カヌクイ 第五話 男の甲斐性と女の事件性 【中篇】
空気の断裂が庭石を断つ。口元だけを笑みに歪めた少女は、音速超過の斬撃を身体の一部、破れた振り袖から覗く長大な鎌で繰り出す。
「ただいま現場からお伝えしています。間断の差が激しい今日の天候は荒れ模様のようです」
「・・・最近、お前の冗談にユーモアが足らない事が解った」
会話の間にも、頭上は真空波の嵐。
かたや、多少着馴れた様子のある黒のスウェット姿の高校一年、細目の面立ちが特徴である杵島 法一(キシマホウイチ)。
かたや、着古された印象のある古いデザインの礼服姿をした高校二年、オールバックに鋭い眼差しが特徴である枝節 布由彦(エダフシフユヒコ)こと自分。
地盤の比較的緩い位置を布由彦が自身の特技で割り出し、法一が咄嗟にガントレットの衝撃波で塹壕を掘ったのだが、その頭上を烈風とカマイタチが吹き荒ぶ。
土が抉れた瞬間に礫が飛来したのか、法一の頬へ一文字の傷が赤く描かれる。
「あははははははははははははははははははははははははははは!!」
木霊す声から守るよう、一人の少女を庇う法一は、蒼褪めた顔でこちらを見る。
「・・・とりあえずここは若い二人に任せて、帰っても?」
「てもー?」
「困る。今は困る。というより、離脱は無理だろう」
「それもそうだが」
事態は。
なんか悪化していた。
時間は遡る。
要約。カンジナバル(龍の眷属で法一の彼女)が家出した頃、布由彦に突如持ち上がった見合い話。
仔細に説明するのであれば、恩人であり、家族同様である勇登氏から聞かされた話とは、日貫射筋の御三家、始祖から続く直系の家柄に近しい女性との婚約を前提とした見合い話であったという。
「断るわけにもいかないが、相手の意図も解るので、どうにか破談にはしたい」
法一のアパート。テーブル越しに向かい合う二人は、難しい顔で向かい合う。
「それでビターを彼女役の影武者に仕立てて、早々に事を収めてしまいたいと?」
「理解が早くて助かる。ところで、本当に彼女を探さなくても?」
「そのうち冷静にはなるだろう。頭が冷えてからでないと話もできない」
「そういうものか?」
彼等の背後、法一の別途で眠る少女、その首には欠けた首飾り。その所為か、実像はたまにぼやけ、その髪は緋色に、頭には角が生えた姿が幻影のように揺れ動き、ちらついていた。
「彼女も、魔物か」
「だからだ。そうでもなければ警察に通報して話は終わりだろう?」
「その通りだが、これからどうするつもりだ?」
「それをカンジナバルに頼むところだったのだが、あの女が勘違いして家出した」
「・・・どっちもどっちな気がするのだが」
ぼやく布由彦の声に反応してか、ベットの彼女が目を覚ます。
身体を起こす緋色の髪の少女、一瞬、布由彦を警戒してか身を強張らせるが、法一が身構えていない姿に安心したのか、一応の警戒を解く。
元々が柔和な風貌であり、緊張した顔より、柔らかな微笑みの似合う子であった。
「起きたか。それで、名前は?何処から来た?」
「あぁ、あと氏族が解ればそれも。場合によってはこちらから知り合いを探せる」
「私、はー、あー、うー」
ぽつり、ぽつりと、言葉を続ける。
とりとめもない内容へ、二人は黙って耳を傾けた。
エイナン。そう名乗った緋色の髪の隙間から角の伸びる少女。
種族はホブゴブリン。小鬼の種族、ゴブリンの中に稀に生まれる希少種でもあり、族長などには彼女達から選ぶ習慣などもあるという。
そんなゴブリンの氏族の中でも、彼女達は別の魔物との交流も少なく、大陸の東北に居を構えて寒冷地で穏やかに暮らしていたという。
「なーんもないのに、故郷だからかなー?なんかすきだったの」
薄暗い雲に灰色ばかりの空。薄く煙の棚引くような陰鬱な北ではあったものの、小鬼達は山林での洞窟生活にも慣れ、時に人里でイタズラをしながら楽しく暮らしていた。
そんな平和な種族であったのだが、突然に教団が山へ侵入し、大きな争いが起きた。
「なんかねー、龍狩りだって。山の石が欲しいから、どけってー」
鉱山資源の発掘を目的に龍を狩ろうとした、だが、龍退治に向かった信者は全滅。龍は逃亡したものの、山は大規模な術式によって侵入が不可能となっていた。
術式の解除は人間に叶わず、結局はその場に居た教団関係者も内部分裂、そのまま引き上げたという。
「けどねー、山には魔物や人が入れなくなったせいでー、冬が越せなくなっちゃったのよー」
その後、近くに隠れ里を形成していた東方移民の力を借りて、一時的に異世界の縁故を頼ってきたという。
「なんかねー、うちの一族の出身で、今、人と一緒に孤児院してる子がいるんだけど、その知り合いの人のそのまた知り合いの人を頼って、こっち来たのー。けど、なんかあっちの村で魔力がどーのこーのあったとかで、ゲートから飛ばされた先がバラバラになっちゃってー」
その後、こちらの仲間に世話になろうとしたものの、運悪く落下の衝撃で気絶してしまったらしい。
「堅い地面だったからー、ちょっとへこんじゃったー。ほらー、擦り傷ー」
そう言って腕の端、エイナンは血の滲む絆創膏を指で示した。
「どうも、マンションの屋上レベルの高さから落ちてきたらしくてな。路面にクレーターがあった」
思わず携帯で撮影してしまったらしく、保存された画像には、路面が陥没した様子がはっきりと写っていた。
「で?知り合いは?」
「んーと、えーと、わかんないー」
二人が揃って肩を落とすと、やるせない様子で溜め息を吐き出した。
「仕方ない。こちらで確認できるか勇登(イサト)さんに聞いてみる。彼女はどうする?」
「面倒は見る。拾った生き物は最期まで面倒見た方が被害が少ない」
「苦労しているな」
「まぁな。ビターの方はすぐにでも用意しておく。それで、見合いはいつ?」
「・・・明日」
「・・・明日?」
苦笑いと渋面。上着を手にその場を逃げ去る布由彦を横目に、法一が重い重い溜め息と共に、胸の詰まりそうな気分を吐き出した。
「あの女、何処に行ったのか・・・」
寂しい、という感覚とは違う。だが。
やけに寒く感じた。
何か足らない気がして、落ち着かない気分にはなった。苛々と心の落ち着く場所がない気分に。
「あのー、ごはんとかー、いただけたらうれしーなー、とか」
「今用意する。黙って座ってろ」
不機嫌そうに扉を閉めた法一は、手慣れた様子で夕食の準備を始めた。
黒電話を耳に。ダイヤルは何度も回される。
無表情なまま回転するダイヤルは、無機質に、ジーコ、ジーコと音を重ねる。
「・・・・・」
繰り返される無言電話。
アマトリは首を傾げた姿勢のまま、無言で受話器を耳に当てていた。
電話は繋がらない。
何度試しても。
黒電話は、繋がらなかった。
古臭い礼服を手にする。陰鬱な気分は晴れず、落ち着かない気分だった。
倦怠感が全身を気だるくする。こういった人間関係の雑多な面倒事をしなければならないのだから、カヌクイという生業も存外に難しい。
枝節には一つの特徴がある。祖父の口にした話であるが、カヌクイであろうとも現在は一部にしか残っていない特異な性質が。
魔物の女との間に男の子供が生まれる。
その特異性は現在ではカヌクイ筋でも枝節など、僅かにしか残っていない。
身体能力の向上や魔力総量の増大を目的に、半ば義務的に魔物との婚姻を進めてきた一族も多かったことから、その特異性の減衰もまた必然だったのかもしれないが。
個人的には、過去にも種馬の扱いを受けかけた事が原因であまり異性への好意的な感情を持てなかった時期があるのは秘密である。
そういった憂鬱が原因か、夕食後にそのまま開始した掃除は、廊下の木目が輝くように感じるまで終わることはなかった。
全身が重たいのは、柱や壁まで雑巾で拭った所為もあるだろう。
法一の事も少し心配だったが、自分の方も面白くもない状況である。本家筋の狙いは、二重螺旋の中身だろう。
「明日の用意は?」
「できている。残念ながら」
廊下から音もなく姿を現すのはナナカマド、漆黒の毛並みに長い手足、犬と呼ぶには、聊か野性味の強い顔立ち巨犬。
「面倒なら、縁談を潰すのも吝かではないぞ。どうする?」
「余計に状況が悪くなる。死人が出るぞ」
「そうか?まったく残念だ。こう、ヒラヒラとした着物を着て、お前の彼女と名乗り出れば済むのだろう?」
想像したのはサイズの似合わないペット用ドレスを着たナナカマド。少しだけ噴き出し、心は軽くなった。
「失敬な男だな。昔はもっと可愛げがあったろうに」
「悪い。けど、カヌクイを続けているのもいうならば自分の我儘だからな。迷惑はあまりかけたくない」
「好きにしろ。いよいよとなれば、私も好きにする」
「それでは、明日も彼女の護衛頼む。日曜日だというのに、どうにも憂鬱だ」
だらだらと寝床の準備をする。何故か足元、一階で妙に威圧感漂う気配がしたものの、特技で調べるのも怖く、そのまま就寝した。
東京、触手鞄という謎の移動手段で辿り着いた場所は、郊外にある料亭だった。
「いつも悪い。今日は私用だったのに」
さも「気にするな」という動きで触手を振ると、閉じた鞄は近くの河川から海へと帰った。
「さて、そっちは?」
背中に風呂敷包みというクラシカルな旅装をしたエイナンは手を振ってくる。飾り気のない礼服姿の自分は、彼女の眼にはどう映っていたのか。
「はいー、とりあえず、お話にあった秋葉原という場所を目指してみますー。自由交流、なんたらだそうで。仲間もすぐに見つかりそうですしー」
「あぁ、こちらも貴重な情報をありがとう」
「・・・う、え」
青い顔の法一も、無言で手を振った。心なしか眼の焦点も合っていない。
「あ、ところで」
「何だ?」
「風○っていうのが一番稼げてキモチがいいって」
胸を強調するポーズでにへらと笑うエイナン。
「・・・軍資金渡しておくから安易にそっちの特性を生かそうとするな」
歌舞伎町の人気○○嬢という看板を連想して脳髄に痛みさえ覚える。
現代日本で安易に魔物の女性を放逐するのは危険だと認識。
国が傾く。
その後、エイナンへの教育的指導を終え、彼女は秋葉原へ旅立った。
よくよく考えてみると、秋葉原がああいった趣味の聖地となったのは、彼女達の所為かもしれない。
卵が先か、鶏が先かは不明だが。
そういった一幕の行われている間にも、酔った様子の法一は青い顔をしていたが、おぼつかない足取りでゆっくりと立ち上がる。
「なんだ、あの移動方法は・・・」
「悪い。新幹線代はなくてな。知り合いに頼んだ」
「あれが知り合い?」
加えて現在、財布の中身はほぼ空である。エイナンの旅費の工面に大半が費やされた。
「日貫射筋に連なる御三家のうち『恵比寿』家は東京に本家があってだな。その親戚という子も、こちらの方が都合がいいとかで」
深呼吸。
近くの自販機で買った炭酸を一気飲みしたところ、盛大なゲップと共に顔色が正常値へ戻る。
「・・・なんとか、回復した。それで作戦は」
「途中乱入のままで。近くに待機しておいて欲しい」
「報酬は?」
「晩飯奢り。あと、秋葉原の電気街の方も行こう」
「よし。ラジオ館方面の真空管売っているような店だからな」
交渉の締結と共に緊張した面持ちで料亭を見る。人生の大部分において、こんな場所の世話になる人間ではないと自負して生きてきたのだが。
「心臓が、妙に、痛い」
「頑張れ。こちらは庭の辺りで待機している。ビターもカスタマイズ済みだ。任せろ」
未だに血の気の薄い顔をした法一が、動きやすい黒いスウェットの上下という格好の上、両手の皮膜から展開した銀色の外套で全身を覆う。
材質は『アルミ箔』、固有の特徴は『軽金属』と『反射』。瞬間、外套の周囲で光が屈折したかと思った瞬間、首から上だけを残し、法一の全身が消えた。
「呼ぶ時は?」
「さ行の言葉で叫べ。サンダー、とか、しんぼる、とか、セラミック複合とか」
「・・・若干おかしい気もするが、解った。くれぐれも頼むぞ」
「解っている」
見えないフードが法一の頭へ被さる。同時、全身の見えなくなった法一の足音が、徐々に遠ざかっていった。
それにしても。
「まだ顔色が悪かったな・・・」
若干の心配と共に、自分は料亭の玄関へ歩き出した。
幾つか隠していたことがあった。
そのうち一つが、魔術式の行使が可能であるということ。
「・・・・・」
不機嫌そうな面持ちのアマトリが腰かけた場所は電柱の上。周囲からは魔力によって周辺空間との気圧差を発生、視認はできない状態としている。
文献によってブレス器官とも呼ばれるドラゴンの魔力中枢を喉を媒体に封じられ、言葉すら出せないでいるものの、貯蓄された魔力そのものは機能する現在。
だが、詠唱ができない人間にも使える魔術式なども多数存在する。魔方陣、術具、動作などによる術式、それらは彼女の得意分野でもあった。
姉。カンジナバル。
奔放で、品格に若干の疑問があるものの、その気質は人を惹きつけ、その笑顔は誰にとっても眩しい。そういった太陽を思わす人間であった。
それに引き換え、自分は。
他者の存在を許容できていない自覚はあった。自身の学識や嗜好を満足させる為の研究を優先させ、家族との交流でさえ煩わしく思っていた時期さえある。
そこまで考え、アマトリは溜め息を吐いた。何故か解らないが、気分が僅かに落ち込んでいる。その所為だと自分を叱咤する。
携帯電話・・・は、アマトリの方が持っていない。使い方もよく解らない。
メールという機能は魔力の介入さえできれば使用できそうであったが、アドレスの入力などに挫折し、入手を断念した。
そういった事情があるとはいえ、一応のつもりで姉の電話番号は聞いておいた。しかし、枝節家の黒電話を幾ら操作しようとも繋がらなかった。
彼氏との不仲、それだけが理由なのかと、疑問が浮かんで探していた。
その先が、この場所。
姉が、どこで布由彦の見合いと繋がった?
場所さえ特定できていれば、布由彦の能力が最も有用な気もしたのだが。
もし、自分が見合いを邪魔したと思われたら。
そう考えると、どうしてか。
癪だった。わちゃわちゃとしてうわーっとなる気がした。わーっと、多分、赤面くらい、するとカンジナバルにも想像できた。
この場に居るのは、そんなんじゃないから。
そんな自己弁護と共に魔力を鼻先で探り、姉を探し始めた。
知らぬ間にぐしゃぐしゃにした長い髪をなびかせ、彼女は飛んだ。
魔術式や特性は、個々人の性質から大きな影響を受ける。それはより精神性に近い理論と構築を行う魔術式において、イメージとは思考パターンや認識が発現と具現化の結果を決める。
法一の場合は、整理、構成、収集の気質、物事への探究心など、研究者としての特徴があり、その結果として多彩だが即応性に劣り、管理や行使に思考ロジックを必要とする『使役能力』を最も有用に使いこなす。
布由彦の場合は、鍛練、管理、思索の気質、精神修養への傾倒は、修験者、僧侶としての特徴があり、その結果として五感に等しく反応し、探査や索敵において比肩するもののない『固有振動数識域化能力』を持つ。
それとはまた別の進化をした男もいる。
「今日も元気だ上腕二頭筋に」
東京都郊外。料亭裏、山中。
僧服を破りかねん巨躯の男は、その全身を脈動させる。
「胸!筋!に加えて僧!帽!筋!」
発達した顎。
全身の筋肉を誇示したホーマン・バーナルド。そのまま筋肉が暴発するのではないかというポージングを繰り返したものの、何かの儀礼的なものが終わったのか即座に姿勢を正す。
教団において『聖クレザンスの使徒』の二つ名を以て呼ばれ、暴風と拳闘を主とした戦闘技能も備える。対人戦を得手とするが、前回は二対一の戦闘の結果、敗北している。
もっとも。
「まけ男ー」
赤い髪飾りの天使と。
「まけ男ー」
青い髪飾りの天使による罵倒を受けようとも。
「はっはっは。天使の方々は実に手厳しいな」
本人に堪えた様子はなかったが。
彼女達の名は『聖ランドリオンの守護天使』と呼ばれる。彼女達の本当の名を知るものは少ない。
「それで、龍すら支配するという男は何処に?」
「・・・何の話だ?」
三人が即座に反応する。否、即座に反応しなければならない距離に、その男は居た。
「だれ?」
「だれ?」
黒い衣裳を身に纏い、金属の棒を携えた東方移民。否、この国においては大多数を占める黒髪黒眼、黄色に近い肌の色をした男。
「き、君が、龍を支配するのかね?」
ホーマンは背筋の痛みに耐える。あまりの緊張に、唾液は枯れ、今にも咳き込みそうなほどである。
「支配などできない。だが、影響を与える事はできる。それだけだ」
「それ、だけ?」
「それ、だけ?」
天使二人は小首を傾げる。その顔には素直な疑問符しか張り付いていない。ホーマンと違い、彼に対し危機感は感じていないようだった。
その差異は定かでない。経験か、種族的な感覚か。
「そうだ。それは時に眠りであり、時に沈黙である事もある」
傍ら。樹木に背を預ける格好で座る姿勢のまま、その瞼の動く事のない一人の女性。
白い肌、結い上げて束ねた銀に近い灰色の髪の下には、薫るような艶のある美貌と、鋭い程の気配を湛えた美女。
巽・カンジナバル・夜子(タツミ・カンジナバル・ヤコ)。現在、地方で教鞭をふるう女教師にして魔物。
「この女が、本当に?確かに人とは思えぬ身体能力を有していたが」
「それは間違いない。この女の匂い、間違いなく龍だ」
確信した物言いで黒ずくめの男は言葉を続ける。何かの根拠があるらしい。
つい先日、二人がかりとはいえ使徒として一個師団とすら渡り合う自分が叩きのめされた記憶。
「・・・確かに、手加減していた。だが、あぁも容易く負けるとも思っていなかった」
敵に殺意がなかった。それが言い訳でしかない事は知っている。つい手を抜いてしまったのも、単に自分の甘さでしかない。
「まけいぬー」
「まけいぬー」
「手厳しい」
額をぺたんと叩く巨漢は、ずり落ちかけた毛布の位置を戻し、龍の女にかけ直したシェロウを一瞥する。彼は彼で、彼女の容姿、何故か銀の髪を短い時間見つめていた。
矮躯、黒髪と黒眼、そして黒い装束。暗い瞳の男。
枯れ果てた樹木のようであり、百年を聳える古木のようでもあった。
底が見えない。
咳払いし、自身の緊張を誤魔化したホーマンは、乾いた唇を湿らせ言葉を紡ぐ。
「ドラゴン、それに加えてあの男と共に居たなら間違いないな。転移術式の場所まで運ぼう。この場に張った隠蔽術式の効果は?」
「あと半時といったところだ」
「解った。それでは、天使殿は二人でこの女を運んでくれ。私は援護してくる」
「・・・援護?」
「このドラゴンを匿っていた男が、下で婚約をする事となっている。その話を少しばかり利用させてもらってな。これを契機に彼等を始末するよう同胞が動いている」
そう口にしたホーマンは、どこか不本意そうに、そして不満そうに。
「同胞は、羽蟻の連隊、要約すると異端審問会傘下の軍団に属す女でな。まぁ、他の教徒には知られてはならぬ者だ」
どこか不吉な単語、『羽蟻の連隊』。
自分が言った事を誤魔化すようにホーマンが懐を探った。
「あぁ、まぁ、報酬は払う。この女をこうも簡単に捕縛できたのは嬉しい誤算だった。礼を言うぞ。条件はこの本だったな」
古臭い一冊の冊子。よほどに歴史のあるものか、表面を覆うカバーには、経年劣化による傷も見受けられた。
表題は『自動人形生産記録』、彼等の使っている時代より遥かに古い言葉で記され、その背表紙には、通し番号のような記号も見受けられた。
「ロットナンバー00901番台の記録か・・・感謝する」
「そんな本一冊に、それほどの価値が?」
「そちらに、女を誘拐せねばならぬ、大義があるようにな」
「・・・そうだな、価値観とは、実に身勝手なものかもしれない」
自身の顎を撫で、不機嫌そうにホーマンがぼやく。
「それで、仕事はこれで?」
「あぁ、この女を移動させるくらいなら、我々にも出来る。拘束用の封印術式は?」
「門の近くにー」
「強力過ぎて、持ってこれないからー」
天使達とホーマンの会話に、ふと、シェロウの瞳が、それこそ瞳孔がそれと解らぬほど揺れるように動く。
「出来るのか?眠らせた龍を運ぶなど」
「は?」
その言葉に疑問符を返した時、眼下、旅館の方向から、激しい破砕音が響いた。
静かな空間。紹介者であるはずの勇登さんのいない座敷。
なにか違和感を感じたものの、それが緊張によるものか、自身の見知らぬ場所による警戒か、既に自分でも解らなかった。
そういった自身との対話、緊張感との戦いはさておき。数分が過ぎた頃。
仲居さんと思しき人の案内で遅れて部屋に帰った振り袖の女性。
その立ち居振る舞いは素晴らしく綺麗であり、思わず見惚れてしまうほどであった。
今更に思い出す。自分は、相手の容姿どころか、その名前すら知らなかったことに。
あまりの手際の悪さに思い至り、今更に勇登を罵倒したくもなるが、今となっては全てが遅すぎた。
「遅参ご容赦を。恵比寿の系譜、分家にあたる石津 曹子(イシズソウコ)と申します」
黒いセミロング。怜悧な容貌。刀剣の類、もしくは月。宵闇に輝く月光の印象。
青く済んだ藍色の振り袖に包まれた肢体には無駄がなく、初見で感じた所作の見事さも、彼女の印象に関係しているだろう。
上げた顔は無貌の如く、まるで表情がない。
つい、我が家に居座る無表情と比べてしまうものの、脳内ではまったく合致しない。彼女は無表情というより、表情を作るのが下手なのだろう。
「ご丁寧な名乗り痛み入る。カヌクイ筋の末席、五十鈴村、そして門を管理する枝節の後継、枝節 布由彦と申します」
深く礼をする。緊張は残るが、礼儀に則った名乗りに、古い習慣が反応した。
『いいか。礼儀とは鉾の先にある小さな余白のようなものだ。巧く使え。忘れるな』
人には歴史があり、自分にもある。
彼女にもあるのだろう。
そこへこんな場所で変な1ページが加わる事になるとは思ってなかっただろうが。
それにしても。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙が辛い。
どうにかしたい。
どうにもできない。
冷や汗だけがじりじりと額を焦がすように浮かぶ。
頭の中でテンプレートを探る。
「御、御趣味は?」
「狩りを」
「す、好きな料理は?」
「生肉と滴る血が」
息が詰まりそうだった。
どう考えても彼女も破談にしたいよう感じるが。
「何故、この縁談に?」
「それは」
彼女がゆっくりと振り袖を撒くっていく。
白い腕が露わになった次の瞬間。
二の腕に嵌められた腕輪が、一息で外された。
「貴方に死んで貰う為に」
口元だけに、壮絶な笑みが広がる。瞳には何も移さず、その耳に言葉が届いているのかどうかも定かではない。
「さ」
出来うる限りの速度で畳を蹴った。料亭の配慮か、部屋の傍に靴。料亭の庭を散歩でもという話は、実在するらしい。
爪先にひっかけ、踵を踏み潰す勢いで捻じ込む。
「サレンダァァッァァァァアァァァアァァァァ!!」
叫びと共に二つの影が跳び出す。
しかし、タイミングが悪かった。
背後から迫る大気の揺れ。その意味。
そこまで考えた次の瞬間、咄嗟に彼等を掴み、木々の影へ潜り込もうと急ぐ。
風が過ぎる。
吹き荒れた衝撃波と空を飛ぶ斬撃によって、周囲の風景は一変した。
幻想。
ふっ、と。
一息を吸い込むだけで空気の層が揺れる。それだけの大気を呑みこみ、喉を通して深呼吸した次の瞬間。
灼熱の炎は天を焦がし、地平までの大地を焼き払う。
国も、村も、人も、森も。
人に近しき姿ながら、鱗と翼、そして角を備えた我が身より放った吐息は、人々の阿鼻叫喚すら呑みこみ、大地を真っ赤に爛れた川とした。
悪龍。魔龍。そう呼ばれた過去を知るものは、この世界には居ない。
人間。
焦がれていたものと共に、強烈な嫌悪と嫉妬、そして憤怒があった。そういったものを、あの時はさほどに自覚していなかったと思う。
そして、私は間に合わなかった。
その灼熱の果てに居た、最も大事な人の一人を助けられず、幼い日は悲しみに沈んだ。
私の生まれは、他の龍とは違い、事情が異なる。
父は人の身でありながら龍である母を娶った。
遠く、険しい山に居を構えた龍の血族、母の元へ日参する靴裏は破れ、その身体にどれだけの傷と疲労を重ねようとも、父はその足を止めなかったのだという。
その出会いは遠く、人にしてみれば曾祖父の時代の話となるだろう。
だからこそ、この話を妹はしない。知らせるつもりもない。
寒い日。
それが父の手を握った、最期の日。
父は褐色の肌に黒い髪をした背の高い人で、農民として日々を耕作で過ごす身体は痩せていた。
浮いた肋は龍と婚姻し、そしてその末席へその身を置くようになっても変わらなかいまま。
時に禁忌とさえされる龍の力を分け、人の世の理から外れ、龍からも身内とは見られなくなった人間。
それでも父は優しく、そして、新たな土地もまた耕し、昨日も、今日も、明日も、大地と母、そして子供を愛した。それは気まぐれに助けられた命を賭けて、幾日も。
あの日、自分は幾つだっただろうか。
とても幼く、成長期よりずっと前だったかもしれない。
温かいパンと一握りのチーズ。羊のソーセージ。それに、母の好きだった地酒。
籠に押し込んだ買い物の戦利品、繋いだ父の手の大きさ、そういったものがたまらなく嬉しかった。絶え間ない陽光のように穏やかで、曇りのない笑顔が変化したのは、覚えている限りはこの一度だけである。
母の待つ山への帰り道。何人もの村人に囲まれた。
真実は誰も知らないはずだった。
自分達は山で暮らす家族で、母は植物学、父は樵と山岳植物の育成、それに狭い耕地での農作をやっている変わり者。
しかし、彼等は手に携えた剣を構えた。
口々に叫ぶ。それは集団の唱える詠唱のようであった。
そこには怨嗟と憎悪が混ざり合い、発せられた「魔物に狂わされた男」という言葉には、濁った狂信があった。
魔物。一部の教会勢力からは常に『人を喰う獣』と教えられる魔性の存在。しかし、魔物との交流を持つ人々は、彼女達が文化と思考を備える事を知る。
この場において、その全ては無駄な知識でしかなかったが。
怨嗟の理由は全ての不幸。憎悪の理由は全ての恐怖。
森で死んだ誰か、病を負った誰か、不作の続いた今、雨の降らない今、土地に実らない今、それら全ての原因も理由も『魔物』でよかった。
そこへ、誰かが異端を不審と思う。
山で暮らす家族。幸せそうな家族。
自分達に持ちえない物を持っている家族。
嫉妬が募る。
妬みが募る。
それら全てが暴発したのは、何が原因であったのか今は解らない。
殴られた。
叩かれた。
その一息で全てを灰と出来るドラゴンは、人である父もろとも燃やす以外の手段を知りえなかった。
無論、そんなものは選べない。
それでも、父は諦めなかった。
腕で剣を払い除け、背にはナイフを受けた痩せた身体で、私を抑えつけた男達を薙ぎ倒す。
逃げた私が母の元へ辿り着き、その助けを頼んだ時、父は瀕死だった。
それでも。
数十人を喰いとめ、母の顔を見た瞬間に笑ってさえいた。
あんな細い身体に、それだけの力が入った理由。
それは、絶叫と共に彼等を薙ぎ払い、血の華を地面へ咲かせたものと、同じだったのだろうか。
結局。
その国は焼き尽くされた。伏して動けない父を看護さえしなかった時、母は狂っていたのかもしれない。
小さな国であれ、街の全てが溶かされ、人々が影すら残されなかった。
そして母は討伐された。近隣の集まった大軍隊と傭兵の多くを道連れに。
父は泣き伏せた。
自分の無力さを嘆き、彼女の無念さを想い叫んだ。
それでも、私が居てしまったから。
父は、その顔を拭ってくれた。その足を必死に叩き、その顔を空へ向けた。
毀れ落ちた涙を見ぬように。
その後、片腕を失った父は母の親戚であった龍の世話となり、元の国へ戻る事も拒んだ末に守護を龍とする東方移民の隠れ里へ移り住む。
そこで東のドラゴンを始祖とするシャオと出会った。
私の涙もまた、シャオの慈愛によって次第に心の平穏を取り戻した。
父とシャオの再婚。
そしてアマトリが生まれた。
少し意地っぱりで、笑顔が苦手で、甘えるのも下手な妹。
その後、父が人の寿命として死ぬまでに、彼女は彼女で、何を受け取ったのだろうか。
解らない。
そのまま、眠りはずっとずっと深くなっていく。
思い出せない貌があるのに。声があるのに。
ずっとずっと深く。
余談。かまいたちとは気圧差による切断ではない。風圧で巻き込んだ砂や塵が風の速度によって人を裂くとの仮定が一般的。
「あははははははは!!!」
同時に、魔力という超常の現象を前にすれば、そういった物理学上の問題や疑問点は全て無視されるのまた必定。
「さて、どうする?」
「どうします?どうします?」
左右へ首を巡らせた一人の少女。その身を包むのがサイズオーバーのセーターとスカートとセーターをベルトで締め、妙に刺激的な格好をしている。
顔立ちは目が大きく瞳孔がぴくりとも動かない事が特徴的で、肌は陶磁器のように無機質であった。
微笑む、困る、笑う、そういった表情と表情の合間がなく、まるで定められたモーションに従っているようでさえあった。
今は、微笑むような表情のまま、首をかたかたと動かしていた。
「そうだな。しかし、あの子は正気か?こんな大立ち回りとは」
法一の言葉に悩む。受け答えこそしっかりしていたが、内容に関しては疑問点は多数浮かんだ。
「とりあえず、黙らせるよう」
こちらの言葉に法一が頷く。疲れた顔には泥がこびりついていた。
「了解。クインビー、ショットハンド」
「了解了解。shothand、burst!」
クインビ―と呼ばれた彼女の肘の周囲が開く。展開されたパネル状の装甲の裏から紫電が迸った次の瞬間、その腕は一直線に飛翔していた。
「!!」
「げっちゅー」
無機質な唇からの投げキッスと決め台詞。
曹子の首を掴んだ瞬間、極細のワイヤーがその身体を引き寄せた。
一瞬でこちらへ飛び込んできた身体が地面で一度バウンド、咄嗟に反応できなかったのか隙だらけであった。
しかし、塹壕から這い出したこちらの間合いに入る刹那。その両腕、長い鎌が蠢く。
「二刀流」
それを日本の黒い棍棒、否、鉄パイプが遮った。防御に動いていた自分は、その動きを攻撃へ転用するだけで予備動作は済む。
「二連」
掌が側頭と首を撫でるように触れる。その一瞬で収束した発剄、打撃振動による攻撃によって曹子は昏倒した。
「それで、彼女、正気だったのか?」
「いや、どうも・・・」
違和感。というより、思考のパターン、動きの所作にノイズのようなものがあった。
「そう、違う、違うんだよねー」
屋根瓦の上。退屈そうな様子の人影。
捻じれ、後方へ伸びた双角、幼い肢体には申し訳程度の布で縫製された服とマント、そして大鎌を携えた少女。
「魔、物?」
思わず呟いた言葉と同時、法一とクインビ―が身構える。
「教団、いや、違うのか?」
「ううん、当たり。教団」
独白に答えた声には嘲笑。それが誰に向けられたのかは解らない。
「私は『羽蟻の連隊』に属すバフォメットのアリアン」
バフォメット。教団とは教義の異なる宗教組織サバトにおいて、教主ともされる魔物の種族。
そんな相手が。
「教団の先兵を務めてるわけだからさ」
杖が唸る。魔力が収束する。
「死んでね?」
その声に殺意はない。ただ純然たる害意と、どこか気だるげで作業的な雰囲気ばかりが漂う。
その様子はとにかく。
こわく感じた。
− つづく −
「ただいま現場からお伝えしています。間断の差が激しい今日の天候は荒れ模様のようです」
「・・・最近、お前の冗談にユーモアが足らない事が解った」
会話の間にも、頭上は真空波の嵐。
かたや、多少着馴れた様子のある黒のスウェット姿の高校一年、細目の面立ちが特徴である杵島 法一(キシマホウイチ)。
かたや、着古された印象のある古いデザインの礼服姿をした高校二年、オールバックに鋭い眼差しが特徴である枝節 布由彦(エダフシフユヒコ)こと自分。
地盤の比較的緩い位置を布由彦が自身の特技で割り出し、法一が咄嗟にガントレットの衝撃波で塹壕を掘ったのだが、その頭上を烈風とカマイタチが吹き荒ぶ。
土が抉れた瞬間に礫が飛来したのか、法一の頬へ一文字の傷が赤く描かれる。
「あははははははははははははははははははははははははははは!!」
木霊す声から守るよう、一人の少女を庇う法一は、蒼褪めた顔でこちらを見る。
「・・・とりあえずここは若い二人に任せて、帰っても?」
「てもー?」
「困る。今は困る。というより、離脱は無理だろう」
「それもそうだが」
事態は。
なんか悪化していた。
時間は遡る。
要約。カンジナバル(龍の眷属で法一の彼女)が家出した頃、布由彦に突如持ち上がった見合い話。
仔細に説明するのであれば、恩人であり、家族同様である勇登氏から聞かされた話とは、日貫射筋の御三家、始祖から続く直系の家柄に近しい女性との婚約を前提とした見合い話であったという。
「断るわけにもいかないが、相手の意図も解るので、どうにか破談にはしたい」
法一のアパート。テーブル越しに向かい合う二人は、難しい顔で向かい合う。
「それでビターを彼女役の影武者に仕立てて、早々に事を収めてしまいたいと?」
「理解が早くて助かる。ところで、本当に彼女を探さなくても?」
「そのうち冷静にはなるだろう。頭が冷えてからでないと話もできない」
「そういうものか?」
彼等の背後、法一の別途で眠る少女、その首には欠けた首飾り。その所為か、実像はたまにぼやけ、その髪は緋色に、頭には角が生えた姿が幻影のように揺れ動き、ちらついていた。
「彼女も、魔物か」
「だからだ。そうでもなければ警察に通報して話は終わりだろう?」
「その通りだが、これからどうするつもりだ?」
「それをカンジナバルに頼むところだったのだが、あの女が勘違いして家出した」
「・・・どっちもどっちな気がするのだが」
ぼやく布由彦の声に反応してか、ベットの彼女が目を覚ます。
身体を起こす緋色の髪の少女、一瞬、布由彦を警戒してか身を強張らせるが、法一が身構えていない姿に安心したのか、一応の警戒を解く。
元々が柔和な風貌であり、緊張した顔より、柔らかな微笑みの似合う子であった。
「起きたか。それで、名前は?何処から来た?」
「あぁ、あと氏族が解ればそれも。場合によってはこちらから知り合いを探せる」
「私、はー、あー、うー」
ぽつり、ぽつりと、言葉を続ける。
とりとめもない内容へ、二人は黙って耳を傾けた。
エイナン。そう名乗った緋色の髪の隙間から角の伸びる少女。
種族はホブゴブリン。小鬼の種族、ゴブリンの中に稀に生まれる希少種でもあり、族長などには彼女達から選ぶ習慣などもあるという。
そんなゴブリンの氏族の中でも、彼女達は別の魔物との交流も少なく、大陸の東北に居を構えて寒冷地で穏やかに暮らしていたという。
「なーんもないのに、故郷だからかなー?なんかすきだったの」
薄暗い雲に灰色ばかりの空。薄く煙の棚引くような陰鬱な北ではあったものの、小鬼達は山林での洞窟生活にも慣れ、時に人里でイタズラをしながら楽しく暮らしていた。
そんな平和な種族であったのだが、突然に教団が山へ侵入し、大きな争いが起きた。
「なんかねー、龍狩りだって。山の石が欲しいから、どけってー」
鉱山資源の発掘を目的に龍を狩ろうとした、だが、龍退治に向かった信者は全滅。龍は逃亡したものの、山は大規模な術式によって侵入が不可能となっていた。
術式の解除は人間に叶わず、結局はその場に居た教団関係者も内部分裂、そのまま引き上げたという。
「けどねー、山には魔物や人が入れなくなったせいでー、冬が越せなくなっちゃったのよー」
その後、近くに隠れ里を形成していた東方移民の力を借りて、一時的に異世界の縁故を頼ってきたという。
「なんかねー、うちの一族の出身で、今、人と一緒に孤児院してる子がいるんだけど、その知り合いの人のそのまた知り合いの人を頼って、こっち来たのー。けど、なんかあっちの村で魔力がどーのこーのあったとかで、ゲートから飛ばされた先がバラバラになっちゃってー」
その後、こちらの仲間に世話になろうとしたものの、運悪く落下の衝撃で気絶してしまったらしい。
「堅い地面だったからー、ちょっとへこんじゃったー。ほらー、擦り傷ー」
そう言って腕の端、エイナンは血の滲む絆創膏を指で示した。
「どうも、マンションの屋上レベルの高さから落ちてきたらしくてな。路面にクレーターがあった」
思わず携帯で撮影してしまったらしく、保存された画像には、路面が陥没した様子がはっきりと写っていた。
「で?知り合いは?」
「んーと、えーと、わかんないー」
二人が揃って肩を落とすと、やるせない様子で溜め息を吐き出した。
「仕方ない。こちらで確認できるか勇登(イサト)さんに聞いてみる。彼女はどうする?」
「面倒は見る。拾った生き物は最期まで面倒見た方が被害が少ない」
「苦労しているな」
「まぁな。ビターの方はすぐにでも用意しておく。それで、見合いはいつ?」
「・・・明日」
「・・・明日?」
苦笑いと渋面。上着を手にその場を逃げ去る布由彦を横目に、法一が重い重い溜め息と共に、胸の詰まりそうな気分を吐き出した。
「あの女、何処に行ったのか・・・」
寂しい、という感覚とは違う。だが。
やけに寒く感じた。
何か足らない気がして、落ち着かない気分にはなった。苛々と心の落ち着く場所がない気分に。
「あのー、ごはんとかー、いただけたらうれしーなー、とか」
「今用意する。黙って座ってろ」
不機嫌そうに扉を閉めた法一は、手慣れた様子で夕食の準備を始めた。
黒電話を耳に。ダイヤルは何度も回される。
無表情なまま回転するダイヤルは、無機質に、ジーコ、ジーコと音を重ねる。
「・・・・・」
繰り返される無言電話。
アマトリは首を傾げた姿勢のまま、無言で受話器を耳に当てていた。
電話は繋がらない。
何度試しても。
黒電話は、繋がらなかった。
古臭い礼服を手にする。陰鬱な気分は晴れず、落ち着かない気分だった。
倦怠感が全身を気だるくする。こういった人間関係の雑多な面倒事をしなければならないのだから、カヌクイという生業も存外に難しい。
枝節には一つの特徴がある。祖父の口にした話であるが、カヌクイであろうとも現在は一部にしか残っていない特異な性質が。
魔物の女との間に男の子供が生まれる。
その特異性は現在ではカヌクイ筋でも枝節など、僅かにしか残っていない。
身体能力の向上や魔力総量の増大を目的に、半ば義務的に魔物との婚姻を進めてきた一族も多かったことから、その特異性の減衰もまた必然だったのかもしれないが。
個人的には、過去にも種馬の扱いを受けかけた事が原因であまり異性への好意的な感情を持てなかった時期があるのは秘密である。
そういった憂鬱が原因か、夕食後にそのまま開始した掃除は、廊下の木目が輝くように感じるまで終わることはなかった。
全身が重たいのは、柱や壁まで雑巾で拭った所為もあるだろう。
法一の事も少し心配だったが、自分の方も面白くもない状況である。本家筋の狙いは、二重螺旋の中身だろう。
「明日の用意は?」
「できている。残念ながら」
廊下から音もなく姿を現すのはナナカマド、漆黒の毛並みに長い手足、犬と呼ぶには、聊か野性味の強い顔立ち巨犬。
「面倒なら、縁談を潰すのも吝かではないぞ。どうする?」
「余計に状況が悪くなる。死人が出るぞ」
「そうか?まったく残念だ。こう、ヒラヒラとした着物を着て、お前の彼女と名乗り出れば済むのだろう?」
想像したのはサイズの似合わないペット用ドレスを着たナナカマド。少しだけ噴き出し、心は軽くなった。
「失敬な男だな。昔はもっと可愛げがあったろうに」
「悪い。けど、カヌクイを続けているのもいうならば自分の我儘だからな。迷惑はあまりかけたくない」
「好きにしろ。いよいよとなれば、私も好きにする」
「それでは、明日も彼女の護衛頼む。日曜日だというのに、どうにも憂鬱だ」
だらだらと寝床の準備をする。何故か足元、一階で妙に威圧感漂う気配がしたものの、特技で調べるのも怖く、そのまま就寝した。
東京、触手鞄という謎の移動手段で辿り着いた場所は、郊外にある料亭だった。
「いつも悪い。今日は私用だったのに」
さも「気にするな」という動きで触手を振ると、閉じた鞄は近くの河川から海へと帰った。
「さて、そっちは?」
背中に風呂敷包みというクラシカルな旅装をしたエイナンは手を振ってくる。飾り気のない礼服姿の自分は、彼女の眼にはどう映っていたのか。
「はいー、とりあえず、お話にあった秋葉原という場所を目指してみますー。自由交流、なんたらだそうで。仲間もすぐに見つかりそうですしー」
「あぁ、こちらも貴重な情報をありがとう」
「・・・う、え」
青い顔の法一も、無言で手を振った。心なしか眼の焦点も合っていない。
「あ、ところで」
「何だ?」
「風○っていうのが一番稼げてキモチがいいって」
胸を強調するポーズでにへらと笑うエイナン。
「・・・軍資金渡しておくから安易にそっちの特性を生かそうとするな」
歌舞伎町の人気○○嬢という看板を連想して脳髄に痛みさえ覚える。
現代日本で安易に魔物の女性を放逐するのは危険だと認識。
国が傾く。
その後、エイナンへの教育的指導を終え、彼女は秋葉原へ旅立った。
よくよく考えてみると、秋葉原がああいった趣味の聖地となったのは、彼女達の所為かもしれない。
卵が先か、鶏が先かは不明だが。
そういった一幕の行われている間にも、酔った様子の法一は青い顔をしていたが、おぼつかない足取りでゆっくりと立ち上がる。
「なんだ、あの移動方法は・・・」
「悪い。新幹線代はなくてな。知り合いに頼んだ」
「あれが知り合い?」
加えて現在、財布の中身はほぼ空である。エイナンの旅費の工面に大半が費やされた。
「日貫射筋に連なる御三家のうち『恵比寿』家は東京に本家があってだな。その親戚という子も、こちらの方が都合がいいとかで」
深呼吸。
近くの自販機で買った炭酸を一気飲みしたところ、盛大なゲップと共に顔色が正常値へ戻る。
「・・・なんとか、回復した。それで作戦は」
「途中乱入のままで。近くに待機しておいて欲しい」
「報酬は?」
「晩飯奢り。あと、秋葉原の電気街の方も行こう」
「よし。ラジオ館方面の真空管売っているような店だからな」
交渉の締結と共に緊張した面持ちで料亭を見る。人生の大部分において、こんな場所の世話になる人間ではないと自負して生きてきたのだが。
「心臓が、妙に、痛い」
「頑張れ。こちらは庭の辺りで待機している。ビターもカスタマイズ済みだ。任せろ」
未だに血の気の薄い顔をした法一が、動きやすい黒いスウェットの上下という格好の上、両手の皮膜から展開した銀色の外套で全身を覆う。
材質は『アルミ箔』、固有の特徴は『軽金属』と『反射』。瞬間、外套の周囲で光が屈折したかと思った瞬間、首から上だけを残し、法一の全身が消えた。
「呼ぶ時は?」
「さ行の言葉で叫べ。サンダー、とか、しんぼる、とか、セラミック複合とか」
「・・・若干おかしい気もするが、解った。くれぐれも頼むぞ」
「解っている」
見えないフードが法一の頭へ被さる。同時、全身の見えなくなった法一の足音が、徐々に遠ざかっていった。
それにしても。
「まだ顔色が悪かったな・・・」
若干の心配と共に、自分は料亭の玄関へ歩き出した。
幾つか隠していたことがあった。
そのうち一つが、魔術式の行使が可能であるということ。
「・・・・・」
不機嫌そうな面持ちのアマトリが腰かけた場所は電柱の上。周囲からは魔力によって周辺空間との気圧差を発生、視認はできない状態としている。
文献によってブレス器官とも呼ばれるドラゴンの魔力中枢を喉を媒体に封じられ、言葉すら出せないでいるものの、貯蓄された魔力そのものは機能する現在。
だが、詠唱ができない人間にも使える魔術式なども多数存在する。魔方陣、術具、動作などによる術式、それらは彼女の得意分野でもあった。
姉。カンジナバル。
奔放で、品格に若干の疑問があるものの、その気質は人を惹きつけ、その笑顔は誰にとっても眩しい。そういった太陽を思わす人間であった。
それに引き換え、自分は。
他者の存在を許容できていない自覚はあった。自身の学識や嗜好を満足させる為の研究を優先させ、家族との交流でさえ煩わしく思っていた時期さえある。
そこまで考え、アマトリは溜め息を吐いた。何故か解らないが、気分が僅かに落ち込んでいる。その所為だと自分を叱咤する。
携帯電話・・・は、アマトリの方が持っていない。使い方もよく解らない。
メールという機能は魔力の介入さえできれば使用できそうであったが、アドレスの入力などに挫折し、入手を断念した。
そういった事情があるとはいえ、一応のつもりで姉の電話番号は聞いておいた。しかし、枝節家の黒電話を幾ら操作しようとも繋がらなかった。
彼氏との不仲、それだけが理由なのかと、疑問が浮かんで探していた。
その先が、この場所。
姉が、どこで布由彦の見合いと繋がった?
場所さえ特定できていれば、布由彦の能力が最も有用な気もしたのだが。
もし、自分が見合いを邪魔したと思われたら。
そう考えると、どうしてか。
癪だった。わちゃわちゃとしてうわーっとなる気がした。わーっと、多分、赤面くらい、するとカンジナバルにも想像できた。
この場に居るのは、そんなんじゃないから。
そんな自己弁護と共に魔力を鼻先で探り、姉を探し始めた。
知らぬ間にぐしゃぐしゃにした長い髪をなびかせ、彼女は飛んだ。
魔術式や特性は、個々人の性質から大きな影響を受ける。それはより精神性に近い理論と構築を行う魔術式において、イメージとは思考パターンや認識が発現と具現化の結果を決める。
法一の場合は、整理、構成、収集の気質、物事への探究心など、研究者としての特徴があり、その結果として多彩だが即応性に劣り、管理や行使に思考ロジックを必要とする『使役能力』を最も有用に使いこなす。
布由彦の場合は、鍛練、管理、思索の気質、精神修養への傾倒は、修験者、僧侶としての特徴があり、その結果として五感に等しく反応し、探査や索敵において比肩するもののない『固有振動数識域化能力』を持つ。
それとはまた別の進化をした男もいる。
「今日も元気だ上腕二頭筋に」
東京都郊外。料亭裏、山中。
僧服を破りかねん巨躯の男は、その全身を脈動させる。
「胸!筋!に加えて僧!帽!筋!」
発達した顎。
全身の筋肉を誇示したホーマン・バーナルド。そのまま筋肉が暴発するのではないかというポージングを繰り返したものの、何かの儀礼的なものが終わったのか即座に姿勢を正す。
教団において『聖クレザンスの使徒』の二つ名を以て呼ばれ、暴風と拳闘を主とした戦闘技能も備える。対人戦を得手とするが、前回は二対一の戦闘の結果、敗北している。
もっとも。
「まけ男ー」
赤い髪飾りの天使と。
「まけ男ー」
青い髪飾りの天使による罵倒を受けようとも。
「はっはっは。天使の方々は実に手厳しいな」
本人に堪えた様子はなかったが。
彼女達の名は『聖ランドリオンの守護天使』と呼ばれる。彼女達の本当の名を知るものは少ない。
「それで、龍すら支配するという男は何処に?」
「・・・何の話だ?」
三人が即座に反応する。否、即座に反応しなければならない距離に、その男は居た。
「だれ?」
「だれ?」
黒い衣裳を身に纏い、金属の棒を携えた東方移民。否、この国においては大多数を占める黒髪黒眼、黄色に近い肌の色をした男。
「き、君が、龍を支配するのかね?」
ホーマンは背筋の痛みに耐える。あまりの緊張に、唾液は枯れ、今にも咳き込みそうなほどである。
「支配などできない。だが、影響を与える事はできる。それだけだ」
「それ、だけ?」
「それ、だけ?」
天使二人は小首を傾げる。その顔には素直な疑問符しか張り付いていない。ホーマンと違い、彼に対し危機感は感じていないようだった。
その差異は定かでない。経験か、種族的な感覚か。
「そうだ。それは時に眠りであり、時に沈黙である事もある」
傍ら。樹木に背を預ける格好で座る姿勢のまま、その瞼の動く事のない一人の女性。
白い肌、結い上げて束ねた銀に近い灰色の髪の下には、薫るような艶のある美貌と、鋭い程の気配を湛えた美女。
巽・カンジナバル・夜子(タツミ・カンジナバル・ヤコ)。現在、地方で教鞭をふるう女教師にして魔物。
「この女が、本当に?確かに人とは思えぬ身体能力を有していたが」
「それは間違いない。この女の匂い、間違いなく龍だ」
確信した物言いで黒ずくめの男は言葉を続ける。何かの根拠があるらしい。
つい先日、二人がかりとはいえ使徒として一個師団とすら渡り合う自分が叩きのめされた記憶。
「・・・確かに、手加減していた。だが、あぁも容易く負けるとも思っていなかった」
敵に殺意がなかった。それが言い訳でしかない事は知っている。つい手を抜いてしまったのも、単に自分の甘さでしかない。
「まけいぬー」
「まけいぬー」
「手厳しい」
額をぺたんと叩く巨漢は、ずり落ちかけた毛布の位置を戻し、龍の女にかけ直したシェロウを一瞥する。彼は彼で、彼女の容姿、何故か銀の髪を短い時間見つめていた。
矮躯、黒髪と黒眼、そして黒い装束。暗い瞳の男。
枯れ果てた樹木のようであり、百年を聳える古木のようでもあった。
底が見えない。
咳払いし、自身の緊張を誤魔化したホーマンは、乾いた唇を湿らせ言葉を紡ぐ。
「ドラゴン、それに加えてあの男と共に居たなら間違いないな。転移術式の場所まで運ぼう。この場に張った隠蔽術式の効果は?」
「あと半時といったところだ」
「解った。それでは、天使殿は二人でこの女を運んでくれ。私は援護してくる」
「・・・援護?」
「このドラゴンを匿っていた男が、下で婚約をする事となっている。その話を少しばかり利用させてもらってな。これを契機に彼等を始末するよう同胞が動いている」
そう口にしたホーマンは、どこか不本意そうに、そして不満そうに。
「同胞は、羽蟻の連隊、要約すると異端審問会傘下の軍団に属す女でな。まぁ、他の教徒には知られてはならぬ者だ」
どこか不吉な単語、『羽蟻の連隊』。
自分が言った事を誤魔化すようにホーマンが懐を探った。
「あぁ、まぁ、報酬は払う。この女をこうも簡単に捕縛できたのは嬉しい誤算だった。礼を言うぞ。条件はこの本だったな」
古臭い一冊の冊子。よほどに歴史のあるものか、表面を覆うカバーには、経年劣化による傷も見受けられた。
表題は『自動人形生産記録』、彼等の使っている時代より遥かに古い言葉で記され、その背表紙には、通し番号のような記号も見受けられた。
「ロットナンバー00901番台の記録か・・・感謝する」
「そんな本一冊に、それほどの価値が?」
「そちらに、女を誘拐せねばならぬ、大義があるようにな」
「・・・そうだな、価値観とは、実に身勝手なものかもしれない」
自身の顎を撫で、不機嫌そうにホーマンがぼやく。
「それで、仕事はこれで?」
「あぁ、この女を移動させるくらいなら、我々にも出来る。拘束用の封印術式は?」
「門の近くにー」
「強力過ぎて、持ってこれないからー」
天使達とホーマンの会話に、ふと、シェロウの瞳が、それこそ瞳孔がそれと解らぬほど揺れるように動く。
「出来るのか?眠らせた龍を運ぶなど」
「は?」
その言葉に疑問符を返した時、眼下、旅館の方向から、激しい破砕音が響いた。
静かな空間。紹介者であるはずの勇登さんのいない座敷。
なにか違和感を感じたものの、それが緊張によるものか、自身の見知らぬ場所による警戒か、既に自分でも解らなかった。
そういった自身との対話、緊張感との戦いはさておき。数分が過ぎた頃。
仲居さんと思しき人の案内で遅れて部屋に帰った振り袖の女性。
その立ち居振る舞いは素晴らしく綺麗であり、思わず見惚れてしまうほどであった。
今更に思い出す。自分は、相手の容姿どころか、その名前すら知らなかったことに。
あまりの手際の悪さに思い至り、今更に勇登を罵倒したくもなるが、今となっては全てが遅すぎた。
「遅参ご容赦を。恵比寿の系譜、分家にあたる石津 曹子(イシズソウコ)と申します」
黒いセミロング。怜悧な容貌。刀剣の類、もしくは月。宵闇に輝く月光の印象。
青く済んだ藍色の振り袖に包まれた肢体には無駄がなく、初見で感じた所作の見事さも、彼女の印象に関係しているだろう。
上げた顔は無貌の如く、まるで表情がない。
つい、我が家に居座る無表情と比べてしまうものの、脳内ではまったく合致しない。彼女は無表情というより、表情を作るのが下手なのだろう。
「ご丁寧な名乗り痛み入る。カヌクイ筋の末席、五十鈴村、そして門を管理する枝節の後継、枝節 布由彦と申します」
深く礼をする。緊張は残るが、礼儀に則った名乗りに、古い習慣が反応した。
『いいか。礼儀とは鉾の先にある小さな余白のようなものだ。巧く使え。忘れるな』
人には歴史があり、自分にもある。
彼女にもあるのだろう。
そこへこんな場所で変な1ページが加わる事になるとは思ってなかっただろうが。
それにしても。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙が辛い。
どうにかしたい。
どうにもできない。
冷や汗だけがじりじりと額を焦がすように浮かぶ。
頭の中でテンプレートを探る。
「御、御趣味は?」
「狩りを」
「す、好きな料理は?」
「生肉と滴る血が」
息が詰まりそうだった。
どう考えても彼女も破談にしたいよう感じるが。
「何故、この縁談に?」
「それは」
彼女がゆっくりと振り袖を撒くっていく。
白い腕が露わになった次の瞬間。
二の腕に嵌められた腕輪が、一息で外された。
「貴方に死んで貰う為に」
口元だけに、壮絶な笑みが広がる。瞳には何も移さず、その耳に言葉が届いているのかどうかも定かではない。
「さ」
出来うる限りの速度で畳を蹴った。料亭の配慮か、部屋の傍に靴。料亭の庭を散歩でもという話は、実在するらしい。
爪先にひっかけ、踵を踏み潰す勢いで捻じ込む。
「サレンダァァッァァァァアァァァアァァァァ!!」
叫びと共に二つの影が跳び出す。
しかし、タイミングが悪かった。
背後から迫る大気の揺れ。その意味。
そこまで考えた次の瞬間、咄嗟に彼等を掴み、木々の影へ潜り込もうと急ぐ。
風が過ぎる。
吹き荒れた衝撃波と空を飛ぶ斬撃によって、周囲の風景は一変した。
幻想。
ふっ、と。
一息を吸い込むだけで空気の層が揺れる。それだけの大気を呑みこみ、喉を通して深呼吸した次の瞬間。
灼熱の炎は天を焦がし、地平までの大地を焼き払う。
国も、村も、人も、森も。
人に近しき姿ながら、鱗と翼、そして角を備えた我が身より放った吐息は、人々の阿鼻叫喚すら呑みこみ、大地を真っ赤に爛れた川とした。
悪龍。魔龍。そう呼ばれた過去を知るものは、この世界には居ない。
人間。
焦がれていたものと共に、強烈な嫌悪と嫉妬、そして憤怒があった。そういったものを、あの時はさほどに自覚していなかったと思う。
そして、私は間に合わなかった。
その灼熱の果てに居た、最も大事な人の一人を助けられず、幼い日は悲しみに沈んだ。
私の生まれは、他の龍とは違い、事情が異なる。
父は人の身でありながら龍である母を娶った。
遠く、険しい山に居を構えた龍の血族、母の元へ日参する靴裏は破れ、その身体にどれだけの傷と疲労を重ねようとも、父はその足を止めなかったのだという。
その出会いは遠く、人にしてみれば曾祖父の時代の話となるだろう。
だからこそ、この話を妹はしない。知らせるつもりもない。
寒い日。
それが父の手を握った、最期の日。
父は褐色の肌に黒い髪をした背の高い人で、農民として日々を耕作で過ごす身体は痩せていた。
浮いた肋は龍と婚姻し、そしてその末席へその身を置くようになっても変わらなかいまま。
時に禁忌とさえされる龍の力を分け、人の世の理から外れ、龍からも身内とは見られなくなった人間。
それでも父は優しく、そして、新たな土地もまた耕し、昨日も、今日も、明日も、大地と母、そして子供を愛した。それは気まぐれに助けられた命を賭けて、幾日も。
あの日、自分は幾つだっただろうか。
とても幼く、成長期よりずっと前だったかもしれない。
温かいパンと一握りのチーズ。羊のソーセージ。それに、母の好きだった地酒。
籠に押し込んだ買い物の戦利品、繋いだ父の手の大きさ、そういったものがたまらなく嬉しかった。絶え間ない陽光のように穏やかで、曇りのない笑顔が変化したのは、覚えている限りはこの一度だけである。
母の待つ山への帰り道。何人もの村人に囲まれた。
真実は誰も知らないはずだった。
自分達は山で暮らす家族で、母は植物学、父は樵と山岳植物の育成、それに狭い耕地での農作をやっている変わり者。
しかし、彼等は手に携えた剣を構えた。
口々に叫ぶ。それは集団の唱える詠唱のようであった。
そこには怨嗟と憎悪が混ざり合い、発せられた「魔物に狂わされた男」という言葉には、濁った狂信があった。
魔物。一部の教会勢力からは常に『人を喰う獣』と教えられる魔性の存在。しかし、魔物との交流を持つ人々は、彼女達が文化と思考を備える事を知る。
この場において、その全ては無駄な知識でしかなかったが。
怨嗟の理由は全ての不幸。憎悪の理由は全ての恐怖。
森で死んだ誰か、病を負った誰か、不作の続いた今、雨の降らない今、土地に実らない今、それら全ての原因も理由も『魔物』でよかった。
そこへ、誰かが異端を不審と思う。
山で暮らす家族。幸せそうな家族。
自分達に持ちえない物を持っている家族。
嫉妬が募る。
妬みが募る。
それら全てが暴発したのは、何が原因であったのか今は解らない。
殴られた。
叩かれた。
その一息で全てを灰と出来るドラゴンは、人である父もろとも燃やす以外の手段を知りえなかった。
無論、そんなものは選べない。
それでも、父は諦めなかった。
腕で剣を払い除け、背にはナイフを受けた痩せた身体で、私を抑えつけた男達を薙ぎ倒す。
逃げた私が母の元へ辿り着き、その助けを頼んだ時、父は瀕死だった。
それでも。
数十人を喰いとめ、母の顔を見た瞬間に笑ってさえいた。
あんな細い身体に、それだけの力が入った理由。
それは、絶叫と共に彼等を薙ぎ払い、血の華を地面へ咲かせたものと、同じだったのだろうか。
結局。
その国は焼き尽くされた。伏して動けない父を看護さえしなかった時、母は狂っていたのかもしれない。
小さな国であれ、街の全てが溶かされ、人々が影すら残されなかった。
そして母は討伐された。近隣の集まった大軍隊と傭兵の多くを道連れに。
父は泣き伏せた。
自分の無力さを嘆き、彼女の無念さを想い叫んだ。
それでも、私が居てしまったから。
父は、その顔を拭ってくれた。その足を必死に叩き、その顔を空へ向けた。
毀れ落ちた涙を見ぬように。
その後、片腕を失った父は母の親戚であった龍の世話となり、元の国へ戻る事も拒んだ末に守護を龍とする東方移民の隠れ里へ移り住む。
そこで東のドラゴンを始祖とするシャオと出会った。
私の涙もまた、シャオの慈愛によって次第に心の平穏を取り戻した。
父とシャオの再婚。
そしてアマトリが生まれた。
少し意地っぱりで、笑顔が苦手で、甘えるのも下手な妹。
その後、父が人の寿命として死ぬまでに、彼女は彼女で、何を受け取ったのだろうか。
解らない。
そのまま、眠りはずっとずっと深くなっていく。
思い出せない貌があるのに。声があるのに。
ずっとずっと深く。
余談。かまいたちとは気圧差による切断ではない。風圧で巻き込んだ砂や塵が風の速度によって人を裂くとの仮定が一般的。
「あははははははは!!!」
同時に、魔力という超常の現象を前にすれば、そういった物理学上の問題や疑問点は全て無視されるのまた必定。
「さて、どうする?」
「どうします?どうします?」
左右へ首を巡らせた一人の少女。その身を包むのがサイズオーバーのセーターとスカートとセーターをベルトで締め、妙に刺激的な格好をしている。
顔立ちは目が大きく瞳孔がぴくりとも動かない事が特徴的で、肌は陶磁器のように無機質であった。
微笑む、困る、笑う、そういった表情と表情の合間がなく、まるで定められたモーションに従っているようでさえあった。
今は、微笑むような表情のまま、首をかたかたと動かしていた。
「そうだな。しかし、あの子は正気か?こんな大立ち回りとは」
法一の言葉に悩む。受け答えこそしっかりしていたが、内容に関しては疑問点は多数浮かんだ。
「とりあえず、黙らせるよう」
こちらの言葉に法一が頷く。疲れた顔には泥がこびりついていた。
「了解。クインビー、ショットハンド」
「了解了解。shothand、burst!」
クインビ―と呼ばれた彼女の肘の周囲が開く。展開されたパネル状の装甲の裏から紫電が迸った次の瞬間、その腕は一直線に飛翔していた。
「!!」
「げっちゅー」
無機質な唇からの投げキッスと決め台詞。
曹子の首を掴んだ瞬間、極細のワイヤーがその身体を引き寄せた。
一瞬でこちらへ飛び込んできた身体が地面で一度バウンド、咄嗟に反応できなかったのか隙だらけであった。
しかし、塹壕から這い出したこちらの間合いに入る刹那。その両腕、長い鎌が蠢く。
「二刀流」
それを日本の黒い棍棒、否、鉄パイプが遮った。防御に動いていた自分は、その動きを攻撃へ転用するだけで予備動作は済む。
「二連」
掌が側頭と首を撫でるように触れる。その一瞬で収束した発剄、打撃振動による攻撃によって曹子は昏倒した。
「それで、彼女、正気だったのか?」
「いや、どうも・・・」
違和感。というより、思考のパターン、動きの所作にノイズのようなものがあった。
「そう、違う、違うんだよねー」
屋根瓦の上。退屈そうな様子の人影。
捻じれ、後方へ伸びた双角、幼い肢体には申し訳程度の布で縫製された服とマント、そして大鎌を携えた少女。
「魔、物?」
思わず呟いた言葉と同時、法一とクインビ―が身構える。
「教団、いや、違うのか?」
「ううん、当たり。教団」
独白に答えた声には嘲笑。それが誰に向けられたのかは解らない。
「私は『羽蟻の連隊』に属すバフォメットのアリアン」
バフォメット。教団とは教義の異なる宗教組織サバトにおいて、教主ともされる魔物の種族。
そんな相手が。
「教団の先兵を務めてるわけだからさ」
杖が唸る。魔力が収束する。
「死んでね?」
その声に殺意はない。ただ純然たる害意と、どこか気だるげで作業的な雰囲気ばかりが漂う。
その様子はとにかく。
こわく感じた。
− つづく −
11/03/08 00:21更新 / ザイトウ
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