連載小説
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第一話 「霧」
真夜中である。
社会人として毎日を多忙の日々を過ごしている岩瀬隆は、自宅の洗面台の前に立ち目の前にある鏡に映る自分の姿をぼんやりと見つめていた。この前取り換えたばかりの豆電球は、彼を蔑むように照らしている。真夜中に洗面台に立っているのは、決して歯を磨くためではない。
隆の顔はどこか白く映り表情もどことなく暗かった。それは何か大きな深刻な問題を背負っているように見える。

『あいまいな眠りの中で夢見るあの日々、いつかまたあの日々を一緒に過ごそうと約束しておきながら、私のせいでその願いはかなわなかった。
 私はそこに一人で佇み、二人で約束と契をかわしあったあの思い出の場所でずっとあなたのことを待っている。
 一之瀬綾香より』

一之瀬綾香、それは私の妻の名前だ。彼女は人間ではなくサキュバスと呼ばれる魔物の一種だそうだ。妻はもう4年前にもうこの世からすでに旅立ってしまった。4年前、妻は重い病を患い、そのまま回復する兆しも無くあっけなく体が冷たくなっていった。私は妻が病で苦しんでいるのに何一つ彼女にしてやれず、ただ妻が病に苦しむ姿を指をくわえて見守っているしかなかった。弱弱しく私を気遣い励ましてくれる彼女の言葉と姿はとても目に痛々しかった。
彼女は普通のサキュバスと違い、どこかおとなしく男女ともに親しい友人はほとんどおらず社交的でなかった。サキュバスは所謂肉食肌(積極的)の者が多いと聞くが、彼女はまるで遠くの方で小さく群れる臆病な子羊のようだった。それが私には珍しく彼女に大きく興味を持ったきっかけなのかもしれない。彼女は表立って自分の意思を表さないため、ときどき何を考えているのかよく分からなかった。(日常会話なんて彼女が食いつくような話をするのを考えるのに必死だった)裸を見せ合うような深い関係へとなり、体を交わる時の彼女は、異常なほど私に対する執着心の塊でとにかく激しく、私のことを好きと言ってやまなかった。(その時の彼女の表情は今までに見せたことのない、非常に扇情的で激しく求めてしまいたくなるような、とにかく私はあの時彼女はやはりサキュバスという魔物なんだなと強くうれしく感じてしまった、言葉になんて言い表せないほどだ)
妻が死んだ時、生きることがこんなにも永遠と地獄のように続く苦痛なのだと初めて感じた。自分の心の中に何か大きな穴がぽっかりと開いて、その中はどこを見渡しても暗くて冷たくて底が存在しない深い闇の中が広がっていた。そこには一体何があったのだろうか?分からない。
 この手紙の主は一之瀬綾香、綾香もう4年も前に死んでいる。誰なのか、私宛てにこんなふざけたいたずらの手紙を送った主は、死んだ者が手紙なんて書けるはずない。
一体誰が、何のために?
ただの悪戯の手紙と思えど、私は妙な胸騒ぎがした。もし本当にこの手紙の送り主が綾香なのだとしたら、私は逢いたい綾香に。綾香とまた一緒に楽しく毎日を過ごしたい。そして何一つしてやれなかった自分にその償いをさせて欲しいと許しを請いたいと強く願う。

そして私は車を走らせこの思い出の場所、静丘町を訪れようとしている。静丘町は私と綾香が住んでいた思い出深い町。鮮やかな緑の森に包まれたどこか神聖さが溢れるようなどこにでもある小さな郊外の田舎町で観光地のスポットが多い地域だ。
「どういうことなんだ、こんな霧は町にあったか?」
車を走らせ何時間経ったか分からない、道路の両脇にはさっきまで民家が存在したのに何故か今の状態は、薄いミルクのような濃い霧が車に覆い被さるように車の周囲は何も見渡すことができない。終わりのないトンネルを走っているような気分である。とても気味が悪い。
隆はまんべんなく周囲に、目を凝らしながら車を走らせる、しかし霧は一向に晴れない。霧は隆の車を自分の体の一部に取り込むかのように、さらに霧は濃くなっていく。
本当に静丘町に近づいているのだろうか、全く標識が見えてこない。走らせるごとに隆の心にはある種の不安が募っていく。
隆はアクセルを強く踏む、そうすると当時に体が前へと強く倒される。ハンドルを握る手に力が入り手が汗で滲んでいる、一刻も早くこんな不気味な状況から逃げ出したかった。
突然、車のラジオがザーザーと耳障りなノイズの音を立て始めた。元々自宅からここまで車を走らせるまでに、隆はラジオに手を付けた覚えはない。この車の中は外の周囲の音以外無音の状態だ。その音は隆の耳を突き刺すような音を立てとても激しかった。
「なんなんだ…これは一体どういうことなんだ?」
隆は座席にピタリと体をくっ付けさせ、自身の周囲を見渡す。隣の助手席にもバックミラー越しから見える背後の後部座席にも何もいない。
とうとうカーナビまでもおかしくなる、地図と時間が映し出されている画面はいきなり灰色だらけのノイズへと、いつの間にか変わっている。これはただ事ではないと隆の直感が鋭く働く。
隆は、ラジオのスイッチを強く押してラジオの電源を消そうとする、だがしかし隆がスイッチを押しても一向に消えず、逆にどんどんラジオの不快なノイズ音は大きくなっていく。
「ふざけるな!?どういうことだこれは?」
隆は焦りと苛立ちのあまり声を荒げる。言い表すことのできない恐怖心が自分の内側からこみあげてくる、その恐怖心を必死に外に逃がそうと声をあげて自制を保とうとする。
だがしかしその行為は逆効果であった。
スイッチを何度も何度も乱暴に押し続ける。しかしそれでもノイズは消えず、それが当たり前のように変わらずノイズ音は鳴り続けている。ノイズの中から不気味な声が聞こえ始める。
―何故だ、何故否定しようとする自身の罪を。
その声は重く蔑むような声、隆はどこかで聞いたことのある気がした。
「…罪?なんのことだ?何の?」
隆の頭の中に一瞬だけほんの一瞬だけある情景がフラッシュバックする。だが、隆の本心はそれを鮮明に思い出すことを必死に拒む。
罪…そんなの…私はそんなことはしていない!!罪なんて知らない!!
車のヘッドライトの光の中に、不意に人の形をした何かが突然入ってくる。
誰だ?綾香か?それとも…
ブレーキなんて踏んでも避けれるはずがない、そのまま車のハンドルを切ったものの車の制御は失われ隆の視界は反転する。
「うわああぁぁぁぁ」
何かが激しくぶつかった音を立て、車のタイヤは何かを踏みつけるようにおそらくその人の形をした何かの上に乗ってしまったのだろう。大きな音を立てて車は乗り上げる、隆はパニック状態に陥る。
そして次の瞬間隆の視界を真っ黒な闇が包み込んでいった。

「ここは…どこだ?」
隆は顔をしかめながらハンドルから顔を上げた。
車の窓から見える周囲の状態は、白く濃いミルクのような霧が相変わらず隆の視界を支配していた。さっきと全く変わらない景色に、隆は苛立ちを隠せずハンドルを握る両手で思いっきりハンドルを叩く。
「あっ、あの時」
隆はあることを思い出す。車のヘッドライトに入ったあの奇妙な人の形をした何か、あれを私はハンドル切って避けようとしたが避けきれず、そのまま何かを撥ねて引き殺してしまったことを。
私はそのことを思い出した瞬間、全身を冷や汗が伝っていく感じがした。ああ何てことだ、私は人殺しをしてしまった。どうすればいいんだ?警察が存在が頭の中に出てくる、嫌だ、私は捕まりたくない。いや待て、この感触どこかで一度あったような?いや思い出せない、頭が重くなりズキズキとこめかみ辺りから都合よく悲鳴が上がっていく。頭は自然と働かない、頭は何と強い意思表示をしている。
隆は恐る恐る車から出る。車はどこにも変わったところはない、撥ねたような形跡なんて全くない。ひき殺した時に付いた返り血のようなものも、車の前や後ろどこからともなくくまなくチェックしたが、そのような跡は全くない。あれは何だったんだ?あれは私がおかしくなって見た幻覚なのか。
「そうだ、ここは…」何かを思い出したかのように言葉をつづけようとした。
その時ひらひらと白い粉上の物が隆の手に降ってきた。それが手に落ちた瞬間溶けて小さな水滴となり手に残る。雪のようだった。
そういえば季節は冬だ。隆が息をすると口から白い水蒸気が現れる、手が悴んで動かなくなりそうである。
「急いで静丘町目指さなければ…」
私は両手に息を吹きかけながら歩を進め足を速める。車が撥ねたのは多分私は疲れて見た幻覚なのだろうと自己解釈する、しかしあのラジオとカーナビのノイズは一体?
古く寂れた見たことのある看板がぽつんと立っている。『ようこそ水と緑の町 静丘町へ』とところどころ錆びてしまって字は掠れてしまっているが、なんとか目を凝らしさえすれば読める。
とうとう到着したのだ。静丘町に。
急がなければ、とにかくあの思い出の場所に。そう思うと足がとたんに動き始めたような気がする、彼女に早く会いたいと願いながら。
私は着ているダウンジャケットの懐から静丘町の地図を出す。地図はもう所々が皺になり端が欠けている状態だ、自宅のタンスの中に4年間も眠り続けていたのを引っ張り出したものである。
「確かここは…」
地図の一番左下にさっきのあの看板があったところが表示されている。そのすぐ上を行くと大きな橋がある、そこを通過してすぐに交差点にたどりついて、その先を左に曲がれば民家の中に私と生前の綾香が住んでいたアパートにたどり着く。
とにかくしらみつぶしに思い出の場所をめぐっていくほかない。まずはこの青々と茂る森林の道を通り大きな橋までたどり着く必要がある。
私は元来た道を戻り車へと戻った。
「!?馬鹿な…どういうことだこれは…」
私は眉をしかめ頭を抱える反応しかできなかった。もう一度その光景をよくはっきりと頭の中に記憶するために、まじまじとその光景を見つめる。
「無い…私の車が無い、それに道が続いてない…だと?」
私の足下に広がる光景はとても信じられないものだった。さっきまで遠く長く続いていた車道の道路は無く、かわりに地面が途中で無くなりその先は、濃い霧に包まれ全く見えない謎の霧でできた空間が続いていた。
私は試しにその下を興味本位で覗く。そうすると体がその先に向かって、吸い込まれそうな感覚に襲われ、隆は反射的に慌ててその場から遠ざかる。
「うわぁ!?…何なんだこれは?」
突然のことで怖い…としか思えようがない。この先にあるのは一体何なんだ?私が行こうとしているあの地は、本当に幾多の思い出がつまっているあの静丘町なのか?
(とにかく…これでは後戻りはできない、車はあきらめて静丘町に徒歩で行くしかない)
私は背後にくるりと向きを変え足早にその場から去る。何故だかあの先の光景がすぐ後ろの方でそこまで広がっているような感じがして、背後を振り向けたくても振り向けなかった。そう思うと全速で足が動いているように感じる、息がだんだん切れ始めていく。
こんなもの夢であって欲しい。いやこんなものは悪夢だ、こんな恐ろしいこと今まで一度も体験したことなんてないと言いたい、一体私が何をしたというのか?
「あれは…橋か?やっとまともに…」
隆はその場で立ち止まり膝に手をやり息の呼吸を整える。運動不足なのか足が妙に動かなさすぎし、脇腹辺りが妙に痛い。それともいきなりすぐ走ったせいで、鈍った体がヒィヒィと悲鳴をあげているような気がする。
 私の目の前に広がる橋は、やはりさっきと同様濃い霧が視界を阻み、すぐそこの橋の欄干から遠くの向こう終わりまで全く見えない。それどころか人一人も通ったような跡が無く、本当に気味の悪い光景だ。
私は橋の欄干に沿って慎重に通って行く、橋は簡易な縄と木の板で作られたような簡素なつり橋ではない。しっかりコンクリートで造られた丈夫な橋である、靴音がコツコツと小刻みの良い音を立てているから大丈夫だろう、多分。
「ん…あれは…誰だ?」
橋をちょうど真ん中ぐらいまで通ったところに、欄干から橋の下を悲しげな面持ちでジッと覗き見ている一人の、年端もいかない猫のような耳をたらんと下に下げた少女が佇んでいた。(綾香と同じ魔物の種族で、ワーキャットのような気がする)髪を短く切ってショートカットで活発そうな印象を受けるが、その悲しげな面持ちは全く彼女には似合わないものであった。
「あの…君はここで何をしているんだい?」
とりあえず私は声をかける、何だか彼女を見ていると何故だかここから飛び降りて自殺しようとしているようにしか見えないそれは止めなければ。傍から見ればそうであるようにしか絶対に見えなかった。
少女はこちらの声に反応し顔をこちらに向ける、やはり魔物という種族は容姿は基本的に高いようでそれなりに整った顔立ちをしている。つり目でとても気の強そうな印象を受け、鋭く尖ったような瞳が怪訝そうに私を逃がさず捉えている。
「…何かようですか?」
声もそうであるが明らかに棘がある、相当警戒されているようであった。着ているフード付きの薄い水色コートの下ポケットに、手を寒そうに突っ込みながら私の姿をジッと観察していた。
「いや…その、ここで何をしているんだい?私は岩瀬、岩瀬隆というものだ」
私は少女の警戒を解こうとし、ぎこちなくはにかんだような笑みを浮かべながら、なるべく友好的にワーキャットのような少女に接した。
「…変態、コイツもあの男と同じ匂いがする…」
「…何を言っているのかな?」
さりげなく少女は初対面の人間に対してとんでもない暴言を呟いたような気がする。私はいきなりのご挨拶に、胸に込み上げてくる熱い何かを抑えながら、またぎこちない笑みを浮かべながらそれを無視した。
「わっ、私は、この先にある静丘町にある観光地を巡る旅行をしに来たんだけど、なんというか来る時霧がものすごく濃くて、昔来た時にはそんなこと無かったのにと思って…何かあったのか知らないかな?」
「さぁ…私は町の住人じゃありませんから。私は母を探してこの町に訪れましたので、こっちにやってきてまだ間もないんです。今の静丘町を訪れるのをやめたほうがいいですよ」
少女はまだ鋭い瞳を私に向けさせたままけだるそうに語った。
 私は『静丘町を訪れるのをやめたほうがいい』その言葉に私は眉をひそめた。今のはどういう意味なのかと、少女に詮索する前に発言の意図を考える。でも、悪戯にふざけて言っている様子はない、この少女は静丘町で一体何を見たのだろうかと疑問視した。
「静丘町に何かあったんだね…」
 私の言葉に少女は、初めて視線を下に向けて何やら思案していた。それはそのことはどう言い表せばいいのかと考えているように見える。
「化け…化け物が町にたくさんいるんですよ…」
 少女は小声で声を落としながら自信なさげにそう答えた。
「化け物って…」
「じゃあ私はこれで…母を探している途中なんで…」
少女は言いたいことは言った後、思考が停止し頭が混乱している私の前からスッと素早く音も無く猫のように去ろうとした。
「待って君は…」
「亜里抄、芹沢亜里抄です…」
 彼女は短く問いに答えると、今度こそその場を後にし、深い濃い霧の中を静丘町の方角めがけて走り去って行った。
「……」
また一人になってしまった。濃い霧が彼女を飲み込むようにして、彼女の姿を煙の如く消えさした。濃い霧は今度は私の方を見ながら、おいでおいでと幼い子供を誘うようにお菓子を片手に、手招きしているように見える。
「…行ってみるしかないか」
私は疲れてだらしなく突っ立つ足にまた厳しい鞭を入れ直した。
10/12/06 21:37更新 / 墓守の末裔
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■作者メッセージ
記念すべき真面目に書いたシリアスものの第一話です。

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