連載小説
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T Fortuitous encounter
 まず初めに言っておこう。
 これは、私が死ぬまでの物語だ。
 遠い遠い昔、まだ魔物娘がただの魔物で、私たちにとって人間は、憎むべき敵であり愛すべき食料であった時代の話だ。
 人間に対する認識は、サキュバスである私も他の魔物と同様で、人間一人一人の顔の判別すらついてはいなかった。
 だというのに私は、――後から思えば――あの男の顔だけは、初めて会った時から彼だと認識し、意識していたのだと気付いた。


 T Fortuitous encounter

  ◆1 Monsters

 街が燃えていた。
 炎に炙られた夜空で、星々が覗きこむように瞬いていた。
 人々は逃げ惑い、彼らを魔物たちが追い立てる。
「きゃあああ!」
「うわぁあああ!」
 老若男女の区別なく、人間は襲われ、魔物たちに殺されていた。
 醜悪な子鬼の姿をした緑色のゴブリンが棍棒を振るい、転ばされた街人の頭にそれを容赦なく振り下ろす。グチャリという鈍い音がすれば、潰れた果実じみて頭蓋が割れ、果肉の代わりに灰色の脳ミソが飛び出した。
 二足歩行をする蜥蜴のリザードマンが剣を振るう度、手が飛び足が飛び、バラバラとそこらじゅうに散らばる。時折降ってくる蝙蝠の獣人であるワーバットは、若い女性を選んで攫っているようだった。
「おおおおお!」
 裂帛の気合とともに騎士が魔物の首を刎ねた。が、残念、相手はデュラハンで、宙に飛んだ白目をむく首がニヤリと笑ったと思うと、炎を映す白刃が、騎士の首を刎ねていた。
 言うまでもなく、この街は人間たちにとってもう死んでいた。
 この街はすでに、魔物たちにとっては遊技場で、殺し犯し飲み食い自由のパーティ会場でしかなかった。
 街壁を破られた人間の街は脆い。
 雷のような轟音と共に、街壁の一角が破られた時点で、すぐに逃げ出せばよかったのだ。そうして街壁を崩せるような魔物が来ているのだから、城に立てこもったところで無駄な話。
 私は窓の外から聞こえてくる、殺戮と暴力の音楽に耳を澄ませつつ、すでにこと切れた王の上から身を退かせる。窓の外から差しこむ炎の揺らめきが、私の自慢の肉体を妖しく照らし出していく。
 私は、美しい。
 私はサキュバス。
 男と交わり精を搾りとる魔物だ。頭には悪魔の角が生え、背中からは蝙蝠のような悪魔の羽、尻からは先がハート形になった悪魔の尾が伸びている。そしてその肉体は、人間の姿をしていても、人間には到達できない美しさに淫(みだ)れている。豊満に張りだした乳房に、ほっそりとくびれた腰、むっちり膨らんだお尻は、これでもかというほどに官能的な曲線を描いている。顔ももちろん誰が見ても極上の美貌だ。
 そんな私の股からは、彼の生命力そのものだった白濁が太腿をつたっている。
 私は拍子抜けだった。
「王さまだって言うからちょっとは期待してたのだけど、人間は人間、大して変わりなかったわね」
 干からびた蛙のような王を見て、私は吐き捨てる。
 彼は絶望し、涙も枯れ果てたような顔をしているが、最後に私のような極上の女と交わって死ぬことが出来たのだから、もっと幸せそうな顔をしてもいい。と、私は少しだけ残念に思う。
 性王だなんだのという噂だったから、もうちょっと頑張ってもらいたかったのだけれど、いや、聖王だったっけ? そんなことはどうでもいい。彼の名前も私は最早覚えていなかった。人間なんて、精液が美味しいかどうかにしか興味はない。
「さて、あっちのお楽しみもそろそろ終わったかしら」
 私はそう言って魔法で服を着ると、王の寝室を後にする。
 街の喧騒とは違って、城内は静かだった。
 それは当たり前だ。
 城の外でわいわい手当たり次第に人々を襲っている低能と違って、私たちはスマートだ。低能たちに人々が慌てふためいている間、私たちは城に入り、堀に渡された跳ね橋をあげて横取りが入らないようにすると、城をすぐに制圧した。護衛兵たちは骨がなく、外に出ていった騎士団も受け持てばよかったかな、と思わなくもない。
 外の低能な魔物たちにもいくらかの被害は出ているだろう。
 しかしそれは彼らの責任だ。最初に街壁を崩して彼らにパーティ会場を提供してあげた時点で、私たちは彼らに十分すぎる贈り物を与えている。
 魔王直属の魔物たちなら別だが、こんな地方でうごめいているような魔物たちが協力してことにあたるなどということは考えられない。だからこそ、こうも簡単にこの街が落ちたということもあるのだろうけれど……。
 私は彼がいるだろう部屋の扉を開けた。
 途端、ツンとした香りが鼻につく。
 血の香り、糞尿の香り、精液の香り。
 元は王妃の豪奢な寝室だったようだが、今は廃墟のように破壊され尽くしている。辺りにはもはや男だったのか女だったのか分からない肉片が散乱し、元は何体の人間だったのかも分からない。刃物のついた嵐が吹き荒れれば、こんな具合になるだろう。出来上がったのは、豚のえさにする生ごみ。
「うわー好き勝手やってるわね」
 私はニヤニヤ笑いながら彼に言う。
「宴ってもんは散らかしてこそ、だろう?」
 山羊面が、女の乳房を齧りとりつつ嗤った。
 彼は身長二メートルを超すバフォメット。筋骨隆々の浅黒い肉体の頭は獣の山羊で、黒光りする角が逞しい。下半身は真っ黒な毛皮に覆われ、足先は山羊の蹄になっている。背中からは蝙蝠のような悪魔の羽が生え、尾は先が矢じりのようにとがった悪魔の尾。彼は彼だが、乳房がついている。私のように形の良いものではなく歪で、そのせいで彼の姿は全力で神の摂理を馬鹿にしているように思えて、魅力的なものには違いなかった。
 見た目と言動からは下卑た肉体派に思えるが、こう見えて彼は知性派の大悪魔だ。
 彼が齧っている女は、ボロきれのようにこびりついている衣服を見ると、たいそう身分が高かったらしい。もしかすると、この国の王妃か姫だったのかもしれない。しかし、その腹から上は千切れて、下半身からは彼のペニスの形に膨らんだ子宮が見えている。その横からは彼の逞しさには敵わない、破れた腸がぶら下がっていた。
 その逞しさに、私は頬を吊り上げずにはいられない。
「ハハハ。その様子では満足できなかったと見える。王のチンポは短小だったか?」
「人間にしては、大きさだけは立派だったわ。でも見かけ倒し。十回搾ったくらいで死んじゃった。最後はうっすくて水みたいだった」
「ガハハハハ」
 呵々大笑しつつ、彼は己の精液で女の子宮を破裂させた。
 栗の花のような性臭が私の鼻に届いてきて、私は股を疼かせずにはいられない。
「いいぞ、俺がお前を満足させてやる」
 彼はグロテスクな肉棒を、手招きをするようにビクビクと上下させる。
 私は魔法で自分の服を消すと、剥き出しの裸体で彼に歩み寄る。一歩ごとに、ぬるぬるとした肉片を踏みつける。転がっていた邪魔な頭を蹴飛ばして、彼の前に立つ。
 彼は逞しい腕で私の脇を抱えて持ち上げ、私が股を開くと、遠慮なくその肉棒を私の胎内へと突き入れた。
「ングゥウウウ……」
 あまりの逞しさと雄々しさに、私は喉をのけ反らせて全身で悦ぶ。
 彼の山羊の舌が私の乳首を這った。
「ちょっと、噛まないでよ?」
「心配ない。傷がついたところですぐに治してやる。それに、」
 と、彼は山羊の瞳孔を横に細めて私を映した。
「未来の魔王にとっては勲章ではないのか?」
「馬鹿にしないでよ。私は美しいままで魔王になるの。傷の勲章を受けるのはあなたの方」
 私は彼の背に手を回し、思いっきり爪を立ててやる。
 鋼のような彼の肉体だが、私もそれに傷をつけられるほどには嗜みがある。
「怖ろしい女だ」
 彼はそう言いながら私への注挿を速める。
 私は彼から送られる快楽を貪り、彼も私の肉体を愉しみ、私たちは死臭に満ちた部屋で交じわり合った。


  ◆2 She

 私と彼は番(つがい)ではない。
 お互いの欲望のためにつるんでいるに過ぎない。
 私は人間相手だけでは満たされない自らの性欲を満たし、魔王となる野望のための協力者として彼を隣に置いている。
 彼は私を魔王にするために私の隣にいると言う。それは彼にメリットはないように思えるのだが、長く生きている彼にとって、私は見ていて面白い暇つぶしらしい。
「一サキュバスがどのように魔王を倒して魔王となるのか、それを見届けたい。何? 俺は魔王の座を狙わないのか、だと? そのような面倒くさいものになどなりたいとも思わん。俺は好きなように犯し、殺し、飲み食いしたいだけだ。何かの上に立つなど頭を下げてでもごめんだ」
 彼はそう言うが、彼が本気になれば魔王の座に本気で迫りかねないので、私としては複雑な気分ではある……。
 私が何故魔王になりたいのかと言うと、それは単に男のためだったりする。
 夢を持たせたのなら、ざまぁみろ、と言うしかないが、別に私に好きな相手がいるわけではない。私に恋人はいない。
 こうして彼と交わることで快楽を貪り、一時の性欲は満たされるが、私の心はいつも乾いたままで、心底満ち足りたことがなかった。それは、きっと男にも、そして私にも力が足りないせいなのだ。
 セックスは男女の戦いで、絶頂の果てに辿り着くには、きっとどちらの力も足りていないとダメ。私は魔王の座につくほどまでに強くなり、そこでさらに力を蓄えつつ勇者を待ち受ける。
 一世代に一人しかいないと言われる人間の頂点である勇者。
 彼とならば、私は満足のいけるセックスができるだろう。
 殺し愛の果てのセックスで、ようやく私の願望は叶う。
 ――私はそう信じている。
 だからこうしてバフォメットのブロッケンと組み、人間を襲っては力を蓄えている。
「ククク。趣味の良いことだ」
「本当にね。やっぱりあいつ聖王じゃなくて性王じゃない」
 城の宝物を根こそぎ攫ってやろうと探索していた私たちは、城の地下牢を見つけていた。
 石造りの地下空間には冷気が凝っていた。ほこりの匂いも鼻につく。冷たく不快なのは、ここの作りだけのせいではない。そこには数々の拷問器具と共に、生きているのか死んでいるのか分からないモノたちがうごめいていた。サキュバスとしての嗅覚から、女がほとんどだが男もいることが分かった。
 その誰もが拷問され、もれなく凌辱されていた。そこにある残り香は、紛れもなく、私が吸い殺した王のものだった。私は奴にもっとサービスしておけばよかったと後悔する。
 石で作られた地下牢にはかび臭い匂いと、先ほどの生々しい死臭とは比べ物にならないほどの陰鬱で凝った香りに満ちている。肉体の死臭ではなく、精神の腐臭(怨念)。
 この臭いは好きではない。
 こうしたものを見ると、自分が楽しむために悪逆を行う魔物に比べて、相手を苦しませるために非道を行える人間の方が、魔物の名には相応しいのではないかと思えてしまう。
 壁の鎖に繋がれている、鼻も耳も唇も目蓋もそげた扁平な顔の人間は、男か女かもわからない。
 こんな残りカスのようなモノから精を搾ったところで得られるものはたかが知れている。そんな彼らにブロッケンがとどめを刺しつつ、私たちは奥へ奥へと進んだ。殺した彼らの魂を、ブロッケンは律儀に喰らっている。
 そうして進んでいった私たちは、重厚な扉に辿り着いた。
「この向こうにも、誰かいるわね」
「ああ、そうらしいな。しかし、こんな所にいる割には……」
「何よ?」
「いいや、何でもない」
 ブロッケンは一瞬だけ奇妙な顔をしていた。
「……ふぅん、もしもよさそうな男だったらその前に私に味見させなさいよ」
「分かっている。お前が気に入ると良いがな」
 と、彼はクツクツと笑う。
 ブロッケンが逞しい腕を扉に向けると、その腕に黒々とした古代文字が絡みつく。見るからに禍々しいそれは、邪悪な魔法となって重厚な扉をドロドロに腐食させた。
 街壁を崩すほどの魔法を扱う彼だが、こうして繊細な魔法も扱えるのだ。私の魔法の力量はまだまだ彼には及ばない。
「おじゃましまーす」
 私は溶けた扉から、部屋に入った。
 そこで私は、彼に出会ったのだ。

  /

 こういうのを運命といったのだろうかと、私は死ぬ直前になって思い返すことになる。

  ◆3 Human

 そこは、人間性というものが排除された部屋だった。
 ここに来るまでに見た牢よりも大きい。
 壁を埋め尽くす本の群れ。隅には粗末なベッドが置かれている。部屋を照らしているのは、こんなところに置くのには相応しくない精霊石が使われたライトだ。本を読むためにだけ作られたような部屋。
 まるで時が止まった、本の挿絵のような光景だった。
 その中心の椅子で、膝を抱えて彼は本を読んでいた。
 まるで湖に映した月のように静かな瞳。
 それは美しさよりも、ある種の届かない無機質さを思わせた。
 骨格はシッカリしているようだが、長いことここにいるのか彼の色は白く、筋肉も必要最小限しかついていないようだった。いや、洗練されていると言った方がいいのかもしれない。服も体も清潔にされているようだが、必要最低限の、簡素な服しかまとっていない。無造作に髪をそろえた顔は、可愛らしい方だと思う。
 読書をしているというのに、彼のその静かで、本のページをめくる指と目以外が動かない有様は、おおよそ人間のものだとは思えなかった。
 しかし同時に、それは祈りを捧げている姿にも見えて、どこまでも人間らしくも思えた。まるで自らが人間であることを祈っているような……。
 私がそんな感慨を抱いていると、視線を感じた。
 ブロッケンだった。
「何よ?」
「いや、不思議な目をしていると思ってな」
「不思議な目? 何よそれ」
「…………いや、なんでもない」
 そう言って彼は私から視線を逸らした。
「君たちは僕を殺しに来たの?」読書をしていた彼が口を開いた。
 その声に私は息を飲んだ。
 彼の見た目は細く痩せた青年だが、その声は年経た老人のように枯れて、しゃがれていた。彼はそんなことを私たちに聞いてきているというのに、少しも怖気づくことなく、その様子に、私は少しだけ興味を持った。
「そうだと言ったらどうする? 命乞いをするか?」
 ブロッケンが言った。
 山羊面の悪魔然とした巨漢の彼に言われれば、少しくらい震えてもいいはずなのに、そいつは静かに首を振っただけだった。
「いいや、僕は大人しく殺される。だから優しく殺してくれると嬉しい」
「ふぅん、お前は死にたいのか?」
 その問いかけにも、彼は首を振った。
「いいや、僕は死にたくない。でも、君たちは魔物で僕は人間だ。君たちは僕を殺さずにはいられない。だから僕は君たちに殺される」
「ハァ? 何言ってんのよあんた。こんなところにいるってことは、頭がおかしいってことかしら?」
 彼の意味の分からない言葉に、私は口を挟んだ。
 それに対しては、彼は首を振らなかった。しかし、頷きもしなかった。
「そうだとは思う。僕はもう魔物を殺さない。それを父上に言ったから、僕はここに閉じ込められた」
「ほう、お前、もしかしてこの国の王子なのか?」
「昔はそう言われていた。今はただの頭のおかしい、丁重に扱われている罪人だ。魔物に敵対しない人間というのは、それだけで頭がおかしくて、罪悪だ」
「…………」
 彼の頭のおかしい発言に、ブロッケンは黙った。呆れてものも言えないということだろうと私は思っていたのだが、彼の顔を覗きこめば、その瞳には奇妙な光が浮かんでいた。
「お前、魔物を敵だと思わないのか?」
「敵だとは思う。でも、僕は敵対しない」
「…………何故?」
「僕は人間だ。でも、僕はクルスという名前を持った個人だ。欺瞞に流されるだけはやめることにした」
 ミシリ。
 と、空気の重みが増したと思った。
 ブロッケンが、自分の拳を握りつぶさんばかりに握りしめていた。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ」
 彼が怒りを露わにしたところを見たことがなかった私は、人間の前だというのに狼狽えてしまった。そんな私など眼に入らないように、ブロッケンは言った。
「俺はバフォメットだ。だが、ブロッケン。ブロッケン・ロードだ。クルスと言ったな。だから俺は――、お前は殺さないでおいてやる」
「ハァ? あなたまで何を意味の分からないことを言って……、……ッ!」
 私は息を飲んでいた。無機質だった青年の瞳が、ブロッケンの言葉で、生き物らしく揺れた。その変化に、何故か私は驚いた。
 そしてその瞳は私の方を見た。
「君の名は?」
「…………あなたに名乗る名前なんてないわ」
「そうか。それが普通だ」
 無機質に戻った彼の瞳に私は映っていなかった。
 私はそれを、酷い侮辱だと思った。
「何、あんた。私に喧嘩売ってるわけ? 人間なんかにサキュバスである私が名乗るわけないじゃない。人間なんてザーメンタンクよ。私に跨られて、間抜け面で吸い殺されるだけの存在よ」
「そうだ。それが普通だ。だから僕は君には普通に吸い殺されるのだろう」
 やはり喧嘩を売っているとしか思えない彼の言葉に、私は頭に血が昇った。
「普通普通って何よ! 私はいずれ魔王になるサキュバスよ。特別中の特別。いいわ。じゃあ、普通じゃない証拠として、あなたは私からは殺さないであげる。私の体に劣情して、自分から殺してくれって言った時に初めて殺してやる。死にたかったら今ここで、私に犯してくださいって言いなさいよ!」
 私は一息に言いきって、彼を睨み付けた。
 だと言うのに彼は、
「そうか。君も僕を殺さないのか。…………そうか」
 と、嬉しそうに笑った。
 瞳の奥で揺れる微かな光を見て、私は、
「やっぱりあんた頭おかしいでしょ」
 とだけ言った。
 クツクツというブロッケンの笑い声が聞こえ、私は何かむず痒い感触を抱いた。
 彼はおかしな奴だった。
 人間であり魔物に敵意を覚えると言うくせに、敵対はしないと言う。
 いつもなら人間を見ればすぐに殺していたブロッケンが、彼を殺さないと言うのもおかしなことだった。
 私は彼らが私の知らない何かで結ばれているような気がして、どうにも苛々とした。私は彼に敵意を持っていた。でも、ここで彼を殺してしまえば私は後悔する。そう思った私にも、実際彼に手を出さないでいた私にも、私は正直驚いていた。
 だから、そのむず痒さが、彼に対する敵意とは別の感情に起因することを、この時の私は全く気がつくことはなかった。いや、そうでなくても私が気付くことはなかっただろう。
 何せ私は、誰かに対して、その体に以外に興味を持ったことなど、ブロッケン以外で初めてのことだったのだから。

  /

 この時の私がその気持ちに名前を付けるとするならば“単なる憤り”。
 そして、後の私がその気持ちに名前を付けるとするならば“対抗心”。
 私は人間に対して、同族にも抱いたこともない、友達未満の知り合いに対するような気持を抱いていたのだった。


  ◆4 He

 私たちが殺した地下牢の人々の前を通る時、彼は静かに手を合わせていた。その瞳はやはり無機質で、彼の顔は変わらなかった。
 彼は同胞である人間の死を悼むことのできる人間だった。
 だと言うのに、私とブロッケンがこの街を滅ぼす急先鋒に立ち、彼の父母、兄弟姉妹を含むこの城の人々を殺したことを彼に告げれば、
「そうか……。君たちは魔物だ。だからそれは仕方のないことだ」
 と、彼はそうとだけ言った。
 私は彼のそのすました顔を悲しみで歪めさせてみたくなった。
「ねえ、あなた知ってる? ここの地下牢の人たちを殺したのは私たちだけど、殺された方がいいような目に最初に合わせたのはあなたの父親の王よ」
 だけど、彼から返ってきたのは私の期待を裏切るものだった。
「知っている。父があのようなことをしていたことは、地下牢に入れられるまで 知らなかったけれど……、彼はあそこの人々を痛めつけながら僕を誘ってきた。
『分かるだろう。お前は俺の息子だ。お前に流れる王の血は、こういうことをやりたいはずだ。だから再び魔物を殺すと言え。主神に誓え。そうすればお前にもここを使わせてやる。いい思いをさせてやる』
 とね」
「…………」私は黙った。
「で、お前はそれを断った、と」ブロッケンが言う。
「ああ。僕はあなたの息子かもしれないが、僕は僕だ。と言って断った。すると、彼は毎晩僕に見せつけるために拷問と凌辱を繰り返した。漂ってくる血の匂い、憎しみと悲しみのこもった喘ぎ、叫び声。僕は気が狂うかと思った。だけど、僕が彼の思い通りにならないということを彼はようやくわかってくれたようで、ある日からパッタリと僕には関わらなくなった」
「カハハ、嘘でもいいから魔物を殺すと言って一度牢からでればよかったんだ。そうして逃げちまえばよかった。お前、意外と強情なんだな」
 ブロッケンは感心しつつ笑っていた。彼は奇妙な上機嫌にあるようだった。
「そうかもしれない」
「魔物を殺さないって……、あなた、魔物のこと好きなの?」
「…………僕は別に魔物のことを好きというわけじゃない。むしろやっぱり敵だと思っている。だから結局、僕は人間をやめられなかった」
 やはり彼の言うことは、私には理解できない。
 でも、ブロッケンは彼の言葉を理解しているようだった。
 私はやはり、それが気に入らない。
「なんで魔物を殺さないようにしようと思ったのよ。あなたの口ぶりだと、あなたは魔物を殺してきたんでしょ?」
 他の人間と同じように。
 私たちが人間たちを殺してきたように。
「僕が君に答える義務はない。僕は君に殺される義務はあっても、それに答える義務も義理もない」
 彼の拒絶の言葉に、私はカチンとくる。だけどそれは、頭には来なかった。強いて言うならば、胸に来た? 奇妙な感覚に私は正直戸惑う。
 だと言うのにブロッケンは、
「違いない」
 と言って笑っていた。
 本当に何なのだろう。
 私の中で、何か得体のしれないものが、しこりのように残る。
 地上に出れば、
 ――街は壊滅していた。
 焼け焦げた人々は燻製にされた食料でしかなかった。燻製になっていない人々は犯すために残されているのだろう。現在進行形で犯されている少女は、もはや悲鳴の上げ過ぎで、擦り切れた呻きが、突かれるたびに零れるだけだった。元は賑わっていただろう木製の屋台は、跡形もなく粉微塵になっている。石造りの家々は立体的なパズルとなって散らばっていた。
 理性もなく欲望のままに蹂躙された痕。
 そんな戦場跡の朝焼けを、私たちは歩いた。
 輝かしい朝日を喜ぶ人間は、この街にはいなかった。いるのは、欲望を吐き出す魔物たちだ。
 通り過ぎる人間の死者たちを見ては、クルスはやはり静かに、無機質な表情で、胸の前で手を合わせていた。
 そこで私はふと違和感を覚えた。
 彼は十字を切らない。
 ただ手を合わせるだけで、主神への祈りの文句も告げない。
 私はそれを奇妙だと思ったが、人間たちにも色々いるのだろうと思うことにした。
 彼の姿を見て物欲しそうな顔をする魔物たちがいたが、私とブロッケンの姿を見ると、さすがに手を出せないと思ったのだろう、諦めていた。
 私たちの旅に、奇妙な人間が加わった。
17/10/28 00:51更新 / ルピナス
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