連載小説
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『迷走と直進』の21〜30日(後編)

 《30日目》


「――――――バブみよ」


 眼前の大男が、周囲へと唸るように音を発する。
 それは自己の主張というには、あまりにも暴力的な獣性に侵されていた。

 何が、起きてるんだ?

 数分前まで、僕は偶然出会ってしまったバフォメットと、なぜか2人並んでパフェとぜんざいを食べていたはずだ。

 ……そのはず、だった。

「マミヤマ、なのか?」

 その途中で、突如として空から降下してきた大男。

 ヨダレかけにおしゃぶり、そして両手の乳幼児用ガラガラで完全武装した巨漢。
 普通の私服のジーンズの上から股間に何重にも巻かれているフンドシめいた白布は、まさか、布オムツだとでも言いはるつもりなのだろうか。
 あまりにもこの商店街の通りにはそぐわない、特異の全てを寄せ集めたような破滅的な外装だった。

 周囲の人たちもこの異常事態についていけなかったのか、ある者は、肩に引っ掛けた学生カバンがずり落ちるのも一顧だにせずこちらを呆然と眺め、ある者は子どもの手を引いたまま立ち尽くしている。
 とりあえず子どもの目は塞いだほうが良いんじゃないだろうか。

 マミヤマは、触れれば切れるような鋭い殺気を放ちながら、こちらにゆっくりと顔を向けた。
 そして口に咥えたおしゃぶりの奥から、しかし意外にも理性的な様子で静かに言葉を紡ぐ。

「………………イズミか」
「……やっぱり、マミヤマで間違いないみたいだな」
「何を当然のことを。己はマミヤマで相違ない」
「そう、か」

 自分で発した言葉で、ようやく僕自身が納得した。
 それほどまでに彼の印象は変化していたのだ。

 よくよく見れば、彼の姿形には大きな異常は見当たらない。
 身長、体格、姿勢、それらは全て以前と大差なかった。
 当たり前だ、女性が魔物化するようなケースでもない限り、普通の人間は10日程で見間違えるほどの変化など起こり得ないのだから。

 だから劇的に変化していたのは、その雰囲気だった。

 少し前までの彼は、剣道部レギュラーという立場にいながら、良く言えば気さくで親しみやすさのある、悪く言えば少々お気楽で危機感の足りない性格だった。

 いつかの日などは、「うわー、CDケースに上から牛乳こぼしちったー! これ乾かした方がいいっすよね?」などと言ったあげく、中身入ったままケースを炎天下の外に干すというまさかの所業をやらかし、中のCDを完膚なきまでに故障させた伝説を作っていたのがマミヤマという人物だ。

 対して、今のマミヤマはどうだ?

 どこまでも真っ直ぐに僕へと至る視線。
 一切ブレのない体幹からなる堂々とした所作。
 纏う雰囲気から来るプレッシャーはもはや一個の刃物のようであり、まるで歴戦の剣豪とでも相対しているかのようだ。
 しかも口調まで大変なことになっている。

 そんな今の彼の振る舞いは、CDを蒸し焼きにした以前のマミヤマとは全く重ならなかった。

「バフォメット、彼が『内通者』だったんだな?」
「いかにも、じゃ」

 間に入ったマミヤマによって見えなくなったバフォメットが、わざわざ横にずれてくれたうえで僕の前に姿を見せると、不遜な態度で頷いてみせた。

「マミヤマ……なぜだ? なぜ、サバトに?」

 すぐには彼は答えなかった。

 わずかに思案する様子を見せたのち、逆にこちらへと静かに問いかけてくる。

「イズミ、己の嗜好を覚えているだろうか?」
「……もちろんだ、マミヤマ。お前は何よりも母親的な存在を愛し、母性から生じる愛情に憧れを覚えていた」
「ああ…………そうだ」
「そして偏向的な性愛として考える時、母親に向けるものと幼児へと向けるものは対極であると僕に教えてくれたのはマミヤマだろう? なのに、どうしてサバトに下ってしまったんだ! なんで一人称まで変わっているんだ!?」

 おしゃぶりの奥で、彼は閉じた口を横へと引き伸ばした。
 どうやら、笑っているらしい。

「……マザコンという言葉。それは己にとっての生きる価値を端的に表現する単語であり、目指すべき山の頂、あるいは苦難の雨から己を守る樹冠」
「そうだろう、だからマミヤマはずっと――」
「――――だと、思っていた」
「なッ…………!?」

 過去形。

 あるいは、否定。

 マミヤマは昔の自分を、嗤って過去形にしていた。

 そんな。
 ウソだろ、マミヤマ。

「しかしイズミ、己は目覚めてしまった。あれはそう、他の大学へと『活動』に行った時だったか」
「――――ッ!? まさか、サバトの襲撃を受けた時のことを言ってるのか!?」

 マミヤマはあの時、『堕天使型』の攻撃を受けていた!!
 あれの影響を受けてしまったというのか!?

「そんなバカな、粉ミルクの投与が間に合っていたはずだ! ネクリによる『あなたの眠れない夜に❤ 甘やかしママのこもりうたCD(バイノーラル録音)』の録音再生により、その後の容態も安定していたのにッ!」
「……いや、いなかった。それだけでは足りなかった。己は気づいてしまった。己がもはやそれだけでは満たされないことに」

 商店街の真ん中で叫び訴えていた僕を遮り、マミヤマは自身の言葉によって彼自身を朗々と語った。

 そして、それはまるでアダムが知識の実を食べた後の失楽園のようであった、とも。

「そうなってしまえば、これまでの己の全ては味気ないものとなってしまった。そして、足はおのずと――――ああ……来てくださった」

 バサリ、と上で羽ばたく音が聞こえたかと思うと、どこかで聞いたような幼い声が降ってきた。

「バフォさまぁー! こんな感じでよかったんでしょうかぁー?」

 『堕天使型』、ダークエンジェル。

 あの時マミヤマへと攻撃を仕掛けた1体だった。

「あんまり1人でおそと出ちゃダメって言ってるじゃないですかぁー! 何かあったらどうするんですー!?」
「む、あまり堅いことを言うでない。お陰でそこの朴念仁とデートができたのじゃからな」

 バフォメットの隣にダークエンジェルが降り立ち、彼女らの長が不機嫌そうに指差すのにつられて僕のほうを見た。

「あらあら、アナタは大学の時のっ! バフォさま、あの方がバフォさまご執心な『アンチ・サバト』の彼で?」
「いかにもじゃが、今のあやつは我の乙女心を弄んだ野暮天じゃ。こてんぱんに懲らしめてやっとくれ」
「バフォさまのオトメゴコロをっ!? そりゃあいけませんねー!! ねーぇ、マーくん?」

 再びバサリと翼を広げると、彼女は仁王立ちするマミヤマの肩へと飛び乗り、親しげに話しかける。
 それはまさに、黙する巨人の肩で陽気にさえずる小鳥のような光景だった。

 そして、問われたマミヤマは彼女へ……。

「うん、そうだねママっ! マーくんもそう思うっ」

 ざわ、と。

 この場を恐々と遠巻きに窺っていたギャラリーの人々の間に、動揺が稲妻のごとく駆け巡った。

 それも仕方のないことだろう。
 仁王だと思っていた大男が突然に相好を崩したかと思うと、うってかわって純度100%の笑顔になったからだ。
 しかも、数瞬前まで地響きのようだった低音ボイスを発していた口から、裏声と聞き間違えてしまうような猫なで声まで出して。

「うんうん、マーくんはいい子だね〜♪ いい子いい子、よしよ〜し❤」
「わぁ〜い❤」

 ダークエンジェルの小さな腕がマミヤマの強面を抱えるようにして包みこみ、優しく頭を撫でる。
 対するマミヤマは、それを鼻の下をでろでろに伸ばしてされるがままに受け取っている。

「マーくんね、今もね、ママとはなれてたときにね、すご〜くさびしかったんだよ?」
「そうだね〜❤ マーくんは天使なママがいないとすぐに泣き虫さんになっちゃうもんね〜❤」

 そこには、いかつい巨漢が自分の肩にのれるような幼児体型の女性に全力で甘えまくっているという、ハートマーク増し増しの絶望的な幸せ空間が形成されていた。

「マミ……ヤマ……?」
「うんっ、ママはほんとうに天………………つまりイズミ、こういう事だ」

 そしてこちらを向いた時には、再び彼はモノノフのような鋭い眼光に戻っていた。

 …………いや、戻っていない。

 肩の幼女の手のひらが頭を行き来するたびに恍惚とした表情になるのを抑えきれていなかった。
 おしゃぶりからヨダレまで滴り、着けていたヨダレ掛けがまさかの本来の機能を発揮してしまっている。

 本当にどうしちまったんだよ、マミヤマッ――!?

「イズミ。己は……あふぅ……確かに以前、母性へと向ける性愛と、幼さへと向けるそれとは対極の位置にあると話したな?」
「あ、ああ…………」

 気迫に押されるようにして頷いてしまう。
 ちょくちょく恍惚としながら真顔で話す今のヤツには、それだけの凄みがあった。

「しかし、それは己の過ちであった。母性と幼性は両立する。むしろ、幼さこそ慈母の心を際立たせることに己は気づいたのだ。イズミ、バブみだ。全てはバブみだったのだ」

 ――――――バブみ。

 自分より年下の異性、特に年端のいかない少女に対して、強い母性を感じること。

 優しさ、面倒見のよさ、牽引力。
 それらを幼い女性が持つことにより、バブみという尊い現象が生じるのだ、とマミヤマは語った。

「想像してみろ、雨の降る外から帰ってきた自分を料理のおたま片手に出迎えてくれる幼女の姿を」

 静かな語りに引き寄せられるように、頭にその情景が流れ込んでくる。
 ヤツの言葉を聞くのはマズいと思うものの、自分の意識は勝手にイメージを浮かべてしまう。

 顔こそ想像できないが、その子はきっとエプロンもしくは割烹着姿で手を拭きながら玄関にやって来ると、雨でずぶ濡れの僕を見て「仕方ないんだから」などと言って笑い、タイミングよく沸いた風呂に入るように言ってくるのだろう。
 濡れた服も彼女に急かされるように脱がされて回収されてしまうが、その子は仕方ないとは言いつつも、実際には全て僕のためを想ってやってくれているのだ。

「母性に背の低さや体格などは一切関係ない。むしろ、高い棚を懸命にジャンプして開けようとしたり、サイズの合っていない大きな鍋つかみを手に付けて誇らしげにしている…………実に愛おしいと思わないか?」

 そうか…………!

 母性とは、つまり究極的には頼りがいであると思っていた!

 しかし彼の言う『バブみ』には、頼りがいに加えて、自分のために少し背伸びした振る舞いをしてくれているという、幼い子に特有の魅力まで付与されているのか!

「その顔はイズミも理解できたようだな。――――バブみの、なんたるかを」
「……ああ、悔しいが一理あるとは思ってしまった」

 なんということだろうか。

 マミヤマは、もはやただのマザコン変態野郎ではない。

 マザコンとロリコンの二世帯住宅とでも言うかのような、恐るべき密度の性的嗜好を内包した存在へと変貌していたのだ。

「バフォメット、今日会ったのはこれが狙いだったのか! お前は内通者という手の内を善意から明かしたわけじゃない! 今のマミヤマの姿を見せることでこちらへプレッシャーをかけ、あわよくばここで僕を屈させようと、そう考えていたんだな!?」

 バフォメットに問いかける。

 なんて策士だ。ただのお忍びであるなどとうそぶいたうえで油断させ、そして今や確実にこちらへとダメージを与えにきている。
 改めて僕は、自分が戦いを挑んでいる組織の恐ろしさを実感した。

 その組織の長たる彼女は、一瞬表情が固まってから鷹揚に頷いてみせた。

「そ、そうじゃ! よっ、ようやくおぬしも理解が及んだようじゃな! …………のう、こやつ数日前まではも少し普通ではなかったか?」
「えぇー? そうですか? でも、2人きりの時はいつも通り甘えてくれるんですよぉ? ばぶばぶーって、ねー?」
「ばぶぅっ!」
「う、うむ。そうか、それは良かったな」

 向こうではなにやら話し合いが行われているようだが、しかし僕が彼女たちに向けて投げる言葉は既に決まっていた。

「……今回のゲームは、そこのマミヤマから逃げきれというルールだったな? 分かった、受けて立つ! マミヤマ、僕はお前の主張がサバト的な思考に基づくものであると認識した。ならば『アンチ・サバト』としてお前に負けるわけにはいかない!!」

 堕天使を肩に乗せた大男に吼える。
 ヤツも僕を睨むと、不敵な笑みとともに両手の乳児用ガラガラを構えてみせた。

「言われなくとも! このベビーラトル、『往脚流丸 -オギャルマル-』の錆にしてくれるわ!!」

 そんな名前だったのか、そのガラガラ。

「よーし、マーくんいっくよ〜! あ、バフォ様は本部に戻ってくださいね?」
「え!? こ、このタイミングでか!?」
「は〜い❤ 勝手にいなくなってみんな心配してましたので! 早めにお願いしますねぇ❤」

 そしてなにやらバフォメットが無理やり帰宅させられる流れになり、大変不服そうな顔をしながら例の紫色の渦を作り出す。

「それでは、ダークエンジェルとその夫よ、きちんとそやつを捕らえてくるのだぞ! ……ただし、あまり痛いのはなしじゃからな! あと捕まえたらきちんと我の前に連れてくるのじゃ! それとイズミ、今回はこんなことになってしまったが――」
「ではまた〜❤」
「あっこら、ダークエンジェル!?」

 まだ何か話そうとしていた様子のバフォメットだったが、ダークエンジェルが彼女に手をかざして渦へと吹き飛ばしてしまう。
 突風のようなものを魔法で起こしたらしく、あぁぁー、と情けない感じの声をたなびかせてバフォメットが吸い込まれると、ボシュっと音を立てて渦は消えてしまった。

 だが、僕もそれをただボーッと見ていたわけではない。
 渦が閉じる瞬間を見計らって反転し、僕はマミヤマに背を向けて全力で走りだした。

「よし、来いマミヤマッ!」
「イズミィィィィィッッ!!」
「マーくん、捕まえちゃって〜!」

 わずかに遅れて、後ろからマミヤマがこちらに疾駆してくる気配。

 見物していた人たちが走ってくる僕らを避けようと、モーセの海のように人垣が2つに割れる。
 誰もが例外なく顔を引きつらせているのは、走ってくる人間の1人がオツムに限りなく近い白布を股間に装備しているためだろうか。

 だから僕は、この商店街を直進するのは様々な人にご迷惑をおかけする可能性を危惧し、進路を変更した。

「こっちだ!!」

 追走するマミヤマを誘導するように、大きく曲がって横道へと駆け入る。

「マーくん、右に曲がったよっ!」
「ばぶぅ!」

 ひどい相槌だなそれ!!

 しかしヤツは、驚くべきことにダークエンジェルを肩に乗せたまま走っていた。
 元から体格に恵まれていて筋力もあったマミヤマだが、子ども1人ぶんを背負って普通に走れるほどの身体能力はなかったはずだ。

 乗った堕天使がなんらかの補助をしているのか、あるいは…………。

「――――イイイヤァーッ!!」
「っとぉ!」

 こちらに考えるヒマすら与えるつもりはないようで、一足飛びに急接近したマミヤマは、右手の得物を袈裟斬りに振り下ろしてきた。

 慌てて前に転がった僕の背後すれすれを、カラカラカラカラ! と不吉な音がかすめていく。

「悪いがイズミ、これも命令よ」
「命令だよーっ!」

 そう言って仁王立ちするマミヤマは、膝をついた僕から見上げてみれば、遥か険しい山岳のようにすら錯覚してしまった。
 逆光で表情は見えず、肩に乗せた堕天使がさらに彼の存在感を強調している。

 マミヤマ………………敵に回すと、ここまで厄介な相手だったのか。

「この束の間のやり取りでも理解できただろう? ママからバブみを得た己と、何もないお前との差が」
「そんなことはない。まだまだ余裕だ」
「虚勢を。イズミ、今はサバトに寝返り性的嗜好も鞍替えした己を憎んでいるかもしれないが、きっとお前もサバトに行けばすぐに馴染めるはずだ」

 実際は余裕など微塵もない。
 力も、速さも、気迫も、今のマミヤマはかつての彼と比べて段違いだ。

 ただ、彼は1つ勘違いをしていた。

「マミヤマ、それは違う」
「なに?」
「お前がサバトについたことは非常に残念に思っている。情報を流していたことも同じだ」
 
 訝しげな様子の巨人を見据える。

「しかし、ロリコンを併発したお前を憎むつもりは、僕にはない。むしろ自分は、マミヤマがマザコンでありながらどこか満たされていない部分があることを案じていた。そして、そんなお前と相性の合致する適当なパートナーが見つかるのだろうか、とも」
「なっ…………!?」
「だけど、ついに見つけられたみたいだな。パートナーを」

 そして、肩に乗ったダークエンジェルに視線を向ける。

「その点に関しては、友人の1人として、お前とダークエンジェルの仲の良さを嬉しく思うよ」
「イズミ……」
「……今のお前は、確かに満たされているようだからな」

 しばらく呆然として動きを止めていたマミヤマだったが、やがて空を仰ぐと、さも愉快だといった風に笑いだした。

「くはははッ! イズミはどこまでも変わらないな! それでこそお前だ!!」

 感謝するッ、と。
 彼は体育会系特有の大声で叫んだ。

 その叫びとは裏腹に、両手の得物はよりしっかりと握り直す。
 彼は自分のガラガラを、腕に血管が浮き出るほどに強く握りしめていた。

「ならばイズミ、なおさらお前もサバトへ連れていかなければならなくなった! 案ずるな、お前もすぐに幼き者の魅力に目覚めるはずだ!」
「だがしかし、それは容認できない!」
「なにっ!?」
「『アンチ・サバト』の理念を忘れたのか、マミヤマッ! 我々は、サバトのフェチズムの押しつけに対して反抗する! ロリコンは強制的になるものではないんだ! そこだけは、認められない――――!」

 言葉を発することで自分に喝を入れ、すぐ横にあった立ち入り禁止ロープの下に滑り込み、大きな敷地へと侵入する。

「だから僕は、抗うんだよッ!!」
「待て、イズミッ!!」

 ここはかつてそれなりの規模の印刷所があった場所だが、今では倒産して廃墟と化していた。

 裏道に入ったのは、人目を気にしていたのもそうだが、本当の理由はこれだ。

 中に入るのは初めてだが、狙い通りに工場内は廃品で複雑に入り組んでいて、逃げるに易く追うに難い理想的な場所だった。
 大学帰りに商店街をたまにぶらぶらしていたのが功を奏したようだ。

 内部を駆け抜け、目についた長ハシゴを登って一気に上に向かう。
 そしてところどころ錆びた天板をくぐって工場の屋根部に出た時には、マミヤマは遥か下で立ち往生していた。

「マミヤマ! このハシゴは落下防止用の覆いが周りに付いている! その子を肩に乗せた状態で登ってこれるか!」
「ぐ、こんなもの、ママを降ろして登れば……」

 マミヤマの反論に覆いかぶせるようにして、こちらから先に説明をしてやる。
 彼の力の源たる、ダークエンジェルの存在を利用したこの攻略法を。

「……いいのか? ここはかなり高いぞ? 置いてくればマミヤマはその子と離れ離れになり、自力で登らせればその子の手がハシゴの汚れで真っ黒になるが――――いいのか!?」
「あ、あぶぅっ!? 卑怯な! 降りてこい!!」
「言っておくが、バフォメットが指定したのは『逃げきれ』というものだった! 鬼にわざわざ近づく鬼ごっこがあるか!!」

 廃工場から響く悔しげな声を聞きつつ、僕はドーム型の天井の端で腰を下ろした。
 大男からのプレッシャーを浴びつつ全力で走ったうえで、さらにハシゴを駆け上がる。
 下が汚れているのも気にならないくらいには、こちらも疲弊していたのだ。

 危なかった。
 もしまた普通に逃げていれば、確実にこちらに勝ち目はなかっただろう。

 息を軽く整えてから、念のために他に天井への登り口がないかどうかを確認しなければ。
 工場は一階建て、なおかつ地上から天井まではざっと10メートルは距離がある。

 そう簡単には登ってこれるはずが……。


「――――とでも思ったか、イズミ?」


 しかし、僕は失念していた。


 相手が魔物娘と、そのパートナーの2人であるということの意味を。


「ありがとう、ママぁ!」
「イズミくーん、ごめんねぇ❤」

 考えてみれば、彼らは最初に来た時も空から落ちてきていた。
 外から飛んでここまで昇ってくることなど、ダークエンジェルとそれに牽引されたマミヤマには造作もないことだったのだ。
 迂闊だった。

 空を飛ぶダークエンジェルから手を離されたマミヤマが、工場の天板にズシンと音を立てて着陸する。

「くそっ!」

 自分の失敗に気づいてハシゴへ向かおうとすると、その前に陣取るように堕天使が降り立った。
 完全に挟み撃ちにされた格好だ。
 両側からじりじりと距離を詰められ、天井の端へと追い詰められていく。

「わざわざ袋小路へと逃げるとは、世話ないなイズミ。もう終わりだ、決着はついた」
「………………」

 言葉を返す余裕すらない。

 左前には、サバトの尖兵たる堕天使。
 右前には、全身を乳幼児コーデで固めた異次元存在。
 そして後ろは、10メートルの高さの崖。

 端まで下がった僕の踵が天板の隅を踏むと、ボロボロと錆びが崩れて遥か地上へと落下していくのが分かった。

 状況は、あまりにも絶望的だった。

 マミヤマは武器を下ろし、腰の白布へと挟みこむ。
 もはや武器すら必要ないという意思表示のつもりか。

「将棋でいう詰み。チェスでいうところのチェックメイト。そんなところか?」

 彼はそう言っているが、僕にそこまでの価値はないだろう。
 部下もなしに1人でひたすら尻尾巻いて逃げ回る、そんなキングかいてたまるものか。

「マミヤマ。アネサキ先輩はどうした?」
「……まさか、時間稼ぎのつもりか?」
「そうだ。そして、稼ぐ意味がないことも知っている」
「はは、潔い。……己はアネサキ先輩のことは詳しくは知らん。だが、懐柔に苦戦しているとは風の噂に聞いた」
「そう、か」
「助けよう、なんて考えちゃダメだよー? 残念ながら、今はイズミくんが捕まる番なんだからねぇ?」

 ダークエンジェルがふわりと飛び上がる。
 ばさばさと羽ばたく小さな翼に、その前でかざされる紫紺のモヤが集まった手のひら。

 あれを受ければあえなく僕は気絶し、本部へと連れ込まれたあげくに良くてロリコン、悪ければもっと得体のしれない何かへと洗脳されてしまうだろう。

 性的嗜好の外部からの強制的改変、それは何よりも恐ろしいことだった。
 
 ならば、いっそのこと…………!

「イズミやめろ! 飛び降りる気か!? 死ぬぞ!」
「たったの10メートルだ。それに、死ぬつもりはない」
「そこまでして守る価値があるのか、『アンチ・サバト』は? もうお前以外、誰も残っていないのに!?」

 そうだ、誰も残っていない。

 以前サバトから逃げた時には、アネサキ先輩からのアドバイスがあったからこそ逃げきることができた。

 小学校での作戦は、イマリやフタバ姉妹が居たからこそできたものだった。

 僕1人では、こうして逃げるだけ逃げて自ら追い詰められるのがせいぜいだ。

 小・中・高とそうだった。
 サバトの猛威に1人で抗おうとして、ことごとく失敗して。

 今回も結局、何の意味もなかったのだろうか?

 ……いや、そんなはずはない。

 『アンチ・サバト』は潰させない。

 下をわずかに窺うと、地上に向かって雨どいからの配管が配置されていた。
 あれをつたっていけば、一か八か――――。

 ――しかしその時、予想だにしなかった展開が訪れた。

「…………ウソだろ」
「イズミ!? 聞いてるのか!?」

 ロープで封鎖された廃工場の入り口をぶっちぎって、軽トラが敷地に突っ込んできている。

 ウソだろ、としか言いようがない。

 しかし運転席から身を乗り出した1人のジェスチャーを見る限り、ウソでもなんでもないらしい。

「マミヤマ、バフォメットに伝えてくれ。8日後だ。8日後、それだけ伝えればきっとあいつは分かるだろう」
「何を、言っている?」
「2人とも、この鬼ごっこは…………悪いが、こちらの勝利だ」
「ま、待てっ――――!」

 あいにく待つつもりなど毛頭ない。

 来てくれたこと、それだけで自分の身を委ねるには充分な理由になるのだから。


 僕は身を乗り出し、地上へと自ら飛び降りた。


 『Twin FLOWERs』と描かれたトラックの、花木の鉢が満載された荷台に向かって。










 《30日目 同日》


 左右に広がる街並みが、恐ろしい勢いで後方へと流れていく。

 隣の車線を走っていた普通車の一群は、並走したかと思った瞬間には既にこちらが追い抜いていた。

「…………それで、この状況はいったい?」

 誰に言うでもなく、ただ問いかける。

 すると、最も近い場所で作業していた1人が顔を上げ、半眼でこちらを見てきた。

「……兄さんがそのセリフ、言えると思う?」

 僕のことを兄さんと呼ぶのは1人しか居ない。
 イマリだ。

 自分のケータイで開いた地図アプリとにらめっこをしていたらしい彼女は、ため息とともにケータイを閉じた。
 そして、荷台の植木鉢を掻き分けてこちらへと近づいてくる。

「兄さんが、そのセリフ、言えると、思う?」

 怒っていた。

 妹は怒っていた。

 近年まれに見るほどに、怒っていた。

「説明して」
「えっ……?」
「何をしてたのか、説明して」

 有無を言わさぬその口調に、考える。
 身体をツタやらなにやらで縛られたまま、考える。

 ……そう、ツタだ。

 高い所から飛び降りたはずの僕は今、なぜかトラックの荷台で植木鉢に囲まれ、その花木から伸びてきたたくさんのツタに拘束されていた。
 下半身など、どういうわけか超デカくなった白い花に飲み込まれている状態だった。

 空中でツタに捕らえられ、花弁へとホールインワンだった。
 自分で言ってて意味が分からない。

 そして今、目の前で妹が激怒しているという状況。

「……その。ちょっと会議で外に出てました」
「知ってる」
「そしたら、よく分からないうちにサバトのボスと食事する流れになってました」
「知ってる」
「………………」
「…………それで?」

 心なしか、腕に絡んだツタの締め付けが強くなっている気がする。
 それも、血圧計のようにじわじわとした動きで。

「敵のボス……バフォメットは、昇天MAXバイコーンメガ盛りぜんざいを摂食していました」
「知ってる。あと、昇天MAXバイコーン昇天メガ盛りぜんざいね。間違ってるよ」
「……………………」

 それで、と訊かれる。
 妹の半眼はさらに細目になっていく。

「……マミヤマが上から落ちてきました。主張のぶつかり合いを経て、こちらは逃走に至りました」
「知ってる。オムツ履いてたね」
「はい。そして商店街裏手の倒産した印刷所の天井に登りました。マミヤマも来ました」
「知ってる」
「…………飛び降りて、現在に至ります」
「知ってる。それで?」
「追っ手から、逃げることができました」

 あの後マミヤマがどうなったのか確認するすべはもうないが、とりあえずこの走るトラックには追いつけないだろう。

 念のため後方を確認しようとして…………がしりと頭を掴まれた。

「反省! 兄さん、反省!!」
「うわ!?」

 そして耳元で怒鳴られた。

「兄さん、なんであんなことしたの!? どれだけ危険だったか分かってる!?」
「わ、分かってる。勝手に行動し、軽挙で敵のボスに捕まり、逃走経路も選択ミスだった。今後の改善に向け、これらは全て猛省し――――」
「ちっ、がぁぁぁぁぁぁう!!」

 ぐりぐりぐりぐり! とイマリの頭がこちらのみぞおちに押し付けられる。

「いだだたたたた!!」
「分かってない! 兄さんは分かってないよ! 『山羊角型』に捕まったらどうするの!? サバトに捕まったらどうするの!? 落ちてケガしたらどうするの!? マミヤマさんに捕まったらどうするの!?」
「ちょっ、イマリっ」
「兄さんがオムツマッチョになったら私はどんな顔すればいいの!?」

 なんか新しい単語が出てきた。

 とりあえず、僕は今のところオムツにもマッチョにもなる予定はない。

 頭を押し付けてくるイマリに困り果て、荷台にいるもう1人の方を見やる。

「なにイズミ、頭よりもこっちの方がいいの?」

 そう言って、フタバ姉妹の1人が僕に鋭く光る熊手で空を掻くようなそぶりをしてみせた。
 植木鉢たちの土いじりに使われていたその熊手は、引っ掻かれたらとても痛そうだ。

 彼女もやはり、怒っているようだった。

「……皆、すまない。独断専行が過ぎた」
「赤点! 赤点だよイズミ!」

 ぎりぎり、とツタの締めつけが強くなった。
 下半身が埋め込まれた花も、うぞうぞと気味の悪い動きで揺れている。

「な、なんだこれ!?」
「おら、もっとマシなこと言えー! イズミー!」
「わ、分かった! 僕が全面的に悪い! 1人でやろうとして失敗し、皆には大変迷惑をかけた! しかもこうして助けてもらって、情けない限りだ!」

 妹が頭を上げる。

 目が潤んでいた。

「い、イマリっ!?」
「兄さん……私ってそんなに信用ないかな?」

 瞬きすると、ついに目の端からこぼれてしまった。
 それでも妹はじっと僕を見て、返答を待っていた。

 もうこれは、ごまかすことはできないか。
 妹にこんな顔をさせるなんて、兄として最低だ。

「イマリ、信用がないとかじゃないんだ。むしろ、皆のことを巻き込みたくなかったんだ」
「……それなら、兄さんはサバトに捕まってもいいってこと?」
「良くはない。だが、皆のぶんまで彼女らからの注意を引こうとして動いてしまった」
「ダメだよ、それじゃ……。兄さんがあの人たちに捕まっちゃうの、やだよぉ…………!」

 ぐずぐずと鼻を鳴らすイマリが、また頭をくっつけてくる。
 今度は先ほどのぐりぐりではないが、顔を思いきり胸に押しつけられ、僕の背中には腕も回されていた。

 だが、胸が苦しいのはきっとそれだけのせいではないだろう。

「お兄ちゃん、いなくなっちゃやだよぉ……! イマリのお兄ちゃんなんだからぁ……」
「ごめん、イマリ。本当にごめん」

 横から近づいてきたフタバが、巻きついていたツタに手を当てる。
 それだけでツタはシュルシュルと縮んでいき、下半身の巨花もコンパクトなサイズへと戻っていった。

 イマリとともに荷台に座り込むと、つられるように隣にフタバも腰を下ろした。
 まだ頭を離す気は全くないらしい。

 妹のサラサラ髪の頭を懸命に撫でつつ、相変わらず手には銀光りする熊手を持っているフタバへと顔を向ける。

「フタバも、ごめん。心配かけたみたいだ」
「『みたいだ』じゃ点数は上げられないかなー?」
「心配かけた、もう1人では決して行動しないと誓うよ。皆がいなきゃ、僕はあそこでおしまいだった」
「そうだね、ようやく私らの大事さが分かったっしょ? 全員に感謝しなよ?」
「……本当にありがとう」

 熊手が近くの植木鉢の土に突き刺され、くっつくイマリの反対から肩を組まれた。

「じゃ、イマリちゃんもほら。今度このアホにあの和菓子屋でオゴってもらうってことで! それでお兄ちゃんのこと許したげて!」
「……昇天MAXバイコーン昇天メガ盛りぜんざい」
「おーけー! じゃあそれ4人ぶんね!」

 一気に今月の財布が大ピンチになるが、仕方あるまい。
 喜んで奢らせてもらおう。

「分かった。イマリもああいうの好きそうだしな」
「……それだけじゃ、ないけど」

 それだけじゃない?
 もっと他にも目を付けているものがあるということだろうか?

 いや、そこまで来ると4人ぶんというのは少々厳しいものが…………って。

「この軽トラ、運転してるのってフタバだよな?」
「そ。姉さんだね。ウチの家の仕事用のだけど、結構私らも自由に使ってるんだよ?」

 そういえば以前雑談の流れで、彼女らの家は花屋であると聞いた覚えがあった。
 『Twin FLOWERs』という店名も、フタバたちが産まれた時に名付けられたと。

「あ、これ気になる?」

 近くの植物に手をかざすと、花がうねうねと手の周りで跳ねるように揺れる。
 ロックンフラワーみたいな動きだった。

 確かにそれも気にならないと言えばウソになる…………というより、めちゃくちゃ気になる要素ではある、が。

「それも気になるが、さっき4人って言ったよな? ネクリも来てるのか?」
「あー、それね?」

 爆走していたトラックは、いつの間にかトンネルへとさしかかる。
 左右は林になっており、正面のトンネルのみが道路に向けて大きく口を開いていた。

 ここは知っている。
 確か隣接した市との境にある通行路のはずだ。
 つまり、僕たちは市の端にまで来たことになる。

 しかしトラックはトンネルには入らず、減速してその前の横道へと入り込んだ。
 どうみても一車線・一方通行なそこは、足元も舗装されていない林道をガタガタと走っていく。

「うん。まあ色々あるんだけど、到着してから全部イズミにも話したげるよ」
「到着? いったい、どこへ――――」
「……と言っても、もう着くんだけどね」

 そうフタバが言った瞬間。

 周囲の景色が突然、変化した。

「………………はぁっ!?」
「あはは、イズミすっごいヘンな顔!!」

 隣で笑っているが、それどころではない。
 それはあまりに唐突だった。

 午後の日差しは、突如として宵闇に。

 林間だった風景は一気に視界が広くなり。

 道路はなんと、石造りの橋に変化していた。

 そして、真っ直ぐに伸びる橋の向こう岸には……。

「ま、魔王の城…………?」
「あっはははは! 最初の時の私らと同じこと言ってる!!」

 向こう岸には、黒々とした城が鎮座していた。
 暗い空へと突き刺すように伸びる塔が幾つも寄り集まって造られたような外観の、城。

 そんな城が、周囲全てが陥没した地形の、中央の地面にそびえ立っている。
 城へと至る道は、ここから見る限りこの大きな石橋一本しか存在していなかった。

 上を何かがバサバサと通ったかと思ったら、コウモリの群れが飛んでいた。
 それにもいっさい構わず、トラックは安全運転という言葉にケンカを売るような速度で橋を直進していく。

 みるみるうちに城が近づいて視界を埋めつくし、乗っていた車はクラクションを1つ鳴らすと、正面にあった大きな門へと入り込んでしまった。

「はいはい、イズミが驚いてる間にとうちゃーく!」
「お、おいっ、ここはどこなんだ!?」
「さ、降りた降りた!」

 門と建物の間の部分に存在する…………中庭的な場所でトラックが停まると、僕はフタバに急かされて荷台から降りた。
 飛び降りた拍子に足が柔らかい土の地面に触れ、身体がわずかに沈む。
 トラックに乗っていた他の3人も、降りて後ろからやって来ているようだった。

 こうして近づくと、一層この城の巨大さが分かる。
 尖塔の天辺など、下から見上げると全く見えない高さに存在している程だ。

「フタバ、イマリ、これは!?」
「………………家?」

 答えは予想外のところから返ってきた。
 具体的には、城を見上げていた僕の正面から。

 視線を下げれば、見慣れた顔が立っていた。
 いつも気だるそうにしている、その顔は……。

「ネクリ!」
「………………とりあえず、入る」
「あ、おい! ちょっと待て!」

 背を向けて歩き出そうとするネクリを慌てて呼び止める。
 呼び止めるというよりは、ヤツのいつもの黒パーカーの肩を掴んで止めるといった格好になった。

「いや、説明してくれ! ここはなんなんだ!?」
「…………あー」
「ごめんネクリちゃん、まだイズミにゃ話してなかったんだ!」

 なるほど、といった様子で頷いているネクリ。
 彼女はゆっくりとした動作で口元に手をやると、「…………こほん」などと咳払いのような真似をしてみせた。

 そして。

「………………あらためて自己紹介。私はネクリ」
「いや、何を言って……」
「………………魔物で言うところの、リッチ」

 ――――――ん?

 空気が、凍った。

 いや、凍っていたのは僕だけかもしれない。
 目の前の小柄な少女はいたって平然としていたからだ。

 しかし僕が問い直す前に、ネクリはさらなる爆弾を投下してきた。



「………………あと、サバト“穏健派”の支部長なんかもやってたりする。ようこそイズミ、私のお城へ」
 
 
 
17/05/30 01:05更新 / しっぽ屋
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■作者メッセージ
 
今回のパワーワード:マザコンとロリコンの二世帯住宅

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