読切小説
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夢は現に。

放課を迎えた学校、人気の失せた廊下に、小柄な影が一つ。
カポラカポラ、と特徴的な足音を響かせながら歩を進めるその人影は、この学校の生徒であろう、年若い少女のものだ。胸元の赤いリボンが目に映える、ありふれた黒いデザインのセーラー服をその身に纏っている。

廊下に鳴り響く少女の足音は、よく聞けば二人分。この階の廊下には少女一人しか居なかったが、何のことはない。少女が人間ではなく「魔物」であり、その種族が、生まれながらに馬の半身を持つケンタウロス種に属している、というだけの話だった。

種族名は、ナイトメアという。
馬は四つ脚、足音が二人分聞こえるのも、当然だった。

(ちょっと、遅くなっちゃったかな……)

歩きつつ、少女は思う。
彼女にはこの日、日直の仕事があった。
現在は最後に残っていた書類整理の業務を終えて、自身の教室へと戻っている途中だった。プリントの枚数確認や整理に予想以上の時間が掛かってしまったうえ、教室には一人、同じく日直であるクラスメイトを待たせてしまっている。自然、若干足早になりつつ、教室への帰路についていた。

少しして、特徴的な足音、馬の蹄の鳴らす音が止む。
頭上の標識に「2ー3」と書かれた、馴染みのある教室の前で立ち止まった少女は、閉じられていた引き戸の取っ手にそっと、手を掛けた。

「……松原くーん、書類整理、終わったよー……?」

どこか控えめに、ゆっくりと引き戸が開かれて。
大分傾いてきた西日の差し込む教室に、か細くも可愛らしい声が一つ、零れた。まだ幼さの残るその声音は、大人しい、というより、若干の弱々しさを感じさせた。

そんな、一つ風が吹けば掻き消えてしまいそうな声には、誰も応えはしなかった。とはいえそれは別に、その声が小さ過ぎて聞こえなかった訳でも、もとより教室に誰も居なかったという訳でもない。
その教室内に唯一居た人物……少女が「松原」と呼ぶ、同じく日直であるところの少年が、自身の机の上に突っ伏してぐっすりと寝ていたためだった。

「……あれ? もしかして、寝ちゃってる……?」

返ってこない返事と、教室の入り口から見えた少年の寝こける姿。その様子を確認した少女は、気弱そうに見える垂れ目に、愛用の小さな黒縁眼鏡を掛け直しつつ。セミロングの黒髪をさらりと流しながら、教室内へと歩を進める。

足音は極力立てず、忍び足で。
そういえば、今日の体育の授業では松原くん、結構頑張ってたっけ、などと、頭の隅で考えながら。

「松原くーん……?」

小さくもコツコツと、どうしても鳴ってしまう蹄の音に若干の緊張を覚えつつ、少年の眠る机の側へと歩み寄っていく。日直の仕事が全て終わり、後は帰宅するだけとなった以上、少女としては少年に起きてもらった方が助かる……のだが、その見た目通り控えめで、どこかおどおどとした所のある彼女の性格上、ぐっすりと眠っているだろう人間を無理矢理起こす気には、なかなかなれない。その結果としての忍び足だった。

西日の紅い光が、乱立する机や椅子に色濃く長い影を生み出させる、そんな、穏やかに燃え行く世界へと、歩を進め。少年の机の左横まで近寄った少女は、四本の馬脚を折りたたむようにしてその場に座り込む。そしてそのままもう一度、先と変わらない声量で話しかけた。
少女に、自分の声が他と比べて小さいのだという自覚は、無い。

「起きないと、先に帰っちゃいますよー……」

再三に渡る少女の呼びかけ。しかし当然のことながら、囁くようなそれは虚しく教室の空気へと溶け入り、対して少年は身動ぎ一つせず、ただただ、安らかな寝息を立て続けるのみだ。しばらく待ってみても一向に起きる気配のない少年の様子に、少女は困ったように眉根を寄せた。

「むぅー……」

同時に、頬を膨らませて、不満げに唸る。
その様は、拗ねた子供のような、それでいて、まるで出不精な夫を叱りつける寸前の新妻のような。普段の、口数が少なく大人しい彼女を知る者ならば、それはまずもって見たことの無いだろう姿だ。……それはつまるところ、彼女にとって目の前の少年が、他の者には見せないような自分の有り様を(例え少年が眠りについていたとしても)何の抵抗も無く見せていられる存在……心を許している存在であることを、暗に示していた。

何処か遠慮がちな様子を見る限り、恋人未満の関係ではあるようだったが。

……と、その時。

「……あ」

少女はふと、何かを思い付いたような声を、小さく上げた。パッとその脳内に想起されたのは、漫画などではよくある、ありふれた台詞。

途端、さっと、その色白の頬に朱が指した。

跳ね上がる、胸の鼓動。
ほんの少しの間、声を発した時の形のまま呆けていた彼女は、はっと正気を取り戻すと、首と目玉をめまぐるしく蠢かせて周囲に目を配らせる。教室内。二つある入口。果ては窓の外、ベランダにまで。
辺りに誰もいないことを確認し終えた少女は安心するように、小さく息をつく。そして、開いたままだった唇をきゅっと引き締め、何やら意思の籠った瞳を、自身の腕を枕に眠る少年の横顔へと向けて。ゆるりと顔を近付け、唇を耳元へ寄せて、僅か数秒の逡巡のあと。

「大地くん……起・き・て……♪」

どこか艶の入った声音で、そんな言葉を呟いた。
漫画などでよくある、ありふれた台詞。

「……」
「……ぐぅ」

そのまま、固まる少女。
相変わらず寝息を立てる、少年。

少女が親しげに呟いたのは、少年の名前だ。
苗字ではなく、下の名前。家族や恋人以外の異性が口にするには、些か勇気のいる、それ。彼が寝ているのをいいことに、ふと思い付いた勢いのまま、まるで恋人にそうするかのように囁いたみせた彼女は、少しの間を置いて。

「……〜〜〜〜ッッッ!!」

顔をみるみる真っ赤に染め上げ、声無き声を上げながら、悶絶した。

(な、何やってるの、わたし〜〜っっっ!!?)

顔を手で覆い、クネクネと奇妙なダンスを踊る。
その場の勢い、冷静にならなくとも飛び抜けていたと理解できる自身の行動に、彼女の頭の中は今、羞恥一色に染まっていた。結果、あわあわと、一人静かに慌てふためく。

(あ……だい……松原くんは……っ)

しばらくそうしたのち、火を吹きそうな程に熱くなった自身の頬を、手で思い切り扇いで冷やしていた少女はふと重大な事に気が付いて、密かな想い人の姿を見遣った。そして依然、寝息を立てる以外の反応を見せないその姿を確認して、思わず安堵の溜息をついた。ほんの出来心だったとはいえ、若気の至りの極みともいえる先程の発言をもし聞かれでもしていたら、あまりの恥ずかしさにショック死していたかもしれなかった。

(……ホントに何やってるのもう……わたしのバカ……)

少なくとも、彼に嫌われる行為だけは避けなければいけないのに。思い付きで行動してしまう自分の悪い癖だ。そう、自身の行為を恥じる少女は、頬を扇いでいた両手で頭を抱える。そのまま静かに落胆し、安堵とは程遠い溜息を、続けて吐くのだった。





「……んぅ」
「んひっ!?」

突然、少年の口から微かに呻きが漏れて。
それに反応してしまった少女は奇妙な声を上げながら、小さく飛び退いた。

危うく背後にあった別の机にぶつかりかけるも、何とか体勢を立て直す。しかし少女の頭の中は既に、異常事態に陥っている最中だった。もしや起こしてしまっていたのか。まさかあの発言を聞かれていたのではあるまいか。だとしたら、自分は死んでしまう。恥ずかしさで。

「……ム……イ……」
「え……」

再び少年の口から漏れたその呻き、単語に、少女はまた、驚いた。
思わず、呆ける。ムイ。『夢衣』。それは紛れもない、少女の名前だったからだ。それも苗字ではなく、下の名前。家族や恋人以外の異性が呼ぶには、些か勇気のいる、それ。少女にとっては一度呼んだだけでも、恥ずかしくて悶絶してしまう程の、それ。

「ま、松原、くん?」

少女は思わず彼の名前を呼ぶが、本人からの反応は無い。先と変わらず、規則正しい寝息を立て続けている。起きてしまった訳ではなく、偶然寝言で、少女の名前を発してしまっただけらしかった。

しかし、それは少女にとって、ただ寝言を呟いた『だけ』の事柄ではなかったのだった。

「名前……呼んで、くれた?」

少女にとって、少年の口から自分の名前を聞くのは、これが初めてのことだったからだ。少年と少女の間柄は、少なくとも表面上は、恋人同士でもなんでもない。普段はお互いに苗字で呼び合う友達レベルの間柄であって、名前で呼ぶ、呼び合うなどという馴れ馴れしい行為は、当然ながらできないでいた。

だからこそ少女は、この少年が寝言で自身の名前を呼んだという事実に驚いたのだった。彼は今、夢を見ている。他でもない、少女に関する夢を見ている。それも、少女の名前を平然と呼べるような……もしかしたら少女にとって、とても喜ばしいシチュエーションであるかもしれない、正に夢のような夢を。

少女は目を大きく見開いて、少年の顔を凝視した。
それはまるで、信じられないものを見るかのように。

彼も、もしかして、自分のことを?
そんな、儚くも淡い期待を視線に乗せて。

驚愕に跳ね上がっていた心臓の鼓動は、今では、別の意味合いを孕んでいる。

「……っ」

意を決して。
仰け反っていた全身に力を入れ直し、無言で、少年の側へとにじり寄る。
そして、少年の横に座ったまま机の端に左腕を乗せて、枕代わりにしたそれに頬を預け、彼の眼前に自身の顔を据えた。微熱を保ったままの頬が、夕焼けの色と同化している。

しばらくの間、そのまま、少年の顔を見つめる。
少女にはもはや、少年を起こす気は毛頭なかった。
想い人の寝顔から、視線が離れない。離せない。

夕日の色に染まるその黒髪を、頭を、撫で付けてみたい。こんな距離でもし見つめられたら、自分は一体、どうなってしまうだろう。色白の頬は、とても触れ心地が良さそうだ。顔は意外と小振りで、コロコロとしている。今まで恥ずかしくてまともに見たことが無かったから、こうやってじっくり観察してみると、何だか新鮮。

……その薄紅色の唇は、どんな感触がするんだろう? 初めてのキスは甘酸っぱいとか、本当だろうか。触れてみたい。確かめてみたい。味わってみたい。キスをしたい。してみたい。したい。舌を入れていやいやいや流石にそこまでは。

そんな、切ない想いが次から次へと浮かんできては、瞬く間に心の中に積み重なり、いっぱいに満たしていく。

「……ねぇ、松原くん……」

ぽつりと、呟く。
同時に、白くて細い指先を、少年へと伸ばしていく。

脳裏にフラッシュバックするのは、少年と出会ってからの日々。
引っ込み思案な性格のせいで人付き合いが上手く行っていなかった自分に、唯一人、話しかけてくれた。一人では何もできなかった臆病な自分を、頼りになるその手で、背中で、導いてくれた。そんな彼と一緒にいる間は、いつだって楽しくて、嬉しくて、笑顔になれた。そのお陰か、クラスメイトも話し掛けてくれるようになった。気兼ねなく話ができる友達も、できた。

彼が自分に話し掛けてくれた。たったそれだけのことで、モノクロに色褪せた、何の面白みも無かった自分の世界に、鮮やかでカラフルな色が付き始めた。

こんな自分を救ってくれた、すごい人。

……生きることが楽しいと思えるほどのきっかけをくれた少年は、少女にとって、救世主以外の何者でもなかったのだった。

「あなたは、わたしのこと、どんな風に見てるのかな……」

少年の頭を優しく撫でるように、少女の指先が触れる。
その触れた所を起点として、少女の……ナイトメアが生まれつき持つ『能力』が、発動した。

「……ごめんね。もう、我慢できない。だから、教えて……?」

言う間にも、少女の視界が歪み、捻じ曲がり、徐々に暗転していく。
少女が今眼前で操る、ナイトメアという種族固有の能力、それは、『対象の夢の中に入り込む』というものだ。入り込んだ夢の中で対象と性交渉を試み、その結果、魔物にとっての主要な食糧である『精』を獲得し、更には対象、つまりは意中の男性を虜にしていく。ナイトメアをナイトメアたらしめている能力だ。

人間の住む街で生まれ、人間達の中で育った少女には「夢の中で少年を籠絡するのは不誠実だ」という考えが少なからずあったため、今まで彼の夢の中に入り込もうとすることは無かったが……出会ってから今に至るまでに積もり積もった想い。自分自身が登場しているであろう少年の見ている夢を、覗き見たいという欲求。そして、目の前にある寝顔をこれから先も見続けていたいという、願い……このまま彼をただ起こしてしまうには、あまりに惜しいこの状況。今の少女に、抗い切れる訳が無かった。

とはいえ、少年が少女に対して、好意的な夢を見ている、という保証はどこにも無い。少年が少女の名前を寝言で呟いたという、ただそれだけの話なのだ。仮に彼の夢を覗き見た所で、少女にとって残念な結果に終わる可能性は無きにしも非ず、だった。

それを分かっていても尚、少女の行動は止まらない。もう、止められない。
ただただ、そうであるようにと願いながら。少年の夢へと落ちていく意識のなか、九割の不安と、一割の期待を抱きながら。

健気な乙女は、想い人の内側へと、飛び込んだ。





「……ェえエッ!!?」

覗き見た夢の内容に、少女は叫び、飛び上がるように後ずさった。
後ずさった際、馬の半身が思い切り背後の机に当たり、浮き上がった机が床を叩く甲高い騒音が教室内に反響する。思わず上げた叫び声と、響き渡った騒音は、寝ている人間を起こすには十分過ぎる程に大きかった。

「……うーん?」

案の定、渦中の至近距離にいた少年は、目を覚ました。
眠たげに指で目を擦る少年の、まだぼやけた視界の先。顔の下半分を覆う両掌の影で、口をパクパクと開け閉めさせている少女の頬は、夕焼けの紅の中にあってもハッキリと分かる程に、真っ赤に染まっていた。

「……なんだよ、夢衣」

至極慣れた口調で、少年は少女の名前を呼ぶ。
その姿はどこにも違和感が無く、そしてどこまでも自然体だった。……未だ寝ぼけ眼であるという一点を除けば、だが。

「逃げるなんて、酷いじゃないか。いつもしてることなのに」

少年は夢うつつのまま、座っていた椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。そのまま身体の向きを、少女に向けた。その顔には、優しい微笑みを浮かべていた。

少女は、動けない。

「今更恥ずかしがるような関係じゃ、ないだろ?」

棒立ちの少女へ向けて、一歩、二歩、足を進める。それだけで、少年と少女の互いの距離は、限りなく零に近くなった。

少女は、動かない。

「ほら、その手をどけて……」
「あ……」

少年は、少女の口元に添えられている両手を、自身のそれでそっと包み込み、左右へと優しく開いていく。そこには一切の抵抗が無く、呆気ないくらい簡単に、少女の両腕は動かされた。図らずも薄桃色の唇を隠していた防壁は、今この瞬間に、無くなった。

少女は、動こうとしない。動く意思が、無い。
動けるはずが、ないのだ。これから起ころうとしていることは、少女が夢にまで見ていたことなのだから。

「目、瞑って……」

言われて、少女は本能的に、その言葉の意味を頭で理解する間も無く、少年の意志に従った。固くぎゅっと、目蓋を閉じる。次いで、自分よりも背の高い少年に合わせるようについと顎を上げた。緊張のためか、息が詰まる。視覚の無くなった世界において感じることができるのは、耳の奥で鳴り響く激しい鼓動と、徐々に近づいてくる少年の吐息の感触だけ。抱いていた九割の不安は、全てが純粋な期待へと変容していた。



唇同士を押し付ける、触れ合うだけのキス。
教室の壁まで伸びた影が、一つに重なった。



瞬間、ふっと、少女の身体から余計な力が抜けた。
彼女の全身が、溢れんばかりの幸福感に包まれる。
普段から手入れはされていないのだろう、少しかさついた唇の感触は、少年の性格や普段の生活振りをそのまま表している。しかしそれが逆に、少年の『らしさ』を如実に表していて。このキスが少年によって齎されたのだという事実を確固たるものとして、少女へと伝えていた。少女の目尻に、自然と歓喜の涙が滲む。

時間にして、十秒にも満たない間。
しかし、少女にとっては永遠にも似た時間を経て。二つの唇は、そっと、離された。

「……ぷぁっ」

唇が離れてから一拍置いて、少女は小さく息継ぎをする。緊張が過ぎて、キスをされている間、全く息ができなかった。息継ぎをした後も、胸中を満たすキスの余韻、暖かさに、上手く呼吸が出来ないでいた。

目尻は下がりきり、口元はだらしなく半開き。
その顔は、恍惚に蕩けている。

そんな少女の様子を目と鼻の先で眺めて、少年は優しく、慈しむように微笑んで……

唐突に、我に返った。

「……え、あれ?」

夢から現へと。

「ぇあ、ちょ、夢野? ほ、本物ッ!?」

さぁっと、顔色が青くなる。
少女の名前、苗字の方を叫びながら少年は、あわあわと混乱しながら後ろに下がり、あまりにも近い少女との距離を離そうとして……

「うわぁっ!?」
「きゃっ! ……ま、松原くん!?」

足をもつれさせて、尻餅をついた。
呆然と蕩けていた少女もこの光景には驚いて、慌てて少年の元へと駆け寄る。

「……大丈夫? 手、掴まって……」
「あ、ああ。ありが……」

差し伸べた手と、掴まろうとする手。
それらが交差する寸前、手と手を『触れ合わせる』という行為が、両者に先程のキスを連想させた。

思わず、手を引っ込める二人。

「じ、自分で、立てるから……」
「あ、うん、そうだよね、うん……」

互いに目を逸らし、そっぽを向いたり、もじもじと俯いたり。
もどかしいまでに初々しいその有様は、仮にその様子を見ているものが居たとするならば、十分程前の少女のように奇妙で奇抜なダンスを踊っていたに違いない。

「……」
「……ぁぅ」

そしてしばし、沈黙。共に、何を言ったらいいのかわからない。
少年は制服に付いた埃を払ったり、少女は黒縁眼鏡の位置を直したりして場の空気を和ませようと努めていたが、そんな小細工が通用するような雰囲気ではない。それぞれすぐにやることも尽きて、落ち着かない、そわそわとした空気が流れ始める。

「あ、あのさ……」
「は、はいっ」

膠着状態に陥る前に、先に口を開いたのは少年の方だった。

「その、さっきは……ごめんっ! えっと、何て言うか……」

出てきたのは、謝罪の言葉。
謝られることなんて、彼は何もしていないのに。呆気に取られた少女は、黙って少年の話を聞いている。

「さっきまで、夢を見てて……その中に、夢野が出てきて、その、あの……」
「……」

そこから先の顛末を、少女は身をもって体験している。
少年が何を言いたいのかを、察する。ちくりと胸を刺す、罪悪感。

「す、すごく、言いにくいんだけど……っ!」
「恋人のわたしと、キスしようとした、でしょ?」
「ああ、そうそう……え?」
「だから寝ぼけてわたしに、キス、しちゃった……」

勇気を出して、口に出すには恥ずかしい夢の内容を話し出そうとした矢先にその内容を言い当てられて、少年は目を瞬かせて少女の顔を凝視した。

「……ごめんね。『見ちゃった』」
「……え……」
「……だから、謝るのは、わたしの方。……ごめんなさい」

心底申し訳なさそうな顔付きで深々と、少女は頭を下げる。
その様子を考えのまとまらない頭で眺めながら、少女の種族、ナイトメアが生まれつき持っている特性を、少年は思い出していた。少女の言い分からして、あの夢を覗かれてしまったのだと悟る。

「寝言でわたしのこと、呼んでたから、つい……」
「……」

そこまで聞いて、少年は無言のまま、眉間に皺を寄せた。
頭を上げつつ、少年のそんな表情を見た少女はバツが悪そうに顔を背ける。打ち明けたのは、謝罪を口にする少年に対し、自分も卑怯なことをしてしまったのにと、罪悪感を覚えたからであったが……もしかしたら、嫌われたかもしれない。人の心を平気で覗き見るような奴だと、軽蔑されたかもしれない。そんなネガティブな考えが、ぐるぐると頭の中を巡り続ける。

「……嫌な気持ちにさせて、本当にごめんなさい。何をして償えば……」
「ぁあっ、ごめん、そうじゃない、違うんだ」

手の平を前に突き出して、少年は弁解しようとする。
きょとんとして、少女は首を傾げた。

「そうじゃなくて、その……知られちゃったなって……」

少女への気持ちを。

言って、少年は恥ずかしそうに頬を掻き、黙り込んでしまった。その表情には、少女への嫌悪や不信は何処にも見当たらない。

その言葉を聞いて、少女はほっと一息。
同時に、あの夢がただの夢ではなく、少年の本心であったことに安心し、思わずはにかんだ。夢というものは、その人物の記憶や経験が基になっているとはいえ、必ずしも、本人の希望や願望が反映されるわけではない。そうでなければ、悪い夢などは見ない。内心、あの夢を覗いた直後から、もしかしたらこの夢は少年にとっての『悪い夢』であるかもしれないと、そんな懸念を少女が抱いていたのも事実だった。

「……ねぇ、松原くん」

で、あれば。
不安が解消された今、やるべき行動は、一つだろう。

「わたしも、嫌な気持ちになんて、なってないからね? 」
「……へ」

互いの想いを、打ち明けること。
二人の間に漂う甘ったるい雰囲気と、夕暮れ時の神秘的な雰囲気が、少女に勇気を与えてくれる。思ったことがスラスラと口をついて出てくることに、少女は内心、驚いていた。

「……むしろ、嬉しかった♪」
「それって……」

聞き返す少年に、花が咲くような微笑みを浮かべる少女。
胸に手を添え、胸中に渦巻く言葉達を一つ一つ選び出し、整理し、文章として繋いでいく。そうして出来上がったのは、簡潔かつ、直線的な一言。軽く息を整えたあと、深呼吸するように深く深く、息を吸って……

「わたしは、松原大地くんが、好きです」

言葉を、想いを。一息に打ち明けた。

「出会った頃から、ずっとずっと。好きでした……♪」
「……っ!」

恋する乙女が見せる、極上の笑顔。そこから紡ぎ出される、どこまでも素直な告白。ごく健常な男子高校生である少年が、ときめかない訳がない。

「お、俺も!」

男として、告白された者の務めとして。
何より、自分が好いている女性からの好意に応えるために、少年もまた、勇気を振り絞る。

「俺も、夢野が……夢野夢衣のことが好きだっ!! 初めて見た時から、好きだった!」

その声量は、廊下まで響き渡るほどに大きなものだったが、誰かに聞かれるかもしれない可能性も厭わず、少年は、最後までその告白を言い切った。もとい、今の少年には少女以外の誰かのことを考える余地など皆無だった。

「俺と、付き合ってほしいっ!」

その一言で締め括り、少女の返答を待つ。

少女は、目尻に浮かんだ水玉を、指先で拭い。そして、幸せに満ち満ちた笑顔を少年へと向けて。

「……はい、喜んで……っ」

少し涙混じりの声で、そう応えた。

ただの両想いだった二人が、恋人同士になれた瞬間だった。

少年は、よっしゃ、と小さく歓喜の声を上げ、ガッツポーズをして見せる。好きなクラスメイトと正式に恋人同士になれたのだ、感極まっても仕方のないことだろう。少女はそんな様子を見て笑みを浮かべ、どこか憑き物が落ちたように、全身の力を抜いた。

「……なんだか、安心したら力抜けちゃった……」
「ああ、それは、俺も……告白するといろいろスッキリするって、本当だったんだな……」
「あはは、そうかも」

両者共に、リラックスした表情で深く溜息をつく。思えば、顔を合わせる際はいつも、お互いにどこか気を張っていたような気がする。そんなことを大分昔のことのように思い出しつつ、二人は肩の力を抜いて、屈託無く笑い合うのだった。

「……あ」
「ん、どうした?」

と、ここで少女が、「そういえば」と前置きした上で、若干照れ臭そうになりながら、先程の告白の内容について気になった点を少年へと尋ねた。

「……松原くん、わたしに一目惚れだったんだね……」

唐突な話題の転換、それも自分の告白の内容に関する話題を振られて、ギクリ、と少年は身体を強張らせる。まさかそこを突かれるとは思っていなかったようだ。明らかに狼狽した姿を見て、少女は可笑しそうに口元に手を当てる。

「ちょっと、嬉しいかも……♪」
「ゆ、夢野だって、出会った頃からって……」
「わたしは、松原くんに優しくされたからだもん。松原くんが、わたしのこといつも気にかけてくれたから、わたしは松原くんを好きになれたんだよ……?」
「そ、そうだったっけ?」
「うん、そう♪」

何か言い返そうとして、逆に矢継ぎ早に言い返されて、少年は困った顔で後頭部を掻いた。そこに追い打ちをかけるかの如く、少女はあることに思い至った、といった呈でパンと手を合わせる。

「あ……そっか、だからあんなにいろいろしてくれてたんだ。わたしのこと、好きだったから……」
「ちょ、夢野、待って……」
「好きになってくれて、ありがとう。……おかげでわたし、幸せ、だよ……♪」

赤らんだ顔が、ほころぶ。
心底幸せそうな、恐ろしく純粋な表情でそんなことを言われてしまったら、少年はもう何も言い返せない。考えても何も浮かばず、最後にはがっくりと項垂れた。

「ど、どうしたの?」
「いや……夢野には、何故だか一生敵わない気がするなー……って」
「……??」

クエスチョンマークを幾つも浮かべる少女。
どうやらこの少女は、気を許しきった相手には積極的に押してくるタイプらしい。それも天然、無自覚に。普段は大人しく控えめ彼女が見せる意外な一面に、若干辟易としつつも……恋人となって早速、新たな素顔を垣間見れたことを、少年は密かに喜んだ。

ふと、項垂れていた頭を上げた少年は、何となく、黒板の方に目を移す。自然、黒板の上にある壁掛け時計に視線が向き、結果、驚いた。

「……ん? うわ、もうこんな時間だ」
「え? あ、本当。早く帰らないと暗くなっちゃう……」

壁掛け時計の針は、日直の業務が終了してから、かなりの時間が経過してしまっていることを示していた。夕暮れの紅は徐々に成りを潜め、空の遠く向こうは夕闇に染まりかけている。今すぐにでも帰宅しなければ、自宅に着く前にとっぷりと日が暮れてしまうだろうことは明白だった。

「暗くなる前に、早く帰ろう。帰り道一緒だし、送ってくよ」
「あ、うん。……えへ、何だか恋人同士みたいだね……」
「……もう恋人同士だろーよ、俺ら」
「ん、そうだった♪ ……あ、そうだ」

瞬間、少年の背筋に悪寒が走った。今日初めて知ったことだが、この少女の『思い付き』には碌なことがない。少なくとも、少年に対してのものだけを言えば。

「大地くん」
「な、なんだよ」

応えた後で少年は、自分が下の名前で呼ばれていたことに気付いた。恋人の口から初めて聞く自身の名前に、何とも言えない嬉しさとむずがゆさを覚える反面、一体今度は何が起こるのかと不安に思っていると。

「す……好きっ」
「ぶっ」

まだあまり言われ慣れていない言葉を唐突に聞いて、吹いた。
追撃は続く。

「好き。……好きっ」
「こ、今度はなに……」

至極恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、それでも繰り返し想いの丈をぶつけてくる少女が果たして何をしたいのか、少年にはさっぱり検討がつかない。どういう訳か、聞き出そうとして。

「……大好きっ」
「ぅぐっ」

一呼吸溜めた最後の一言に、轟沈した。
額を鈍器で思い切り殴られたかのような精神的衝撃のなか、言葉の頭に『大』を付けるだけでこんなにも破壊力が増すものなのかと、クラクラする脳味噌で考えていた。

取り敢えず、言葉の連続攻撃は終わりを告げたようだ。少女は胸の前で指をもじもじ擦り合わせながら、少年を上目遣いで眺め、反応を伺っている。

「な、何なんだよ、突然……?」
「え、えーと、知らない? 今女の子の間で、おまじないが流行ってるんだけど……」
「……知らない」
「えっと、下校する時にね? 恋人の名前を呼んだあと、「好き」って三回言って、最後に「大好き」で締め括ると、明日はもっと彼氏と仲良くなれる……っておまじないなんだけど……」

とんでもないおまじないだと、少年は思わざるを得なかった。自分と同じようにノックアウトされる彼女持ちがあとどれだけいるのかを思うと、流石に同情を禁じ得ない。

「本当は、本人に直接言う必要は無いんだけどね? ただ、折角本人が目の前にいるから……」

……目の前の少女が小悪魔的なだけだったことに、少年は軽く眩暈を覚える。これで無自覚だというのだから、尚更質が悪い。

「あ、ちなみにね? 他にも流行ってるおまじないとか、縁結びに纏わる言い伝えなんかがあって……」

冗談じゃない。少年の身体が、咄嗟に動く。
これ以上彼女の口撃を喰らわされ続けたら、頭も心もどうにかなってしまいそうだった。彼女にばかり、手番は譲らせない。愛しい恋人の顔へと、迫る。急接近されて驚く少女の後頭部に、やや強引に手を回し。

何かを言われる前に、その唇を奪った。
口で勝つことが出来ないならば、その口を塞ぐまでだ。





お互い、口には気を付けること。そんな約束を交わしつつ。
二人は、顔を合わせられない微妙な空気のなか、これまた微妙に開いた距離を、触れ合わせた手で繋ぎながら。別れまでの時間を惜しむように、ゆっくりと、帰路につくのだった。



14/07/05 11:49更新 / 気紛れな旅人

■作者メッセージ
初めましての方は、初めまして。
お久しぶりの方は、お久しぶりです。
以前、「きまぐれ」というペンネームで書いていた者です。久方ぶりに復活してみました。何だか、戻ってきた、という感じがしますね。あ、何となく区切を付けたかったので、新しくアカウントを作成しています。紛らわしくてすいません。

訳あってスマートフォンから投稿しているのですが、そのせいか、「文頭をスペース一文字空ける」といった細かい配慮が行えません。どなたかスマートフォンからでも文頭を空ける方法を知っている方がいましたら、教えて頂けると幸いです……

以前のSSから、少しは成長できたかな?評価、感想、アドバイス等々、お待ちしております。

今回は、この辺で。では。

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