連載小説
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見たかったものと、見ていくもの
 夢オチという言葉がある。

 それまでの出来事は全て夢だった。大冒険をしても偉業を成しても世界の真実を得ても、それらは全て夢の中でのことだった、という物語の結末。
 正直なところ、このデウス・エクス・マキナは好みじゃなかった。それまでに積み重ねたことが無駄になって、強引に終わらせる。物語としては悪い結末だろう。夢から醒めて現実と向き合う、そんなことは物語に求めていない。物語は夢を与えてくれるだけで良いんだ。

 朝日が瞼の上をなぞって、睡眠から目覚めた。ちょっと首を巡らせて、壁にかかった時計を見る。いつも通りの起床時間だ。外から鳥達のやかましい囀りが聞こえる。鳥という生き物は縄張り争いをするために朝っぱらから鳴きまくってるんだ、と初めて知った時は迷惑だなとしか思えなかった。今もその気持ちは変わらない。うるさい。

「……夢だったのかな」

 昨晩の出来事は、疲れた自分が見せた幻覚だったんだろうか。そうじゃない、はず。実際にあった出来事で、自分の記憶も正気も確かだ。そのはずだ。

 はるさん、という女性に出会ったこと。
 はるさんに料理を作ってもらい、食べたこと。
 はるさんが魔物娘のデーモンであったこと。
 そうして、はるさんと交際を始めたことを。
 夢だとは思いたくない。

「――起きるか」

 ベッドから上半身を起こし、両腕を上にあげて伸びをする。凝った身体が柔軟性を取り戻していく少し心地良い感覚は、今ここにいる自分は夢の中じゃないことを教えてくれる。

 昨日のあの後、はるさんはすぐに帰った。素に戻ったはるさんも結局はるさんだったけど、泣き顔しか見ることはできなかったし、家に連れ込んだのに逃げられるなんてインポ野郎かよと揶揄されてもしょうがなかった。いや、そういうことがしたかったってわけじゃないけど。ちょっとくらいはあるかもだけど、それは男子の生理的ななんというか。……昨日得たものは、本当にこの手の内にあるのかな。
 ダイニングに入り、冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出しながら、ちょっとだけ背後を振り返って室内を見回す。俺しか居ない、俺しか暮らしていないいつもの2LDKのマンションの一室。はるさんはいないし、はるさんの残り香だって霧散してる。確かに昨日は自分らしからぬイケメン具合だったよな。甲斐性ありすぎだろ。長い長い夢だったのかもしれない。
 自分は受験生だ。今って大事な時に、女性に現を抜かすようなことはあってはならない。たぶん。昨日は本当に何もかもが上手く行きすぎていた。人生そんな都合よくいかない。夢、なんだ。
 空っぽの胃の中から嘆息を漏らして、冷蔵庫の扉を閉める。コップを出すために食洗機のロックを解除して開いて、

「あ……」

 しっかり乾いた、見慣れた皿や茶碗。昨日の生姜焼きを思い出す。はるさんが昨日使った食器は、俺が使う食器のローテーションの中にあるものだった。でも、その中でたった一つだけ、見慣れないものがあった。
 箸やスプーンを入れておくためのスペースに、俺が使ったことのない無地の箸が収まっていた。







 勉強するのは苦痛じゃない。テストは楽しい。
 ただ、宿題はろくすっぽやらない事が多いし、授業態度だって悪いし、はっきり言って先生からの評判は悪いと思う。いくら言われても宿題をやらないことが多い生徒を好きになるだろうか。ちゃんと授業を聞いていない生徒を好ましく思う先生はいるだろうか。おまけにテストのときだけ頑張って、成績表はテストの部分だけ良い始末。
 そこそこ頭の良い私立の男子校だから、男子校のノリでバカなことする奴らは非常に多いけど、だからって成績が悪いわけじゃない奴も非常に多い。オンオフしっかりしてる、ってことだ。もちろんみんながみんなそういうわけじゃないけど、少なくともこの六年間の内にこの学校で授業崩壊してるクラスなんて聞いたことがなかった。

 そういう学校だからなのかは比較できる対象がないからわからないけど、高校三年になっていきなり学校が窮屈に感じ始めた。もちろん場所的な意味ではなくて、精神的に。
 みんながみんな苛立ってる。休み時間はバカみたいなノリで騒いでる奴らも、頭をつき合わせて互いに解らないところを補い合ってる。勉強せずに話している奴らだって、話題にしているのは勉強のこと。数学とか化学とかの暗記が苦手だーとか、予備校の模試でーとか、そういったことばかり。
 悪いことじゃない、すごく健全でいい環境だと思う。学校は勉強する場所なんだから、こういった風潮であるべきはずなんだ。

「――はぁ」

 溜め息吐きながら、机の上に置いた参考書を流し読みしつつ、中身は頭に入ってこない。"俺だってちゃんと勉強していますよ"というポーズを取っているだけ。周囲に白眼視されないために周囲に合わせているだけだ。この行為に何の生産性もない。
 この中で俺だけが流れに乗れていない。探せばきっと俺と似たような奴はいるだろうけど、少なくとも俺の視界にはいないんだから、俺からすれば俺だけが流れに乗れていないことになる。ただ、このポーズは昨日までとはちょっと意味合いが違う。
 今までは疎外感に苛まれていた。受験シーズンが終わる二月三月ごろまでずっとこうなのか、暗澹たる気持ち……ってほどまではいかないけど、気分は重かった。それも今までのことだ。

 昨日のことは夢じゃなかった。
 はるさんとの遭遇。はるさんの笑顔。はるさんの手料理。はるさんの涙。
 それを思い出して、溜め息がいくらでも出る。はるさん、めっちゃくちゃ魅力的な女性だった。また会いたい。彼女のことをもっと知りたい。彼女の笑顔をもっと見ていたい。
 半年ほど先にあるセンター試験を前にして、恋人のことばっかり考えてる愉快な奴はそうそう居ないと思う。視界に入る中で俺しかいないんだから、その愉快な奴は俺だけだ。だからといって、寂しくはないけど。

"またすぐ会えるよ。いつでもどこでも、君のことを見守ってるから"

 彼女は帰る間際にそう言っていた。送ることもさせてもらえず、半ば強引に彼女から解散って形にさせられたけど、嫌われたわけでもないらしい。あの時のはるさんは、何かを堪える顔だった。己の内から溢れ出しそうになるものを堰き止めてるような、少しだけつらそうで、心の底から嬉しそうな、涙を別の意味に変えている表情。
 彼女は優しくて笑顔が素敵で、誠実だ。デーモンという素性を明かしながら、俺を騙したことを自白して。彼女の言動から想像すると、段階を踏んで誘惑をかけてくるのかな。それを一足飛ばしでやったんだ、はるさんは。誰のために?俺のために。

 ――魔物娘。
 数百年、千年前はどうだったかわからないけど、今となってはポピュラーな存在。人間社会に適応した彼女たちは、人間社会に様々な形で貢献してくれている。社会は現金で即物的だから、利をもたらしてくれる彼女たちを歓迎する。もちろん面倒事だって存在するけど、大概の魔物娘は幸せだと思う。断言はできない。でも、俺の視界の中にいた彼女たちは、幸せそうに見えたんだ。
 世界は優しくないこともあるけど、自分の目の届く範囲でしか物を捉えることはできない。自分が暮らしている関東圏で見かけた魔物娘たちはみんな、自分の存在を認められた。幸せそうな笑顔で日々を暮らしているようだった。だから、俺が見たことのない、俺の視界の外の世界の魔物娘たちも、彼女たちと同じように幸せだといいな。
 はるさんはどうだろう。何回か魔物娘たちについての記述がある図鑑を読んだことはあるけど、街で見かけた種族の頁の冒頭数行だけを見る程度で、がっつり学んだりはしなかった。当然ながらデーモンって種族がどういうものなのかをよく知らない。はるさん自身が上級悪魔だって言っていたけど、下級悪魔すら見かけたことがない俺からすれば、いきなり上級とか言われてもいまいちすごいのかどうかがわからない。
 ……はるさんに訊けばいいか。自分のことは全て伝えていく、って決めたんだし。いや、教えてくれるかがわからないな。例えばたまに見かける名前も知らないコボルドに"人間って何がどうすごいんですか"って訊かれたら、どう答えたらいいのかめちゃくちゃ困る。こういうことは訊くべきものじゃない。
 と、すると。

「もう帰んの?」

 席を立ち荷物を纏めていると、背後から声が掛かる。振り返ると、見慣れたクラスメイトだった。良好な友人関係を築けている相手だ。でも、こいつも他のクラスメイトと同じようにかなり勉強を頑張ってるし、聞いた限りは成績も良い。

「帰るっていうか、ちょっと図書館に。現国でもやるかなって」
「ああ。お互い上手くいくと良いな」
「だな」

 彼はこちらを引き止めはしなかった。勉強に理解がある空気だと、俺も付いていくってことにはなりにくい。得意分野は各々によって違うんだし、勉強のやり方も同じ。息抜きの仕方だって。
 だから、友人は俺の嘘に何の疑問も抱かなかった。そそくさと教室から抜けだして、図書館まで歩く。目当ては当然ながら、魔物娘についての記述がある本だ。勉強は苦手じゃない。テストは楽しい。デーモンのことを勉強して、デーモンがどんなものであるのかを学んでおけば、はるさんというテストで活かせる。
 上手くいくと良いな。友人から言われた言葉を反芻する。本当にそうだ。昨日は成り行きでああなってしまったけど、まだ互いについて情報が少なすぎるんだ。ここからどうなっていくかわからない。……上手くいくと良いな。







 結論から言って、デーモンへの理解度は今朝から全く進展はなかった。
 魔物娘を図解する本は数多くあれど、悪魔や淫魔といった類はこれといったものがなく、せいぜいが召喚する方法などの眉唾っぽい本のみ。その本ですら大した情報はなく、書架に戻す際に吐いた溜め息はそこそこ大きかった。
 本を探して歩きまわった末に無駄な時間を過ごしたという結果に至り、疲れた。今日は予備校は自習の日だし、行っても行かなくてもいい。じゃあ、家で自習すればいい、ってなってしまうのは逃げかな。夕日が差し込む前に帰路に着いた。
 マンションのポストに乱雑に入ったチラシを掴んで小脇に抱え、エレベータに入る。昨日ははるさんと一緒だったけど、昨日がイレギュラーなだけだった。機械の駆動音と共にゆるやかに上昇していく箱の中で、昨日のはるさんとのやりとりを最初から思い出していた。

 たぶん、俺とはるさんは相思相愛になった……と、思う。交際を申し込んで、はるさんは受け入れてくれた。それからはるさんは急いで帰り、俺は人生で五本指に入るくらいの高いテンションで一日を終えた。そういう夢みたいな流れだったから、起きた時に夢だったんじゃないかと思ってしまった。
 またすぐ会える。そう言っていたけど、はるさんと連絡先の交換もしていない。というかそもそもデーモンってのは携帯とか持つのかな。知人に魔物娘がいないせいでその辺がわからない。
 やっぱり、彼女のことは彼女から教えてもらうしかないんだろうか。俺自身、そこまで頭の巡りは良いほうじゃない。こんなんで上手くいくのか。彼女にだけは嫌われたくない。嫌われたくないけど、だからといって嫌われないように立ち回るのも、それはなんだか男として情けないような気がする。おめでとう、これで八方塞がりだ。童貞に色恋沙汰は難しいんですよ、神様。

 エレベータが目的の階に到着し、扉が開き始める。身体は疲れているけど、今日は図書館で無駄な時間を過ごした分も含めてしっかり勉強しないといけない。無意識に伏し目がちになっていて、扉の向こうに人影があるのを見てそそくさとエレベータから出た。邪魔になっちゃいけないなって思うばかりで、気づかなかった。気づかなくて、何も言わずにその人物に背後を見せていた。

「ちょっとちょっとちょっと、さすがに失礼じゃないかね」
「え?」
「嫌なことでもありましたかな? ゆうきのすけ殿」

 肩を掴まれて、振り返る。この呼び方。おどけながらも、穏やかに心配してくれる声音。

「いつでもどこでも、君のことを見守ってるんだよ。恋人だから」
「――――」

 肌の色は青くて、角と翼が生えてて、でもその微笑みははるさんのもので。昨日となんら変わりないはるさんの様子に、こっちのほうが泣きそうになっていた。
 思いつめるようなことじゃなかったんだ。きっと。

「わ、わ。本当にどうしたの? なんか、……なんて言ったらいいのかわかんない、すごい顔してるよ」
「……ひどくない、ですか」
「いやだって、すごい顔してるんだもん。嬉しい? 悲しい? なんだろ、私なんかやっちゃってた?」
「いえ……」

 声が震える。すごくバカらしくなってきた。俺は昨日何を言ったのか、自分でちゃんと処理できてないじゃないか。はるさんははるさんで、種族とかは関係なくて。だから別に、俺がデーモンに無知であるなら、それでいいんじゃないか。

「あ、やっぱり私、ここで待ち構えてたのってまずかったかな。鷹見くんの家にいたら住居侵入だしって思って廊下で待つことにしたんだけど、でも部外者がいる事自体不法侵入とか、防――」
「違いますって。大丈夫、たぶん」
「そう? ね、なんか言われたら鷹見くんが守ってね」
「言われないって」

 はあ、と大きく息を吐いた。安堵の息。俯いていた顔を上に向けただけで、スッと胸にのしかかっていた重しが消えたような気がした。
 そうして冷静になって、ようやく。

「……あの、はるさん」
「ん? なにかな」
「そういえばなんで廊下に……」
「待ってたんだよ?」
「そうじゃなくて……なんで、待ってるのかなって」
「あー。鷹見くんの家、鷹見くんしかいないんでしょ? だからね……」

 ぐい、とはるさんが俺の手を引っ張る。いつの間にか手を握られていたことに気づかなくて、少しだけドキッとして、

「だから、私が鷹見くんにおかえりって言ってあげたいなーって。ね」

 ――反則だろ。
 何か言おうとして、言葉が出ない。また家に上がること前提なのかとか、突っ込むべきことはあるんだろうけど、言えない。唇が歪んで震えてる。涙出るとかじゃないけど、いや、涙を流す感動的な場面なのかな、ここは。

「また変な顔してるー。ほら、とりあえずお部屋へゴーゴー」

 手を引っ張られたまま、玄関扉の前まで歩かされる。といっても、すぐだから歩かされてるなんて気はしなかった。歩き慣れてるからかな。鍵を取り出すためにはるさんは手を離して、俺は鞄を漁る。

「今日も私がご飯作ろっか。疲れてるよね」
「……うん、はい」
「よし、よし。今日も張り切っちゃおう」

 鍵を取り出してロックを解除して。手首を回して鍵を引っこ抜くと、はるさんがドアノブを掴んでドアを開けて室内へ入っていく。ぱたり、とドアが閉まる。俺が鍵を鞄にしまってる間の鮮やかな犯行でした。

「いやいや、何してんのはるさん」

 扉の向こうに声をかけながらドアノブを捻り、ガチャリと音を立てながらドアを開けて――

「おかえり」

 真っ白で綺麗なエプロンをかけ、大きな胸の膨らみがエプロンを下から押し上げて。青と黒が基調となったはるさんの出で立ちに、白色のエプロンが妙に合う。長い髪をポニーテールにまとめてもいて、溌溂とした印象も持たせて。
 はるさんが、お母さんとかお姉ちゃんみたいな佇まいで玄関で待っていてくれた。いくらなんでも用意が早過ぎるけど、魔法か何かか。有言実行。見事な仕事だった。こうして実際に言われるだけで、こんな気持ちになるのかよ。とんだ不意打ちに、目の辺りが熱くなってきた。まずい。

「ただ、いま」

 これ自体はきっとなんでもない、ごく一般的なやりとり。ただの挨拶。
 だけど、この時ばかりは、これは特別なものだって思ってもいいはずだ。夢でも見なかったくらいくだらないものだけど、人がくだらないって切り捨てるものは、人によっては尊ぶ価値があるものだと判断することだってあるんだぞ。

 また変な顔って言われるだろうから今の俺の顔を見せたくなくて、慌てて玄関口の方を向きながら靴を脱いで。ふわり、背後から優しく抱きしめられる。柔らかくて暖かい感触が背中を包んで、心臓がぎゅっと掴まれたような感覚。

「――私は、悪い女です」
「……」
「こうして人の弱みに付け込む、とっても悪い女です」

 耳元で囁かれる、罪の自白。俺自身はそう思ってなくても、はるさんは誠実だから。
 誠実だけど、したたかでもある。したたかさの自白をしなければ、彼女の中の誠実さが許さない。

「私の望みを叶えるために、こうして自白もするくらい、とってもとっても悪い女です」
「……ただ、おかえりって言っただけで、そんな大したことじゃないでしょ」
「君がそれを言うかねぇ〜? ふふ、いいけど。でも、鷹見くんの気持ちはそうは言ってないよね」
「っ」

 遅かれ早かれ、バレるのはわかっていたことだけど。背後から回された彼女の手が俺の頬に近づき、指の背で目尻を掬ってくれる。けど、またすぐ潤いそうだ。
 嬉しかった。おかえりって言ってもらえただけなのに、それがどうしようもなく嬉しかった。家の中に誰かがいて、おかえり、ただいま、ってやり取りができて。それだけのことを、きっと俺は夢に見ていた。おかえりって言ってくれる人がいる自宅を、見たかったんだ。
 俺は聡明じゃないけど、彼女がこれから言いたいこともわかってる。弱みに付け込む。おかえりって一言が、俺の弱みだ。

「鷹見くん」
「――、うん」
「お掃除もお洗濯も上手にできます。お買い物も任せてください。料理だって美味しく作れます。時には不満も言ってしまうかもしれないけど、でも、私――月宮はるは、鷹見ゆうきのことを好いています」

 口説き文句というよりは、面接でのアピールじみたトーン。自分を良く見せ、相手に気に入ってもらおう、使ってもらおうって魂胆で並べ立てられた、ちょっと距離が近い自己アピール。

「だから、私に……あなたに、おかえりって言える権利をください」

 プロポーズ紛いの、同棲させてほしいという申請。唸った。こんな頼み方、断れるわけがない。
 彼女はしたたかでありながら誠実。昨日帰ったのは、帰る雰囲気じゃなかったからだろう。誠実であろうとする彼女のあり方を揺るがしかねない雰囲気だったから、敢えて帰ったんだ。
 今日、この状況も彼女の中で勝算があってやってきた事なんだ。俺の事を昨日一日でだいたい察したから、こうやって俺を落としにかかってきたんだと思う。昨日あのまま居座れば無理やり同棲の流れにできただろうに、しっかり相手の了承を得たいから、完璧な流れを作った上でこれだ。

 俺の答えは決まってる。一旦深呼吸して、横隔膜の震えを抑えて。

「俺と一緒なんかで、よければ」

 そう言うと、はるさんは背中から離れて俺の肩を掴み、無理やりはるさんの方に身体を向けさせられる。

「ちょ、はるさ――」
「私は」

 情けない泣き顔を見られて、恥ずかしい気持ちが出てくる。けれどもはるさんの意思は、顔を隠すことを許そうとしてくれない。これじゃ昨日と逆の立場だ。

「……私は、鷹見くんのことが好き。寂しそうなところを見て興味を持って、昨日一日で好きになっちゃった」
「っ、う、」
「嬉しそうな顔とか、悲しそうな顔とか、かっこいい顔とか、鷹見くんは私にいつも良い顔を見せてくれてる。一人暮らしなのにグレてないし、かっこいいなって思う」

 思わず笑いそうになった。いや、でも、普通はグレるのかな。不良になったりするんだろうか。

「そういう、なんか、そういうところ……が、私は好きなんだと思う」

 はるさんは語彙が貧弱だ。俺もそうだけど。上手く言えないけどとにかく好き、って気持ちを伝えたいのか。言語化できないもどかしさは、俺にもわかる。

「だから、そんなに自分を悪く思わないように、ね。私をああやって口説いたんだから」
「口説いた、っていうか……」
「口説いたでしょ。私、落ちたもん」

 もん。この人、大人びてる外見に似合わず子どもらしい仕草をよくするよな。かわいいんだけど。可愛いからすごくいいんだけど。毒気を抜かれて、思わず笑みがこぼれた。

「ね。鷹見くん、やっぱり泣いてるのは似合わないよ。笑顔のほうが可愛い」
「……複雑だなあ」
「いいでしょ、実際かわいい顔してるんだから。ふふ」
「そスか……」
「それでね。似合わないよって言っちゃったけど、でも、泣きたい時とかはどうしてもあるよね」

 どうだろう。さっきの、久しぶりに泣いた気がする。泣くってことなんて、ここ十年くらいはなかったんじゃないか。思い返してみても、泣いた記憶が全くってくらいない。

「たぶん、鷹見くんは貯めこむタイプなんだよ。おかえりって言ってくれる人がいないからって、毎日泣いてるわけじゃないでしょ」
「……そりゃ、まあ」
「そうやって積み重なってったから、さっき私が言っただけで泣いちゃった、って感じなんじゃないかな。さっきの鷹見くん、すごく嬉しそうだった。聞きたかったって顔してたね。どうかな?」

 なんだこれ、新手の羞恥プレイか。
 どうかなってのは答えを求めてるわけで、じゃあ答えなくちゃいけない。自分のことは何でも伝えていくって、昨日決めたことを思い出した。

「……うん。そう、かな。俺は、逃げがちだから。なんか嫌なことあったら、自分でどうにかしようって思ったこと以外は逃げて、貯めこむ……かな」
「逃げたこと、どうにかしたくない、って思った?」
「うん……えっと、なんだろ。わざわざ俺がしなくてもいいじゃん、みたいな。学校の名簿だといっぱい名前が並んでるだけで本当にそんなたくさん人がいるのか怪しいけど、体育館で全校集会するとこんなにいっぱい同年代の人がいるんだって、今更思う感じで。俺みたいに悩んだり考えたりする人が、俺の目の届く範囲にこんなにいるんだって思ったら、俺がどうにかしなくてもいいんじゃないの、みたいな」
「昨日公園にいたのは友だちと遊べなくて寂しいから、って言ってたよね」
「そう、……だから、それだって逃げてた。友だちに遊ぼうぜって誘えばいいのに、嫌な顔されるかもしれないからって」

 逃げ癖が付いてるんだろうな。やっぱ俺、不良なのかもしれない。グレてるのかもしれない。ああいうのだって、同じように逃げた仲間が欲しくてやってるらしいし。

「なんつーか、情けないけど……逃げ癖が付いちゃってるから、自分に自信がない、かも。はるさんのこと、好き、だけど。はるさんに見合うようなやつじゃないっつーか」
「それは私が決めることだからね。鷹見くんは、私が好きな人だよ」
「ぅ、……ありがと」

 昨日あんなイケメンな告白したっつーのに、今日ははるさんの攻勢だ。本当昨日はどうしてあんなカッコよくキメれてたんだろ。はるさんの泣き顔見て必死だったからか。今のはるさんも同じようなものなのかな。

「そうやって逃げてるとね、たぶんだけど……結局、鷹見くんに突き当たるんじゃないかな」
「――?」
「嫌なものから逃げて、一息つくでしょ」
「うん……」
「でも、そういう嫌なものは追ってきちゃう。それに、逃げた先にまた嫌なものとかあったりしたら、また逃げちゃうかも」
「あ――」
「そうしていったら、最後は鷹見くんが見えてくる。嫌なものから逃げてきた自分が嫌だって、鷹見くんは自己嫌悪する」

 覚えがある。小学生の時に友だちとの約束をすっぽかしてしまって、それから怒られたくなくて避けていってしまって、疎遠になって。後から後から悔やむ気持ちが自己嫌悪になって、それからはちゃんと約束を守ったり連絡するようになったけど。
 そういうことだろう。どこまで行っても自分は小さい人間で、逃げたところで嫌なことからは逃げられないことをわかっていながら、それでも逃げてしまう。
 昨日だってそうだ。もしあの時補導されて学校に連絡が行って成績になんらかの傷がついたとしたら、逃げたことを自己嫌悪する。寂しいなら、ちゃんと遊べる日を取り付けて約束すればいいのに。友人たちは悪いやつじゃないんだから、勉強の息抜きだって言えば付いてきてくれるはずだ。

「ね。でも、逃げることは悪いことじゃないよ。金棒持った赤鬼さんが追っかけてきたら、誰だって逃げちゃうよ」
「……そうだね」
「だから、逃げ癖がついたままでもいいよ。私はそんな鷹見くんも好きだから」

 さっきみたいに、ふんわりと抱きしめられる。今度は前からだ。上品で清潔な、甘い匂いがする。

「私じゃダメかな」
「え?」
「逃げる場所。私はデーモンだから、鷹見くんが勇気を出すまで匿ってあげられる」

 抱きしめられてるから、彼女の顔を伺うことができない。でも、このまま抱きしめられていたい。なんだかすごく安心するし、心が穏やかになっていく気がする。

「嫌なことがあったら、私に逃げてくればいいよ」
「――――」

 なんだこれ。これも計算の内なのか。さっきから胸が詰まりっぱなしだ。
 嫌なことから逃げてると、逃げてる自分が嫌になってくる。だけど、逃げた先に彼女がいるなら、それは全然嫌なことじゃない。嫌なことじゃないなら、それ以上逃げなくてもいい。

「私は月宮はるで、デーモン。デーモンって種族はね、好きな人に対して過保護になっちゃうものなんだよ」
「……うん」
「完璧なんかじゃなくていいんだよ。鷹見くんが逃げたい時は、それでいいの。私のところに逃げてくれれば、私が嫌なことを追い払ってあげるからね。鷹見くんが自信ない時は、私が傍にいてあげる。それが私の、鷹見くんにしてあげたいことだから」
「……」
「ていうか、さ。もしかしたら、鷹見くんは逃げてたわけじゃないかも。おかえりって言ってくれる人が欲しかっただけで」
「それ、は。っ、そう……なのかな」
「ね。ふふ、おかえりー」
「――ただいま」

 はるさんの、まるでいつもそう言ってるような声色が、今の自分にはとても心地いい。
 言葉を返すと、より一層力を込めて抱きしめられる。痛くはなくて、ただ優しさが伝わってきて、身体の底からじんわりと幸せのようなものが浮かび上がってきて。

「今日も勉強がんばった?」
「え――いや、ちょっと、図書館で調べ物したり……」
「そっか。謎はすべてとけた?」
「謎って……そんな大層なものじゃないし、結局わかんなかった……うん」
「うーん、そっかー。でも、調べたいことから逃げずに向き合ったんだよね。えらいえらい」

 ぽんぽんと頭を撫でられて、身体が強張る。めっちゃ気恥ずかしい。今まで味わったことのない感覚だ。
 この話の流れは、詰まるところ……そういうこと、なんだろうか。彼女は自身を過保護って言っていた。そういうつもりなのか。

「昨日はちゃんと眠れた?」
「よく眠れた……寝付き良すぎて、起きた時に昨日のことは全部夢なんじゃないかって思った」
「ふふ、なにそれ。私はここにいますよー」

 今度は背中をぽんぽんと優しく叩かれる。なんだ、このやり取り。さっきからずっと、がつんと頭を殴られたのかってくらい、鼻の奥が痛い。

「これからも、私はここにいるよ。鷹見くんにおかえりって言って、ご飯作ってあげて、一緒に食べながら今日あったことを話して、ね。不束者ですが」
「はるさん」
「うん」
「……はるさんに、逃げていいですか」
「うん。おかえり」
「ただいま」

 彼女を傷つけないようにしながらではあるけれど、彼女へ埋もれるように、全身で抱きしめた。すごく暖かい。暖かいのに、涙と鼻水が止まらなかった。
 とっても幸せで、夢見心地だった。
15/12/22 10:44更新 / 鍵山白煙
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■作者メッセージ
ここまで全部、エロに至るための助走。某サークル様に敬意を込めて。

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