連載小説
[TOP][目次]
リリムと白い孤島 〜家族〜
「おはよう」
ルカとともにイースの住処を訪れると、二人はちょうど朝食を終えたようで、ウォルターが片付けをしているところだった。
「おはようございます、ミリア様にルカ様。見ての通り私達は朝食を終えたところですが、お二人は?まだでしたらすぐにご用意できますが」
「せっかくだけど、アタシ達も食べてきたわ。それこそ食べきれないくらいにね」
ルカが若干呆れるような口調なのは、イースが事情を説明して手配してくれた宿が朝食にあふれんばかりのご馳走を出してきたからだ。
その宿もやはり姉に恩があるとかで好待遇だった上に、私達がやろうとしていることを知らされているからか、是非一人男をと経営者の妖狐に熱心にお願いされたくらい。
どうやら思っている以上に男が不足しているらしい。
「それで、各町への連絡はしてもらえたかしら?」
「ええ、全ての町に滞りなく。どの町でも警備隊志願者が殺到して、ちょっとしたお祭り騒ぎだったそうです」
その様子が想像できたのか、イースは困ったように笑う。
志願者が殺到したというのは、もし男を捕まえればそのまま夫にできるからだろう。
二つの意味でヤる気満々というわけだ。
「それは……ちょっと予想外だけど、不安を煽るような結果にならなくてよかったわ」
これで各町への配慮は大丈夫と言っていいだろう。
「ええ。私から報告できるのは以上ですね。お二方は?」
ルカの目が私に向けられる。
「あなたの指示通り、薬は勇者の剣にかけてきたわ」
「そう。じゃあ、説明するわ」
借りた地図をテーブルに広げると、ルカは昨日出したコインを置く。
そして地図に魔力を込め始めた。
すると、コインが勝手に動き出したではないか。
それはするすると地図の南側へと動いていき、ある地点でぴたりと止まった。
「これで同期完了っと」
「あの、これは?」
地図からイースが興味深そうな目を上げる。
「まあ、簡単な追跡システムってところかしら。磁石みたいなもので、昨日この子に渡した薬がかけられた物が移動すると、こうして地図で確認できるってわけ。これで勇者がどこに向かうかは把握できるわ」
「随分とすごいことをやってのけるわね。個人的には、一体どんな目的でこの薬を作ったのか気になるけど」
「……師匠、知らない町に行くと決まって迷子になるのよ。だから、当初の目的としては師匠発見のため。それ以外では、夫持ちのラミアなんかがよく注文してくるわね」
効果だけを考えれば、確かに嫉妬深いラミア達が欲しがりそうな薬だ。
だが、実際は複雑な事情の下に作られたものらしい。
そう語ったルカはものすごく微妙そうな顔だった。
「しかし、とても便利な薬ですね。これがあれば、勇者の行動は筒抜けというわけですか」
「そういうこと。薬である以上、効果時間はあるけど、一週間は持続するわ。その間に片付ければ問題なしよ。それに、向こうはそんなに時間はかけられないだろうしね」
「それは、どういう意味ですか?」
疑問の声がイースから上がるが、ルカは視線を私に向ける。
今度はあんたが話しなさいとでも言いたいのだろう。
ルカには昨夜薬をかけに行った時に私が見聞きしたことを説明してある。
それらの情報から考えられることを今朝の朝食の時に話し合っていたのだ。
「昨夜、ルカに言われた通りに薬をかけに、彼らの船に乗り込んだわ。その時、何人かを魅了して目的を聞いてみたの」
二人の耳目が集まるなか、私はそのまま説明を続けた。
「彼らの目的はイース、あなたよ。目的がドラゴンの討伐だからか、この島に来ている人員は五十以上。立派な大隊ね。そんな彼らが乗るのは大型船よ。ここまでの情報から、私とルカはこう考えたの。人数が多い以上、そう長くは戦い続けることができないと」
「食糧の問題、ですね」
イースの頭も飾りではない。
すぐにその答えに辿り着いたようだ。
「ええ。人数が多いということは、それだけ食糧が必要になる。当然、向こうもある程度は用意してきているはずだけど、それでも人の数を考えると備蓄は近いうちに底をつくでしょうね。倹約して長期戦の構えをとる可能性もあるけど、そうなると士気の低下は避けられない」
「一応確認するけど、あの辺りに野生の動物や魚はいる?」
ルカが問いかけ、イースはすぐに答える。
「はい。自然が多く残る島ですから、多少は。しかし、五十人以上の空腹を満たす量となると……」
いないわけではない。
だが、現実的には厳しいだろう。
「じゃ、やっぱり短期決戦でしょうね。近いうちに玉砕覚悟の強行軍でくるか、もしくは尻尾巻いて逃げだすかね。あんたの考えはどっちよ?」
振り向いたルカに、私は笑って答えた。
「前者。勇者の子を見るに、退くという感じじゃないわ。あれは意地でもやり遂げるタイプね」
凛として、強い意志を持った勇者。
エアリスに評価をつけるとすれば、そんなところだろうか。
「ふーん。まあ、向こうがどんな行動に出ようと、あんたならコントロールできるだろうし、アタシは別のことでも考えておくわ」
「別のこと?」
「そう。今回の結果がどう終わろうと、何度も攻めてこられちゃ面倒でしょ?これ一回で終わりにしてやろうと思ってね」
確かにそれはごもっともだ。
今回はこちらの望むように終わっても、次回、そのさらに次と、延々と続けられてはたまらない。
「確かにそれは一理ありますね。男が勝手に来てくれると前向きに考えることもできますが、島民に危害を加える可能性がある以上、私もその意見には賛成です」
イースもルカの意見に賛同し、大きく頷く。
「じゃあミリア、今度は向こうがどこの所属だか調べてくれる?」
「その必要はないわ。昨日の時点で聞いたから。トリーサ大陸の南支部だそうよ」
「トリーサ大陸…ここから四日ほど北上したところにある大陸ですね。確かにあそこは未だに半魔物派の力が強いですから、間違いないかと」
イースがそう補足し、ルカは確信したように小さな水晶の欠片を取り出した。
「場所が分かれば、後はどうにでもなるわね。不本意だけど、あのバカにやらせるわ」
あのバカとは誰のことだろう。
私が疑問に思うなか、ルカはすぐに水晶で誰かに連絡を取り始めた。
「ちょっとあんた。アタシの声が聞こえたら、返事をしなさい」
『はいルカさん!なんですか!』
相手はすぐに通信に出た。
元気のいいその声は聞き覚えのある声だった。
禁書の件でルカが利用している情報屋の青年だ。
「うっさい!誰がそんな大声で返事をしろって言ったのよ!?少し黙りなさい!」
『は、はい!嬉しかったもので、つい……すいません……』
理不尽再び。
返事をしろというから答えたのに、すぐに黙れである。
それでも、水晶の先で見えないルカ相手に頭を下げる青年がはっきりと想像できた。
「いい?あんたに追加の依頼よ。とりあえず、今依頼していることは後回しにしていいから、すぐにトリーサ大陸の教団南支部に向かいなさい」
『追加依頼なら喜んで。お望みの情報はなんです?司祭の隠し子の居場所ですか?』
情報屋らしく、さらりとすごいことを言う。
妻以外の女性を相手にするほど性欲があるなら、素直に魔物を嫁にすればいいのに。
私がそう思っている間にも、ルカと青年のやり取りは続く。
「そんなその辺の石ころより価値のない情報なんていらないわよ。あんたはこれからそこに潜入して、情報の改竄をしてきなさい。いいわね?」
最後のいいわね?は、拒絶は認めないという意味が多分に含まれていた。
彼もまたそれがわかったのだろう。
ものすごく申し訳なさそうな返事が返ってきた。
『あ、あのー……ルカさん、僕は情報屋であって、工作員ではないんですけど……』
「だから?」
それがどうしたとばかりにルカは平然とした声。
水晶を前に腕を組み、これほどまでにサドっ気を出せるサキュバスもそうそういない気がする。
『えーと、その、ちょっと僕には無理、だと思います……』
「ふーん、そう。じゃあいいわ」
おずおずと申し出た青年に、ルカは意外にも理解の色を示す。
しかし、続く言葉は無慈悲そのものだった。
「ついでだし、あんたに依頼していること、全部キャンセルするわ。よかったわね、面倒な仕事は今日で終わりよ。後はどこへでも消え失せなさい」
『え?』
ルカが素っ気ない声で言い放った言葉が信じられなかったのか、水晶から青年の間抜けな声が聞こえた。
「なに驚いてんの?あんたは仕事を選り好みするってことでしょ。そんなヤツに仕事を頼みたくなんかないもの。だからキャンセルするわ。もう利用するつもりはないから、今後一切、アタシの家には近づかないでね」
『やります』
たたみかけるように告げられた脅し文句に、青年は一瞬で折れた。
「最初からそう言えばいいのよ。じゃあ、まずは場所だけど―」
仕事の詳細をルカが説明し始めた時だ。
地図の上に置かれたコインがゆっくりと動き出した。
「ミリア様、コインが」
「なるほど、確かにわかりやすいわね。さすがルカだわ」
イースと揃って地図を眺めている間にも、コインはゆっくりと北西へと移動していく。
「話はつけといたわ。これで盤面のこいつらを始末すれば、教団の後続が来ることはないはずよ」
青年との会話を終えたルカが地図に目を落とし、動いているコインを指で止める。
「ご苦労さま。じゃあ、今度は私の番ね。勇者が動き出したようだし、ちょっと行ってくるわ」
「あ、今回はアタシも行く。他にやることもないし」
意外な申し出だ。
今回のルカはいつになくやる気らしい。
それに対して、イースだけが申し訳なさそうに頭を下げた。
「重ね重ねお礼を言わせてもらいます。本当に―」
ありがとうございます、という言葉は続かなかった。
言いかけたところで、イースが急に体を折ったのだ。
「うっ……!」
「イース?どうしたの?」
呻くような声とともに、その腕が膨らんだ腹に当てられる。
それだけで、彼女になにが起こったのか想像がついた。
「あんた、まさか……!」
ルカが驚いたように腰を浮かし、すぐにイースの傍に駆け寄る。
彼女の声は夫にも届いたらしく、不思議そうに部屋に戻ってきたウォルターが苦しそうな妻の様子を見て顔色を変えた。
「イース!」
叫んだと同時に駆け寄り、妻の肩に手を回す。
「まさか、産まれそうなのか!?」
「あなた、すぐにお医者様に連絡を……!」
「ああ、すぐにする!」
イースを心配そうに抱いていたウォルターは力強く頷き、その手を握った。
「ルカ」
事の経緯を静かに見ていた私はそこでようやく友の名を呼ぶ。
ルカはすぐにこちらを向き、お互いの目が合う。
それだけで、私が言いたいことをきちんと理解してくれたらしい。
「すぐに転移魔法で医者に連れて行くわ。急いで準備して」
いきなり言葉を向けられたウォルターは一瞬だけぽかんとしたが、すぐに言われたことを理解したのだろう。
素早く部屋から出て行った。
ルカはそれを見送ると自分を中心に魔法陣を展開し、それは徐々に光を発していく。
「ミリア様……」
整った顔を歪めながら、それでも私を見るイースの目には心配の色があった。
腹の子が産まれそうなこの状況で、私を心配しているのだ。
そんな彼女に私ができることは一つ。
そのままなにかを言おうとするイースを手で制し、そっと微笑んでおいた。
「余計なことは考えちゃ駄目。教団のことは私に任せて、あなたはその子を産むことに集中するべきよ」
私はそう言い、視線をルカへと移す。
「ルカ、後はお願いね」
「わかってるわよ」
医者がどの町にいるのかはわからないが、どこも警戒してくれているし、ルカもついていてくれるのだから、イースの身の安全は保障されたようなものだ。
これで心おきなく動ける。
唯一心残りがあるとすれば、新しい生命の誕生の瞬間に立ち会えないことだろう。
それを少し残念に思いながら、私は静かに部屋を後にしたのだった。


その報せは、魅了された兵士の一人によって伝えられた。
昨日の遅れを取り戻すように朝から精力的に活動していたエアリス達にとって、それは最悪の伝言だった。
「……もう一度言ってみろ」
「はい。あの方は船の前でエアリス様を待っています。話がしたいから、早く戻って来てほしい。あまり待たされるようなら、船にいる者を一人ずつ魅了していくと。そう伝えるよう、お願いされました」
完全に魅了されているせいか、心酔しきった言い方だ。
そんな兵士を見てウィルは盛大にため息をつき、その頭へと手を当てる。
魔法の知識を持っているので、魅了を解除するのだろう。
それを眺めながら、エアリスの中では小さな怒りがちらついてくる。
昨夜といい、今の状況といい、あのリリムには好き勝手されている。
「ウィル、それが終わったらすぐに戻りましょう。これ以上引っかき回されるのは不愉快ですから」
「了解しました。総員、すぐに引き返す準備を」
ウィルの指示を受けて先頭を行く者に伝言役が走るなか、エアリスは手のひらを閉じたり開いたりしてきちんと動かせることを確認する。
あのリリムを、今回で仕留めてみせる。
頭でそう強く思いながら、ウィルの処置が終わるのを待った。
「お待たせしました」
そっとウィルが手を離すと、魅了されていた兵士はハッとしたようにその場に片膝をついた。
「も、申し訳ありません!不意を突かれ、そのまま―」
「弁解はいい。それより、すぐに船に戻る。言いたいことはその道中に話せ」
状況を説明しようとする兵士を手で制し、ウィルはエアリスへと視線を向ける。
それに頷くと、エアリスは足早に船へと向かったのだった。
拠点である船に戻ってくると、船のすぐ傍で宙に浮かぶ黒い球体に腰かけたミリアが退屈そうに待っていた。
船に残された兵士達はその様子を神妙な面持ちで眺めている。
その誰もが武器を手にしているというのに、ミリアは特に気にした様子もなく足を組んで自分の髪を弄っていた。
エアリスが姿を現すと、それに気づいたミリアは懐かしい友に再会したかのような笑みを浮かべ、球体から飛び降りた。
「おはよう、エアリス。思ったより待たされなくてよかったわ」
いけしゃあしゃあとそんな言葉を向けられたエアリスは、これ以上ないくらいに無表情だ。
「昨日あれだけの騒ぎを起こしておきながらここに来るなんて、いい度胸ですね」
「昨夜は名前を聞かせてもらったから、今度は笑った顔を見せてもらおうと思ってね。そういうわけだから、そんな怖い顔をしてないで笑顔を見せて?」
誰のせいで怖い顔をしていると思っているのだろう。
付き合っていられないとばかりにエアリスは剣へと手をかける。
「あなたがここで大人しく殺されてくれたら、最高の笑顔を浮かべてあげますよ」
「それは私が笑顔になれないから駄目ね。別の方法はないかしら?」
おどけてみせるミリアの仕草は腹立たしいくらいに魅力的だ。
だからこそ、まともに付き合ってはならない。
エアリスはそう判断し、剣を抜いた。
「愚問ですね。私達の笑顔は両立しませんよ」
戦闘態勢に入ったエアリスを見て、ミリアはふと小さく笑う。
「朝から戦う気になるほど元気なら、少し散歩とおしゃべりに付き合って。よければ後ろのお兄さん達もね」
赤い瞳がウィル達に向けられた。
その言葉には軽い挑発が込められている。
援護する気ならついて来いと。
「では、そうさせてもらいましょう」
ウィルの冷やかな声での返事に、ミリアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、少し移動しましょ」
そう言ってくるりと踵を返し、軽やかに歩き出した。
それに大人しくエアリス達もついていく。
その間にウィルはエアリスの隣りに立ち、小声でそっと囁いた。
「もう少し船から離れたら、いつでも不意打ちをしかけられますが、いかがしますか?」
「残念ですが、あのリリム相手に不意打ちは効果がないと思います。対ドラゴンの作戦通り、私が前に出ますから、他の人はいざという時の援護をお願いします」
「了解しました」
そんな短いやり取りを交わした直後だ。
ミリアがふと立ち止まり、こちらを見た。
「船から大分離れたし、これくらいでいいかしら」
まるで二人の会話を聞いていたかのような発言だ。
「散歩は終わりですか?」
「そうね。次はおしゃべりにしましょうか。それとも」
そう言いつつミリアが唐突に屈んだので、ウィルは手で戦闘態勢に入るよう指示し、エアリスは抜いたままだった剣を構える。
だが、ミリアはそっと足元の雪を一すくいすると、それを両手で固めて雪玉にした。
「童心にかえって、雪合戦でもする?この人数差だと、さすがの私も勝てそうにないけど」
その場の空気が冗談ではなく一瞬凍りついた。
一体なにを言いだすんだ?
誰もがそう思ったことだろう。
「ふざけているんですか?」
剣の構えをとかないままエアリスが怪訝そうに尋ねるが、ミリアは楽しそうに雪玉を手の中で転がす。
「あら、お気に召さなかった?」
「我々は教団です。魔物と慣れ合うとでも?」
魔物は人を滅ぼす存在。
それは今も昔も変わらない。
目の前のリリムも同じだ。
もう話すことはないと宣言するようにエアリスは剣を構え直す。
「やれやれ。結局は戦うことを望むのね……」
苦笑とともにミリアも剣を取り出し、場の空気が一気に緊張したものになる。
「これ、合図よ」
言葉と同時に、左手に持った雪玉が空へと放り投げられた。
それは僅かに放物線を描き、ちょうどミリアとエアリスの間にぽすっと落下する。
そしてエアリスは飛び出した。
積もった雪に足を取られるようなことはなく、あっという間にミリアとの距離を詰めると、不敵に笑うその顔目がけて剣を振るう。
「あなたはなんのために剣を振るうの?」
「あなた達魔物がいない平和な世界のためにですよ」
苦もなく剣を受けとめたミリアは微笑とともに問いかけてくる。
「まるで私達を悪だと決めつけているような口ぶりね。あなた達教団は悪ではないと?」
「悪はあなた達魔物だけですよ。正義は我々教団側にあります」
剣と言葉の応酬が続き、ミリアは不敵な笑みを濃くした。
「詭弁ね。私から見れば、この世に悪なんて存在しないわ。在るのは、それぞれ形の違う正義だけ。あなたもそう思わない?」
「魔物が正義を語らないで下さい!」
強い踏み込みとともに放った一撃は、派手な金属音とともに防がれた。
互いの剣をぶつけ合ったまま、エアリスはミリアを睨みつける。
それでも彼女の不敵な笑みは消えなかった。
「語るつもりはないわ。正義や悪に明確な定義が存在しない以上、ただの言葉遊びだもの。どれだけ立派な大義名分を掲げたところで、そこには正義も悪もない。あるのは人の意思だけよ」
「黙りなさい!」
これ以上、このリリムと話してはいけない。
話せば、向こうの言葉が毒となって思考を蝕むから。
だからエアリスはミリアの言葉を打ち消すように剣を払う。
だが、目の前にいたリリムは唐突に消え、剣は虚しく空を切った。
「だからね、思いを通すのはいつだって力ある者だけ」
「っ!!」
昨夜と同じように、エアリスの首に剣が当てられた。
それも背後から。
少しでも動けば、このリリムならあっと言う間にこちらの首を飛ばすことができるはず。
これが騎士同士の決闘だったら、勝負はそこで終わっていただろう。
しかし、これは魔物と教団の戦いだ。
「放て!」
だから、ウィルの鋭い声が響いたと同時に援護の魔法が次々に放たれた。
「ふふ、今日は大人しく観戦するだけじゃないのね」
不意を突くように放たれた攻撃魔法の雨をひらひらと避けながら魔法部隊を眺め、ミリアは愉悦の表情を浮かべる。
多勢に無勢と不利なはずなのに、今の状況を楽しんでいるのだ。
その表情を消しさるべく、エアリスも魔法を唱え始める。
そして、無駄のない動きで避け続けるミリアの行動を予測して、それを放った。
「これで終わりです!」
掛け声とともに、極太の白い火柱が上空からミリアに降り注いだ。
これ以上ないタイミングで放った浄化の炎は避ける暇などなかったはず。
ミリアが立っていた地点を中心に遥か上空から照射される炎はその熱気で辺りの雪を瞬時に溶かし、蒸気が発生する。
「おお……!これが、ドラゴンをも焼くという浄化の炎か……!」
「これなら、あのリリムも……!」
その光景を見た者が口々に勝利を確信したように顔を綻ばせるなか、エアリスは光の剣を何本も召喚し、火柱の中心目がけて放つ。
「エアリス様?」
後方にいる誰かが不思議そうにそう呟くのが聞こえたが、エアリスはそのまま光の剣に続いて走り出した。
浄化の炎は加減などしなかった。
最大の威力で放った以上、それで決着がついていてほしい。
だが、そんな淡い願いは火柱に近づくにつれて消えていき、エアリスの表情は曇っていく。
火柱の中にミリアの存在を感じる。
やはり倒せていないと確信した時だ。
なにかが火柱を切り裂いて飛んできた。
雪原に直線の線を引きながら飛んできた藍色のそれは先行する光の剣を悉く砕き、エアリスに迫った。
「っ!」
奇跡的にそれを避けつつ飛んできた方向を見れば、やはりミリアがいた。
間髪入れずに剣を払うが、当然のように弾かれる。
「高威力で距離を選ばない浄化の炎に、それを目隠しに使って放つ光の剣。最後の止めは接近戦による力押し。よく工夫されてるけど、私には通用しないわ」
衣服はもちろん、髪の一本さえ燃えていない。
浄化の炎を受けてさえ無傷。
その事実が、兵士達の心を容赦なくへし折っていく。
エアリスも顔に皺を寄せるが、それでもと剣を構える。
どんな状況でも勇者に退くことは許されないのだ。
「魔法が効かないなら、剣で倒すまでですよ!」
自分を鼓舞するようにそう言い、エアリスはミリアと剣を交える。
「ねぇ、なんであなたは―」
言葉が中断されたのはエアリスの剣がミリアに届いたからではない。
エアリスも訳がわからなかった。
エアリスの剣を防ぎ、ミリアは唐突にあらぬ方向へと顔を向けたのだ。
「そう、ようやくなのね……。おめでとう」
戦いの最中だというのに、ミリアは慈愛に満ちた笑みでそう呟いた。
エアリスから見れば、それは決して意図的なものではなく、本物の隙。
この勝機を逃す手はない。
「っ!」
エアリスはミリアの隙だらけの首に素早く剣を振るう。
一瞬の隙が勝負の明暗を分けることなど、遥か昔からいくらでもあった。
これこそ神のご加護。
少なくともエアリスはそう思った。
だが、勝利の女神はエアリスに微笑んではいなかったらしい。
完全に隙を突いたはずの一撃は、こちらを見向きもしないミリアの左手によっていとも簡単に止められたのだ。
「うそ……」
思わずそう呟いていた。
目の前で起こったことが信じられず、逆にエアリスの隙となってしまう。
「ごめんなさい。遊んでいる時間はなくなったわ」
なにかが胴に叩きつけられた。
それに痛みを感じたのは一瞬で、気がついた時には、手足は動かなくなって雪原に膝をついていた。
「エアリス様!」
遠くでウィルが叫んでいるが、エアリスはただ目の前でこちらを見下ろすミリアを見上げた。
目と目が合い、ミリアはにっこり微笑む。
「またね、エアリス」
そしてくるりと背中を見せた。
その行動がなにを意味するかは考えなくてもわかった。
「逃げるつもりですか!?」
手足はまったく動かない。
その時点で勝敗は決まっていたが、それでも口は挑発するような発言をしていた。
そんなエアリスに対してミリアは小さく笑って手を振り、転移魔法で悠々と去っていった。
「エアリス様、ご無事ですか!?」
すぐにウィルが駆け寄ってきてくれたが、エアリスは力なく首を振る。
「……私は大丈夫です。それより……」
視線を後方へと向ければ、呆然とする兵達の姿。
エアリスが一撃で倒されたのだから、当然といえば当然かもしれない。
「彼らの方が心配です」
「わかっています。今日は撤収して養生しましょう」
「待って下さい。それは」
「総員、撤収」
エアリスが言いかけた言葉はウィルの号令で遮られた。
頼みの綱のエアリスがあっさりとやられたのだから、当然といえば当然の判断。
だが、それほど悠長にしている時間がないことはウィルが一番わかっているはず。
その真意が知りたかったが、結局聞けないまま、ウィルに助けてもらって船へと戻ったのだった。


「誰がそんな連絡をしろと言った?」
エアリスが船の一室である作戦指令室に入ると、ウィルと兵士の一人がちょっとした言い合いをしていた。
「私の判断です。エアリス様が負けた以上、いえ、リリムが現れた時点で増援の連絡をするべきだった。そもそも、リリムがいること自体が予想外なのですから、これは当然の対応のはずです」
「なんの話ですか?」
エアリスがそう声をかけて、ようやく二人は気づいたらしい。
ハッとしたようにこちらを見て、兵士は顔を背けた。
「失礼します」
言及を避けるためか、そそくさと一礼して兵士が出て行くと、ウィルは疲れたようにため息を一つ。
「聞いていましたか?」
「増援の連絡をしたというところなら」
ウィルの目元が僅かに歪んだ。
「考えた上での行動なのでしょうが、私にはいささか短慮だと思います。まぁ、つまらない話はやめましょう。それで、どうされましたか、エアリス様」
「少し、散歩に行ってこようと思います」
「散歩?こんな時間に?」
時計の針はほとんどの人が明日に備えて眠る時刻を示している。
こんな時間に剣も持たずに外出したいといえば、ウィルでなくても顔をしかめるだろう。
「ええ。生憎と、こんな時間でもなければ、私は自由にできる時間がないので」
自虐的ともとれる発言に、ウィルはしばし黙考し、そしてこう言った。
「条件付きで許可しましょう」
「その条件は?」
即座に聞き返すと、ウィルは小さく笑った。
「私も同行します。それでよければ」
「あなたまで船から出て行ったら、指揮をする人がいなくなりますよ」
「どうやら、この船にいる兵は自分で考えて行動できるようなので。ですから、私が少し席を外しても、問題はないでしょう」
先程の兵士を皮肉ってるらしい。
そう言うウィルの顔も嫌みたっぷりだ。
「わかりました。では、すぐに行きましょう」
見張りの一人に少し出ることを伝え、エアリスとウィルは夜の雪島へと繰り出した。
船には特殊な魔法が施されているので寒さを感じなかったが、一歩外に出れば文字通り凍りつきそうなくらいの気温だった。
一呼吸するだけで口内の温度が急激に下がり、吐いた息が白い煙となって流れていく。
「さて、どこに行くつもりですか?」
「森に行こうかと」
二人揃って暖気魔法を使うと、雪に足跡をつけながら近くの森へと歩き出す。
船から森までは大した移動距離でもなかったが、船の明かりはさすがに届かないらしく、そこは闇と静寂が支配する空間だった。
「ウィル、なぜついて来たんですか?」
船から離れ過ぎるのも良くないと判断したエアリスは森の入り口の辺りで足を止め、後ろにいるウィルへと振り向く。
「あなたが迷子になってはいけませんから」
真面目にしたつもりの問いに返ってきたのはそんな言葉だった。
「私、子供じゃないですよ?」
「足を滑らせて、頭を打つかもしれませんから」
「ドジっ子でもありません」
呆れ笑いとともにウィルを見つめると、彼はようやく問いに答えた。
「いくつか、尋ねたいことがあったからです」
「構いませんよ。私に答えられることなら、なんなりと」
そういえば、ウィルと二人きりで会話をするのは久しぶりだ。
そのせいか、つい顔が綻ぶ。
しかし、笑顔のエアリスに向けられた質問はこの場でするに相応しいものだった。
「あのリリムに遅れをとった気分はいかがですか?」
直球すぎる問いはエアリスの笑顔を苦笑へと変える。
「負けた、とは言わないんですね」
「ええ。本当の敗北とは、心が折れることです。そして、あなたの心は折れていない。なら、私もあなたが負けたとは思いません」
「それが、聞きたかったことですか?」
そんなわけはない。
それくらいはエアリスにもわかる。
ウィルが聞きたいのは、もっと別のことだ。
エアリスがそういう雰囲気を見せたからか、ウィルが真剣な表情で見つめてきた。
「エアリス様、失礼を承知で伺います。あの黒翼の大敵には勝てますか?」
「……魔物は全て倒します。それが、勇者の務めですから」
「私はあなたに聞いているのです。『勇者』としてのあなたではなく、あなた個人に」
ついにエアリスの顔から笑みが消えた。
「……意地悪ですね。私が言えることは限られているのに」
「無理にとは言いません。ただ、誰かに話すことで楽になることもあるはずです。もし、それが誰にも言えないことであっても、幸いなことにこの場には私達しかいませんから……」
例え、口にしてはいけないものであっても黙認する、ということだろう。
ウィルの気遣いにエアリスは再び苦笑し、少し考えるようにうつむく。
「参謀だけでなく、神父さまの真似事まで出来るのですか?」
「いいえ?私は悩める子羊を導くことなどできません。できるのは、話を聞いてあげることだけです」
だから、抱えているものを吐き出してほしい。
ウィルのそんな声が聞こえた気がした。
それを免罪符にするかのように、エアリスはぽつりと呟く。
「弱音を言っても……いいのでしょうか」
「それで、あなたが少しでも楽になるなら」
存分に話せとばかりにウィルが目を閉じ、エアリスは重大な決断を迫られたかのように押し黙る。
そして―。
「勝てません」
そっとそれを言った。
「私より強い人はいくらでもいるし、全てのリリムがあのリリムと同等の力を持っているかはわかりませんが、これだけは言えます。どれだけ特別な力を持っていようと、人の身ではあのリリムには勝てません」
「断言ですか」
「ええ。対峙したからこそわかるのです。あれは、他の魔物とは根本的なものが違う。絶対に触れてはならないもの、とでも言えばいいのでしょうか」
「だから、勝てません」と、エアリスは後悔するように告げた。
繰り返された勝てないという言葉に、ウィルの目がそっと見開かれる。
「では、無視しますか?」
「え?」
まるで知らない言葉で話された気分だった。
「難しいことではありません。我々の目的は白いドラゴンであって、リリムではない。なら、あのリリムは相手にせず、本来の目的を果たそうということです」
どう答えたものか、返事に困る。
その提案は教団としてはあり得ないものだからだ。
「目標以外は無視すると?それはあり得ませんよ」
「そうでもないでしょう。あなたが勝てないと判断したのなら、あのリリムは相手にするべきではない。我々は当初の予定通り、ドラゴンを討伐して戻る。これが最善かと」
いつもの冗談だと思いたかった。
しかし、今のウィルにそんな雰囲気は微塵もない。
本気なのだ。
「増援まで要求しておいて、リリムを倒さず帰ることのどこが最善なのですか?上の方が黙っていませんよ」
「ええ、そうでしょうね。しかし、報告するのは私です」
その言葉でようやくエアリスの顔が歪んだ。
報告するのが自分なら、その内容に対する非難も自分だけ。
ウィルの言葉を解釈するとそうなる。
「ウィル、それは」
「まあ、厳罰ものでしょうね。しかし、このままドラゴンさえ倒せずに逃げ帰れば、結果は同じです。チェスのようなものですよ。相手のクイーンを倒さずとも、キングを押さえればいい」
チェスであれば、確かにそれでもいいだろう。
だが、現実はそうはいかない。
「現実はチェスと同じようにはいきませんよ」
「ええ、その通りです。こちらに本来の倍の駒がいようと、向こうにはこちらのどの駒にも潰されず、いつでもチェックメイトをかけられる最強のクイーン。これは勝敗の決まったゲームです。なら、責めて実のある負け方を選ぶしかないでしょう」
確かに勝敗は決まっているかもしれない。
エアリスは唇を噛みしめた。
「私がいる以上、そう簡単に負け戦にはさせません。だから、いざという時にはこれを使います」
エアリスは首にかけていたペンダントをそっと手に取る。
小さなルビーがはめ込まれたそれを見て、ウィルの鋭い声が響いた。
「それだけはお止め下さい」
僅かに怒気が含まれていたからか、エアリスは困ったように笑う。
「元々、使うために用意したものですよ?もっとも、これを使っても、倒せるかは怪しいですが」
「だったら尚更です。それに、万が一倒せたとしても、あなたも勝者にはなれない」
「実のある負け方を選ぶのでしょう?例えドラゴンを倒せずとも、リリムを討ち取ったとなれば、十分すぎる敗北なのではないですか?」
今度はウィルが顔を歪ませた。
しかし、すぐに落ち着きを取り戻したらしく、ウィルは予想外のところに会話を向ける。
「そうまでしてリリムを倒したいのですか?」
「……どういう意味ですか?」
「最初のリリム出現の報告があった時、反応していたでしょう。加えて、普段は冷静なはずのあなたが、珍しく強引に出るといってきかなかった」
予想ではなく、確信の下の口ぶり。
エアリスの表情が苦いものになる。
「……よく見ているんですね」
「ええ、参謀ですから。それで、なにか言うことはありますか?」
口でこの参謀に勝つことはできない。
それを実感させられ、エアリスはため息をつく。
口元から白い息がぶわっと舞い上がり、夜の森に消えていく。
それが完全に霧散すると、静かに言った。
「姉がいました」
ウィルの顔に皺が寄る。
唐突に語られた内容が、過去形だったから。
「それを……私に話しても?」
しかしエアリスは答えず、そのまま言葉を続ける。
「私の故郷は、小さな寒村でした。この島のように一年のほとんどが雪に閉ざされているせいで、食べ物にも困るくらいです。そんな村で、私は産まれました。そして、姉と二人で村長の庇護を受けながら、なんとか暮らしていたんです」
ぽつりぽつりと語るエアリスは当時を懐かしむように目を閉じる。
次にその目が開いた時、そこには悲しみの色があった。
「私は両親を知りません。父は事故で亡くなり、母は病弱で私を産んですぐに亡くなったと聞いています。早くも子供だけになったからか、村長もなんとか面倒を見てくれましたが、言ったように寒村ですから、育ち盛りの子を二人も養うことは無理でした。だから、私が十歳の時、私と姉はほとんど追い出されるように村を出ました」
なんと声をかけていいのかわからないといった様子のウィルは、顔を複雑そうにしかめる。
そんなウィルに対してエアリスは「同情は入りませんよ」と言って話を続けた。
「あなたなら想像がつくと思いますが、小娘二人がそう簡単に別の場所でやっていけるはずもなく、私達は近くの町で物乞いになるしかありませんでした」
ろくに食べることもできず、満足に眠ることもできず、ただ衰弱していく日々。
そんなある日、雪が降った。
寒さに震えながら、互いに抱き合って眠りについたが、あのまま次の日を迎えられたかは怪しい。
だが、不思議なことが起こった。
夢の中でよく頑張ったねと女性に優しい声で語られたと思ったら、急に寒さを感じなくなったのだ。
それどころか、春の陽気のように、体がぽかぽかするのを感じた。
「その時、主神様から加護を?」
「ええ。もっとも、あの時の私は死んだお母さんが話しかけてきてくれたのだと思いましたが」
次の日の朝、エアリスが目を覚ますと、目の前に立派な服を着た二人の男が立っていた。
彼らは教団の使いで、エアリス達を迎えに来たというのだ。
そしてエアリスは姉と一緒に保護された。
「君は主神様から加護を受けた。今日からここが君の家だ。そう言われたあの時のことは、今でも鮮明に思い出せます。温かい食事に、寒さを気にせず眠れるベッド。幼い私が夢見たものが、そこには揃っていたんですから」
エアリスが勇者になることと引き換えだったが、それでもよかった。
姉もその恩恵に与ることができたのだから。
「その後はおおよそ他の方と同じです。勇者として必要な戦闘の訓練を受け、その後はひたすら任務。それでも、姉が幸せならよかった。私が頑張ることで、苦労してきた姉が今までの分も幸福になれるなら、それでよかったんです」
そして「でも」と続けた。
「人とは欲深いものですね。望んだことが満たされたら、別の欲が出てきてしまった。私は、姉により良い暮らしをしてほしいと思ってしまったんです」
「それが悪いことだとは思えませんが」
ウィルの相槌に、エアリスは微笑んだ。
「私もそう思っていました。だから、私は上の方にお願いしたんです。姉の住む場所を変えてほしいと。姉は今のままでも十分だと言ってくれましたが、もっと良い暮らしをしてほしかった。私の実績を考慮してくれたからか、その願いは聞き届けてもらえました。そして私の願い通り、姉の住む場所は変わりました」
「その場所というのは……」
話の流れからウィルはそれがどこだか察したのだろう。
辛そうに顔を背けた。
エアリスもまた悲しそうに笑い、それを言う。
「そう、レスカティエに」
かつては教団が誇る国家であったそこは、今や魔物達の国だ。
そこに住んでいた女性は全て魔物へと変えられた。
エアリスの姉がそこにいたのなら、彼女もまた同じだろう。
教団にとって、全ての魔物は敵。
姉がいたというのは、そういうことなのだ。
「だから、あなたはリリムに拘っていた」
「あのリリムはレスカティエを……姉を変えた者ではない。それはわかっています。だから、これは子供じみた八つ当たり」
疲れたように笑って、エアリスは過去を締めくくった。
その笑顔を見たくなかったのか、ウィルは目を閉じる。
二人の間に微妙な空気が流れ、嫌な沈黙が訪れる。
それを破ったのは、ウィルの小さな一言だった。
「少し、昔話をしましょうか」
「え……」
戸惑うエアリスに構わず、ウィルは続けた。
「妹がいました」
似たような切り出しに、エアリスの顔が曇る。
だが、ウィルはあらぬ方向へと顔を向けた。
その視線の先には延々と続く木々だけで、盗み聞きしている者はいない。
「エアリス様の話を聞いた後でこういうのも不謹慎ですが、私はそこそこ大きな町で両親と妹の四人で暮らしていました。裕福ではありませんでしたが、食べる物に困るというわけでもない普通の家庭でした。父が、あの男が屑だったということを除けば」
最後だけ、怒りがこもっていた。
ウィルが他人をけなすこと自体が珍しい。
それが意外で、エアリスは無言のまま、ウィルの横顔を眺める。
いつもの澄まし顔だが、その下には激しい怒りが渦巻いているようにも感じられる。
「私が十五の時、仕事がうまくいかなくなったようです。そのせいで、あの男はいつも酔っ払って帰ってきては、母に暴力を振るっていました。それは毎日のように続き、そしてとうとうそれは起こりました。その日も母は何度も殴られ、その弾みで頭を強打し、帰らぬ人となりました」
「もういいです……」
聞きたくないというようにエアリスは首を振る。
だが、ウィルの口は止まらなかった。
「それでもあの男の暴力は止まらなかった。母という不満の捌け口を失ったことで、今度はその対象が子へと移った。あの男がとことん屑なのは、私だけでなく、妹にも暴力を振るったということです。そのせいで、妹の顔から笑顔は消え、その幼い体には痛々しい痣があちこちにできていました。それを見て、私は思ったのです。この家にいては、私も妹も殺されてしまうと。だから、妹をつれて私は町を出ました」
聞きたくないのについ聞いてしまうのは、ウィルの話し方がうまいからなのかもしれない。
もしくは、不幸な境遇が似ているからか。
「幸い、私は男でしたから、転々とした先でなんとか仕事にありつき、町の外れに居を構えてどうにか妹と二人で暮らしていくことができました。しかし、それが続いたのは三年だけ。ある日、私が仕事から帰ると、妹は全くの別人になっていました。私が留守の間に魔物に襲われたようで、その姿はサキュバスとなっていました。さすがの私も戸惑いましたよ。なにしろ、私達がいるのは反魔物領でしたから」
魔物は即死刑だし、見つけたら通報の義務がある。
反魔物領では当然のこと。
帰ってきたら妹がその魔物になっていたのだから、ウィルの驚きは相当なものだったはず。
「それでもたった一人の妹ですし、泣きながら謝られては、通報などできるはずもありませんでした。そして、以前と同じように二人で生活を続けることにしたのです。魔物になったことで、妹はより積極的に甘えてくるようになりましたが、それでも私の目にはそこまで大きな変化があったようには映りませんでした」
言葉もないエアリスにウィルは笑って「一線は越えていませんから、ご安心を」と告げる。
「妹が魔物になって三ヶ月が過ぎた時です。町に買い物に行き、私が家に戻ると、見知らぬ男が三人いました。そして、その先の床に広がる血と、そこに沈む妹の姿。なにが起こったのか、すぐに理解しました。その光景に立ちすくむ私を見た男は笑ってこう言うのです」
そこで一拍置き、ウィルは芝居がかった口調でその時のやり取りを再現する。
「君の妹は魔物になっていた。だが心配しなくていい。我々が始末したから。君はたぶらかされ、もう少しで魂を奪われるところだった、と。妹を殺したその手で私の肩を掴み、笑顔でそう言うのです」
どう答えていいのかエアリスにはわからない。
わかるのは、どうしてこうも不幸が溢れているのかということだ。
「こうして妹は十三年という短い生涯を終え、私は教団へと送られて神の信徒となりましたとさ。めでたしめでたし」
道化のような仕草で語り終えたウィルからは、なんの感情も窺えない。
それがエアリスには辛かった。
「ウィル、あなたはどっちを恨んでいますか?」
魔物か、それとも教団か。
後者に属している以上、魔物と答えるのが普通だが、ウィルの語り口からはむしろ教団側の方が濃厚な気がする。
だが、ウィルの答えは予想外のものだった。
「わかりません」
「わからない?」
「ええ。妹をサキュバスへと変えたのは魔物ですが、妹の命を奪ったのは教団です。どちらが悪なのか考えれば考えるほど、底のない泥沼に沈んでいく気がしたんです。あのリリムは言っていましたね。正義や悪は言葉遊びで、そこには人の意思しかないと。私は、心の底からその意見に同意できます」
下手をすれば、不信ととられてもおかしくない発言だ。
「なぜ、私に話したのですか?」
その直後、ウィルはこれ以上ないくらいに優しい笑みを見せた。
エアリスでさえ、初めて見る笑顔だ。
「私とあなたは、似ているようで異なる経験をしています。私の妹は、もう世界のどこにもいません。しかし、あなたは違う。その気になれば、あなたはまた家族で暮らすことができる」
思わず目を見開いていた。
その言葉は重大な意味を含んでいるから。
「あり得ません。もし、今の姉と会ったら、私は―」
勇者の自分と、魔物の姉。
決して相容れない対極の存在。
もし出会ったら、エアリスが取る行動は一つだけ。
勇者として、姉の姿をした魔物に剣を向ける。
「殺す、ですか?あなたにはできませんよ。魔物となった家族を未だに姉と呼んでいる時点でね。だから、言わせていただきます」
視線をエアリスへと向け、ウィルははっきりと告げた。
「無理に勇者であり続ける必要はありません」
「っ!!」
思わず辺りを見回してしまったのは、他に聞いている人がいないかを確認したかったのかもしれない。
それくらい、ウィルの言葉はエアリスの胸に突き刺さった。
「そんな、こと……」
「できるわけがない、ですか?いいえ、できますよ。そしてその方法はあなたにとっても、悪い選択ではないはずです」
魔物化。
エアリスはぽつりと呟く。
「人をやめると聞くと取り返しがつかないような気もしますが、しがらみを捨て去り、永遠にも近い時を大切な人と添い遂げられるなら、それも一つの幸せだと思いませんか?」
「……そうかもしれません。でも」
真っ直ぐにウィルの目を見つめる。
そこには、不幸を経験したとは思えないくらいに優しい目があった。
「しがらみは捨てられないし、長い時も生きられない。だからこそ、人は限りあるこの時を大切にしようと思えるのではないですか?」
有限だからこそ、それを共有し大切にしたい。
こうして二人で会話しているこの時も大事なもの。
少なくとも、エアリスにとってはそうだ。
「そうですね。人として生き、人として死ぬ。それも、一つの考え方でしょう」
「ウィル、一つだけ答えて下さい。あなたはどうして、そんなことを言ったのですか?」
体が熱いのは、暖気魔法のせいではないはず。
その熱がどこからくるのか、エアリス自身もわからない。
「そうですね……。失礼な話ですが、重ねていたんですよ。エアリス様と妹を。私がエアリス様を初めて見たのは、レスカティエが陥落した頃でした。遠目でしたが、一目見てこう思ったのです。ああ、この人も不幸を経験したのだと。妹が生きていれば、ちょうどこのくらいだっただろうと。神の采配か、その時、私が仕えていた勇者は魔物に返り討ちに遭いましてね。新しい仕官先を探していたのです」
呆れるように笑ったのは、仕えていた勇者か、それとも自分に対してだろうか。
「だから、新しく仕える相手にあなたを選びました。さっき問いましたね。どうしてそんなことを言ったのかと。私はこう思ったのです」
ウィルはそっと自分の胸に手を当てて、忠誠を誓うように目を閉じる。
「私は妹を守れなかった。だから、私は幸せになれなくてもいい。しかし、自分ではない誰かの幸せを願うくらいなら、許されてもいいのでは、と。私の妹は幸せになれませんでした。だから―」
ウィルの目が開かれ、馬鹿馬鹿しいものを見たように笑ってこう続けた。
「他人とはいえ、同じ妹であるあなたは幸せになれないだろうか」と。
それを聞いた瞬間、エアリスの時が止まった。
本当に、回りの音が聞こえなくなったのだ。
それはどういう意味なのか問い質したかったが、直後、ウィルの口から盛大なため息がもれ、白い煙がその表情を隠してしまう。
それが消えた時、ウィルの顔は見慣れた澄まし顔に戻っていた。
「やれやれ、寒いと口も固くなると言いますが、現実は違うようですね。つい、長々と話してしまいました」
そろそろ戻りましょう、そんな声が聞こえた。
さくっと雪を踏む音がして、ようやくエアリスは意識を取り戻した。
ウィルの語った言葉は、エアリスを幻惑させる魔法にも等しかった。
その呪縛から解放され、止まっていた思考がゆっくりと動き出す。
「ウィル」
呼び止めようと強めに言った。
その甲斐はあったらしく、歩き出したウィルは足を止める。
エアリスはそんな最高のタイミングで、勇者としては最悪の言葉を口にした。
「もし、私が魔物になったら……あなたはどうするつもりですか?」
その言葉を聞いて、ウィルは振り向く。
「私の妹の分まで幸せになってくれますように。そう願うだけです」
笑顔でそう言い、ウィルは再び歩き出す。
話はもう終わりなのだろう。
「私は……あなただって幸せになってくれなくちゃ、嫌ですよ……」
姉を失った喪失感は大きかった。
そんな時、自分の参謀に志願してきた青年は時に茶化し、時に優しい言葉でエアリスを支えてくれた。
それにどれだけ救われたと思っているのだろう。
しかし、そっと呟いた言葉は彼に届くことなくエアリスの独り言で終わる。
もし、自分が魔物になったら、昔のように姉と一緒に暮らせるだろうか。
決して豪華ではないささやかな家で、優しく笑う姉と自分。そしてもう一人……。
「夢物語ですね……」
それは、どれだけ手を伸ばしたところで、決して届かない雲のようなもの。
不幸などとは無縁な幸福そのものだ。
だからこそ、エアリスは曖昧に笑ってそんな想像を打ち消す。
そしてすぐにウィルの後を追ったのだった。
12/09/24 18:19更新 / エンプティ
戻る 次へ

■作者メッセージ
どうも、エンプティです。
恐ろしいことに、投票数が100を突破……。
完全に想定外ですが、これもいつも読んでくださっている皆様のおかげです。本当にありがとうございます。
さて、前作から一週間、続編をお送りします。
エンプティの野郎、珍しく書くのが早いじゃねぇかとか思われそうですが、そんなことはありません。
全体の文章量がどれくらいになるか、ちょっと今回は想像できなかったので、あらかじめ完結まで書き終えてから小分けにして投稿しているだけです。
よって、また来週に続編を投稿いたします。ちなみに、次で白い孤島は完結です。
では、ちょろっと次回予告を。


「よい夢を」
「だからあなたは憎悪の目で私を見ていたのね……」
「安易な罠に引っかかって後悔したくありませんから」
「ずっと幸せなままでいたいと」
「どうしてあなたは、いつも最後の止めを刺さないのですか……」
「主神の望むままに勇者であり続けても、あなたはなにも得られない」


ではまた、次回でお会いしましょう。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33