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カヌクイ 第五話 男の甲斐性と女の事件性 【後篇】
 彼等は役回りで貧乏籤を引いたのだろう。
 世界という舞台の上、端役としてしめやかな最期を満喫できない役柄を引き受けるように。
 高校生。
 そう狂った人生を送ったはずはない。元々が普通で、一般的で、少しだけ性格に難のある青年。一人暮らしに辟易しながら三年を過ごし、大学に通って青春なんて言葉が大嫌いだったのに、そんな言葉を忘れるくらいの歳になって年下の恋人が突然出来て、そのまま結婚まで三年もかかって。退屈だと繰り返した日常でのトラブルに痛い目を何度も見て、その癖、倖せなんて言葉の意味を理解するような人生。老いぼれて耄碌して、なのに笑って死ねる人生。
 家業。
 それがなければ片田舎の小僧。寒い風や暑い日差しに悪態をつきながらも、折り目正しく生きるであろう青年。親の小言を聞き流し、勉強机に残った黒い汚れを横目にノートを開く。落書きの数と数式の羅列が同じくらいの割合いで、幸運な事に高校の時に好きな人と両想いにもなった。結局、その彼女とは別れてしまったけれど、そのまま街の公務員を始めた頃に出会った人と付き合い始める。突然の妊娠に慌てふためくも、そのままプロポーズするような人生。
 それが、本来の彼らが望むべきものだったのかもしれない。
 そういった二人は互いを友とは呼ばなかっただろうし、不意の出会いから知り合った愛しい人と一生涯付き合う事もなかっただろう。
 倖せな結婚。満ち足りた時間。
 そういったものがこれからあるかは定かでない。
 ただ、彼らは貧乏籤を握り締めて歩いていくのだろう。
 戦って、歩いて、前へ。
 それもまた彼等の生きる道である。

 
 人生の悲哀こもごも。
 そういったものは走馬灯より手軽に自分を客観視させてくれる。
 法一と布由彦の周囲。
 転移術式によって次々と人影が舞い降り、瞬きをする間に不利な状況が累積していく。
 周囲を囲む一団。同じ装備、法衣の上に白い鎧を身に纏ったゴブリン、リザードマン、ローバー、ハーピー、アルラウネなど、魔物の女達はそれぞれの得物を構えた。
「それじゃ、死んでくれる?主に私達の為に」
武器を構えた魔物達が突進すると同時、流れるような動きで布由彦が動いた。
 踏み込んだ瞬間の震脚。虚をつかれた魔物の動きが鈍り、その僅かな間断だけで囲みを突破、一人を打ち、二人目を叩いた。
 集団が乱れる。統率されていた行動が歯車を一つずつ狂わせていく。
 背後の一人に一撃、振り返り様に一撃、横の一人へ一撃、足払いからの突き上げで一撃、擦り抜け様の一撃、二撃、三撃でそれぞれ倒れる。
「礼服はもう駄目だな」
 一定のリズムで繰り出される踊るような動きが止まる。上着を軽く脱ぐと、シャツの襟元、首を絞めるボタンを乱暴に外した。
「先に行け。ここは俺が引き受ける」
布由彦は笑う。整えられたオールバックを撫でつけ、殊更に凶悪に笑う。
「さて、久しぶりに暴れようか」
深く息を吐く。そのうちに法一も準備を済ませていたらしい。
 両拳を包む籠手、ガントレット。しかも、今回は両足もまた、黒い具足に包まれていた。
「いや、何処へ向かえと?」
戦闘準備は終えたものの、布由彦の言葉に法一が首を傾げる。
「さっきの震脚で調べたが、山側に誰か居る。狙撃でも用意される前に頼む。他にも、妙な気配を感じたが、そちらは気にしなくてもよさそうだ。敵意はおそらくない」
深い溜め息と共にそう告げた布由彦。彼が捉えたものが何であるのかは、聞かなくても解った。
 多分、あの無口な子だろうなと法一も思ったものの、そのうんざりした様子に何も言わず話を逸らした。
「成程。場所は?」
「中腹。人数が少ないのは精鋭だからかもしれない。注意を」
「了解」
溜め息混じりに法一が応じる。両足の具足から風が噴き出すと同時、その暴風に乗って彼は中空を滑った。
「な!?逃がすな!」
 その言葉に反応した数人が行く手を阻むものの、空中を滑る法一は見えない波に乗るよう躱していく。
「魔術式用意!」
バフォメットのアリアンが叫ぶ。彼女が指揮官である事を承知している布由彦は、彼女が詠唱をしていない今こそと動く。
 踏み込む足先が砂を蹴る。荒れた料亭の庭の中、布由彦が直進するだけで人々が昏倒していく。
 発剄。
 掌で触れた瞬間に衝撃を打ち込む。浸透した衝撃波によって内部にダメージを残す技術であるが、布由彦の場合、自身の能力を応用することで打撃の質を操り、相手を昏倒せしめる。
 だが。
「甘い!」
展開された魔術式による防護壁。咄嗟に衝突を回避した布由彦へ即時詠唱されたアリアンの魔術が襲う。
 炎の矢が降り注ぐ。
 しかし、咄嗟に転がり攻撃を避けた法一は息を大きく吸い込む。
「ナナカマド!一式頼む!」
『世話の焼ける』
何処かで踏まれる前足のリズム。届いた声は空気に反響した。
 鋭角よりその身を運ぶ犬。その名をナナカマド。
 その技がどのように振るわれたのか、高空から落下してきた巨体は、庭石を破砕し、地面へと舞い降りていた。
 銘を陸参巌正角(リクサンゲンマサカド)。巨大なる武者鎧。
 巨体が揺れ動いた刹那、一人の少女がその腕を構えた。
「私もお忘れなく。なく」
クインビ―の開いた腕から黒い球体が射出される。火薬の匂いに展開される防護壁。
「でかした」
開いた陸参厳に布由彦が呑みこまれた瞬間、周囲では連鎖する爆発が吹き荒れた。


 滑走から跳躍に移動を切り替える。継続しての能力使用は負担も大きい。
 噴き上がる風圧に押し上げられ、空中を流れていた法一は、咄嗟に銀色の外套に身を包み、その姿を消した。
「ん?今、何か」
「んー?確かに、何か」
そう反応した一対の天使。しかし、再び姿を現した法一が放った衝撃波が、それぞれの側頭を打ち抜いていた。
「加減はしておいた。寝ておけ」
『きゅう・・・』
布由彦の打撃を参考にした威力を絞り込んだ衝撃波。
 その様に呆気にとられていた顎・・・否、ホーマン・バーナルドと目が合った。
 その足元、大の字に寝転び、大鼾をかくカンジナバル。
「は?」
頭の中で歯車が噛み合わない。しかし、精神より脊髄の方が解り易かった。
 両手の籠手を解除した瞬間、その手には黒い銃が握られていた。
 引き金が引かれ、発砲音のない射出。
 咄嗟に防御に構えたホーマンの腕へ、ちくりとした痛みが奔り。
「・・・・・・・!!!!!」
引き金とは別のスイッチと共にホーマンは痙攣した。
 要約。
 電気銃。テイザーガン。しかも能力により制作された莫大な電流を放出する危険物。
 そういったものを何の脈略もなく法一が発射していた。さしものホーマンも、こんな異世界の武器など知らなかっただろう。
 男子三日会わざれば刮目して見よ、である。この男、奸智においてはなかなかに性根が腐っている。
 傍に落ちていた一抱えはある木の棒を拾う法一。
 躊躇いなく上へ掲げる。
「ひ、ひゃめれくれ」
ホーマンの言葉に、法一がにこやかに笑った。
 お知らせ。
 ただいま、描写に支障のあるえげつない暴力行為 が行われています。
 しばらくお待ちください。


 獅子奮迅。舞い踊る鋼の糸が魔物達を捉え、動きを阻害。
 その瞬間に両手を音高く叩きつけ、合掌をする陸参厳。それだけで糸を伝った衝撃波が叩きつけられた者達が倒れる。
 その繰り返しだけで、残るはアリアンだけとなっていた。
「ったー。どんだけ最悪なの」
アリアンが唸る。舌打ちと共に鎌を構え直すと、懐から紙包みを取り出す。
「まだやるのか?」
「・・・羽蟻って名前、なんでだと思う?」
「さて」
アリアンが壮絶な笑みを浮かべる。
「蜂似て蜂に非ず、集めるのは蜜でなく人の精、増え、浸食し、人という群れに害悪を齎す生物の範疇より外れた生き物」 
蟻が蜂の近縁種である事を、かの世界の人々は知っていたのであろうか。
 それはあまりに。
「ねぇ?私達の何が悪いっての?」
穏便ならざる侮蔑であり。
「ねぇ?仲間を人質に、脅されるほどの害悪だっての?」
正当ならざる脅迫であり。
「ねぇ?だからさ」
宿る狂気は、彼女の瞳から涙を吹き零した。
「こんな異世界くんだりで人殺しさせられてんだから、人間の方が余程に悪辣だろうがぁ!」
咆哮。紙包みが吹き飛び、中身が露出される。
 現れたのは人の形をした土人形。その色合いは黒く濁り、斑の模様が描かれていた。
「もういい加減にこっちは我慢しきれないのよ!壊して犯して焦がして殺してはい終わり!」
やるせない感情。
 重たい溜め息が布由彦の口から洩れ、反応した陸参厳も排気に白く熱い呼吸を吐き出す。それでも構え直す。
 短い呟きと共にアリアンの手の中で人型が砕けた。同時、噴出するように重なる歌のようで、呪のようで、そして懺悔に似た何かが漏れ出た。
 ずるりと。
 ぬたりと。
 泥人形を媒体に、何かが現出する気配。それはおぞましくも芳しい匂いを放ち、どこか、人を腐らせるもの。
 触手の束を人型に束ねたら、似たような何かになるかもしれない。人間の倍近い巨躯を軋らせ、肉と肉が蠢きあう粘液質な音がここまで聞こえてくる。
 触手の間から覗く眼。花の香りを思わせながらも、どこか酸味の漂う吐息が顔のあたりからも漏れ出ている。
 そして、その臭気が空間に蔓延した刹那、次元の層が僅かだが隔絶した。この空間の事をこれ以後、常人はもう気付けない。
「結界・・・いや、断層のようなものか」
背筋が痛む。この臭気を直接嗅いでいたらと思うと怖気すら感じた。そして、直接嗅いだであろう魔物の女達が、臭いに刺激されたことで気絶から覚め、徐々に退避を始めた。
 これは、脳まで浸食する異常で凶悪な存在するだけで他を冒す病魔。
 その表面に触れることすらままならない。
「次から次へと何の恨みがあるのか・・・」
呆れはするが諦めはしない。
 ボロボロに汚れようと、心意気こそ錦である為に、潰えぬ誇りが足を進める。
 太く節くれた金属の指先から輝きがうねる。
 輝く鋼糸の波が揺れ動いた刹那、周囲を舞い散る塵が舞った。


 容赦呵責のない乱打の終了。
 もはや痙攣するのが精々というホーマンを余所に、折れた樹の棒を捨て、眼を閉じ浅く吐息を洩らすカンジナバルの元へ走る。
 邪魔するものは既に誰も居ない。
「おい」
眠っているのか、死んでいるのか。
 それを図りかねるように頬に指先を当てる。
 冷たく、柔らかく、そして熱を秘めた横顔。驚くほど繊細な美貌は、軽妙洒脱な普段とはイメージがまったく異なる。
 吐息は聞こえるのに。
 その瞼は開かない。
「・・・カンジナバル?」
抱き起そうとした腕だが、身体の下に差し込もうとして痛みを感じた。腕の表面に細かく小さく幾重にも重なる切り傷。
 鱗。素肌に僅かばかり露出したそれは、自分に触れる相手に反応して、隠蔽していた本来の躰へ変化していく。
 慌てたものの、法一はそのままカンジナバルを抱きしめる。表皮に浮かんだ鋭い鱗は、肉を抉り、骨にまで達するほど深く刺さりそうであったが、混乱し、慌て、そして必死な法一は顧みる事なくその両腕で抱き抱える。
「待て、どうしてだ、何故」
脳が渦を巻く。
 意識が統一性を失う。別々の思考パターンが脳内を巡り、結論の出ない問いは延々と繰り返される。
「カンジナバル!カンジナバル!カンジナバル!」
必死な呼びかけ。
「起きろ!寝るな!いいから!ほら!朝だ!昼を過ぎている!」
 どこかに消え失せようとしていた意識の波へ、言葉は落ちていく。
「謝る、赦せとも言わない、だから、だから」
波紋。
 ずっと遠い、心の虚空の先。
「カンジナバル!」
 辛うじて、小さく、
 反応しようとしていた。


 眠り。
 眠り。
 ねむい。ねむたさ。
 そういった深く底のない意識の井戸の底へ落ちていく感覚。掬い上げる者もおらず、ひたすらに心の闇へ落ちていく。
 そのたびに、心が、身体が、ささくれだっていく。
 鱗が尖り、誰かを刺し貫こうと蠢くような感覚。
 凍えた身体が、必死に周囲から自分を守ろうと、鱗で全身を包みこんでいく感覚。
 それらが、夢か、本当か、それも解らない。
 あいたい。
 誰にという問いに、一番に浮かんだのは妹の顔だった。どこか世を儚んでいるような無機質な容貌、その癖にどこかで御しきれない熱情を抱え、ぶっきらぼうに前を睨む姿。
 それは微笑ましくもあり、どこか危うげでもあった。
 その隣に誰かが居る。
 誰か。何か。
 撫でつけられた髪に、不機嫌そうな、厳めしい容貌の青年。
 それはまるでおかあさんみたいで。
 そこに妹は甘えているのかもしれない。だからこそ、妹は心を許しているのかもしれない。
 享受と依存。
 しかし、それは愛や恋と呼べるほど確かなものではなく、成長を見守るような青年の眼には、どこか憧憬や寂しさが見えた。 
 それは、甘える事もできなかった自己憐憫なのか。
 解らない。
 解らない。
 けれど、そういったものを客観視している自分は誰で、何処に居るのだろう?
 そこまで考え、たまらなく寂しくなった。
 助けて欲しいけど何から救って欲しいのかなんてわからない。どこからか逃げたいのに、逃げてどうなるわけでないのも知っている。けど、たまらなくさびしい。たまらなくさびしい。
 その感情は人への怨嗟だった時代もある。
 奪われた父の腕。
 そして。
 憤怒と怨嗟に染まっていた母が、億の傷を刻まれた巨大な亡骸と果てた瞬間。
 抑えられなくなった。
 そういったもの全てに憤り、村を、街を、国を焼いた。
 天へ伸ばされた焦げた手に何を感じることもなく、泣き喚く子供達へ炎の舌が這っていく。
 そんな罪を、欠伸を繰り返すように、自分は幾度も犯してしまった。
 涙を流す、父が目の前に立つまで。
「・・・・・・!」
 嫌だ。
 今、思い出したら、耐えられない。見られたくない。 
 そういった感情全てを預けてしまえる誰かに、今の自分は縋りついてしまいたかった。
 居たはず、居るはず。
 それは。
「あ」
 光明と共に、落ち沈んでいく自分へ届いたか細い光明。どこか適当で、それでいて気持ち、心を思い出してきた冷血漢。
 その声が、聞こえた気がした。


 銀の風。
 何かそういったものを意識し、機体の指先から鋼糸を躍らせる。 
 目の前には肉の魔人。
 その背後には魔術を司る大いなる悪魔の少女。
「だから、どうした」
巨体の視線に促され、既に動いていた女性型ビターこと通称クインビ―が動く。
 抱えた振り袖の少女ごと高速走行。
 その背が幾分小さくなった瞬間、鋼糸が風を切る。
 肉の魔は歩き出す。腐汁一滴に地面が焼け焦げ爛れる。 
 怯むなと己を叱咤する。震える両足が機体に伝わらないよう苦心する。
 その間にも指先で鋼糸を操らせ、銀の波が魔人に触れぬ距離で風を刻んでいく。
 刻んだ風は気流を生み出し、渦を描く。
 渦を巻く。 


 呼びかけが不意に途切れる。
 目の前、幻影のように、それこそ影法師のように現れた人間への警戒に。
 警戒、すべきはずの相手だったが、不思議と敵意は湧かなかった。
 何故かは解らない。
「その女は、虐殺者だ」
 そう告げた男は何を望んでその場に居るのか。
 気配はない。
 人間だという空気はある。だがそれは限りなく透明で、プラスチックから微かに漂うような匂いでしかない。
 誰だ。
 その問いに黒衣の男は答えない。
「人を殺したのだろう。大地を焼き払い、誰とも知らない怨嗟を全身にまとい、それを隠したままお前に笑ていたのだろう。そんな女だ。化物かもしれない」
断定的で、人に見えぬものを見ているような、人に嗅げぬものを嗅ぎわけるような、そんな様子で男は呟く。
 人殺し。
 その言葉に感じるものは、自分の中から消えぬ罪悪感と恐怖。
 そういったものを呑みこみ、その男を見据える。
「それが」
眦を吊り上げる。今更だ。そんな程度の。
「どうした?知ったことではない。女の過去をほじくるものでもない」
誰かに決められる価値なんてない。
「男女間の話に野暮を言うな」
まるでカンジナバルの軽口が移ったようだった。そのくらいの言葉が思い浮かぶくらい影響を受け、そのくらいのことが解るくらいに一緒に居たのだ。
「そうか」
男は額を覆う布を押し上げ、鋭い視線で見据える。矮躯に抱えた鉄の棒から、僅かに殺意のように漏れた気がした。
 それでも離さない。抱きしめるたびに血の流れる事すら無視し、カンジナバルを腕の中に隠す。
「なら、呼びかけ続けろ。勘違いの詫びに、教えられることはそれだけだ」
法一は知らない。
 この男がカンジナバルを深い闇へ誘い、眠りの拘束に捉えられたことも。
 逆に、この男は感付いた。
 この女が目的の誰かでない事に。今更。
 眠りの魔術を解かないまま、それでも助言を残して立ち去る。それが彼なりの妥協点だったのだろう。
 懐へ本を抱え直した男の後ろ姿が、木立の間に消えた。
 法一は迷う素振りを見せるも、結局は。
 大きく息を吸い込んで。
 眦を吊り上げ、自身の血で濡れた彼女へ。
 莫大な声をぶつけた。
「俺は!お前を離さないぞ!」
深く深く吸い。
 空気を鳴動させるかの如く。
 叫ぶ。
 叫んだ。
 吠えた。
 轟かせた。
「お前が好きだからだ!一緒に居たいからだ!他に理由があるか!?他に理由なんかいるか!!答えろよ!カンジナバル!答えろ!カンジナバルゥゥゥゥゥッゥゥ!!!」
拳。
 何も握っていない、何も掴んでいない。それは固めて、固めて、固められた、重く気持ちの詰め込まれた両手が彼女の襟首を力一杯に掴む。
「っらぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
かなぐり捨て。
 吐露した全てを。何も考えていないまっさらな自分を。
 大きく仰け反り。
 叩きつけた。
 額と額が衝突し、鈍く重たい打撃音が響く。
 同時、どこからか。
 二人の上へ巨体が飛来した。


 渦。旋風。
 布由彦による鋼糸の操作が空気を掻き乱し、風の奔流を発生させていく。その勢いが加速するたびに風圧は強くなる。
 旋風がつむじ風に、つむじ風が小規模な竜巻へ変化する。
 周囲の全てを巻き込む暴風に、巨大な肉塊が次第に舞い上がってゆく。
「な、待っ」
アリアンの声もかき消される。触れる事もなく肉が上空へと突き上げられる。
 だが、坐して待つアリアンでもない。強大な魔力による術式が瞬時に組み上げられ、竜巻へ変化しようとしていた気圧に変化が生じた。
 異常事態に反応したのか、離れていた魔物の娘達が、恐怖に背を押されるよう一目散に逃げ出していく。可能な限り遠くへ。
「しっっ、ねぇ!」
「ぬ」
陸参厳の巨体が浮き上がる。瞬間、拮抗していた気圧と魔力のバランスが崩れ、周囲全てが大きく激震していた。
 大気そのものを揺らす衝撃を叩きつけられ、肉塊が建物へ直撃する。陸参厳は大きく吹き飛ばされ、山の中腹へ墜落していた。
「・・・痛ぇ」
咳き込んだ瞬間に陸参厳の胴体が開く。布由彦こそ無事であったが、陸参厳は背骨の上や胴体に、大きな亀裂が生じていた。
 およそ人なら肉片としてしまうほどの一撃だった。
 あの肉塊の再生力を考えての魔力暴発だったのだろうが、下手をすれば一瞬で空間爆砕の危険を伴う攻撃に、さしもの布由彦もふらつきながら這い出す。
 顎まで伝い、流れ落ちる鼻血を拭う。気持ち悪さに抗えず胃液を大量に吐き出すと、焼けた喉で深呼吸。
 だが、立ち上がれる。
「まだだ」
シャツも破れ、全身には青痣。
 その視線がふと背後へ巡る。
 何故か仰け反ったまま額を腫らした法一。
 何故か倒れ伏したまま悶え苦しむカンジナバル。
 その姿に疑問符が浮かんだものの、首を左右に屈伸し、布由彦は山を降りようとする。
「いやそこは説明を求めてよ!」
カンジナバルの言葉に、布由彦は眉間へ皺を寄せて振り返る。
「痴話喧嘩だろう?要は」
「・・・なんか否定できないけど、え?そんな話だったっけ?」
「こっちの話は、もう終わったんだよ」
法一がカンジナバルの髪をくしゃくしゃと撫でる。くすぐったげにくしゃりと顔を歪めたカンジナバルは、破顔一笑、じゃれるように法一の腕を抱き締めていた。
「あぁん、ほーいちぃ」
甘えた横顔はたまらなく美しいのだが、法一の呆れた貌にぴたりと動きを止める。
「そういや私、なんでこんなとこ居るの?」
短い黙考。法一が口を開く。
「妹と間違えられて誘拐されたのだろう。ドラゴンだから」
「あ、なるー」
周囲の殴り倒された天使やら宗教団体所属の顎やらを一瞥して納得するカンジナバル。しかも、それら全てがどうでもいいらしい。
「もー、こんなんで学校休んだら校長せんせーに殺されるじゃない」
「安心しろ。今日から連休中だ」
「えー、まじでー?じゃあ瀟洒なパンツ履くからどっか出かけようよー」」
「男として何らかの危険に瀕しそうなので断る」
「ところで」
このままだと延々と続きそうな会話を遮り、鼻血の止まっていない布由彦が拳の骨を鳴らす。
「アマトリを、知らないか?」
その脅威、徒手空拳においては自分も法一も勝てぬであろう相手からの威圧を前に、カンジナバルが高速で首を振る。
「いやいやいや、全然見てないけど」
「そうか。ならいい」
口から胃液混じりの血を吐き出す。汚れたシャツの上に付いた鼻血の痕といい、鉄錆の臭いに包まれた全身は異様な雰囲気を醸し出していた。
「布由彦?」
「悪いがもう少し手伝ってくれ。陸参厳が動かなくなった」
「何があった?」
「危険な生き物が召喚されている」
まるで、その言葉に反応するように。
 世界が色を変えた。
「ホーイチ!これって!?」
「隔離系の結界!?」
肌に触れる空気の激変、息詰まるような緊張を強いる雰囲気。
 灰褐色の霧に包まれよう、視界の中から色彩が減衰していく。
「知っているのか?」
「以前体感した、隔離された世界に似ている」
今までの『ズレ』とは次元が違う。この周囲全てが外界から完全に切断されていた。
「箱庭化した空間を構築するものじゃないけど、確かに、そっくりね」
カンジナバルの顔からも余裕が消えている。顔には冷や汗すら浮かべ、その膝を着いた。
「カンジナバル!?」
「駄目。まさかとは思ったけど、対龍結界が付与されてる。こっちは別系統の術式だけど、隔離系の上にかぶせてあるから、解除は難しいわ。おそらく隔離系を構築した相手の仲間」
「それにしても何故?相手はカンジナバルが解放された事なんてまだ知らないはず」
「まさか」
法一、そして布由彦が眼下を見た。
「死んでよ殺されてよ邪魔なのよどうして生きて立つのよウザいって言ってんだろーがぁぁぁ!!この女殺すわよ!ツラだせぇ!!」
拘束術式で捕まり、青白い顔をしたアマトリが肉塊の触手に縛られいる。
 その表面では、徐々に肉が焦げ、白い煙と共に皮膚が溶かされていた。
「・・・アマトリ、やはりか」
「今度は妹の方か」
「え?なんで?私を勘違いして捕まえたんでしょ?なのに」
青い顔のカンジナバルが困惑に顔を歪める。
「そのお前を探しに来たんだろ?大事な姉貴だろうからな」
 溜め息と共に、音高く舌打ちをする法一。
「嫌な予感はしていたんだ・・・」
焦りと驚きに険しい表情となる布由彦。震脚の時に感じた気配、それが自身の姿を隠蔽していたアマトリであったと察したのは、能力と共に培われた状況判断力によるものだろう。
 やっと取り戻したはずのバランスは、徐々に肥大化する肉塊と、一人のバフォメットによって急激に悪化していく。
「あれは邪神か?次元の狭間に消えたはずなのに」
「邪神?次元の狭間?何の話だ?」
言葉を選ぼうとしたものの、どう説明していいか諦めた法一が適当な言葉を選んでまとめる。
「要約すると、以前、というか未来・・・とにかく、主観で悪いが、前に、俺とカンジナバルが関わったかもしれない存在だ。大昔に封印されていた巨大な邪神、その弱体化、したもので、とにかく危険なものらしい」
「・・・・やけに不確かな情報だな。そんな存在が相手に使役されている理由は?」
「解らない。訂正すると、どう見ても使役はできていない。暴走している」
二人が眼下、次元の層のずれた料亭へ猛火を放っているバフォメット、アリアンを見る。
「うざい!うざいうざいうざいうざいうざいうざい!出てこい!出て来い!出てこぉぉぉぉぃ!」
叫び、狂乱の様を見せるアリアン。その様子は次第にエスカレートし、鎌を振り回しては見えない何かを切り払おうとしているようにすら見える。
 もしも次元がそのままであれば、逃げ出した仲間ごと周囲を破壊しかねないレベルでの暴走は止まらない。
「殺す!殺す!」
狂気。
 理性も感性も善意も悪意も、それらどんな感覚も駆逐する異常な狂気。
 アマトリに向けられた狂気は、苦悶の表情を浮かべる彼女へ炎の弾丸を撃ち込んだ。
 首飾りが飛び、鱗を備える姿が表へ出た。
「次ぁ、殺すから!殺すから!」
布由彦の顔が一種の鬼気に滾る。憤怒の様相。
笑う。笑っている。常軌を逸した様子を前に、二人は足を踏み出した。
「ふゆ、ひこ」
カンジナバルが、弱々しい声で呟く。つい先程の眠りにも影響されているのか、動きは鈍い。
「何だ?」
「いもうとのこと、おねがい」
深呼吸は一度、止まった鼻血の痕を拭い、何時戻りに髪を撫でつける。
 それだけで臨戦態勢への準備は完了したようだ。
「任せろ」
無駄な言葉は一つとして口にしない。
 ただ、短く。
 ただ、ゆっくりと了承の意を伝えたのみ。
 だが、その背中の雄弁さは、疲れ切ったカンジナバルにも伝わった。
『絶対に、助ける』と。
 疲れた顔のまま頷く彼女に、法一もまた無言で背を向ける。それだけでやはり伝わる。
 男の戦い。女の為に貫く矜持。
 古臭くも人という種が生まれて今も尚続く、闘争における一つの様式美。それらが今、彼等の背負った重く大きな責任の名前であった。
 武器一つ持ち得ない厳しい状況。
 甘く臭う醜悪な肉塊の化物。狂気に染まる魔術に秀でた魔物の少女。
 捕えられた美女は動けない。
 救いのない状況から救いを見出す為に、二人は全力で駆け出した。
 山の斜面を駆け降りる。そのまま勢いよく空中へ跳び出してしまった二人に、続けざまの炎球が投げつけられる。
「死ね!死ね!」
狂態を晒すアリアンからの攻撃。続け様に噴き上がる火柱を避けると、肉の邪神が蠢いた。
 触手が射出される。身体を転がすように避けた布由彦は無傷だったが、衝撃波で防いだ法一の身体に肉片が降り注いだ。
「っ!?熱っ!?」
驚いている間にも皮膚が焦げた。僅かな肉の汁だけでこの有様なのかと恐怖したが、二人は立ち止まらない。
「援護する。どうにかしろ!」
「無茶なことを!」
法一の両腕を覆っていた籠手が溶け、手の上を這っていた黒い皮膜が足下へ落ちる。地面、影のように広がった場所から、続け様に小さい影が跳び出した。
「わざの一号!」
「ちからの二号!」
片方は太いベルト、片方は赤いグローブを嵌めた二体のビターが並走する。
「服。特性は自己の主張と耐久」
使役化。黒い服であるが故に気付きにくなったが、全身の服の特性を取得した法一とのリンクにより、ビター達もまたエネルギーフィールド、半透明な炎のようなものを身体に纏った。
「すくりゅぅぅぅ!きぃっく!」
「ま、ん、じ、きぃぃぃっく!」
全身で跳び込むような動作と共に、一号、二号と名乗ったビター達による高速回転によるドリルのようなキックが放たれる。その速度と低空からの突進に反応できなかった肉塊へ打撃が叩きこまれ、そのバランスを小さく崩した。
 同時、たったの一撃で半透明な炎も消える。その間にも足の先から染みだした腐汁が沼を作っていく。
「えんごしゃげき!」
「えんごしゃげき!」
取り出したネイルガンをビターコンビが連射する。しかし、肉に食い込みはするものの、命中した釘が端から溶けていく。
 その間に武装の変更を終えていた法一が布由彦へガントレットを投げる。両手に装着した布由彦は手早く留め金を留める。
「1、2回なら打撃を加えられる。要所を叩け」
「助かる」
「あの肉塊、おそらく肥大化しているぞ。そのうち妹さんの足がもげる」
龍の鱗を浸食するという常識外れの力に布由彦が舌打ちする。
「・・・急ぐぞ。少しばかり裏技も使う。頼めるか?」
「ん?成程」
同時に二人が走り出す。時間を稼いでいた二機のビターが離脱すると同時、法一が手の中に出現させた黒い鉄パイプが連続して投擲する。
 続け様に肉の中へ刺さる鉄のパイプ。使役化による影響か、溶ける速度は釘より緩やかだった。
 痛みに顔を歪めることもない肉塊に対し、歩法による素早く接近した布由彦は、射出された触手を両足を使った捻転の動きだけで躱す。
「こぉっ!」
鋭い呼気。既に両手が肉塊へ届く距離。
 続け様に繰り出された拳撃、放たれた拳が続け様にそれぞれの鉄パイプを打つと、振動が内部へ瞬時に伝達され、鋭敏化された布由彦の能力が発揮される。
 走査。
 気体、液体、固体、生体、無機質、あらゆるものの固有振動、その振幅による反応全てを観測する特異感覚、固有振動数識域化能力。
 単なる感知、観測にしか用いる事のできない能力を研鑽し、戦闘や肉体操作にまで高めたのが布由彦の努力は並大抵のものではなかっただろう。
 それは例え、邪神であれど。
 魔力や生命力、もっと根源的な構成要素までを眼で見、脳で読み取り、肌で感じる。
 視覚化されたそれらの総合的な分析は、横腹から額まで網目状に広がり、外界から自身を構成する内界へと世界の構築要素すら溶かし吸収している様が見えた。
 感覚からの解放より先に足先が地面を蹴る。爆発的に広がった液状の肉が水溜りのように周囲を汚染していく。
「アマトリ!」
猿を思わす瞬間的な動作。鉄パイプを足場に駆け上がり、肉塊の腕を掴んだ。
 反応した肉塊の掌が布由彦の腕を掴もうと伸びる。
「クインビ―!」
「お任せくださいませませ!」
庭木の影に姿を隠していた女性型ビター、クインビ―がスカートを跳ね上げる。開いた太股から続け様に球体が転がっていく。
「BOMB!」
スカートの裾が戻された。
 爆炎。
 瞬間的に膨れ上がった炎が肉を焼き尽くし、バランスを大きく崩した肉塊へ布由彦が腕が振り下ろした。
 全身へ飛散する腐った汁を無視し、加減の無い攻撃が肉塊の腕を破砕する。弾けた腕がだらりと下がるより先、アマトリを抱えて焼けた地面を転がった。
「熱っ!」
しかし、そのおかげで肉の沼に跳び込まずに済んだ。感謝する暇もないが、慌てて相手の範囲から離れる。
「っっっアマトリ!」
全身の痛みを堪えながら布由彦が叫ぶ。全身には点々と肉の腐食作用に溶けた痕が残り、両腕は籠手ごと溶かされた皮膚で爛れている。
「布由彦!その腕は」
「それよりアマトリを」
「あ、あぁ」
爛れた腕で差し出されたアマトリ。途端に崩れ落ちた布由彦は、荒い息で肉塊を睨みつけた。その肉塊もまた再生し、徐々に膨れ上がっていく。
「あはははは、ははははは」
壊れたように笑うアリアンは、既に虚空を見つめ、瞳孔も定まっていない。肉塊にとって、魔力の供給源以上の価値はないのだろう。そういった形での繋がりしか残っていない。
「妹さんの症状、まさかと思うが毒か?」
苦しげに足を押さえるアマトリ。表面的な腐食からは逃れたが、毒、もしくは呪詛らしきものに影響を受けているという意見は一致した。
「早くこの場から逃げないと」
「あれを倒してか?」
法一の問いを無視するように布由彦は立ち上がる。その眼にあるのは、一種の執念だったかもしれない。
「おい」
「何だ?」
「火はあるか?」
「は?」
「燃やせ。焼けば肉の流動が一時的に止まるはずだ」
狂気と信念、どちらに傾いているかは隣で見ている法一にも解らなかった。
「・・・息、止めておけよ。肺が空気にやられる」
諦観と覚悟。法一の元へビター達が退避してきた。全員の撤退を確認すると同時、掌を覆っていた皮膜から、黒いゴムボールのような巨大な球体が出現した。
「っし!」
球体を蹴飛ばした法一。まるで風船のように宙を舞う球体。狂乱するアリアンが魔法で狙うものの、あさっての方向へ外れた。
 布由彦も深い呼吸を繰り返す。喉の奥、肺へ大気を溜め込む。呼法であり身体制御の技術。
 球体へ向け、ビターの小さな手がネイルガンを撃つ。その瞬間に降り注いだ大量の液体。
「ハッピバースデー灯油ー」
誰かに影響されたような冗談と共に、うんざりした貌で法一が掌から取り出す電気銃。
 射出された先端から電気が放たれた瞬間、小さな火花が着火する。
 火柱が上がった。
 煙の中、息を止めた布由彦が踏み込み、爛れた腕が握り締めた鉄パイプを振り抜く。続け様に打撃が加えられ、焦げた肉の上から幾度となく巨大な衝撃が肉を打つ。
 収束されていない衝撃波に、肉の集合した巨体が薙ぎ倒される。しかし焦げた肉が破れると、その下から生焼けの肉が現れた。
 現れた肉は、更に肉を生み出し、人型をした肉塊が空気を吹き込まれたように肥大していく。
 肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉肉。
 湧き上がり膨れ上がり増殖し潰れてはぷつぷつと肉の泡が弾け、また肉が生まれていくあまりにおぞましい景色。
 増殖は止まらず、更に肉塊は肥大、人の形が拡大される。叩きつけられた衝撃に大きく陥没した肉も、すぐに膨れ上がった肉に塞がれる。
 悪夢のような生臭いうねり。ずるずると生き物のよう肉が増えていくというあまりに気色の悪い光景が柄の前を覆い尽くしていく。
 打撃、炎と何一つ効果がない。
 悪夢は消えず、終わりだけが足音もなく忍び寄っていた。
「どうする?打開策が一つもない」
「殴り殺すだけだ。全力で」
折れない。曲がらない。屈しない。
 培ったものの長さを思い知らされる。自分よりはるかな苦境であるはずなのになんの迷いもない。
 その眼が空を向いた。
「法一、20秒でいい。増殖を防いでくれ」
「また思い付いたのか?」
「これで駄目なら本当の終わりだ。あの肉塊の核を潰す」
「できるのか?」
「神経節の主要な点を潰すだけだ。威力さえあればどうとでも」
「・・・ここまで付き合ったんだ。引き受ける」
「秋葉原な」
「そうだ」
疲れた顔の二人が同時に動く。何度目かの挑戦か、一人は両腕が焼け爛れ、一人は使役化の継続による疲労により、顔色が土気色に近い。
「ビター、あと頼む」
「陸参厳正角!」
それぞれの戦友が出現する。一人で勝てるなどという幻想を抱かない法一の、切実で、強かな計算が出会いを生んだ同胞達。力を求め、屈さぬが為に求めた布由彦の外殻。
 出現と対応。地面に広がった黒い皮膜を突き破り、小柄な影が一斉に出現する。その背に背負ったボンベらしきものからホースを伸ばすと、電気着火によってビター達が一斉に火炎放射を開始する。
 衝撃と飛翔。山を蹴破らん勢いで跳び出した巨体が、轟音と共に布由彦の背後に着地する。胴体の破損によって身体が傾いでいたが、命じられた使命に従い、辛うじて膝だけは着かない。だが、既に搭乗者に従っての動作は不可能だろう。
「掴め!」
従った陸参厳が布由彦を掴む。
「投げろ!!」
従った陸参厳が。
 天空へ向け、その全力を以て布由彦を空へ投げ飛ばした。
「えぇええっぇえぇえぇぇぇぇぇぇえ!?」
さしもの法一も驚く。隔離され、灰色へと変じていた空の果て、ついには布由彦の姿は見えなくなってしまった。
 まさかと思いつつ、眼を凝らす。点となった布由彦が消えて数秒。
 何の装備もないあの男は、ただ無策無謀としか思えない死のダイブを決行した。


 物体の落下速度は重力と空気抵抗、位置エネルギーから算出される。ガリレオの落下実験に証明されたよう、鉄の球体と木の球体は同じ空気抵抗であれば同時に落下するが、この空気抵抗と重力が釣り合って等速運動となる速度を終端速度という。
 姿勢を、爪先一つ、踵一つで操作する人間。
 加速。
 流星のようなものが空から舞い落ちる。緊張による心臓の痛みも、空気に痛む耳の奥も肌も、次第に全てが消え、視界の中で肉の塊、今では肉の巨人となった邪なる神と呼ばれた存在だけが徐々に大きくなっていく。
 落下速度は、既に着地した人間を破裂させるに足るものだ。命と引き換えの突貫であるのかと、その場の多くが絶句する。
 しかし。
 振り下ろされた踵が直撃した瞬間からの一連の動き、それを目撃できた者は皆無だろう。
 準備されていた行動手順に従って脳や脊髄が処理していた情報を神経へ伝達する。それは事前に行われていた作業の結果が、落下の瞬間に修正されただけ。
 刹那の身体操作。単なる動きの統制。
 それだけで。
 踵落としから膝蹴り肘手刀打ちまでが秒より短い時間に行われ、指向性の制御された衝撃が肉の内側に炸裂した。
 踵や膝、肘や掌への僅かな焦げ痕を残し、何事もなく着地する布由彦。
 その背後では、内部破壊によって肉塊が崩壊していく。
「・・・化物」
「お前が言うな」
加えて、拾った石を打つ。再び増殖しようとしていた僅かな部位の中、突き刺さった石が神経節で破裂すると、その萌芽も潰えた。
 辟易した顔のまま布由彦が全身の疲労に膝から落ちる。荒い呼吸と共に爛れた皮膚が破れ、表面や傷口から出血していた。
「あは」
その側頭に突きつけられた鎌の先、狂態のアリアンは、零距離で魔術式を放った。


 声が聞こえる。それは幽玄よりの誘いに近い。
『おい』
その声は低く澄んだ声。女性とも男性とも解らない。
『何処に、いる?』
その声は何かを探している。魔力の収束方向を定め、感応感度を高める。
 声の方向を探す。聴覚も、感応力も。
 必死な声。
 誰か。
 隔離結界の外れた瞬間の前後にリンクしたのだろう。この場で魔術的な才能を有し、即座に感応できたのが自分だった。鱗の一枚一枚、髪の一筋までがそう機能した。
『そこか』
膨大な情報の奔流。何かが近くの次元へ流れを作った。
 鋭角から鋭角へ渡る力。
 牙を備えた痩せた犬、否、犬に似た何か。
 その横顔を、夢現の中で幻視した時。
 恐ろしいと思い。
 美しいと憧憬を覚えた。


 ろくな事のない人生。走馬灯の中に沈む自分は、今までで何を成せたというのかと青年は問う。
 最初の不幸は祖父の死。顛末を一匹の犬に聞き、知った今も尚、その時のことは他人事のように感じる。
 見せられる事のない棺の中。応える者の居ない祖父の死の原因。
 しめやかな式に、村の人々全てが参列した。
 泣く者も居た。悼む者も居た。その場の誰もが、祖父の大きな背を知る。
 そこに一人の少年。
 葬儀を終え、納棺した霊柩車が走り出す。その間も何も言わず、火葬場の長い待ち時間も、拾った熱く白い骨も、顔色一つ変えずに行う。
 まだ小学生に入ったばかり、そのくらいの歳の子供が、だ。
 大人達は気味悪がり、身内でさえ一歩退いて構えた。 
 その夜。
 少年は行方を晦ました。
 狼狽した大人達を責めることはできまい。彼等もまた、心の傷は小さなものでなかった。様子のおかしい子供のことを、深く考えられないくらいに。
 大人でさえそうであったのだ、ならば子供、それも人一倍故人に懐いていた子の異常性をもっと気遣っていれば。
 警察への捜索届。山狩りの準備。
 大人達がその動きを止めたのは、遠く、山々に反響する声を聞いたから。
 慟哭。
 泣き叫ぶ声が木々を揺らし、山々に反響して遠く遠く響いていく。
 大人は眼を見開き、起き出した子供達までもがつられて泣きだす。喉を涸らし、涙の尽きるまで続くであろう長い長い咆哮。
 悲しみの夜。
 響き渡る泣き声は夜半を過ぎ、夜明け前まで続いた。
 人々が悲しみのまま倒れるように朝を迎える時。山から出てきた少年は自身の家の玄関で眠っていた。
 泣き腫らした顔には大きな隈を刻んで。
 守るように寄り添った一匹の犬と共に。
 誓ったのは自分の為。選んだのは自分の為。その先に死すのであれば、誰を恨めるのか。
 誰を恨めるのか。
「ころ、されれば」
 突き上げた拳が鎌を砕く。ただれた皮膚から血が滴り落ちていく。
「殺されれば、殺した相手を誰かがまた恨むだろうな」
 自分であれ、誰かが、多分。恨んでくれる。
「それにしても・・・」
 顔を顰める。
 血塗れ。傷だらけ。その手はまだ拳を握っている。
 過去に縋る。故人に頼る。それの何が悪い?
「小娘」
「あひ」
「痛いぞ」
手刀。加減のない打ち下ろしの一撃。
 昏倒するアリアン。
 立ち尽くす布由彦。
 何度でも立ち上がる。身に備えた武器が拳一つであろうと。
 未だに唸り続けるアマトリを抱え上げると、ふらふらとした足取りで歩き出し、倒れた。
 それもこれも、痩せ我慢に過ぎなかったようだが。
 かくして。
 唐突な戦いは唐突に終わった。


 重度火傷の両腕、全身の打ち身、擦り傷、右大腿骨骨折、左鼓膜損傷。
 しかし、その傷が見る間に治っていく。
「まさかヒーリング使いとは」
「動かないで」
振り袖の破れた曹子が掌を動かす。光の泡が腕を覆っていくと、そのまま腕の火傷が消えた。
 周囲では恵比寿本家からの使いが事後処理中。旅館の修復、周辺住民への対処、魔物の娘達の連行。
 彼女達だけではなくホーマン、双子の天使までが捕まった事で、相手との交渉も可能だろう。
 教団とは、これで終わりだ。
「小僧」
両手を手錠で拘束されたホーマン、彼は、嫌そうに顔を歪めた法一ではなく、治療中の布由彦へ声をかける。
「羽蟻についての話は本当か?」
「あちらとの交渉の際には考慮して欲しい」
「・・・本当であるならば、我が名に誓って」
「頼む」
「だが、お前が何故、そこまで」
「・・・ついでだ」
「ほぉ、そうかそうか」
見透かされたような年長者の態度に、これで話は終わりだとばかりに布由彦が視線を下げる。
「お前は聖人のようだな。少年」
「そんな大層なものじゃない。単なる独善だ」
「そうか」
手錠のまま一礼し、ホーマンがその場を去る。その巨大な背中が向かう先には、眠る双天使が恵比寿家の関係者に抱えられている。
 腕の傷は既に完治していた。微かな痛みと皮膚のひきつりを残せば痕すら無い。
「大丈夫ですか?」
腕の両鎌をアクセサリの効果で隠した彼女の言葉に、しかめっ面の布由彦が答える。
「何時も通りだ」
深い溜め息。撫でつけていた髪が僅かに乱れている。
「カヌクイだからな」
それだけで全てだと言いきってしまう。
 男前である。
 マンティスの血を継ぐ少女、曹子は頬を赤らめた。見合い相手のみならず、今となっては命の恩人だ。
 その様子を知ってか知らずか、未だ眠るアマトリを大儀そうに背負うと、隣で寝そべっていた黒犬がその身を起こす。何処から現れ、いつからその場に寝ていたのかも定かでない。
「行くか?」
「あぁ。二人は?」
「既に帰した。秋葉原とやらは延期なのだろう?」
この場の誰も、犬が喋ろうと気になどしない。陸参厳もまた、犬の前足が二度、地面を叩いただけで消えた。先程まで居たはずの法一の姿も見えないので、今と同じような形、ナナカマドの能力で帰されたのだろう。彼女はほんの小粒の石、その鋭角からもこういった力場を展開できる。
 彼女の能力とは、そういった形の異能である。
「ティンダロスの猟犬・・・」
「あれが・・・」
周囲の声を気にもしない。犬が喋る事が常識であると同時、隣に居る相手が家族である事も決定事項。
「これで、彼女も帰れる」
ナナカマドの言葉に、布由彦は短く、どこか寂しそうな、瞑目するような間をおいて応える。
「そうだな」
小さく、せつなそうな言葉。
「帰れるんだ。彼女も」
それは酷く残念そうであると同時、どこか、安堵したように、泣き笑いの表情と共に吐き出された言葉。
「あの」
会話していた携帯を切り、それを手の中で弄っていた曹子。彼女の様子に、布由彦が頭を下げる。
「あぁ、今日は、すまなかったな」
「いえ、その」 
「もし、機会があれば、こちらも手を貸そう。では」
「あの!」
背を向けようとした布由彦が呼び止められる。悩むような仕草と共に、言葉を選ぶ曹子。
 布由彦は忍耐強く待った。
「メルアド、交換しませんか?」
「あ、あぁ、別に構わないが」
ここにファンが一人増えたわけだが、布由彦はまだ気付いていない。


 荒涼たる雰囲気。荒廃した礼拝堂。零落した使徒を祀っていた教会の史跡には、ただ二人の人間が立っていた。
 一人は司教位、この場所に新たな聖地の建設を企てた痩せた壮年の男。
 一人は異端審問会随伴兵団副長、抜き身の刀剣を思わす長身の美男。
 二人は、廃墟と化した教会に佇む。夜半、照らすものはランプの僅かな明かりだけであった。
「もし」
司教位、パーシバルが呟く。その手に携えた司教の杖が、僅かに揺れ、儀礼用の飾りが涼やかな音を奏でる。
「魔物すら、神のつくりたもうたものであるとすれば、君はどうするかね?」
それは決して口にしてよい話ではない。
 教義においては魔物は「絶対悪」であり、人々にその危険を説き、「魔物は人を殺し、喰らう」と広める事で社会のバランスを保つのが彼等の教団のスタンスでもある。
 例え、真実との食い違いがあろうとも、そこには人々の生活への苦慮があり、女性化した魔物による影響が社会の破綻を招かないようにという考えあっての事。
 神族の「主神」と呼ばれる存在こそ絶対的な信仰とし、ほぼ全世界的な勢力を誇り人間達の世界の常識や文化の根幹に根ざしている主流派とは仔細において異なるものの、人を導こうと祈るその想いから教団の一派に属す彼等もまた、神の子である事は間違いない。
 その司教位が、決して口にしてはいい言葉ではなかった。
「・・・聞かぬ事としましょう。それこそ、中央教義への叛逆、背信の咎を疑われます」
「だが、君もまた知っていたのであろう?」
その言葉にラダが止まった。
「中央教義の至るところは世界に等しくあれど、神は時に名と姿を変え、人に異なる教えを説く」
「・・・私が異教からの改宗である事、それが問題であるというのですか?」
「いいや違う。魔物であれど、神へ助けを求めた一団、追われていたバフォメット達を追い詰め、兵としていた事を問題としているのだ。羽蟻の現状を把握していなかった私にもまた罪はある。だがしかし、君の行いは神より賜った慈悲の心に悖る」
パーシバルは視線を逸らさない。その怜悧な容貌に、僅かばかりの狼狽すら滲ませたラダを威圧し、その動きを御す。
「君の神は、主流派の上に居たようだ。権力とはかくも恐ろしい。龍殺しの功、どの用に利用するつもりであったのだ?」
だからこそ離反を考え、新たな聖地を擁す新たな教団を設立しようと画策した。その理想は、彼にも伝わっていたはずだと思っていた。
「私が、主流派に帰属していたことさえお気づきのようで。何故、泳がせていたので?」
「・・・いやに多弁だな。今日の私は。そして君も」
話を逸らすパーシバルにラダが焦れる。しかし、かの司教はその論調を崩さない。
「信徒の裏切りを断ずるか、それとも、その罪もまた赦すべきか。そう熟慮を重ねた。だが」
穏やかでありながら、冷たく猛る吹雪を思わす視線と共に、断罪は告げられた。
「羽蟻の魔物達は解放。東方のカテドラル再建は保留とする。ラダ、汝はこの地を去れ。それ以上は求めぬ」
我々との関係を断てば、これまでの事を不問とする。そう言外に告げたパーシバルに、ラダは鋭い視線を一瞥する。腰に佩いた刀剣へ意識を乗せるも、儀仗を構えたパーシバルからの威圧に身が竦んだ。
「止せ。死体を送りつけるような無体は望まぬ。行け。そして伝えよ。尊き照覧は全てを見ている。裁かれぬのではなく、裁きは、既に始まっているのだと」
怖い。
 神の信徒とは思えぬ圧倒的な威圧、そこには純然たる殺意すら含んでいた。信仰の名の許に命を狩る者の眼。
「後悔、せぬように」
「行け」
軽く、そして小さく、儀仗の石突を床に打ちつけただけであった。しかし、それだけで床は陥没し、蜘蛛の巣状に破砕の余波が伝わった。
 パーシバルの様子にラダは恐怖を堪え切れなくなる。しかし、それでも残った理性を総動員し、その場を、神の家を、彼は逃げ出した。
 静寂のみが残された廃墟。
 司祭の懐から、薄汚れた一巻きの羊皮紙が取り出される。
「口にしては、ならぬこと、か」
おそらく、宗教学上における禁忌の品だろう。
 記された文字列、そこに整然と並ぶ過去に存在したであろう王国の名は読み取れない。ただ、記したであろう王の名、アルタイレフの名だけは、掠れもせず残っていた。
 パーシバルの知識が確かであれば、それは過去に存在した古代王朝の王の名だ。高い教養と魔術的な素養、独自の技術体系から、様々な秘法を生み出した者である。
 その彼の著書。信憑性は高い。
 だが。
「魔物のまた、神が生みたもうたもの、か」
そこにはパラドクスが発生してしまう。
 主神は全知全能であり、全てを生み出した存在であるはずなのに、魔物と魔王という例外が存在するのは何故か。
 逆に、魔物を生み出したのも神であるというのならば、全知全能である大いなる父は何を望んでいるというのか。
「禁忌か。だが、これもまた場合によっては」
懐へ戻される羊皮紙。もし、この切り札を使うのであれば、それは世界との敵対を意味するやもしれぬと。
「・・・カヌクイと名乗りし者よ。貴様も、それを覚悟していながら、戦うのか?」
教団との敵対すら厭わず、それでいて人死にを嫌っていた謎の存在。
「平等に正義を成し、魔物と交わろうと、人の子を成す存在」
それはともすれば。
「聖人かもしれぬ」
もしそうであれば、たまらなく滑稽だ。我々は聖人と戦っていたのかと。
「主教様、発見した対龍兵装は、如何様に?」
外より声をかけた一人の声に振り向く。そもそもの発端もまた、たかだかそんな道具であった。
「処分せよ。余計な火種は消すに限る」
「はっ」
数多くの信徒の行く末、それは主教足る自分が握っているのだと戒める。
 彼は祭壇を離れ、信徒の控える外へと戻っていった。
 遠く、乱雑な足音と羽ばたきの音。駆け戻ってくる大柄な男と、一対の天使。
 昨日も、そして今日も、行う全ては同じ事。
 神の子を救う。
 その為にパーシバルは、俯かなぬ様に今日も務める。


 大きな背中。温かい。意識に感応して出現しようとしていた鱗を戻し、その背中に体重を預ける。
「家の真裏に飛べばよかっただろうに」
「家の周囲だと、出すのは簡単でも入れるのは難しい」
会話しているのは犬と彼だろう。自然な会話を、何時も羨ましく思う。
 孤独の味は苦い。
 成長より速く訪れた別離。父は死に、母はいなくなった。
 母が家を出た理由は知らない。父は、病死だった。
 龍の血、人の生の終わりを受け入れなかった父の言葉は、今でも耳に残っている。
「これがさだめだ」
それは、姉の母を救えず、姉の凶行を全てが終わった後に知った、彼なりの懺悔であったのだろうか。
 片腕を失い、若くして病に倒れ、それでいて誰を怨む事もなかった人生。
 たまらなく父が愛しく、そして寂しく、悲しかった想い出。
 母の泣く姿も瞳に焼き付いて離れないが、自分は、あれほどに好きになる相手に出会えるのだろうかと、寂しさの中、ふと考えた事も覚えている。
 今となっては、遠い、ずっと遠い記憶となってしまった別れ。
 人の歴史、権力の趨勢、恨んだ相手も死に、愛した相手も死ぬ。所業に無常は付き纏う。世界に無情は溢れゆく。
 何も始まらず、何も終わらない世界などない。
 全ては流転の最中に流れる流水が如く。
「彼女は?」
「まだ起きない。寝かせておこう。起きた頃には、傷も癒えている」
おそらく彼の能力だろう。あの肉塊による影響を肌が触れただけで推測されてしまったような気がした。
 肌に、触れただけで。
「・・・・・・!!」
顔が熱い。身体が熱い。想像した自分が恥ずかしい。
「何か、背中が熱い」
「・・・治癒が始まっただけだろう」
犬のフォローに感謝した。
 しかし、事実としてそのまま意識が途切れる。呪いへの対処として、身体が超回復を始めている。
 眠い。
 そのまま一瞬の明滅から回復した時には、既に布団の中に居た。
「起きたか」
 障子越しの月光に照らされた和室の中、一人の女性が座っていた。結い上げて纏めた長い黒髪の下、茜色の瞳が闇に輝く。
 コルセットで絞められた黒いワンピースと黒いタイツ、黒づくめの対比のよう晒した肌は病的な白さ、瞳と同じ色の赤いチョーカーが身動ぎに揺れる。
 野性的な容貌、筋肉質な四肢、獰猛な気配を感じさせたが、同時に滑らかで隙のない所作からは品性も感じられる。
 だた、その静謐な雰囲気をどこかで知っている気はした。
 その身動ぎ一つにしろ微かな音もしない。正座した両足を崩す様子もない彼女からは隙がない。
 茜色の瞳が、こちらへ向いた瞬間。
「・・・・・・!」
「私が誰か、解るのか」
 気付いた自分は、微かに頷く。
 その容貌から悟ったものではない。単なる直感、もっと根源的な存在の気配と言うべきものを捉えての感覚だ。私は確かに彼女による干渉を受けた。
 呼びかける声は、そう確かに。
 ナナカマドのものだった。
「種族は・・・いずれ解る。それはまではただ、ナナカマドと覚えておいて欲しい」
奇妙な、それでいて落ち着く声。
 起き上った身体は既に完治している。手足に巻かれた包帯をほどくと、傷痕一つ残らない肌が空気に触れる。
 魔物の躰。
 そこに一抹の寂しさを覚えるのは何故なのか。
「人として生きたいと望むか?」
その言葉に、緩く首を左右に振る。父の言葉を借りるのであれば、これもまた、さだめだ。
 魔物として生きる。人としては、生きられない。
 こちらに来て読んだ、人魚姫というお伽噺を思い出す。あれほどに繊細でないにしろ、魔物もまた似たようなものだ。
「おそらく、教団側からの和解も申し込まれる。是と言えば、お前は帰れる」
頷く。それは望んでいた事だ。こんな世界の果てで、それだけが望みであった。
 人の世界という異常な環境。
 無愛想な、それでいて面倒見のいい男。
 温かい食卓。
 あの日見た、夕焼けの空と街並み。
 幾らでも思い出せる。幾らでも、覚えている。
 それがたまらなく嬉しく、たまらなく悲しかった。
 摂理。ドラゴンがその生涯において逃れられない宿命の名前。
「私もまた、魔物である事を悔いる事はない。だからこそ、奴と出会えた。それだけで生涯に意味はあった」
花の綻ぶような、ただ温かな笑み。それは彼女の答えであり、自分への問いであった。
「カヌクイという生業を選んだ男がいる」
指先が、こちらの首筋へ伸びる。
「ドラゴンという摂理に、屈さぬ女がいる」
魔術式が解ける。喉が軽くなり、全身の血液に酸素が混じり、細胞に蓄積された濁りが排出される感覚。
 魔力が戻った。
 そして。
 喉へ手を当て、息を浅く吸い込む。喉の奥が通った気がした。
「行ってこい。奴も、話したいだろう」
月光の下、自分は布団から抜け出した。
 階段を駆け降りる。
 人の気配のない居間を通り過ぎる。
 サンダルを足先に引っかけ、玄関を出る。
 慌てて左右を見回す。裏庭、珍しく気配があった。
 庭に立つ、彼は。
 白く輝く月光の下、夜桜を背に佇んでいた。
 ふ、と呼吸をする。
「布由彦」
声が出た。掠れた、そう綺麗でもない声が。
 そして、振り向いた彼と、向き合う。


 早咲きの桜を横目に、もう三月だったのだなと月を見上げていた。満月の白く冷たい光は美しく、思わず見惚れた。
 背後に足音。即座に精査した能力が捉えたのは、今日までの賓客、明日からの他人であった。
「布由彦」
驚き。
 どう表現すべきか迷い、結局は巧く言葉を出せないまま振り向く。どこか掠れた声は、随分と長い間、声を出さなかった為であろう。
 そう、早咲きとは言え、桜の舞う季節なのだから。
 山から吹き下ろす冷たい風に梢が揺れる。人間と魔物、小さな、彼女達にしてみれば瞬きの間ほどの邂逅。
 それがカヌクイの預かる時間である。
「声、良かったな」
短く呟く。笑おうとすると皮膚がひきつった。ヒーリングとはいえ、傷の大きさに比例して後遺症もしばらく残る。
 頬に貼った絆創膏も、そうやって破れてしまった皮膚を塞ぐ為。
 彼女は喋れるはずでありながら話さない。何か、開いた口から大事なものが零れてしまう事を恐れているようですらあった。
 縁側へ座る。その動作に促されるよう、アマトリも座った。
 二人並んで、満月に照らされた夜桜を見ていた。
 青白い光が照らす白い花びらの乱舞。彼女の横顔へ視線を向けると、ただ、無表情な横顔がたまらなく美しかった。
 人ならざる美貌。
 月光で青白く照らされた濃紺の髪も、白い面立ちも、まるで幻想のように掴み所がない。
 不意に、その手が、傷ばかりの残る武骨な手を握る。浅黒く、そして石くれのように鍛えられた掌は、酷く醜く思えてしまう。
 だが、この手があって、この手でよかったのだと、つい、苦笑いしてしまう。
 自分の能力は弱い。戦闘には向かず、人を守るにはあまりに力が足らなかった。
 だが、祖父の残した道筋は、一つの方法を教えてくれた。武術による能力応用は、今日もまた、彼女を救えたのだ。
 汚い手でいい。その手に何も握れずとも。
 そう思っていたその手を、彼女は白い手で握っている。
 指が長い。細く、柔らかい。
 肩に預けられた体重が心地良かった。彼女の温かさに、心が安らいだ。
「布由彦」
掠れた声なのは変わらない。桜を見つめたまま、彼女は言葉を選んでいく。
「ありがとう」
それは。
 別離を告げる言葉。家族を失う喪失感に心が締め付けられる。だが、同時に彼女が自由を得た瞬間だ。カヌクイとしてだけではなく、短い間だったが大事な相手の倖せ、それを思うとただ静かな歓喜が身体を伝う。
「倖せにな」
娘を送り出す父のような、妹が旅立つ前日のような、そういった、小さな痛みを伴う別れ。
「うん」
短い応え。彼女の顔には何も浮かんでいない。何時も通りの無表情。
 しかし、その頬を、涙が流れ落ちていく。桜を見上げ、満月に横顔を照らされ、静かに泣き続ける彼女。
「布由彦」
その瞳が、こちらを捉えた。
 熱を帯び、潤んだ瞳が視線を捉えて離さない。ぞわりと背筋が総毛立つ。その壮絶な艶やかさを前に、心臓が締め付けられる。、
 だが。
 髪を撫で、その顔を肩へ押し付けるよう抱きしめた。視線が離れた瞬間、心の昂ぶりが徐々に収まっていく。
「たかだか身体の繋がりを求めるな。ここには、何時だって帰ってきてもいい。ここは、お前の家でもあるのだから」
肩が熱い。再び流れ落ちる滴に、服がぬれていく。
 彼女が泣き終えるまで肩を貸した。
 彼女が顔を上げるまで桜を見ていた。
 白い桜は花びらを散らす。
 その様はあまりに美しく、そして。
 僅かばかり、彼女の誘いを残念に思う自分を戒めた。
 あぁ、もったいない。
 そう想った下種な部分を抑え込む。せめて格好のよい最後にしたいと。
 少しばかり意地を張った。
 満月はじき傾ぐ。


 連休の朝。片付けられた客室、庭、桜の木の下に佇むアマトリ。
 その傍、半壊した陸参厳は斜めに傾いた身体を蔵の壁にもたせかけ、沈黙したまま動かなかった。
「直せるのか?」
ナナカマドの言葉に首を左右に振る。「むしろ、壊れてよかったのだ」と呟いた。
「寿命だったのだろうさ。この鎧も」
カヌクイは客人を迎え入れる。この言葉の裏には、渡航者の管理を司る役目が潜み、同時に、地を管理する役目には収集した品物を守る守護者の役目が兼ね備えられる。
 陸参厳然り、蔵にしまった銀槍然り、収集物として蔵の中にしまわれる。
 投げ込まれた歪曲剣が、暗闇の中に消える。この瞬間より、カヌクイの血脈の者を除けば次元の壁に阻まれ誰も手に入れる事ができない。蔵は出入り口であると同時、巨大な金庫であるのだ。
 砕けた陸参厳を同じように蔵へ押し込もうと担ぎ上げる。鍛えてあるはずの身体にも厳しい重量だったが、突如、両肩にかかっていた重圧が消える。
 陸参厳が、自身で立っていた。
 向き合う。
 鎧が何かを語るわけではない。自分が知っていたのはその能力、その力。
 この鎧が辿ってきた歴史も、自己の意思をもつのか、それともそれが機能であるのか。
 そういった事を何一つ知らないまま使っていただけの存在。
 その鎧が、こちらを一瞥したような気がした。そういった気配の揺らぎのようなものを異能の感覚が捉えた。
 それは、挨拶だったような気がした。
 蔵の中、次元と次元とを繋ぐゲートが出現した次の瞬間、光の海のような、その境界の中へ陸参厳正角は踏み込み、そして消えた。
 何処へ消えたのか。
 否、何処へ還ったのか。
 それはもう、二度と解らない。自分もまた、矮小な人間に過ぎず、運命などというものの行方を知らぬから。
 足元に転がる銅線の切れ端を拾い上げると、それをポケットに突っ込む。 
 呆気ない最後だったなと、一人、消えゆくゲートのを見守った。
 そして、彼女も。
 未だ樹木を見上げる彼女を置いて、家の中に一度引き上げる。
 時間は決まっていた。彼女が立ち去るのを決めたのは午後九時。
 それまでの時間を潰すように黒電話で電話をかける。
 法一の顛末を聞く為に。
 あれから結局、痴話喧嘩はやめたらしい。元々が誤解と嫉妬だ。互いへの理解があればしがらみが解けるのも早かっただろう。
 結局、その後はずっとのろけ話を聞かされる事となった。何時の間にか代わっていた電話からは、楽しげなカンジナバルの声が延々と続く。
『やっぱ男は器よねー。懐の大きさって言うの?そういうのなかったら駄目よー』
「・・・そうか」
『ん、そうそう。解る? だからさ、大事な事ってのはその時に伝えないと、とか思うわけ』
カンジナバルの口調が僅かに変化した。のろけ話だけかと思いきや、声のトーンが諭すような低さへ揺らいでいく。
『あのね、妹のことは、感謝している。貴方にとっては何時も通りの事かもしれないけれど、ここでの生活で、救われたこともあるだろうから』
「そうだろうか」
『そうよ。多分ね。じゃ、見送りは、よろしくね』
「・・・来ないのか?」
『うん。行かない。邪魔になる気もするからね』
そんな言葉を最後に電話はきられた。どうにも、彼女の姉は底が知れない。普段のふざけた様子もまた一種の仮面だろうかと。
 根幹は、もっと清浄な何か、アマトリから感じる純粋さに似たものがあるのかもしれない。
 不意に廊下を歩くナナカマドが視界の隅を過る。時間を確認すると、玄関から外へ出て行くその背中を追うように雪駄を足に引っかけ、外へと自分も出た。
 庭、モスグリーンのコート。それは、訪れた時と同じ格好。
 懐かしさと共に、別れの瞬間への緊張もある。
 長いようで、短いものだった。
 出会って数日の奇妙な関係。コタツで足を蹴飛ばすような馬鹿馬鹿しい交流。同じ鍋をつついた夕食。
 全てが、今となっては楽しい思い出でしかない。
「さよなら」
 そう告げた瞬間。
 甘い、匂いがした。
背を曲げたアマトリの唇が触れた刹那、髪がこちらの額や頬を流れる。
 さらさらとした砂のように皮膚を流れていく中、柔らかく、弾力のある感触が唇をなぞるように滑っていく。
 呆気にとられ、放心しているうち、その唇がゆっくりと放れて行った。
「では、また」
鮮やか。
 一瞬の虚を突かれた自分が呼吸を何度か吸い込んでいる間に離れていく。その颯爽とした背中、悪戯の成功に喜ぶ横顔を見た瞬間には、脱力のあまり空を見上げていた。
「あの子、強敵だな」
「・・・まったくだ」
武術に才気があろうと、人にない生まれついての異能があろうと。
 女性にはまるで歯が立たない。
 男という存在がどれだけちっぽけであるか、思い知らされた気分であった。
 しかしそれが愉しくて仕方ない。
 枝節 布由彦。生業はカヌクイ、肩書は高校生。渾名は若頭。
 蔵の火鉢風鈴が鳴る時、何時だって自分はこの場所に居る。
 それは矜持で誇り。
 そして。
 ちっぽけな馬鹿が歩む、くだらない物語。



                ― 終 ―

11/04/28 21:33更新 / ザイトウ
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■作者メッセージ
カヌクイシリーズとりあえず閉幕。
ザイトウです。

このシリーズは設定やらなんやら削れるだけ削った感じでした。
だって全部書こうと思ったら原稿用紙換算の予想が500ページくらいだったし。
今回も最終話まで引っ張るだけ引っ張ってやり逃げしました!やったね!
そんなもんプロット考えるだけでゲンナリですよ。
さて、今後についてですが、今までお付き合いいただいた方の意見なんかを参考に、もっとSSらしく短編としてまとめていきたいですね。
・・・毎回このセリフを言っている気もしますが。

読み切りか、カヌクイ番外編かはノリで決定します。
また間が空くかもしれませんが、ここまでお付き合いしていただいた皆さんに感謝を。

ありがとうございました。

あと、何時も通りに誤字脱字設定のミスなんかの忠告は是非。
一応確認しているのですけどね。
それでは皆さん、機会があればまた。

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