連載小説
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第六幕 運命の恋人:前編
 『運命の恋人 〜あるいは雪山の怪物と忘却の青年のお話〜』










 「ハッ、ハッ、ハッ、あぐ、うあ……!!?」

 逃げる。逃げる。ただ逃げる。

 背後は見ない。見ている余裕など無い。仮にあったとしても、逃亡者はそれをしないだろう。

 なぜならば……。

 「ひぃぃぃぁぁぁぁぁ!!」

 川をせき止め大岩を飛び越え、乱立する樹木を薙ぎ倒しながら猛然とこちらに迫る巨大な“何か”。この世のものとは思えない絶叫を上げながら、巨躯が大腕を振り上げ逃亡者に襲いかかる。

 ただ大きいだけなら怖くない。田舎で暮らしていた彼は体の大きい魔界獣に家畜として何頭も接してきた。奴らが暴れた時の対処法も知っているし、野生化したそれを狩ったことだってある。

 だが『これ』は違う。

 一目見て分かった。分かってしまった。『これ』はそういう生易しいものじゃない。縄張りを意識するオオカミとか、冬眠し損ねたクマだとか、そんなものは『これ』を前にすればたちまち消し飛んでしまう。

 大自然の猛威という曖昧で抽象的なモノ、所詮それは文明に驕るヒトを戒めるための標語に過ぎない。だがそれが一度形を得て現界すれば、物質界に縛られ惰眠を貪るだけのヒトなど容易く捩じ伏せられてしまう。

 こんな風に……。

 「やめ、やめろォォォ!! やだ、やだやだやだやだぁ、いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 捉えられた逃亡者の頭を掴むのは、その頭部より更に大きい腕。すっぽりと包み込まれるように顔を掴まれた逃亡者は苦しみもがき、何とかして脱出しようと試みる。

 しかし────、

 「ヤ゛メ゛……ガァ、あぁぁぁああああああああああああああ!!!!」

 握力が強くなる。ギチギチと音を立てて高まる圧力に逃亡者の悲鳴が周囲にこだまするが、誰も助けに現れない。もしこの場に他の誰かが居たとしても、助けには来なかっただろう。暴威の化身たる『これ』を前にして、立ち向かおうと奮い立つ者など皆無だ。

 そしてそのまま誰にも助けられないまま……。

 逃亡者の頭は圧壊した。

 飛び散る血潮が周囲を汚し、断末魔の悲鳴に鳥たちがざわめく。ビクビクと痙攣する四肢は生命活動によるものではなく、トカゲの尻尾が切られてもしばらく動くようなもの、既に生命の火はかき消されていた。

 逃亡者を縊り殺した“怪物”はそれを貪り喰らうでもなく、そのまま打ち捨て、この辺りを縄張りにする獣にくれてやった。“怪物”は喰らうために殺したわけではない。

 「グオオオオオオオォオオオオオオオォォォォォォォォォーーーッッッ!!!!」

 落雷にも似た雄叫びが灰色をした寒空に轟く。

 季節は冬。もうすぐ雪が降る頃だ。





 アルカーヌム連合王国とその隣国、レスカティエ教国。この二つの国の北の国境はドラクトル山脈という長大な山々が連なり、冬の時期に溜め込んだ雪が春に溶け出した清流が古くから下流の人々の暮らしを潤してきた神聖な山だった。

 ドラクトルという名は古い言語で「竜の尾」を意味する言葉が訛ったものであるとされ、大陸の東西を横断し南北を分ける高山の連なりは天然の要害としても知られ、昔はこの雪山を越える事は不可能だと言われていた。南側諸国が北の大国・ゲオルギア連邦の大規模侵攻に晒されずにいられたのも、この山が壁となってくれていたからで、移動に適した標高のルートまで大きく迂回しなければ越山は無理だった。

 だが良い面ばかりではない。連邦のトップが代替わりし、それまでの政策を改め融和外交へと路線変更、周辺各国との協調関係を目指す方向へと方針転換を果たしたが、ここで新たな問題に直面した。即ち、周辺国との交易にドラクトル山脈という文字通りの壁が立ち塞がったのだ。

 これまでにも南側諸国とは僅かながらに交易を行っていた連邦ではあるが、今回の関係改善を期により広く太い交易路を確保したいという野望があった。だが大陸を東西にまたがる大山脈の存在がそれを許さず、これまで互いの国を守っていた聖なる山々がここへ来て片付けるべき厄介な問題となったのだ。

 交易路確保の案としてまず最初に挙がったのが、これまでと同じ人が通れる迂回路の使用だった。考えとしては誰もが思い付き、かつ現実的に見て最も信頼性のある安牌だ。

 だが元々このルートは旅の者が通るために獣道を使い始めたのが始まりで、大所帯の隊商が通るには適さず、更に迂回路ゆえに交易そのものに時間が掛かるという難点があった。行商人たちの付き合い程度ならいざ知らず、国家間でのやり取りをするには不向きだと判断され、早々に案から外された。

 次に挙がったのが、地上が無理なら空を通るという奇抜な発想。先進技術により大陸の北方を制覇したゲオルギアが生み出した技術の結晶、その一つが海ではなく空を航行する飛行船だ。これを商船として用いれば一度に大量の貨物を運搬可能な上、航行可能な空域には山肌も無く行く手を遮るものは無いはずだった。

 しかし、飛行船の運用には莫大なコストが掛かる。戦争という必要に迫られた時ならまだしも、これから先も継続して使っていくには運用費も管理費もバカにならない。交易で見込める利潤を出費が越えるという事により、この案もお蔵入りしてしまった。

 他にも海を経由して海岸で取引を行うべきだとか、魔術師の転移陣を要所ごとに設置するべきだとか、議論百出し会議は白熱した。

 そして時間が経過するごとに案は削られてゆき、最終的にひとつの案が採択されようとしていた。

 発想の転換。山が邪魔ならそれを無くせばいい。

 そう、大量の人員を用いて山を削り土を運び出し、そこに道を作るという大規模な計画が持ち上がったのである。

 だが木々を伐採し山を削り平地にするのは流石に無理と判断し、山の中腹に穴を開け南北を貫通させ、トンネルを掘り進める事になった。初期投資に掛かる費用こそ莫大だが、飛行船や魔術師と違って一度道を作ってしまえば維持に集中でき、関を設ければ更なる収益も見込める。いずれ山を削り大掛かりな街道造りに取り組むのだとしても、まずは実現可能な部分から形にしようという事で決定した。

 こうして、ゲオルギア、アルカーヌム、そしてレスカティエの三ヵ国合同による大規模なトンネル開通計画が始まった。

 それから十五年、南北両側から進める掘削作業はゆっくりと、しかし確実に、三ヵ国を結ぶトンネルは完成への道を歩んでいた。

 あの『雪猩々』が現れるまでは……。






 「ゆきしょうじょう? 何だそれ?」

 トンネル計画の作業員が集まる詰所、その食堂で数人の男が食事中にこんな会話をしていた。

 「お前知らねぇのかよ。今はどの作業場でも雪猩々の噂で持ちきりだぜ。ここで働いてんなら一回ぐらいは聞いたこと……」

 「無いな。うん、無い。初耳だ」

 「マジかよ。知っておいた方がいいぜぇ、レオ」

 「へいへい。んで、どんな話なんだよ」

 レオと呼ばれた青年がパンを齧りながら話半分に同僚の言葉に耳を傾ける。

 雪猩々とは、最近になってこのドラクトル山脈に出没するようになった謎の怪生物のことだ。身長は約三メートル、全身が白銀の剛毛で覆われ、険しいドラクトルの山々を二足歩行でワイバーンより速く駆け抜け、その雄叫びは山肌を三里に渡り揺らすという怪物だ。

 雪猩々が暴れた後には、その豪腕で引きちぎられた動物の肉が散乱し、寝座にしている洞穴には鋭い牙で噛み砕かれた骨が山と積み上げられている。普段は標高が高く雪が残る山頂付近に潜むが、峰全体が雪に覆われる冬になると人が出入りする場所まで降り、目に付いたヒトを襲い喰らうと恐れられているのだ。

 「へ〜、ほ〜、ふ〜ん」

 「何だ、そのいかにも信じてませんみたいな反応は?」

 「いやぁ、だってさ、胡散臭いっていうか、その手の話は良くあるって言うかさ。所詮ただの噂なんだろ? そんなんでいちいち怖がってたらキリがないっつーか」

 人の噂に尾ヒレは付き物だ。おおかた真実はクマやイノシシを見間違えたか、珍しい魔界獣に驚き戸惑ったのを誇張して伝えただけなのだろうと誰もが思う。

 実際、麓に住まう地元民の間にも似たような話が散見する。それはやはり大きな獣を別の何かと見間違えたり、あるいは山の怖さを子供らに教えるための訓示めいたお話、言ってしまえば創作ということだ。事実を元にしているのだろうが、事実がそっくりそのままということはまずないだろう。そうでなくてもここは山の作業小屋、娯楽に飢えた男たちが度胸試しついでに飛びつくのは当たり前と言えた。

 「ところが、そうでもないんだな。この噂の出処は……軍だ」

 「軍? 知り合いでもいるのか?」

 「まあそこは、良くある『友達の友達』って奴さ。レオだって気付いてるだろ、最近軍服を着た連中が作業場にいる事によ。ちったぁ不思議に思わなかったのかよ」

 「あー、あれな」

 確かに作業場となっているトンネルやその周辺を軍属と思しき連中が巡回しているのには気付いていた。てっきり安全と周辺警備のために配属されたものとばかり思っていたが、よくよく考えれば国家事業とは言え戦争でもないのに軍が出てくるのはおかしい。この作業場を警護しているのだとすれば、それは一体何から守っているのか。

 「雪猩々さ。ついこの間、五班の中年が一人山ん中で死んだろ。借金抱えて自殺したなんて向こうの班長は言ってるが、実は作業中に雪猩々に襲われて死んだのさ。同じ班の連中が一斉に休暇を取ったろ? あれは自分で取ったんじゃない、余計な噂を立てないよう軍が緘口令を布いたってことさ」

 「噂ならこうして立ってるじゃん」

 「人の口に戸は立てられねえってことよ。五班だけじゃねぇ、アルカーヌム方面のトンネル掘ってるところじゃ、三人が襲われてる。分かるか? 少しずつ、少しずつ、こっちに近づいて来てんだ」

 「はいはい、そういうのは真に受けた奴の負けだよ。んじゃ、俺は作業に戻るからな」

 「冷てぇなあオイ。そんなんだからメシ食う時ぐらいしか話し相手がいなんだぜ! どうせガキの頃からそんなナリだったんだろ」

 「悪いけどな、ガキの頃のことは『知らない』んだ。じゃ、一足先に行ってくる」

 壁に立て掛けておいたツルハシとシャベルを抱え、レオは山の腹に開けられた坑へと入って行った。粉塵が舞い、石を砕く音が耳朶を激しく打ち鳴らす地下の世界で、彼は今日も坑を掘り続ける。

 ここでレオという男について話しておこう。

 彼はこのトンネル掘削という国家事業に参加した幾百もの坑夫の一人であり、何の変哲もない一作業員だ。特に大層な趣味もなければ自慢できる特技もない、どちらかといえば日々をぐうたらに過ごしたいと願う今時の若者だ。

 身体も中肉中背、顔立ちも平均的。影が薄いというほどでもないがこれといった目立った特徴も無い、ゲオルギアに生きる極普通の男性だ。

 唯一つ、他人とは違うものがあるとすれば……。



 彼には十年より以前の記憶がない。



 俗に言う記憶喪失。人間誰でも十年も昔になれば鮮明に覚えている方が珍しいのだが、それでも大まかでも自分の事というのは記憶にあるものだ。

 だがレオにはそれが無い。親しかった友人、好きだった食べ物、夢中になった遊び、かつての自分がどんな人間だったかさえレオの脳には一切残っていない。ある日気が付くと知らないベッドで眠っていた。身元を示す一切が分からず、十八で通している今の年齢も正しいのかどうかすら分からない。昔はその事について幾分悩みもしたが、今ではもうすっぱりと諦めもついている。

 一応、覚えている事が二つある。

 一つは自分の名前。そしてもう一つは、自分の名を呼んでくれた母の声だ。

 同じ自分を育ててくれた父には悪い気もするが、生憎と片親しか覚えていない。しかもそれだって顔ではなく声だけで、殆ど記憶に無いのと変わりないものだった。

 だからなのか、彼はいつも冷めている。これまでの十年で一度も真剣になったことがない。生き方がと言うよりも、その本質が浮浪者と同じ根無し草なのだと自己分析している。トンネル造りという仕事に参加したのだって、国家事業に従事すれば兵役を免除されると聞いたからで、男なら何かデカいことをやってのけようという気概があっての選択ではなかった。その証拠に毎日土を掘り返し岩を運ぶ出すだけのやり甲斐も何もないこの単調な仕事を、彼だけは文句も言わず黙々と作業を進めていた。傍からは真面目な若者に見えるだろうが、本心としては何も難しいことを考えなくて済むからという単純なものだった。

 「ふぃー……疲れた」

 継続した作業で滲み出た汗を拭い、掘り出した岩に腰掛けて一旦休憩を挟む。粉塵除けに口元を覆っていた布を外し、井戸から汲んだ水を飲む。季節は冬だが冷たい水の喉越しが身に沁みる。ふと空を見上げれば、昼日中だというのに空の片隅に灰色の雲が掛かっていた。夕方ぐらいに雪が降る予兆かも知れない。

 「雪か」

 レオは雪が嫌いだ。大陸の北方を占めるゲオルギアが寒いのは当たり前だが、レオは寒さは我慢できるが雪だけは好きになれなかった。この嗜好は子供の頃からであり、どうして嫌いなのか自分でもよく分からない。ひょっとすれば記憶を失くす以前の出来事が関係しているのではないかと考えた事もあるが、それ以上の手掛かりも無いので深く考えるのは止めた。

 ゲオルギアの冬は厳しい。寒いのではなく、厳しいのだ。寒波が到来すれば死人が出るのはどの国も同じだが、ことゲオルギアにおいてはそれが顕著で毎年のように子供や老人がそれに耐えられず命を落としている。加えて十五年前まで国の舵取りを行っていた支配者は強権的で、全てを平等の名の下に搾取を繰り返し、首都の一等地に住む貴族から山間部の寒村まで等しく圧政を受けたと言われている。その時代の冬は今の十倍の数が亡くなっていたとも。

 (このトンネルが出来れば、俺も暖かいところへ行けるのか)

 自分達が掘る先にあるのはレスカティエ、この大陸で最も長い歴史を持つ伝統ある国。その隣には人魔共存の王国、アルカーヌムがある。更に西へ行けばこことは一転して温暖な気候に恵まれたホルアクティの黄金帝国がある。年中を通し寒気と凍土に覆われたこの大地と比べて、何と過ごしやすそうな土地なのだろうか。レオがこの工事に参加したのは、こことは違うどこかに憧れる心があったからなのかもしれない。

 だが山をくり抜くという作業は口で言う以上に大変だ。計画の始まり自体は十五年前だが、地質調査に三年、どの場所に開通するかの検討に二年、更にレスカティエとアルカーヌムとの擦り合わせに五年を要し、掘削作業が始まったのがつい五年前だ。山の両側から掘り進めているとは言え、計画は二十年を予定しているので、坑が開通する頃にはレオも脂が落ち始める頃になるだろう。もつれ込めば更に長い年月が掛かるかも知れない。ともすれば、向こう側の景色を見ないまま人生の全てを工事に費やす事になるかも……。

 「それならそれで、しゃーないか」

 きっと自分はこの国から出ることはないのだろう、そんな風に漠然と考える。それは悲観でも諦観でもなく、明日も明後日も太陽は東から昇る、そんな確信めいた予感だった。野心も無ければ大望も無い、なるようになるとしか考えない気楽なその日暮らし。それが現状最も自分に適した生き方だと知る故に、僅かに抱いた幻想も振り払いレオは作業を再開した。

 ツルハシで岩を砕き、土くれをシャベルで掘り出す、そんな重労働だが単調な作業に少しの安心感を覚えるレオだった。

 「おーい、レオ。お前さんに客だぞ」

 「客?」

 班長の言葉に訝しげな表情で首を傾げる。ここは奥地とは言わないまでも山の中、しかも工事の最中である真昼間に訪ねてくる者にレオはとんと覚えが無かった。

 だがその相手を見て疑問はたちまち氷解した。

 「久しぶりだな、レオ。どうだ調子は?」

 「先生……?」

 黒いカソックを着たごま塩頭の老人男性。レオが先生と呼ぶこの人物は、彼がつい二年前まで世話になっていた孤児院の院長。町唯一の教会で神父として勤める傍ら、レオのような孤児を積極的に面倒を見る人格者であり、レオもその例に漏れずこれまでに大きく世話になった人物だ。孤児以外でも週一のミサで礼拝に訪れる者も多く、町の子供達はこの神父を父や祖父のように慕っている者ばかりだ。

 「どうしてこんなトコに。孤児院はどうしたんだよ」

 「いや、院を出た後の動向が気になっていたんだが、風の噂でここにいると聞いてな、顔を覗く程度にしておこうと思っていたんだが……。どうだ、元気でやっているか」

 「あぁ、うん……まあ、それなりに」

 「何か変わった事は無いか。山は人が生活するには厳しい。特にこれから本格的な冬になる。お前は体が丈夫じゃなかったから心配で……」

 「それ何年前の話だよ。俺だっていつまでもガキじゃないんだ、昔と比べりゃ丈夫にはなってるし、体調管理だってやれてる」

 「そうか……そうだな、うん」

 「……?」

 どうにも様子がおかしい。自分の三倍は生きている老神父はその年齢に似合わずハキハキとした物言いが出来る元気な人物だ。それが歯に挟まったみたいに何か言いよどんでいる。

 思えば町からそれほど離れていないとは言え、昔世話しただけの男をこんな山中まで顔を見に来ただけというのだろうか。優しいと同時に厳しくもあってこの神父が、今更独り立ちした者を相手にそこまで入れ込む道理がない。

 だがそんなレオの疑念を裏打ちするように、神父はこう切り出した。

 「力仕事なんて似合わない仕事をしてるのか。教会の方で来春に小さな農園を開くんだが、どうだ一緒にやらないか? お前に向いている仕事だと思うんだが」

 「は?」

 「また一緒に暮らさないかと聞いているんだ。お前は日々をのんびり暮らしたがってたからなぁ。野菜を作って土いじりする生活の方が楽しさもあって……」

 「……ごめん、仕事あるから。もう行くよ」

 「あ、おいレオ! この話はまた今度でいいな?」

 背後からの神父の声にも返事を返さず、レオは再び穴を掘る作業に戻った。どうやらまた来るような口ぶりだったが、何度来ても答えは変わらない。

 「何の話だったんだ?」

 食堂で同じだった同僚が訪ねてくる。

 「別に。今の仕事を辞めて自分と一緒にどうこうって誘われただけだよ」

 「いいじゃねぇか。こんな仕事、キツいわ危ないわ、メシは不味いわ寒いわで何もいいことありゃしねぇ。ちょいと色のついたお給金だって、使う機会が無いんなら宝の持ち腐れだぜ。おめっとさん、お前もやっとシャバでいい暮らしができるんだな」

 「断ったよ。俺の趣味じゃなかった」

 「お前もよくよく分かんない奴だな。何かシャバに戻れない理由でもあんのかい」

 「いいや。ただ……ちょっとガッカリしただけだ。ああいう事を言う人じゃなかったんだけどな」

 神父は自立心を育てるため物事の判断力を養うことを子供たちに課してきた。そしてそれが明らかに間違ったものでない限り、常に子供達の判断に任せ、絶対にそれを否定するような物言いはしなかった。孤児院を出た者は様々な職業に就いているが、当然それを非難したり苦言を呈したことは無い。

 だから神父から今の仕事を辞めないかと勧められた時、レオの胸中には戸惑いや驚きよりも寂しさがあった。二年前には言わなかったであろう言葉を言ったことについてもそうだが、たった二年で変わってしまった神父の心に一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

 「それに、この仕事辞めたら兵役に行かされるだろ。クソ重たい装備持たされて二束三文で命張らされるなんてゴメンだね」

 「ハハハ、違ぇねえ! ここに好き好んで来た連中なんてのは、たいてい兵役逃れか借金よ! ここは給料が安定してるし、鬱陶しい取立て屋も追ってこねぇからな!」

 こんな穴蔵でも住めば何とやらだ。他人にどうこう言われるまでもなく、昔どんな人間だったかも関係なく、今の生き方は今の自分が選んだのだと言い張れるならそれで構わない。

 それが今のレオの生き方だった。

 例え生きている間には無理でも、今こうして掘っている穴の向こう側に行ってみたいと思う気持ちが僅かにでもあるから、今日も今日とてレオは働くことが出来る。

 ゲオルギア連邦南部、ドラクトル山脈、本日晴天、後に雪。

 今日も平穏な北国の正午、ツルハシと石の音が時を刻み……。



 寒空を揺らす一発の銃声がそれを終わらせた。





 発砲騒ぎから十分後、作業場の工員たちは全ての作業を中断し寝床にしているそれぞれのログハウスへと押し込まれた。何があったのか確かめようとする野次馬が居ないでもなかったが、銃を手にした兵士たちに押しやられては渋々それに従うしかなかった。

 この辺は猟師が獲りに来るような獲物はいないし、そもそも広範囲に渡り狩猟禁止区域になっている。であれば発砲したのは鉄砲を装備した兵士の誰かだとすぐに分かった。

 だが誰を撃ったのか? 一昔前の恐怖政治の時代ならともかく、いくら国家事業の現場から逃げ出したとは言え発砲を許すほど軍の気が短いとは思いたくない。

 ふと、誰かが口にした。

 「雪猩々だ……」

 その呟きにレオは同僚の言っていた事を思い出す……ドラクトルの山々を股にかけ、縄張りに踏み入る全てを惨殺する謎の怪物の話を。ここに居る兵士たちは作業員を守る為に遣わされたという噂を。

 「雪猩々が出たんだ、雪猩々だ! みんな食い殺されるんだぁぁぁ!!」

 「お、おい! 何が起こったんだよ! ちゃんと説明しろよ!!」

 「そうだぞ! お前ら何か知ってるんだな? そうなんだろ!!」

 何の説明もないまま押し込まれた不満は「雪猩々がこの近くにいるかも」という不安が起爆剤となり、容易く破裂した。この場の誰も見たことのない怪物の存在に神経がささくれ立ち、自分達を監視するように立っていた兵士に一斉に詰め寄り、口々に何が起きたかの説明を要求し始めた。

 それが出来れば最初からしている。それが出来ない理由があるからこそ彼らは何も言えないまま作業員を誘導したのだ。だが向こうの事情など慮る余裕のない工員たちはただ苛立ちを兵士にぶつけるしか出来なかった。

 上の命令で動いている兵士が口にできるのは……。

 「現在、状況を確認中です!」

 心許ないごまかしの言葉だけが許されていた。当然それで作業員たちが納得するはずもなく、怒号にも似たざわめきが更に大きくなるだけだった。

 そんな中で、レオだけが冷静だった。

 「アホらし。なんでどいつもこいつもそんな与太を信じてるんだか」

 見えもしない、在るかどうかすら疑わしい脅威に怯える彼らをやはりどこまでも冷めた目で見つめていた。この場の誰も雪猩々を見たこともない、しかもこの騒ぎの原因が件の怪物と確定したわけでもないのに、一人歩きした噂に駆り立てられて騒いでいる姿はとても馬鹿馬鹿しく見えたのだ。

 この分だと今日中に作業再開はないだろうと踏み、一人こっそりと寝室に戻ろうとするレオ。だがその時、たまたま通りがかった窓の向こうから別の兵士たちの話し声が耳に入ってきた。

 「どうだ、見つかったか!」

 「いやまだだ! どこにもいない!」

 「何としても見つけ出すんだ。作業員だけでなく町の神父まで被害に合ったとなれば……」

 瞬間、レオの体は窓から飛び出していた。そしてそのまま驚き戸惑う兵士たちには目もくれず、ついさっき自分に会いに来た恩人の名を叫びながら山中へと飛び込んで行く。

 「先生……! 先生っ!!!」

 人違いではない、こんな山奥で神父と言ったら彼しかいない。きっと山を降りる道で迷ってるだけだと考えながらも、足はその速度を緩めず山道を駆け下る。枯葉が積もった道を走り去ればそれらが一斉に舞い上がり、身を裂く様な冷気とぶつかっているのに体は燃え上がるように熱くなる。いつもの一歩退いた冷めた雰囲気はどこにも無く、今のレオはただ恩人の無事を祈り駆けるだけの男となっていた。

 途中で獣道を見つけた。踏みしめられた枯葉を見るに、つい最近に誰かが通ったのだろう。町に出る近道にもなっているから神父が通ったのだと考え、難しいことは考えず森の脇道に飛び込んだ。この時期は冬眠の最中、間違っても大きな獣とは出くわさないだろうと考えての行動だった。

 「先生っ、先生……! せんせ……あっ、ぐあぁーっ!!?」

 枯葉に隠れて分からなかった、木々の根に足を取られ、走っていた勢いそのまま地面に投げ出される。幸い大きな石もなく枯葉や腐葉土の場所だったので大きなケガは無かったが、それでも腕や顔の一部に擦り傷を作ってしまった。寒風に晒されヒリヒリと焼ける傷を押さえながらよろよろと立ち上がり、先を急ごうと再び駆け出し……。



 その先を“壁”が塞いだ。



 「…………な……」

 壁、まさしくそうとしか形容できなかった。縦も横も埋め尽くすそれは音もなくレオの前に姿を現し、彼の行く手を阻むように佇立していたのだ。

 視界いっぱいを占有する色彩は「白」。雲のような、雪のような……いや、そんな陳腐なものではない。この山中にあって汚れ一つないそれは、まるで太陽の光をそのまま形にしたような目に痛いまでの純白だった。雪の精か、はたまた天の遣いか、上質な絹を紡いで作られたみたいな“壁”は悠然とレオの前に佇み、そして……。

 「グォォルルルゥゥゥゥゥッ……」

 牙を剥き出しにしていた。

 「あ、ぁ……うあ……!?」

 汚れない白い体毛、爛々と輝く獰猛な眼、口からは地を這うような唸り声と共に白い息が噴き上がり、覗く犬歯は根元から先端まで優に大人の手首から中指の先まではあった。だらりと垂れ下がった巨腕は大木を捩じ切り、顔より大きい足は岩を踏み砕く、鋭く重厚な牙は獲物を微塵に解体し、肉も骨も内臓もペーストにして喰らい尽くす獰猛さが見て取れた。三メートルなどとよくもホラを吹いてくれた、どう控えめに見ても見上げる巨体は五メートルをとっくに越している。その威圧感たるや、目にした瞬間に生き残ることについて全ての選択肢の放棄を強いられるほどだった。

 雪猩々、これが件の怪物だと理解してしまった。

 そして同時に恐怖する。頭の冷静な部分ではもう助からないと諦めがついているが、本能は今まさに自分の生命が脅かされる現状に必死の抵抗を試みていた。だが悲しかな、彼我の戦力差を理解してしまっているからこそ、レオの足は逃げることさえ出来なかった。「どうせ助からない」、そう力尽くで納得させてしまうだけの圧力がレオから逃走という選択肢を潰していた。

 だが、違う。

 確かにレオは恐怖している。恐れている、この人知を超えた怪物を。知性の欠片もない相手に嬲り殺しにされる様を想像して震えてしまっている。

 だが、“違う”のだ。レオが恐怖しているのはそこではない。

 レオが真に恐れるのは、その色だ。

 「しろ……! はぁ、はぁっ、白……!! 『白い』……!!?」

 視界全てを埋め尽くす、白、白、白。汚れ無く、不浄なく、一点の曇りも無い……雪のような『白』。それがレオの心を蝕み圧迫する唯一にして最大の、恐怖の象徴だった。

 押し寄せる『白』を前に全身が震えを起こし言う事を聞かない。目の前の怪物が、自分の嫌悪する雪を連想させるその色が、まるで「押し潰す」ようなその色彩にレオはただただ怯えるしかなかった。

 「ガァァァ……!!」

 雪猩々の巨腕が動き、広げた五指が抵抗も逃走も止めた獲物を仕留めんと伸ばされる。肉を捩じ切るその指にレオは死を覚悟し、固く目を閉じた。

 そして……。

 「レオ!! 伏せなさい!!」

 「!!?」

 聞き覚えのある声に振り向くことはせず、言われたとおり地面に倒れるように身を伏せた。

 次の瞬間、森全体に轟く銃声。撃ち出された弾丸はレオの頭の上を飛翔し、怪物の胸と思しき場所に吸い込まれるように着弾した。

 「グギガァギャアアアアアアアアアアアアアァァァァァッッッ!!!」

 体内に潜り込む激痛の種にもがき苦しむ雪猩々。胸を掻き毟る腕の余波だけで周囲の木々が薙ぎ倒され、その隙にレオは発砲した者に手を引かれて逃走を再開した。

 「無事でしたか、レオ!」

 「先生!? なんで、あんた……てか、その銃!?」

 「説明は後! 今は少しでも遠くへ逃げるのです!」

 聖書の代わりに銃を携えた神父に導かれ、レオは来た道を駆け上がり、兵士達が警護する場所まで一目散に引き返していった。雪猩々は二人を追うことなく苦しみに右往左往し、鬱蒼と密生する木々にその姿は次第に隠れ見えなくなっていった。だがその地獄の底から響くような唸り声だけは、木々の間をすり抜けていつまでもレオ達を追跡するように轟くのだった。

 「グギギガガ……!! ゲェオ゛ォ、ゲェェェオ゛ォォォオオオオオーーーッッッ!!!!!」

 悪魔はいた、狂獣はいた。

 失われた古代の魔物・雪猩々が竜の尾を蹂躙する。

 今日この日、山は地獄と化した。





 詰所のログハウスに辿り着いた時、当然だが人々の視線は息を切らして転がり込んだレオより、その彼をここまで引っ張ってきた神父に向けられていた。当然だろう、派兵された兵士でもない一介の市民、それも争い事とは最も縁遠い聖職者が武装していれば。しかも銃口から香る火薬の臭いから発砲したばかりだと誰もが分かり、兵士たちからの目が厳しいものに変わる。

 「まずは、説明をさせてください。私は……」

 「その必要はない!」

 有無を言わせぬ声に皆の視線が今度はそちらに移る。

 声の主は軍人。下っ端の一兵卒ではない、これまでに幾多の銃火を交わし砲火の下を生き抜いた歴戦の古兵、そういう雰囲気に圧倒されてそれまで文句を垂れていた作業員は押し黙り、兵士たちは一斉に敬礼し道を開けた。

 やがてその男は神父の前まで物怖じせず近づくと……。

 「お久しぶりです、隊長」

 その手を取って固い握手を交わした。

 「お元気そうでなによりです」

 「よしてくれ、私はもう隊を降りた身だ。今日はたまたま私用で来たに過ぎない」

 「え、ちょ、先生? 何がどうなってんだ、知り合いかよ? それに、隊を降りたって……」

 「ああ、私は元軍人。ここの彼とは同じ隊に所属し、私は隊長を務めていたんだ。とっくに退役の身だがね」

 隠すつもりはなかったが、と続ける神父。なるほど、言われてみれば確かにと思い当たる節もある。聖職者というインドアなイメージにそぐわず彼は活力に満ち、六十も手前になった今でもこうしてこんな山中までやって来る体力にも恵まれている。それについさっき怪物に向けて発砲した時も、とっさに武器を拾っただけの素人にこなせる芸当ではなかった。

 「私は連邦陸軍南東方面軍、第三竜尾山岳猟兵隊を率いていた。と、私自身の昔話はどうでもいい。結論から言おう、ここに居る全員心して聞いて欲しい」

 元軍人の呼び声に作業員も兵士も皆がしんと静まって傾注する。そしてそれを確認し、神父は一言こう告げた。

 「君達が雪猩々と呼ぶモノ、それは今確かにこの山に存在している。私が今持っている銃はとある兵士が身に付けていた物だが、既に彼は犠牲になった」

 そして静寂は破られ再び喧騒に包まれる。しかもそれまでは曖昧だったからこそ希望的な見方もできていたのに、こうもはっきりと断言されてしまったことで場は一気に混乱してしまった。

 「落ち着けィ!!!」

 「!?」

 しかし今度は隊長の方の怒号があり、場は二転三転し再び静寂に包まれた。

 「困ります。今回の作戦は極秘扱いなのですよ」

 「いくら箝口令を布いたところで、知られるものはいつか知られる。ならいっそ、彼らには事実を話しておくべきだ。既にここにいる全員は当事者になってしまったのだからな」

 「ですが……」

 「既に退役した私がとやかく言えた義理ではないのは承知しているが、それでもあの一件に関わった者として、今回の事件は見過ごせない。今何より優先すべきはこの場から生きて脱出することだ」

 「だ、脱出できるのかよ……?」

 「出来る! だがまずはその前に、作業員の方々には休息を取ってもらいたい。疲れたままでは無傷で下山など到底無理だ。安心してくれ、雪猩々は大勢の人間を襲うことはない。固まっていれば安全だ」

 確かに噂に聞こえる雪猩々の被害もその多くが一人になった瞬間を狙われたりだとか、多くても二人か三人、集団で襲われたという話は聞かない。それを思い出してひとまず安心したのか、仮眠を取ろうと数人が寝床に入り、詰所には口数少ないが話し声も戻ってくるようになった。

 「ところで隊長、このレオという男は……」

 「ああ、そうだ。あの時の子だ」

 「やっぱりそうか。どこか面影があると思っていたが、立派に育ってくれたか」

 隊長と神父二人の会話に思い当たる部分がなく一人首を傾げるジャック。かつてどこかで会ったのだろうか。もしそれが十年以上前ならどうしようもない。そんなレオの心中を察してか、気さくな笑みを浮かべて隊長が言った。

 「覚えていないのも無理はない。君を預けられた時、君は意識を失っていた。当時の隊長が除隊、退役したと時期を同じくして君の意識も回復し、そのまま孤児院に移ってしまったからな」

 「そうだったのか……」

 「それにしても世の中とは不思議なものだな。あの時の少年とこうしてまた同じ場所で再会するとは」

 「おい!!」

 「え? ……あ! う、うほん!」

 元上官の叱責も遅く、言ってはいけないことを口にした隊長はバツが悪そうにわざとらしく咳払いした。だが当然それを見過ごすレオではなかった。

 「俺はこの山で拾われた? それって本当かよ、答えてくれよ先生!」

 「あ、ああ。本当だ。レオ、お前は十年前の真冬に、当時この山岳地帯の警備に就いていた私が率いる隊が保護した。雪が降り積もり、一里の行進に何時間も掛かる……そんな季節にな」

 「そうだったのか……」

 「すまない、隠すつもりじゃなかった。お前が自分の過去について訊ねるのなら答えようと思っていたんだが……」

 「分かってる、分かってるって先生。俺もなんつーか、あえて聞かないようにしてたっつーかさ、うん……」

 「そうか。そう言ってくれると助かる」

 「あー……俺も奥で休んでくる。先生には二度も助けられてたんだな、ありがと」

 自分の出自が思わぬところで明るみになったことに若干の戸惑いを覚えながら、レオは心の整理も兼ねて奥の部屋へと入っていった。今日は色んな事がありすぎた、今は充分な休息が必要だった。





 「口を滑らせるのはお前の悪い癖だ」

 「すみません。ですが、良かったんですか? 彼には十年前のことを話さなくて……」

 「いや、いい。あの子には本人がそう望むように平穏無事な人生を歩んでもらいたい」

 「知らない方が幸せなのでしょうか」

 「ああそうだ。十年前の決着は我々だけの手でつけるんだ。“彼女”もそれを望んでいるはずだ」

 「ですが、“彼女”は!」

 「分かっている。全ては十年前、あの忌まわしい『星降る日』さえ無ければ……。私はこの秘密を生涯墓まで持っていくつもりだ」

 「小官もであります」





 下山は夕刻を過ぎ、周囲が暗くなってから決行する事になった。宵闇の中を行くなど怪物の餌になりに行くようなものだと反発の声も上がったが……。

 「雪猩々はその名の通り雪を好む。普段は残雪の山頂付近を縄張りとするが、今日は夜中に雪が降るだろう。そうなれば明日には積もった雪に足を取られながら移動することになる。そうなれば昼も夜も関係ない、この一帯全てが奴のテリトリーになってしまうんだ」

 だからこそ、雪がまだ降っていない今の内に行動する。火を起こした松明を持ち、数人ひと組の作業員をそれぞれ四人の兵士が銃を携え周囲を警戒しながら下山する、という作戦になった。銃撃が有効なので当てさえすれば威嚇にはなるし、既に神父から手痛い一撃を受けているのでそう簡単には襲ってこないと踏んでの決定だった。

 「ではまず最初の班の方々、お先に」

 「ああ神様ぁ……」

 「どうか無事に山を降りれますように!」

 口々に自分達の無事を神に祈りながら、最初の作業班が詰所を出た。十分ほど時間を置いて何も起きないことを確認し、続く二班目が出る。

 三班目、四班目、五班目と続き、そしてようやくレオ達の番になった。

 「レオ、お前の護衛には私がつこう」

 「先生、よろしく頼んます」

 レオは手に松明を、老神父は彼を助けた時と同じように銃を携え、同行する三人の兵士を連れ立って下山を開始した。闇に閉ざされた森の道を照らし、先に進んだ者らの足跡を辿りながら順調に山を降りる。

 「我々に与えられた任務は『雪猩々の討伐もしくは捕獲』でした」

 そう語るのは護衛の一兵士。話を聞くのは先頭を行くレオと神父だ。

 「軍は十年も前から奴の存在を掴んでいましたが、トンネル造りに多大な被害を及ぼされる事を懸念し、今回やっと隊を編成したんです」

 「討伐は分かるけど、捕獲って何だよ?」

 「雪猩々は絶滅した旧時代の魔物であるとの見方が強く、その生態の研究を行いたいのでしょう。既に中央にはお偉方がサンプルの到着を待ち侘びているとか」

 未知の生物が発見されればまずは研究対象となる。理想は生け捕りだが、最悪死体を持ち帰るだけでも大きな成果になり得る。しかもそれが旧時代の魔物、つまりは淫魔化してない時代そのままの姿を残す個体となれば、その筋の関係者にとっては喉から手が出るほど研究したいだろう。

 「その為に命張るのは兵士なのにな。やっぱ兵役行かなくて正解だったわ」

 「それが仕事ですから。それよりも、僕はそちらの神父様のお話もお聞きしたいです」

 「私か? 私の話なんか聞いたところで面白くはないぞ」

 思わぬところで話を振られたと神父も驚きを隠せないが、対する兵士は絵本のヒーローに出会ったみたいに目を輝かせていた。

 「とんでもない! 隊長はいつもあなたの事をお話になるんですよ。災害に見舞われた小村ひとつを救うために、上の命令に逆らい救助を優先させた話を」

 「ただの反骨精神さ。私達が駆けつけた時には既に遅く、雪崩に見舞われ村は雪の下。命令に背いた私に待っていたのは、予定より十年も早い退役だった。誰も救えなかった挙句、除隊という不名誉の烙印を押されたわけだ」

 「いえいえ! 人民の命を守ろうとするその勇姿、あれこそが軍人の鑑だと隊長は常々言っていました」

 「そうだぜ先生。それに先生は助けたじゃねえか。雪山で遭難して死にかけてた俺を助けてくれたのは先生だろ」

 「ん……? あ、ああ……そうだ、そうだな。うん」

 「…………」

 やはりどうにも歯切れの悪さをレオは感じていた。最初に訪ねてきた時のように何か言いよどみ、嘘をついているとまでは言わないが何かを隠している様子だった。

 こんなおかしな神父はこの山に来て初めて見る。

 「それにしても、退役されて十年も経つのに銃の腕前は衰え知らずですね」

 「昔取った杵柄というやつだ。まだ体が覚えていてくれて助かったよ。銃の機構も私が退役した当時のままだ」

 「兵装は十年前から安定していますから」

 また出てきた、『十年前』。今日一日でこの言葉を何度聞いただろう。

 当時軍人だった神父がこの山を訪れたのが『十年前』。

 その際に何らかの命令に背き除隊されたのが『十年前』。

 この山でレオが拾われたのが『十年前』。

 彼の記憶が失われたのも『十年前』。

 そして、件の雪猩々が軍によって確認されたのも……『十年前』。

 何もかもが十年という節目を境に起こっている。これは果たして偶然か、それとも別の何か、もっと深い事情や繋がりがあるのだろうか。

 だがどちらにせよレオに詮索するつもりはなかった。気になるのは事実だが、どうせ山を降りれば抱いた疑問も雲散霧消、時間が経てば記憶を失った時と同じように消えてなくなると思い何も聞かなかった。

 今はだた、この寒い闇を抜け出したかった。ここにいると熱と一緒に何もかもが体からこぼれ落ちてしまいそうで、考える力さえガリガリと削られてしまう。山を下る猛烈な寒波はレオ達の耳元をうるさく掻き撫で、手にした松明はそれに煽られ風と平行に激しく揺れ動き今にも吹き消されそうだ。

 「急ぎましょう」

 兵士達の先導で気を持ち直し先を急ごうとした。

 その時……。

 「ん、これは……」

 頬に一瞬冷たい感触。雨かと思い暗闇に目を凝らすが、松明の光が闇に浮かび上がらせるのは直線を描く雨粒の軌跡ではなく、小指の先ほどの小さな物体が舞う様。

 「雪……雪だ!」

 初めはポツポツと降るだけの雪。だが次第に舞い降りる数が増加し、瞬く間に闇夜にバラバラと大量の粉雪が散りばめられた。

 「おい、確か雪猩々って……」

 「雪に引かれてやって来る……」

 「皆さん落ち着いて! 急いで麓まで降りましょう!」

 天候の変化に焚きつけられて行進の速度が自然と上がる。まだ混乱はしないが、歩調から既に彼らの中に焦りが生まれているのは明らかだった。せめて雪が本格的になる前にと皆の足が早くなる。しかし……。

 「何だこりゃ、吹雪じゃねーか! 前も見えねぇ!!」

 山の斜面を吹き降りる冷たい空気はレオ達一行を一瞬の内に猛雪で包み、数歩先の状況さえ分からなくなる。通りなれたはずの山道は見る見る間に雪の白が覆い隠し、皆の足取りが完全に停止する。顔の前に手をかざし視界を確保しようとするも、風は縦横無尽に荒れ狂い目を開ける事すら困難になっていった。

 このままでは足止めを喰らう。誰かが先陣を切って進まなければならないが、この猛吹雪に乗じて怪物が襲ってくるかもと言う恐怖が皆の足を凍らせていた。

 「お、俺が……俺が行く! みんなは俺の背中に続いてくれ!」

 「レオ!?」

 「心配すんなって先生! 迷いはしねえさ」

 そう言って慣れた道のりを先導となり足を踏み出したレオ。後に続く者達はその背中を目印にぞろぞろと這うように移動を再開し、人々は数珠繋ぎになり山道を進みだした。ゆっくりと、しかし確実に下山を目指してその距離を縮めだした。

 それにしても酷い吹雪だ。まるで見計らったような自然の猛威に、それまでの会話が嘘のように静まり返り、逆に吹き荒ぶ突風が木々の間を駆け抜ける際の大笛を吹くような音が怪物の唸り声に聞こえてしまい、誰もが耳を塞ぎたい衝動に駆られながら緩やかに行進していた。

 ある程度下り道を行くと森を抜け、本来なら視界が開けた見晴らしの良い場所に出るのだが、やはり吹雪のせいか目に見えるのは一面の白だけだ。

 ────オオオオォォォォォォ────

 風の音が凄まじい。周囲から木は無くなり遮るものは無いのに、残響が耳にこびり付いて離れない。やはりこの風の音は怪物の唸り声に聞こえて仕方がない。作業員の中で唯一、雪猩々を間近で目撃してしまったレオにはなおさらそう聞こえてしまう。

 何か気を紛らわせたい、そう考えたレオの頭に浮かび上がる些細な疑問が一つ……。

 「そういえばさ、あの隊長さん言ってよな」

 背後にいる神父に訊ねるのは、詰所で警備隊の隊長が口にしたある言葉。

 「俺を『預かった』って……」

 預かった……「見つけた」ではなく「預かった」と。あの時はそのまま流してしまったが、よくよく考えれば不思議な言い回しだ。山中で発見したなら「見つけた」とか「拾った」という言い方になるはずなのに、あの隊長ははっきりと「預かった」と言った。それはつまり、気を失い倒れていた自分を神父と隊長に「預けた」誰かがいるということ。その誰かがひょっとすれば自分の失われた過去を知っているのではと、ふと思ったのだ。

 急を要すると言うほどでもない、本当に思い浮かんだ程度の疑問だが、どうにも喉に引っ掛かったみたいな気がしてすっきりしない。今更聞いて何になるという訳でもなかったが、不思議と聞いておきたいと思ったのだ。

 「俺を『預けた』のって……誰さ?」

 もしそれが女性なら……。

 「レオ」

 この記憶の奥底にある母の、せめて顔だけでも思い出せるのだろうか。

 「レオ!」

 それとも、今までと同じように思い出せないままなのだろうか。

 「先生、答えてくれよ。俺を預けてくれたってのは……」

 俺の母親だったのか。

 そう訊ねて背後を振り向いたレオが見たのは、誰もいない山道だった。

 「え……?」

 いや、人はいる。距離にして僅か十数歩の場所に見慣れたカソック姿が闇に浮かび上がる。ついさっきまで言葉を交わしていた兵士の姿もそこにあった。

 寒風に吹き揺れる樹上に引っ掛かって。

 「せんせぇぇぇえええええ!!!」

 一瞬、僅かに刹那の間に神父を、護衛の兵士を、その他の作業員たちを、ある者は木々に吊り下げられ、ある者は岩に体を打ちつけ気絶し、またある者は地面に頭から突っ込んで不気味なオブジェとなっていた。音も、前触れも、悲鳴すら無く、レオを除く全員が無音の襲撃を受けていた。

 そして、先頭を歩くレオだけが被害を免れていた。

 いつの間にか風が止んでいた。あの吹雪は嘘のように凪ぎ、しんしんと降る雪が周囲の音を喰らい尽くしたような冷たく暗い静寂がレオを包んだ。まるでこの世界に自分一人だけになったような錯覚に、レオの呼吸は言われ得ぬ恐怖に駆られ浅く短く、吐き出す白い息が短いスパンで排出され続ける。

 いる……今この近くに……あの怪物が。

 ────オオオオォォォォォォ────!!!

 おかしい、風はとっくに止んでいるのに、どうして……。

 どうしてこの唸り声に似た風の音は途絶えてくれないのか。

 恐る恐る振り返るレオ────、



 そこには一面の『白』が立ち塞がっていた。



 「ギィギギギュィ、ギググググググググッッッ!!!」

 「あ……ひぃあぁああああ!!?」

 降り注ぐ雪に混じり爛々と輝く赤い眼、その眼光に射竦められレオはまたもや無様に腰を抜かす。一度狙った獲物は逃がさない、集団を襲う事は無いと思われていた雪山の怪物は最初に出会った時と同じく、牙を剥き出しにして唸り、両の手の爪を振りかざしながら天地に轟く叫びを上げた。

 「ギィィィィィイイイイイイイイエ゛エ゛エ゛エ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォォォォォォーーーッッッ!!!」

 魔力を持った咆哮は雪山の静寂を粉微塵に破壊し、人ひとりを丸呑みに出来る口腔から解き放たれた大波動は、降り積もったばかりの新雪を巻き上げ、力尽くの猛吹雪を引き起こす。大自然の猛威すら思いのままにする雪猩々の力の前に無力な人間は皆平伏し、もはや自分の命だけの無事を祈るので精一杯だった。

 永遠に続くと思われた暴威の顕現は徐々にその勢いを失くし、吹き上げられた雪は下山一行に覆い被さるように降り掛かり、彼らの姿はまるで雪崩に巻き込まれたような白一色に包まれる。

 「げほっ、うぇっほ……! 皆さん、無事ですか!?」

 衝撃で樹上からずり落ちた神父が周囲に呼びかける。松明はとっくに消えて周辺の状況は分からないが、呻き声やまばらでも返事が聞こえてくる所を見るに、ほぼ全員が無事の様だった。

 体を押し潰す雪を押しのけそれぞれの状況を確認し、周囲を警戒する。しかし、あの悪夢の化物は既にその姿を消し、後には静かに雪だけが降り続けていた。

 そう、雪だけだった。

 レオはいない。

 「レオ……? レオ、どこにいる!? レオッ、レオーッ!!」

 雪に埋もれているのではと周囲を掘り返し、衝撃で木にぶつかったのではと樹上を確認する。だがいくら探しても、それだけその名を呼びかけても、レオの姿はどこにも見当たらなかった。

 さっきまでレオが居たはずの場所、そこには彼の足跡と、大の大人の顔ほどはある巨大な獣の足跡だけが残っていた。

 「レェェェェオォォォォォーーー!!!」

 老神父の叫びが山肌にこだまし、木々の枝にかかる雪がどさりと落ちる。

 レオは雪猩々に攫われてしまった。もうここにはいない。
16/01/10 12:05更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 クリスマス? 知るかバカ、そんなことよりお正月だ!(クリボ並感)

 「田舎で農業を営む幼馴染がひょんなことからお互いを異性として意識し合い、ギクシャクしながらも惹かれあう甘酸っぱい初恋のお話」、を目指していたはずが、どうしたことか雪山系ホラーアクションに変貌してしまった……。

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