連載小説
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第三話 「謎」
目覚めると私の体は、さっきのアパート2階のフロアの廊下に横たわっていた。
ゆっくり起き上がろうとすると、体全体に酷い激痛が駆け巡っていく。これでは満足に体が動かない、肘で床に付いて思いっきり強引に体を起こしにいった。
「ん…ここは、どこだ?」
私は周囲を見る。私は腕時計を見る、時刻は朝の早朝なのにそれでもこの中はとても暗い、いや鉄格子のはめられた窓の外を見ると相変わらず濃い霧が翌日になってもしつこく立ち込めていた。私にとって気持ちのよい朝の目覚めじゃない、いやそもそもこの静丘町に時間は流れているのだろうか?
同じタイプの扉が壁にずっと続いている、201号とかかれている部屋の前に私は突っ立っている。アパートの二階のフロア、そうか悪夢から私は解放されたのか。
私の手には一日中付けたままの懐中電灯が握られている、しかし私の相棒として使っていたネイルハンマーが手元に無くなっている。私は丸腰のままずっとこのフロアで眠っていたことになる。
「…ラジオだ、ラジオは?」
私はズボンのポケットを手探る、するとすぐに小型ラジオが顔を出しラジオは沈黙したまま、まだ眠っているかのようにうんともすんとも言わない。
「ラジオは反応なし…近くにあの化け物達はいない」
私の頭の中にこの前の悪夢が鮮明に蘇ってくる。アパートが一気に化け物の巣くう楽園と化し、うじゃうじゃとお互いを押し合いながら、私めがけて我こそ先に集まっていく化け物どもを、そしてその中心に立ち化け物達を束ねていたあのピラミッド頭の人ならざる何か。
「はあぁ…恐ろしい、恐ろしい」
思わず口の中に詰め込もうとしていたものが少し溢れてしまった。私はまた頭の隅から溢れるように広がる恐怖の記憶を消すように振り払う。
「…これは何だ?」
いつの間にか私の手の中に何かが握られていた。手を開くとそこから303号のネームプレートが付いた鍵がでてきた。何という不思議な現象だ。
妻であるサキュバスの綾香が病で亡くなった後、私は静丘町から逃げるように去った。それはこの町に詰まっている妻との思い出が、私の胸の中を激しく締め付けていくのだ。そんな思いを抱きながら町にずっと住むのはとても苦しかった、今でもふとしたことで頭の中に鮮明に浮かぶ妻の美しい笑み、もうその微笑みを私は見ることができないのだ。
(これは私と綾香が住んでいた部屋の鍵…)
「鉄格子の扉が開いている!?」
昨日まで鉄格子の扉は固く閉ざされていた。一体昨日のうちに何があったのかは知らないが、これで道は開いた。
私は早速3階の階段を駆け上がった。
(あの部屋に一体何が待っているんだね?綾香…)

私は3階の綾香と住んでいた部屋303号室の前に立っている。3階のフロアもまた私以外に人の存在は確認できなかった。
(ザッ…ザァーザァー…)
ラジオはまた再び不快なノイズ音で警告をしている。周囲を見ると廊下にあの気味の悪い歪な形をした化け物が辺りを彷徨っていた。しかし、私の存在には全く気付いていない、ただもがき苦しむような鳴き声を発しているだけだった。
私は手に持つ部屋の鍵を鍵穴に差し込む。視線はあの徘徊している化け物に向けながら、注意深く静かに音を立てずに。
そして部屋の扉をあけると飛び込むように入り、そして扉を大きな音を立てて派手に閉め部屋の鍵を掛ける。部屋の鍵さえかければあの化け物は中に入ってこれまい、そんな根拠は何一つ存在しなかったが私は息をつき肩に力を抜く。
ラジオのノイズ音は無くなった。この部屋にあの化け物はいないらしい、いや綾香との思い出のこの部屋にあの汚らわしい化け物が存在してはならない。私と綾香の神聖な聖域に。
さっそく熱い扉の向こう側から忙しく歪な足をばたつかせ外を歩いてくる化け物の気配を感じる。そして扉の前に留まりもどかしそうにそこを行ったり来たりとまた徘徊し始める。
もしも存在しようならこの手で八つ裂きにするまでだ…。
私は思考を切り替え、目の前に溢れる思い出の中に足を踏み入れる。思い出はあの時のまま鮮明に蘇っていた、綺麗に靴が並ぶ玄関の先に広がる塵一つない小奇麗な茶色のフローリングの廊下。玄関先に可愛らしい刺繍が施されたカーペットの上に丁寧に揃えられたペアルックのスリッパ。
決して何もない綺麗さっぱりとした空間ではなかった。
仄かに薄暗い玄関で何故かそんな風に見えた。いや、薄暗くてもそれぐらい分かるほどの綺麗にされている。しかし、何故だろうか時間が止まっているかのような静けさが私を迎えているように感じる。
何か私の目に映る物はすべて置かれているように感じる。まるでゲームの中に配置されている背景と同じように。全く生活感が無い。
後ろの玄関の扉に広がる絶望に打ちのめされるあの悪夢の世界と全くかけ離れた空間が、この中にはあった。が、しかしこの世界さえも私の知っている世界とかけ離れているような気がして不安が過る。
(出来過ぎている…あの時、私はこのアパートから引っ越している)
そして私はリビングの方へと進む。途中に洗面台と台所が見える。やはり物の配置はあの時と同じように変わりなかった。いつもグラスの上に置かれたペアルックの二つの歯ブラシやドラム式の洗濯機、最新式の洗浄機に旧式のガスコンロ。扉は重く閉ざされているが、私と綾香が寝る寝室もそっくりそのままあった。
「ただいま…」
私は綾香が驚かそうとしているのだろうと思う。そしてリビングの扉を開く。しかしそう思おうとした瞬間、私の中で不等式にイコールが成り立たない。綾香はそんな茶目っ気たっぷりの陽気な人柄ではなくおとなしい性格、だから腑に落ちない。
「…誰もいない」
そこに綾香の姿はいない。大きなテーブルに二つの私と綾香が座っていた椅子。殺風景で冬の寒さで冷え切った部屋の空気が私を迎えた。あるのはフカフカした気持ちよさそうな素材でできたソファーと横に長い流行の薄型テレビである。
「本当にいないのか…」
私は寂しく呟く。返ってくるのは物言わぬ静寂だけ。
私は白い嘆息をつくとソファーに重く腰掛ける。ソファーの氷の様に冷たい感触がズボンから肌に直接伝わってくる。普段ならこの部屋はストーブを焚いて温かな雰囲気を彩るのだが、ストーブに電源は入っていない。
ただ凍えるような寒さだけが今の私を包む。どうやら妻はこの部屋で待っていてはくれていないようだ。
なら一体どこに綾香は待っているのだろうか?この固く閉ざされたベランダのカーテンの隙間から洩れる、まどろむように辺りを漂う白いミルクの様な濃い霧の中か?
分からない…。考えを巡らせるだけで深い睡魔が襲ってきそうだ。あのアパートの廊下の上を独り眠っていたが、ろくに良い眠りにつけはしない。瞼が閉店する店のシャッターの様にガラガラと音を立てて閉じていく。
「眠い…」
頭が自然と下に垂れ下がる。うつらうつらと体を揺らしながら。
(こんなところで寝るのもあれだ…そうだ寝室に…)
私は垂れ下がる頭を起こし体に鞭を入れ立ち上がる。そして酔っ払いの千鳥足のような足取りで朦朧とする頭を強く抑えながら寝室へと向かう。
「はぁ…あの時のまま」
寝室もあの時のまま、カーテンを固く締めきりずっと光が射すことのない深い海の底のような雰囲気。暗くて何も見えないはずなのにすぐそこにあることが不思議と分かる。妻の綾香は滅多に向かうことのなかった化粧台、数はあまり疎いから分からないが少ない方だと思う。綺麗に整頓され台の隅にたっぷりと入った化粧水の瓶が置かれている。そのすぐ横に私と綾香の服が納められているタンス付きのクローゼット、その中には買ったままの新品の綾香の服が幾つも静かに眠っている。
私は誘われるように寝室のベッドに向かう、不意に化粧台の鏡に目が入る。暗くてよく分からないはずなのに、その中に映る私の姿は酷くやつれているように見える。妻に先立たれ何もかも失った哀しい虚無感が私の中に渦巻く、しかしその中に浮かび上がる微かな温かい希望。
亡くなった妻からの手紙。

―あいまいな眠りの中で夢見るあの日々、いつかまたあの日々を一緒に過ごそうと約束しておきながら、私のせいでその願いはかなわなかった。
 私はそこに一人で佇み、二人で約束と契をかわしあったあの思い出の場所でずっとあなたのことを待っている。

綾香…今君はどこにいるんだ?
何も見えることのない虚空を見つめて私は蕩けるようなまどろみが広がる穴の中に体を預けた。愛しい妻の微笑みを頭に浮かべながら…。
 
「ねぇ…隆さ…いえあなた」
妻の綾香の天使のように優しい眼差しが私を静かに捉える。首を小さく傾け鮮やかな黒色を帯びた艶やかな髪を揺らす。私の呼称を言い直した時に少しだけ頬を朱色に染め、恥ずかしげに視線を落とした。
「なっ…なんだい…綾香」
綾香の口から『あなた』という至上な言葉が出て、思わず胸の高鳴りを抑えきれなくなり返答がしどろもどろになる。彼女は私のことを普段そう呼ばない。
私と綾香は夫婦という関係にお互い何の変化も無かった。ずっと結婚する前に私と綾香は同棲という形で二人一緒に生活をしてずっと苦楽を共にしてきた。結婚はお互いにとってその延長でしかなかった。
私がいつも仕事から帰った時、必ずすぐに玄関からあの天使の様な微笑みを浮かべ出迎えてくれる。何一つ不満を漏らさずにあの華奢なか細い柔らかな腕で、ご飯をつくりお風呂を沸かしずっと健気に私の帰りを待つ姿が浮かぶ。
私はなるべく早く帰れるように仕事を終わらせ急いで帰宅する。そして一緒に長く流れる時間の中を過ごす。
それが私にできる妻への唯一の恩返しだった。
「あの…その…」
「…どうかした?」
妙にソワソワと視線を目まぐるしく移動させる、少し頬を紅潮させ何事か口をパクパクと動かして何か言いたげだった。
彼女は人と面と向かって話をすることが苦手、見知った私でさえ少々この調子である。本当に人付き合いが積極的だとされるサキュバス種の血が流れているのかどうか疑うほど人見知りの激しかった。体があまり強くない分、人と盛んに交流しようとしてもその輪の中に入ることができなかったようだった。
「…何かあったのか?」
私はできるだけ穏やかに綾香に問う。
「…いぇ、なんでもないです…」
綾香は小さく答えるとそのまま視線を下に落とし、テーブルに綺麗に並べられた料理に寡黙に箸を進める。
「……」
その反応に私は何も言えなかった。
夕食が終わり綾香は食器を片づけにまた台所に立つ。私はテーブルに肘を付きながら近くの煩い生活音を立てるテレビを観賞していた。テレビの画面に映るのはどれもこれも下らない内容ばかりのバラエティー番組だ。
かと言って私は何故かそれを見入る様に見ていた。下らないことだと思っておきながら何とも矛盾した行動で私は苦笑する。これもまた私のいつもの日常、妻が台所で汚れ仕事をしておきながら自身は気楽にテレビに入り浸っていた。
私はだんだんテレビに飽きて消すと急いで洗面台に向かう。リビングから出ると台所から水道の蛇口から流れる水の音が聞こえる、黙々と洗い物に手をつけスポンジを片手に格闘していた。
「…手伝うよ」
「いえ、大丈夫ですから…早く御休みなったら…」
やんわりと断られた。視線は洗い物しか見ていない。
「そうか…」
少し声を落として答えを返した。

「ふぅ…」
私は洗面台を前にして深く息をつく。鏡に映し出された自分の姿はどうも疲れていた、最近仕事が忙しくて早く妻の元へ帰れなかったことに気付く。もしかしたら綾香はそれが気になって私に聞こうとしたのだろうか、最近帰りが遅いと。
いつも嫌な顔一つせず私に健気に尽くす妻の顔が脳裏に過る。妻に余計な心配をさせている、私はなんで気のきいたこと一つも出来やしないのだろうかと自身を内心で叱咤する。
そういえば、私が綾香に愛していると言ったことがあるだろうか?綾香を愛しているのは事実、綾香に告白して付き合い始めてそれから同棲、結婚にまで至る。私の記憶上結婚式の神聖な儀式において誓いの際に愛することを「誓います」と答えただけ。「好きだ、付き合ってください」と綾香に告白した覚えはあるが、まだ結婚式以外で愛しているなんて言ったこと一つも無かった。
このことについて綾香は一体どんな思いを抱いているのだろうか、興醒めとしているのだろうかそれとも静かに憤りを感じているのだろうか。普段の綾香は何も言わず私に付き添ってくれている。「愛している」なんて一つも想ってくれている言葉を発しない愚かで最低な愚鈍男に。
気付くと綾香は私のことを本当は嫌っているのではないかと、漠然とした不安に駆られ思いつめてしまう。
「何を思いふけっているんだ…私は」

私は洗面所にて歯磨きを済ませるとまずリビングへ向かう。リビングはすでに消灯され綾香の姿はなかった。台所にも姿は無く汚れを洗い落され新品の様に光る綺麗な食器が、籠の中に納められていた。私は再び電気のスイッチを点け、リビングの小物入れの棚の上に置かれた小型のデジタル時計を確認する。
いつもと違い就寝時間は約1時間早かった。だが、今日は異常なほど体に疲労が蓄積してだるかった。
少しくらい早く寝ても損は無いだろう。
私はリビングを消灯して急いで寝室へと向かう。
「!?」
私は寝室に入った矢先言葉を失った。
寝室は小さな豆電球も消され暗かったが、固く締められた窓のカーテンの隙間から洩れる雲に隠されることのない月明かりが射しこみ辺りを薄暗く照らしていた。私と綾香がいつも寝るダブルベッドの前に立つ人影に私の目は釘付けになる。
「あっ…やか?」
私は一瞬誰だか分からず綾香かと問い確認する。
すると目の前の女性は静かに頷き私に向かって歩き始めた。
(…綺麗だ)
自然と心の中でそう思ってしまうほど、綾香は別人のように様変わりした。
おとなしく淑やかだった雰囲気は綺麗に消え去り、その逆にどこか開放的ではつらつとした快活で妖しげな雰囲気が彼女を取り巻いた。
夜に溶け込むほどの漆黒の翼に人ならざる者の証である悪魔が生やすような尾。白く透き通った肌は血色のいい色に変っている。全体的にやや細って華奢でも成熟した女性らしいくびれ、肉付きの良い寝間着のワンピースの様な服から垣間見えるとても豊かな胸、ほっそりとしていても健康的で綺麗な足。
極めつけに頭に生やした禍々しい魔に仕える僕を思わせる角、艶やかで肩の下まである黒髪は何時もの綾香の時と変わらない。耳は刃物の先の様に尖り瞳は赤く頬を赤く紅潮させる。口は紅をさしたわけでもなさそうなのに艶やかな色をしている。
端的にいえば今の彼女とは全く程遠い正反対の姿。
いや、これは今までひた隠し続けてきた綾香の本当の姿。あのいつもおとなしい姿からは想像できないほど綾香はさらに美しくなった。
「あっ…あ」
私は何か言おうと口を動かし必死に喉に仕えた言葉を吐きだそうとする。その私の戸惑い振りを知ってか知らず彼女は口元をキュッと艶っぽく笑むと、静かに音も無く私の顔を愛しく撫でるように手で包む。そして顔がひき寄せられ赤く妖しげに光る瞳が、私の泳いだ瞳と重なり合う。
「んぅ…!?」
「はぁ…ん…」
私は何が何だか分からなかった、魔法をかけられたように体が何一つ言うことを聞かない。自然と綾香の肩に手をかけ赤く妖しく光る瞳に吸い込まれるように見入った。
綾香は可愛らしい舌を私の口の中に積極的にねじ入れてくる。私もそれに誘われ綾香の口の中に自分の舌を入れようとするが舌と舌が激しく絡み合いお互いの唾液がビチャビチャと卑猥な音を立て喉奥に流し込まれる。
「ん…げほっ!」
私は綾香の唾液を呑み込んでしまいむせて綾香から離れる。綾香は慌てて私の元へ駆け寄ってくる。
「たっ、隆さん!?」
「いや…大丈夫…げほっごほっ…」
私は口元を手で押さえながら綾香を手で制す。正直言うと新鮮だった、あの綾香がこんなにも積極的に交わろうとしてくるなんて…。綾香の海の底の様に深い口付けは温かく頭を真っ白にさせる、私は思いっきり綾香に魅入られ綾香しかもう見えなかった。
心臓がバクバクと爆発でもしそう勢いで鼓動を鳴らす。
「どうして…こんなことを…」
私は抑えきれなくなりそうな衝動を堪え理性を保ちながら綾香に聞く。何故綾香がこんなことをいきなり…私には訳が分からなかった。
「それは…私はずっとあなたとこうしたかった…でも言い出せなかった。だってあなたは何時もの日常にとても満足そうだったから…あなたが仕事で出て行った時、私はいつもあなたのことを想いながらずっと慰めていた…あなたの知らない所で…。いつも夜は我慢していたの、あなたが子供の様に可愛い寝息を立てて眠る顔を見ながら私はあなたを襲いたくなる衝動を必死でこらえて我慢して…あなたに迷惑をかけたくなかったの…」
唐突の彼女の口からこぼれ落ちる言葉。彼女は悲しげな表情を浮かべ赤い目に大粒の涙をためて私に必死に訴えかけるような目で私を見る。
私は思わず視線を逸らしたくなるができなかった。彼女の本心を知って私は自分を殺したくなった。どうして気付いてやれなかった、なんて私は愚かなのかと。
「わっ…私だって…」
「えっ!?」
私はいつの間にか彼女を抱いていた。体と体が重なり合いお互い体が熱く火照っていることを確認する。彼女の心臓の鼓動が聞こえる。それはもう私と同じく爆発しそうな勢いで。
彼女にとって相当勇気を振り絞ったこと。私にはそれにはっきりと答えなければならない道理がある。
「…ずっとこうしたかった。それは私だって同じだ!でも綾香にそんなことをする勇気が無かったんだ…もしそんなことを言って綾香が嫌がったらどうしようかと不安だったんだ。
いつも綾香は何一つ嫌な顔せず私を笑顔で出迎えてくれる、ご飯を一緒に食べる時も寝る時も綾香はずっと魅力的だった。襲いたい衝動に駆られて理性を保つのに必死で…」
「そんな…嫌いじゃないです。なら私はあなたの妻になんてなってない!ずっと愛しているからあなたと一緒に居たいから…あなたと一緒に居ると毎日がとてもほんわかと温かいの、いっぱい幸せな気持ちになるの…だからそんなこと言わないで、もっと自信を持って…私を愛してください!」
お互いに胸中の暗い奥底に抱えていた本心をさらけ出す。とりとめのない言葉がボロボロと口から湯水のように溢れてくる。綾香は私の胸の中に蹲りすすり泣くような声が聞こえてくる、それを私は優しく受け止め頭を手で撫でる。
もう迷わない。綾香と私の想いは一緒だった。
「ねぇ…きて」
綾香は目元を赤くした顔で誘うような声音で私の耳元で囁く。その言葉が私の耳の中に甘ったるくしっとりとこびりついて離れない。その時の瞳は数々の男達を魅惑するサキュバスの目そのもの。私は完全に彼女に魅了されていた。
綾香は私の手をひきベッドの所まで歩いていく。私は母親に手を引かれる子供の様に誘われるがままベッドにたどり着く。
そして綾香はベッドの上に体を投げ出し私を誘うように肢体を淫靡にくねらせる。
「あぁ…いくよ」
それは私と綾香が過ごした中で一番長く感じた時間だったと思う。

「はっ…ここは?」
殴られたようにヒシヒシと痛む頭を押さえながら私は起き上がる。あの時強い眠気に襲われ寝室の方まで足を運んで妻と契を交わしたあのベッドの上に体を預けてそれから…。
「はぁ!?何だ、一体何がどうなって?」
いきなり寝起きで耳を刺すような鼓膜を震わせるサイレン音を聞かされる。それはどこからともなく静丘町中に広がっているようだった。
どうみても良くない出来事の前触れ。サイレンは早くここから逃げろとでも警告を発しているみたいだ。
寝ぼけ眼を擦る動作をやめ周囲を恐る恐る見渡す。
壁が赤く錆びたように崩れ落ちる。
そこから人の血管のような赤々とした管が無限に伸び続ける壁にすり替わり、私と妻が過ごした二人だけの幸せな秘密の世界は崩れる。
吐き気を催すような反吐の出る不快感しか示すことのできない陰鬱とした世界が形成されていく。
悲鳴が漏れそうになり私は口を強く押さえる。
私はそこから逃げ出そうとベッドから離れ扉に向かう。踏みしめる床は普通のフローリングの床ではなくヌメヌメと生温かい人の臓器の中を歩いているような感覚。
またこうして再び遭うことになるとは、大丈夫だ一度生き延びたのだ。今度もきっと大丈夫だ。そうして私は言い聞かせて発狂しそうな衝動を抑える、きっと綾香も同じように考えて生き延びているに違いない。
これは悪夢だ。
この悪夢を私は乗り越えなければならない。
綾香が待っているんだ、私のことを心配して首を長くしながら…。
萎えた精神を私はもう一度勇敢に奮い立たせる。そして力強く錆びて変な色をしたドアノブに力強く手をかける。
待っていてくれ今会いに行くからね、綾香…。
私は祈る様に念じて扉を開けようとした。
(ザッ…ザァーザァー…)
「……」
私の胸中に秘めた思いを嘲笑うかのようにズボンのポケットにしまった小型ラジオは、またあの不快なノイズ音を立てる。
(まさか…この家にあの化け物が!?)
私は心の奥底からこみあげてくるドロドロとした黒く熱い何かをさらけ出す。激しい憤りに身をゆだねたくなる。
この綾香との神聖なる思い出の地に無粋なあの化け物どもが汚らしいあの姿で踏み入っていることに激しく憤りを感じてしまう。
だがしかし今の私にはどうすることもできない、化け物どもに対抗するための武器を持っていないから。このまま取りとめのない憤怒に身を焦がし安直に先を出て行けば私には身が凍りつくような冷たい死しか待っていない。
いや、ずっと悪夢に閉じ込められたまま苦しみ続けるに違いない。
私は奥歯でそれを必死に噛み締めながら声として出るのを防ぐ。この状況で声を出したら敵の注意を引くことになる。それは余計な危険を増やす要因。
だから私はスッと扉から離れ、クローゼット付きのタンスの中に身を潜めてやり過ごすことにした。
それが一番懸命で安全な策。
このまま何事も無く悪夢が過ぎ去れば…。
クローゼットの中を開けると、私の服や綾香の服が入っているかと思いきやポッカリと空洞ができているかのように何もない、しかし一番隅の下に何やら黒い物体が置かれている。
私は懐中電灯でそれを照らす。
「…銃?」
どうみても本物の銃だった。サイズはすぐに服のポケットの中に入れて携帯できる小型拳銃。ずっしりとした深い重みの冷たい鉄の塊。銃の中に弾を装填した後にすぐ引き金を引けばいとも簡単に人を殺せる。そんな物騒な物が何故こんな民家のクローゼットの中に?
私はこんなもの買った覚えはない。妻の綾香だってこんな物騒な物絶対に買わない、もしこんな物持ち歩いていたら絶対に日本では警察に捕まる。
私はまるで知っているかのように手慣れた手つきで銃を弄る。銃に装填されている弾の数を確認する、どうやら10発ほどフルに詰められている。
私は銃を胸に当て目を瞑り祈るかのように念じる。進んだ文明の中で人間達が造った実用的な武器に私は胸内がスッと楽になるような安堵感に浸される。
これであの化け物どもにまともに対抗できる。
だが銃の弾は10発しかない、弾が無くなればただの鉄の塊。持っていても重たいだけでしかない実用性のない役立たずの物体。
(ズシッ…ズシッ…バタバタ…)
いつの間にか耳を刺すサイレンの音は消え、無音の状態から何か重く響く足音が聞こえその後から必死にもがき逃げ出そうと足をばたつかせ悲鳴でも上がりそうな音が聞こえてくる。
それはこの扉の先の廊下からである。その音はゆっくりゆっくりと懐中電灯が放つ光へと誘われ向かっているような気がする。
その音は耳に執拗にこびり付き私の恐怖心をジワジワと駆り立てる。この足音はどこかで聞き覚えのある音だった、数多の化け物達を畏怖の元に従わせ幾多の敵をなぎ倒しその骸の上に立つ荘厳な威厳を兼ね備えた王。
私はその場に硬直し全身を震わせ目は扉へと釘付けになっていく。恐ろしいのだ、見えなくともまるで目の前にいるかのように感じるこの威圧。決して逆らうことのできない絶対的な王の威圧。
おそらくあの時のピラミッド頭の化け物。
「あっ…足が…」
決して接着剤を足裏につけて床から離れないというふざけた状態のわけではない、足を動かそうとしても恐れに畏怖し怯え震える足は石の様にその場から離れない。
「くそっ…動け動けぇ!」
私は額から流れ落ちる気持ちの悪い冷たい汗を撒き散らしながら、唾でも吐くような勢いで自身の硬直した足に向かって叫ぶ。無論そんなことをすれば
早く隠れないと奴に見つかる!
見つかればあの持っていたあの血塗られた長剣で体を真っ二つに引き裂かれ、胸をえぐるような匂いを放つ歪な血肉に変えられてしまう!
「はっ…あっ!?」
突如足音が止んだ。不気味な静寂があたりを漂う。
どうやら扉の前に行き着いたようだった。
扉の向こう側からドアノブに手をかける音がする。どうやら私の声に反応したようだった。それから乱暴にガチャガチャと音を立てて無理やりにでも抉じ開けるような勢いで中へ入ろうとしていた。
ドアの隙間から滲み出て漂うあの鼻につく血生臭い臭いに、私は顔を殴られたように歪めて鼻を手で押さえる。もう扉が意味をなしていない、扉につけられた蝶番が取れるほどの馬鹿力で扉はおかしく変形している!!
「動いた!?」
扉がぶっ壊れたその瞬間、何とか私の足は動きクローゼットの中に隠れることに成功する。
そこから荒々しい暴君の足音が入ってくる。
(あれは…うっ…)
懐中電灯を消して真っ暗の中、クローゼットの戸を少し開けて外の様子を私は折れそうな鼻を手で押さえながら恐る恐る静かに見た。やはりあのピラミッド頭『三角頭』の姿だった。
息を潜め耳を澄ませると、熱が籠った非常に荒々しい息遣いが聞こえてくる。『三角頭』は手に何か持って引きずっている、それはあの血塗れの長剣ではない。
青ざめた生気のないのっぺりとした不気味な色の人の足…いや違う、あれはマネキンの足だ。
普通マネキンの足が意思を持って動くはずなんてない、そのマネキンは何故か上半身が下半身になっている。下半身と下半身を二つに合わせた様な非常に歪な姿だった。マネキンは扇情的な黒い下着をつけた足をばたつかせ必死に『三角頭』の手から逃れようと足をばたつかせ暴れている。
その様子に『三角頭』は憤慨して手にマネキンの化け物の足を握りつぶすほどの力を加え壁にめがけて肢体を力任せに叩きつける。そうすると派手な音を立てザクロが飛び散ったように、まだ原形を留めているマネキンの肢体から赤黒い人の様な血液が部屋中に飛散しマネキンは必死の抵抗をやめる。
「うぷっ…」
その見るも絶えない悲惨な光景に私はまた胃の底が暴れまわる。そして昨日自分が化け物相手にした所業を思い出す。
私は壁にこびり付いた血しぶきに目は釘付けになり必死に口を押さえ堪える。胃液が逆流してきて喉奥にまで達し喉元を熱く焦がしてく、私はそれを胃の中に戻そうと必死に体を揺する。
それに顔を背けようとしても、目があの光景をビデオの様に録画され頭の中で再生され続ける。そしてまた激しい嘔吐感にさいなまれる。
そんな中『三角頭』は動かなくなったマネキンの化け物の足を掴み引きずりベッドの上に乱暴に投げつける。それはもう完全に物として扱っている。
(…何をしようとしている…あいつは…)
私は見入る様に『三角頭』の行動を見続ける。私と綾香のベッドがあの汚らわしいマネキンの化け物の血で汚れているのが気に入らず口の端を憎々しげに歪ませる。
ベッドの上に放り投げたマネキンの両足を手に握り自身の体の下半身に近づける。獣の様な理性のない荒々しい息遣いをしながら。
(…まさか)
私はこんな状況で場違いで尚且つ恐ろしい想像をする。
しかしその想像は残酷にも的を射ていた。
(パンパンパン…)
肉と肉の一方的で独りよがりな激しいぶつかり合い、妙な熱気の籠った濃い空気が私と綾香の寝室を襲う。『三角頭』はマネキンの化け物の下半身めがけて腰を激しく振るような動作をした。時折満足げに喘ぐような声を漏らしピクリとも動かないマネキンの化け物の死骸を、自身の欲望の捌け口として犯しつくし辱めていた。
信じられない光景だった。これがもしも生身の人間だったら…。
その行動の中にもはや倫理感も理性も一欠けらも無い、ただ目の前の穴に突っ込み自身の赴くままに欲望を満たす人ならざる獣。一方的に心まで犯されているようなこの人の心に傷をつける行為…。
『三角頭』のしている行為のすべてに愛はない。
私は見るに堪えない光景を見せつけられ、激しい憎悪の渦に心は巻かれ殺意の炎がマグマの様にはらわたを抉りだすように煮えたぎる。
(……!?)
今すぐここから閉じた扉を蹴り破って飛び出し、あの外道を地獄の底に叩き落としてやりたい!私と綾香の神聖な場所を邪で歪んだ思いで汚したその決して許されることのない罪を裁いてやる!
そして後悔させてやる!
仄暗い胸の中で憎悪が冷たい雪の様にポツポツと降り積もっていく。
「うおおぉぉぉ…」
意を決して勇気を奮い立たせ私はクローゼットの中から銃を片手に飛び出し、迷わず『三角頭』に向け銃の引き金に手をかける。
ドンドンドン…。
銃は火花を散らし連続してすべての弾を銃は撃ちつくし銃口から煙が小さく漏れていく。弾はすべて『三角頭』の体に命中し、弾は体に吸収されるごとくめり込み小さな丸い穴をつくる。そこからドロドロとした黒い血が滴り流れてくる。
しかし『三角頭』笑うように体を二度三度揺らして倒れることはない。まるで小さな虫にでも噛まれて嫌々とした煩わしく思う反応。
相変わらず沈黙を貫きとおし、ゆっくりと心を震わせるほどの威圧を発しながら私の元へと近づいてくる。
すべては自身の至福の一時を邪魔した罪深い罪人の私を断罪すべく…。
私の体の中の警報装置がけたましく赤いランプを点滅させ、確実に死に近づいていることを知らせてくる。その神々しい荘厳さに許しを乞うため跪こうとするがそれは全くの無駄であることを悟る。
『三角頭』は丸太の様な太い腕を伸ばし私の首を鷲頭かもうとしてくる。
「くそっ…!」
私は吐き捨てるように『三角頭』を罵ると体を大きく突き出し力を入れて奴めがけて捨て身のタックルを試みる。
『三角頭』はどうやら私の行動を予想しておらず面食らったように棒立ちになり、受け止めきれずにそのまま衝突し体をフラフラさせ後ろの壁に激突する。
「……!?」
『三角頭』はよろめきながらすぐに起き上がり慌てたように足をふらつかせると、足音を大きくさせその場から逃げるように去っていく。
それと同時に部屋を侵食し吐き気を催す不快感と陰鬱しか生まれない世界は崩れ去りまた元の寝室の世界に潮が引くように戻っていく。
壁は血管が無限に広がり続けることなく元の洗濯したてのシーツの様な真っ白な壁に様変わりしている。人間の臓器の中を思わせるようなヌメヌメとしたピンク色の床ではなく茶色いフローリングの固い現実の質感の床に戻っている。
私はベッドの方へと視線を向ける。そこにはあのマネキンの化け物の血で汚れたベッドは無く、全く皺一つない純白が広がっている。
カーテンは固く閉ざされ部屋中は暗いまま。何一つ手づかずの状態。
「……」
まるですべて無かったようにすべては長い悪夢の出来事のようだった。


「私、外へ出てみたいの…」
長い夢の様なまどろむ夜の中、青白い月明かりはベッドに沈んだ二人の若い男女の姿を青白く映し出す。
二人は体を重ね合わせその上から毛布を被っていた。毛布からはみ出した二人の男女の姿は言わずとも生まれたままの何一つ纏わぬ姿であることは明白だった。
彼女は男の胸の上に顔をのせ、上目づかいで男に寄り添う姿勢を崩さず顔を覗きこむように男を見つめていた。
彼女のその姿は決して普通の人間の女性ではなかった。鮮やかに黒く艶やかに照らされる漆黒の闇を思わせる妖しげな肩までかかる長い髪、白い刃の様に尖った横に長い耳、そして極めつけは頭に生えた禍々しい悪魔を象徴させる角。
サキュバス―
覗きこむ瞳の色は燃えるように赤くそして包むように優しい、男を自身の虜とする妖しく光った魅惑の瞳。その力を使えば、世の男は確実にその魅惑に取り付かれ我を忘れ自ら喜んで精をさしだすに至る。
だがしかし、そんな野暮なことをする必要はもう無かった。
ずっと今まで胸中に秘めていたあの熱い願いはさっき叶ったのだ。
彼女はもう満足していた、愛する男とやっと一つになれたことに。長く近くにいてもお互いいつも想いはすれ違うばかりの連続だった。
けどそれももう終わり。今から二人の男女が紡いでいく長い糸は永遠に解れることなくずっと続いていくのだ。
彼女は男の胸の上に顔を埋め愛しげに胸を愛撫でる。男の静かに脈打つ心臓の鼓動を感じ思わず口元に笑みがこぼれてしまう。
今の状態は一生を決めた伴侶と一緒に末長く過ごすことを純粋に切実に願う妻である。決して淫らに我を忘れ自身の欲望の赴くまま獣の様に激しく交わりを交わす愚かな魔物ではない。
どうやら彼女はまだ足りなかった。サキュバスとして必要な精の量は搾りきれていない、だからまだ本能に従い身体の奥底で静かに熱く疼いていくのが敏感に分かる。
―でも、そんなことしたら彼にまた迷惑が…彼の仕事のこともある。
我慢だ…我慢…。
「くすぐったい…」
男は彼女の行動に小さく声を漏らし恥ずかしそうに視線を逸らす。しかしその表情に嫌悪するという感情は何一つない。
「どこに行きたいの…体は大丈夫?」
男は彼女の透き通る肌に手を添え、少しはにかんだ笑みを浮かべながら視線を彼女の瞳へと向ける。男は若干不安だった、それは彼女はあまり体の丈夫な人ではなかったからだ。しかし彼女は初めて自身に向かって自己主張をしたのだ、自分のしたいことを…。
だから嫌とは言えない。少し彼女が行きたいという所に興味もある。
「静丘公園…あそこから綺麗な湖が一望できるらしいの…」
「そう…なら今度の休日そこへ出かけよう、ちょうど休みだし」
―とても温かく優しい眼差し…性に溺れる穢れた種族の私には決して向けられるべきものではない。
(そんな眼差しで私を見ないで…そんな眼差しで見られたら私は…あなたが思っているほど私は…)
「…くぅ…うっ…」
「どうしたの、綾香?何か…」
彼女はとても息が荒々しく顔は赤く紅潮している。
「違うの…はぁ…はぁ…もう駄目我慢が…」
頭がぼうっとする体が熱く煮えたぎる様に火照る、全身が汗で湿り気を帯びてくる。あそこがいやらしい汁を垂れ流して、我慢しようとしてもサキュバスとしての本能がそれを邪魔して…。
体が身もだえする…。
あぁ…もう目には隆さんしか映らない…愛しい人…私の隆さん…。
「…もしかして足りなかったのか?まだ…もう無理しなくていいよ、まだ時間はあるんだ…私が頑張ればいいだけだから…」
隆さんは黙って私と口づけを交わす。そして手を私の秘所にのばし激しく弄る。
(クチャ…クチャ…)
とても耳障りのいい音…でも癖になる、あぁ…そこ、そこがいい!もっと弄って!
「…もっとして…ぐちゃぐちゃになるくらい私を愛してぇ…」
また長い夜の幕開け、その日は二人の男女は一睡もしなかった。


「静丘公園…そうだ!静丘公園だ、彼女はそこで待っている!」
突如として体に電撃でも走るような衝撃を感じる、昔私の妻綾香は静丘公園へ行きたいと私に言ったことがある。
静丘公園とは静丘町のすぐ目と鼻の先にあり、その当時観光用として整備されたとても近代的な公園だ。海岸沿いの付近には望遠鏡があり、静丘町の観光スポットの一つ、浜野湖辺り一面を一望できるように整備されている。その他には休憩所として幾つもベンチを設置したり子供たち専用の遊具なども整備したりと、普通の公園としての機能も充実させている。
公園の外れには静丘町の資料館が建設されている。そこには静丘町が歩んだ歴史のつづられた資料が豊富にあり、それを一般向けに公開しているとても大きな施設になっている。
静丘公園…そこに彼女が待っている…。
手に持ったままの銃を握り締める力がさらに増す。
静丘公園へ綾香と出かけた時、彼女はすぐさま公園の望遠鏡を覗きに行こうとして子供の様にはしゃいで走り、すぐに息切れを起こして大変だったことを思い出す。普段滅多に体を動かしたことのない綾香の走っている姿は、実に新鮮だったことを頭の中に憶えている。
あまり体を動かすことに適さない長袖の服とロングスカート、あの艶やかな黒髪が風になびく彼女の姿はとても眩しかった。
今はもうあの美しい姿は見ることができないのは悲しい…。
「行かなければ…今度こそ彼女の元に…」
決意を固め私は自宅から飛び出した。
(ザッ…ザッ…ザァー…ザァー…)
外に出た瞬間またラジオの不快なノイズ音に頭を悩まされ、あの陰鬱とした悪夢の世界の中に自身がいることを再認識させられる。さっきまで気持ちのいいくらい自宅の中は静かで懐かしさの中に浸っていたかったくらい。
まだ廊下にはあの歪な姿の化け物がウヨウヨと苦しそうにもがきながら辺りを彷徨っている。
こちらには弾薬のないさっきのあの『三角頭』との一戦で使った銃一丁だけだ、つまり丸腰と同じ状態。化け物どもに太刀打ちできる術を持っていない。
もうここからはこの連中をすべて避けて通らなければいけない。
私は自分の足に大丈夫かと問うように足下を見る。別に何ともない、化け物達の移動速度から見て逃げ切れることは十分証明されている。
(なら…このままアパートから出るだけでいい)
私は階段まで足を速める。途中すぐ傍の化け物の前を通り過ぎて行ったが、反応は完全に遅れていた。化け物どもからはやっぱり髪を焦がしたような嫌な臭いが鼻についた、こんなこと繰り返していたら自分の服まで臭いが付いてしまう。
(全く本当に嫌な連中だ…)
アパートの廊下の化け物達をのらりくらりとかわしていき、すぐにアパート正面玄関前へと私は出ることができた。私は服についた化け物どもの臭いを払い落すような仕草をし、アパートの外へと玄関の扉を開く。
「はぁ…やはり変わらないか…」
また時間がたっても外の世界は相変わらず、濃いミルクの様なまどろむ霧が辺りを包むように私の視界を遮っていく。時間帯からしてまだ昼過ぎだ、それなのに依然として夕方の様に静丘町を包む環境は暗い。
私はその中に入り込むように濃い霧の中を懐中電灯の小さな光を頼りに突き進んでいく。
 そうするとすぐ舗装された歩道にて見覚えのある容姿をした少女と遭遇する。少女の方はまだ私の存在に気付いておらず歩道の上をひたすら歩き続けている。
あれは…確か…?
一目見て目立つ猫のような耳、短く切った髪は手入れをしていないのだろうかこの前会った時よりもぼさぼさとしている。鋭い刃物ように思わせるつり目は健在で、その中の瞳に殺気めいたものを感じる。よく見ると目元のあたりが腫れているように手で擦ったように赤く、何か泣いていたようにも見える。
 ―亜里抄、芹沢亜里抄です…
(あっ…思い出した!)
静丘町の大きな橋で知り合ったワーキャットの少女、確か母親を探して静丘町に来たと言っていた。その時何やら妙なことを口走っていたが、今になったらその発言の真意がよく分かる。
―化け…化け物が町にたくさんいるんですよ…
あの時この忠告を素直に聞いていればこんなことにならなかった。しかし車に戻ろうとした時、すでに私はこちらの世界に取り込まれていた。
これはもはや元々決められていた運命の様に感じる。
そういえば妙なことと言えば静丘町へと車に向かっているさなかに起きた出来事、突然車のラジオから不快なノイズ音が聞こえ始めた時、どこからともなく私の耳に響いたあの 意味深い呪詛のような言葉。
―何故だ、何故否定しようとする自身の罪を。
あれは一体何なのか?私は過去に法に触れるようなことをした行為に憶えは無い。しかしあれは幻聴なのだろうか、いやあれは確かに私の耳に聞こえた…。
考えようとしても頭が何故か働かない、まるで禁句の様に考えれば考えるほど何かがそれを必死になって拒んでくる。
ひょっとして私は恐れているのだろうか?一体何を恐れる必要がある?
考えても仕方ない。
私は持っていた銃を来ている服の懐に隠す、もしこのままの状態で彼女と話をしようとすれば余計な誤解を招くような事態に陥る。
彼女は初対面の時と同様に、自身の着るフード付きの薄い水色コートの下ポケットに寒そうに手を入れている。いや、片方の手が下にお留守になっている、何かを握って歩いているようだ。
「やぁ…芹沢さん」
私は優しく声をかける。
「―!?」
私の声に反応した彼女は、サッと振り返り殺気だった雰囲気を醸し出し私を威嚇するように睨んだ。猫耳の毛や尻尾の毛は逆立たせ完全に敵意丸出しの状態だった。
 よく見ると彼女のコートは赤黒い血で汚れ、彼女の頬も返り血を浴びたように血糊がついたような状態。極めつけは手に握られた血が付着した調理用の包丁である。
「そっ…それは…」
私は口元を手で押さえながら芹沢亜里抄から物々しい雰囲気を感じ取り後ろへと後ずさりをする。とにかく彼女は恐ろしいほどに鼻につく血の臭いがした。
「あっ…!?」
彼女は私だと気付き威嚇するように突き出した血のついた包丁を納め、さっきまで殺気だった雰囲気を納めて元のけだるそうな表情に戻る。
そこから息がつまるような気まずい沈黙が私と彼女の間に流れる。
「あなたは…この前の…」
「あっ…そうだよ、静丘町の入口の大きな橋で会った岩瀬隆さ、ところで何をしていたのかな?あぶないことはやめたほうがいい…」
そう答えた私の背中に冷たい雫がスッと降りていくような感じがする。私の表情はどうなっているかは知らないが、明らかにぎこちない表情をしているに違いない。
彼女の包丁…一体何を刺したんだ?まさか本当に人ではないだろうな…いや、しかし彼女が言ったことを当てはめていくと彼女も私と同様にあの化け物どもと戦って…?
私は手に肘をつき口元に手を当て思案顔で冷静に今の状況を把握しようとする。決して彼女が人殺しだと考えないように、そっと意識をしながら…。
しかしあの血はやけに人の血の様に感じる…。
「そう…」
彼女は私の視線を避けるように顔を足下に向ける。彼女の瞳には光が灯っておらず私が考えていることを感じ取ったように見える。
「でも…それは岩瀬さんも同じでしょう?あなたも本当は観光目的で静丘町になんか一人旅でやって来ているわけがない…あなたも私と同じようにこの町に呼ばれた…静丘町には昔『罪人の町』と呼ばれた頃があったそうですから…」
呼ばれた、私はこの町に呼ばれた?意味の分からない妄言のはずなのに、何故か心は晴れて納得したように私の胸中は晴れ晴れとしていた。
表情が訝しげに曇る私の顔を見て彼女は慌てて
「怖い…?ごめんなさい…」
と沈んだ声で詫びる。
「いや……そういえば母親は見つかったのかい?」
私は話題を変えこの沈んだ空気を換気する。
彼女は一瞬何が何だか分からないといった表情を浮かべたが思い出したように饒舌に言葉を並べ始める。
「あ、あのことですか?まだ母さんは見つかっていないんです…」
「あのアパートに母親は住んでいたのか?」
 私はさっき飛び出したアパートの建物を指さす。
「何も知らないの…」
「わかっているのはこの町に住んでいたことだけなのかい?」
「そうなの?何で知っているの?」
私の言葉に彼女は驚いた表情を浮かべる。全く予想しなかった感じで、声が裏返り上ずって白く真っ赤な血糊化粧をした彼女の顔に熱が籠る。
その反応に私は少し違和感を覚え、首を傾げるも彼女と話を続ける。
「いやそれは…君がここで母親を探していると言うから直感でそう思っただけで、特に意味なんてない。私も知らないさ」
「そう…」
熱が冷め彼女はひどく落胆し声を落とした。
「違うのか?」
「…分からない」
彼女は自身の頬に手を当て何やら思案にふけっていた。いや、考えているのではなく思い出そうとしているのが正しい。
 「ならなぜ芹沢さんはこの町に来たんだ?」
 私は容疑者に尋問をするように彼女に質問を投げかける。
 「それは…さっき言ったこと、この町に呼ばれてしまった。この静丘町には現実の常識では計り知れないことばかりおきて、だからそう思ったの。知らず知らずのうちにもう私達は元の現実から帰ることができないかもしれない…」
言葉の含みに狂気の様なものが垣間見える。あまりにも飛躍しすぎて冷静さを欠いて仕方がない、確かに信じられないことばかりこの静丘町で目の当たりしている。
「ところで岩瀬さんはどうしてこの町に?年齢からして私よりも年上で奥さんでもいそう…岩瀬さん本当は何をしてこの町に来たのですか?」
 私はしばらく押し黙る。本当の理由を言っていいものかどうか判断するために、彼女のどこか情緒不安定で言っていることが本当であるかどうか疑わしい。
それは私も同じか、どうやらお互い様のようにも感じる。
「実は…私は4年前まで妻と一緒に静丘町に住んでいてね、妻から手紙をもらったんだ。静丘町の思い出の地で待っているとね。私はその手紙通りこの静丘町に訪れて彼女を探そうとしたところ…この有様さ」
「えっ…手紙?どうしてそんなこと一緒に暮らしているんじゃないの?」
「私の妻の名前は綾香って言うんだ。実はもう妻は4年前に重い病を患ってそのまま治る見込みも無く死んでしまったんだ…」
重く閉ざされた口から出た言葉は実に重たいものだった。彼女は驚きと戸惑いを隠しきれず口を開けてしまう。
「そんな…御免なさい!余りにデリカシーの無い無神経なことを口走って…」
「いや…気にしないでくれ、それよりもこの女の人を町で見かけなかったかい?」
私は着ているダウンジャケットの懐を慌ただしく探る、探る手は氷のように冷たくそしてブルブルと震えていた。
そこから私の妻綾香が映った写真を取り出し芹沢亜里抄に見せる。
「すごく綺麗な人…もしかして岩瀬さんの」
「そうだ、私の妻だ」
 「こんな人いたら嫌なくらい頭に印象が残りますよ…御免なさい町中を歩き続けていたけどこんな人見てません…」
 「そうだよね、いるわけない死んだ人間が…。4年前に死んだ妻から手紙がきた事態おかしなことだらけ、私は半信半疑でもしかしたらと勝手に願ってこの町を訪れて…。
 はは、私の頭はおかしくなってしまったのかな、本当に…」
 私は勝手に一人喋り乾いた笑いを浮かべその場を取り繕うとする、しかしそんな笑いは独り虚しくその中で木霊していくだけだった。
 「あの私…お母さん探さないと…」
 「一緒に探さないか?この町は君の言っているとおり変だ。あの大きな橋で会った時に君が言った言葉の意味が今なら分かるよ…」
 私は持ちかけるが彼女は変におどおどして後ずさりをし始める。どうやらさっきの私の言葉に酷く動揺し身の危険を感じているようだった。
 「一人で大丈夫です!多分私邪魔になると思うし…」
 「ならそれ…」
 「預かってくれるの?この包丁…」
 「それは構わないさ、この状況で生きるためにしたんだろう?」
 「これを持っていると何だか楽になりたくなるんです…もうこの町に長く居れば居るほど現実から遠ざかっているような気がするんです」
 また何か始まった、彼女の頭に生やした猫耳は萎れた花の様に垂れ下がっている。
 私は恐る恐る彼女に近づく。
 「はっ…いや!来ないで!!」
 彼女は凄い形相で私を睨むと両手に包丁を構え私に向かって突き出す。それは怒りに駆られているのではなく単純に恐れているように感じる。目尻から大粒の涙が滴り落ちて整った顔をクシャクシャにしてしまう。
 (何なんだ…一体どうしたんだ?)
 「御免なさい!私が悪いのに…悪いのに!」
 彼女は包丁をその場に捨てるように落とすと逃げるようにして私の元から走り去って行った。
 「待ってくれ!一体どうしたんだ?」
 私の言葉に彼女は聞く耳を持たずそのまま濃い霧が霞む中に溶け込み次第に見えなくなってしまう。
 「……」
 私は茫然とその場に立ちすくむしかなかった。
11/01/10 17:04更新 / 墓守の末裔
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■作者メッセージ
本当はまだ隆が静丘公園へたどり着くまで書きたかったのですが、あまりにも長くなるため途中で切りました。

『三角頭』正式名称レッドピラミッドシング。
奴の行ったあの所業は隆に何か関係があるのかどうか?
ワーキャットの少女芹沢亜里沙。
彼女は母親を探しに静丘町を訪れたそうですが、本当の理由は他にありそうな?

隆と綾香のエロシーンが書き終わってみると蛇足のようにしか思えず頭を抱えたくなるような稚拙な文に…はぁ。

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