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鍛冶屋『LILAC』と軟派な剣士 終編

リラはすっかり暗くなってしまった森の中を疾走しながら、振り返る。
二匹のオークが、後ろからつかず離れずの距離で、リラのことを追いかけてきていた。
リラが走りだしてから、両者の距離は詰まることも、離れることもなく、オーク達はそれに若干の苛立ちを覚えていた。
振り向くのを止めて、リラは指を口元に持って行くと、息を思いっきり吸い込んでから吹く。
森の中に、再び甲高い笛の音が響き渡った。

「うっせぇ!!」

断続的に吹かれるリラの指笛はより苛立ちを加速させて、追いかけてきたオークの内、後ろにいた方が我慢できずに叫んだ。

「そこのサイクロプス!!大人しくアタシ達に捕まれ!!」

聞くわけがないとわかっていながらも、オークが声を張り上げる。すると、まるで大人しく言うことを聞いたかのように、リラは急にその足を止めた。
オーク達も、つられてその場に止まる。

「……お?なんだ、観念した?」
「ここ、なら。誰にも、聞こえない」

走ってきたにも関わらず殆ど息を切らさずに、リラはオーク達に向き直り、その眼をしっかりと見据えた。

「お願い。こんなこと、もうやめて」
「…はぁ?」

何かあるのかと身構えていたオーク達は、その言葉で呆れるように脱力する。が、次にリラの放った一言は、彼女らにもう一度同じ言葉を吐かせた。

「あなた達は、好きで、やっている。ようには、見えない。だから、止めて」
「は、はぁ!?何、ワケわかんないこと……!!」

その一言で先程までのふてぶてしさは崩れ去り、オーク達は明らかに狼狽し始めた。

「先頭の、あなたの、それ」

一直線にリラが指差したものは、前にいるオークが手に持っている、石で出来た斧だった。

「手入れが全然、されていない。石の強度が、脆すぎる。そんなもの、ちょっとだけでも、当たったら。壊れて、しまう」
「なっ……」

リラがそれに気がついたのは、指笛を吹いている時のことだった。
注視すればコンマ数ミリ単位のわずかな変形や拭き取りきれなかった血痕でさえも見える彼女の眼は、オークが慌てて耳を押さえる際に、彼女の手に握られた斧の違和感を見逃さなかった。

「この程度、素人目でも、よく見れば。わかることの、はず。それなのに、あなたは、直していない。本当は、そんなもの、使いたくない。そうじゃ、ないの?」

リラの言葉は、彼女達の心へと容赦なく染み込んでいく。耳を塞げば、手に持つ武器で今すぐ彼女を殴れば止められるのに、誰も彼女を止めようとはしない。止めることができない。

「もう一度、言う。お願い、こんなこと、もう止めて」

感情を滅多に顔に出さない少女は、口にすることで自分の思いを伝える。
彼女は命が惜しいからではなく、本気でオークに嫌なことをするのを止めて欲しがっているだけなのだ。その思いは、彼女の優しさは、言葉を通じてオーク達にしっかりと伝わった。
そして、はっきりと伝わったからこそ、彼女達は胸に渦巻くその感情を隠しきれなかった。

震えるその声は最初、酷く小さかった。

「あたしの、旦那だって……わからなかったのに……」

誰に言うでもない呟きは、やがてリラへとはっきりとその矛先が向けられた。

「仕方ないだろ!!旦那様には逆らえないんだよ、あたし達オークは!! こんなのやりすぎだって、思わないわけない!!殺すのだって、止めようとしたさ!!でも、無理だったんだよ!!もう、あたし達の身体には敗北が刻みこまれてんだ!!逆らおうなんて……考えるだけで身体が震えて、結局何もできなかったんだよ!!」

人を傷つけられない武器を持つオークは、リラを睨みつけた。
彼女の言葉を黙って受け止めたリラは、やがて静かに尋ねる。

「旦那様って、あの盗賊の、人のこと?」
「そうだよ!!悪いことばっかしてるけどあたし達の大切な旦那で、言うことは何でも聞いてあげたくて!!嫌なことがあっても、逆らおうなんて……思えないんだよ……!!」

震える声で思いの丈を吐き出すオークは、泣きそうな顔で唇を噛んだ。
後ろにいるオークも、悲しそうに目を伏せている。

オークという種族は、強者に弱く、弱者に強い性質を持つ。
一度でも男性に負けてしまった彼女達は、自らを倒した相手を主人とみなし、奴隷となることに至福を感じるようになる。命令とあらば命さえ懸けることもできる彼女達に、主人への反抗などできるわけがないのだ。

「それでも」

そんな彼女達へと、リラはゆっくりと歩いていった。

「嫌なら、嫌だって、言わなきゃ。あなた達は、ずっと、辛いまま。このままじゃ、あなた達も、あの人達も。きっといつか、お互いを、苦しめる。だから……」
「うるさい!!知った風な口を聞くな!!アタシ達はもう、これまでたくさんのものを奪っちまってきてんだ!!今更、幸せになりたいなんて言えるか!!今更、引き返すことなんか…………できないんだよぉ!!」

悲痛な叫びをあげるオークの瞳はうっすらと濡れ、目線を合わせることすらも辛くなったのか、リラから目を逸らす。
リラは話を遮られたことを怒るでも、一人の少女を哀れむでもなく、ただ真っ直ぐに少女を見つめながら近寄っていった。


その頭上へと目がけて、三人目のオークが背後からハンマーを振り下ろした。
























「……わかってた」

闇を切り裂くように、凜とした声が響き渡った。

「あなたが後ろに、いることも。あなた達が、私の注意を、逸らそうとして、いることも。私の眼、よく見える、から」

ハンマーを振り下ろしたオークは、混乱していた。
確かにオーク達は全員、盗賊達のやり方に内心では反発していたが、実際にその気持ちを武器の手入れを怠るという形で示したのは彼女達の中でもただ一人のみであった。
よって、このハンマーに関しては、一切怠った手入れをされてはいない。
力を込めたものが当たれば痛いだけではまず済まないだろうし、一回振っただけで壊れるようなもろい構造をしてもいない。

「私はそれでも、願ってた。あなた達なら、話を聞いて、くれる。最後にはきっと、やめてくれる、って」

それに加えて、それほど大きいわけでもないオークよりも、サイクロプスの少女は更に小柄な体格しかない。


それならば何故、その小さな手の平に自分のハンマーの頭部が握られているのか。


周りにいたオーク達はしっかりと目撃していた。確実に決まったと思われたハンマーの一撃が、リラが振り向かずにあげた片腕だけで受け止められた、その瞬間を。目撃してしまったために、唖然とリラを見ることしかできなかった。

「……したくなかった、から。本当は、こんなこと」

どこか悲しそうに声を小さくしたリラの手の中で、ミシミシ、と嫌な音がする。
ハンマーを握られたオークは何も、攻撃を受け止められた後にぼんやりしていたわけではない。
必死にリラから距離を取ろうとしているのだが、得物であるハンマーがまるでリラの手の平に吸い付いたかのように取れないのだ。

「どうしても、止められないって、言うのなら」

勿論、リラの手にスキュラの足のような吸盤があるわけでも、そういう魔術を使ったわけでもない。ただ単に、リラは力を込めているだけだ。
水晶の玉さえも片手で握りつぶす、元巨人族の腕力を。

「せめて、あなた達、だけでも。…………私が、止めてみせる」

バキ、と鈍い音が森の中で反響する。
リラの青い手の中で、石造りのハンマーの頭部が粉々に砕けた。














前方から袈裟懸けに振るわれた斧を下がって避けつつ、素早く身体を捻って後方からの斬撃を大剣の刀身を使って防ぐ。あえて勢いを殺さずに剣を受け流し、盗賊の体勢が崩れると同時にルベルは大剣を振り上げるが、振り下ろす直前に前方へと飛ぶ。間を置かずに剣がルベルのいた場所で空を切った。防ぐ。避ける。避けて、防ぐ。

その応酬は、彼が盗賊の一人を気絶させてから、休むことなく繰り返されていた。

「くそが、また外した!!」
「おい、誰かさっさと当てろ!!敵は一人だぞ!!」
「ちょこまかしやがって、さっさと死ねぇ!!」

最初、仲間が一撃で叩き伏せられた衝撃が頭に残っていた盗賊達はどこか怯えの色を表情に滲ませていた。だが、防いでばかりで中々攻勢に転ずる気配のないルベルに、最初の一撃は何かの間違いだったのだ、という思いが徐々に強まっていき、今や彼等の感情の大半は苛立ちで占められていった。

だが、ルベル自身もこの状態を望んでいるわけではなかった。
大振りな大剣は、攻撃をするタイミングが動作でわかりやすい。振るおうとする度、別の方向から攻撃され、妨害され続けているのだ。大剣が集団戦には不利な武器であることぐらいは、ルベルにもよくわかっていた。
それに加えて、彼の普段使っている武器は大剣ではない。
リラの元に預けた武器などもそうだったが、本来ルベルにとっては標準的な長さのソードの方が扱い慣れていて、使う機会も自然にそちらの方が多い。その為に、通常と違う動きに違和感を拭えなかった。

それにも関わらずなぜ、ルベルは大剣を選んだのか。
それは、メリットがある云々と言う話ではなく、単に彼が手にはめている手袋ではこの武器しか喚ぶことができないのだ。
魔術をほとんど使えない人間でも使えるようにルーン語を刻む都合上、このような大きさの剣になってしまった、と、要約すると大体このような話をエリーの所属するサバトのバフォメットは言っていた。
剣があった所で、取り巻く状況は依然として劣勢に変わらない。



しかし、それはルベルの顔から笑みを消す理由にはなり得なかった。



「てめぇ…さっきから何ニヤニヤしてやがんだよ!!」

現状に痺れを切らした盗賊の一人が、背後からルベルへと迫る。ぶぅん!!という音が聞こえる力で、斧が振り下ろされた。が、それはやはりルベルの身体に触れることなく、地面を抉るだけだった。
余計に苛立つ盗賊だったが、ふと違和感に気がつく。
今の一撃は、確実に当たるように狙っていたはずだ。それなのに、男は振り向いてすらいないのに、まるで自分がちょっと手元を狂わせたかのように、男の足が斧に当たるかどうかすれすれの位置に……

「ぶげっ!!」

そこまで考えたところで、盗賊の顔面がルベルの足に蹴り抜かれ、情けない悲鳴をあげながら地面へと仰向けに倒れた。
背後へと蹴り抜いたばかりのその右足を狙って、すかさず別の盗賊の持つ剣が突き出される。だが、ルベルが左足に力を込めて身体を少しだけ捻ると、その剣は右足のズボンをわずかに裂く程度の役目しか果たさなかった。
更に身体を捻ってから、その足を地につけると同時に、切っ先を自身へと向けた大剣を地面へ叩きつけるように振り下ろす。峰が刃とぶつかる鈍い音がして、盗賊の持っていた剣が地面へとはたき落とされた。

「おい、何苦戦してやがる!!さっさとこいつを……」
「もういいぞ、てめぇら」

蹴られた鼻を押さえながら盗賊が叫ぶが、そんな彼を一瞥して、背後で落としたばかりの剣を拾って距離を取る盗賊すらも気にかけず、ルベルはつまらなさそうに言った。

「もう、全部わかった。だからよ、さっさと俺にぶっ倒されてくんねぇか?」
「なっ……ワケわかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ!!」
「さっさと死ぬのはお前の方だろうがよぉ!!」

口々に暴言を吐きながら、盗賊が左右から同時に突進してくる。
味方へと当たらないようにわずかに配慮しつつ、ルベルの身体を両断しようと2方向から剣が迫る。ルベルは、そのどちらの方を見ようともしなかった。ただ、少しの間を空けてから、進行方向にある邪魔な木の枝を避けるかのように自然にかがむ。その瞬間、頭上を剣が通過し、ルベルの長い金髪を数本散らした。
剣が外れたことで出来たわずかな隙に、ルベルは素早く上半身を起こす。

「らぁっ!!」

左にいた盗賊のがら空きになった脇腹へと、横薙ぎに大剣の峰打ちを力一杯叩き込む。
短い悲鳴をあげた盗賊の身体は脇腹を中心として軽く折れ曲がり、大きな力で突き飛ばされたかのように宙を舞った。
吹き飛ばされた仲間の逆側にいた盗賊は、外れた剣を構え直そうとしていた為に、ルベルがまだ足に力を込めていることに気がつかなかった。
ぐるん、とルベルの身体が回り、大剣は変わらぬ勢いでもう一人の盗賊の背中へと叩き込まれる。
鈍い音がして、残っていた盗賊の身体が今度は地面へと叩きつけられた。
大剣の一撃をまともにくらった2人は、もう起きてこようとはしなかった。

「だーから、全部わかったって言ったじゃねぇか。てめぇら、俺がどれだけの間てめぇらの攻撃を防いできたと思ってんだ?」

まるで友人に話しかけるような軽さで訊かれたルベルの問いに、盗賊達は思わず互いの顔を見合わせるが、誰も口を開こうとはしなかった。

「なんだよ、誰もわかんねぇのかよ?3分だぞ、3分。そんな長い時間てめぇらのこと観察してりゃあ、一人一人の癖とか攻撃パターンなんぞ全員分100%モロバレだっつーの」

あたかも、わかって当然だろ、と言わんばかりにルベルは言ってのける。
余りにも自分と差のあり過ぎるルベルの『常識』に、盗賊達は皆、身震いをした。
最早ルベルのことを、飛びかかれば楽に殺せるような一般人とは思えず、誰も動こうとはしなかった。
その恐怖を打ち消すように、既に三人も倒されている事実を忘れるために、鼻から来る痛みで目の前の男を憎んで、先程蹴られた盗賊が大声を出す。

「は…ハッタリだ!!俺達の全員の癖が分かるだと!?ありえねぇ!!今ぶっ倒されたのは偶々に決まってる!!」
「あ、あぁ、そうだ!!そんなこと、あるわけ……」
「……てめぇら俺達が来る前、何人か通行人見逃しただろ」

囁くような声に何人かがビクリ、と反応したのを見逃さず、ルベルは口元をつり上げた。

「で、俺達を狙ったのは、丸腰だったからだよなぁ?俺が剣持った時、実は相当焦ってたろ?……なんだよ、何でさっきから誰も返事してくんねぇんだよ。ほら、何か言ってみろって。集団じゃねぇと物一つ盗れねぇチキン共」

背中から嫌な汗が流れる不快な感触すらも、盗賊達には感じる心の余裕がなかった。
何が楽しいのか不敵に笑うルベルの言葉は、全て図星であった。ルベルの前にやってきた通行人はみんな護衛を雇っていたためにそれを恐れて襲わなかったことも、丸腰だったからこそルベル達を襲うことを判断したことも、集団でいることに安心感を抱いていたことも。それを、こちらが標的として狙っただけの相手が、この短時間でここまで的確に見抜いたことが恐ろしく、盗賊達は一様に逃げ出したい衝動に駆られた。

ルベルが最初に違和感を覚えたのは、リラと話している時であった。
いくら帰りに通った道が遠回りとはいえ、その道は行商人などが使うこともあるため、ルベル達以外に全く人通りがないわけではないのだ。
それなのに、事件からそれなりの時間が経っていながら、被害者が最初に山で襲われた三人だけということが引っかかった。
その後、盗賊達の戦法をじっくりと観察することで、違和感は一つの仮説を導き出す。
常に誰かのフォローをしながら戦う彼等は、余りにも集団で襲うことに慣れすぎていた。その割に、一人一人は大剣の一撃にろくに反応できないぐらいに弱い。それはつまり、この男達は腕に自信がなく、集団でしか戦ったことがないということではないか、と考えた。
だから、実のところ今の発言は確信などないハッタリだったのだが、盗賊の素直な反応が、ルベルの仮説という認識を事実へと変えた。

「お前、あのサイクロプスの女を心配するふりしてずっと俺達を見てやがったのか……」

鼻を蹴られた盗賊でさえ、憎しみよりも恐怖が上回り、震える声でそう言うのが精一杯だった。それでさえ受け入れがたい事実には違いなかったが、そう考えるのが一番マシに思えた。
が、その言葉で、笑みを絶やさなかったルベルの顔が、少しだけ眉をひそめる。

「あぁ?何的外れなこと言ってんだ?心配してたに決まってんだろ。てめぇらが俺にビビって素手のリラちゃんを狙おうとしねぇか心配で心配でよぉ」

そこまで言うと、何かを思い出したかのようにあぁ、と一人頷く。
その後に続いた何気ない調子で呟かれたルベルの一言が、盗賊を更に戦慄させた。

「そーいや、心配すぎてさっきはちーっと力が入ってなかったかもしれねぇなぁ」
「……!!じゃあお前、この人数相手にずっと手を抜いて……!!」
「あぁ、ついでに言っとくが」

大したことでもないかのように、怯える盗賊に向かってルベルは笑って言い放った。

「もし、今から可愛い可愛いリラちゃんのところへ行こうとした場合……峰打ちじゃ、済まさねぇぞ?」

その一言が、盗賊達にとってはトドメになった。

「あ…う…うぁぁぁぁ!!」

半狂乱した盗賊が、力の差なども考えずにルベルへと突っ込んでいく。
それを合図にするかのように一人、また一人とルベルへと襲いかかるその光景は、ルベルが盗賊達全員へ向けて挑発をした時のようであった。
違う点は、二つ。
一つは、ルベルが攻撃を防いだり、避けたりするそのタイミングは全て攻撃が当たる直前であったということ。
そしてもう一つは、突っ込んで行く度に盗賊達が次々と地面へと倒れていくこと。

その中でも尚、ルベルは遊んでいるかのように楽しそうに笑っていた。

気がつけば、そこに立っているのはルベルと、恐怖で立ちつくし、反応が遅れていた盗賊の2人だけだった。

「ひっ……」
「あんだよ、人を怪物か何かを見るような目で見んじゃねーよ」

傷つくじゃねぇか、などと言いながら、それすらも楽しいかのようにルベルは笑う。
それが、最後の引き金となった。

「う……うぉぉぉぉぉ!!」
「噛ませ、ご苦労さん。せいぜい、俺の前でリラちゃんに喧嘩売った事でも後悔してろ」

突進してくる盗賊に合わせて、ルベルは大剣を構え直す。
そして、ルベルの周囲では今や最後の一人となった盗賊へとトドメを刺すべく、大剣を思いっきり振り上げた。



結論から言って、その刃が振り下ろされることはなかった。

この時、ルベルの心には一人で大勢の盗賊を倒した高揚感と、脱力感のようなものがあった。
その感情は、一言で表現するならば、油断。
それはルベルからこの状況に疑問符を浮かばせるだけの判断力を奪い、それ故にその時まで気づくことはなかった。


最初に自分達に向けて矢を放った男は、一体どこへと行ったのかということを。



じわり、と服の一点に赤い染みが出来る。
彼の脇腹に、一本の矢が深々と突き刺さっていた。


「がっ……あ……?」

状況を把握できないルベルの喉の奥から、わずかな声が漏れる。両手から力が抜け、大剣がその手から離れる。

荒事には慣れているルベルが、この程度で完全に動けなくなることはない。
しかし、前にいた盗賊が一気に接近して斧を振り上げる、致命的な隙を作るには、それは充分すぎた。

「死ねぇ!!」

盗賊の持つ鉄の斧が、ルベル目がけて無慈悲に振り下ろされる。
肩口から袈裟懸けに体を斬り裂かれ、ルベルは膝から崩れ落ちていった。
身体から流れる液体で、土が赤く染まっていく。腹部をかばうようにして倒れた彼の顔からは余裕の笑みが消え去り、代わりに苦悶の表情が浮かんでいた。

(矢、だと……まさか……!!)

首だけをわずかに動かして背後に目を向ける。
木の上で、弓を構えた男がこちらを見下ろして、口元を歪ませていた。

「は……ははは……はーっはっはっは!!やった!!やってやりましたよ、頭ぁ!!」

盗賊は木の上にいる男に向かって、高笑いをあげた。

「おうおう、よくやったじゃねぇか!!全く、手こずらせやがってよぉ!!」

頭、と呼ばれた男は地に伏せるルベルを見下ろして、勝ち誇ったように叫ぶ。

(く、そ……こんな、初歩的な手に……)

あの男がすぐに追い掛けてこなかったのは、ルベルをある程度消耗させて、油断させる狙いがあったのだろう。実際、ルベルも最初は弓矢も警戒しながら戦っていたのだが、全く攻撃が来なかったことからつい、最後の最後で意識の外に置いてしまっていた。
ようやく事態を把握したルベルは自らの軽率さを悔やむ。だが、彼は苦悶の表情を浮かべるだけで、もう一度立ち上がろうとすることはなかった。

「たいそう悔しそうな面してんなぁ?けど、安心しな。あっちじゃオーク共が今頃、とっくにあの一つ目を捕まえてるだろうよ。よかったなぁ、好きな女と仲良く逝けるぜぇ!!ひゃーっひゃっひゃっひゃ!!」

この盗賊団のリーダーであろう男は下卑た高笑いをあげた。その声は聞くだけでも不愉快で、ルベルはぎりりと歯を食いしばる。

「あぁ、もういいぞ。さっさととどめを刺せ」
「へい!!」

男が指示を飛ばすと、盗賊はゆっくりと斧を振りかぶる。その動きはとても緩慢で、ついさっきまで怯えていたのが何かの嘘のようであった。

「へっ、あれだけ大口叩いといてざまぁねぇなぁ!!今度こそ…死ねぇ!!」

そして盗賊は、倒れたルベルの脳天を目がけて力一杯斧を振り下ろす。

その瞬間、ルベルは両手を強く握りしめた。

「う……らぁ!!」

地面に手をつけると、自らを突き飛ばすかのように強く力を込めて、ルベルは上半身を強引に持ち上げる。
その頭を狙って振り下ろされた斧がルベルの顔先を掠めて、地面へと突き刺さった。

いくら大人数の盗賊を相手にしてあれほどの大立ち回りを見せたルベルとはいえども、この深手を負った体で立ち上がったところで飛び道具を持つ相手にとまともに勝負ができると自惚れてはいなかった。
だから、自分が追い詰められた作戦をそのまま模倣した。あえてギリギリまで動けないふりをすることで、敵の油断を誘った。
自身が斬られたその瞬間から既に、彼はこの作戦を考えついていた。

だが、『それ』はルベルの作戦ではなかった。

「ぐがっ!?」

盗賊団の首領である男の悲鳴が聞こえてきた。
彼の背後では盗賊が枝から足を滑らせて、木の上から転落しようとしていた。
だが、ルベルは決して振り返ろうとはしない。目の前の男の隙を見逃すわけにはいかないし、何よりルベルが行く必要はどこにもなかった。

ざくざく、と地を全力で踏みしめる音が離れたところから微かに響く。それが誰であるのかは、ルベルには既にわかっていた。

彼が首領の方に首を向けた、その時。
闇の中でも、その琥珀色の瞳は輝きを失っていなかったから。

リラは落下する男を狙って、一直線に跳躍する。
ルベルは突き刺すような胸の激痛に歯を食いしばって耐えながら、斧を振り下ろしたばかりでがら空きになった男の懐へと、潜り込む。

一人は、自らに襲いかかってきた少女を、傷つけた怒りを込めて。
一人は、馴染み深い少女を、傷つけようとした怒りを込めて。
リラとルベルは、拳を強く、強く握りしめる。

「これで……終いだ!!」

振り抜かれたリラの拳は、盗賊の鼻っ柱を正確に打ち抜いた。
振り上げたルベルの拳は、盗賊の顎を的確に捉えた。

その一撃で、盗賊達は水平と垂直に吹き飛んで、地面へと叩きつけられる。
彼等はぴくぴくと情けなく痙攣してから、ぐったりと動かなくなった。

「……確かに……俺は巷じゃ、『剣士』なんて呼ばれてるけどよ……」

肩口を押さえながら、既に気絶している盗賊に向けて、ルベルは言葉を絞り出す。
既に立つことでさえもやっとのことで、自らに傷をつけた人間に向かっての言葉であるというのに。
ルベルは、最後も不敵ににやりと笑ってみせた。

「剣振るうだけが剣士じゃねーんだよ、ばーか……!!」

そこが、限界だった。膝から力が抜けていき、彼の身体は前のめりになって倒れていく。
地面に倒れなかったのは、その前に彼の身体が青い両腕で支えられたからだった。

「リラ、ちゃん……よかった、無事だったんだな……」
「それは、私が、言いたい。あなたは、自分の、心配をして」
「ははっ……そうだな……」

リラの淡々とした言葉遣いを聞くと、日常に帰ってこられたようで、安心した。
だが、盗賊団を片付けたとはいえ、まだ油断できる状況ではない。ルベルの傷は、決して浅くはない。一刻も早くグランデムかカティナトのどちらかの街へ行かなければ、ルベルの身体が保たないだろう。
そのためにもまずは道に戻らなくてはならないのだが、ここからどう行けば道に辿り着くのか2人共わからないのだ。

「とりあえず……歩くか。悪ぃけどよ……リラちゃん、肩貸してくんね?」
「……駄目。あなたは、歩いては、いけない」

そういって、リラは支えていた両手をルベルの腰に回して、ひょいっと彼の身体を持ち上げた。

「ちょっ……リラちゃ……」

ルベルが驚いたのは、彼女が軽々と自分を持ち上げたことではなかった。
その抱き方は、ルベルが血をできるだけ流さないようにという彼女なりの配慮が入っているのか、彼が仰向けになるようにして横に抱き上げられたもの。

俗に言う、お姫様抱っこであった。

「……早く、行かないと」

ルベルとしては、自分より背の低い少女にお姫様抱っこされるのは何とも恥ずかしかったのだが、そんなこと言っていられる状況ではないし、何よりリラは至って真面目なので非常に言い出し辛かった。

なので、ルベルは少しでも自分の身体を安定させる為に、リラの首に手を回して、大人しく受け入れることにした。

リラはゆっくりと、どこにあるかもわからない道を目指して歩き出す。だが、やはり大の男がこんな体勢を取るのは恥ずかしい上に、傷だって痛む。少しでもそこから気を紛らわそうとルベルは口を開いた。

「……そういや、リラちゃんよ。あんた、狩りにどんな道具使ってたらあんな動きできるんだよ……」

それは、先程から気になっていたことだった。盗賊の首領を倒した時のリラの動きをルベルは直接目にしていたわけではなかったが、何をしたのかは状況から大体把握していた。
だからこそ、素手で殴ることに完全に慣れているかのような動きをしていたのは疑問だった。普通に狩りをしているだけでは、跳び上がって殴るようなことはまずしないだろう。

だが、彼女の返答はルベルの予想の斜め上をいった。

「……?狩りって素手で、やるものじゃ、ないの?」
「……マジかよ」

どうやら、心の底から疑問に思っているようだった。ああ、だからあの少し不自然なタイミングでそんなこと言ったのか、とルベルは内心で納得していた。
気が抜けて少し脱力した時、近くの茂みがガサリ、と音を立てて鳴った。

「……っ!!新手か……!?」

緊張の糸を張り直して、ルベルは茂みを注視する。最も、抱きかかえられた姿勢では傍から見れば迫力も何もあったものではなかったが。
だが、ルベルとは対照的に、リラはむしろその手から力を抜いていた。

「やっと、来てくれた」

茂みから人影が飛び出して、その姿を現す。

「リラ!!あぁ、やっぱりだ!!懐かしい笛の音が突然聞こえてくるもんだから様子を見にきたら……って、何だよその男!?血まみれじゃないか!!」

現れたのは、リラよりもさらに小柄な女の子だった。ただし、頭から小さな角が飛び出しているので、少女がゴブリンという魔物なのであろうことはすぐにわかったが。

「シューム、説明は、後にさせて。応急処置の、道具を用意、してほしい。なるべく、早く」
「あ、あぁ、わかった!!待ってろ、すぐに仲間を呼んでくる!!」

シュームと呼ばれた少女は、リラの言葉に頷くと、足早に駆けだしていった。

「……ひょっとして、あの子が友達か?」
「えぇ。シュームは、昔の友達。もう、大丈夫」
「そうか……なら、よかっ……」

首に回したルベルの腕が、ぐったりと垂れ下がっていく。ゆっくりと、ルベルは目を閉じた。

「……ルベルクス?」

リラの呼びかけに、ルベルは返事をしなかった。















「……そういやリラ、これからは怪我人あんな風に運ぶのは止めとけ。あの持ち方じゃ支えが安定しないから、むしろ傷が悪化するかもしれないんだぞ」
「……ごめんなさい。これからは、気をつける」
「ま、こうして無事だったんだからいいけどね……お、こいつ気がついたっぽいぞ」

リラの顔がすごく近くにある。
それが、目を覚ましたルベルが最初に思ったことだった。

「……大丈夫?」
「リラちゃん……ここは……」

自分は寝かされているのに、見上げている夜空の景色は勝手に下から上へと動いていく。そして何より、地面にしては自分が寝ているその場所はやたらと柔らかかった。
つまるところ、自分は担架のようなもので運ばれているのだろう。

「お前、体調に問題はないか?一応止血はして、包帯巻いておいたけど……」

足の側から聞こえてきたのは、気絶する前に聞いたあのゴブリンの声だった。
自分の胸元を見てみると、何重にも巻かれた包帯に、わずかに赤い染みが浮き出ている。
しかし、脇腹にはまだ折れた木の枝のようなものがまだ痛々しく刺さったままだった。

「素人が下手に引っこ抜くと余計に出血して危ないからな。先端は折っておいたけど、矢はまだそのまんまだ。痛いだろうけど、街に着くまでは我慢しといてくれ」

(そうか……そういや俺、盗賊団とやり合って……)

説明を聞きながら、ぼんやりとしていた頭で記憶を引っ張り出す。

「……っと!!そうだ!!盗賊団は!?あれから、何が……っつ!!」
「おい、馬鹿!!怪我人は大人しく寝てろ!!」

弾かれるように上半身を起こすと、傷口が再び痛みだし、ルベルは顔をしかめる。
シュームの叱責に逆らえるほど万全の体調でもなく、指示に従って大人しく寝転がる。

「そんな焦らなくても、全部説明してやるよ。ただ、その前に一ついいか?」
「あ?なんだよ?」
「……その剣、しまってくれない?」

その言葉で横に目を向けると、鈍色の刀身を持つ大剣がルベルと一緒に寝かされていた。

「リラの話だと、その剣は空間転移の術か何か使って持ってきたんだって?重いし、片付けられるもんならさっさと片付けてもらいたいんだけど」
「あぁ、りょーかい……」

手を広げると、案の定手袋は土や血などで、少なくとも魔法陣を見るのが困難なぐらいには汚れていた。
だが、ルベルはそれに構わず手の平を合わせると、両手で大剣にそっと触れる。
雷の鳴るような音と共にほのかに光りだした大剣が先端から徐々に消失していき、やがて光が消える頃には大剣は影も形もなくなっていた。

「おぉ、すごいなぁ。あんた、魔術師なのか?」
「いや、魔術師なのは俺じゃなくて、仲間のエリーっつうガキで……つうか、そんなことより、話してくれねぇか?あの後、何があったんだ」
「ん、あぁそうだな……そういう話だった」

コホン、と一つ咳払いをして、シュームは語り始めた。

「あんた達がぶっ倒した盗賊団だけど。あいつらなら、アタシ達で全員捕まえておいた。オークはカティナトの街の自警団に引き渡しに行ってるところで、男達はアタシ達の住処に連れ込んだ。最近、全然男が捕まえられなくてみんなお盛んだったからねぇ。今頃、アタシの仲間達にたっぷり搾り取られてんじゃないか?ま、あんたを街まで送り届けたらアタシも参加する気だけどさ」

思わず、手足を縛られた盗賊が多くのゴブリンに取り囲まれてる光景を想像してしまう。完全に自業自得とは言え、盗賊達に少しだけ同情してしまった。

「……そうか。世話になったな」
「気にすんなって。アタシ達としても、男が大量に捕まえられてラッキーなんだからさ」

ゴブリンなら一度捕まえた男を簡単に手放しはしないだろうし、そちらの方は彼女達に任せておけば心配はないだろう。
オーク達はどうなるのかはわからないが、元々人間を好き好んで殺そうとはしないのが魔物だ。それを先導していたと思われる男達がもういない以上は、被害者が出ることはないはずだ。
つまりは、これで通り魔騒ぎに一通りの決着がついたのだ。

「それに、それはあんたが誰も殺さないでいてくれたおかげだからな。礼を言うのはこっちの方だ」
「はっ。大したことしてねぇよ、俺は」

そう言いながら、ルベルは自らの胸元に視線をやった。

「……本当に、何にもしてねぇよ」

そこに巻かれた包帯を悔しそうに見つめ、もう一度同じ言葉を繰り返す。
ぐったりと力を抜くと、自然にリラと目があった。

「なぁ、リラちゃん……悪かったな」

今日一日だけで何度言ったかもわからない、謝罪の言葉をルベルは唐突にリラに向けて呟いた。

「何の、話?あなたは、私に謝るような、ことはしていない」
「色々だよ。俺一人で片付けるべきことに巻き込んじまったこととか、オークの相手を全部リラちゃんに任せちまったこととか。相手、三人もいたのに一人で何とかしたんだろ」
「褒められる、ようなことじゃ、ない。私はただ、力ずくで、止めただけ」

リラの言い方は相変わらず淡々としていたが、ルベルにはその表情がどことなく寂しそうにしているように感じた。
できることなら、リラは全てを話し合いで何とかしたがるような人だ。殴って解決するようなことは、したくなかったに違いない。

「あんたのせいじゃねぇよ。リラちゃんが気に病むようなことじゃねぇ」
「……でも、」
「あんたは別のこと心配しとけ。……例えばさ、その腰につけてる小槌、土で汚れてるぞ」

ほとんど反射的に、リラは小槌に視線を移す。けれど、その目に映った小槌には、汚れなどは一切見当たらなかった。

「…………」
「気づいてねぇと思ってたのか?リラちゃんさ、俺が立ち上がったあの時……それ、投げたんだろ。盗賊めがけて」

あのタイミングで都合良く盗賊が足を滑らすなど、あそこまで慎重に襲う相手を選んでいた盗賊のするミスとは思えなかった。
何より違和感があったのは、盗賊の首領があげた悲鳴。あれは、足を滑らせたというよりは、何かをぶつけられた、といった方がしっくりときた。
それは、ルベルがリラに抱きかかえられたあの時、こっそりとリラの腰についてるポーチの中に何もないことを確認する動機としては、充分すぎた。

「リラちゃん言ってたよな。それ、あんな状況でも使うの嫌がるぐらい、あんたにとって大事なもんなんだろ。それなのに……何で、ぶん投げちまったんだよ…………何で……俺を責めねぇんだよ!!」

傷口が痛むのも構わずに、ルベルは叫んだ。

「俺に同情でもしてんのかよ!!もうちょっとのところで油断してヘマして、冒険者のくせに一般人に助けてもらって!!その上、あんたが越えたくないって思ってた一線まで、越えさせちまったんだぞ俺は!!何で、リラちゃんは何も言わねぇんだよ……いっそのこと、怒ってくれた方が俺は気が楽なんだよ!!」

それはリラへの怒りではなく、自身への憤りだった。
群がる盗賊をなぎ倒した時、やっとリラの役に立つことができたことで、ルベルは確かに浮かれていた。そこを突かれて窮地に陥り、逆に護ると誓ったはずの少女に護られた悔しさが、込み上げてくる。
彼女が優しいのは知っているし、それに対して何か言うのがお門違いであることもわかっていた。それでも、溢れる感情をぶつけることしかできずに、いつしかルベルの目から一筋の雫が流れていった。

リラは、そんなルベルへと何も言わなかった。
その顔をじっと見つめながら、ルベルの感情を、ただ黙って受け止めていた。

「優しさなんか……いらねぇんだよ……!!くそ……ちくしょう……!!」

片腕で目を覆い、せめて格好悪い姿を隠そうとするルベルのその身体は、僅かに震えていた。

そして、リラはゆっくりと口を開く。

「……ルベル」

呼ばれたその名前は、彼の普段の呼び名でありながらも、リラの口からは一度も聞いたことがない名前だった。

「私が、この小槌を、投げたのは事実。私が、使いたくないと、言ったのも事実。だから、あなたの言ったことを、否定はしない。だけど、これだけは聞いて。……私は、これを使って、人を傷つけたことを。後悔は、していない」
「……だから、あんたは、」
「その腕、どかして。私を、見て」

何故そんなことを急に言い出すのか、ルベルにはわからなかった。けれど、その声音はどこまでも穏やかで、ルベルは腕を目から離す。

そこにいたのがリラだと、最初はわからなかった。
なぜならば、リラはルベルを見下ろして、ルベルの見たことが無い優しい笑顔を浮かべていたから。

「ルベル。あなたが無事なら、私は、それでいい。あなたは、大事なお客様、だから。私の作った武器を、いつも大事に、してくれる人だから。目の前で、助けられる、人がいるのに。それを見捨てる、ぐらいなら。意地なんて、いくらでも、捨てられる」
「リラ、ちゃん……」
「……あなたを助けられて、本当に、よかった」

初めて見る笑顔は、どこまでも晴れやかで、後悔など全く滲ませてはいなくて。
そんな顔を見せられてしまえば、ルベルはそれ以上何も言えずに、クスリと笑ってしまった。

「……ずりぃな、ちくしょう」

こんなタイミングで笑顔になるなんて反則だ、と思った。けれど、その笑顔にはルベルの中で溜まっていたものを全て吹き飛ばしてしまうような、不思議な魅力があった。
昼間は背中しか見ることはできなかったのだが、あの時出会った少女も同じような気分になったのだろうか。

(今日は……結局、最後まで助けられてばっかだったな……)

一日を振り返ってみると、ずっとリラの世話になっていたように思う。
その想いに、応えたい。受け取るだけではなく、何かを返してあげたいと、心の底から強く思った。

そして、それはすぐ近くにあった。

「……なぁ、リラちゃん。今日一日、俺に付き合ってくれてサンキューな。だから……これ、記念にやるよ」

ルベルはズボンのポケットを寝たままの体勢で探ると、その中の物をリラへとそっと差し出す。

それは、一日の始まりに購入させられた、赤いハートのついたネックレスだった。
あれだけのことがあったにも関わらず、そこには一切傷やひびが入ってはいなかった。

「これは、あの時の、宝石?」
「あぁ。リラちゃんが占い師のテントに行ってる間に、ちょっと買わされちまってな。俺がこんなん持っててもしょうがねぇし……リラちゃんにやるよ」
「でも、私達は、恋人じゃない」
「わかってるっつの。そんな大それたもんじゃなくて、ただのお礼だよ。せっかくのデートだったんだ。最後にプレゼントするぐれぇ、いいだろ?」
「……わかった。シューム、ちょっと止まって」

あいよ、という足下からの短い返事の後、担架の揺れがなくなった。
リラは左手を担架の下に回して器用に片腕だけで担架を支えると、空いた右腕をおずおずとネックレスへと伸ばして、それを掴んだ。
受け取ったそれを、リラはしげしげと眺める。

「……綺麗」

その顔はもう笑ってはいなくて、いつも通りの無表情な彼女に戻っていたけれど。
聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、リラは呟いてくれた。

「リラちゃんの肌って鮮やかな青色だしさ、似合うんじゃねぇの、きっと」
「……そう」

そう言って、リラはそのネックレスをそっとポーチに小槌と一緒にしまう。
その行動が、彼女にとってどれだけ深い意味を持つのかは、ルベルどころかシュームでさえも知らなかった。
リラだけがそれを理解して、そっと担架を持ち直す。

「……ルベル」
「ん?」
「今日は、色々な事が、あったけど。私は、楽しかった」
「……俺も、同感だな」

最後にそんな短いやりとりを交わして、ルベルはゆっくりと目蓋を閉じる。
グランデムの街の明かりは、もうすぐそこに迫っていた。

こうして、冒険者と鍛冶師の長い一日は、その幕を閉じた。





















「ルベルさん……どうなったんでしょうか……」

昼下がりの鍛冶屋『LILAC』で、ニシカは心配そうに溜息を一つ吐いた。

「ニシカ……もうやめてくだせぇ、その話をするのは」

店内の掃除をしていたキリュウは、箒を動かしていた手を止めてニシカを諫める。
ニシカに元気がないのは今日に始まったことではなかった。数日前、リラとのデートの帰りに盗賊団に襲われ、ルベルが大怪我を負ったことは当然二人の耳にも届いていた。
それ以降、ニシカは自分の軽はずみな発言がデートの発端となったことに責任を感じ、事あるごとにルベルの心配をしていた。
キリュウは、そんなニシカにうんざりしているわけでは決してない。

「ありゃニシカが悪いわけじゃありやせん。悪いのは全部、師匠とルベルに手を出そうとした盗賊団の野郎どもでさぁ」
「先輩……ですが……」
「ルベルの野郎はデートができて喜んでたじゃないですかい。それとも、それもなかった方がよかったって言いやすか?」
「そう、ですね……すいません」

一応謝罪の言葉こそ口にするが、ニシカに納得した雰囲気はなかった。人の足を引っ張ったり、迷惑をかけたりすることを、昔の経験からかニシカは極端に恐れている節がある。
そんなニシカが元気ない状態が続いていることを、キリュウは非常に心配していた。
しかし、それ以上かける言葉はキリュウの頭には何も浮かばない。結局、キリュウには俯いて掃除を再開することしかできなかった。

いつになく、鍛冶屋『LILAC』に重苦しい沈黙が訪れる。
それを破ったのは、ドアに取り付けてある鈴の鳴る音だった。

「あ、いらっしゃいませ!!鍛冶屋『LILAC』にようこ……そ……」

かつての厳しい教育の賜物か、お客様に対して反射的に笑顔を向けるニシカ。が、その笑顔は、決まり文句を言う最中に引きつった。

「……ルベルさん?」

入ってきたのは、たった今話題に挙げられたばかりのルベルクス=リークその人であった。体に巻き付いた包帯などはなく、彼が負傷した痕跡は少なくとも彼の体には見られない。
しかし、ニシカが驚いたのはその点ではなかった。

「……何か喋ったら殴るぞ」

明らかにしかめっ面をしているルベルの左手。その手の先は、赤いコートと帽子をかぶった彼より一回りも背丈の低い少女の右手を握っていた。
ルベルとは対照的に少女は笑顔でうきうきしており、楽しくて仕方がないといった様子だ。

「おーエリーちゃんじゃないですかい。久しぶりですねぇ」
「あー、キリュウだ!!久しぶりだねー!!あれ?エリーの知らない人がいるよ?」

キリュウが親しげに話しているところを見るに、この子も常連客なのだろうか。
おそらくエリーという名前の少女に指差され、ニシカは営業スマイルを向ける。

「初めまして、ニシカと申します。あなたは……ルベルさんの妹さんですか?」

ニシカには、二人の関係はそう見えた。赤い大きな帽子のせいで少々わかりづらいが、少女の髪の色もルベルのような金色なのだ。ただし、この子の場合まるっこいショートヘアに加え、ルベルよりも若干赤みがかった明るい金色をしている。

しかし、ニシカのその予想ははずれたらしく、彼女は頬を膨らませた。

「むぅ、違うもん!!エリーはね、お兄ちゃんのお嫁さんなの!!」
「それ止めろって言ってんだろうが!!」
「痛っ!?」

胸(コートの上からでもほぼないのがわかる)を張ってここぞとばかりにお嫁さんを強調するエリーを、堪忍袋の緒が切れたルベルがスパァン!!といい音を立ててはたく。

「そもそも、てめぇはただ俺の仕事のパートナーってだけじゃねぇか!!」
「今はまだそうだけど将来きっとお嫁さんになるもん!!それに、しばらくお兄ちゃんはエリーの言うこと聞いてくれるって約束だったでしょ!!」
「限度があんだろうが限度が!!なんでもって言葉をそのままの意味で捉えんなクソガキ!!」
「あ、あの……え……?お兄ちゃん……?お嫁さん……?」

口論を始める二人を余所に、余計に混乱して軽いパニックを起こすニシカ。
キリュウは止めようともせず、笑いをこらえるのに必死で全身が震えていた。

「大体てめぇはなぁ!!……あー、おいニシカ?なんかショートしてっけど大丈夫か?」
「え、えーと、大丈夫ですよ?ルベルさんはお兄ちゃんのお嫁さんで、その子は妹さんのパートナーなんですよね?」
「いやどう考えても大丈夫じゃねぇだろお前」

ようやくニシカの様子に気がついたルベルが声をかけるが、返ってきた言葉に思わずツッコミを入れてしまった。

「あのな、こいつは魔女だから男のことはみんな『お兄ちゃん』って呼んでんだよ」
「あぁ、だからですか……」

魔女という名前は、魔物の種類の中でも有名なのでニシカにはすぐに見当がついた。人間と変わらない幼い姿で男性を魅了する、魔物の中でも特に魔術に秀でた種族。帽子とコートに目を奪われていたが、少女は背中に、先端に宝石を埋め込んだ杖を背負っていた。

「違うもん!!ルベルのこと以外はもうお兄ちゃんなんて呼ばないもん!!」
「へーへー。ほら、さっさとちゃんとした自己紹介しやがれエリー」

今度はルベル、の部分を強調するエリーだったが、やはりルベルに聞き入れる気配はなかった。エリーはまた膨れっ面になるが、ニシカの方を向いて気を取り直す。

「むぅ……エリーの名前はね、エリーネラ=レンカートだよ!!お兄ちゃんとはね、一緒に冒険者をしているの!!」

あぁ、とそこでニシカはようやく気づいた。先日聞いたルベルの話に、何度か仲間の魔術師が出てきていた。それは、彼女のことだったのだろう。

「さらに、なんとこの子はルベルのお嫁さんなんですぜ!!ルベルは照れてるのか中々認めないんですがねぃ、ぷくくっ!!」

そこに、キリュウが笑いを堪えられずに吹き出しながら横槍を入れると、それを聞いてエリーは嬉しそうにニシカへ向けて満面の笑みを浮かべた。

「そうなの!!キリュウの言う通りエリーとお兄ちゃんはね、いっしょに冒険するうちにラブラブになったんだよ!!」
「だから俺にそのつもりはないって言ってんだろうが調子乗んなクソガキ!!キリュウもだ、はっ倒されてぇのかてめぇ!!」

そしてまた騒ぎ出す三人を、ニシカは安堵の表情で見つめる。
ふざけんなだのはっ倒すなどと言葉使いは荒いものの、ルベルは本気で怒っている顔をしていない。ルベルとエリー、二人のやりとりは、まるで仲のいい兄妹を見ているようで微笑ましかった。
そして、その様子を見ている内に、ニシカの中からはいつからかルベルに対する罪悪感はどこかへ行ってしまっていた。
そんなことを一切気にしていない彼等を見ていると、自分だけ気にすることが実に馬鹿馬鹿しかった。

(確かにお兄ちゃんみたいですね、ルベルさん……)

入ってきた時から繋がれた二人の手がいつまでも離れていないところを見ていると、そんな風に思えるのだった。

「そういえば、本日はルベルさんどうしてここへ?」

ふっと湧いた疑問を、場の収拾をつける為にもルベルへと聞いてみる。

「お兄ちゃんはね、飛び交う炎や水の魔術を避けながらエリーの事をお姫様抱っこで護ってくれたの!!それからね、エリーに『お前の事はもう離さないぞ』って熱い愛の言葉を贈ってくれたんだよ!!」
「んなことしてたまるか!!お前の妄想を勝手に混ぜんな!!」
「ほー、それはお熱いじゃないですかい。あっしはお二人をお似合いのカップルだと思ってますぜ、ルベル?」
「てめぇはしつけぇんだよ年中脳内お祭り野郎!!……って、あぁん?ここに来た用事か?」

騒いでいたルベル達は、そこで意外にもあっさりとケンカするのをやめた。

「そういや、そうですねぃ。こんな短期間でルベルが来る理由なんか、ないはずでございやすが」
「この前リラちゃんをデートに誘った時、ついうっかり剣引き取るのを忘れちまってな。それ、引き取りに来た」

デート、という言葉を聞くとエリーとキリュウの二人が同時に嫌そうな顔をしたが、ニシカはそこには触れないでおく。
この二人は、結構気が合うようだ。

「そうでしたか、でしたらすぐに持って……」
「その必要は、ない」

ニシカが工房へと戻ろうとした時、店内に凜とした声が響き渡る。

「お、リラちゃんじゃ……っ!!」

リラの声に反応したルベルがリラへと振り向いたその瞬間、信じられないものを見たような顔で息を飲んだ。

「どう、したの?ルベル」

リラがちょこんと小首を傾げる。その仕草は何となく、小動物でも見ているような気持ちにさせた。そんなことを想像した自分がおかしくて、ルベルは思わず軽く吹き出してしまう。

「あぁ悪ぃ、リラちゃんは今日も可愛いなって思っちまってよ」

そう言って、懲りずにデートに誘おうとするルベルにエリーが杖の先から炎を飛ばそうとしたり、リラが店内で炎を使ってはいけないと説教を始めたり、今日も鍛冶屋『LILAC』の店員と、そこを訪れる客は賑やかだ。


その中心にいるリラの胸元には、赤いハートの付いたネックレス。
ルベルの見立て通り、それはリラの青い肌によく映えていた。


12/07/22 10:15更新 / たんがん
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■作者メッセージ



おまけ
病院の一幕



「お兄ちゃんの馬鹿ぁ!!うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「だぁぁ!!悪かった、俺が悪かったから泣きやめ痛たたた!!」

病室のドアを荒々しく開けたエリーは、俺の姿を見るなり泣き出して、勢いよく抱きついてきた。強く抱きしめられると、まだ怪我が治りきってない部分がズキズキと痛んだ。

「心配したんだよぉ!!お兄ちゃんが怪我したって聞いて、サバトから飛んできたんだからぁ!!」
「わかった、わかったからとりあえず離れろエリー!!まだ傷が痛ぇんだよ!!」

涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたエリーを引き剥がして、ベッドの上に乗せる。
ぐす、と滲んだ涙を手で拭くエリーを見ていると、申し訳ないという気持ちが俺の中に湧いてくる。こいつを泣かせちまうなんてな……

「うぅ……ひっく、なんでエリーがサバトにいるちょっとの間にデートなんか行っちゃったの、お兄ちゃんの馬鹿ぁ……」
「いや、それは不可抗力と言うかなんと言うかだな……おい待て、何でスカート脱いでんだてめぇ!?」
「だってエリーの良いところをお兄ちゃんの体に思い出してもらいたいんだもん!!それに、お兄ちゃんもきっと溜まってるよね!?」
「余計なお世話だぁぁ!!病室でおっ始めようとすんなクソガキ!!」

スカートにかけたエリーの手を全力で阻止する。確かに今のとこ声かけたナースには三連敗中だが、だからってこいつに襲いかかりたいと思う程落ちぶれちゃいねぇ。
が、いつもならここで余計に五月蠅くなる筈のエリーは、押し黙る。
ここぞとばかりに力を込めようとした俺の手が、エリーの言葉で緩みそうになった。

「……謝るだけじゃ、エリー許さないもん」

そっぽを向いてぼそっと呟かれたその一言が、エリーの心情を全て物語っていた。
今回は俺の迂闊な油断が原因で、もう少しでこいつに二度と会えなくなるところだった。こいつの謝罪だけじゃ足りないという言い分も、よく理解できる。

こりゃ、予想以上に心配かけちまったみたいだしな……しょうがねぇ。

「……セックス以外な」
「……ふぇ?」
「てめぇの言うこと、退院してからしばらくはなんでも聞いてやるよ。それで勘弁しろ」

やや間を空けて、エリーの表情がみるみる明るくなっていった。まぁ……これぐらいはしてやらないと、な。

「何でも!?本当に何でも!?お兄ちゃんと手を繋いで街中を歩いてもいいの!?」
「ぐっ……そ、その程度余裕でやってやらぁ!!」
「やったぁ!!それなら、まずエリーがお兄ちゃんのお嫁さんであることを周囲に認めさせてー、それからそれからえへへ……」
「……おーい、ついでに結婚もパスな」

もう俺の話は聞いていないのか、エリーは顔に手を当てながら頬を緩ませて、小声で何かをぶつぶつ呟いている。
まぁ……いいか。こいつには、泣き顔なんか似合わねぇしな。


後日、なんでもいいと言ったことを鍛冶屋『LILAC』でさっそく後悔した。





後書き
どうも、たんがんです。

自分の作品の中でも最も長くなってしまったこのデート編ですが、ようやく完結させることができました。
リメイク前に比べても遙かに長くなってしまいましたが、これは以前やろうとしなかったリラとルベルの個性をきちんと描写しようと思った末の事でして……今回、きちんとできていればいいのですが。

さて、次は、構想だけはずっと前からあったのですが、彼、ルベルクス=リークの視点で語られる物語を書いてみようかと思います。

正確にはその前に書きたいお話があるので投稿はまだ先になりそうですが、告知だけはしておきますね。……言っておかないとサボるのでww

それでは、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

……さて、物語は裏側にもうちょっとだけ続きます。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33