読切小説
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太陽の沈む刻
僕は太陽が嫌いだ。


射し込む日射しは、今日もまた憂鬱な時間が始まるという事を告げているのだから。



…………僕は「月野平郎(つきの・へいろう)」。高校一年生。
ふざけた名前?僕もそう思うけど、それは両親に言ってくれ。
背が低い?それは僕の自己責任ではあるが、直したいとも思わないので諦めてくれ。


僕が通う、ここ「私立円崇学園(しりつえんすうがくえん)」は、大昭時代に建てられたという。

新築の校舎と、木造の旧校舎から成るその学園は、長い歴史を持つ。
が、そんな伝統などどうでもいい。

というか、気にする余裕すらない。

何故なら…………。



「う"っ…………」

臭い。
下駄箱を開けた途端形容しがたいにおいが広がった。

無論、年頃の男子なので体臭ぐらいするが、明らかに人のにおいではない。

目の前には、残飯と果物の皮でデコレーションされた上履きが見える。

………ああ、またか。

ホームルームまで時間がない事もあり、僕は上履きから適当に残飯を払うと、そのまま履く。
汁は仕方ないとしてもやはり気持ち悪い、昼休みあたりに洗わないと。

そう思いながら歩いていくと。

「おうぇーーーいっ!!」
「がッ……!?」

唐突に顔面に激痛と衝撃が走る。
そのまま後ろに吹き飛ばされて、僕の身体は地面に叩きつけられる。

いつもの事ではないが、よくある事だ。

「ったくよォ〜〜ッ清掃委員ってのは大変だなァ!でっけえゴミが落ちてたら掃除しなきゃならねーんだからよォ〜〜ッ!」

顔を押さえる僕を、僕を殴った犯人であろういかにも柄の悪そうな男子生徒が、その手に持ったモップでガシガシと叩く。
周りの生徒は助けない所か、笑っている生徒もいる。


………これが、僕の日常だ。

いじめ、と言うにはあまりにもえげつないと思うが。


背も低く、運動も下手であった僕は、中学に上がると真っ先にいじめのターゲットにされた。

今回のような事例はまだいい方だ。


ある時は、クラスの人気者の男子が体育でドッジボールを行った時、故意に僕にボールを集中してぶつけてきた事もあった。
全身を打撲し、何日かは歩くたびに痛みに襲われたのを覚えている。

またある時は、教室を出ている間に、弁当の中身を捨てられた事もあった。
結局その日は、一日を空腹で過ごす羽目になった。

休み時間に教室に止まっていればちょっかいをかけられるので、必死に隠れる所を探す毎日。

担任に相談だって?
したさ。でも帰ってきたのは「面倒を持ち込むな、お前一人が我慢していれば済む事、それが社会だ」という返答。

一番ショックだったのは、いじめに耐えかねて両親に相談した時だ。
僕が学校で受けている仕打ちについて話したら、何と言ったと思う?

「たしかに辛いかもしれない、だが、それをバネにして頑張り、奴等を見返してやれ!」

……失望、というのはこういう事を言うのだと思う。
生憎僕は昔のスポ根漫画の主人公ではない。
悔しさをバネにする前に、叩き潰されてバネとしての機能を失う方が先だ。


僕が太陽を嫌う理由はこれだ。
日中は学校ではいじめられるし、親がこんなでは不登校をやる事もできない。

あのギラギラした日射しも、まるで僕を晒し者にして嘲笑う奴等の目線のようで嫌いだ。


……でもまあ、先生の言う通りこれが社会なんだろう。

誰か少数が犠牲になる事で形作られる。
その犠牲が、ただ自分だっただけだ。

不登校もできないようであれば、そう思って諦めるしかない。



…………それに、学校も悪い事ばかりではない。



………………………………………………



放課後、僕は普段使われていない、旧校舎の奥にある視聴覚室に向かう。

日は沈みかかり、地平を紫の光が照らしているのが、窓から見える。
僕は太陽は嫌いだが、この太陽の沈む瞬間は大好きだ。
優しい光であると同時に、灰色の時間の終わりであり、“僕にとっての一日”の始まりだからだ。


「…………レイラさん、いますか?」

そう言いながら、僕は視聴覚室の扉を開く。
鍵は最初から開けられていたが、古いためかすこし音がする。

「待っていたわ、ペロー」

黄昏時の紫の光に照らされた、すらりとした長身の人影が、優しい声で僕を「ペロー」と呼んだ。
彼女のつけてくれた、僕の平郎という名前と、猫が登場する童話を由来とする、彼女だけが呼ぶ僕のニックネームだ。

…………普段クラスメートが呼ぶ「へろ虫」は、どちらかというと蔑称なのでニックネームではない。

「ご、ごめんなさい、待たせてしまって……」

キョドりながら、僕が部屋の中に進むと、彼女の姿がはっきりと見えてきた。

髪は漆塗りの工芸品のように黒く、そして艶やか。
目は切れ長で、黒曜石のような瞳が輝いて見える。
雪のように白く透き通った肌を、それを包む闇夜のような黒いセーラー服が際立たせている。

花魁の妖艶さと、西洋人形の可憐さをあわせ持つ、そんな人。

「さあ、早く貴方のバイオリンを聞かせて頂戴?」

そう、笑みを浮かべて催促する彼女。
彼女の座っている椅子の前にある机には、彼女が持ち込んだであろう紅茶セット一色と、一つの古びたバイオリン。

「は、はい」

彼女の優しい声に思わずキョドッてしまった僕を、彼女は相変わらず笑みを浮かべて見守っている。
美人にそんな事をされると、ドキドキしてしまう。

僕はバイオリンを手に取る。
そして、彼女の見守る前で、僕はバイオリンの弓を弦にかけた。



…………彼女、レイラさん事「出間麗羅(いずるま・れいら)」の事を知らぬ者は、恐らくこの学校にはいないだろう。

前学期中に突然転校してきた彼女は、ある財閥の一人娘である事と、
なんの前触れもなく、町を見下ろす丘の上に現れた不気味な城のようなお屋敷──通称「暗黒城」──に使用人と共に住んでいるらしいという事以外、一切が謎に包まれている。

ミステリアスかつ、クールビューティーなお嬢様というレイラさんは、瞬く間に多感な時期の女子生徒達を魅了し、
学園のスクールカーストから独立した、彼女と彼女に付き従う女子達による「貴族会」と呼ばれる独自の勢力を産み出した。

そんな、麗しのお姉様であるレイラさんと、スクールカーストの最底辺に位置するウジ虫である僕。


この二人が、同じ部屋で並んで話をしているというアンバランスな光景の始まりは、一ヶ月ほど前からだ。



………………………………………………



……その日も僕は、授業が終わると同時に旧校舎に隠れる場所を探しに向かった。

普通に下校すれば、待ち構えているクラスメートの餌食になってしまうからだ。
だから奴等が下校し終わるまで、隠れ家を探す。
近寄る生徒が少ない旧校舎なんてのは、そういう時には格好の場所だ。

今日は珍しく、絡まれる事なく旧校舎に行けたので気分がよかった僕は、普段はいかない旧校舎の奥の方に行ってみる事にした。


「やっぱり、奥となると空気が違うなぁ……」

歩く度にギィ、ギィと木材の軋む音がする。
外も暗くなりだし、かなりホラーな雰囲気を醸し出している。
はっきり言って、怖い。

「まぁ、あいつらにいびられるよりゃずっとマシだけどさ……」

そう思った事を呟くのは、奴等がいない事と、この恐怖をごまかす為。

しばらく歩いた後、僕は視聴覚室の前にきていた。
視聴覚室とはいっても、少数の机と椅子と、掲示板しかない、簡素なものだ。

「………ん?」

僕は、その中にふと目がいった。
後ろに纏められた机の上に、一つの黒いケースが置いてある。

僕は、それに見覚えがあった。

ケースが気になった僕は、視聴覚室の扉を引いてみる。
珍しく、鍵は開いていた。

「開いてる………誰かが使ってたのかな?」

そう思いながら僕は視聴覚室に入る。
窓から見える、紫色の光に照らされた空を横目に、僕はケースを手に取り、開いてみた。

「………やっぱり、バイオリンだ」

ケースの中にあったのは、一つの古いバイオリン。
これを見ていると、あの幼少の忌まわしい記憶が甦ってくる。

…………お恥ずかしながら、僕はバイオリンを弾くことができる。
というのも、子供の頃何かと習い事をさせたがった母親に、無理矢理バイオリン教室に通わされたからだ。

周りが遊んでいる休日に自分だけ弾きたくもないバイオリンをやらされる理不尽さは今でも覚えている。
まあ、母親の習い事熱が覚めたのか、一年で辞める事ができたのだが。

「……うーむ」

なんとなく、僕はバイオリンを手に取ってみた。
記憶の中より小さい気もするが、これは僕の方が大きくなったからだろう。

まあ、暇つぶしにはなるだろう。

そう思い、僕はバイオリンを構え、弦に弓をかける。

あたりに誰もいない事を確認すると、僕は深呼吸の後、弓を引いた。

キィー、と高い音が響く。
演奏には問題なさそうだ。

「…………よし」

意を決し、僕はバイオリンを弾く。
曲はバイオリン教室で習った課題曲。曲名は当の昔に忘れ去ったが、弾き方は身体が覚えている。

以外とスラスラ弾ける物だな。
そう思いながら演奏を続けると…………。

「…………あっ」

扉の前に立っていた人影に気付き、僕は演奏を止めた。

窓から差し込む、黄昏の紫色の光を長い黒髪で反射し、
笑みを浮かべるその目は、黒曜石のような瞳に僕を写している。

「い、出間さん……?」

その時の僕も、名前だけは知っていた。
出間麗羅。スクールカーストから外れた者達・貴族会の頂点に君臨するお姉様。

噂通りの美人だ。
それが、初対面の彼女に対する率直な感想だった。

「……どうしたの?」
「えっ」

見とれていた僕に、先に彼女が声をかけてきた。

「えっ……あの……その……」

思わず、挙動不審な態度が出てしまう。
相手は美人なだけではない、貴族会の女子達を束ねるお姉様だ。
彼女の気紛れで、貴族会の女子まで僕の敵になる事もあるのだ。
そうなってしまっては、学校に僕の居場所は本当に無くなってしまう。

「えっと……」
「構わないわよ?」

キョドる僕に、彼女は言葉を続ける。

「えっ?」
「続けてと言っているの、そのバイオリンを」

変わらぬ口調、変わらぬ笑顔で彼女は言った。

耳障りだからやめろならまだしも、続けろと言う予想だにしなかった言葉に、僕は驚いた。
とはいえ、上に述べた通りの理由から、僕に彼女の命令に逆らう権利はないわけで……

「あ………………はい」

彼女の前で、課題曲の演奏を続ける事となった。



………………………………………………



これが、僕とレイラさんの出会いだ。

それからも、レイラさんと僕は、放課後になるとこうして視聴覚室で会うようになっていた。
無論、他の生徒には内緒の所謂「密会」という奴だ。

レイラさんは僕の演奏を聞きながら紅茶を飲み、演奏が終われば僕にも紅茶を入れて、閉門時間までちょっとしたお茶会を楽しむ。

この時間が、僕の一日だ。

この時間の為なら、聞こえるように悪口を言われる事も、廊下でズボンを脱がされる事も、生ゴミを食べさせられる事も耐えられる。
この時間のためなら、地獄のような学校だって耐えられる。

嬉しかった。
レイラさんが、僕を必要としてくれている事が。

嬉しかった。
レイラさんが、僕を見て話をしてくれる事が。

嬉しかった。
レイラさんが、嘲りではない笑顔を僕に向けてくれている事が。

レイラさんだけが、僕の灰色の学園生活を彩る唯一の“色”であり、青春だ。

たとえ、レイラさんがこうして僕に接してくれる事が演技だったとしても僕は構わない。
せめて、夢の時間が終わるまでは、こうして幸せでいさせて欲しい。
そう、僕は思っていた……。



………………………………………………



「それじゃあ、また明日学校で会いましょう」
「は、はいっ」

お茶会を終え、レイラさんは屋敷から呼び寄せたのであろう高級車に乗り、帰っていく。
学園の門前には、僕一人が残された。

「……帰るか」

すでに日は沈み、輝く星空の中、僕は帰路につく。

「………レイラさん」

脳裏には、レイラさんの事ばかり浮かんでしまう。
優しく、僕を見つめる瞳が。
黄昏の光に照らされた黒髪が。
ソプラノのような優しい声が。

いつか、僕もレイラさんも学園を去り、二度と会う事も無くなるだろう。
自分とレイラさんの住む世界は違う事は、僕だって解る。
蝶々は花畑、ゴキブリはゴミ捨て場、それぞれ相応しい所がある。

「…………いつか、会えなくなる日まで…………」

そう、これはいつかは覚める夢。
その時までは、夢の一つ一つを噛み締めよう。

闇夜を優しく照らす三日月に、僕はそう想うのであった…………。










ホームルームを終え、今日も僕は旧校舎に向かう。
レイラさんに早く会いたい、その一心で。

連日バイオリンを弾いたお陰か、日に日に上手くなっている気がする。
今日は昨日よりいい演奏を聞かせられるぞ。

そう思いながら、上機嫌で旧校舎の廊下を駆ける。


…………思えば、この時僕は、それまでなんの問題もなく視聴覚室に向かえた事に対し、疑問を持つ必要があったと思う。


「レイラさん……♪」

早くレイラさんに会いたい。
その一心で廊下の曲がり角を走り抜けようとした、その時。

「ウェーーーイ!!」

どごん。
バカみたいな掛け声と共に、僕の顔を何かが殴り付けた。

後ろに吹き飛ばされ、倒れる。
頭がぐわんぐわんとする中僕が見たのは、野球部の使う木製バットを持ちニタニタと笑う柄の悪そうな金髪。

……以前に僕の顔をモップでぶん殴ったサッカー部員だ。
後で解った事だが、僕がレイラさんに会うようになってから、どこに行くのかと尾行していたらしい。


「ヘロ虫君よォ〜〜ッ!てめぇ最近調子乗ってんじゃねぇかよ〜〜〜?」


おどけた様子で言う。
笑い合うための冗談でない事など一目瞭然。

「ホウェーーイ!」

今度は縦にもう一撃。
呼吸が乱れて動けない僕の頭を、二度目の衝撃が襲った。
痛い。
何かどろりとした物が顔をつたう感覚がする。

「う……ぎ……」

痛みに耐え、這って逃げようとする僕だったが、今度は横から。

「逃げてんじゃねぇぞへろ虫がよ!!」

別の罵声と共に、腹に突き刺さる鋭いキックの一撃。
クラスの人気者のサッカー部員だ。

「う……ぎ……げほっ」

内蔵をやられたのか、苦しい。
息がつまる。
いつの間にか、僕の周りには普段僕にちょっかいと言う名の暴力を振るってくる奴等が集まってきていた。

「うっわーなにこれ、殺虫剤浴びせられたゴキブリみてー!キモーッ!」
「っははは!マジうけるんですけど!」
「これが本当のヘロ虫ってか!」

嘲り、嘲笑、罵声。
恐怖と屈辱と痛みで頭がおかしくなる。
視界が揺れる。
たすけて。
こわい。
にげなきゃ。

「…………ッ!」

先に身体が動いた。
弾き出されるように僕は走り出した。

「おいちょ待てよー!」
「逃げてんじゃねぇぞへろ虫君よォ〜〜〜ッ!」
「ぎゃははははは!」

嗤いながら追いかけてくる「奴等」。
僕はただ、狼から逃げる家畜のように走った。

逃げなければ。それだけが脳裏に浮かんでいる。
でも、何処へ?
解らない。
安全な場所へ。
安全な場所へ。
安全な。

「廊下を走っちゃァ……いっけますぇーん!」
「!!」

やはり僕は馬鹿だった。
どうして奴等が先回りしている可能性を考えなかったのか。

そう思った時には既に、僕の身体は先回りしていた奴に蹴飛ばされ、倒れていた。

起き上がろうとするが、運動音痴のくせに走り続けた疲れからか、身体が動かない。

「おおーっと!ここで相手選手、凶器を取り出したァー!」

後ろの方で、奴等がプロレスの実況の真似事をしているのが聞こえる。
凶器?何をするつもりだ?

「大きく振りかぶってぇの……ホウェーイ!!」

例の金髪が、今度は金属バットを持って近づき、倒れていた僕にめがけてその金属バットを降り下ろした。

「!!!」

ぼきゃあ。という音と共に、右手から嫌な痛みと寒気が広がった。

「ぎ!あ!あああああ!!!」

訳の解らない悲鳴を出した。
奴等はそれを見てゲラゲラと笑っている。

なんとなくだが解った。僕の右手が折れたんだ。
いや、砕けたと言った方がいいだろうか。

「男のくせにビービー泣いてんじゃねえぞ!このへろ虫がよォ!」

金髪が僕の顔を蹴飛ばす。唇が切れ、歯が少し砕けた。

「それではっ!第1回日本ワールドカップ・へろ虫杯を始めたいと思いまーす!」
「「イエー!!」」

始まった、奴等のメインディッシュ。
僕をボールに見立てて、集団で蹴飛ばすのだ。

「ウェーイ!」
「ホゥェーイ!」

何発も、何発も蹴りを入れられる。
痛い。苦しい。


そして、それ以上に悲しい。
僕の右手は砕けてしまった。
僕はもうレイラさんにバイオリンを聞かせる事はできない。
きっと、レイラさんは僕を見捨ててしまう。

「ホゥェーイ!」
「ウェーイ!」

きっとバチが当たったんだ。
惨めなクズのくせに、レイラさんみたいな雲の上の人とかかわり合いになって浮かれていたから。

だからこうして右手を潰されたんだ。
二度とレイラさんに、僕の汚いバイオリンを聞かせないようにするために。

これは自業自得なのだ。

「さぁー大きく振りかぶってー!」

テンションの上がった金髪が、蹴飛ばされてきた僕目掛けて、再び金属バットを振り上げる。
痛みと苦しみで朦朧とする意識の中、霞む僕の視界にその光景が映る。

腕を砕くほどの金属バット。
当たれば一たまりもないだろう。

これは罰だ。調子に乗った僕への裁きだ。

ここでなぶり殺しにされるのが、きっと僕にはお似合いなんだろう。



「何を、しているのかしら?」



しかし、金髪の台詞を遮るように放たれたその一言が、それを許さなかった。

「…………え?」

霞む視界に、僕はその姿を捕らえた。

そこに居たのは、金髪が振りかざした金属バットを後ろから掴み、動きを制止させる白い腕。
そして、その主たる貴族会員の女王。

「…………レイラ…………さん?」

レイラさん……出間麗羅、その人であった。
ただ決定的に、僕の記憶におけるレイラさんと違った事がある。


僕の知るレイラさんは、いつでも聖母のような優しい微笑みを浮かべた女性であるのだが、
今目の前にいるレイラさんは、永久凍土よりも冷たい目で奴等を睨んでいる。

そして、もう一つは。

「な、なんだよてめぇ!放せ!放せよォ!」

金髪が、金属バットをレイラに捕まれた状態で必死に振り回そうとしている。
しかし金属バットはまるでその場に固定されたようにぴくりとも動かない。

「じゃあご期待通り」
「おわぁっ!?」

直後、あろう事かレイラさんは金属バットを持ったまま金髪を持ち上げた。
そして。

「放してあげるわ」

前に向かって放り投げた。

「ぐわっ!」
「わあっ!!」

投げ飛ばされた金髪が、前にいた男子生徒達数名にぶつかる。
前にいた奴等は無論、なぎ倒される形となった。


知らない。
僕はこんな、冷たい目で、人を簡単に投げ飛ばすようなレイラさんは知らない。

しかし、今僕の目の前にいるのは出間礼羅本人であり、いつも僕の演奏を楽しみにしてくれているレイラさんだ。

なら、目の前の光景は何事なのだろう。


「もう一度聞くわ……何を、しているのかしら?」


レイラさんは口調は変えず笑顔で、けれども氷のような眼差しで言った。
所謂「目が笑ってない」というやつだ。


いきなり、重いであろう男子一人を片手で投げ飛ばしたレイラさんに、さしもの奴等もおののいているのが見える。
しかし、人というのはそう簡単には変われない物で、サッカー部員の男が額に汗を浮かべながらもレイラさんに言う。


「は、ハァ?何をしているかって?俺はそこのへろ虫君と遊んであげてるだけですが?つーか構ってあげてるだけありがたく思え、みたいな?」


威嚇のつもりなのか、小馬鹿にした態度で奴は言った。

レイラさんは表情を崩さなかったが、その右手の握り拳が震えているのを僕は見た。

…………間違いない。

…………レイラさんは怒っている。


「…………どこまでも、見下げ果てた種族ね」


レイラさんの口から、静かに、けれど怒りを孕んだ放たれる。


「……もう、条約もクソもないわね……というか、こんな非道な行為が黙認されている学校ですもの、私も同じ手を使えばいいだけの話……」

レイラさんは何をいっているんだ?
条約?同じ手を使う?

思考を巡らせていたその時、僕は窓の外の「それ」に気づいた。


「あ…………」



逃げるのに夢中で気が付かなかったが、とっくに夕日は沈み、空は真っ暗に塗りつぶされていた。

その、漆黒の夜空で唯一の光源である月。
少なくとも僕の中では、月という物は黄色か青白い光を放つ天体だという認識がある。


だが、


今、この惨状とレイラさんを照らす月は、








まるで、血のように真っ赤であった。








直後、レイラさんを中心に、何か強風のような物が発生する。

「うわあああ!」
「な、何だよ!何が起こってるんだ?!」

唐突の出来事の連続に、パニック状態になって叫ぶ奴等。
そんな中で、僕は確かに「視た」。

巻き起こる黒い風の中、風圧に揺られるレイラさんの黒い長髪が、まるで引火して燃え上がったかのように黄金に変色した。
深淵の闇のように黒いセーラー服は、漆黒のマントと硬化した血のような赤黒いドレスに。
規律的な学生靴は、弱者を容赦なく踏みつけるハイヒールに。
優しい紫の瞳は、加虐心を匂わせる赤い瞳に。


変わる。
僕の眼前で、レイラさんが姿を変えてゆく。
清楚な貴族会の長から、恐怖を振り撒く夜の女王へ。


そして黒い風が止んだ後、カツンという足音と共に、変身を終えたレイラさんが前に出た。

「こんなにも月が紅いんだもの……無事で帰れると思わない事ね」

不敵に笑い、奴等に向けて言葉を放つ。
まるで、死刑宣告のように。
しかし、奴等からすればおちょくられているとも取れたらしく、

「ふ……ふざけんじゃねえぞこのアマ!」

サッカー部員が、レイラさんに向けて殴りかかってきた。
危ない!
そう叫ぼうとした瞬間。

「ふんッ」

向かってきたサッカー部員を迎えたのは、レイラさんの回し蹴りの一撃。
めきぃ、という音と共に横に吹き飛ばされたサッカー部員は、そのまま校舎の壁に激突し、なんと木造とはいえ壁を砕き壊した。

サッカー部員は白目を剥き、口から泡を吹いて気を失っている。
恐らく、無事ではないだろう。

「あ……あ、に、逃げろぉぉぉぉぉ!!」
「うわあああああ!!」

流石にこの光景を見て「まずい」と気づいたのか、奴等は後ろを向き、逃走を始めた。
体育会系なだけはあり足は早い、追い付くのは至難の技であろう。
しかし。

「言わなかったかしら……無事で帰れると思わない事ねって」

直後、レイラさんの身体が宙に浮き、奴等に向けて飛翔する。
僕が驚く間もなくレイラさんは、瞬く間に奴等の逃走先に先回りした。

「ぎゃあああああ!!」
「た、助けてくれぇぇぇぇぇ!!」

夜の旧校舎に、奴等の悲鳴と血肉が砕ける音が木霊する。

走るしかない奴等に対し、空を飛ぶレイラさんは優勢に立つ事ができた。
逃げようとすれば飛んで先回りをし、その怪力から産み出される拳と蹴りを叩き込む。

空を舞い、奴等の帰り血を浴びるレイラさん。
紅い月に照らされたその姿に、僕は恐怖しつつも見とれていた。

ああ、なんて美しいんだろう。
まるで、優雅に舞うかのようだ。

「綺麗…………」

紅い月に照らされ、赤い帰り血に染まる夜の女王を前に、僕は思わずそう呟いた……。








廊下にはレイラさんが立っている。
奴等は、無惨にも叩きのめされ伸びている。

否、一人だけ伸びていない者がいた。
それは。

「ひ、いいい!く、来るなぁ!!」

僕の腕を砕いた、あの金髪。
彼の持っていた金属バットは、今はレイラさんの手に握られている。
そのレイラさんに壁際まで追い詰められ、抵抗手段も、逃げ場もない。

「…………一応聞いておくわ、貴方自分が何をしたか解っているかしら?」

金髪を見下ろし、冷酷な裁判官のようにレイラさんが問う。

眼前に広がる惨状を作り出した張本人にそんな事を言われれば、多くの人間は震え上がり、その愚行を懺悔するだろう。
しかし。

「は、は?俺はあのへろ虫に根性入れてやってただけだろ?!っつーか、それの何が悪いんだ?!大体、男のくせにあんなナヨナヨしてるヤツが悪いんだよ!」

これである。
まあ、女子にモテて、男友達にも慕われるスポーツマンとして今まで生きてきた金髪からすれば、男のくせに身体も鍛えない僕は淘汰されて当然のクズに見えるのだろう。

それでも、あんな事をするなんてあんまりだ。
何故そっとしておいてくれないのか。
僕は悲しくなった。

「…………貴方は、三つ許されない事をしたのよ」

レイラさんが呟き、右手を翳す。

「ぎッ!?」

すると、どうだろう。
金髪の身体が、何かに張り付けられたかのように固まり、動かなくなった。
しかし首から上はまだ動くらしく、左右に動かしてギャーギャー喚いている。

「一つは、私のお茶会を邪魔した事…………もう一つは、私のお気に入りのドレスをゲス共の血で汚させた事…………」

レイラさんが握っていた金属バットが、その握力に耐えきれずひしゃげて潰れる。
それに恐怖する金髪の前で、レイラさんがその足を金髪の左足の上にかざした。
学園サッカー部の一員として、命の次に大事ともいえるその左足に。

「そして何より……」

レイラさんは瞳孔を大きく開いた目で睨み、三日月のようなつり上がった口から、今まで押さえてきた怒りを解き放つように声を張り上げた。

「この私の……世界の何よりも大事にしている宝物を!滅茶苦茶に壊した事!!」

断頭台がごとく、レイラさんのハイヒールは怒りの刃となって、金髪の右足に突き立てられた。

「ッッッッーーーーーーーー!!!」

金髪の声にならない叫びと、その下にあった床を砕く轟音と共に、この惨劇は幕を閉じた。


紅い月は、相変わらず僕達を照らしていた。
惨劇の発端となったウジ虫と、惨状を産み出した夜の女王を。

レイラさんに叩きのめされた奴等は、皆手足があらぬ方向に曲がっている。
時々痙攣している事から生きてはいるのだろうが、奴等が皆体育会系の人間である事を考えると、その手足を破壊された事が何を意味するか。
少なくとも、完治するまでボールを追うのは無理だろう。


カツ、カツ、カツ

全てを終えたレイラさんが僕の前に歩いてくる。
多くの物語で、謎多き人物の本当の姿を見た人間という物は、口封じのために殺されてしまうという。
きっと、自分も殺されるのだろう。

「…………レイラ、さん…………」

それでも、その感情よりも、
僕の中では、ウジ虫の僕を見下ろす夜の女王の美しい姿に対する感動の方が、恐怖を上回っていた。

「…………すごく………綺麗、です…………」

動かす度に走る頬の痛みに耐えて、僕は言った。
レイラさんに対して何も言わないのは、失礼に思えたから。
レイラさんになら、殺されてもいいとさえ覚えた。

「…………ペロー」

憂いを帯びた声で、レイラさんが僕を呼んだ。

「……レイラ……さん……」

顎を動か度に走る痛みに耐えながらも僕が答えた時、僕の身体はレイラさんに抱き抱えられていた。

「ごめんなさい、ペロー…………助けるのが、遅くなってしまって……」

何かが、僕の頬を濡らした。
これは、何だ?
涙?でも、僕のじゃない。
なら、これは?

「もっと、もっと私が早く行動を起こせていれば……!」

レイラさんが泣いていた。
僕を助けられなかった事を詫びながら。
僕のために、泣いていた。

違うんだ。
泣かないでレイラさん。
悪いのは僕なんだ。
僕なんかのために泣くことはないんだ。

そう言いたいのに、口が上手く開かない。
胸が締め付けられるように苦しくなった。

「…………ペロー」

涙に濡れた瞳で、レイラさんが僕の目を見つめて言う。

「……………貴方は、もう人間なんかでいてはいけないわ」

レイラさんの綺麗な顔が、僕に近づいてくる。
ドキドキする。
頭がボーっとする。

混乱する意識の中で僕は、レイラさんの唇の奥に二本の牙が光るのを確かに見た。



…………


………………


市立円崇学園サッカー部が、旧校舎の崩落事故に巻き込まれて重傷。
今年の全国大会での活躍が期待されていたチームに起きた突然の事故に、全国が騒然となった。

市立円崇学園サッカー部員数名と、同野球部員数名が、放課後旧校舎にいた所、老朽化による校舎の崩落に巻き込まれ重傷に。
全員が腕や足に骨折等の重傷を負い、一部は試合復帰所か日常生活すらまともに遅れない状態に。

しかし、不可解な点も多い。
崩落した校舎の床は、今までも軋む事はあっても崩落の兆候のような物は見られていなかった。
何よりも崩落事故が起きたのは日の沈みきった夜中で、練習でもないのに何故部員達があの場にいたのか。

警察は事態を究明すべく奔走しているが、今だ事件の真相は闇の中である…………。


……………………


…………



事件から、一月が過ぎた。

「ようこそペロー、貴族会へ」

僕は、レイラさんに連れられて、レイラさんが会長を勤める「貴族会」に訪れていた。

校舎から少し離れた場所に建てられた建物。
戦前に校内の教会として建てられ、今まで物置小屋代わりに使われていた物を改装して使っているここが、貴族会の活動拠点。

スクールカーストから独立した、乙女の楽園たる貴族会。
その長たるレイラさんとの密会がバレた時には、きっと貴族会の女子達は僕を八つ裂きにするのだろうとさえ思えたが、不思議にも彼女達が僕に不快感を見せる事はなかった。
むしろ。

「あの子がお姉様の言ってた……」
「なんて可愛らしいのかしら♪」
「レイラお姉様と一緒にいる姿、絵になるわぁ〜」

レイラさんが話を回してくれていたのか、そのような事はなかった。
僕やレイラさんが、件の崩落事故の容疑者として問われなかったのも、彼女達が裏から手を回してくれていたかららしい。

皆優しい(一部妖しいが)赤い瞳でレイラさんと僕を見つめている。

………赤い瞳?

「レイラさん、もしかしてこの人達も?」
「ええ、皆、私達の仲間よ」

僕の問いに、レイラさんは黒曜石のような紫の瞳を少しだけ赤く染めて、イタズラな笑みを浮かべた。


…………あの事件のあと、僕はレイラさんの正体を知った。

レイラさんは吸血鬼、「ヴァンパイア」と呼ばれる魔物の一族らしいが、僕の知るヴァンパイアとは少し違うらしい。
何でも、この世界とは別に「魔界」と呼ばれる、魔王によって統治される魔物の世界があり、レイラさんはそこから来たとの事。

昔、魔物と人は共に暮らしていた。
僕とレイラさんのように話し、愛し合い、夫婦になる者もいた。
所が、神様はそれを良しとしなかったらしく、魔物を倒す「勇者」を産み出した。
結果、魔物の多くが勇者によって駆逐され、魔界に逃げ延びた。
魔物が産み出した魔法の多くは忘れ去られ、代わりに僕の知る科学技術による社会が生まれた。

レイラさん──本名「レーラ・デュマ・アレキサンドリア」──は、人間界が神々の目から遠退いた今を見計らい、再び人間界に再進行する為の下準備をしに来た、所謂先発隊。

貴族会の女子達をヴァンパイアに変えたのも、その一環らしい。

「最も、男の子を魔物化するの予定は早めなければね……」

ギプスに巻かれた僕の右手を見て、レイラさんが悔しそうな顔を浮かべる。


……………本来ヴァンパイアは、魔界の政治の中核を担う高貴な種族で、他の魔物と違って人間を下等な存在と見下す事が多い。

レイラさんもその一人であったが、レイラさんは人間の全てを見下す訳ではなく、人間の文化、芸術に興味を持っていた。

だから、この貴族会で人間の貴族の真似事をしてお茶会を開いたりもするし、
貴族会の部屋に、趣味で集めた絵画や船の模型を飾ったりもしている。

僕に話しかけたのも、僕がバイオリンを弾いているのを見て、芸術の解る人間だと思ったかららしい。


…………ちなみに、奴等のような奴は「芸術を軟弱な趣味と見下す単純なマッチョ思考しかできない私の一番嫌いなタイプの人間」との事…………。


「いつも貴方に弾かせてばかりだから今日は私がバイオリンを聞かせてあげるわ」

レイラさんの手には、僕と彼女が出会う切っ掛けとなった古びたバイオリン。
僕はその隣で、椅子に腰掛けている。

「すぅーっ…………」

レイラさんが息を吸い、弓をバイオリンの弦にかけ、弾いた。

美しい音色だが、聞いたことのない曲だ。
恐らく、彼女の故郷……魔界の曲なのだろう。

目を閉じれば、浮かんでくる。
レイラさんの語った、いずれ来る、地上が魔物で満ちる時が。
人々を取り巻く苦しみも悲しみも取り払われ、永久の快楽に溺れる日が。



僕が「いつか覚める夢」だと思っていた物は、いつの間にか「永遠に覚めぬ夢」になろうとしている。

惨めさを降り注がせる太陽は沈み、紅い優しい光を放つ月がその顔を覗かせている。

この場にいる、夜の女王とそのしもべ達からなる夜の一族。
それに囲まれ、インキュバスに……もう人間で無くなりつつある僕は、今ま感じた事のない安心感を感じていた。



………………太陽の沈む刻は、もうすぐだ。
16/12/12 21:09更新 / エロアリエロナシエロエロ

■作者メッセージ
初めまして。エロナシエロアリエロエロと申します。
この度は私の初投稿作品をご覧いただき、ありがとうございます。
しかし公式のヴァンパイアとは大きく違う物になってしまいまいた、申し訳ございません。

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