連載小説
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はるさんと俺
 世界で最初に人間が抱いた感情は、孤独への恐怖だと思う。

 ついでに言えば、生まれたばかりの子が最初に抱く感情だって孤独への恐怖だ。生命として誕生して十月十日の間ずっと母親の胎内で守られてたのに、大きくなって始めて母親の胎内から出て。自分はよく覚えていないけど、きっとすごく寂しいことなんじゃないかと思う。
 それからは現代社会の豊かな国だと庇護下に置かれるおかげで、母親の胎内から出たとはいっても自分は孤独じゃないんだと知る。まだ自我ができてない時期でも、本能レベルで。それはすごく安心できることで、赤ちゃんはどんどんワガママになっていける。

 でもいつしか確たる自我ができて、本能じゃなくて自分の頭でしっかり考えるようになることができるようになると、途端に孤独への恐怖が鎌首をもたげるんだ。本当に自分は一人じゃないのか。集団の中での孤独。考えすぎの考え。

「はあ……」

 考えても答えが出ない、ということもなんだか怖い。世界中、怖いことだらけだ。手の届く範囲の触れるものは、きっと怖いものじゃない。自分と同じように、そこにあるものだから。
 でも、思考の無間地獄に囚われてしまうと、途端に恐怖心が湧く。考えても意味が無い、とバッサリ切り捨てることもできない優柔不断な自分に怒りすら湧いてきそうだ。

 現在時刻、午後八時。小さな公園のベンチに座り、何を眺めるでもなくただぼうっとして、いや、現実逃避をしていた。補導されたら、困るけど。普段こうして夜風に当たることがない分、少しだけ大人になった気もして。
 大学受験が一歩ずつ差し迫っていく度に、学校全体から焚きつけるような圧が大きくなっていく。これはたぶん、高校三年生という人種のほとんどが未来への不安に苛立っているからだ。最善を尽くすしか無いとしても、もしも、もしも。そんなことばかり考えてしまう時期だからだ。
 かくいう俺だって、こうして進路に響きそうなスリリングなことをするくらいには、受験勉強に疲れていた。
 ――違う、受験勉強自体は嫌なんじゃない。どこへ行っても襲い掛かってくる、同調圧力に疲れていた。同年代からの"遊んでないで勉強しろ"という圧力。上の世代からの"私の若いころだって努力して勉強を重ねた"という圧力。
 自分じゃわからないけど、今の俺の表情はきっとすごくつまらなさそうなんだろうな。ため息がいくらでも出るし、何より……寂しい。周囲のひたむきな努力から一人だけ置いてけぼりにされた錯覚。疎外感。
 やればできる子なんて言われても、本人がやろうとしなければ、必然的に成績も悪くなる。だって、学業をがんばろうとするに足る燃料だってないんだから。
 そうして夜が更け始めた公園で一人、自己嫌悪するだけしてベンチに座り込んでいた。

「こんばんは」
「――!?」

 不意に横合いからかかる、落ち着いた女性の声。錯覚じゃなく本当に心臓が飛び跳ねた。誰かがこっちの方に歩いてくる音なんて全く聞こえなかったし、こんな時間のこんな奴に声をかけてくるのなんて、アレだ。補導員だ。
 まずい。声をかけられたことを無視しても無駄だし、こんなに近けりゃ逃げ場もない。誰か来た気配がしたら即ダッシュして家に帰る腹積もりだったのに、不意打ちだ。どうしよう。どうしようもない。
 恐る恐る声をかけてきた人の方に顔を向けると、そこには綺麗なおねえさんが立っていた。身長は普通の女性より高いくらいだけど自分よりは低そうで、スタイルがよくて顔も良い、本当に綺麗な女性。同時に、浮世離れした雰囲気も放っていた。赤みがかった長い黒髪とか、端正すぎる顔立ちとか、グラビアモデル形無しの身体とか、出来過ぎた美しさ。ある種悪魔的な。
 彼女のあまりの場違いさにちょっと狼狽える。補導員っていうのは、おばさんとかおじさんがするもの、ってイメージだったのに。こういう人がやるのはなんというか、美人局じゃないだろうか。でも金持ってなさそうな高校生に声掛けて美人局なんてするかな。わからない。やっぱり補導員なんだろうか。

「挨拶」
「あ、え、はい」
「はい、じゃなくて。挨拶されたらちゃんと返さなきゃ」

 彼女の顔を見ながら考えていたら、再度声を掛けられる。容姿だけじゃなくて、声だってなんだか魅惑的だ。惹きつけられるというか、思わず返事したくなるような……カリスマ性、とはまた違う。うまく言葉にできない、彼女から放たれるきらきらしたもの。
 人当たりの良い笑顔を浮かべつつ、くりっと小首を傾げてこちらを見返してくるおねえさん。女の子っぽい仕草なのに、大人の女性がやっても味がある挙動だ。じゃなくて、返事しなきゃいけない、のだろう。

「こんばん、は」
「うん、こんばんは。元気がないね? どうしたのかな」
「……え、っと」

 彼女の口から出てきたのは叱咤ではなく配慮だった。補導員というよりはカウンセラーっぽい話しかけ方だ。少しだけ身を屈ませて目線をこちらに合わせ、瞳を覗き込んでくる。視線が吸い付くみたいに、自分の目も彼女の目を見つめてしまう。瞳を通して内面を全て見透かしてくるような印象を受ける、釣り上がっていながら穏やかな目つき。
 優しそうで、綺麗で、そんな人に元気がないねと心配される。こんな事態は当然ながら生まれて初めての体験で、咄嗟に言葉が出ない。どう言葉にしたものだろうか。なんて言えば伝わるだろう。
 そこまで考えて、そもそもこの悩みって人に聞かせてもいいものなんだろうか、という前提の部分で躓くことに気づいた。周りの受験生は頑張ってるのに俺はいまいち頑張れません、なんて言われたら、じゃあ頑張れ、としか返せないんじゃないか。
 だからといっててきとうにはぐらかすのは気が引ける。第一、この人に嘘を言っても隠し通せなさそうだ。よくわからないけど、そんな気がする。

「言い難い、かな」
「……はい、なんか、すいません」
「謝らなくていいよ。いきなり声かけて驚かせちゃったね」
「――あ、いや、別にそんな」

 有無を言わせない自然な所作で、おねえさんは俺の隣に座った。公園は公共のものなんだから公園のベンチも同じく公共のものだと思うけど、いきなり隣に座られるのもびっくりする。けど、もう座られちゃった以上、突き放すことは失礼な気がしてできない。突き放す理由もないし。
 そうして座ったきり、おねえさんはなにも言おうとしない。ベンチに腰掛ける二人の間に気まずい空気が流れる。たぶん、気まずいと思ってるのは俺だけだと思うけど。だからといって話しかけるネタもないし、おねえさんだって用事はない、はず。恐らく。
 ざあ、と風が流れて公園に植えられた木が揺れる。どうしたらいいんだろうか。帰れる雰囲気だっていうわけでもない。おねえさんから話しかけてくる様子もない。こっちが話す気になるのを待っているんだろう、たぶん。ちらちらとおねえさんを盗み見るが、柔らかに微笑んだまま両目を瞑って夜風を浴びているだけ。
 ――本当に、人間じゃないみたいだ。パッと見た感じは普通に人間だけど、上手く言い表せない根底の何かが、人間じゃないような気がする。ホームレスや不良高校生から公園を守るために生まれてきた公園の妖精、とかなのかな。

「あの」
「んー? なにかな」
「その、お邪魔なら帰りますけど」
「んんん? いやいや、君は邪魔なんかじゃないよ」

 不思議そうな顔で言葉を返される。公園の妖精説、違ったようだ。ただ、押し黙った空気はどうにか払拭出来た。おねえさん側も話す気になったらしく、顔を再度こちらへ向けてきて、胸の前で両手の指を交差させながら謝ってくる。
 ……この人、スタイル良い。おっぱいがでかい。両腕が胸を挟み込んで、その大きさが強調されてる。やべえ。

「むしろ、私が邪魔になったみたいだし。ごめんね、そんなつもりじゃなかったのに」
「――いえ、別に。大丈夫です」
「そう? 君の顔、まったく大丈夫そうじゃなかったよ。声かけたくなる顔してた」
「顔?」
「うんうん、こんなかんじで」
「……なんですか、それ」

 そう言って、おねえさんはへの字に口を曲げて真顔をしてみせた。綺麗な女性がやると変顔もギャップがあって、ちょっと面白い。呆れを多分に含んだ苦笑なんだけど。
 俺の顔が声かけたくなるって思うほどじゃなくなったのか、おねえさんも先程よりも笑みを深める。上から下まで大人でありながらも、ちょっと子どもっぽい笑顔。童顔ってやつか。

「それだよ。仏頂面してないで、笑わなきゃね」
「……おねえさんってカウンセラーとか、そういう系の人なんですか」
「違うよー……ううん、どうなんだろね。似たようなものかもしれないね」
「どっちなんですか……」
「秘密。私、曖昧なんだよねぇ」

 悪戯っぽく唇に指を当てる仕草も、趣きがあって良いな、と思った。このおねえさんの振る舞いのいちいちがやたらと魅了されるもので、魔法使いなのかと思ってしまいそうなくらい。
 でも、おかげで先程まで沈んでた心持ちもいくらか浮上した気はする。なんというか、まともじゃないといえば聞こえは悪いけれど、普通というものとはちょっと違うようなおねえさんの佇まいに安らぎを覚えてしまう。こんな綺麗で女性的な魅力が豊富な人がフレンドリーに接してくれてる、っていう下心も無きにしもあらずだけど。

「ね。きみ、名前はなんていうのかな」
「名前、ですか?」
「うん。あ、こういう時って私の方から教えるべきだっけ。倫理的に」
「さあ……どっちでもいいんじゃないでしょうか」
「普通に考えて、怪しいおねーさんが個人情報パクりに来ただけに見えるもんね。私からさらけ出すのが筋だ」

 おねえさんは一人で納得してうんうんと頷く。というか、自分でも怪しいおねえさんという自覚はあったのか。正当な自己評価をできるのは偉いな。
 こほん、と咳払いを一つして、おねえさんはベンチに座り直して改まる。それに釣られて何故か自分も姿勢を改めてしまうが、なんだろう、お見合いでも始める気なのだろうか。夜の公園で。

「ん、ん。よし。ちゃんと聞いておいてね、少年。私の名前は、……あー」
「あー?」
「ちょ、ちょっとだけ待って」

 喉の調子を整えて大げさに前ふりをしたのに、いざ名前を言う段になって急に尻すぼみになる。さっきまですごく自然体で自信に溢れていたのに。不審に思っておねえさんを見ていても、ストップをかけてからしばらくおねえさんは両手で顔を覆うだけだった。
 この人、変な人なのかもしれない。夜の八時の公園で音もなくいきなり話しかけてくるおねえさんが変な人じゃないわけないというのはわかるが、実感は大切だ。多少変だとしても、こっちに実害がなければなんでもいいけど。
おねえさんは少しの間眉間にしわを寄せながらうんうん唸ったあと、何か閃いたのか、一転して明るい笑顔ですくっと立ち上がった。

「やり直します!きみはそこで座っててね」
「え、はい」

 名乗りのやり方が気に入らなかったのかな。俺の前に立って人差し指をこちらへ向けて、あとで君も名前教えてね、と念押ししてくる。もう片方の手を腰の後ろに当てて、これから演説でもするかのよう。
 このおねえさんの動きがいちいち自然で可愛らしくて、つい目で追ってしまう。……あと、服の下から押し上げているのが丸わかりなおっぱいとか、ほどほどに肉が乗っていて触ったらもちもちしてそうな太ももとか、そういったところにも。人目を引く、というのはこういうことなんだろうなと納得した。下心の方面で。
 おほんおほんと咳払いして喉の調子を整えていたおねえさんが、今度は服や髪を直し始め、それもすぐに終わると、楽しそうに声をかけてくる。

「よし、準備完了ー。ちゃんと見ててね、ね」
「う、ん」

 まるで子どもが覚えたての手品を親に見せる時みたいな言葉遣いだが、これもこのおねえさんの良さ、なんだろうか。見ていて痛々しくは感じない。振る舞いが自然体過ぎて、この人はこういう人なんだ、と強引に納得させられようとしてる、というか。
 この人可愛いな、と思ってる間におねえさんは名乗り口上を始める。片手を夜空に向け、もう一方の腕を身体から離して肩幅を膨らませて、自分の存在をこちらへ存分にアピールしてきて――

「やあやあ、遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ。私の名ははるざえもんでござる」
「ぶっ」
「あー!笑ったなー!」

 本当なんなんだこの人は。
 知らない人がいきなり武士の名乗りをしはじめて、しかも名前に左衛門とか付けた上にござる口調。こんなの笑わないほうがおかしい。意味がわからなさすぎる。時代劇とか好きなのかな。でもぎこちなかったし、ちょっと顔赤かったし、完璧アドリブなのかもしれない。知ってる言葉だけ使ってみました、みたいな。
 すごくおかしいし、わけがわからないけど、でもおねえさん……はるさんは、満足そうに微笑んでいた。

「ふふ……笑ってくれたね。辛気臭い顔してるとモテないぞー」
「いや、そんなの関係ないじゃないですか……ぷ、ふふ」
「関係あるある。そうやって笑ってる君の顔はかわいいよ」
「――……さいですか」

 面と向かってかわいいと言われて、男は何と答えればいいのだろう。ムキになって否定しても受け入れても黙ってても、なんか、全部負けたような気がする。物事は何でも勝ち負けじゃないってわかってるけど、それでもやっぱり悔しい気がする。
 てきとうな返事をして唇を引き結んで、黙ることしかできない。対してはるさんはニコニコと可愛らしい笑顔をこっちに向けてくる。俺なんかより貴方のほうが可愛いです、なんてキザったらしいことは言えない。
 こうしてみると、当然ながら俺は女性への耐性が低い。言い返せないだけなんだけど。中高ずっと男子校の生活で女性と話すことなんて全くと言っていいほど無かった。小学校のころはどうだったっけな。たぶん今よりはアグレッシブだったと思うけれど、それはきっと男女の違いってものがいまいちわかってなかったからだ。色恋沙汰とか無縁だったし浮いた話もなかった、たぶん。覚えてない。
 改めて、目の前に立つはるさんを眺めてみる。魅力的だと、思う。語彙がないからなんて言い表すべきかわからないけど、とにかく魅力的。髪の毛はさらさらしてるし、身体は女性的で出るところはかなり出ているし、少し低めの落ち着いた声も良い。性格はまだよくわかってないけど、茶目っ気があるのはわかった。
 ていうか、今更気づいたけどこの人、ほのかに良い匂いがするような。お菓子みたいに甘いけど胸焼けしない、どきっとする香り。

「あ、えっちな顔してる。ちょっと気が早いんじゃないかなー」
「え、あ、……いや、してません」
「見栄張ってもわかるものはわかるんだよー。取り繕わなくていいから」

 ずい、と元々近い距離で更にもう一歩だけ近づいてきた。はるさんの胸が動きに合わせて揺れたように見えて、はるさんの匂いが少しだけ強まった気がして。情けないけど、自分でも鼻の下は伸びてるってわかってる。はるさんはといえば、そんな俺を見てにこにこ可愛く笑ってるだけだ。

「嫌いじゃないよ、私」
「え?」
「その、えっちな顔ね。笑った顔も好き。私のことを認めてもらってる顔だから」
「――ぇ、はい、そうですね……?」

 えっちだとか、好きだとかを彼女が呟いただけで、俺には威力が強すぎてのけぞってしまいそうになる。できるだけ動じないように振る舞おうとしたけど、はるさんにはお見通しだろう。心なしか笑みも深まったような。
 なんと答えるべきか、なにを言うべきか、頭を必死に働かせている。距離が近いから、はるさんのおっぱいを見たらすぐにバレるだろうし、いやおっぱい見るタイミングじゃないけど、でもはるさんの顔を見るのだって恥ずかしいし、結局あらぬ方向に顔を背けてしまう。
 あ、ていうか、さっきからおっぱいチラ見してたのだってバレてたのかな。そういえば女性は自分への視線に敏感だって聞いたことがあるし、見られれば普通に気づくらしいとも。今更すぎることにふつふつと恥ずかしさが燃えてきて、今すぐにでも逃げ出したくなる。
 でも、逃げ出したいとは思っても、よくわからないけど逃げられない気がする。蛇に睨まれた蛙、ってほど殺伐したものじゃないけど、はるさんの全身から逃がさないオーラが出てる。錯覚、だといい。つーか錯覚じゃなかったら怖い。

「彼女、いないね」
「ぅ、え?」
「たぶん、今までもいたことない」
「それ、は……」
「わかるよー。女の子に耐性が無いですーって顔してるから」

 顔から火が出るって言葉は漫画とか小説とかでしか見たことなかったのに、今はその的確さに感心してる。なんだこれ、さっきから羞恥攻めされてたのか。お前は童貞だと知り合ったばかりの女性に言われるのが、こんなに恥ずかしくてどうしようもないものだとは思わなかった。
 はるさんは会話の主導権を手離すつもりはないらしく、にやにやと意地の悪そうな顔つきを隠そうともしない。

「こうして大人のおねえさんとお話するのも初めて?」
「っ、その……別に、小学生の時とかに」
「高校生くらいだよね。中学校とか高校に女の先生いないんだ」
「中高一貫の、男子校……、なんで、まあ……ですね」
「ふぅーん……なるほどねー、男子校に通ってるから免疫ないんだー」

 得心が行った顔を見せる彼女。はるさんを表現するための言葉に、表情豊かってワードも入るようだ。笑顔、いやらしい顔、納得した顔、変な顔、ころころ変わる。もっと色んな顔を見てみたいな、と思うくらいには興味が湧いた。
 そう、はるさんという人に興味が湧いてるんだ。この世のものとは思えない、今まで見たことがある女性の誰よりも心惹かれる彼女の外見には、もうとっくの昔に心を鷲掴みされている。彼女は徐々にこっちに歩み寄ってきてる。まだ、自分は彼女に悪く思われていない。それならこっちだって、彼女に向かって一歩ずつ踏み出さなきゃいけないはずだ。

「名前」
「うん?」
「えと、まだ名前、名乗ってませんでしたよね」
「あ、そうだそうだ。私が武士風に名乗って、それを君が笑ったせいでお流れになってたね」

 わくわくと期待に満ちた目をしながら、はるさんは俺の隣に腰掛けた。やけに期待されてるような気がする。なんだろうと思いつつ、普通に名乗ろうとして。

「俺の名前、」
「はいストップ」
「え?」

 はるさんの人差し指が、俺の唇に待ったをかける。すべすべでつやつやの肌の細い指が、俺の唇に触れてる。なにがストップなんだ。俺のハートビートの加速がノンストップなんだけど。
 困惑した俺に対して、はるさんはぷりぷり怒りながら俺の肩を掴んで立たせようとしてくる。なんか意外に力強い。腕細いのに。

「違うでしょ。武士は名乗られたら名乗り返さないと」
「え、あれ続けるの」
「私は誤魔化されない女だからねー」

 俺にもあのクソ恥ずかしい名乗りをしろ、というのか。無理だ、と拒否できればよかったんだけど、彼女に肩を掴まれるのにもどきりとして逆らえなくて、されるがままにベンチの前に立たされる。
 はるさんのわくわくきらきらした視線が辛い。なんで夜の公園でこんなことさせられようとしてるんだろう。嫌だなんてのは一ミリも言えない雰囲気だ。なんて言うんだっけ。できるだけ先延ばしにするために、普段しない咳払いとか喉の調子とか整えてしまう。ああこれ、さっきのはるさんも似たような心境だったのかな。やらなきゃいいのに。
 髪とか直して、服の皺とかも直して、無駄に声整えたりして、そうしてる間にもはるさんはにこにこわくわくきらきら。見下ろす視点でのはるさんもまた、なんかすごく良い。なんて言ったらいいのかわからないけど、良い。そうじゃなくて、名乗り。名乗りだ。

「ん、ん、……よし。よし」
「準備出来たかなー」
「すぅー、はぁー……はい、えと、いきます」
「それでは五秒前ー」
「は……ちょっ」

 え、ちょっとまってそんなカウントダウンとか聞いてない。五、四、と一秒ずつカウントダウンする、悪戯成功した子どもの顔が可愛くて憎たらしい。やばい、落ち着いて落ち着いて。なんでこんな真面目になってんだろう。

「三、二、……、ん!」
「やあやあ!遠いものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ!わたっ、私の名前は鷹見ゆうきのすけと申す!」
「はいオッケー!ぱちぱちぱちー」

 途中までは普通にできてて、あれ余裕じゃん、と気が緩んだところで噛んでしまった。無理やり押し通したが、オッケーと言われて途端にめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。顔面を両手で隠しながらベンチに座り項垂れる。本当公園で何やってんだろう。夜だぞ。ばかなのかな。
 死にたくなってる俺とは裏腹に、はるさんはすごくご満悦そうに何回も名前を呼んでくる。

「ゆうきのすけ!ゆうきのすけねー、ゆうきのすけかー」
「……あの、マジ勘弁してください。下はゆうきだけです」
「じゃあさ、私もはるざえもんって呼んでよー」
「交換のつもりですかそれ」

 ちら、と横目ではるさんの方を見る。この短い時間の中で一番ってくらい満面の笑みをしてて、ふんすと満足そうな鼻息までしてる。
 恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、でも楽しい。こんな時間は、嫌いじゃない。友達とじゃれる感じ。バカなことして、バカみたいなことで笑って。たぶん俺の顔も、ここしばらくはなかったってくらい満足気に笑ってると思う。

「俺」
「うん? はい、なにかな」
「俺、受験生なんですけど。高校三年生で、ずっと勉強か休んでるかみたいな感じで」
「おお、えらいね」
「えらいんですけど、今ようやく気づいたっていうか。しばらく友達とこうして遊んでなかったなって」
「それはダメだよー、ちゃんと息抜きしなきゃ」
「そう、ですね。……うん、そうだったんだと思う」

 実感する。勉強勉強勉強で、友達と遊ぶなんてことはしてなかった。みんな受験勉強に必死になってて、遊びに誘うって雰囲気でもないからだし、自分もその雰囲気に呑まれて遊ぶことを忘れていた。

 はあ、と深い深いため息が出る。体の底から、毒が抜けていく心持ち。受験勉強に追いつめられてて、逃げ場なんてなくて、一人ぼっちで立ち向かわなきゃいけないのかな、なんて悲観的になってた。
 他の奴らはどうなんだろう。きっとみんな、俺よりも上手い生き方を知ってる。息抜きの方法だって、受験勉強に忙しい他人を巻き込まずに上手くやってるんだろう。一人で遊べるの以外だって、例えば恋人と遊んだりとか。なのに俺は息抜きという言葉を忘れて流されるままの勉強をしていた。だからこんな、補導されそうなスリルなんて破滅的な息抜きに出てしまったのかな。

 ――恋、恋か。そういえば男子校に入ってから、そんなものはホモって噂のや
つしか聞いてないな。小学校でも、たぶんまともな恋愛感情じゃなかった。他の奴らがしてるからーって、今思うと女の子をたぶらかしたりとかしたかも。
 今の時代は予備校とか塾とか習い事とか、そういうのだって女の子と出会える。俺の周りでも、公言はしてないけど女の子と交際してるやつらはいたと思う。そいつらは、一人ぼっちじゃないんだ。羨ましい、素直にそう思う。
 俺にも、できるのかな。挑戦してみるのは悪くないことだと思う。補導されるスリルより、芽生え始めた恋心を育てる方が健全だろうし。

「それでさ、鷹見くん」
「はい?」
「詮索するようで悪いけど、なんでここで黄昏れてたのかな。家出とか?」
「ああ……。違います、家出じゃないです。家には俺一人だし」
「っ……お父さんお母さん、は?」
「離婚して、父さんと二人暮らしです。でも父さんはなかなか家に帰ってこないし、月に数回しか顔も合わせないし。気持ち、一人暮らしですね」
「ごめんっ、無責任に探るようなこと」
「いいっすよ別に、はるさんに悪気ないのわかってますから」

 本当に気にしてなかった。他の人からしたら大きなことだろうけど、自分にはもう当たり前のことで、こう言われたり思われたりすることだって慣れっこだった。だから、そんな大げさになる必要はないよ、とはるさんを止める。
 ぺこぺこと頭を下げて謝ってくるはるさんを制止した際に、彼女の顔を伺う。バツが悪そうな、はるさんの戸惑う表情。これもまた可愛いな。自分よりも明らかに年上の女性に対してそう思うのは失礼かもしれないけど、可愛いのは可愛い。
 俺はもう、すっかりはるさんのことを好ましく思っている。よくある言説だけど、童貞は惚れやすいらしい。むべなるかな。こんな綺麗な女性に親身になってもらって、好きにならない童貞はいないんじゃないか。
 実際もうはるさんとも友達みたいな関係ではあるだろう。俺だけ先走ってはるさんのことが気になってるだけ。いきなり告白とかはしないけど、でも、はるさんのことは好きだ。これが恋心ってやつなのかは、いまいち確信を持てないところだけど。何しろそういった経験がないから。
 ごくり、とはるさんの喉が動くのが見えた。はるさんに視線を戻してみると、なんかシリアスな表情になってる。決心がついた顔。こんな顔も綺麗だな、こればっかり考えてんな俺、とぼけっとしていたら、

「今日もお父さんは帰らないんだよね」
「ん、あー、まあ……しばらくは帰らないとか言ってた、ような」
「じゃあ行こっか」
「えっ?」
「鷹見くんのお家に。家庭事情聞いちゃったんだから、手助けくらいしなきゃ」
「……は?え?」

 はるさんが俺の両手を取って、さっきみたいに無理やり立たされる。慌てて鞄拾って、はるさんが顔を近づけてきて、

「案内して、鷹見くんのお家。ご飯は食べた?」
「ぇ、えっと、学校から帰ってすぐにちょっとお腹に入れてそれから勉強して、ここに来て……なんで、まだ食べてないってことになる……のかな」
「やっぱり。じゃあ、台所借りる。あ、でも冷蔵庫の中身ってちゃんとある?」
「ど、どうだったっけ……一応、俺がてきとうな料理するだけなら三食分はあるかもですけど」
「男料理ってやつかな。今日は私が料理してあげるから」
「え?」

 有無を言わせぬ迫力。はるさん、こうと決めたら突っ走っていく癖もあるのか。背後に回ってどすどすと俺の背中を押してきて、案内しろって。何が何やらわからぬまま、状況に押し流されるまま、俺は女性を連れて家に帰ることになった。

 ……たぶん、はるさんからしたら、俺は放っておけない弟ポジションなんだろな。大人の女性と大人になりそうな子どもが恋するなんてことはないのかもしれない。
 はるさんはただお節介焼きなだけで、困ってそうな人が放っておけなくて、はるさんの手の届く範囲にいた俺が勘違いして彼女のことを好きになってる。そういうことなのかも。

 勘違いなのかな。はるさんは優しくて綺麗で笑顔が素敵で、茶目っ気があって親しみやすくて、そういう人柄に一目惚れしたのは、一時の迷いって言葉の範疇に入るのかな。







 家まで案内するその間に、はるさんからいろいろなことを聞かれた。学校のこと、クラスのこと、勉強のこと、趣味や得意なことや、俺を丸裸にするつもりの質問攻めだった。カウンセラーにはプロファイリングも大切、ってことかな。
 けど、はるさんに問い返しても取り合ってはくれなかった。曰く、女性は秘密があるから魅力的なんだよ、と。たしかにはるさんは魅力的だけれど、その逃げ方はずるいよ、と言いたくて言えなかった。
 そうしてずっと敬語で話してたけど、はるさんにはそれがどうもむず痒く感じるらしく、友だちと話す風でいいよ、と言ってくれた。友だち。友だちから、進展はするのだろうか。俺は、しばらく敬語が抜けないだろうな。
 彼女との話題は、流れで俺の住む家のことへと移っていた。

「マンションなんだ。ワンルーム?」
「洋室が二部屋あって、俺と父さんで一部屋ずつ寝室にしてる。2LDK、ってやつ。たぶん」
「へー……お高いタイプのマンションなのかな」
「うーん……比較したことないからわからないけど。でも、父さんはそこそこ偉い人なんだと思う」

 偉い人で、だから家になかなか帰ってこれなくて、なのにやたらと俺を気遣ってくれる。本来は夫婦で育てるべきで、しかも親子で接する機会が少ないから、その分俺の為を思ってくれてるんだろう。尊敬できる人、なのは確かだ。少なからず思うところはある。
 マンションの玄関口を通って、エレベータへ。待機してた箱の扉が開き、はるさんも入るのを待ってから閉ボタンを押す。なめらかに上昇していく。もうこの時点で家に戻ってきたな、って感じがする。

「ゆうきのすけ殿」
「……無視していいッスか」
「すねないでってば。鷹見くんは、今食べたいものとかある?」
「え……うーん」

 食べたいもの。といっても家にある材料じゃそんな幅広いものは作れないと思うけど、冷蔵庫にあるもので何が作れそうだろう。三日前くらいにスーパーに行って買ってきたものを思い返してみる。

 ……そうだ。アレは作れると思う。

「生姜焼き」
「ん?」
「豚の生姜焼き、食べたい。好物、なんですけど」
「ふむふむ、男の子の好きそうな料理だ。ふふ、じゃあ期待しててね」

 はるさんは料理は得意なんだそうだ。レシピ通りに作るだけだけどね、とも。自分も料理はネットで転がってるレシピに従って作るだけで、それだけなのにまずくなったりはしない。だから、彼女のその謙遜は逆に安心する。彼女は所謂メシマズ嫁にはならないはずだ。
 嫁、か。あ、ていうか俺は片思い相手の女性を家に連れ込んでいるところなのか。そう思い始めると、途端にはるさんの顔が見れなくなってくる。頬が熱くなってる。今更気づいても、本当遅すぎる。
 はるさんの強引なプッシュのせいでそうなったわけだけど、拒否もできたはず。できなかったのは、はるさんの決心した顔に押し切られたからだ。はるさんがメシマズ嫁じゃないとしたら、俺の方は尻に敷かれる夫か。さすがにキモいかな、この想像。

 エレベータのドアが開き、五階に到着する。ここまで来てナシってのは無理だろう。諦観しながらはるさんを引き連れて自分の家まで向かい、鍵を取り出す。スムーズに鍵穴に鍵を入れて、ガチャリといい音立てながらロックが解除される。
 手慣れた手つきでドアを開け、いつものように暗い玄関口で靴を脱ぎ――

「お邪魔しまーす。暗っ、電気つけて電気」
「あ……」

 そっか。勝手知ったる我が家だと、当たり前のように玄関の電気を付けなかったけど、はるさんは初めて上がる他人の家だ。配慮が足りなかったというか、想像ができなかった。
 慌てて下駄箱の隣にあるスイッチを押し、玄関と廊下がぱっと明るくなっていく。ちょっと眩しい。

「ね、鷹見くん。初めて人の家に来た時って、いろいろ部屋見て回ったりしたくならない?」
「なるかも。自分の家とどう違うのか見てみたり」
「そうそう。お風呂とかおトイレとかね」

 はるさんと知り合って一日と経っていないけど、この人はずっと楽しそうだった。何してる人なのかなとか、なんで手ぶらで夜の公園に来て、しかも見ず知らずの高校生に料理を振る舞おうとしてるのかなとか、気になることは多い。でも、彼女が楽しそうにしてる今の間は、まだ訊かなくていいかな。


 ――久しく、本当に久しく、俺はダイニングルームの机の前に座ったまま、料理を待つっていうことをした。自分が普段使ってる黒いエプロンを、今ははるさんが付けて料理してる。彼女の言に嘘はなかったようで、手慣れた仕草で着々と料理をしてくれている。
 食器を出したり物を置いてる場所を教えたり、そういうお手伝いくらいはさすがにしてあげないとダメだったけど、それ以外は全部はるさんに任せた。机の上に肘をつきながらテレビを見て、実際は横目でチラチラはるさんの方を見ていた。エプロンつけてる姿一つでも、彼女が行えば様になる。

「よし!できたよーっ。鷹見くん、ご飯よそっちゃって」
「はーい」

 一時間たっぷりくらいか。慣れないキッチンでする料理だから、二人分のご飯に時間がかかっても仕方ない。自分ははるさんを眺めてたから、そんな時間かかった感じはしなかった。なんかミスったらすぐフォローしにいけるようにって建前で、実際ははるさんの料理してる様子がこれまた綺麗で見惚れてたわけなんですけどね。
 豚の生姜焼き。オーソドックスな日本料理って風情で、自分は好きだ。たぶんこの辺の認識は地方でも違うと思うけど、関東で生まれ育った自分には親しみ深い料理。……お母さんが作ってくれた数少ない料理で、覚えている中で一番好きだったっていうのもあるかもしれないけど。
 はるさんが両手にお皿を持ってテーブルの上に運ぶのを横目に、ささっとお椀にお米をよそう。無洗米だけど、自分じゃなくてはるさんが炊いてくれたお米。厳密には同じなんだろう。でも、普段自分が炊く白米とは違うような気がした。

「お箸、どれ使っていいのかな」
「えー……っと。来客用のお箸あったかな」

 テーブルからはるさんのちょっと困った声を聞いて、またも配慮が足らなかったことに気づいた。舞い上がってると言われれば否定できない。好きになったばかりの人がいきなり家に来てるって状況、しかもご飯を作ってくれたっていう状況に、心躍らせない奴は居ない。たぶん。
 スプーンやフォークを入れている戸棚を開き、ぜんぜん使ってない綺麗なお箸を発見する。それを掴んで、お椀と一緒に持っていく。

「はい。無地のお箸だけど」
「ありがとー。ふふ、私専用のお箸が欲しくなるね」
「え――」

 はるさんは意地悪な笑いをしていた。ニヤニヤって笑い。でも、この人がやるとこれも可愛くて、やられっぱなしになる。

「……バカなこと言ってないで、冷める前に食べないと」
「ごめんって。鷹見くんの反応が面白くてつい、ね」
「いただきます」
「召し上がれー。私も、いただきます」

 しばらく前から、良い匂いがしていた。豚の生姜焼きの発する、お腹が空く匂い。食欲を刺激してくる香り。はるさんがお皿を運んでる時に、ようやく自分のお腹がぺこぺこなのを自覚した。だからなのか、豚の生姜焼きを口に含んでからははるさんの目を気にできなくなった。
 好きな人の前だぞ、ってのはわかってる。でも、生姜焼きと白米を交互に口に運んでは咀嚼する、食べるっていう行動が止まらない。

「美味しい?」

 訊かなくてもわかってるくせに。さっきのニヤニヤした笑いじゃなくて、にこにこした笑顔。はるさんとの短い接触の中でわかったけど、この笑顔はきっと彼女で一番に綺麗な表情だ。それを見て、ちゃんと返事しないと、って考えて。がつがつ動いてた箸を唐突に止めて、咀嚼を急いで。
 訊かなくてもわかってるんだろう。でも、彼女は俺の口からそれを聴きたいんだと思う。だから、こう言わなくちゃいけない。

「美味しい」

 料理してくれた人を喜ばせる言葉は、能書きを長くする必要はない。ただシンプルにストレートに、味わったということを伝えるだけでいい、らしい。
 俺の返答に、はるさんはほにゃっと緩んだ笑顔を見せてくれた。

「よかった」
「――っ」

 可愛い。
 上機嫌にこっちを眺めてくる、はるさんのにこにこした笑顔は一番綺麗だと思う。
 でも、このふわふわ、ゆるゆるな笑顔。どうやってこんな笑顔ができるのかよくわからないけど、とにかく、彼女が見せる表情で一番可愛いんじゃないかって思える笑顔。
 咄嗟に目を逸らして、誤魔化すように再び箸を動かし始める。こうでもしなきゃ、彼女の一番可愛いであろう笑顔を見られた喜びで、ニヤけてしまいそうだった。







 今この時間だけは、同年代で一番幸せなのは俺なのかもしれない。ていうか俺だ。
 他の奴らは勉強勉強と必死になっている。でも、俺は幸せだ。はるさんと知りあえて、はるさんとお互いに仲良くなって、はるさんの手料理をご馳走になった。
 ――はるさんの、綺麗な笑顔も可愛い笑顔も知ることができた。満足だ。

「お皿、あとはもう食洗機に放り込んじゃってください」
「はいはい。便利だよねぇ、これ」
「っすね」

 一緒にお皿を洗って、これで終わりだ。
 このあとははるさんを帰して、風呂入って、夜中まで自習して、寝るだけ。
 息抜き、めっちゃくちゃ重要。今日から一ヶ月はがんばれそうってくらい、はるさんから元気を貰えた気がする。元気がなくなったとしても、はるさんの笑顔を思い出せば、きっとなんとかなると思う。俺、今めっちゃ青春してる。
 ちゃんと、お礼言わないとな。

「はるさん」
「ん?」
「今日、ありがとうございました」
「元気でた?」
「はい。その、なんつーか。最初、はるさんを見た時、人間じゃないみたいな人だなって思っちゃって」
「――……」

 背後にいる、タオルで手を拭いてるらしいはるさんの動きが止まる。さすがにわざわざ言うことでもなかったかもしれない。失礼だったかも。
 パパっと食洗機の操作をして、もう既にはるさんの方を向いたっていいんだけど、気恥ずかしくて彼女の顔を見れない。それなら気恥ずかしいことを今のうちに言おう。このしゃがんだ状態なら、覗き込もうとしなきゃこっちの照れた顔は見れないだろうし。

「ごめんなさい、化け物とかそういうんじゃなくて。えーっと、アレです。人間離れした雰囲気、みたいな」
「……ふーん?」
「あの、アレっすよ。それくらい、綺麗だった、です」
「……」

 はるさんから返事はない。絶対こっち見てる。恥ずかしくて、ちょっと怖くて、どうすればいいか頭をフル回転させてる。逃げる?いや、自分の家だし、失礼すぎる。
 きっと、この距離がベスト。顔を見てなければなんでも伝えられるって勇気が湧く。

「俺がなんで、あそこで黄昏れてたかって、気になってましたよね」
「……うん」
「恥ずかしくて、あの場だと言えなかったんですけど」

 今も恥ずかしい。でも、今日別れる前には話したかった。彼女が気になったことなら、はぐらかしたままでいたくない。
 幻滅されてもいい。彼女が全部秘密にするなら、俺は全部伝えていこう。彼女にできるせめてものお礼は、俺にはこれくらいしかない。

「受験勉強には、それほど嫌気は差してなくて。昔から問題解くのは楽しかったから、テストだけはがんばる癖がついちゃって」
「そうなんだ」
「楽しいんです。模試だって、結果が返ってくるのが楽しみだし。だけど、周囲はそうじゃない。みんなピリピリして、ストレス溜まってて、俺の知ってる学校じゃないみたいで」

 はるさんは適度に相槌を打って、背中を向けたままの俺の話を聞いてくれている。礼節的には面と向かい合って言うべき、なのはそうだろう。そうしたほうがいいのはわかってる。
 心配されて、ご飯作ってもらって、話聞いてもらってる立場でそんなものあるのかわからないけど、でも顔を見せたくないのはプライドの問題だ。好きな人の前だから、少しでもかっこつけたいんだ。語れるほどの背中じゃないけど、それでもだ。話す内容は情けないのには目をつぶる。

「友だちとも遊べなくなっていって、誘うことができる雰囲気じゃないんですよ。遊ぼうって言っても、勉強しろよって返されるだけなんじゃないかって気がして」
「……」
「それで、まあ、うん……うん、寂しかった、のかな。ほら、俺、家帰っても一人じゃないですか。予備校行ってはいますけど、真面目なところだから友だちと話しちゃいけないルールとかあって。だから――」
「寂しかったんだ」
「……ですね」

 話していてようやくわかった。アレはスリルが主目的じゃなかった。
 寂しかったから、補導されそうな真似して。スリルもあったけど、補導員さんは年配の人がしてることが多いって聞いたことがあるから、きっと俺のことも親身になって叱ってくれる。なんでこんな時間にこんな場所で、って聞いてくれる。俺はそれを話したかった、誰にでもいいから話したかったんだ。
 でも、現れたのは――

「私はね、鷹見くん」
「……?」
「人間じゃないよ」

 ――――。
 思考の空白。
 言っている意味がわからなかった。
 でも、すぐに意味が分かった。

 現れたのは。

「悪魔なんだ」

 いつの間にか、自分は振り向いていた。そこに居た者をよくよく観察していた。
 青みがかった肌。赤黒い角。蝙蝠の羽を数段凶悪にしたような翼。先の尖った、でもちょっと柔らかそうな黒い尻尾。赤い眼に、白目の部分が黒く染まってて。
 人間離れした出で立ちは上位者の様相を示していて、凡人には決して逆らえない圧倒的な格の違いがあって。
 彼女は限りなく魔物娘だった。

「人間に化けることができて、人目に付かず決してバレることなく、人間たちの生活を見守ってる」
「……う、あ」

 そうして、素のままの彼女は特別に魅力的だった。

「鷹見くんが本当のことを言ってくれたから、私も本当のことを教えようって思った」
「……」
「……うん、君の前では綺麗で優しいだけの怪しいおねえさんでいるべきだったかもしれないね」
「そ、れは」
「でもね。でも、私は悪魔。上級悪魔で、人を堕落させる"デーモン"って種族。デーモンに溺れさせて、何もできなくさせて、そういう人の姿に一番悦びを覚える種族」

 キッチンカウンターの前でしゃがんだまま身動きが取れない。はるさんはそんな俺を、ちょっと困った顔のまま見下ろしている。肌の色とか目の色とか、本当に人間じゃなくなったはるさん。

「初めて見かけた君は、すごく退廃的で、魅力的だった。君は頑張っていて、頑張っていたからこそ堕落しそうになっていて、私はそんな君が素敵だと思った」

 でも、その困ったようで悲しそうな顔は、やっぱりはるさんの顔だ。

「デーモンは、信頼を大事にする。君が私を信頼してくれたから、私は一番大事な秘密を教えないといけなかったんだ」

 俺はいま、どういう顔をしているんだろう。
 たぶん、はるさんを困らせたり悲しませたりしてしまう表情になってる。

「ごめんね。騙してたんだ」
「――っ!」

 胸がぎゅっと苦しくなる。
 はるさんは、優しくて綺麗で笑顔が素敵で、茶目っ気があって親しみやすくて。
 料理が得意で、それから、それから……。

「デーモンの体質でね、気になった人に自分への距離を急速に縮めさせる、所謂チャーミングができるんだけど。声をかけた時からずっと、それを使ってたんだ」
「……そんなこと、」
「そんなことない、わけないよ。私は君がほっとけなくて、君に無理やり私を気に入らせてたんだ」

 ああ、嘘がつけないんだ。彼女は誠実で、義理堅い。
 困惑と混乱した自分の脳裏のどこか冷静な俺が、かっこいい人だなぁ、と呟いた。

「今は、もう……チャーミングはしてない。濃度を調節して少しずつ惚れさせていくのが本来のやり方なんだけど、私は最初から濃密にやってた。今はスイッチをオフにするみたいに、チャーミングしてない」

 彼女がきらきら輝いているように見えていたのは、本当にそういう魔法のようなことをされていたから、だったんだ。
 はるさんの瞳が、揺れている。視界の端で、はるさんの両手が弱々しく握られたのが見えた。

「ごめんね。私は君の力になりたくて、理由が訊けないままだったからこそ君にご飯を作ってあげて」
「っ、あ……」
「美味しいって言ってくれた時、すごく嬉しかった。だって、ご飯の味にはチャーミングかけれないし。まあ、そういう感じだから」

 何が。まあ、そういう感じだから、ってどういう意味だ。まるで、そう、今生の別れになるとでも言いたげだ。
 俺は何をやってるんだ。声も出せなくて、座ったままで、悲しそうなはるさんに声一つかけることもできてない。

「今日はね、私も楽しかったよ。今度レンタルビデオの店で時代劇のやつ借りようかな、なんてね。ふふ」

 彼女は人を思いやることができる。俺を思いやった結果、こうして空元気を出してるんじゃないか。公園の時のはるさんの声は、今よりももっともっと活き活きしてた。
 はるさんの尻尾が、行き場を失ってゆらゆら揺れている。罪悪感。彼女が今一番感じているものは、罪悪感に他ならない。いくら俺が女性経験ないとしても、それは容易に察せた。
 考えろ、バカ野郎。俺は今何をすべきなんだ。はるさんに、なんて声をかけてやればいいんだ。どうすれば、はるさんはまた笑ってくれるんだ。悲しい顔は見たくない。
 はるさんには、ずっと笑っててほしい。

「……はる、さん」

 震えた声で、ようやく彼女の名前を呼べた。彼女は首をちょっと動かし、うん、と一つ頷いた。何を言われてもいい、そういう表情。はるさんは感情が顔に出やすいんだ。俺でも機微を察せるくらい、表情が豊か。
 でも、違う。俺ははるさんに酷いことなんて言わない。言えるわけがない。
 俺が言いたいのは、今ここで言うべきなのは。まだ思いつかない、考えろ。

「はるさん」
「うん」

 今度は震えずに、しっかりした声で言えた。場を繋ぐだけの行動だったけど、思ったよりも勇気が湧いた。座ったままじゃダメだ、っていうことにも気づいた。
 ゆっくり立ち上がって、その間にもはるさんは何も言わない。彼女の瞳は先程よりも潤いを増していて、微笑んではいるけど、唇も少し震えてる。

 そんな顔をしないでほしい。違う。
 泣かないでください。違う。
 笑ってください。違うんだ、そうじゃない。
 今伝えるべきこと、シンプルに、ストレートにはるさんに訴えかける言葉。


「俺と付き合ってください」
「――」

 純粋に、好意を。

「はるさんのことが好きです。優しくて綺麗で笑顔が素敵で、茶目っ気があって親しみやすくて」

 シンプルに、ストレートに、思ったことを。

 はるさんの青い両手を握って、はるさんの瞳孔が開いた両目をまっすぐ見つめて、真正面から思いの丈を伝える。

「はるさんが人間じゃなくても、はるさんは俺が惚れた女性です」
「私は、君をっ……騙して……」
「騙されてなんか、なかったです」

 はるさんは泣くのを堪えた顔で、俺を見上げる。身長差はそんなにないはずだから、実際は見つめる程度なんだろうけど、でも。
 はるさんは、少女のようにか細くて、少女のように表情豊かだ。外見とか種族とか、関係無かった。

「俺は、君のことが好きなんだ」
「…………っ!」

 限界らしかった。
 はるさんは肩を震わせて、俯いて、嗚咽を漏らす。こういう時、どうすればいいのか。もう答えは得ていた。シンプルにストレートに。
 はるさんの両手を離して、柔く抱きしめてあげる。背中をさすってあげて、肩口が濡れていく感触を覚えながら、自分よりも小さい身体ではあるんだな、とのんきなことを考えていた。

「ぐす、ひぐ……うぅっ……わた、私、デーモンなのにっ……」
「関係ないって。はるさんは、はるさん」

 おずおずと、こちらの背中に両手を回される。不安だったんだ。
 こっちの背中を捉えると、はるさんの両手にぐっと力が篭って服を掴んできた。これは、たぶん嬉しいのかな。どうなんだろう。
 まだ、はるさんのことをよくわかっていない。それは逆でも言えることで、だからはるさんは俺に嫌われると思ってたんだ。
 出会って一日も経ってないんだから、お互いのことを知らないのだって当然だ。

 ……でも。

「鷹見、くん」

 少し落ち着いた声が耳元に聞こえる。囁くような声で、しっかりと意思が感じられて。決心がついた声、迫力のある声だ。俺に詮索したことを悔やんで、手料理を振る舞うって言ってきた時の声。


「私も、鷹見くんのことが好き」


 ――でも、お互いのことを知らないなら、これから知っていけばいい。
 順番は違うけど、これからどうなっていくのかなんてわからないけど。
 彼女の優しさ、笑顔、茶目っ気、誠実さ、不器用なところ。

 全部まとめて、はるさん自身の魅力なんだ。

 そう思うとすごく安心した。
 人に嫌われるのならまだしも、人を嫌いになってしまうことは、自分から孤独になっていくということ。

 ――だけど、君が来てくれたなら、孤独になることはないんだ。
15/12/11 02:07更新 / 鍵山白煙
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