連載小説
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前篇
「はるのおとずれ」

 遥か東に位置するジパングの一部に皆が同じ信仰を持ち自然を敬い慎ましやかに生きる者たちの集落がある。

彼らの宗教では全ての物に神が宿るとされ、魔物を妖怪と呼び変えるジパングにおいて一般的に神として崇められる妖怪「稲荷」や「竜」等以外の種族に対しても神に対するものと同じ畏敬の念を持っている。中でもクマは特に気高い神とその使いとして高い人気を持つ。

それは冬の来る度に穴蔵で長い眠りにつき春になると起きだし子を成す一連の工程が、暗い穴倉―死者の世界―からの復活を想起し、さらにその後子供を設ける事が子孫繁栄に関連付けられるためである。

そしてそれは妖怪が全て女性となった現在においても変わらず信じられている。


―――――――――――――
その日の朝は特に冷え込んだ。
それはまるで皆に歓迎され待ち望まれている春を見て機嫌を損ねた冬が気まぐれに最後の嫌がらせをしたかのような唐突さでその集落に訪れた。

気温の低い朝特有の澄んだ空気は、天空から降り注ぐ太陽の日射しをより清々しいものとし、集落の南側に広がる湖はいつもより輝いて見えた。

北側に視界いっぱいに広がる山脈には依然雪が残り、朝日を跳ね返し橙色に輝いている。

周囲に広がる森に未だ残る雪は前日までの暖かさで緩んでいたもののこの寒さで再び凝固し、これから顔を出そうと意気込んでいた若い芽は歯を食いしばり耐えていることだろう。

彼も未だ訪れぬ春を待つ若い芽の一人である。

いつもと同じ時間に目を覚ました彼は、黒曜石のように澄んだ瞳でぼんやりと長年暮らした我が家の見なれた梁を見上げていた。

ぼさぼさと乱れた長い黒髪は、近く訪れる成人の儀式の際に一つに結いあげる為に伸ばしたもので彼はあまり気に入ってはいなかった。

いい加減に温い布団から抜け出し父と母の手伝いをしなければ、と勢いよく布団をはねのけ立ち上がる。

日課の巻き割りをするべく寝巻きを脱ぎ、外出用の麻の服を身につけその上から鹿の皮でできた上着を羽織る。

平均的な背丈と日々の狩りで鍛えられ引きしまった体を持つ彼は上着の影響もあり若い牡鹿のようだ。

一通り身につけると自室の引き戸を開け居間へと進む

木の板と藁で作られ密閉性を重視し窓の少ない室内は昼間であっても薄暗く囲炉裏の炎の色が部屋を照らしている。

母はすでに起きており前日までに割ってあった薪で火をおこし朝食の準備を、父は囲炉裏のそばに座って何か小動物の皮をなめしていた。

両親に朝の挨拶を済まし玄関に置いてある丸太を持ちあげ外に出る。外の空気に触れた鼻と耳にびりびりと痛みが走り、すっかり暗がりに慣れた目にわずかな痛みが走り目をつむる。

目をつむったまま数歩歩き、慣れた頃に目をあける足もとに薪を着る際の台座とする切り株とそれに刺さった斧がある。

斧を切り株から抜き取り持っていた丸太を切り株に置く。

彼は斧を握りしめ両腕が頭上に来るまで持ち上げ一呼吸止める。

そこから一気に振り下ろすと斧は丸太を真っ二つにした。

「幸先はいいぞ。今日こそは…。」

彼はひとり呟き割れた丸太をさらに細かく切り分けるべく落ちた切れ端を台座に置き直した。

――――――――――

薪割りもあらかた済み運動によって体がホカホカと温まってきた頃

「サク!朝ごはんできたわよ!」

母が彼を呼ぶ大きな声が家の中から聞こえ

「今行くよ母さん!」

と彼も叫び返し斧を置き、薪を集め家の中に入った。

囲炉裏の周りにおかれた食器の前に胡坐をかく。

朝食は秋に収穫した米を潰した餅に味噌をつけ焼いたものと秋に遡上してくる魚を煮た汁ものだ。

どちらも昨年の秋の味覚であり、辺りの木が真っ赤に染まった昨年の秋の紅葉を思い出し懐かしく思った。

そういえば彼女が来たのもその時期であったなとふと思い出す。

彼女とはこの家に迎えたグリズリーの少女「リカ」の事である。

自分たちの食事を済ませた後に彼女に朝食を届けるのも彼の仕事だ。

「リカ様、リカ様起きておいでですか?」

サクはグリズリーの少女が滞在している部屋の戸の前で一度食事の乗った盆を床に置き、呼びかけた。

返事が無い

いつもの事なのだが彼は、この戸口の前で呼び掛ける事をやめる訳にはいかないのである。

このグリズリーの少女は偉大な神の使いであり、共に一冬過ごした家の男子と夫婦となることでその家の繁栄が約束される。という言い伝えの下で居候しているのである。

妖怪が魔物娘となる以前は、一冬過ごすところまでは同じだったが、春になり行うのは夫婦の契りでは無くクマと共に狩りに出ることだったという。そこでとれた獲物を分け合い互いの一族の繁栄を祈願するというのが一連の流れだったそうだ。

しかし見た目はか弱き乙女となった彼女らを危険な目にあわせる訳にもいかず、現在の流れへと姿を変えたらしい。

以前のままだったら僕は…

と、この風習について思いを巡らしていると

「うー」

と気だるげな声が聞こえた。

「リカ様、朝食を持ってまいりました。入ってもよろしいですか?」

「うー…さっくん?」

彼にとっては神の使いとして扱われている彼女にあだ名で呼ばれることに少々の抵抗を感じていた。

「んー…ありがとう。良いよ。入ってきて。」

そこまで聞き

「失礼します」

鹿皮の上着を脱ぎ、床に正座したまま引き戸を開ける。

羊毛がふんだんに使われている布団の中から未だ抜け出せず、さながら亀のように頭まで引っ込めている彼女の布団の枕側に歩み寄り盆を置く。

「リカ様、リカ様、朝食が冷めてしまいます。」

彼は布団の左側に正座し布団にこもった彼女に呼び掛ける。毎朝の光景なので彼にとっては慣れたものである。

「えいっ!」

突如布団から現れた獣の右腕が彼の左腕をつかみ布団へと引きずり込む。

「わっ!なっ!」

意味を持たない叫び声をあげサクは布団の中に引き込まれてしまう。

「んふふふ〜。お布団あったかいよ〜。さっくんも一緒だともっと暖かいよ〜」

布団の中に引きずり込まれそのまま抱きしめられてしまう。

濡れたカラスの羽のように美しい黒い髪と、同様に美しい毛並みの手足。

遥か西に存在する国の人間と比べると平たい顔と表現されるジパングの人間特有の顔のつくりであるが、それがむしろ慎ましやかで穏やかな女性という雰囲気を作り出している。

今まではおいでよと手招きして誘うだけだったので油断していた。

布団の中は彼女の温度と匂いで満たされており、かつその発生源と密着している。

あったかくていいにおい。そしてやわらかい。

これから眠りにつくならこの上ない環境であることは間違いないだろう。

しかし彼にはそうするわけにはいかない、いくつかの問題があった。

「リッ…リカ様やめてください。わ、わ、私にはまだ」

そこまでいいかけてリカが遮る。

「なぁにぃ?そぉんなに嫌なのぉ?」

ゆっくり間延びした調子で彼に問う。

「あ、あのですね。朝食がですね。お仕事がですね!」

つい力が入り強い口調で話してしまう。

「ふふ〜ん。そうねぇ。お腹空いたしねぇ。」

口元で鮮やかな赤が揺れる。彼女の黒目勝ちな大きな瞳が彼を見つめる。

心拍数が途端に上がり手が汗ばむ。心臓が耳に移動してきたかのように己の鼓動がはっきりと聞こえる。

呼吸の音すら夏の大嵐のように騒がしく思える。

彼女がにこりと微笑む。

思わず見惚れる。

「じゃ〜朝ごはん食べましょうか」

彼女は自ら布団を持ちあげ盆の前に座り込み毛皮に覆われた両手を合わせ一礼する。

「いた〜だきます」

それまでの熱が一気に冷める。

危なかった…いや残念?彼はその複雑な気持ちに整理をつけられないまま彼女が朝食を平らげるまで布団の上で正座をしていた。

――――――――――

サクにはこの時間が来ることが何より憂鬱だ。

弓の腕にかけては集落内において並ぶもののいない父と、今まで弓で獲物をしとめたことのない自分が並んで狩りをしなければならないからだ。

自分の弓の拙さは、自分が誰よりもわかっている。

必死になればなるほど矢は言う事を聞かず、明後日の方向に飛んで行ってしまうのだ。

「さっく〜ん」

リカの声が家の中から聞こえてくる。

どたばたと家の中から飛び出してきた彼女の手には様々な動物の牙を糸で括り数珠繋ぎになったものが握られている。

「は〜い。大事にしてねぇ。」

差し出されたそれは、狩りの際に矢を引き絞る右腕に括りつけることで狩りの成功祈願と獲物の供養を願うこの村伝統のお守りである。

サクは深々と頭を下げてお守りを受け取り早速右腕につけようとする。

しかし利き腕でない左手では一向に上手くつけることができない。

「さっくんそんなに不器用だったんだねぇ。」

とニコニコしながら彼女が歩み寄ると

「ん〜しょ。よいっ…しょっと。ほら〜できましたよぉ。」

手が毛皮と鋭い爪の彼女になぜここまで器用な動きができるのか。疑問が浮かんだが間近に迫った彼女の顔と、はちみつをすくい取るのに頻繁に使われるクマそのものの腕の甘いにおいを感じた緊張に比べると些細なことだった。

「準備できたかい?今日はいつもより北の山に近い方で獲物をさがそうか。」

「はい。それでは母さん、リカ様言ってまいります。」

サクと彼の父は集落の北側の森に分け入った。

―――――――

その日も彼は獲物をしとめることができなかった。

10歳を迎え初めて父と狩りに出た。それから早5年。彼の放った矢が獲物の血で濡れたことは一度も無い。

未だ日の暮れる早さは冬のそれと変わらず、あっという間に辺りは闇に包まれた。

眼前には父が自分のしとめた山鳥を背負い黙々と家に向かって歩みを進めるのが見える。

彼は自分のふがいなさとそれを責めようとしない父の優しさを感じ、より一層肩を落とした。

しきたりによって雪の解け次第自分はリカの婿となることが決まっている。

しかし何時までも自分一人では獲物を取れない事に焦りを感じていた。。

まだ何か獲物がいないかと辺りを見回すが暗く視界の悪い夜の森と、先行きに不安を感じる自分の未来を重ね合わせてしまい彼の心をますます重いものにする。

集落につき家に帰ると、挨拶もそこそこに彼は弓と矢を持ち町はずれに足を運ぶ。

いつも自分が弓の練習をしている開けた場所まで来ると自分の背丈ほどの朽ちた木に歩み寄り、つま先が触れるほど近寄ると踵を返しそのまま30歩きっかり歩く。

弓を使うときの基本の距離と父に最初に教わった事を忠実に繰り返す。

獲物に近付くまでは問題ないのだ。ただなぜか矢がそれる。

姿勢が悪いのか。握りが悪いのか。等考えうる限りの原因を解消するため射ては拾い、射ては拾うを繰り返す。

「さっく〜ん。ご飯ですよ〜。」

集落の方からリカがクマそのものの腕である両腕を力いっぱい振りながらこちらに向かってくるのが見えた。

「分かりました」

と短く答えサクは矢を拾い集め二人で帰路につく。

「お守り効かなかったねぇ…」

いつもののんびりした様子ではなくやや落ち込んだ様子で彼女は言う。

「リカ様が心配なさる事では…」

「心配よぉ。いっつもひどい顔して帰ってきたかと思えば一人でこうやって練習してるじゃない。」

「今のところリカ様の夫候補ですから。弓ぐらい人並みに扱えるように…」

「今のところってどういうことぉ?」

彼女がサクに向き直り問う。

「今ならまだ間に合います。私のような者よりリカ様にふさわしい男が…」

サクの言葉を最後まで聞かずに彼女は

「さっくんて私の事そんな風に思ってたのねぇ…」

しまったと思った。

「分かったわぁ…。それじゃあ…先に帰ってるわねぇ…。」

初めて聞くこれほどまでに落ち込んだ彼女の声に心が平静を保てない。

いくら同年代との色恋沙汰とは無縁だったとはいえ、言ってはならないことを言ってしまったというのは瞬時に理解できた。

「リカ様話を…」

彼女は振り返らずに走り去ってしまった。

「違うんです…違うんですよ…」

彼のひとり呟く声が夜空に溶けた。

――――――

たとえ眠れなくても、どれほど来るなと願っても残酷にも朝は万人に平等に訪れる。

彼女の悲しげな声が耳から離れず、夕食もそこそこに眠りにつこうと布団に潜り込んだはいいが一睡もできないまま朝を迎えてしまった。

そろそろ起き上がらなければと思えども、体も精神も石の塊になってしまったのかと思うほど重く感じ、もうこのまま本当の石になってしまいたいと彼は本気で願った。

風は恐怖を覚えるほどの音を立てて吹き荒び、家を軋ませる。

実際に外に出て確認しなくともその荒れ様が思い浮かぶ。

前日の快晴が嘘のような猛吹雪だ。

何とか上半身を起こし、あとは立ち上がるだけという段階までこぎつけると

「いい加減に起きなさい。」

と母が起こしに部屋に入ってきた。

唸るような声でそれに答えいつも通り外に出る格好に着替える。

居間に行くと朝食はもう並べられ父はすでに食べ始めていた。

朝食は雑炊であったため飲みこむようにして食べ終えリカの分の盆を持ち彼女の部屋の前までやってくる。

気の進まないことはさっさとこなして一人になろうと考えたサクであったが、いざ扉の前までやってくるとなんと声をかけたものか思い悩む。

「リカ様、リカ様…」

悩んだ挙句いつも通りに呼び掛ける。

「はい。どうぞ」

今日はすぐに返事があった。いつもと異なる緊張を孕んだ声が戸の向こう側から聞こえた。

「失礼します。」

いつもと同じ要領で引き戸を開け部屋に入ると朝食の乗った盆を彼女に差し出す。

「どうぞ」

サクは簡潔にそう告げると引き戸の前で正座し彼女が食べ終わるのを待つ。

「いただきます」

昨日までの間延びした様子はかけらもなく、背筋を伸ばし黙々と朝食を平らげてゆく。

彼女が寝起きするためだけの狭い部屋に二人でいる物理的な距離と互いの心の距離の差に言い表せぬ気まずさを感じ外の様子を思い浮かべ気を紛らわせる。

食器と箸のぶつかる乾いた音が鳴り続け数分後に止んだ。

「ごちそうさまでした」

そう告げ彼女は盆に箸を置く。それを確認し盆を両手で引き寄せ盆を引き持ち上げる。

そのまま立ち上がり彼女に背を向け立ち去る。

入室の時とは違い、立ったまま片手で引き戸を開け部屋から出る。

「さっくんあのね…。」

一歩部屋から踏み出た彼を呼びとめる。

「あのね…一晩考えたんだけどね…」

言い終わらぬうちにサクは

「昨日は申し訳ありませんでした。ですが私はあの程度の人間なのです。」

サクは振り返らずに退室し静かに引き戸を閉じる

「違うのよ…そんなこと…」

彼女の呟きは吹雪の音にかき消された。


――――――

風が弱くなり、ただはらはらと雪が降り注ぐのみとなったのは、太陽が最も高い位置よりやや下がり始めたころだった。

再び天候が悪化することを考慮しその日は、森の中を歩き回るような長い時間をかけて行う狩りは行わないことになった。

干した川魚を囲炉裏であぶり昼食とし、その日の予定を家族で話し合った。

父は東を流れる川へ釣りに、母は集落の婦人で交易に使う絹を加工する集まりに出かけた。

サクは父から森の中に獣を捕まえる罠を仕掛けてくるよう言われた。

外出するために鹿の毛皮を身につけ念のため自分の弓矢を持つ。

上着を身につけるときに昨日リカから受け取ったお守りがちらりと目に入り、昨日の言動が原因で傷つけてしまった彼女の事を思う。

心がさながら転んですりむいた時の膝のようにじくじくと痛んでいるのを感じた。

まともに鳥を射る事も出来ない自分に彼女と一緒になる事など許されないと思い、彼女と距離を置こうと考え今朝の様な冷たい態度をとってしまった事もそれに拍車をかける。

彼女は朝から一歩も寝室の外に出てこず、両親が出かけ最後に残ったサクが出発するときに扉越しに自分も外出する旨を伝えるも返事は無かった。

かんじきを身につけると室内と外を隔てる戸を開け一歩踏み出す。

外の冷たい空気を肺一杯に吸い込み、落ち込む心を何とか奮い立たせ彼は独り森へと向かった。

――――

リカは未だかつてここまで心を痛めた事は無かった。

北の山脈の麓にひっそりと存在する自分の生まれ故郷であるグリズリーの集落を母に連れられ離れた時ですらここまで辛い思いをしなかったというのに。

その日父に別れを告げ、朝早くに出発し何とか日の暮れる前に到着すると、この集落一番の弓の使い手の男の家に厄介になることが決まった。

一冬共に過ごす相手が自分の夫となる事がしきたりであるため、まだ見ぬ男性の事を考えひどく緊張し不安に思ったものだ。

しかしそんな不安も雪解け水が滴り落ち川に流れ込む様にゆっくりと解消されてゆく。

すっかり日も落ち、彼の家に案内されると私と同じくらいの年の少年と彼の母親が私たち母子を出迎えた。

「こっ、こっ、こんばんは。」

私と同じ様に緊張した彼が私に向かってすごい勢いでお辞儀をしながら言った。

そうか彼も不安なんだ。と共感を覚えた私も彼の眼を見つめ同じように挨拶を返した。

それが私と彼の出会いだ。

その日の夕食は秋に収穫されたばかりの季節の食べ物が並べられた。彼の家で、彼の一家と私たち母子の5人での最初で最後の夕食だった。

夕食も終わり母と二人で今現在私が過ごすこの部屋で眠りについた。

次の朝母は一通りの挨拶を終え帰って行った。

それからの食事と睡眠は彼らのしきたりに従い、独りでとるのが日常となった。

一冬の間とは言えそれまで家族3人で暮らしていた私が、出会ったばかりの彼の家族と過ごすのは少々の寂しさと息苦しさを感じるものであった。

そんな私の様子を見て、黒曜石のように澄んだ優しい瞳をした少年は私に集落の様々なものを見せて歩いた。

生まれ育った集落から遠く離れた事のない私にはすべてが新鮮で心が躍った。

生えている植物も気温もそう違わないはずなのに私にはまるで違う国のようだった。

それはすべて隣を歩む少年が原因である。

住民がグリズリーとその夫で構成される私の故郷にはいない、私と年齢の近い男性。

彼の言動、その瞳と他人を傷つける事を嫌う気性は森の木陰からこちらを見やる鹿のような穏やかさを感じた。

しかしその中に隠れた男性としての力強さと、彼らが神の使いと信じる私たちグリズリーの夫として恥じない人間であろうという志。

そこに私は安心し徐々に心を開く事ができた。

今ではそんな彼を私は…

そこまで考えたところで引き戸越しに声がかかる。

「リカ様外出して参ります。日の暮れる頃には父も母も戻りますので。」

突然かけられた言葉に驚き、私は心をかき乱されすぐに返事をする事ができない。

言いたい事はいくらでもあったがすぐに出てくる言葉は一つも無かった。

なんと答えようか考えているうちに玄関の戸が開く音が聞こえ外から彼が雪を踏みしめ北の森へと進んでゆく音が聞こえた。

昨日の私の軽はずみな行動が彼を傷つけたのは間違いない。

でも私は私の気持ちを全く無視した彼の言動に腹を立てずにはいられなかった。

さらに私はいくらかの時間を使って私が悪いのだから追いかけて謝るべきか、それとも朝のような冷たい態度の裏には私を嫌う気持ちがあり離れたがっているのだから彼の幸せを願えばこそこのまま二人は離れた方がいいのか、考えを巡らせていた。

考えに考えた末彼女は立ち上がり彼女専用に贈られた外出用の鹿皮の上着を身につけ彼の後を追いかけるのだった。

―――――

サクは野兎の通り道を探し森の奥深くに来ていた。

昼間の吹雪は今まで使われていた獣道を雪で覆い隠し、その上踏み込むと深く沈みこむ新雪はただの歩行が徒に体力を消耗させる重労働へと姿を変える。

どんよりとした雲から降る雪は絶えず心をより深く落ち込ませた。

いつも罠を仕掛ける地点に到着すると手際よく罠を作り始めた。

彼らの考え方では罠によって獲物を捕まえる事は、すでに動きを封じられた獲物にとどめを刺すのみの作業であり植物を収穫する感覚に近い。

ただ明日の食料のためを考える効率のみを重視したこの方法を彼はあまり好きでは無い。しかし飢えるよりはましだと自分に言い聞かせ仕掛けを作り終える。

兎が入ることにより締って動けなくする罠を仕掛け終わり顔をあげると目の前の木に山鳥が止まっている事に気がつく。

突然の遭遇に彼は息をのむ。

急な動きでこちらの気配を察知されないようにゆっくりと傍の木に身を隠す。

無風状態に近く、空から舞い降りてくる雪が彼の動きによって生じる音を吸収する。

そして獲物までの距離は30歩をわずかに上回る程度。

彼はここまでの好条件を神に感謝した。

「リカ様力をお貸しください…。」

そうつぶやくと右腕に括りつけられているお守りを取り外し右手に巻きつける。

巻きつけ終わると左手でそのまま腰の弓入れから弓を取り出す。

藪の中での取り回しと携行性に重点を置き軽量化、小型化がなされた弓は片手で楽に扱える。

右手で背中の矢筒から矢を一本抜きとりつがえる。

藪の中で獲物を待ち伏せするキツネの様に低い姿勢を取り、矢をつがえた弓を地面に向けたまま獲物に近付いてゆく。

幸いにも雪が地面を覆い、踏んで音を立てるような物はすべて埋まってしまっていた。

3歩近づき獲物との距離を再確認する。

いつも練習しているのと同じ距離に来たと確信し膝立ちのまま弓を引き絞る。

獲物に対しまっすぐ左手を突き出し右手はあごのやや下あたりに停止させる。

そろそろと息を吐き出し、吐ききったところでわずかに吸い込み止める。

手の揺れが収まり矢尻がまっすぐ獲物をとらえる。

極度の集中によって時間が引き延ばされたかのように感じる。

その時はいつもと違い矢が外れるどのような場面も頭に浮かんでこなかった。

ただ弦が空を切る鋭い音のみが聞こえ、矢は虚空に飛び出す。

矢はただ一直線に飛び山鳥胸に当たる。

一瞬にして命を絶たれた山鳥はそのままの体勢でまっすぐ地面に落ちてゆく。

今目撃したものが現実のものなのか実感が持てず矢を放った後の姿勢のまま思考が停止する。

しかし何が起きたかを正確に理解した時、全身に鳥肌が立ち喜びに震えた。

仕留めたのだ。

彼は弓を腰の弓入れに戻し、胸に満ちる達成感とただ高揚する気分に突き動かされ獲物の落ちた地点に走り寄る。

獲物が落下し、雪が窪んだ個所を見つけると顔に笑みが浮かび新雪に足を取られるのも気にせず一層勢いをつけて駆け寄る。

あと一歩と言うところで突然足に力が入らなくなり、浮遊感が彼を襲う。

仕留めた獲物に夢中で彼には気付く事ができなかった。

獲物の落ちた地点の下に地面は無く、地面が続いているのは見た目だけだった事に。

―――――

リカがサクの後を追うのは実に簡単なことだった。

処女雪の上を歩いた彼の足跡を追いかければ彼の近くまで行く事ができるからだ。

しかし家を出てから少したった時から再び風が吹き始め、雪がより大粒の物に変わっている事が徐々に天候が悪化している事を物語っている。

ただ早く彼に会って連れ戻し自分の思いを打ち明けたいリカはそんな事を気にもせずどんどん森の奥まで進んでゆく。

そして彼女が身の危険を感じる頃には、吹き荒れる風によって舞い落ちる雪と地面から舞い上がる雪の区別がつかないまでになっていた。

かろうじて判別できる程度にしか残っていない彼の足跡は彼が自分から離れる事を望み、自分の痕跡を消そうとしている事を連想させ心をざわつかせた。

それからどれだけ進んだか定かではないが魔物娘である彼女ですら疲労で雪に足がもつれ何度も転びそうになった頃。とうとう足跡が途切れた。

一気に血の気が引いて行くのを感じた。

見失った。

来る時に通った道が集落までの最短ルートであり引き返した後は無い。

途方に暮れた彼女がふと視線をあげた先の枝に見覚えのあるものを見つけた。

サクのお守りだ

尽きかけた体力を気力で奮い立たせ枝に歩み寄る。

背の低い茂みの枝の一本に引っかかったお守りを千切れてばらばらになってしまわぬ様丁寧に拾い上げ周りを見回す。

依然視界は悪く風に乗った雪が目に飛び込み満足に目も開けていられない。

しかしぐるりとまわりを見渡すと一か所だけ雪が窪んでいるのを発見した。

それはもはや思い込みかもしれなかったが彼女はそこに愛しい彼がいる事を感じた。

思うように動かない体で雪を掻き分け近づいてゆく。

一秒でも早く一瞬でも早く彼の元にたどり着きたい。その一心で会った。

以前父に聞いた雪山での危険を思い出し穴の前で足を止める。

雪山では雪の下にどんな危険が潜んでいるか分からない事。谷間や沢に滑り落ちた者を助けるのは並みの労力では済まないという事を。

しかし彼女は怯んだ訳では無い。

クマの腕そのものである両手で雪を掻き分け始めた。

人が掻き分けるのと比較にならない速度で雪が掘り進められてゆく。

冷たい雪の感触にだんだんと指先の感覚が消えてゆくのが分かった。しかしここでやめる訳にはいかない。

必死の掘削作業はとうとう雪の下に隠れている空洞をさがしあてた。

中を覗き込むと暗がりの中に彼が空洞の底で横たわっているのが見えた。

彼を発見した喜びも束の間、全く身動きをとらない彼の様子に危機感を感じ細心の注意を払いつつ斜面を下りてゆく。

急いで彼の元に駆け寄り抱き上げる。

「さっくん!さっくん!」

ただ愛しい彼の名前が口からあふれ出てきた。

恐ろしいほどに冷たく、すでに死人のような顔色の彼に呼び掛けるも最悪の想像が頭をよぎり涙が止まらない。

愛する相手を失ってしまうかもしれないという恐怖に胃が縮み上がる。

「リ……リカ……さ…」

しかし彼は未だ意識を失っていなかった。

薄く眼を開き絞り出すように続ける

「リ…カ……ご………め…と…」

そこまで言ったところで安心したのかゆっくりと瞳を閉じ再び意識を失う。

「絶対死なせないからぁ!絶対二人で帰るからぁ!絶対…絶対…!」

彼女はこの村に来るときに母からもらった大事な小ビンを上着の懐から取り出し一気に煽る。

そのまま真っ青な彼の唇に自分の唇を重ね合わせ小ビンの中身を彼の口の中に流し込む。

高い粘度、甘ったるい香り、そんな液体を彼に飲み込ませるべく舌を使い彼の喉奥まで押し込む。

「待ってて!もう少し頑張って!」

完全に意識を失いさながら死人の体重となった彼をおぶり目の前に立ちはだかる急斜面をのぼりはじめた。

―――――

もはや数分前の自分の足跡すら見つける事すら困難になっていた。

愛しい彼を助けるために。二人で幸せな時を過ごすために。

彼女を突き動かすのは不安と、希望の入り混じったそんな複雑な感情だった。

渦を巻くように吹き荒れる風に体温を奪われ、積もった雪に足を取られながらも確実に前進を続けた。

いくら進んだか定かではないがまだ彼に息があることからそう長い時間を歩んでいたわけではないだろう。

幸運にも彼女らは打ち捨てられた小屋を発見した。

彼女はその小屋に向かってただ一直線に進んだ。

小屋の風上側には雪が高く吹き溜まっていたが、幸いにも出入り口の側にはほとんど積雪は無い。

雪の重みと木材の経年劣化によってひどく滑りの悪い引き戸を力任せに引き開け入り込む。

室内は最後に使われたのが何時なのか判別できないほどの荒れ様で、どの家具も埃をかぶり、隙間と言う隙間にはクモが巣を張っている。

突如として現れた侵入者に驚き、越冬のために小屋に入り込んでいたネズミの一家が鳴き声をあげて家具の陰に逃げ込んだ。

動きの渋い引き戸を力任せに閉め囲炉裏だったと辛うじて判別できる場所の脇に彼を寝かせる。

何とか火をつけようとすぐそばに置いてあったちゃぶ台をたたき割り、囲炉裏に並べる。

彼がいつも持ち歩いている火打石を懐から抜き取る。

近くで感じる彼の匂いと彼の体温に悲しいほどの落差を感じ心がざわめく。

もう駄目なのかと何度も思い、それでもあきらめずにここまでやってきた。

ござとして使われていたであろう干し草の束を引きちぎり囲炉裏に置く。

火打石を何度か打ちつけ何とか火がつく。

しかし、木になかなか火が移らず彼女は心を焦らせる。

「ついてっ…お願いだからついてっ」

火打石の打ちつけられる音が何度も響き、真っ暗闇の中に火花が散る。

彼女の両手に血が滲み始めたころようやく木に炎が燃え移り、赤々とした光が部屋を満たした。

12/01/15 02:55更新 / 熊五郎太郎
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