 体が芯棒を欲していつしか目の前の男に強くしがみつき、際限なく膨れ上がる幸福感がここで一気に恐怖に変わる。理由もないのに嗚咽が止まらず、大切なものを失くした子供みたいに泣きじゃくる。

 「うわぁぁぁ、うわぁぁああん、うあああああああぁぁーっ! ひっぐ、ふぇっ、ぁぁぁぁぁああああん!!」

 「はいはい、どうしたの、んー? いいこいいこ」

 抱き上げて頭を撫でて宥めながらジャックの愛撫は続く。その手は優しく、胸は大きく、言葉は力強かった。

 死を想うということは、生を顧みるということ。誰よりも死を近くに置き、何者よりも死を理解する故に、その魂は生の輝きに満ち溢れ、愛の光が他者を照らし出す。希望という名の光を。

 優しさに包まれるマリアの涙はいつしか止まり、完全に身を委ねた彼女の意識はいつしか微睡みの中に沈んでいた。生まれて初めて感じる安らぎの中で、その寝顔はとても美しかった。





 半年後、王都で最も広い広場に立てられた処刑台に一人の罪人が引っ立てられた。綿密な計画を立てて貴族や商人の家を襲うこと十数件、誰が呼んだか『肥溜め通りの怪人』、浮浪者に身を扮していた盗賊団の頭が遂にその刑に服する時がやって来たのだ。

 広場には多くの人間が集まっていた。既に壇上には手足を縛られた罪人が立たされており、人々から罵声やゴミを投げ付けられても平然として逆に気味悪い笑みさえ浮かべていた。これから自分が死ぬことに微塵の恐怖も抱いていない、無頼漢の極みとも言うべき姿にある種畏怖さえ感じさせるほどだった。

 だが民衆の関心は罪人だけに注がれてはいなかった。

 「刑の執行は、王命において死刑執行人が執り行うものとする。処刑人はこれへ!」

 司祭の言葉に従い壇上に現れるのは、半年間公の場に姿を見せなかった王都最悪の首切り役人・ジャック四世。病死説まで出回っていた『ぶつ切りジャック』復活の噂を聞きつけた民衆は我先にと広場に押し掛け、普段の五倍以上もの人数がこの処刑の行方を見守っていた。

 「まさか、てめぇがあん時オレらがカモにしてやった貴族だったとはな。腕の調子はどうだい」

 「お陰さまでリハビリも終わったよ。君が綺麗にスパッとやってくれたからね」

 「へへっ! 悪名高い首切り役人サマに看取ってもらえるなんざ、オレは果報者だ。てめぇがどんなに痛めつけたところでオレの在り方は変わらねぇ。このオレの死に様を見た誰もがオレを崇める。死神の刃にも屈さず、あまつさえ一度はその右腕を奪った男としてオレの名は永遠に残るんだぜぇ」

 「へー、そりゃスゴいねー。ところで、今日は君にお客さんがいるんだ」

 「客?」

 「ほら、そこにいるでしょ」

 ジャックが指差す方向を見やる。するとそこには、荘厳なドレスを身に纏った女性が一人。普段は衛兵が警護しているラインを越えた、処刑台のすぐそこに立ち盗賊の頭を見上げていた。

 そのドレスの色は黒。花嫁衣装にも似たそれは墨に浸けたような漆黒に染まり、花束を両手に持つ姿と相まってまるで葬送に参列する喪服を思わせた。

 「君の娘、そして我がジャックの花嫁になる人だ。どうか父として祝ってあげて欲しい、愛娘の門出を、その前途を! どうか」

 「は……はは、ハハハハハハハハハハッ!! こりゃ傑作でぇ! 気狂いにもホドがあらぁな! 人様の血を愛でる殺人鬼が、ションベン臭ぇケダモノのガキを娶るなんざぁ、おかしくっておかしくって腹ァねじ切れそうだぜぇ、ギャハハハハハ」

 もはやこの男にヒトとしての情は無い。そんなものは期待するだけ無駄だ。血を分けた実の娘を道具としか考えず、その人生を弄び、今またやっと掴んだ幸せにも唾を吐き捨てている。もはやケダモノは彼の方で、そのケダモノの耳障りな哄笑を前にしたジャックは……。

 「黙れよ」

 静かにキレた。

 手にした処刑剣が一閃、一瞬で首の皮に迫った。今度は刃引きしていない、当たれば肉を裂き骨を断つ真剣だ。その冷たい感触に男も押し黙る。

 「アハハ、なーんて嘘嘘。ビビった? ビビっちゃった? やだなーもー」

 「てめぇ……!」

 「いま確信した。君は父親として最低だ。たった一人の娘の幸せも望めない矮小な男、それが君だ。でもそんな君にも娘のために最期に出来ることがある。それまでの生を振り返り、娘に許しを乞うことだよ。頭を下げて、その非礼を詫びるんだ」

 「へっ! 頭なんざ下げてやらぁな! ほれよ、これで文句無いだろ」

 言われた通りにしてやったぞとばかりに処刑台の下のマリアに対し軽々しく頭を下げ形だけのお辞儀をする。それを見届けたジャックは深い溜息を吐いて肩を竦め、処刑剣を携えて壇上を後にした。

 「帰ろ帰ろ。こんなつまんない仕事は今後一切やらないから。あ、司祭様、あとよろしくー」

 そう言ってひらひらと手を振りマリアの元へ行こうとするジャック。だが壇上にはまだ罪人が残っており、それを見咎めた司祭が彼を引き止めた。

 「お待ちなされ! 神聖なる処刑人の責務も果たさずにどちらへ!」

 「どこって、帰るんだよ? あー、復帰早々で悪いんだけど、一週間ぐらいハネムーンしてくるから。そこんトコよろしくね」

 「罪人の処刑は終わっておらぬではないか!!」

 「いいや、終わったよ」

 ジャックの足が処刑台の四隅を支える脚を軽く小突くように蹴り上げた。伝わる振動がギチギチと僅かに壇上を揺らし────、



 罪人の首がずり落ちた。



 処刑人としての技能全てを習得したジャックの腕は、本来ならあらゆる罪人に一切の苦しみも与えず殺すことが出来る。それが出来るのに敢えて失敗したり、過剰に苦しませたりするのは、ひとえに彼がヒトの生き死にを愛しているからだ。

 愛する故にその生死を永遠の記憶として人々に刻みつけようとして、そして残虐になる。殺しは彼にとっては愛情表現の発露でしかないのだ。

 「君は『愛する』価値も無い。安らかに、誰からも覚えられず、誰の記憶にも留まらず、自分が死んでいる事にも気付かないまま、一人寂しく孤独に死ね」

 残酷な殺戮が始まると思っていた民衆は一斉に沈黙した。そして沈黙に見守られながら、ジャックとマリアは馬車に乗り込み屋敷ではなく王都の外にある別荘へ続く道に出た。

 後には下品な笑みを貼り付けたままの首がひとつ。

 そしてジャックの予言通り、王都中を騒がせた稀代の大盗賊の頭は鮮やかな殺しを披露したジャックにお株を奪われ、瞬く間に風化し忘れ去られたのだった。





 いつかの未来────。

 「マリー! マリー、マリー、愛しのマリア! たっだいまぁ〜! 今日もいっぱい、い〜っぱい殺したよ!」

 「だぁ、もう! うるさい! 洗濯するからさっさと着替えろバカ亭主!」

 「マリーはそのままそのまま! ちょっとお腹見ーせてー」

 「あ、こら! もう……そんな顔押し当てても、まだ動かないっての」

 「ん〜順調に膨らんできてるね。今が一番大事な時期なんだから、マリアはちゃんとじっとしてなきゃダメだよ。そろそろ新しい人を雇おうと思ってるんだ」

 「アタイは嫌だね。アンタとアタイの場所に別の誰かが入ってくるなんざ……」

 「フフ、ママは嫉妬屋さんでちゅね〜」

 「ばっ!? 嫉妬なんかしてねぇし! アンタの世話が出来るのはアタイだけだって自負がだな!」

 「マーリーア!」

 「あん?」

 「愛してるよ。『生きている』限り、『死ぬまで』愛してる」

 「……あ、アタイも、『死んでも』愛してる」

 王都には死神が住まう。死神の館には今日も献身的な女が仕えている。
15/12/20 02:47更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 毒素「感想欄で今回は明るい話だと言ったな」
 読者「そ、そうだ作者……」
 毒素「 あ れ は 嘘 だ 」
 読者「野郎オブクラッシャァァァァー!」

 やっぱこういう頭のネジ皆無な奴書くのは楽しいわ!(恍惚)
 ジャック君は「やってる事オカシイけど、言ってる事はまとも」な人。今作三大マジキチの中では一番マシなお方。残虐処刑は趣味だから(震え声)
 ちなみに今回のタロット『死神』は逆位置。

 次の次あたりからお話の舞台は西側諸国を離れて東に行く予定。

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