連載小説
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リリムと白い孤島 〜優しく閉幕を〜
まるで真珠色の巨大な宝石のようだった。
イースにしっかりと抱かれているそれは、触れると艶やかで温かい。
あの後すぐに戻ったのだが、町の人々が一目見ようとイース夫妻がいる病院へと押しかけ、とても二人に会えるどころではなかった。
そのせいで、夜も遅い時間にようやく対面となった。
「ふふっ、鼓動を感じるわね」
卵の表面へ触れると、とくんとくんと脈打っているのがわかる。
この中で眠る子がやがて殻を突き破ってくるのだと思うと、つい微笑んでしまう。
「本当にありがとうございます。無事にこの子を産めたのも、あなた方のおかげです」
「私からもお礼を言わせていただきます。おかげで助かりました」
何度目かわからないくらい、イースとウォルターが揃って頭を下げる。
「お礼ならルカに言ってね。もっとも、本人は辟易してるだろうけど」
視線をルカへと向けると、彼女はどんよりとした顔でぐったりとソファにもたれていた。
「そういうこと……。うー、食べすぎた……」
苦しそうに呻いている理由は、イースの子が誕生した記念ということで、即席で開催されたお祭りにある。
それは同じ島に教団がいるのにも関わらず盛り上がり、飲めや歌やの大騒ぎ。
挙句の果てには、イースを見習って子を作れとあちこちで腰を振り始める夫婦や恋人が続出したくらいだ。
イースを病院へとつれてきたということで、ルカはそんなお祭り騒ぎに駆り出され、日が暮れるまで飲み食いに付き合わされていた。
私が戻った時には既にお祭りが始まっており、私も翼を消してのローブ姿で途中参加。
ルカと合流しようかとも思ったが、一緒にいると色々と大変そうだったので、少し離れた位置からその様子を見て楽しむことにした。
そして今に至るというわけだ。
「でも、楽しかったでしょ?まんざらでもなさそうだったみたいだし」
「あんた、祭りの時どこにいたのよ?アタシがどれだけ大変だったと思ってるわけ?」
「瞬時に人気者でしたよね、ルカ様。あんな娘を作るぞと励んでおられた方もいたくらいですし」
くすくすと笑って告げたイースの言葉に、ルカはなんとも言えない表情になる。
「あ、あれは酔った勢いでふざけて言ってただけよ!絶対そう!」
認めないとばかりにルカはそう主張するが、絶対に違うと思う。
顔を赤くしてあたふたしてる今のルカの様子を見れば、誰もがそう思うはずだ。
「まあ、ことの真意は置いておくとして、私達はそろそろ戻るわ。こんな時間に居座っても悪いし」
そんなわけで、部屋の出口へと向かう。
「ミリア様。私も無事にこの子を産めたことですし、明日からは私も本格的に協力致します」
「いいえ、その必要はないわ。あなたは明日から子育てに専念するべきね。もしくは」
顔をウォルターへと向ける。
そこで、意地悪な笑みを浮かべ、言ってあげた。
「二人目でも作ってて。ルカもいるし、そう時間はかからずに終わると思うから」
そう言った瞬間、イース夫妻は揃って頬を赤らめ、互いにそっぽを向く。
似た者夫婦の典型的な例だ。
それは見ていて微笑ましい。
ルカが結婚した場合もこんな感じになりそうだ。
それを想像しつつ本人を見ると、ルカは「?」と小首をかしげた。
「さてと。夜も遅いし、私達はそろそろ帰るとするわ。ルカ、行きましょう」
扉へと手をかけた時だ。
そっと静かな声で呼び止められた。
振り向けば、穏やかな顔のイース。
子を産んで母親になったからか、その表情には以前よりも慈愛の色がいっそう色濃くなった気がする。
「よい夢を」
祈りにも似たその言葉に小さく手を振って返事をし、彼女達の家を後にする。
そのまま宿に戻り、後は寝るだけだった時だ。
「ミリア、これ」
テーブルの向かいに座ったルカがそっと一枚の紙を差し出してきた。
「これは?」
「あのバカが頼んでもいないのに調べた情報よ。イースには見せる必要性がなかったけど、あんたは見たほうがいいわ」
素直にそれを受け取り、綴られた文章に目を通す。
そこに書かれていたのは、エアリスに関する情報だった。
情報屋の彼が気を利かせてくれたらしい。
教団が綴ったエアリスに関する情報だが、不可解なことに要注意人物とされていた。
勇者なのに、なぜ要注意人物なのだろう。
そんな疑問が浮かぶが、その答えは書面に書いてあった。
姉の元へ寝返る可能性有り。要警戒。詳細は備考にて。
今度は別の疑問が出てきた。
寝返る?
怪訝に思い、備考欄のメモを見て納得した。
姉、エレナはレスカティエにて行方不明。恐らく魔物になったものと思われる。同時に、教団内における彼女の情報は抹消済み。
エアリスの勇者としての行動に不審な点があった場合、速やかに拘束すること。教団を裏切る可能性有り。
そんな一文を読み終わり、思わず頷いていた。
「だからあなたは憎悪の目で私を見ていたのね……」
昨日私へと向けられていた彼女の目には憎しみと哀しみ、両方があった。
それが不思議で、彼女へ問いかけようと思ったのだ。
なぜ、そんな目で私を見るのか、と。
その理由が今になってわかった。
「あんたの仕事、思い通りにするには少し骨が折れるかもね。レスカティエの件にあんたは関係なくても、あんたの姉妹の仕業には違いないし。同じリリムってことで恨まれてる可能性は十分にあるでしょ?エアリスを降伏させるの、けっこう面倒そうよ」
「いいえ、そうでもないわ。降伏させずとも、勇者としての心が折れればいいもの」
不屈の意思で任務を遂行するイメージだったが、こんな綻びがあるとは嬉しい誤算だ。
姉が魔物で、妹が勇者。
対極の存在だが、そこには決して切れない家族の絆があるはず。
それを利用させてもらおう。
エアリスが折れれば、向こうは瓦解する。
「そんなことできるの?」
「ええ。この情報、値千金といったところね。彼には私から情報代を払おうかしら」
「向こうが勝手に調べたことなんだし、そんな必要ないわよ」
そんな気遣いは無駄と言わんばかりに、手をひらひらさせるルカ。
だが、何事にも対価は必要だ。
「私も勝手に調べた情報を対価とするから問題はないわ。私から見たルカの裸をじっくり語って聞かせてあげれば、彼も喜ぶと思うし」
そう言った瞬間、ルカは椅子を思いっきり倒して立ち上がっていた。
「ちょっと!そんなのアタシは認めないわよ!!」
「じゃあ、一つお願いを聞いてもらえる?」
「なっ……」
ここまでが罠。
意地悪な笑みを向けると、ルカはそれを察したらしい。
ものすごく嫌そうな顔で身を引いた。
「アタシに、なにをさせるつもりよ?」
「簡単なことよ。それはね―」
同じ笑顔でも、どう浮かべるかによって相手に与える印象が変わる。
先程までとは違い、今度は優しい笑みとともにその内容を語ったのだった。


お腹空いたね、エアリス。
待っててね、今食べ物を探してくるから。
そう言って、姉のエレナはいつもどこかへ出かけていった。
村を追い出された時に渡されたいくばくかのお金などすぐになくなってしまったので、姉が食べ物を探してくるということは、料理店の残飯を漁るか、誰かに恵んでもらうかだ。
まるで野良猫のような生活だった。
それでも、姉はいつもエアリスに優先的に食べさせてくれた。
自分も成長期なのに。より多くの栄養を必要としているのはエレナの方なのに。
そんな苦労ばかりかけさせていた自分が情けなくて、今までの分も幸せになってもらいたくて、だから―。
「ん……」
目が覚めると、船の天井が目に入った。
視線をベッド脇に移せば、そこに置かれた小さな時計は起床時刻の五分前を示している。
むくりと体を起こし、ぼんやりする頭で室内を見回してしまったのは多分姉の姿を探すため。
その無意味な行動で一瞬のうちに意識が覚醒し、思わずため息だ。
「なんで今更……」
そう呟きつつも、その理由は分かっている。
昨夜のウィルとの会話のせい。
そのせいで、見ないようにと封じ込めて蓋をしていた箱が開いてしまった。
姉の夢を見たのは、きっとそのせい。
そんな夢を頭から追い払うように頬を叩き、素早く身支度を整えて部屋を出る。
向かった先は食堂で、そこでは朝から兵士達が少量の朝食を食べながら談笑していた。
任務中での食事は数少ない娯楽だ。
それを共有する仲間がいれば、例え量が少なくとも人を笑顔にする。
微笑ましい光景に笑顔を浮かべつつ、エアリスも配給を受け取り、空いている席を探す。
そしてすぐに、隅の席で黙々と朝食を食べているウィルを見つけた。
すれ違う度に挨拶をしてくれる兵士達におはようございますと返事を返しつつ、ウィルのところまで歩いていく。
「おはようございます。ここ、空いていますか?」
「おはようございます、エアリス様。こんなつまらない男と同席でよければ、どうぞお座り下さい」
にっこりと笑顔を浮かべて、ウィルはそう言った。
そこに昨夜の様子は一切なく、いつもの参謀らしい態度。
「あなたは朝から元気ですね」
「いえいえ、見張りの仕事上がりで疲れていますよ。だからこんな隅っこで、一人寂しく質素な朝食を食べているんです」
見張りの疲れなど全く感じさせない態度と口調で、ウィルは軽口を叩く。
だから、エアリスは遠慮なく真面目な話を切り出した。
「朝食、まだ出せるんですね」
「ええ。もっとも、後りは二日分とのことですが」
様子を一変させ、ウィルは冷静な顔でそう告げる。
つまり、三日目からは朝食なしというわけだ。
「糧食がなくなるのはいつですか?」
「五日以内です」
長期戦を見越して多めに備蓄を積んできたわけではないのだから、当然の数字かもしれない。
「つまり、それが残された時間というわけですね?」
「ええ。一応、援軍も食糧は積んでくるでしょうが、それに期待するくらいなら早めに決着をつけるべきかと」
「それができれば苦労しませんよ。あのリリムが黙って見ているわけが―」
エアリスがそう言いかけた時だ。
食堂の扉が荒っぽく開かれ、息を切らした兵士が飛びこんできた。
「エアリス様はいますかっ!?」
肩で大きく息をする兵士が食堂内を見回すなか、エアリスはそっと席を立つ。
「ここにいます。どうしました?」
「リリムが攻めてきました!エアリス様を出せと!」
その報告に食堂内が色めき立つなか、エアリスは静かに告げた。
「わかりました。私はすぐに向かいますので、皆さんはウィルの指示に従って下さい」
「全員、配置につけ!」
即座にウィルが指示を出し、その場にいた兵士達が慌ただしく持ち場に移動し始めるなか、エアリスはウィルへと苦笑を向けた。
「ほら」と。
「やれやれ。朝食くらいはゆっくり食べさせてもらいたいところです」
その意見はこれ以上ないくらいに賛成だ。
「まったくですね」
互いに苦笑したのはその一瞬だけで、即座に笑みを消すと行動に移す。
足早に食堂を出ると、ウィルと並んで外へと通じる甲板に向かう。
エアリス達が到着すると、そこは既に人だかりができていた。
その場にいる全員が緊張感溢れる顔で凝視する先には、澄ました顔で微笑を浮かべるミリアの姿。
エアリスとウィルが来たことに気づくと兵は揃って道を譲り、エアリスが姿を見せるとそれに気づいたミリアは笑みを少しだけ強くした。
「おはよう、エアリス。気持ちのいい朝ね」
「私は最悪の気分ですよ。朝からあなたの顔を見るなんてね」
姉の夢を見てから大して時間も空けずにリリムを見るなど、厄日なんじゃないかと思う。
その苛立ちをぶつけるように冷たい目で甲板から見下ろすが、ミリアは笑って流した。
「あら、そうなの?じゃあ、気分転換に少し二人で歩かない?私に、あなたの気分を良くするチャンスを」
エアリスを見上げる赤い瞳には媚も悪意もない。
人ではあり得ない美貌を以て作られた笑顔は、エアリスの心を簡単に揺さぶってくる。
それに対してエアリスは自分でも意外なほどあっさり承諾していた。
「いいでしょう」
「エアリス様?」
それを不審に思ったのか、ウィルが懐疑的な目を向けてくるが、そちらを見ないままエアリスは船を降りる。
「そういうわけなので、少し出てきます。私が行けば、ここは安全でしょうから」
「それは……」
ウィルが言いかけたのは、もしかしたら制止の言葉だったかもしれない。
しかし、それを聞く前にエアリスはさっさと船を降りてミリアの近くまで移動する。
エアリスの行動にウィルでさえ戸惑っていたというのに、ミリアは気にした様子もなく笑顔のまま。
敵対する相手が意外な動きを見せても、この程度では動じないらしい。
「じゃあ、静かな場所に移動しましょう」
言葉と同時に魔法陣が展開された。
「転移魔法か……!」
ウィルの声が聞こえたが、それも転移魔法が本格的に発動するまでだった。
魔法陣が光を放ち終えた時、エアリスは見知らぬ雪原にいた。
「ここは……」
「あなた達の船からそう遠くない位置にある雪原よ。さあ、歩きましょ」
船から遠ざけるという目的でここまでは大人しくついて来たが、これ以上はつき合う必要もない。
歩き出すミリアに従わず、エアリスは言った。
「仲間が待ち伏せしているところに向かうつもりですか?」
「そう思うなら、このままここでおしゃべりでもする?私はそれでも構わないけど、どうせなら歩きながらの方がいいと思わない?」
いずれ戦うのなら体は少しでも動かしておいた方がいい。
そう考えたエアリスはミリアの提案に「いいでしょう」と了承の返事をする。
エアリスの返事を受けてミリアはそっと歩き出した。
「ところでエアリス、朝食はもう食べた?」
いきなり向けられた問いはあまりにも他愛ないもの。
これに答えても深い意味はないはず。
「いいえ。あなたのせいで食べ損ねました」
少しばかりの棘を含ませた返事はミリアのお気に召したらしい。
振り向いた顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
「それは悪いことをしたわね。じゃあ、お詫びにこれ」
何気ない動作でなにかを投げてきて、エアリスは反射的にそれを受け取る。
投げてきたのは拳大の桃だった。
「なんの真似ですか?」
「実は私もまだ朝食を食べていないの。せっかくだから一緒に食べましょ。昨日、この島のある町でお祭りがあってね。皮ごと食べられるくらいにおいしかったから、いくつか買ったの。それをお裾分け」
そう言うミリアの手にはもう一つ桃が。
「リリムから渡された食べ物を素直に口に入れるとでも?」
「まあ、疑うのは当然ね。でも、本当にただの桃よ。信じてくれなくても構わないけどね。だから無理に食べろとは言わないわ。でも、食べてあげればその桃は報われる」
楽しそうにそう語り、ミリアは手にした桃をそっと小さく齧った。
それを眺めるエアリスの表情が苦いものになる。
魔女から渡された毒りんごを食べた白雪姫はどうなった?
それを考えれば、リリムから渡された食べ物などすぐに投げ捨てるべきだ。
しかし、満足に物を食べられなかった過去を持つエアリスに、食べ物を粗末にすることはできなかった。
責めて受け取っていなければ拒否することもできたが、こうして手にしてしまっては捨てるというわけにもいかない。
エアリスがどうするか行動に移せずにいると、ミリアから苦笑混じりの声が届いた。
「悩むくらいなら、いっそのこと捨ててしまったら?」
「あなたと違って、物を大事にするんです」
「なら、騙されたと思って食べてみたら?」
「安易な罠に引っかかって後悔したくありませんから」
このやり取りはなんなのだろう。
自分でそう思ってしまう。
「じゃあ、好きにするといいわ。あなたにあげた物だしね」
実を食べ終わり、すっかり種だけになった桃をミリアは投げ捨てた。
それを見計らって、エアリスは問いかける。
「私を連れ出して、一体なにを企んでいるんですか?」
その問いとともにエアリスの雰囲気が変わったことに、ミリアも気づいたのだろう。ウィル以上になにを考えているのかわからない笑顔になった。
そしてそれは言葉にも表れた。
「今まで生きてきて、一度でもこう思ったことはない?ずっと幸せなままでいたいと」
そう言ったミリアは、その問いの答えを知っている顔だった。
ずっと幸せでいたい。
人なら、誰もが思うことだ。
だからエアリスは答えなかった。
叶わないからこそ、そう思うのだから。
「あなたの言ったように、確かに企んでいること自体は否定しないわ。でも、それはあなたにとっても悪い話じゃない」
これ以上は聞いてはいけない。
本能が警鐘を鳴らし、エアリスはここから先の全ての会話を聞き流そうと、考えることを止める。
「私が望むのは、誰もが幸せで終わること。私達も、あなた達教団もね。もちろん、あなたも例外じゃない」
役者のように流暢に語るミリアは微笑んで続ける。
「どう?エアリス。勇者として一生を終えるのではなく、ささやかで幸福な日々を過ごしたくはない?望むのなら、私が用意するわ。あなたの行く先に、ずっと幸せでいられる物語を置いてあげる」
「その代償に、あなたはなにを要求するつもりですか?」
悪魔との取引はいつだって代償を伴う。
永遠の幸せが報酬だというなら、その代償に請求されるのはさぞろくでもないことだろう。
このリリムは、一体なにを要求するのか―。
「侵略者じみた行為をやめて、この島の住人になってほしい。私のお願いはそれだけよ」
馬鹿馬鹿しいお願いだ。
それをエアリスが承諾すると思っているのだろうか。
「言いたいことはそれだけですか?」
「ええ。だから答えを聞かせてもらおうかしら」
そんなもの、最初から決まっている。
「答えはこれです」
手に持っていた桃を軽く上空へと放り投げると、落下してきたそれを剣で真っ二つに斬って捨てる。
それを見てもミリアの表情は変わらない。
変わらない代わりに、ため息を吐いた。
「やっぱりそうなるのね。残念だわ……」
「魔物は全て倒します。それは、あなたも同じ」
話は終わり、後は戦うだけ。
言ったと同時にエアリスは走り、斬りかかる。
それを取り出した剣で受け止め、ミリアはどこかやる気のない顔で弾いた。
「倒してどうするの?お金?地位?そんなものが欲しいの?」
「なにも望みませんよ。ただ、倒すだけです」
「悲しいわねエアリス。あなたなら、私は倒せないとわかっているはず。仮に倒せたとしても、私の姉妹は何人もいる。私は母様を支える一柱にすぎない。あなた一人が頑張ったところでなにも変わらないわ」
「変わりますよっ!あなた達リリムのように、ろくでもない変化しか与えないわけじゃない!」
叫んだと同時に払った剣をミリアは滑るように避け、距離を取った。
「偏見ね。いいわ、あなたがそう思うなら、そう演じてあげる」
そう言い、するりと左手でその顔を覆うように撫でるミリア。
その行為が終わった後にそこにあったのは、破滅的な魅力を伴った薄い笑顔。
見る者全てを魅了し、思考を奪い去る魔性の笑顔だった。
思わずゾッとする。
やはりミリアも十分すぎる悪魔だ。
「さてと。ここからは容赦なくいくわ。虚言と奸計を以てあなた達を全滅させてあげる。あなたの言う、ろくでもないリリムの力でね」
ミリアは左手をそっと空へと向けた。
その手からまばゆい閃光が発せられ、エアリスは腕で顔をかばう。
だが、光は一瞬だけだったようですぐに視界は元に戻る。
なにをしたのか、疑問に思ったのはほんの僅か。
晴天だった空が曇っていた。
黒々とした雲は雷が鳴り、今にも雨が降ってきそうだ。
「天候まで……!」
「十分」
空を見上げるエアリスに時間が告げられた。
「えっ?」
「雨が降るまでの時間よ。わかりやすいように制限時間をつけてあげるわ。もちろん、ただの雨じゃない。リリムの魔力を含む雨よ。それは魔物であれば性欲を掻き立て、人であれば体を蝕む。男はインキュバスへ、女は魔物へ。皆、逃れられないわ」
「だったら……!!」
エアリスは剣を構え直し、ミリアを睨む。
「雨が降る前に倒す?できるかしら?」
嘲笑うように、ミリアの背後に四本の藍色の剣が浮かび上がった。
「リリムの魔力によって精製された剣よ。それだけ言えば、後はわかるわね?じゃあ、始めましょうか」
妖艶な笑みを浮かべ、ミリアが静から動へと移る。
エアリスへと詰め寄り、高速で剣が振られた。
なんとか対応こそできるが、それに集中しなければ瞬時に斬られてしまう。
「私ばかり見てていいの?剣はこれだけじゃないわよ?」
言われて気づいた。
ミリアの背後にあった魔力の剣がいつの間にか消えている。
そして不意に感じる悪寒。
この場にいてはいけないと本能的に悟ったエアリスは、咄嗟にその場を飛び退く。
その直後、エアリスのいた場所に魔力の剣が二本突き刺さった。
あのままその場に止まっていれば、間違いなくあの剣によって傷つけられたはず。
同時に、残りの二本の行方が気になった。
だが、それをわざわざ探さずとも、その二本は左右からエアリスに迫ってきていた。
「くっ!」
ぎりぎりでそれを避け、二本の剣は虚しく交差した後にミリアの背後に戻った。
「ふふ、惜しい」
口元に微笑を浮かべつつミリアが走り、それに合わせて四本の剣も再びエアリス目がけて動き出す。
ウィルには絶対に勝てないと言った。
この窮地を前に、今ほどそう思うことはない。
それでも戦意を喪失しなかったのは、ほとんど意地。
だからミリアではなく、その背後から飛んでくる魔力の剣に集中する。
リリムの魔力が凝縮している剣がかすりでもすれば、傷口から魔力が侵入してたちまち魔物化するだろう。
エアリスにとっては、死に至る猛毒で形成されているようなもの。
絶対に触れてはならない。
ミリアの剣を受け流し、続く魔力の剣に対応する。
二本を避け、一本を弾き、残すは一本。
「必死ね。でも、そちらにばかり気を取られ過ぎだわ」
視界の端で、ミリアがすっとこちらに左手を向ける。
なにかされる。
そう思った時には遅かった。
虚空から突如黒い鎖が伸びてきて、エアリスの左腕を拘束したのだ。
「なっ……!」
反射的に鎖を切断しようと剣を振り上げたところで、今度は右腕も拘束される。
それは強固な束縛力でエアリスの動きを封じ込めた。
「このっ……!」
なんとか鎖を引き千切れないかと身を捩ってみるが、効果はなかった。
「さて、これで少しは話を聞いてくれるかしら?」
魔力の剣を従え、ミリアは悠々とエアリスの前に立つ。
「個人的に触手は好きじゃないから鎖にしてるけど、望むなら変更は受け付けるわよ?」
「……このままで結構です」
うなだれるエアリスの体から戦意が消えていく。
この状況ならエアリスを好きにできるのは明白。
また負けたのだ。
その事実が、つい口を滑らせていた。
「どうしてあなたは、いつも最後の止めを刺さないのですか……」
「止め?」
エアリスの言葉に僅かに首をかしげるミリアだったが、すぐにエアリスが言わんとすることに気づいたのだろう。
どこか呆れるような笑みになった。
「人を見境なく魔物に変える他の姉妹と私を一緒にしないでくれる?人が十人いればそれぞれ性格が違うように、私達リリムも性格が違う。少なくとも私は勝手に魔物に変えたりはしないわ」
そう言い、エアリスの顔を上げるように、頬にその白い手で触れる。
「でも、相手が望むなら話は別よ。あなたが望むなら、喜んで魔物に変えるわ。その綺麗な顔を快楽で染め上げ、優しく導いてあげる。永久に幸せでいられるようにね」
囁かれる言葉は人を誘惑し、堕落へと導くもの。
それを紡ぐミリアは目を細め、リリムに相応しい表情でエアリスを見つめる。
真っ直ぐに見つめ合い、その雰囲気に圧倒されたエアリスは辛そうに顔を歪めた。
「誰が魔物になど……」
どれだけ抵抗しようと、雨が降ればそれで終わり。
そうでなくとも、ミリアが手を下せばそれだけでエアリスは簡単に魔物へと変えられる。
まな板の上の魚は、捌かれるのを待つだけなのだ。
それでもエアリスが抵抗を口にしたからか、ミリアは満足そうな様子でエアリスから一歩下がった。
「そうでないとね。でも、どうするの?あなたは拘束され、雨が降るまでそう時間はない。まさしく絶体絶命ね。こんな状況で、あなたはまだ主神を信じられるの?」
「主神様をけなすつもりですかっ!」
「いいえ。ただ単純な事実を告げたいだけ。自分が加護を授けた勇者が魔物の手に落ちようとしているのに、肝心の神はなにをしているのか、とね」
唐突に目の前からミリアの姿が消えた。
そう思ったのだが、実際は空へと飛び立ったかららしい。
その理由はエアリスのすぐ傍に突き刺さった魔法の炎の矢。
「エアリス様!」
続くウィルの声。
見れば、こちらに向かってくるウィルの姿。もちろん他の兵も一緒だ。
「あら、思ったより早かったわね」
空へと飛び上がったミリアはウィル達を見て楽しそうに笑う。
邪魔されたとは少しも感じていないらしい。
この空の下では、いくら援軍が来ても優位は揺らがないからだろう。
「来ちゃ駄目!雨が降ったら終わりです!ウィル、早く避難して下さい!」
「っ!」
空を見上げ、ウィルの顔も同じくらいに曇る。
「私はエアリス様をお助けする!他の者は全員リリムを狙え!」
合図とともに魔法攻撃が開始される。
その隙にウィルはエアリスへと駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「ご無事ですか、エアリス様?」
「ウィル、私はいいから早く逃げて下さい!ここにいたら、あなたも」
「魔物になる、ですか。そうなったら、今後の身の振り方を考えないといけませんね」
見捨てるという選択はないのか、ウィルは鎖を破壊しようと剣を抜く。
「そんなことしなくても、エアリスは解放するわ」
魔法攻撃の嵐にさらされながらも、まったく当たらずにミリアは二人を見ていた。
その指が鳴らされると、エアリスを拘束していた鎖が煙のように消えていく。
「これでわかったでしょ?あなたを助けにきたのは、主神ではなく王子様。それが現実よ。主神の望むままに勇者であり続けても、あなたはなにも得られない。主神も全能ではないのだから」
「いいえ、全能ですよっ!」
だからあの日、姉と自分を助けてくれた。
それは覆らない事実だ。
だが、そう叫ぶエアリスを、ミリアはどこか憐れむように上空から見下ろす。
「主神が全能だと言うのなら、なぜ苦しむあなたを助けようとしないの?」
その問いに反論はできなかった。
エアリスの脳裏に、姉の笑顔が浮かんでしまったから。
辛そうに顔を歪めるエアリスを心配するようにウィルが支えるなか、ミリアはもう一度指を鳴らす。
それによって、今にも降り出しそうだった曇り空が一瞬で晴れ渡った。
急に明るくなったからか、兵達も攻撃を止めて何事かと空を見上げる。
「空が……」
「幻術よ。言ったでしょ、勝手に魔物に変えたりはしないと。ちょっとしたお遊び」
悪戯が成功した少女のように笑うミリアだったが、ふとどこか困ったようで優しげな笑みへとその表情が変わる。
「生まれた時から人は平等じゃない。でも、幸せを求める権利は平等よ。その幸せを誰が与えてくれるかは人それぞれだけど、少なくとも主神ではない。だから、あなたには私が与えてあげる」
そう言って見せた笑顔は、不覚にも見惚れてしまうくらいに美しいものだった。
「明日、私の誠意を見せるわ。その時、改めて答えを聞かせて」
その体を黒翼が完全に覆うと、無数の黒い羽となって消えていく。
「立てますか?」
「なんとか……」
ウィルに支えられながら、なんとかそれだけを返す。
エアリスのそんな様子を見てウィルは指示を飛ばした。
「全員、船に撤収しろ」
「ウィル、私なら大丈夫です」
「いいえ、大丈夫ではありません。隠しているつもりでしょうが、立っているのがやっとでしょう」
本当に目ざとい参謀だ。
ミリアとの戦いで、体も神経も酷使した。
それを見抜かれ、エアリスの口から諦めたようにため息が出た。
「遊ばれただけでした」
戦いの内容を正直に白状すると、ウィルはなにも言わずにエアリスの腕を自分の肩に回す。
「ここは冷えます。船に戻って温かい飲み物でも飲みましょう」
それを戦いの勝利の後に聞けたらどれだけよかっただろうか。
エアリスはそんなことを思いながら、ウィルに支えられて船へと戻ったのだった。


「どう、その後の動きは?」
温泉から戻ると、地図に目を落としていたルカとイースが揃ってこちらを見た。
「さっぱり。あんたが朝からいじめたのが効いてるんじゃない?」
軽い皮肉には肩をすくめて返事とし、ルカの隣りへと座る。
そこへすかさず飲み物を運んでくるウォルター。
すっかり主夫の動きだ。
礼を言って目の前に置かれた紅茶を口に含むと、ハーブの香りが口内に広がった。
イース夫妻は紅茶がお気に入りで、日に日に違う紅茶を楽しむらしく、今日はハーブティーらしい。
「さて、向こうも動かないみたいだし、アタシは少し出てくるわ」
「おや、ルカ様はどちらに?もうすぐ夫のお菓子が焼き上がるはずですが」
卵をしっかりと抱きしめつつ、傍に立つウォルターへと視線を向ける。
「ん、ちょっとレスカティエにね。あ、そうだ。トリーサ大陸から船でこの島までどれくらい?」
「そうですね、約四日だったかと」
ウォルターがそう答えると、ルカは再び地図に視線を落とす。
しかし、すぐに顔を上げるとそのまま立ち上がった。
「あの、それがどうかしましたか?」
ルカがなにも言わないからか、イースが夫の代わりに首をかしげる。
「ちょっと面倒事を考えただけ。じゃ、アタシは行くわ」
「ルカ」
歩きかけたルカを呼び止めると、ぴたりと止まってこちらを見た。
「お手柔らかにね」
ルカがなにを思ったかは大体わかる。
だからそう言った。
ルカも私がそう言った意味を理解したらしく、軽く肩をすくめてみせる。
「ついでに懸念を潰してくるだけよ」
やはり間違っていなかった。
私とイース、ウォルターの三人が見送るなか、そう言い残してルカは部屋から出て行った。
「あの、ミリア様。懸念を潰してくるとは?」
「盤面にこれ以上の駒はいらない、ということでしょうね」
そんな言い回しでも、やはりわかる人はわかるらしい。
「それは……お一人で大丈夫なのですか?」
「あの子もまた盤面を支配し得る存在だから、問題ないと思うわ」
ルカの力を考えれば、まったく難しいことではない。
だから、その力を向けられた相手には同情ものだ。
お手柔らかにね。
内心で再びそう呟きつつ、紅茶を口へと運んだ。


船は数分前とはまるで違う光景となっていた。
ほんの少し前まで、快適な船旅だった。
だからこそ今から向かう雪島について語っている者もいれば、初めて見ることになる勇者エアリスに想いを馳せる者もいた。
だが、今の船には呻き声しか聞こえない。
その原因は、一匹のサキュバスが静かに船首へと降り立ったことから始まった。
誰もがぽかんとした。
教団の船に乗り込んでくる魔物がいるとは思わなかったのだ。
しかも、まだ少女。
大人のサキュバスならまだしも、未成熟のサキュバスであればそこまで脅威ではない。
加えて、この船には対リリム用に魅了に対する薬や道具がこれでもかと積まれている。
数的優位に物的優位。
だが、それがまずかった。
圧倒的優位から生まれる余裕は慢心となり、油断となっていた。
それに気づいた時には遅かった。
そのサキュバスの少女は、魅了ではなく武力を以て船を制圧しにかかったのだ。
その右手が払われると雷を伴った暴風が吹き荒び、ある者は海に投げ出され、ある者は体に雷を走らされて戦闘不能となった。
少女が軽く手を振る度に、兵が次々に海に放られ、甲板に倒れていく光景はまさに悪夢だった。
彼らを統率する立場にある隊長はかろうじて風を避けていたが、どう対抗していいかもわからない。
気がつけば、船で立っているのはサキュバスを除けば隊長一人。
信じられない事態だった。
「リリムに対抗するための援軍だからどんなものかと思えば、手応えなし。なに?教団の精鋭ってこんなものなの?」
侮蔑するような声音で、少女は傲岸不遜にそう呟く。
「貴様っ!!」
こんな少女に馬鹿にされるために、自分は教団へと入ったわけではない。
部下達の仇を討たんと、隊長は剣を構えて突撃する。
「勝てると思ってんの?おめでたい勘違いね」
冷めた目で隊長を見つめるその少女はそっと右手を突き出す。
直後、走り寄っていた隊長の体が吹き飛んで船のマストへと叩きつけられた。
「ぐぅっ!」
背中を強打して隊長は苦痛に顔を歪めるが、それでも立ち上がろうと足に力を込める。
だが、すぐにその場に膝をついてしまった。
隊長の目の前に立ち、つまらなそうに少女は彼を見下ろす。
「くっ……。私を食うつもりか……」
「は?アタシがあんたを食う?あんたどこまでバカなの?」
サキュバスとは思えないくらいに冷めた目で隊長を見下ろしていた少女だが、ふとなにかに気づいたらしい。
その顔がバカにしたものから蔑むものになった。
「ああ、あんたなにも知らないんだ。アタシ達は人を食らう化け物。そう刷り込まれて、考えることを放棄したつまらないヤツってわけね」
刷り込まれる?
隊長にはなにを言っているのかわからないが、このサキュバスがこちらをバカにしているのはわかった。
「魔物風情が……なに訳のわからないことを」
「生憎だけど、バカに一から説明してあげるほどアタシは暇じゃないわ。幸い、この辺りには海の魔物がたくさんいるから、自分の目で真実を確かめてみるのね」
そう言うなり、少女は羽ばたき飛翔する。
そして船の遥か上空で隊長を見下ろすと、その右手を空へと掲げる。
そこに魔力が集中し、あまりにも巨大な氷の剣が形成された。
少女は躊躇うことなく掲げた右手を振り下ろす。
それに合わせて、剣が船目がけて落下する。
「神よ……」
隊長が為す術なく見つめるなか、それはまるでギロチンの如く船を真っ二つに切断した。
不快な音を立て、船が傾いていく。
甲板に倒れた兵が次々に海へと落ちていくなか、隊長も同じように海へと落ちた。
満足に体が動かせないせいで泳げず、冷たい海の底へと沈んでいく。
その過程で隊長は見た。
同じように海へと投げ出された部下達に群がる魔物達の姿を。
そのどれもが大事そうに部下を抱えて、海の底へと潜っていく。
そして隊長にも、一人の人魚が真っ直ぐ近づいてくるのが見えた。
もう、どうにでもなれ、だ……。
胸の中でそう呟き、隊長は意識を手放した―。


慌ただしい足音が聞こえ、ノックもそこそこに会議室へと入ってきた兵士は深刻な面持ちで席に着いている者全員に告げた。
「ほ、報告します!向かっている増援からの定時連絡が途切れたとのことです!」
静かだった部屋にざわめきが広がるが、ウィルだけは少しも慌てずにそちらを見た。
「そうか。わかった、下がっていい」
大したことでもない報告を聞いたかのように、至って普通に兵を下がらせると席に着いている者達を見回す。
「聞いた通りだ。恐らくは襲撃されたのだろう。我々の待つ救いの船はもう来ない」
ただ淡々と語られる事実がその場にいる者の頭に浸み込んでいく。
それはやがて苦いものとなって顔に現れた。
「我々が取るべき選択は一つ。玉砕覚悟で有終の美を飾る。それだけだと思う。他に意見がある者は?」
沈黙。
つまり、異論はないのだろう。
「では、明朝ドラゴン討伐へと乗り出す。今日はもう休め。解散」
会議はそう締めくくられた。
誰もいなくなった会議室で、エアリスは書面に向かっているウィルを眺めた。
「有終の美とは、見事な言い回しですね」
「参謀ですから。しかし、それも明日で終わりとなりそうです」
ウィルも勝てるとは思ってないらしい。
明日は負け戦なのだと。
「わかってたんですか?援軍は期待できないと」
「ええ。リリムが敵にいる。なら、それに対抗すべく援軍を呼ぶのは自然な流れです。向こうも馬鹿ではない。それがわかれば、いくらでも手を打てる。私がそうしなかったのは、だからです。呼んだところで、それは絶対に来ないとわかっていましたから」
呼ばなければ無理なのに、呼んだとしても無駄。
ウィルの立場で考えると、頭を抱えたくなる。
「それに、仮に来たところであのリリムの前では無力でしょう。向こうは国を陥落させるほどの力を持つ魔物。言ってしまえば、国を相手にするようなものです。百や二百の軍勢では無いに等しい」
書面から顔を上げたウィルがエアリスを見据える。
「だからお尋ねしたい。エアリス様、あなたはどんな結末を望むのですか?」
望んだところで、その結末へと辿り着くかはわからない。
状況を考えれば、それは叶わない可能性のほうが高いだろう。
それでも、願わなければ叶わないのではないだろうか。
祈るように、エアリスは呟いた。
「最後まで抵抗する結末を」
いつまでも、幸せでいられる結末を―。
ウィルが笑った。
「ご一緒します」
予想できた言葉だ。
だからかもしれない。
笑顔でこう言うことができた。
「ありがとう…ウィル…」


「おかえり」
ルカが宿に戻ったのは陽が沈みかけた頃だった。
「あんたがここにいるってことは、今日の活動は終わり?」
「ええ。夫婦の邪魔はしたくないしね」
ルカはそれで納得したらしく、私の向かいのソファに腰掛ける。
「それで、お願いしたことはどうだった?」
「問題なしね。来る者拒まず、去る者追わずだってさ」
それを聞いて一安心だ。
もし駄目だったら、無理矢理連れてくるところだったから。
「彼女の様子は?」
「元は大人しい性格なんだろうけど、今は絵に描いた魔物だったわ。リリムってすごいわね。こんな魔力の宝石一つで、持ち主の思考に影響を与えられるんだから」
指で小さな丸を作って見せるルカは、感心しているのか呆れているのかわからない。
「それはまあ、リリムだしね。でも、そうなると、最後の仕上げが必要ね……。で、懸念の方は?」
「当たってた。だから、船を真っ二つにして沈めといたわ」
聞き間違えたかと思った。
「……私、お手柔らかにって言ったわよね?」
「だから手加減したんじゃない。本当なら雷魔法で木端微塵にしてやろうかと思ったのよ?」
どうやらルカのお手柔らかの基準は私とかなり異なっているらしい。
それを言ってもルカがしおらしく聞き入れるはずがないので、この際よしとしよう。
「ご苦労さま。じゃあ、私達も明日に備えましょうか」
明日でこの島を舞台にした物語も終わり。
ならば、閉幕は気持ちのいいものにしないといけない。
「備えるもなにも、ご飯食べて寝るだけでしょ。あんたが綴ったシナリオに狂いはないんだし」
「今のところはね。だからこそ、最後まで綺麗に終わりたいじゃない。そういうわけだから」
そう言いつつ取り出したのは、一本のボトル。
昨日の祭りで買ったもので、あのおいしかった桃を使ったリキュールだ。
「良い終わりになるよう、願かけをしましょ。料理もお酒に合うものを頼んでおいたから、じきにくると思うわ」
「用意周到ね。アタシ、お酒は好き嫌い多いわよ?」
これまで何度も一緒に食事をしたのだから、それはもちろん知っている。
だが、これは実際に試飲してみてから買ったものだ。
「その点は私を信用してくれていいわ」
栓を抜いて用意しておいたグラスに注ぐと、それをルカに差し出す。
「じゃあ、明日が良き終わりになりますよう」
乾杯、小さくそう言ってグラスをぶつけ合った。


空は晴れ渡り、清々しい朝だった。
出陣として、これ以上ないくらいにいい日だ。
「準備は?」
「はっ、全員整っています。指示があれば、いつでも」
報告に頷き、ウィルはエアリスを見る。
もちろん、エアリスも準備はできている。
「これより、ドラゴン討伐に乗り出す。神の使徒たる我らの力、見せつけてやれ!」
咆哮のような声が上がり、出陣に相応しい昂揚した空気となる。
それこそ、勝てるのではないかと勘違いしそうになるくらいに。
ウィルの激励が終わると、エアリス達は移動を開始する。
静かな雪原を進む行軍は、無関係の人が見れば簡単には止まりそうには見えないだろう。
だが、彼らの歩みはすぐに止まった。
止まらざるを得ない事態が起こったのだ。
「どこへ?」
その声は辺りが静かなおかげでよく聞こえた。
そうでなくても、人を簡単に魅了できるだけの力を持っているのだから、よく聞こえるのは当然かもしれない。
「あなたには関係ありませんよ」
教団側を代表するように、行く手に現れたミリアへエアリスはそう告げる。
「そう」
会話だけなら、そのまま終わりそうな雰囲気だ。
だが、お互いに見つめ合ったまま動こうとしなかった。
「急いでいるように見えるのは、期待していた当てが外れたからかしら?」
援軍が全滅したことを知っているかのような言い方だ。
「やはり、あなたの仕業でしたか。どこまでも邪魔をするのですね。しかし、今日はあなたに構っている時間はありません。立ちはだかるのなら排除します。隣りの少女も一緒に」
今日はミリアの隣りにサキュバスの少女がいた。
ミリアがわざわざ連れてきた以上、なにかしらの意味はあるのだろう。
どちらも油断なく見据えながら、エアリスは剣を抜く。
それに合わせてウィルが手で素早く指示を出し、後続の部隊が展開される。
「実はもう一人、この場に招待したい人がいるの」
ミリアがそう言うと、隣りの少女が手を払った。
その仕草ですぐ傍に魔法陣が描かれる。
昨日ミリアが見せたのと同様の転移魔法だ。
そして、すぐに一人のサキュバスが姿を見せた。
敵の新たな援軍かとウィル達が警戒するなか、エアリスだけが目を見開いていた。
なぜなら、そのサキュバスは―。
「ふふ、久しぶりね。エアリス」
頭には角、腰には翼と尻尾。
姿は完全なサキュバス。
だが、淫らな笑みを浮かべる顔は紛れもなく姉のエレナだった。
エアリスの表情が見る見る歪んでいき、ミリアを睨む。
「なんの、つもりですかっ……!!」
「姉妹の感動の再会の場を用意させてもらっただけよ」
ミリアは悪びれた様子もなく、微笑む。
「彼女も排除するの?魔物だから?たった一人の姉なのに?」
ミリアは全てを知っている。
頭ではそう思うも、エアリスの目は変わり果ててしまった姉から離せなかった。
「エアリス、また昔のように一緒に暮らしましょ。大丈夫、ミリア様に頼めばあなたも魔物にしてもらえるわ。あなたは今まで私のために頑張ってくれた。だから、そろそろ休むべきよ」
確かに姉のためにと勇者として教団に仕えた。
だが、それは姉に幸せになってもらいたかったからだ。
「……黙りなさい。あなたは私の姉じゃない。姉の姿をした、倒すべき魔物ですよ……!」
もう、幸せを願った姉はいない。
自分にそう言い聞かせ、エアリスは剣を構える。
「エアリス様、よろしいのですか?」
ウィルの確認するような声に、胸が痛む。
それを堪えるように歯を食いしばり、言った。
「……遠慮はいりません。あれも、倒すべき存在です。容赦しないで下さい」
エアリスの痛みを共有するかのようにウィルも苦々しい顔で目を閉じる。
「総員、戦闘用意」
「させないわよ」
そこに少女の声が混ざった。
「なっ……」
いつの間にか、ウィルの前にサキュバスの少女が立っていた。
「リリムと勇者の一騎打ちに横槍入れるなんて野暮な真似はさせないわ。あんた達は大人しく見てなさい。そうすれば、こっちからも手は出さないから」
「単身で向かってくるとはいい度胸ですね。この人数をあなた一人で止められるとでも?」
ウィルが鋭い目で見下ろすが、少女も負けないくらいに冷めた目で言葉を紡ぐ。
「それはこっちのセリフだわ。頭数揃えればどうにかなると思ってんなら、どこぞの船の連中と同じで、おめでたい勘違いね。なんなら、あんた達全員、海の真上に転移魔法で放り投げてあげよっか?」
「っ!そうか、船を襲撃したのはあなたか」
「そういうこと。それでもやるっていうなら、相手になるわよ」
互いに目と言葉で牽制しあう二人。
それに構わず、エアリスは前に出る。
「その顔は、もう話す気はなさそうね。私はまだ昨日の問いの答えを聞いていないのだけど」
「黙りなさいと言ったはずです。もう無意味な口論をするつもりはありません」
「私は戦うことの方が、口論よりよっぽど無意味だと思うけどね」
虚空から剣を取り出し、ミリアの目がエレナに向く。
「最愛の姉と一緒に暮らす。それは、あなたにとって最高の結末ではないの?」
「姉はもういません!あなた達が奪ったから、だから私はっ!」
エアリスはついに我慢できなくなったように感情を爆発させた。
切り返しに、ミリアは目を閉じつつ、エレナに離れるように指示する。
「そうね、確かに私の姉妹はあなたから姉を奪った。いえ、変えた。もう元に戻してあげられない以上、せめてその真っ直ぐな想いには応えないとね……」
深紅の目が見開かれ、エアリスを見つめる。
「対峙するのはこれで四度目だし、そろそろ決着をつけましょうか―勇者エアリス」
すっと目が細くなり、口元から笑みが消える。
それだけで異常な寒気がエアリスを襲った。
圧倒的な重圧は息苦しさを感じるほど。
背中に嫌な汗が流れるのは気のせいではない。
対峙しただけで相手を絶望の底へと突き落とす、悪魔の化身。
だからこそ、意地でもここで倒さなければならない。
胸が締め付けられるような空気のなか、ミリアの姿が一瞬にして消える。
それに驚く暇もなく、気が付いた時には神掛った速度で目の前まで迫っていた。
「っ!!」
剣を振れたかは怪しい。
何かが目の前で光っただけだ。
それが剣の軌跡だとわかったのは、エアリスの剣に何重もの衝撃があってから。
目前で再び煌めく光。
目で追える早さではなく、雪原の雪を巻き上げてエアリスに迫るそれを、剣を盾にすることでかろうじて防ぐ。
「くぅっ!」
想像以上にその一撃は重く、エアリスの軽い体はいとも簡単に吹き飛ばされ、雪原に転がる。
天と地の区別がつかなくなったのは一瞬だけで、すぐに起き上がると光の剣を放った。
鎧など簡単に貫く威力を持った光り輝く剣が次々に向かっていくが、ミリアは興味なさそうに自分に向かってくる剣を眺めると、左手に黒き球体を作り出し、それを剣に向かって放り投げた。
両者はぶつかり、その場で弾ける。
だが、ミリアの投げた球体は光の剣と接触するとそこで膨張し、後続の剣を周囲の雪もろとも引き寄せ、圧砕していく。
「どうしたのエアリス。あなたの思いはこの程度なの?」
間近で聞こえる声にゾッとする。
接近を許した覚えはない。
それを考える暇もないままに剣を払うが、手に感じたのは硬質な感触だけ。
防がれたのだろう。
だが、それは分かりきっていたこと。
だからこそ動きを止めずに何度も剣を振るう。
しかし、ぶつかり合う剣と剣の応酬は互いの体には届かない。
「あなたなんかに―!」
私の気持ちはわからない、そう続くはずだった言葉は口から出なかった。
剣を持つ手に強い衝撃を感じたと思った次の瞬間には体が浮かび、再びエアリスの体は吹き飛んでいた。
無様に雪原を転がり、受け身を取り損ねたことで強打した左腕をかばいながら、よろよろと起き上がる。
「言ったはずよ。思いを通すのは力ある者だけだと」
「……そうですね。だから、私の全てを賭した力であなたを倒します」
そっと左手が服の下のペンダントを取り出す。
それを見て、ウィルの顔色が変わった。
「エアリス様っ!!」
「ウィル、ごめんなさい。でも、これだけは譲れません……」
すがるようにペンダントを握りしめ、エアリスはそっと呟く。
「アクセス」
「っ!!」
その瞬間、ウィルは怒りの表情でエアリスへと向かおうとする。
「動くんじゃない」
その前にルカが立ちはだかり、素早く右手を払う。
その動作によってウィルの足元に魔法陣が出現し、そこから白い棘を持った蔦が伸びてウィルの手足を拘束した。
それでもウィルは構わず進もうとする。
「サキュバス、そこを退きなさい!」
「ちょっとあんた、手足がちぎれるわよ!?大人しく見て―」
言いかけ、口をつぐんだのはなにもルカだけではない。
エアリスの体に赤い模様が浮かび、魔力のように体に纏わりついていた。
それは、見ようによっては侵食されているようにも映る。
少なくとも、まともな技法ではない。
誰もがそう思ったことだろう。
それにいち早く気づいたルカが戸惑った声を上げる。
「なによ、その強引な術式は……。増幅に補強、それに活性まで……!人の体でそんな無茶な魔法使ったら!!」
そこで気づいたようにルカはウィルをキッと睨む。
「加護を受けた勇者だから耐えられるってわけ!?ほんと、教団はろくなことしないわねっ!!」
そう吐き捨て、ミリアに素早く向き直る。
「ミリア!急いでその子を止めなさい!それは術者の命を蝕む術式よ!放っておけば、手遅れになる!」
「そうみたいね」
その刹那、エアリスがさっきまでとは比べ物にならない早さでミリアに迫り、剣を払った。
「っ!」
剣の背に手を当て、初めて完全に防御へと回るミリア。
それくらい、エアリスの身体能力が跳ね上がっていたのだ。
「ミリア!遊んでる場合じゃないのよ!早く止めて!」
「わかってるわ。この辛そうな顔は長く見ていたいものじゃないしね……」
攻めているエアリスの顔は苦痛に歪んでいる。
それが伝播したのか、ミリアも顔を曇らせ、その体から魔力が溢れ出した。
「あわれねエアリス。あなたもただ救われたいだけなのにね……」
「黙り、なさい……!」
身体が異常な熱を帯びて動く。
それに合わせて悲鳴も上げているが、強靭な意志の下にエアリスはそれに耐えつつ剣を振るう。
ミリアもまた神速の剣を振るい、お互いの一撃がぶつかり合う。
あり得ないほどの力を以て振られたせいか、もはや剣から発せられるようなものではない音が辺りに響いた。
「つっ……!!」
その衝撃は途轍もなく、エアリスは腕が吹き飛んだかのような痛みに思わず声をもらす。
その僅かな隙を逃すミリアではなかった。
痛みに硬直したエアリスの胴体目がけて剣を一閃する。
以前も受けたその技は、瞬時にエアリスの四肢を麻痺させた。
その場に崩れ落ちるエアリスにルカが走り寄り、不気味な光を放つペンダントに手を伸ばす。
「やっぱりこれが媒体ね。ミリア!完全にこれを消滅させて!」
ペンダントを引き千切り、ルカはそれを放り投げた。
ミリアは手に再び黒き球体を作り出し、血のような赤を放ちつつ宙を舞うペンダント目がけて投げつける。
黒と赤がぶつかり、辺りが禍々しい光に彩られるなか、黒球はその内部でペンダントを圧砕していく。
そして、一筋の儚い光を残して完全に消滅すると、エアリスの体に浮かんでいた模様も静かに消えていった。
「うっ……」
「手足の壊死は……してないみたいね」
脱力したエアリスの様子を窺うと、ルカはその場をミリアに譲る。
「ようやく話ができそうね、エアリス」
剣をしまい、エアリスの前に立ったミリアは疲れたように笑う。
「エレナ、こちらへ」
この状況で名を呼ばれるとは思ってなかったのか、エレナはわかりやすいくらいに体をびくつかせる。
だが、リリムには従うべきだと思っているのか、大人しくミリアの側に立った。
「なんでしょうか、ミリア様」
召使いよろしく側に来たエレナには目もくれず、ミリアはエアリスへと微笑んだ。
「言ったわね。誠意を見せると。受け取って、これがあなたへの贈り物よ」
言ったと同時に、エレナの胸元にあった目玉を模した禍々しいデザインのブローチへとミリアの手が伸び、それをむしり取った。
「あ……それはデルエラ様から頂いた……」
赤子を奪われた母親のように、慌ててブローチを取り戻そうとするエレナ。
「魔物へと変えた後も、自分の魔力で思考に影響を与える、か。本当に過激な姉さんね……」
そう言ってミリアがブローチを握り締めると、魔力によって生み出されたそれは、いとも簡単に塵となってミリアの手から消えていった。
「あ……」
呻くような声を上げ、エレナからもまた淫らな空気が消えていく。
彫像のように動かないまま、エレナはしばし呆然としていたが、不意にその目がエアリスを捉える。
「エアリス……」
先程までの媚びるような声ではなく、慈愛のこもった優しげな声。
だからだろう、エアリスもハッとしたようにエレナを見た。
「エアリス、ごめんね……。辛かったよね……?」
泣き笑いの表情でエレナはエアリスへと歩み寄り、その前に屈む。
「ちょっとあんた。いくら妹でも相手は剣を持ってるのに」
危ないでしょ、と続けようとしたルカの言葉を、ミリアは手で遮る。
「もう、問題ないわ。それより、彼の拘束、解いてあげて」
ルカはちらりとウィルの方を見やり、溜め息をつきつつそちらに向かう。
ミリアもまた姉妹の邪魔をすまいと、そっとその場を離れた。
「姉、さん……?本当に、姉さんなの……?」
震える声でそう尋ねるエアリスの目からは今にも涙が零れ落ちそうで、そんなエアリスの体をエレナはそっと抱きしめる。
「こんな姿になってしまった私を姉と呼んでくれるなら、私はずっとあなたの姉よ、エアリス」
エアリスの体を抱きしめる腕に力が込められる。
側で感じる姉の温もりと香りに、ついにエアリスの目から涙が落ちた。
「ごめんなさい、姉さん……。私がわがまま言ったせいで、姉さんをそんな姿にしてしまって……!ごめん、なさい……!」
姉の背に手を回し、恥も外聞もなく涙を流すエアリスは年相応の娘でしかない。
拘束をとかれたウィルはそれを見て長い溜め息をつき、ミリアに告げた。
「リリム、我々の完全なる敗北だ。それを認める。だから、一つだけ条件を飲んでくれれば、全面降伏すると誓う」
「その条件は?」
訊き返すミリアに、ウィルはためらうことなく言い放った。
「今回の件、指示を出していたのは全て私だ。島の住人の平和を脅かした責任は全て私にあると言っていい。だから、私のことは好きにしてくれて構わない。代わりに、エアリス様も含め、部下達には寛大な措置を要求したい」
それを聞き、ミリアは可笑しそうに笑った。
「その心配は無用よ。私達は、今回の件で誰かを裁くつもりなんてない。もちろん、あなたもね」
抱きしめ合う姉妹を眺め、ミリアは満足そうに微笑む。
教団がこの島に上陸して四日目、争いが終結した瞬間だった。


「結局、あんたの思い通りってわけね」
「あら、不満?」
あれから二日後。
エアリス達教団は驚くほどあっさり受け入れられ、私とルカ、それにエアリスとウィル、エレナの五人は町から少し離れた位置にある雪原をのんびり歩いていた。
「私は不満ですよ。あなたにしてやられましたから」
「こらエアリス。ミリア様にそんな口聞いたら駄目でしょ」
背後から声がしたので振り返れば、悔しそうに笑うエアリスとそれをたしなめるエレナの姿。ウィルは一歩離れた位置から、そんな姉妹を見て苦笑している。
「いいのよエレナ。それより、幸せな物語を用意したのに、お気に召さなかった?」
「いいえ、そっちは満足しています。だからこそ、あなたには個人的に一矢報いたい」
「どうやって?」
挑戦的な笑みを向けられたので、乗ってあげることにした。
そしてエアリスは笑顔で言った。
「私を魔物にして下さい」
ちょっと意表を突かれた。
それが少し顔に出てしまったのだろう。
エアリスが嬉しそうに笑う。
「エアリス?」
エレナが怪訝そうに尋ねるが、本人は私を見つめたままだ。
「意外な申し出ね。なぜ、と聞いてもいいかしら?」
「晴れて島の住人となった以上、勇者の私が人のままでいては、他の方に不安を与えてしまうかもしれませんから。それに、あなたが言ったことですよ。望むなら、魔物に変えると」
確かに言った。
しかし、まさか申し出てくるとは思ってなかっただけに苦笑せざるを得ない。
「そうね。じゃあ、手を出して」
「え、ここでするんですか……?」
どうやって魔物に変えるか、ある程度の知識は持っているらしい。
僅かに頬を染めるエアリスの様子は、誰かさんとそっくりだ。
数日前までは一度も見られなかった様子なだけに、つい口元に笑みが浮かんでしまう。
それを誤魔化すように右手に魔力を集中させて藍色の玉を作り出すと、それをエアリスへと見せる。
「これを口にするだけでいいわ」
「え……、それだけですか?」
拍子抜けしているのが丸わかりだ。
それだけでもさっきの意表を突かれた仕返しはできた気がするが、ここはもう少し楽しませてもらおう。
そう思い、私はエアリスに耳打ちする。
「処女なんでしょ?それどころか、キスもすませていない。それを奪うのは、さすがに気が引けるもの」
言った瞬間、エアリスの頬が倍は赤くなった。
「あ、う……」
顔を真っ赤にしたエアリスの両手を取り、そこに玉を落とす。
すると、玉はエアリスの手の上で溶け、液体となった。
藍色の液体を見て、エアリスの表情が曇る。
「これ、飲んでも大丈夫なんですか……?」
人としては当然の反応に、私は苦笑する。
「私の魔力が凝縮されているだけだから、害はないわ」
私がそう言っても、エアリスは液体を見つめるだけ。
「エアリス、本当にいいの?」
エレナが心配そうな声で尋ねたからか、エアリスは顔を上げ、エレナとウィルを順に見た。
「うん、もう決めたことだから。ただ、私はどんな魔物になるのかなって……」
「心配ないわ。波長、資質、あなたはどちらも備えている。だから、それを口にしたら、自分がこうありたいと願う姿を思い描きなさい。あなたなら、大概の魔物になれるわ」
決意はそれで固まったらしい。
穏やかな笑みを浮かべ、エレナとウィルの二人を見た。
「姉さん、ウィル、見ていて。これが、私の人としての最後の姿だから―」
それが神聖なものであるように、エアリスはそっと手の中の液体を口に流し込む。
液体であって魔力でもあるそれは一滴も残らずエアリスの体内に落ちると、すぐに活動を始めたようだ。
「んっ……」
小さく呻いて自分の体を抱きしめるエアリス。
どこか身震いしているようにも見えるが、それは内側からの快感を押さえこんでいるからだ。
一体どんな魔物になるのかと全員が注目するなか、私はなんとなく予想がついている。
姉思いのエアリスのこと、恐らくは―。
予想は当たっていた。
頭からゆっくりと生えてくる角。
腰の辺りも不自然に隆起し、服の内側っで猫でも暴れているかのようにぐむりと動き出している。
そしてそれはとうとう服をも突き破って現れた。
蝙蝠を模した翼に、悪魔めいた角と尻尾。
元勇者の彼女は、サキュバスへと生まれ変わると不思議そうに自分の姿を眺めた。
「これが、魔物の体……。不思議、ほとんど違和感がない。まるで、最初から魔物だったみたい……」
「おめでとう。これで本当に私達の仲間ね。さあ、最初にするべきことはわかるわね?」
私の言葉にエアリスは静かにうなずき、親しい二人のうちの片方へと走り出した。
そしてためらうことなく、その人へと抱きつく。
「エアリス様!?一体なにを―」
いきなりの事態に戸惑っているのはウィルだけだ。
エレナはあらあらといった感じで微笑み、ルカは興味なさそうにあらぬ方向を向いている。
「ウィル、あなたの匂いがする。ずっとこうしたかった……」
母親にすがる子のように、エアリスは顔をウィルへと擦りつける。
「リリム!エアリス様に一体なにを……!」
「あら、私のせいにするの?意外と鈍いのね。その子がそうしているのは、ずっと恋焦がれていたから。エアリスにそうさせているのは、あなたよ」
「なっ……」
この後に及んで嘘など言うはずがないのに、ウィルは信じられないといった顔だ。
「ウィル、あなたは言いましたね。私に、妹の分まで幸せになってほしいと。だから……私を幸せにして下さい」
サキュバスとなったことでより女らしい体つきになったエアリスに抱きつかれ、そのまま愛を囁かれて、ウィルは混乱極まった表情のまま固まる。
「しかし……」
そのまま眺めていれば、さぞ微笑ましい光景が見られただろう。
だが、そこへ残念な客が来てしまった。
「エアリスさんにエレナさん、それにウィルさん〜。イース様が町の人に改めて紹介するそうですから、早く来て下さい〜」
いい雰囲気をぶち壊したのは、ハーピーのセリーヌだった。
彼女は今回の件で最初に教団の船を発見したということで、イースから好みの男を最初に選ぶ権利をもらい、念願の夫を手に入れていた。
「て、あれ?エアリスさんがサキュバスになってる。……ま、いいや〜。早く戻って下さいね〜」
エアリスが魔物になっていてもセリーヌの反応はそんなもので、言うべきことを言うといそいそと去っていく。
その早さがかなりのものだったことから、早く夫の元に戻りたいのだろう。
「イースさんが呼んでいるんじゃ、行くしかありませんね。ほら、エアリスにウィルさん、行きましょう」
「ウィル?」
抱きつくのを止め、エアリスは右手を差し出す。
そしてウィルは観念したようにその手を取った。
「あなたには敵いませんよ」
ああ、これは尻に敷かれる。
その光景を見て私は瞬時にそう思った。
まあ、男がわかっていないだけで、いつだって強いのは女なのだから、それは当然なのかもしれないが。
そんなことを考える私に声がかかった。
「ミリア」
声自体は何度も聞いている。
だが、彼女から名前を呼ばれるのは初めてだ。
「なにかしら?」
エアリスの方へと顔を向ければ、彼女は本当に幸せそうに笑っていた。
「ありがとう」
短い感謝の言葉は私が笑みを浮かべるに十分なものだった。
「どういたしまして」
交わした言葉はそれだけだ。
それきり、エアリスはウィルと手を繋いだまま、町に向かって歩き出した。
エレナが私に向けて頭を下げた後に二人を追いかけるなか、私はルカへと向き直る。
「さて、これで終わりね」
「望み通りの結末で満足でしょ」
確かに私が望んだ結末だ。
だからこそ、それに付き合ってくれた友はしっかりと労わなければならない。
「ええ。だから、最後に私達も温泉に入ってのんびりしていかない?」
ルカが考えるようにしたのは一瞬のこと。
「そうね。今回は無駄に疲れたわ」
「じゃあ、姉さんお気に入りの温泉に行きましょ。ついでにお酒も用意してね」
「酒って、昨日のやつ?あれなら、アタシも文句ないわ」
「じゃあ、あれも用意しましょ」
温泉に浸かりながら、景色とお酒を楽しむ。
それを想像するだけで自然と笑顔になってしまう。
ルカも同じらしく、「ほら、行きましょ」と言って待っている。
誰もが幸せで終わる。
望んだ結末を迎え、私は振り返った。
遠ざかっていく三人の背中は既に小さくなっているが、それでもその後ろ姿は幸せそうだ。
「あなた達に、良き日々が多くありますように」
祈るように呟いた言葉は、静かな白銀の世界へと消えていった。
13/01/02 11:06更新 / エンプティ
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■作者メッセージ
エピローグ


『そういうわけだから、あんたも帰っていいわ』
事の簡単な顛末を伝えると、依頼主からの交信は途絶えた。
あまりにも素っ気ないが、ルカはそういう性格なので青年は特に気にしない。
彼女から頼まれた仕事は終わらせてあるので、後はここを脱出するだけだ。
青年はさっそく行動に移して、自分が仕えている司教の扉をノックする。
「失礼します、司教様」
「なんだ?私は忙しいのだ。用があるなら早く言ってくれ」
机に向かっていた司教は見向きもしない。
その態度は、使用人に構っている暇などないと雄弁に語っている。
「はい。実は、羊皮紙とインクの在庫が少なくなってきているようなので……」
恭しく頭を下げる青年に、司教は面倒そうに机の引き出しから金袋を取り出し、そこから銀貨を差し出してきた。
「買えるだけ買ってくるように」
「わかりました」
これで堂々とここを出る口実ができた。
青年はもう一度恭しく頭を下げると、そそくさと部屋を後にする。
今回の仕事は成功だ。
後は、帰って愛しいあの人から報酬を貰うだけ。
支部内の廊下を歩きながら、青年は報酬についてあれこれと考える。
なかなかに骨の折れる仕事だったことだし、見返りとしてなにを要求しようか。
あまりにも度が過ぎると却下されそうだし、ここは前回貰えなかった服がいいかもしれない。
そんな皮算用をしていたのがまずかった。
つい考えに没頭するあまり、通行人とぶつかってしまったのだ。
「あ、すいません。考え事をしていたもので……。怪我はありませんでしたか?」
「いや、こちらも同じことをしていた。不注意はお互いさまだから、謝らなくていい」
ぶつかった相手は、二十代前半といった感じの青年だった。
珍しい黒髪に青い瞳、整った顔立ちと、まるで貴族出身のような美しい男だ。
だが、服装は実用重視の一点張りのようで、派手さは少しもない。
腰に剣があることから、昔の自分と同じ仕事に就いているのかもしれない。
青年は頭でそんなことを考えつつ、もう一度謝ってその場を去ろうとした。
だが、男が青年の肩をしっかりと掴んだことでそれは叶わなかった。
「少し話がある」
唐突な物言いに、青年は足を止めて振り返る。
「申し訳ありませんが、司教様より買い物を命じられていますので」
「大丈夫だ。そう時間を取るつもりはない」
声は穏やかだが、その目はお世辞にも友好的とは思えなかった。
どうやら、厄介な者に目をつけられたらしい。
青年はため息をつき、了承の意を示す。
「ここは人通りが多い。東の庭に」
歩き出した男に続きながら、青年は好都合だと内心ほくそ笑む。
東の庭は塀の一部が崩れていて、その気になれば簡単に逃げ出せる。
その外観の悪さからほとんどの人は寄り付かず、だからこそ男はそこを選んだのだろう。
つまり、庭にさえ出られれば、後はいつでも逃げられるに等しい。
だからこそ、東の庭へと続く扉の前に到着した時の男の言葉が信じられなかった。
「出ろ」
ちょっと驚いてしまったが、出ろと言われれば出るまでだ。
青年は素直に言葉に従って庭へと出ると、そこで振り向いた。
「それで、僕にどんな御用でしょうか?」
「そうだな。インキュバスがこんなところでなにをしている、と言わせてもらおうか」
その言葉には、完璧だと言えるくらいにうまくとぼけることができた。
「ご冗談を。インキュバスでしたら、こんなところにいませんよ」
「無理はするものじゃない。うまく隠せてはいるようだが、わかる者にはわかる。お前は間違いなくインキュバスだ」
かまかけですらなく、確信している口ぶりだ。
「……仮に僕がインキュバスだとしたら、あなたの問いに答えるとでも?」
前兆はなかった。
前髪が僅かに揺れたのは、首に冷たい剣を付きつけられてからだ。
「相手がインキュバスなら、強引に聞き出すという手段もある」
魔物側だから、このまま首を飛ばしても問題ない。
彼の目がそう語っていた。
正体がばれていることを悟った青年はそれを覚悟し、ため息をついた。
「……殺すなら、どうぞご自由に」
首を落とされるのは痛いだろうななんて思いながら正体を晒すと、意外なことに男は剣を鞘に戻し、腕を組んで扉に寄りかかった。
「そのつもりはない。だが、ここでなにをしていたかは教えてもらう」
「言うとでも?」
教団側の不利益になることをしたのだから、言えばインキュバスの青年は即死刑だ。
「ただでとは言わない」
男は一息入れると、そっと続けた。
「ここから東に向かったところに、ホーリーナイトという名の宿がある。表向きは教団が経営する旅人向けの宿だが、そこには秘密の地下室があり、拷問部屋となっている。そして、不幸にもそこに三人の魔物が捕らわれている」
「それが相応の話ですか?」
馬鹿らしい。
それが真実かどうか分からない以上、そう言って会話は終わるはずだった。
「彼女達を助けてほしい」
「!」
一瞬、目の前の男がインキュバスなのではないかと疑った。
教団に属する者の口から出る言葉ではない。
「その話を信じろと?拷問部屋があるなら、僕をそこへ行かせて捕らえ、拷問にかける。そう考えたほうがよほど辻褄が合う」
「信じる信じないは自由だ。だが、彼女達を助けられるのはお前しかいない。同時に時間もないと言っておこう。拷問吏の到着が遅れている今しか、助ける機会はない」
情報屋を営んでいる以上、相手が嘘を言っているかについてはある程度聞き分ける自信がある。
自分の耳を信じるなら、彼は嘘を言っていない。
青年の顔が苦しいものになる。
「……なぜ僕なのですか?あなたがやればいいでしょう」
「俺は教団に属しているがゆえに内部事情を知ることができるが、代わりに自由に動くことができない。できたのはせいぜい拷問吏の到着を遅らせることくらいだ。だから、後はお前に託したい」
今まで無表情で語っていた男の顔が初めて少し歪んだ。
まるで自分の無力を悔いているように。
それが演技だとは、とても思えなかった。
「もう一度言う。彼女達を助けてくれ。宿の裏手に朽ちた古木がある。その内側は空洞になっていて、そこに地下室へと降りる秘密の落とし戸がある。それを利用すれば、彼女達を助けられるはずだ」
必要な情報を全て語り、男は青年を見つめる。
さあ、お前はどうする?
目がそう語っていた。
それに対して青年が視線をあらぬ方向へと向けたのは、そこに依頼主が見ていないか確認したかったのかもしれない。
そして、視線を男へと戻した時、青年はルカに内心謝りつつ話していた。
「情報の改竄。それ以上は言えません」
「なるほど。この支部の勇者一行がドラゴンを討伐しに向かったきり、なんの音沙汰もないと耳に挟んだが、それも関係しているか?」
「あなた達にとっては不本意な結果に終わったとだけ」
これが青年に言えるぎりぎりの妥協点。
だが、男は少しも表情を変えず、納得したように頷いた。
「そうか……」
「想い人でしたか?」
青年の問いに、男はその宝石のような青い目を向ける。
「それは違うな。俺はあいつに少し剣の手ほどきをしたにすぎない。だが、そうか……しがらみから解放されたか……。これであいつは救われたのだな。……話してくれたことに感謝する」
青年ははっきりと驚いてしまった。
この男が誰のことかを把握していたからではない。
表情こそ変えなかったが、それでもはっきりと感謝の思いが感じられたからだ。
「っ!あなたは、なぜ魔物の手助けをしているのですか」
「償いだからだ」
短く言った言葉には、強い決意が感じられた。
「それは、どういう意味ですか?」
「俺は―」
男は言いかけ、そして口をつぐむ。
「やれやれ、間が悪いな。普段はろくに人が来ないはずなのに、こういう時に限って来るとは」
人の気配を察したのか、男はため息をついて寄りかかっていた扉から離れた。
「もう行け。ここは、お前がいるべき場所じゃない。ここは、囚われたら、二度と出ることのできない硝子の檻なのだから―」
そこで初めて男は小さく笑ってみせた。
その目に哀しみと羨望が宿っているように見えたのは青年の気のせいだろうか。
できることなら、その言葉の意味を訊きたかったが、静かに扉が閉まったことでそれは叶わなかった。
一人取り残された青年はしばし顔を曇らせていたが、やがて塀を超え、水晶を取り出す。
今のことを説明したら、ルカには馬鹿でしょと言われるに違いない。
だが、今回の報酬をもらわないことにすれば、きっと納得してくれるはず。
『なによ?つまらない要件だったら承知しないからね』
「すいません、ルカさん。実は―」
案の定、説明を聞いたルカから返ってきた言葉は「あんた馬鹿でしょ」だった。
それでもなんとかルカの協力を取り付け、交信を終えた青年は呟く。
「全く、損な性格だな……」
誰に向けた言葉なのかはわからない。
それに苦笑し、青年はルカとの合流地点に向かうのだった。




どうも、エンプティです。
リリムと白い孤島の最終話をお送りします。
まさかの最長記録を更新、読んでくれた皆さま、お疲れさまでした。
最後のエピローグは情報屋の青年に花を持たせようと本編に入れるつもりだったのですが、魔物娘が登場せず、男同士で会話をしているだけだったのでばっさりカット。
代わりに、ここに掲載しました。
今回の話は教団も悪い人ばかりじゃないというテーマを決めて書きましたが、いかがだったでしょうか?
さて、今回はシリアス満載だったので、次回はそこまでシリアスにならないようにできたらと思います。
それでは、次のお話で会いましょう。

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