8:黒い嫉妬の池[ショゴス]
混沌より出でし魔物娘、種族はショゴスのフォーカリア。通称カリア。
彼女は魔界から人間界へと移り住み、夫の業務サポートと、家事をこなしている。
夫、渋谷 将吾の職業は、個人のタクシードライバーだ。
「いろんな人を乗せて、いろんな所へ行くのが好きだ」
そう言って日々真剣に業務を行う将吾。
そんな姿に、いつしかカリアも惹かれていた。
(彼女の身体で出来た)無線機から、声が聞こえる。
『ちょっと休憩するよ。大体15:00ぐらいまで。』ザザッ
珍しい。
そう思ったが、普段は働き過ぎるきらいのある彼だ。
それが最近は、将吾自ら休息を取ってくれる。
やっと分かってくれたかと、カリアは内心ほっとした。
「畏まりました。どうぞごゆっくり。」
車載GPSは、繁華街の外れを指していた。
***
カリアは此処に来てから、随分と家具を更新した。
ベッド、テーブル、ソファ、花瓶(割った為)、一部食器類(割った為)...
大体緑色をしている。
彼女は緑色が大好きだ。
自身の名前も、植物の種類から付けたぐらいだ。
いつか、部屋を全部緑に出来たら...
などと夢想しながら、平和な午後を過ごしていた。
ここまでは、平和な日常だったのだ。
カリアが服の片付けを行っていると、
ヒラリ、と、夫のスーツから何かが落ちた。
ああ、ちゃんと纏めて置いておかねば、紛失の元だ。
そう思いカリアは
『株式会社▼▼ 古谷 巧』
の名刺と
『"また来てネ♥️" オトハ 〜素人人間専門店●●〜』
のカードを机に置いた。
そして次のワイシャツへと手を伸ばしそうになった所で、カリアはピタ と止まった。
「...おや...?」
彼女の身体に青みがサッと差した。
そして見間違い?と、机に置いたカードを見る。
「またきてね、おとは、しろうとせんもんてん...」
思わず、自分の視覚がおかしくなったのでは?と、声に出して読み上げてしまった。
カリアは、そのカードの意味を、何度も何度も見直して、追い付かない頭で考えた。
またきてね...?
ま た ?
少しの間、呼吸を忘れていた。
店の名前を調べてみる。
フリック入力がいつも以上に上手くいかず、何度も訂正しながら。
いかにも、といった風の、いかがわしいサイトが表示される。
「この、住所」
ゆっくりと、振り返る。
『休憩中』の彼の、車載GPSが指す場所と、手元のスマホが指す住所の距離は、
50mも無かった。
***
私は、ドーマウスのモモカ。
今日は事前に、家事をトモヤさんがやってくれたので、絶賛お昼寝中。
大好きな旦那様のトモヤさんはお仕事中だから、少し寂しいけど...
左隣の、ショゴスの奥さんが洗濯物を干す音と、
右隣の、キキーモラの奥さんが洗い物をする音をBGMに、
お気に入りのチーズ型のクッションを抱きかかえながら、うとうとしていた。
刹那。
私の体は跳ね起き、キキーモラさん側の壁に張り付いていた。
「はぁ...っはぁ...っ...!?」
激しい動悸と共に、何が起きたのか、頭を整理する。
本能。
本能が、反射的に身体を動かしたんだ。
何?なんなの?
ショゴスさん家から?
今の、"殺気"?
最近トモヤさんの買ってる漫画に、「覇気だけで敵を倒す」みたいなのあったけど
やられる側は、こんな気分なのかな...
パリン
壁の向こうから、食器の割れる音が聞こえた。
恐らく、お隣の奥さんも、同じ状態なんだろうな。
キキーモラさん家に避難させてもらお...。
と、とりあえず、パンツ履き替えなきゃ...ちょっと漏らしちゃった...
......
「安藤さああん怖かったよおおう!!...あ。」
「あ。」
お隣さん家に駆け込むと、パンツ履き替え中のキキーモラさんが、そこにいた。
***
渋谷 将吾は、それこそウキウキとした面持ちで、帰路についている所だった。
彼女にはバレてないだろうか。
そんな不安だけがあるが、何、妻はそれでも大丈夫だろう。
「カリア、今から帰るよ。途中、帰り道同じお得意さん乗せるから。」
『...畏まりました。』ザザザザッ
「...カリア...?」
将吾は違和感を感じた。
いや、"違和感程度にしか"感じないぐらいに、鈍感な男だった。
普段のカリアは解りやすい分、助けられている節がある。
しかし、最後の乗客は違った。
「ヒッ」
「ん?どうしました?」
「いや、どうしましたって...渋谷さん、大丈夫なんですか...?」
「???...まぁ、なんとかなるでしょ!」
アッハハハと笑う将吾だが、乗客の顔は強ばっていた。
そのまま駐車場に車を停め、アパートの階段を登った辺りで
流石に能天気な彼も気付いた。
なんだか、おかしい。
生暖かい、湿った、息苦しい空気。
兎に角、進むしかあるまい。
コツ、コツと進んでいると、
ガチャリ...
通り過ぎようとした扉が開く。
内心、ビクッとした。
中からキキーモラの奥さんが覗いていた。
「こ、こんばんはー?」
「「......あの」」
何故かお隣さんのドーマウスの奥さんまで一緒に居る。
悲哀に満ちた顔で見つめられた後、
「「生きて、くださいね」」
とだけ言われた。
え?何?この状況。
すごく怖いんだけど。
***
ドアノブに手をかけた。
生暖かい。
扉を開ける。
普段は毎日、『お帰りなさいませ』と声をかけてくれる妻が見当たらない。
そして、この、なんだ?
夏の熱帯夜のような。
生ぬるい、生物の口の中のような。
湿った、重く熱を持った空気。
「おーい、カリア?」
廊下を歩き、キッチンを見たとき...戦慄した。
「な、なんだこりゃ!?」
ぼとり、ぼとり。
重みのある水音。
上の食器棚から、『黒い何か』が、染み出して落ちていた。
シンクの排水溝に入るでもなく、真っ黒い水溜まりを作っている。
「カ、カリアさーん...?」
恐る恐る、廊下を進む。
窓辺の花は、重油のようなものに埋もれていた。
これは、彼女の身体だ。
将吾は直感した。
彼女の身体は、日用品から家具まで、色んな物を生成できる。
そして色彩や質感も自由自在なのだ。
本人そのものの体色すら、普段は深緑に染めている。
感情によって、色も変わっていた。
楽しいとき、嬉しいときは、緑が明るくなる。
悲しいとき、驚いたときは青くなる。
恥ずかしい時は、赤くなる。
そして、黒くなる時は...。
しかし、ここまで黒くなるほど、彼女が怒っているのを見たことがないし、怒らせるような事をした覚えがない。
もはやこれは、黒と呼ぶにはあまりに、光を反射していない。
それに周りの家具達が、火災の跡地のように、ドロドロの黒い不定形の塊になってしまっている。
壁にかけていた絵画が、絵の具の仕事を忘れたかのように、下にドロドロと溶けて垂れていた。
奥の寝室の扉を開ける。
「うっ...!!」
蒸し暑い。
殺人事件の現場のような黒い飛沫が、そこかしこに飛び散っている。
ベッド"だった"所には、
大きな『黒い池』が出来ていた。
ごぽ、ごぽ、しゅう、しゅう、と泡をたてている。
「カリアさーん?なんか、ご機嫌、ナナメかなー??アッハハハ...?」
塊が、こちらを見た。
大きな一つ目。
怪しく黄色い光を放つ、大きな眼球が、塊から浮かび上がってこちらを視認した。
その瞬間、背中に強い衝撃が加わった。
「でっ!?ちょ、ちょいちょいっ危なっ!!危ないって!!」
沸騰する黒い池に頭から突っ込みそうになる。
インキュバス化して多少上がった筋力を総動員して、後ろから襲ってきた相手を押し退けようとする。
ふにゅり。
なにか、触り慣れたものが手に収まった気がした。
「か、カリア!?」
「お帰りなさいませ、ご主人様。」
そこにはスッキリと括れた身体以外、なにも身に付けていないと"思われる"、カリアの姿があった。
"思われる"と濁したのは、彼女の身体がブラックホールのように黒一色で一切光を反射しておらず、全体の輪郭でしか分からなかったのだ。
なおもグイグイ将吾の身体を池に向かって押しながら、いつもの挨拶をするカリア。
しかし、将吾は悟った。
あ、これ常連さんの言ってた『ハイライトがバイバイした眼』ってヤツだ。
「ふふ、ふ、ふ!お待ちしておりました。」
「と、とりあえず落ち着こう!な!如何にもやばげな液体に晒されんのは流石に勇気要るから!!」
「大丈夫ですよ。他の女にご主人様を渡すぐらいなら、その身、溶かしてヒトツになる方が良う御座いませんか?」
「今!ねえ今溶か...溶かすって言った!言ったよね!?」
「ちょっとした"ろ過"で御座いますよ。」
しれっと言う。
「ろ過て!!」
「ふふ、ふふ、ふ、ふ!!ワタクシとヒトツになれば...あんな人間の娘など忘れて、ずっと、ずっと、一緒で御座いますよ!」
ジュウウ
靴下のかかとが一瞬で焼け溶けた。
「アッツゥイ!!ねぇ!?カリアさんや!?また内緒で車のパーツ注文したのは謝るから!!てか、人間の娘って何の事さ!?」
「...あくまで、シラを切る、と。」
背後の熱が更に上がった気がした。
ひらり。
右下が少し焼け爛れたカードが、目の前に取り出された。
「なんだこ...れ...ぁ」
気まずそうに、将吾は視線を反らす。
反らした先にも黄色く光る眼球があった。
「ほう、ほう、ほう。」
チリチリと服が熱で焦げて行くのが解る。
身体を押すカリアの手からも、じわじわと熱が伝わってくる。
「さて。ご主人様。」
肩のあたりからゴポゴポと沸騰した泡を立ち上らせながら、隠すことの無くなった狂気の目を将吾に向ける。
「何か、申し開きは御座いますか?」
あー、とか、うー、とか、
普段と打って変わって歯切れの悪い将吾。
「...なにも言い残すことは無い、と。」
「わあああ熱い熱い!!分かった!分かった!言うよ!!」
観念したように将吾はへたり込んだ。
***
「...今、なんと。」
「預かり物なんだよ、あのカード...。」
正座のまま、説明する将吾。
少しでも変なことを言うと、背後の池が文字通り全部溶解してしまいそうな、そんな状況。
彼には真実を語るしか道はなかった。
「中島さんっていう常連さんがね?昔、通ってたらしいんだ。それで、ふと内ポケットを見たときに、このカードが入ってた訳。」
ふむふむ、とカリアは頷く。
どうやら、聞いてくれる体制にはなったみたいだ。
「んで、あそこの奥さん、中島さんが何かヤマシイ事があると、すーぐバレるんだと。降りる直前だったから、んじゃ私が預かっときますわーって、預かっちまった、て訳...カリア?何してんの?」
スマホで撮影したカードの画像を、誰かに送信しているようだった。
『高音様』と、書かれていたような気がした。
「お気になさらず。それでは、最近のご休憩や、繁華街への頻繁な停車は、何だったのですか?」
「あー、まぁ分かるよね。...魔界の道具屋さんで、これを選んでたんだ。」
小さな箱を差し出す。
カリアが開けると、そこには。
「首飾り...で御座いますか。」
「一年なんだ。君が此処に来てから。」
キラキラと光る、アンモライト。
光の加減によって、虹色に輝いていた。
「......」
無言、だが。
体は鮮やかな緑と赤のマーブルになっている。
というか、めっちゃプルプルしている。
「...ありがとう、御座います。」
「こちらこそ、ありがとう。君のお陰で人生楽しく過ごせてるんだから。」
家具達は何事も無かったかのように、元に元に戻っていた。
「...と、言うわけで、ごめんね?変な心配をかけちゃって。」
「こちらこそ、取り乱してしまい、申し訳御座いませんでした。」
「サプライズのつもりが、こっちが不意討ち貰っちゃったよ!アッハハハ!...んじゃ、夕食の準備でも...うぉ!?」
ぐい、と、正座の体制に戻される。
「ふふ、ふ、ふ。まだお話は終わっておりませんよ?」
「え?...あ」
焦ったが故の自爆に、今さら将吾は気づく。
「さて...二度目、で御座いますか。」
また、部屋の温度が上がった気がした。
「い、いやー、あのパーツ、限定ものでさ...アハハ...」
「ヒトツになろう、などはもう申し上げません。...しかし、ここは一つ、"お灸"を据えねばなりませんね。」シュウウ
「アッツゥイ!!ごめん、ごめんて!!」
「今回は、逆転などさせませんよ?ご主人様。」
あ、これ、本気のヤツだ。
部屋の緑達が、少し明るく、それでも熱く、泡立った。
彼女は魔界から人間界へと移り住み、夫の業務サポートと、家事をこなしている。
夫、渋谷 将吾の職業は、個人のタクシードライバーだ。
「いろんな人を乗せて、いろんな所へ行くのが好きだ」
そう言って日々真剣に業務を行う将吾。
そんな姿に、いつしかカリアも惹かれていた。
(彼女の身体で出来た)無線機から、声が聞こえる。
『ちょっと休憩するよ。大体15:00ぐらいまで。』ザザッ
珍しい。
そう思ったが、普段は働き過ぎるきらいのある彼だ。
それが最近は、将吾自ら休息を取ってくれる。
やっと分かってくれたかと、カリアは内心ほっとした。
「畏まりました。どうぞごゆっくり。」
車載GPSは、繁華街の外れを指していた。
***
カリアは此処に来てから、随分と家具を更新した。
ベッド、テーブル、ソファ、花瓶(割った為)、一部食器類(割った為)...
大体緑色をしている。
彼女は緑色が大好きだ。
自身の名前も、植物の種類から付けたぐらいだ。
いつか、部屋を全部緑に出来たら...
などと夢想しながら、平和な午後を過ごしていた。
ここまでは、平和な日常だったのだ。
カリアが服の片付けを行っていると、
ヒラリ、と、夫のスーツから何かが落ちた。
ああ、ちゃんと纏めて置いておかねば、紛失の元だ。
そう思いカリアは
『株式会社▼▼ 古谷 巧』
の名刺と
『"また来てネ♥️" オトハ 〜素人人間専門店●●〜』
のカードを机に置いた。
そして次のワイシャツへと手を伸ばしそうになった所で、カリアはピタ と止まった。
「...おや...?」
彼女の身体に青みがサッと差した。
そして見間違い?と、机に置いたカードを見る。
「またきてね、おとは、しろうとせんもんてん...」
思わず、自分の視覚がおかしくなったのでは?と、声に出して読み上げてしまった。
カリアは、そのカードの意味を、何度も何度も見直して、追い付かない頭で考えた。
またきてね...?
ま た ?
少しの間、呼吸を忘れていた。
店の名前を調べてみる。
フリック入力がいつも以上に上手くいかず、何度も訂正しながら。
いかにも、といった風の、いかがわしいサイトが表示される。
「この、住所」
ゆっくりと、振り返る。
『休憩中』の彼の、車載GPSが指す場所と、手元のスマホが指す住所の距離は、
50mも無かった。
***
私は、ドーマウスのモモカ。
今日は事前に、家事をトモヤさんがやってくれたので、絶賛お昼寝中。
大好きな旦那様のトモヤさんはお仕事中だから、少し寂しいけど...
左隣の、ショゴスの奥さんが洗濯物を干す音と、
右隣の、キキーモラの奥さんが洗い物をする音をBGMに、
お気に入りのチーズ型のクッションを抱きかかえながら、うとうとしていた。
刹那。
私の体は跳ね起き、キキーモラさん側の壁に張り付いていた。
「はぁ...っはぁ...っ...!?」
激しい動悸と共に、何が起きたのか、頭を整理する。
本能。
本能が、反射的に身体を動かしたんだ。
何?なんなの?
ショゴスさん家から?
今の、"殺気"?
最近トモヤさんの買ってる漫画に、「覇気だけで敵を倒す」みたいなのあったけど
やられる側は、こんな気分なのかな...
パリン
壁の向こうから、食器の割れる音が聞こえた。
恐らく、お隣の奥さんも、同じ状態なんだろうな。
キキーモラさん家に避難させてもらお...。
と、とりあえず、パンツ履き替えなきゃ...ちょっと漏らしちゃった...
......
「安藤さああん怖かったよおおう!!...あ。」
「あ。」
お隣さん家に駆け込むと、パンツ履き替え中のキキーモラさんが、そこにいた。
***
渋谷 将吾は、それこそウキウキとした面持ちで、帰路についている所だった。
彼女にはバレてないだろうか。
そんな不安だけがあるが、何、妻はそれでも大丈夫だろう。
「カリア、今から帰るよ。途中、帰り道同じお得意さん乗せるから。」
『...畏まりました。』ザザザザッ
「...カリア...?」
将吾は違和感を感じた。
いや、"違和感程度にしか"感じないぐらいに、鈍感な男だった。
普段のカリアは解りやすい分、助けられている節がある。
しかし、最後の乗客は違った。
「ヒッ」
「ん?どうしました?」
「いや、どうしましたって...渋谷さん、大丈夫なんですか...?」
「???...まぁ、なんとかなるでしょ!」
アッハハハと笑う将吾だが、乗客の顔は強ばっていた。
そのまま駐車場に車を停め、アパートの階段を登った辺りで
流石に能天気な彼も気付いた。
なんだか、おかしい。
生暖かい、湿った、息苦しい空気。
兎に角、進むしかあるまい。
コツ、コツと進んでいると、
ガチャリ...
通り過ぎようとした扉が開く。
内心、ビクッとした。
中からキキーモラの奥さんが覗いていた。
「こ、こんばんはー?」
「「......あの」」
何故かお隣さんのドーマウスの奥さんまで一緒に居る。
悲哀に満ちた顔で見つめられた後、
「「生きて、くださいね」」
とだけ言われた。
え?何?この状況。
すごく怖いんだけど。
***
ドアノブに手をかけた。
生暖かい。
扉を開ける。
普段は毎日、『お帰りなさいませ』と声をかけてくれる妻が見当たらない。
そして、この、なんだ?
夏の熱帯夜のような。
生ぬるい、生物の口の中のような。
湿った、重く熱を持った空気。
「おーい、カリア?」
廊下を歩き、キッチンを見たとき...戦慄した。
「な、なんだこりゃ!?」
ぼとり、ぼとり。
重みのある水音。
上の食器棚から、『黒い何か』が、染み出して落ちていた。
シンクの排水溝に入るでもなく、真っ黒い水溜まりを作っている。
「カ、カリアさーん...?」
恐る恐る、廊下を進む。
窓辺の花は、重油のようなものに埋もれていた。
これは、彼女の身体だ。
将吾は直感した。
彼女の身体は、日用品から家具まで、色んな物を生成できる。
そして色彩や質感も自由自在なのだ。
本人そのものの体色すら、普段は深緑に染めている。
感情によって、色も変わっていた。
楽しいとき、嬉しいときは、緑が明るくなる。
悲しいとき、驚いたときは青くなる。
恥ずかしい時は、赤くなる。
そして、黒くなる時は...。
しかし、ここまで黒くなるほど、彼女が怒っているのを見たことがないし、怒らせるような事をした覚えがない。
もはやこれは、黒と呼ぶにはあまりに、光を反射していない。
それに周りの家具達が、火災の跡地のように、ドロドロの黒い不定形の塊になってしまっている。
壁にかけていた絵画が、絵の具の仕事を忘れたかのように、下にドロドロと溶けて垂れていた。
奥の寝室の扉を開ける。
「うっ...!!」
蒸し暑い。
殺人事件の現場のような黒い飛沫が、そこかしこに飛び散っている。
ベッド"だった"所には、
大きな『黒い池』が出来ていた。
ごぽ、ごぽ、しゅう、しゅう、と泡をたてている。
「カリアさーん?なんか、ご機嫌、ナナメかなー??アッハハハ...?」
塊が、こちらを見た。
大きな一つ目。
怪しく黄色い光を放つ、大きな眼球が、塊から浮かび上がってこちらを視認した。
その瞬間、背中に強い衝撃が加わった。
「でっ!?ちょ、ちょいちょいっ危なっ!!危ないって!!」
沸騰する黒い池に頭から突っ込みそうになる。
インキュバス化して多少上がった筋力を総動員して、後ろから襲ってきた相手を押し退けようとする。
ふにゅり。
なにか、触り慣れたものが手に収まった気がした。
「か、カリア!?」
「お帰りなさいませ、ご主人様。」
そこにはスッキリと括れた身体以外、なにも身に付けていないと"思われる"、カリアの姿があった。
"思われる"と濁したのは、彼女の身体がブラックホールのように黒一色で一切光を反射しておらず、全体の輪郭でしか分からなかったのだ。
なおもグイグイ将吾の身体を池に向かって押しながら、いつもの挨拶をするカリア。
しかし、将吾は悟った。
あ、これ常連さんの言ってた『ハイライトがバイバイした眼』ってヤツだ。
「ふふ、ふ、ふ!お待ちしておりました。」
「と、とりあえず落ち着こう!な!如何にもやばげな液体に晒されんのは流石に勇気要るから!!」
「大丈夫ですよ。他の女にご主人様を渡すぐらいなら、その身、溶かしてヒトツになる方が良う御座いませんか?」
「今!ねえ今溶か...溶かすって言った!言ったよね!?」
「ちょっとした"ろ過"で御座いますよ。」
しれっと言う。
「ろ過て!!」
「ふふ、ふふ、ふ、ふ!!ワタクシとヒトツになれば...あんな人間の娘など忘れて、ずっと、ずっと、一緒で御座いますよ!」
ジュウウ
靴下のかかとが一瞬で焼け溶けた。
「アッツゥイ!!ねぇ!?カリアさんや!?また内緒で車のパーツ注文したのは謝るから!!てか、人間の娘って何の事さ!?」
「...あくまで、シラを切る、と。」
背後の熱が更に上がった気がした。
ひらり。
右下が少し焼け爛れたカードが、目の前に取り出された。
「なんだこ...れ...ぁ」
気まずそうに、将吾は視線を反らす。
反らした先にも黄色く光る眼球があった。
「ほう、ほう、ほう。」
チリチリと服が熱で焦げて行くのが解る。
身体を押すカリアの手からも、じわじわと熱が伝わってくる。
「さて。ご主人様。」
肩のあたりからゴポゴポと沸騰した泡を立ち上らせながら、隠すことの無くなった狂気の目を将吾に向ける。
「何か、申し開きは御座いますか?」
あー、とか、うー、とか、
普段と打って変わって歯切れの悪い将吾。
「...なにも言い残すことは無い、と。」
「わあああ熱い熱い!!分かった!分かった!言うよ!!」
観念したように将吾はへたり込んだ。
***
「...今、なんと。」
「預かり物なんだよ、あのカード...。」
正座のまま、説明する将吾。
少しでも変なことを言うと、背後の池が文字通り全部溶解してしまいそうな、そんな状況。
彼には真実を語るしか道はなかった。
「中島さんっていう常連さんがね?昔、通ってたらしいんだ。それで、ふと内ポケットを見たときに、このカードが入ってた訳。」
ふむふむ、とカリアは頷く。
どうやら、聞いてくれる体制にはなったみたいだ。
「んで、あそこの奥さん、中島さんが何かヤマシイ事があると、すーぐバレるんだと。降りる直前だったから、んじゃ私が預かっときますわーって、預かっちまった、て訳...カリア?何してんの?」
スマホで撮影したカードの画像を、誰かに送信しているようだった。
『高音様』と、書かれていたような気がした。
「お気になさらず。それでは、最近のご休憩や、繁華街への頻繁な停車は、何だったのですか?」
「あー、まぁ分かるよね。...魔界の道具屋さんで、これを選んでたんだ。」
小さな箱を差し出す。
カリアが開けると、そこには。
「首飾り...で御座いますか。」
「一年なんだ。君が此処に来てから。」
キラキラと光る、アンモライト。
光の加減によって、虹色に輝いていた。
「......」
無言、だが。
体は鮮やかな緑と赤のマーブルになっている。
というか、めっちゃプルプルしている。
「...ありがとう、御座います。」
「こちらこそ、ありがとう。君のお陰で人生楽しく過ごせてるんだから。」
家具達は何事も無かったかのように、元に元に戻っていた。
「...と、言うわけで、ごめんね?変な心配をかけちゃって。」
「こちらこそ、取り乱してしまい、申し訳御座いませんでした。」
「サプライズのつもりが、こっちが不意討ち貰っちゃったよ!アッハハハ!...んじゃ、夕食の準備でも...うぉ!?」
ぐい、と、正座の体制に戻される。
「ふふ、ふ、ふ。まだお話は終わっておりませんよ?」
「え?...あ」
焦ったが故の自爆に、今さら将吾は気づく。
「さて...二度目、で御座いますか。」
また、部屋の温度が上がった気がした。
「い、いやー、あのパーツ、限定ものでさ...アハハ...」
「ヒトツになろう、などはもう申し上げません。...しかし、ここは一つ、"お灸"を据えねばなりませんね。」シュウウ
「アッツゥイ!!ごめん、ごめんて!!」
「今回は、逆転などさせませんよ?ご主人様。」
あ、これ、本気のヤツだ。
部屋の緑達が、少し明るく、それでも熱く、泡立った。
19/03/11 23:50更新 / スコッチ
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