連載小説
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第五幕 節制の死神:前編
 『節制の死神 〜あるいは献身的なメイドと首切り役人のお話〜』










 この日、王都のとある広場は熱狂に覆われていた。いつも昼間には多くの人で賑わう場所だが、今日この日の広場は百や二百ではきかない大勢の人間でごった返し、石を敷き詰めた地面は噴水を残して全て人々の足で埋まっていた。

 祭りではない。建国祭も王の生誕祭もとっくに終わっている。時期外れの今日に祝うべき祭事など無いはずだった。

 なのに人々は拳を振り上げ歓声を上げている。その視線は皆一様に広場の一点を見つめており、そこには昨日の内に木材を組み合わせて建てられた舞台のような物があった。人が数人乗れる程度のスペースと四隅を支える脚、そしてそこまでの道となる十数段の階段というシンプルな作りだ。

 これなるは祭壇、今から執り行われる狂気と猟奇の祭典、その中心となる台座である。

 祭壇の背後に馬車が到着し、中から三人の男が出る。内二人はそれぞれ右手に槍を携え、左手には荒縄を持ち、その先に縛られ繋がれた三人目こそが今日の“祭り”の主役だった。両腕は胴もろともとぐろに縛られ、頭には汚れたずだ袋、塞がれた視界を刑吏二人に引かれて祭壇へと連れて行かれる。

 階段を上りきり、袋を取り去り素顔が露わになった瞬間、民衆の興奮は最高潮に達した。歓喜とも怒号とも取れる歪な歓声は、広場のみならず一里四方に轟かんばかりの勢いに膨れ上がっていた。

 ここは刑場。最も重い罪を犯せし罪人が、最後に辿り着く安息の地。今日この日、一人の罪人がここにその穢れた命を摘まれる。

 興奮に沸く民衆の前に裁判を担当した判事と、これから行われる儀式を見届ける神父が進み出て罪状を読み上げる。

 「これなるは悪逆の徒なり! 卑しくも金品欲しさに隣人の家に押し入り、強盗を企てた! その家の父を殺し、母を犯し、子らを切り刻み犬に食わせた者なり!!」

 読み上げられる罪状に民衆の歓声は罵声に変わり、壇上の囚人に向かってゴミや石が投げつけられる。何人たりとも刑場を汚すことは許されないが、衛兵も神父も誰も咎めない。少なくともこの囚人はそれだけの事を仕出かしたのだから。

 「よって今日この日、全ての神の名と法の下において、この男の死刑を執り行うものである!」

 そしてその全ての報いを受ける日がやってきた。引っ立てられた男は表情こそ平静を装っているが、顔面は蒼白、額や鼻の頭からは脂汗が垂れ流れ、膝は今にも崩れそうなほど震えていた。刻一刻と迫りくる逃れ得ぬ死の恐怖に叫び声を上げないだけ、むしろ男の豪胆さを褒めるべきなのだろう。石を投げ付ける最前列の民衆に対し視線だけでそれを黙らせる姿は、悪党ここに極まれりと称される。

 しかして、死はその歩調を緩めない。絶望という轡を付けた馬に乗った青白い騎士が、全ての命を残酷に収穫するために、今刑場へとその姿を現す。

 コツ……。コツ……。

 刑場の裏手から響く硬質な靴音。本来民衆の歓声にかき消されるはずのそれが、どういう訳か嫌に耳に響いてきて、それを耳にした者から順に口を噤み始めた。冷たい静寂は波のように民衆を包み、瞬く間に広場に集まった数百人は咳払いすら止めるに至った。そして、静寂に満ちた広場に響くのは足音だけではなかった。

 「Je veux le sang, sang, sang, et sang」

 それは異境の歌。聞きなれない言語、見慣れない文字、誰も知らない未知の旋律。だが唯一つ分かるのは、この歌声は決して生命を寿ぐ祝福の歌ではないということ。地上あらゆる命の輝きを暗く冷たい絶望の闇に蹴落とす、静謐にして残虐なる……“死”の通り歌。

 「〜〜〜♪ フンフーン、ドゥビドゥバッダッダ〜♪」

 これから人が死ぬ、これから人が殺される、そんな陰惨な現場には不似合いかつ場違いな陽気な鼻歌が、不気味な血の童謡から一転して刑場に響いた。奏でられるは死神の無伴奏、それを歌う者が壇上に上り詰めた時……。

 「刑の執行は、王命において死刑執行人が執り行うものとする!!」

 現れたのは“黒”。全身を黒一色に染め上げし、終わりを司る死の使い。その視線は木を枯らし、吐息は水を腐らせ、腕のひと振りは命を刈り取る……罪人を間引く為だけに存在する、この地上で最も汚らわしい業を背負った人間。

 手に持つは長剣。鋭く研がれた刃を持つそれは、一刀の下に悪人の頚骨を切断せしめる一級品の剣。切っ先が丸くなっているのは、それが戦場で使うことを想定したものではないからだ。処刑人の刃に求められるのは華々しい武功ではなく、より迅速かつ速やかに罪人を駆除する機能のみだ。

 鼻歌を歌い頭を大きく揺らし、その度に帽子も揺れ動く。刑場でダンスか何かのようにリズムを刻みながら現れたその男は、歯を剥き出しにした優雅さの欠片もない笑みを浮かべながら、とても優雅に一礼を決めた。

 「ボンソワール、親愛なる王国民の皆々様! 今日、この罪人の刑の執行を任された、ジャック四世でーっす!!」

 そして明らかに民衆を小馬鹿にした言葉遣いで、自らの名を告げた。

 「楽しんでってちょーだいな!」

 広場から熱狂は消え去り、冷たい静寂の後に彼らは……。

 阿鼻叫喚の地獄絵図に変貌することになる。





 この時代、衆目に晒される形で行われる公開処刑は多くの民衆にとって数少ない娯楽の一つだった。殺人が公然と行われる非日常に多くの人々は忌避すると同時に魅了され、怖いモノ見たさの心理はあっという間に衆愚に感染して爆発的に広まった。

 しかも殺される相手は悪人。見ているこちらは良心を痛める事もなくその死に狂喜乱舞できる。強盗、放火、姦通、殺人、あらゆる罪状を背負った咎人が毎日のように処刑台へと送られ、その命で以て観衆に倒錯した娯楽を提供し続けた。

 しかし、処刑を娯楽として楽しんでいた者達は、同時にそれを執行する者に対しては苛烈なまでに差別的であった。本来彼らの仕事は罪人の最期を看取るという神聖な職務なのだが、その仕事は民衆の低俗的な欲望の捌け口にされた上、その親類縁者に至るまで穢多と後ろ指差された挙句に石を投げ付けられる憂き目にあっていた。げに恐ろしきは人間が持つ理性と欲望の二枚舌、その使い分ける様にこそある。

 大陸の文化国において、極刑の執行者は処刑人が執り行う。それはこのアルカーヌムでも例外ではなく、代々罪人の首を刎ねる事だけを生業としてきた血塗られた一族がいた。彼らもまたかつての先達、そして他国の同業と同じく周囲から白い目で見られ、獄の囚人からも悪魔の如く忌み嫌われていた。かの一族の者と昼間言葉を交わせば寿命が縮み、夜にすれ違えば死に至ると実しやかに囁かれるほどに、その一族は全ての民衆の謂れ無き侮蔑と嘲笑をその身に受けて来たのだ。

 だが、そんな処刑人の中でなお、おびただしいまでの血に塗れた稀代の殺人者が存在した。

 彼の名は「ジャック」。ジャック・ザ・エクセ、“処刑人ジャック”の名で知られる彼は代々首切り役人を務める家の四代目の当主であり、家督を継ぐと同時にその名を襲名した四人目のジャックである。

 王都において彼の名はまさしく鬼門。その名を聞けば地獄の悪鬼ですら腰を抜かし、天上の御使いは恐怖に歪んだ顔が戻らないとさえ言われるほどだった。普段は刑の執行を聞き熱狂と共に罪人の死に様を肴にする民衆は、その執行人がジャックと知った途端に自分が死ぬ訳ではないのに泣き叫び、小便を垂れて命乞いまでするのだ。

 彼の前に三人のジャックが存在しそれらも恐れられていたが、四人目の彼と比べれば先祖の与えた恐怖など児戯にも等しいと評されてもいた。『ジャックの前にジャックはおらず、ジャックの後にジャック無し』とは、後の歴史家が唱えた有名な格言である。

 なぜ彼がそこまで恐れられたのか。殺した数か? それはむしろ彼の父の方だ。十年も政争が続いた動乱の時代、日毎に送り込まれる貴族の死刑囚の首を切り落とし、その数は一族郎党まとめて三千名に上ったとされている。歴代最多の数を殺した父以上の悪名を、その息子は馳せているのだ。それに比べれば年間十数人しか屠殺していない四代目はむしろ職務怠慢のそしりを免れない。

 彼が恐れられる理由、それは────、



 彼の執行が恐ろしく……『下手』だからだ。



 斬首、絞首、火炙り、磔刑、薬殺、車裂き、串刺し、熱湯、鋸引き、八つ裂き、その他数十にも及ぶ拷問や陵辱に関する知識を持ち合わせるのが処刑人の義務だが、ジャックはそれらに対する技量がまるで伴っていなかった。

 斬首刑では首に刃を突き立てること十回。その全てにおいて刃は首を三分の一も通らず、途中で斧に持ち替え叩きつけること更に二十回。しかしそれでも遂に首と胴は分離せず、しびれを切らした彼は既に罪人が息絶えているにも関わらず、短剣を突き立て引きちぎるように首をもいだ。

 首吊り台でも縄の長さを間違えて超過し、罪人を執拗に突き落としては地面に激突させ、それを五十回も繰り返させた。当然罪人の手足はバキボキに折れ曲がり肋骨は微塵に砕け、最後は頭から落ちて事切れたそいつを釣り上げて「首吊り」と言い張った事もある。

 油を撒き火を点けるだけの火炙りですらミスを連発し、既に磔は済んでいるのに丸一日を着火に費やした事すらある。油と思って掛けていた液体が実は単なる水であり、それを真冬の寒空の下で罪人の頭から掛けまくった結果、寒さによる凍え死にで息を引き取った。もはや刑死ですらなかったわけだ。

 とにかく失敗する。どんな処刑方法をやらせても彼は必ずそれを失敗し、その度に罪人を無駄に苦しませて殺していた。刑場には罪人たちの悶え苦しむ声が響き渡り、極限まで死に瀕しながらもそれを許されず、命をそのものを寸刻みに殺されていく絶叫に民衆はいつしか処刑の熱を感じることは出来なくなっていた。目の前でヒトがじわじわと殺され、否、壊されていく様を見せつけられ、潔白であるはずの彼らの方が精神を病む事例すら出始めたと言われている。

 だが、彼の真の恐ろしさは別にある。

 「た、助け……っ、たすけ、助けてくれっ……たす、け……!!」

 「ほらほら、頑張れ頑張れ! はい、アンヨがじょーず! その調子でちゅよー、イケイケゴーゴー! あ、そっちの指要らないね」

 「げぇぇぇああああああああああぁぁぁーーーっ!!!!?」

 「ひゃははは、なぁにそれぇ!? 小指、小指だよぉ!? 手の小指ぶち切っただけでその反応って、ウソでしょー!!? そんな大げさにギャンギャン鳴くとか有り得ないって!! ああ、今度は肩甲骨ね」

 「があああああああああぁぁぁぁあああああああああっ!!!!!」

 「痛い? いたい? ねぇどんな感じ? 肩の骨バッキバキにぶち壊されてハイハイも出来ないって、どぉーんなかーんじぃ??? ねーねー教えてよぅ、ねーってばー! はいここで太腿粉砕ーっ!!」

 「あぎゃっ!!? がっごっ、ががぁあぁあああぁぁぁあああぁああぁーーーーー!!!!!」

 「キャーハハハハッ、ギャフフッフフ、ハハハハーハハーーーッ!!」

 刑の執行から二十分、刑場は血と汚物と絶叫に埋め尽くされていた。陰惨な恐怖と絶望だけが詰まった叫びが広場に反響し、壇上でのたうち回る死刑囚の姿を誰も正視できなかった。人倫を外れし恐怖の処刑人から逃れようと必死に足掻くが、ケラケラと高笑いしながらジャックの刃はその命を弄ぶ。

 罪人には、指が無かった。ジャックの手には血に濡れた枝切り鋏が握られていた。

 罪人には、眼が無かった。ジャックの懐から銀のスプーンが落ちる。血と一緒にゼリー状の物体がへばりついていた。

 罪人には、鼻が無かった。ジャックのすぐ足元に転がるカミソリが陽の光を反射して輝いていた。

 最初に持ち込んだ首切り剣はただの飾り。実際は懐に忍ばせていた拷問用具で罪人の手を、足を、顔を、喉を、胸を、背を、尻を、頭を、文字通り「寸刻み」で殺していた。いやそれはもう殺しているという表現は適切ではなかった。関節ごとに骨を砕き肉を切断し、その上からハンマーを振り下ろして叩き潰す様は、まるで精肉場の作業工程。余分な部位を削いで皮を剥ぎ、ただの肉塊へと加工していく製造過程がそこにあった。

 口にするのもおぞましい、酸鼻を極める冷酷かつ残虐な所業。それはもはや処刑ではない、脂肪とタンパク質の塊を「叩き」、「捏ね」、「分ける」、それがジャックが行う刑の執行方法だった。斬首でも磔刑でも火炙りでも変わらない。後には骨すら残らない、肉と骨の混合物、粗挽き肉団子が晒されて終わる。

 しかも彼は、それを楽しんで行っている。

 「ありゃりゃ、もうオシマイ? はーぁ、つまんない、つまんない、つまんないなーぁもう!」

 刑の執行直後は囚人の叫びが轟き、広場中の建物の窓という窓を揺らす。だがやがてそれを小さくなり、やがて別の甲高い笑い声が空間を支配する。

 「……タ……ゥ、ケ……くれ…………」

 「え、なに? 聞こえない。もうちょっとおっきい声ちょーだいよ、はいどーぞ! 君の事を見守ってくれてる広場のみんなに聞こえるようにデッカイ声で! リピートアフタミーッ、たーすーけーてー!!」

 「た、しゅ……け……」

 「がんばれがんばれ、ワンモアセッ!! はい、たぁぁすぅぅけぇぇてぇぇーーーっ!!!」

 「たすけっ、たすけ……たすけて、くれぇぇぇ」

 目を刳り貫かれ、耳と鼻を削がれ、全ての指を剪定された哀れな肉人形は、生きようと必死にもがいていた。僅かに聞こえる民衆のざわめきだけを頼りに、五つの断面が覗く手を差し伸ばし、文字通り必死の思いで助けを乞うていた。もはやヒトの形を保っていることがある種の奇跡、肩甲骨と大腿骨はハンマーで粉砕され、一歩も動けないはずが地を這いずり回る姿は、もはや異様を通り越し恐怖の対象でしかない。

 唯一人、この死神を除いては。

 「嗚呼っ!! 素晴らしいィ! 分かるかなぁ? 今あなたは魂の奥底から渇望している、生を! 生きることを!! 偽らざる本音を絞り出したその御霊を、神はこれを祝福し、諸人はそれを寿ぐでしょう。お喜びなさい、あなたの悪は贖われ、その罪は今許されたのです!!」

 全身から血と汚物を垂れ流しながら生き足掻こうとする罪人、それを自分の服が汚れるのも構わず背中から抱き締める。そしてこめかみに開いた“穴”に祝福の言葉を注ぎ込む。かつて耳があったその場所に、まるで恋人が愛を囁くように。

 「すごいね、感動したよ……頑張ったねぇ」

 ジャックは涙ながらに懸命に生を求めるその姿を褒め称え、慈愛の表情はその目に涙さえ浮かべていた。



 「だから死ね」



 直後、脳天に振り下ろされる処刑剣。重さ数キロの鉄塊は殆ど腕力を使わず重力だけで振るわれ、一瞬にして頭蓋をかち割ったそれは当然罪人の命をも叩き潰した。

 力が抜けてずり落ちる残骸が、処刑台一面に血と脳漿が入り混じった溶液を撒き散らし、真紅のクレバスから薄いピンク色の固形物が散乱する。残骸が倒れるとその拍子に周囲に大量の血が跳ね、それは周囲の衛兵や司祭、そしてジャック自身をも濡らした。

 「いっけね! これ刃引きした儀礼用のだった! あー、ま、いっか。どっちみち死んだんだし。司祭さまー、刑が完了しましたよー! お仕事終了でーす」

 全身から返り血と臓物を滴らせるというおぞましい姿で、どこまでも底抜けた明るい声で壇を下りて司祭の元へと駆け寄っていく。その振る舞いは無垢な子供のようで、事実彼は自らが生業とするところを処刑全般を心底楽しんで執り行っていた。

 殺し、壊し、解体する。精肉業者が家畜を屠殺し乱暴にバラすようなその姿から、名付けられたあだ名は……。

 『ぶつ切りジャック』。

 「あ、そう言えば処刑は斬首だったっけ」

 王都に住まう死神……処刑人ジャック四世。

 「これは刃潰してるしなぁ。どうしよ」

 全ての人間に嫌われ、疎まれ、呪われる、この世全ての暗黒を一身に背負いし忌み子。

 これはそんな彼の愛の物語である。

 「衛兵さん、ちょっとその短剣貸して」





 大陸における死刑執行人はその大半が世襲制で成り立つ仕事だ。親から子へ、子から孫へ、永々と磨かれ続けた伝統の技を受け継ぎ次代へと託す、言わば死の職人芸で食っている人種である。その特殊な職業柄、好き好んで新たに首切り役人になろうとする一族はおらず、また一度処刑人になれば周囲から白い目で見られ他の職に就くことも出来ず、そうした理由から処刑人は特定の一族がそれを独占する時代が長く続いた。

 そうした由緒ある処刑人は仕事内容の重要性もあり、その多くが貴族待遇で扱われている。彼ら一族は半ば世捨て人のように暮らし、政治からも距離を置いている。それが逆に政争などに巻き込まれる確率を減らす要因となり、結果的に処刑人の家は長い歴史を持つことが多くなった。

 ジャックの一族はまさにそれだった。処刑人の仕事で得られた報酬によって構えられた邸宅は、他の貴族のそれと見比べても遜色ない立派なものだった。それだけでも彼の一族の貢献と、それが王国にどのように認められているかが分かるものだった。

 収入もある、経済的なゆとりも、政治的な安定もある。人殺しという生業に目を瞑れば、貴族としてこれほどまで魅力的なライフスタイルはそうそうないだろう。

 だが、そんな首切り貴族のジャックの家にも、悩みはあった。

 「坊っちゃま、実はその、大変申し上げ難いのですが……」

 「えー、また?」

 「はい、『また』でございます」

 老執事の言葉に、ジャックは盛大に溜息を吐いた。祖父の代から仕えている彼の言葉は今まで以上に事態が深刻であることを物語っていた。

 「二週間? 意外と続いたねぇ。今月分のお給金は?」

 「既に支払い済みでございます。ですが、こうも長続きしませんと、この家としましては……」

 「て言っても、辞めたいって言ってる人を無理に引き止めたってねぇ」

 デスクから名前が書かれたリストを取り出し、その一番最後の名前に斜線を入れる。リストに記された名前は全部で27、それが今日この日に全てがおじゃんになった。

 名簿にある名前はかつてこの屋敷で住み込みで働いていたメイド達。いかに薄汚れていようと貴族は貴族、その経済状況が許す限り執事を雇い使用人を持つ自由がある。

 だがここ数ヶ月、ジャックの屋敷には半月以上の労働に耐えられた使用人はおらず、屋敷内は昼間だと言うのに閑散とし、今や主人が不在の間の留守を守るのは御年六十を過ぎたこの老執事だけとなった。

 「そもそも、坊っちゃまがいけないのですぞ。無闇矢鱈と使用人を怖がらせるような真似をなさるから……」

 「? ……何かしたっけ?」

 「自覚なしとは……。せめて返り血を浴びたままご帰宅するのを止めてさえ頂ければと、私何度も申し上げたはずです。床の掃除やお召し物の洗濯も全て使用人の仕事なのですぞ」

 「そうだったっけ。辞めたんならまた雇えばいいだけだし、今度は一度に十人くらい雇用しよっか。じゃ、そういうことで紹介よろしく」

 「残念ですが、私が頼りにしていた伝手はもう使えませぬ。その名簿に書かれている分で最後です」

 メイドは自分で自分の雇用主を選ぶ権利がある。好き好んで首切り役人の家に仕えようと思う者など殆どおらず、ジャックの家は昔から慢性的な使用人不足に悩まされてきた。

 それでも昔はまだマシだった。処刑人は人を殺すが殺人鬼ではない。歴代の当主は公私を分けて生活し、周辺住民もその事を理解していた。だからこそ過去三代に渡って繁栄することが出来、自らここを選んで仕える使用人が僅かながらでも存在していたのだ。

 だが、それは今代のジャックにより完膚なきまでに破壊されてしまった。彼の血塗られた実態を目の当たりにした使用人たちは次々と屋敷からいなくなり、外へ出た彼らが広めた噂により、ただでさえ人が寄り付かなかった屋敷は更にうら寂しい無人館の一歩手前まで追いやられる事になった。

 「窓は汚れ、庭は荒れ放題……。私もできる限りのことはしているつもりですが、見ての通りの歳ですので、いい加減に若い力が必要なのです」

 「んー……じゃあ、募集してみる? 張り紙とか出したりして」

 「落ちぶれても貴族の家柄、そのようなはしたない真似が……」

 「実はもう数部作ってあるんだ。ほら!」

 「……手際のよろしいことで」

 デスクから引っ張り出したチラシを自慢げに見せびらかして喜ぶ主人を尻目に、老執事はそれを複写する作業に取り掛かるのだった。





 『給料、弾みます。賞与有り、未経験者歓迎! 住み込み可、三食付き、休日有り! 福利厚生完備! ご応募お待ちしています!!』

 破格の条件で出した募集の紙はジャックの屋敷から半里ほどかけて万遍なく貼られ、誰も彼もがそれを目にするように仕上げた。時期外れの使用人募集と、その上の上とも言える待遇の良さに誰もが一瞬心奪われた。

 だがそれは所詮、「一瞬」のこと。雇い主があの恐ろしい首切り役人の屋敷と分かった途端、潮が引けるように募集チラシの前から人垣が消え去った。それはもう綺麗さっぱりと。

 数日もすれば住民は募集どころか張り紙の存在すら忘れて、今までどおり処刑人の邸宅には寄り付かない生活へと戻っていた。

 「なかなか上手くいかないもんだね」

 「むしろどうして上手くいくと思ったのか、懇切丁寧に問い質したいところではある」

 今日は珍しく一人の屠殺も無い休日。数少ない休みを日がな一日屋敷で過ごすと決めているジャックだが、やはり暇なのか数少ない友人を呼んで囁かな茶会を開くのが習慣になっていた。

 その友人というのが……。

 「聞いたよ。君、結婚したんだって? 悪名高い両断判事さまにも春が来たんだねぇ」

 「悪名高いのはどっちだ、『ぶつ切り』」

 王都で最も恐れられる人物に軽々しく悪態をつくのは、同じく王都で恐れられる司法の番人、両断判事ことローランであった。片や司法の場で悪を「裁く」判事、片や民衆の前で罪人を「捌く」処刑人。似てもおらず大きく非なる二人が曲がりなりにも友人同士であるとは、それこそ彼らを恐れる王都の民からしてみれば悪夢でしかないだろう。

 ローランとは、ジャックが首切り役人として法の知識をつける為に法院に通いつめていた際に知り合った仲だ。当時から既に処刑人の次期当主として恐れられていたジャックだが、ローランだけは彼を邪険にしなかった。堅物と狂人、今やこの屋敷にお茶を飲みに来る客人などローラン以外には誰もいない。

 もっとも、ローラン自身がここまでの堅物になるなど、当時を知るジャックから見ても予想しなかっただろうが。

 「それに、結婚といっても事実婚だ。まだ役場に正式に受理された訳じゃない」

 「国境を挟んで結婚ってのもメンドくさいもんなんだねぇ。あ、これお祝いにどうぞ」

 「何だこれは? 皿、なのか? にしては手触りに違和感が……」

 「うん、それはね、これまでに処刑した囚人の頭蓋を縫い合わせて作った……」

 「要るかっ!! というか、悪趣味なものを作るな!!」

 「悪趣味とは失礼な。こう見えて、結構なお金に替わるんだよ。犯罪者のデスマスクとかね」

 拒まれたなら仕方ないと、骨で出来た食器を棚に戻す。食器棚の中には同じような色合いと質感の食器がずらりと並び、それら一つ一つが何を材料に作られているか口にしなくても分かってしまった。

 「そんな事だから君の家で働きたいと申し出る者が皆無なんだと思うが」

 「ローランだって趣味ぐらいあるだろう? それと同じことだよぉ」

 刑死者の残骸の処理も仕事に含まれるジャックは、その遺体を加工して物品や道具の作製を趣味にしている。骨を削って繋ぎ合わせて皿を始めとする食器を作り、女性の死刑囚の髪で編み物を作り、剥いだ皮をなめして書物の表紙を装丁したりもしていた。そうした常軌を逸した趣味趣向を持っているからこそ、父の代の使用人たちが逃げるように家を出た事を、この若き処刑人は気付いていないらしい。

 「聞いたよ、最近ちょっと優しくなったんだってね。君があんまり死刑判決を出してくれないもんだから、前と比べてめっきり数が減っちゃってさぁ。ねぇ、誰か適当な奴死刑にしてよ」

 「相変わらず狂った事を言うな、キミは。私は別に優しくなったつもりなど微塵も無い。これからもそれに値すると判断すれば容赦なく裁くだけだ。心配せずとも、当分キミの『得意先』が私であることは確実だ」

 「ふぅん。ならいいけど」

 「それよりも、キミは自分の身の回りを心配するべきだ。使用人探しに本腰を入れなければ、いよいよもってこの家はキミ一人になるぞ。仕事と趣味以外に興味を持たないキミが、一人でまともな生活を送れるとは到底思えないな」

 「て言ってもさぁ……」

 「そんなキミに朗報がある。聞きたいか?」

 「なになに? 聞きたい聞きたい」

 この超がつく堅物な友人の方から話を持ちかけられるなど、ここ最近では珍しいことだ。きっと何か面白いことを話してくれるだろうと、身を乗り出して続きを促す。

 「喜ぶといい、キミのところで働いてくれるかもしれない超優良物件がある。三食の食事と寝床さえもらえれば給金は要らないと、まあキミに負けない破格の条件で名乗りを上げているんだが……どうだ、雇ってみる気は無いか?」

 「う〜ん……それってさぁ、お仕事ちゃんと出来る? うちの爺やも今から教えるのは骨だって言ってたし」

 「問題ない。真綿が水を吸うように物の覚えは良い人材だ。それに、仕えるという一点において彼女らの右に出る者はいないよ」

 「ふーん。じゃあ、近い内に紹介ヨロシクー。爺やに適当な部屋作るよう言っておくから」

 軽くそう言ってのけるジャック。部屋の準備ということは、彼の中では既に雇う方向で話がまとまっているのだろう。人倫を外れた言動が目立つが決断は早い、彼はそういう男だ。

 「聞かないのか。何故こんな時期に都合よく手隙の使用人がいる理由を」

 「聞かなきゃダメだった?」

 「いや、いいんだ。明日にでもこちらに向かうよう言っておく。お茶、美味しかったよ」

 「あ、頼みたい事があるんだけど」

 「何だ」

 「張り紙剥がすの手伝って」

 「断る」

 思いがけない所からの助け舟に対し、ジャックは大して理由も事情も聞くことなく、どこまでも軽いノリの二つ返事でその提案を快諾するのだった。





 そして、次の日に記念すべき28人目となる新しい使用人が屋敷を訪れた。

 「はじめまして、メイドのミルヤムと申します。今日からご主人様の身の回りをお世話させていただく事になりました。よろしくお願いします」

 僅かな手荷物と白黒のメイド服に身を包んだ使用人。およそ血腥い仕事と趣味を持つ男の屋敷にはどこまでも不釣り合いな、美しく、繊細で、可愛らしい乙女がそこにいた。貴族の娘が持つ気品が無駄を削り取ったダイヤの如き上品さなら、こちらはまるで野に咲く一輪の華。目立たず、ひっそりと、だがそれでいて清く澄んだ姿を誇る満開の花だ。

 「はいはい、ヨロシクー。ローランから聞いてるよ、お給金とか要らないってマジ?」

 「はい。私は主人にお仕えすることが生きがいですから」

 それが媚を売るのではなく、本心からの言葉だという事は人心に疎いジャックにも分かった。いや、この街に住まうものであれば彼女の言葉の真意を多少なりとも察知できて当然と言えた。

 豊かな毛を蓄えた耳、祖先の名残を残す羽毛の手と鱗の足、そして獣人系特有のフサフサな尾……。

 キキーモラ。人間に奉仕することを至上の喜びとする種族。王都に住む上流階級の家には必ず一人は使用人として仕えていると言われており、彼女らを抱えるのが貴族の間では一種のステータスになっている。

 同じ奉仕に長けたショゴスやデビルがその根底に淫蕩さを多分に含むのに対し、キキーモラは言わば正統派、その立ち居振る舞いには先の二種のような淫靡さは無く、裏も隠喩もなく本当に奉仕だけでも望外の幸せを感じる種族だ。

 「ほー、へー、ふーん」

 「あ、あの……ご主人様? 私の体、何か変ですか?」

 挨拶もそこそこに急接近したジャックは、ミルヤムの全身をしげしげと観察し始めた。手を取って手首を見つめ、背後に回って無造作に尻尾を掴み、垂れ下がった両耳を摘んでぶらぶらと弄ぶ。まるで初めて犬を目にした赤ん坊が恐れを知らずにべたべたと触り回るようでもあった。

 「坊っちゃま、レディに対しそのような振る舞いは……」

 「でもさ、でもさ! キキーモラなんて初めて見たんだし、ちょっとぐらいはさ。あ、やっぱりこの羽って飾りじゃないんだ」

 「え、ええ。ご先祖様がハーピーだった頃の名残で……」

 「そーなんだ。あ、一枚もらってもいい、っと!」

 「あの、もう抜かれましたよね?」

 尾の付け根あたりに生えていた羽根を一本抜き取ったジャックはそれを翳して観察する。既に飛行する機能は失われ、人間の癖っ毛のようにくるりと弧を描いているのが分かる。ハーピーやサンダーバードほどの彩色は無いが、これはこれで特徴的な羽根だ。

 そして思い出したように向き直る。

 「君の部屋は廊下の突き当りを右ね。汚さなかったら好きに使ってくれていいから。あとは、そうだねぇ……バスルームはこの道を真っ直ぐ行って右でしょ。台所はこの壁を右手に沿って歩いて曲がり角の向こうで、トイレは行き止まりを右ね」

 「あの、私のお部屋とバスルームとキッチンとお手洗い、みんな同じ場所なんですけど……」

 「すみません、あとで私めがきちんとご案内しますので。坊っちゃま、早くご準備なさいませんとお仕事に遅れますよ」

 「はーい。そんじゃまぁ、今日も元気に働くぞー!!」

 両手を挙げて気合を入れながらジャックの足は道具を取りに一旦自室へと走り去っていった。元気有り余るその姿は一族の当主というよりは、まだ童心抜け切らぬ子供のようだった。

 ものの五分と掛からず準備を終えたジャックは表に留められていた馬車に飛び乗り、それを合図に馬がいななきを上げる。

 「今日は“片手”で足りるから、早めに帰ってくるよ」

 馬車は揺れる。両手いっぱいに抱え込んだ拷問器具を鳴らしながら。

 「お元気な方ですね」

 「……あなたも、辞めたくなったら遠慮なく言うのですよ」

 それは嫌味ではなく心からの親切で言ったことだった。最長記録は一ヶ月、それ以上保ったメイドはいない。皆誰もがジャックの猟奇性について行けずに暇をもらった。奉仕に長けたキキーモラとなれば引く手は数多、無理をしてこんな精神衛生に悪い職場を選ぶこともないと思っての発言だった。

 だが一度雇い入れて敷居を跨がせた以上は働いてもらわねばならない。とりあえずは簡単な掃除から始め、その後は食料の買い出し、荒れていた庭に関しては別に庭師を雇うという方向で決着した。

 ミルヤムは実に覚えのいい使用人だった。老執事が教える仕事に文句がないのは当然として、必要以上に教える手間も無く、打てば響く良鉄のように仕事に対し熱心に取り組んでくれた。今まで多くのメイドをこの家から送り出す結果になった老執事も、ミルヤムの腕には舌を巻くほどだった。

 この子であれば安心して屋敷を任せられる……長年この家に仕えてきた老執事は若きキキーモラに密かな期待を寄せていた。

 しかし、この家の主はその希望を粉砕する。

 「たっだいまぁー! ねぇねぇ、お昼ご飯何? なぁに!? パスタぁ、パスタがいいなぁ!! ミルクと一緒に煮込んでチーズをたっぷりかけたやつ。爺や、作ってよ!」

 昼過ぎに帰宅した彼は人を五人処分した後とは思えないほど陽気に、かつハイテンションにステップを刻みながら食堂へと飛び込んできた。着替えもせずに椅子に飛び乗る主人に対し老執事が盛大に溜息を吐く。

 「坊っちゃま、何度も注意しておりますように、ご帰宅された際はまずお着替えをと……」

 「メンドイからパスで! そんなことより腹ペコなんだよぉ!! おーなーかーすーいーたー!!」

 「でしたら、ミルヤムに何か作らせます」

 そう言って彼女を厨房に連れて行こうとする老執事。彼女の料理の腕を確かめるいい機会だと思っていた。

 だが……。

 「ううん、ミルヤムには別の頼み事があるんだ」

 「私に、でございますか? 何なりと申し付けてください、ご主人様」

 この家に来て初めての、主人直々の命令。仕える事を本分とするキキーモラは溢れる期待感に頬が紅潮していた。

 「うんうん! 働き者だねぇ、ミルヤムは! じゃあねぇ……」

 そんな彼女の姿勢に気分を良くしたのか────、

 「僕が今日使った仕事道具、片してくんない?」

 特大級の爆弾を投げつけた。

 「表に馬車を留めてるんだけどさぁ、中に仕事に使った道具がそのままなんだよね。部屋に運んでくれるだけでイイから」

 「はい、承りまし……」

 「坊っちゃま!!? それはあまりにも……!」

 思い描いていた、いやそれ以上の事態に老執事はいつの間にか声を張り上げて制止していた。血塗れで帰って来たのではない事を珍しく思った矢先のこれだ。

 しかも相手は今日が初日のメイド。今までにも何度か使用人に対し無茶振りはあったが、それでも仕事道具に、しかも使用済みのそれに触らせるという真似だけはしなかった。そう言った仕事はそれこそ執事にやらせていた為、突然の趣旨変えに顔色を変えたのは至極当然と言えた。

 そうでなくても、二十八人目にしてようやく手にした有望株、みすみす手放すような事だけは避けたかった。

 「坊っちゃま、そのような雑事は私めにお任せくだされば……!」

 「えー、爺やは早くご飯作ってよ! お腹へったって言ったじゃん」

 「ですが、斯様な力仕事を女子にやらせるのは」

 「大丈夫だって、そんなに数は無いから女の子でも持ち運びできるよ」

 「しかし……!」



 「グチャグチャうるせぇな。ツルすぞ、あ?」



 刹那、真冬の寒波が部屋を満たした。窓を揺らしていた風が止み、全ての音がジャックに「殺され」る。それまで玩具のように振り回していた銀食器を逆手に持ち、見開かれた両目の深淵が老執事を射抜く。

 その目には、無い。

 熱が無い。

 光が無い。

 命が無い。

 過去三代、そして四代目に受け継がれし死の血統。命をモノとすら思わぬ冷徹な瞳。遥か古代に失われた神話に登場する邪神の如き魔眼を持つ者、それが彼だ。言葉には闇が宿り、所作には魔が潜み、視線に死を伴う魔性のモノ……それがジャック、死に最も近い人間の業。

 今こうして睨まれているだけで心底恐ろしい。黙って突っ立っているのがやっと、気を抜けばその瞬間に自ら命を投げ出してしまいたくなる衝動に駆られる。手に持ったフォークは微動だにしていないはずなのに、こうしているだけでその先端が喉元に押し当てられる錯覚を覚える。

 「なーんてね! 爺やの料理が楽しみだから早く帰って来たんだよぅ、イジワルしないでよぅ」

 「わ、分かりました。ではそのように」

 「うんうん! じゃあミルヤム、そゆことだからお片づけヨロシクー」

 「は、はいっ」

 主人の命を受けたミルヤムはいそいそと玄関先へと向かい、ジャックの処刑具を片付ける作業に取り掛かった。

 本日の刑死、逆さ串刺し。馬車の荷台に積まれた血と臓物でコーティングされた五本の杭を見た時、彼女がどんな表情を浮かべるのかジャックは密かに楽しみにしていた。





 「お仕事の道具、片付けました。次は何をすればよろしいですか?」

 だからこそ意外だった。

 メイド服の白い部分ほぼ全てと、自分の顔すら血に濡らしてケロっとしているミルヤムの姿を見てそう思った。隣の執事は顎が外れたみたいに驚愕の表情を浮かべ、当のミルヤム本人は何か粗相でもしたかと不安げな顔だ。

 だがやはり、この家の主人は大して驚きもせず、何か別の気になる事でもあるように唸っていた。

 「う〜ん……」

 「ご主人様?」

 「変わってるね君」

 「そ、そうですか!? 私、どこかおかしかったですかっ!?」

 「取り敢えず、お着替えしておいでよ」

 「えっ、は、ひゃい!!」

 初めて自分が汚れていることに気が付いたのか、血で染まった部分以上に顔を赤くしたミルヤムは羞恥の勢いそのままに自室目掛けて駆け出して行った。廊下は走るなと注意するより先に、彼女の姿は角に消えていた。

 だがその醜態に驚いたのもついさっき、老執事は彼女の性格にこれまで以上の喜びを覚えていた。

 「なかなかに肝の据わった使用人ですな。今回は当たりかもしれませんぞ、坊っちゃま」

 「うーん」

 「坊っちゃま?」

 「『24』かぁ……。ちょーっと多いかな」

 「は? 何のことでございます?」

 「独り言〜」

 生まれた時から仕えているが、未だにこの主の考えは分からないと心中で嘆く老執事であった。

 それからというもの、屋敷におけるミルヤムの仕事は、ジャックが処刑に使った道具を整理し管理するというものになった。処刑は常に道具なくしては行えない事を考えれば、彼女に与えられた仕事は屋敷で最も重要な意味を持つものだった。

 こういう事は非常に珍しい、というか初めての事だった。ジャックは自分の道具を自分で管理し、老執事にさえ滅多なことでは触らせない。今までにもメイドに道具の管理を任せると口にした事もあるが、それは所詮戯れの域を出ず、相手もそれに恐れをなして次の日には辞めるというパターンだった。

 だがミルヤムは違った。血と臓物と脂肪に塗れた処刑具……頭を刎ねた剣、四肢を穿った釘、腹を裂いた鋸、首を縛った荒縄や、火炙りに使う薪や油の管理まで、彼女は嫌な顔ひとつせずにそれら全てを完璧にこなした。刃を研ぎ、油を挿し、元あった場所に丁寧に戻しておく。女性の身には余りある仕事をだ。

 そうして、ミルヤムが屋敷に来て一ヶ月が経った。彼女は当初の不安をよそに最長勤務記録を打ち立てたのである。

 ジャックは狂ってこそいるが理屈の通じぬ人間ではない。そうしたミルヤムの働きを目にしたジャックは、事あるごとに彼女を褒めちぎった。

 「頑張ってるね、ミルヤム。辛くない? 困ってない? 何か不自由はない?」

 「いえ、お気遣いなく、ご主人様」

 「うんうん! そんな頑張ってるミルヤムちゃんには、ご褒美をあげちゃおう! ほら、お手てプリーズ」

 おずおずと差し出された手の上にころんと乗せられる物体が一個。光を浴びてキラキラと眩しい反射を放つそれは、この国で発行されている最高貨幣、つまりは金貨だった。それも大量生産された銀混じりの粗雑なものではなく、正真正銘の純金が使われた高級品、これ一つで小さな土地が買えるとまで言われている代物だった。

 当然、そんなものを軽々しく渡されたミルヤムは腰が抜けるほど驚いた。

 「いただけませんっ、こんな高価な物!!? どうかっ、どうかご主人様がお収めくださいませ! 給金は不要ですから!」

 「んー? お給金は要らないけど、ボーナスが要らないとは言ってなかったよね? それに君はこの家の使用人、家族も同然。そんな人の働きを労わないでどうするの? イイからイイから、もらってちょーだいな。何なら休日に着る服を買う分もあげるよ、君だって女の子だから着飾ることをしたほうがイイよ」

 そう言って更に銀貨でパンパンに膨れた袋を押し付けるように手渡した。服どころか、それを売っている店を丸ごと買い取れそうな金額だった。

 「ご主人様は……どうしてここまで私のことを?」

 「君のことが気に入っている、それじゃダメ?」

 「お戯れを。あぁ、私、執事さまに食材の買い出しを申し付けられていましたから、行ってまいります」

 話を誤魔化すように打ち切り、そそくさと買い物カゴを手に外出の準備をするミルヤム。女だてらに働き盛りなその姿を見れば、あの老執事が教育に入れ込むのも頷けるというものだ。同じ「働き者」のジャックから見ても彼女の働き振りはいくら褒めても足りないぐらいだ。気に入っていると言ったのも嘘ではない。

 「ねぇ、ミルヤム。ひとつイイかな?」

 「はい、何でしょう?」

 「君さ……『生きてる』よね? 『死んで』ないよね?」

 「私の手首をお切りになりますか? フフ、私を怖がらせようたってダメですからね」

 ジャックの突飛な物言いには慣れたと言わんばかりに微笑みだけ返し、街中へと繰り出していった。初めはこの家に出入りするメイド、それもキキーモラということで奇異の目で見られていた彼女だが、半月経てばそう言った視線も数を減らし、買い物に出た程度では住民も驚かなくなっていた。

 今では有象無象の噂話もなりを潜め、ミルヤムの存在は確かにこの屋敷に溶け込むものであった。

 「いや、あれ絶対『死んで』るって」

 唯一、ジャックを除いては。





 王都には幾十、幾百もの浮浪者がいる。一度表通りから外れた路地裏はもはや別世界、食い詰めた彼らが築いた“街”があり、そこにはならず者の楽園がある。全てが乱雑かつ幾重に絡み合い、社会から切り離された見るも浅ましいくもおぞましい豚とウジ虫どもの巣窟がここだ。

 ここに秩序などという高尚な概念は存在しない。秩序とはヒトが構築するものであって、断じて獣が共有するべき概念ではない。ここにいるのは全員が獣、金も、食い物も、女も、全てが“力”という唯一にして絶対のルールに基づいてのみ自由にできる。

 だからこそ、彼らは絶対に強者には逆らわない。強者こそがルールとなるこの世界では尚更だ。

 「────」

 “それ”はまさに強者だった。この界隈をまさしく力で牛耳る存在、日陰に生きる首領だ。己以外は弱者であり餌、普段は足で踏み尻で敷き、気が向けば骨の髄までしゃぶり尽くして打ち捨てる。この薄汚れた路地裏に君臨する理不尽の権化だった。

 今日この日、“それ”は待っていた。自分に吉報を届けてくれるであろう風見鶏の存在を。普段は湿気と悪臭に塗れた残飯を食い漁って暮らす自分たちが、久々にありつける極上の獲物の住処を知らせに戻ってくるのを。

 「…………」

 ならず者の楽園に違う匂いが混じる。鼻腔をくすぐる異物の匂いに穢らわしい亡者どもが身を起こすが、その姿を目にした瞬間に下衆な欲望は萎えて消え去った。

 こいつは強い。手を出せば火傷どころでは済まされない。

 それを理屈ではなく本能で理解したからこそ、誰もそれに近づこうとしなかった。狭い道にたむろしていた乞食たちはぞろぞろと道を開け、触らぬ神に祟りなしと目も合わせようとしない。

 しかし……。

 「お恵みくだせぇ」

 「…………」

 一人、路地の片隅で膝を抱えて蹲っていた乞食が手を伸ばしてきた。本来白いはずの手は汚れて茶色になり、指先の爪はボロボロ、その手だけでも不潔さがありありと表れていた。

 だからなのか、招かれざる者はポケットから何かを取り出し、親指でそれを弾いた。

 キンという澄んだ音が聞こえた直後に物体は弧を描いて物乞いの手に収まり、それを見届けて人影は去っていった。突然現れ、そして音もなく去って行く、その不気味さに他の物乞いたちはしばらく震えていた。

 「ありがてぇ、ありがてぇ……ヒヒヒ」

 唯一人、施しを受けた乞食の虚ろな声だけがそこを満たしていた。





 「ねぇ、ミルヤム。今日一緒にお出かけしない?」

 それは突然だった。ボーナスをもらった二日後の朝食の席で、ジャックがそう提案してきた。

 「君は荷物持ちをしてくれるだけでイイんだ。今日一日、一緒に歩いて、食事して、馬車に乗って、帰ってくる。簡単でしょ?」

 「ええ、ですが本日ご主人様はお仕事のはずでは?」

 「ニブいなぁ、仕事場に来てって言ってるの! ミルヤムは仕事道具を管理してるんだから、ちゃあんとそれを持っていてほしいってわけ。実は前から助手ってのが欲しくてさぁ! ……来てくれるよね?」

 「はい……分かりました」

 またあの氷の視線で射抜かれるのが怖いからか、特に抵抗もせずにミルヤムは頷き、老執事は哀れなメイドに対し密かに合掌した。

 「素直でよろしい! じゃ、早速行こうか。今日は十人殺すから、一日仕事だね」

 食後すぐに正装に着替えたジャックは大量の処刑道具とミルヤムを伴い、馬車に乗って最初の刑場に向かった。今日は絞首が三人、磔が四人、火炙りが三人。珍しくジャックが「それほど」血塗れにならない処刑ばかりだった。

 目的地までの暇を持て余したのか、出発から程なくしてジャックが話しかけてきた。

 「ミルヤムはさぁ、『生きること』って何だと思う?」

 「生きること……ですか? さあ、私は無学ですから、そういう事は……」

 「難しく考えなくてイイんだよ? 『食べる』、『眠る』、『抱く』……大抵はこの三つで、後は何か小理屈をこねて哲学っぽいこと言ったりするけど、まぁだいたいは三大欲求的な衝動とどう向き合って折り合い付けるかが『生きること』らしかったりする事もあるんだけど……」

 「ご主人様は違うと?」

 「『生きること』は、『死ぬこと』だ。みんなみんな、『死ぬ』ために『生きて』いる」

 究極、あらゆる存在はいずれ死ぬ。ジャックも、ミルヤムも、老執事も、友人のローランも、この街の人々も、過去に生きた彼らも、未来に生まれる子らも、皆いずれ必ず死す。

 「食べてても死ぬ。寝てても死ぬ。女を抱いて、男に抱かれていても死ぬ。起きてても死ぬ。喋ってても死ぬ。黙ってても死ぬ。死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死死死死死死死……生きてると、死ぬ。成長とか、進化とか、老化とか言葉はあるけれど、そのどれもが死に向かう変化だ。生き物はね、ミルヤム、死ぬために生きているんだよ。それ以外の事なんてオマケみたいなもんさ。食べるのも、眠るのも、抱く事さえも、フィナーレを迎えるための前座だって話。有っても無くてもどうでもいい」

 それは数多くの生と死を見つめてきたジャックが培ってきた理論。彼は僅か七歳にして父と共に刑場に出入りし、多くの人間が死ぬ瞬間を見てきた。生まれてからずっと悪事に手を染め続けた犯罪者、たった一度の過ちを犯した平民、主人に逆らった奴隷、由緒正しい血統の貴族……身分や出自に関係なく、皆一様に処刑台の露と消えていった。どんなお題目を立てようが死ぬ時は死ぬし、それはあっけないほど一瞬だ。

 「何も生きることが無駄だって言ってるんじゃない。美味しい物を好きなだけ食べればイイ、好きなだけ惰眠を貪ればイイ、綺麗な女を抱いて、イイ男に抱かれまくるのは最高さ。悪い事だっていくらでもすればイイ。どうせ死ぬんだ、生きている今の間に好きな事を好きなだけやってから死ねばいい。でもね、それもやっぱり『死』っていうゴールテープを切るまでの、ほんの少しの余興なんだよなぁ。何をどうしたってこの世には残らない。残ったように見えても、結局は長い時間をかけて消えるし、消える瞬間だって、やっぱり一瞬だ」

 そう一瞬。儚く、刹那に、何もかもが消えてしまう。

 それが「死」。だからこそ……。

 「それって、とっても、とぉーっても……悲しいことなんだよぉ」

 ジャックは涙する。人々が積み重ねた人生が、歴史が、死という避けえぬ最期の瞬間に全てが無に帰すという事実に。聖人君子も極悪人も、生きているからこそ意味がある。記憶には血が宿り、熱が灯り、魂が息づく。死んでしまった後の記録にはそれが無い。紙の上の文字と数字の羅列になってしまう。死はあらゆる記憶を、無機質で冷たい記録へと換えてしまうのだ。

 「だから殺す。人がまだ生きているその間に。最も鮮烈で、凄惨で、過激なまでに、この手で彼らに刻み付ける。頭蓋を割って、手足を千切り、胴を裁断して、刎ね、縛り、吊るし、燃やす……あらゆる手段で刻み付ける、忘れる事なんて許さない。たった今殺した彼は、ほんのついさっきまで生きていたんだよって教えてあげるんだ。きっと誰もが忘れない、そんな死に方をした彼を、こんな殺され方をした彼女を、ここまで惨たらしい最期を迎えたあの子を、皆が憶える事になる。だって、そうだろう?」

 それが「生きる」ってことだろう。

 そう言って微笑むジャックの目からは涙が消えていた。それはつまり、彼がどんなに歪んでいて、どんなに狂っていようとも、彼は彼なりに人を愛しているということだ。その生の在り様を、その死の結び方を、彼は誰よりも愛している。でなければ笑って殺すなどという芸当が出来ようはずもない。好きでなければ、愛していなければ彼は「殺さない」。ジャックは人を愛する。ジャックは人の生き死にを愛している。愛の証明と、その愛を永遠のものにする為に殺すのだ。忘れないために殺すのだ。

 処刑人は、そんな狂った彼にとっては天職以外の何物でもなかった。

 馬車が止まり御者がドアを開けた。刑場には既に何十人もの見物人が押し寄せ、罪人が殺されるのを今か今かと待ちわびている様子だ。だがすぐには出ない。まだ話の続きがあると言って、その目がミルヤムを見据える。

 「だからこそ分かるよ。ねぇ、ミルヤム……君、今『生きてない』よ」

 「私が、死んでる……?」

 「いやぁ、『生きてない』わけだから、『死んで』すらいないわけか? 生きてないと死ねないわけだから、う〜ん……ややこしいなぁ。ま、どっちでもいいや」

 すっと伸びた手がミルヤムの顎に添えられる。貫くような氷の視線とは裏腹に、その指先は温かく肌を撫で、皮膚の下に脈動する血の存在を教えてくれた。それはジャックも同じことで、指先は端正な顎から首筋へと移動し、首を流れる最も大きな血管をまるで宝石を触るような愛おしさで触れていた。

 「待ってるよ、君が息を吹き返すその時を……ずっと待っているから」

 流れるようにジャックはミルヤムの手を取り、柔らかな甲に口づけをした。そして絞首に使う荒縄を手に取って刑場へと赴き、怯え泣き叫ぶ囚人へ屈託のない笑みを浮かべながら、おぞましい刑の執行を始めた。殺すため、愛するが故に。

 「…………」

 すぐそこから聞こえてくる阿鼻叫喚の地獄絵図など聞こえていないのか、ミルヤムの目はジャックにキスされた場所を見つめ、もう片方の手は撫でられた首筋にあてがわれていた。まるで、自分の鼓動を確かめるように。

 三十分きっかりで戻ってきたジャックと共に次の刑場へと向かう。広場には、ヒトの形を削がれた肉塊が吊るされていた。





 残り九人を処理し終わった時、日はとっぷりと暮れて街は暗くなり、人気が引いた通りを馬車に揺られながらジャックとミルヤムは屋敷までの帰路についていた。行きには綺麗だったはずのジャックの服は多くの血に塗れる結果になり、車内は鼻に絡みつく鉄の匂いが充満していた。

 「今日もいっぱい、いーっぱい殺したよ。もうお腹ペコペコだぁい」

 「お疲れ様です、ご主人様。お召し物をこちらに」

 「ん? あぁ、イイよイイよ、着替えは屋敷に戻ってからで。この帽子だけ預かっといて」

 「はい。……あ、これって」

 被っていた黒帽子にはそれまで気付かなかったが、一枚の羽飾りが付いていた。貴族がファッションで付けるそれと違って派手な彩色ではないが、真っ黒の生地に茶色のくるりとした羽根は地味な色合いが逆に味を出していた。

 「君から引っこ抜いた羽根さ。前々からこの帽子に合う飾りが欲しかったんだよねぇ。どうどう、似合ってる?」

 「ええ……ええ、とても。私の羽根なんかでご主人様を彩れたことを誇りに思います」

 「実はね、実はね! ミルヤムのために仕立て屋さんを呼ぶことにしてるんだ!」

 「はぇ!? そ、そんな恐れ多いこと……!!」

 「これから先、今日みたいに一緒に出歩く機会も多くなるんだよ? やっぱりミルヤムだって女の子なんだし、ここは目一杯オシャレしておかないとね。飛びっきりの衣装でおめかしさせてあげる。何も心配しなくていいんだよ、君は今『生きよう』としてるんだから」

 男の主人がメイドに目をかけ可愛がるのはよくある話。それが人間にはない色香を持つ魔物娘ともなれば尚更だ。この街では人魔問わず元使用人を妻妾に持つ事も珍しくはないし、男の主人の家で働くメイドが全員妾だったという極端な実例もある。ジャックの可愛がりようなど、それこそ序の口への河童だ。

 だが、言った。死を愛し、死に愛を彩るのだと。そしてその口でミルヤムに対し、死んですらいないと曰った。つまり、ミルヤムを愛する心など欠片も持っていないという事だ。

 なのに、愛してもいない女にここまでの情けを掛けてくれる、その心理がどうしても理解できなかった。

 「…………あの、ご主人様……」

 「ん? なーに?」

 「……いえ、何でも」

 「フフフ、変なミルヤム。さて、そろそろ着くね。すっかり暗くなっちゃった。この辺は民家の明かりも届きにくいから、足元には注意したほうが良いよ」

 少しして馬車は屋敷の正門前に止まる。静まった街角に馬の鼻息と蹄が土を引っ掻く音だけが聞こえていた。この辺は死神の住処を嫌って夜になると本当に無人になる。人っ子ひとり、子猫一匹通らない暗く寂れた暗闇の空間、それが夜のジャック邸だ。

 だが今日は特に静かだ。風も吹いていないし、食事を作っていて忙しいのか、いつも出迎えに来る老執事の姿も見えない。

 この時、気付いておくべきだったのだ……。

 あの、自分を孫のように可愛がってくれている執事が、自分を出迎えに門まで足を運んでいないその意味に。



 刹那、衝撃がジャックの後頭部を襲った。



 視界に星が瞬き、体から上下の感覚が失われて地面に倒れ伏した。辛うじて機能する耳が拾う音が、屋敷に賊が侵入した事を教えてくれた。それも一人や二人ではない、かなりの人数が闇に紛れて屋敷を土足で踏み荒らしていた。

 「金目の物は全部いただいて行けぇ!! 腐っても貴族サマの家だ、遠慮はいらねぇッ!!」

 勇ましい声に扇動されたならず者達がジャックの財産を、歴代の首切り役人が屍山血河を築いて得た財を奪っていく。金も、高価な食器も、壁を彩る絵画も、何もかもが「名前の知らない」者に奪い尽くされていく。

 ものの五分と掛からず盗り物を終えた連中が再び闇に乗じて姿を消していく。人気が無いとは言え周囲には民家がある。盗れるだけ盗ってバレる前にずらかる。手馴れた犯行だ、ここに来るまでに数件は同じことをやっている。

 そんな冷静な分析とは裏腹に、血を失いつつあるジャックの意識は少しずつ周囲と同じ闇に飲まれようとしていた。このままではいずれ……という瀬戸際、倒れるジャックの周囲に数人の気配が立ち見下ろす。殿を務める賊の仲間だ。

 「コイツ、どうするよ? 剥く? ひん剥く? あの老いぼれと同じにひん剥いちゃう?」

 「首切り役人の首を持って帰りゃあ、ウチらの名前にも箔ってもんが付くぜ。持ってこうぜ、おい!」

 「テメェら馬鹿か。こいつは腐っても貴族っつったろ! そんな奴の首を持って帰りゃ一生官憲どもにケツの穴追い回されんぞ。無駄口叩くヒマがあるんだったらさっさとずらかれ! オカシラに膾にされてぇか!」

 どうやら自分を殺すかどうかで一瞬揉めそうになったが、リーダーの言葉に押されて彼らも屋敷から姿を消した。後に残ったのは正門からほど近い場所で倒れたまま荒い呼吸をするジャックのみ。打たれた後頭部から流れ出る温かな血とは逆に、体はどんどん冷え固まっていく。このまま放置されればいずれは……。

 「……ミル……ヤ、ム……」

 最後にその名を呟いて、ジャックの意識は闇に落ちた。
15/12/14 08:36更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 モデルは「シャルル・アンリ・サンソン」と、「ジャック・ケッチ」。それぞれフランスとイギリスの処刑人。
 冒頭でジャックが口ずさんでいた歌も首切りに関連した歌。

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