カヌクイ 第三話 聖者が家を焼く
星すら遠い、日暮れの後の長い長い時間。
冬の夜はまるで闇までが凍ってしまったように感じる。
全てが静まり返っていた。
聖者の行進。
唱えられる文言。異なる国の言葉で紡がれる祈り。白いトーガの上、銀に輝く鎧と、あたかも聖骸布を思わす薄汚れた赤の外套。その粛々とした様に、信仰を持たぬ者までが手を合わせた。
教団。
その名を知らぬ者はおらず、その名は人の歴史と等価とも呼ばれる。
しかし、その名はあまりに偉大であり、そして長い時間を経ていた。
歪みと破綻。
彼等は教義を同じにしながら、道を違えてしまった。
否、同じ主を奉じながらも、本来とは違う方向へ導かれてしまっていった。
信仰に無垢であるが為に。
信仰を大切とするが為に。
狂信者。
親はない。だが信仰に救われた。
学もない。だが信仰に教えられた。
神やその御子を偉大なる父に。
経典と祈りを、学問と道徳に。
彼等は神の子であるが故に、異教を許さぬ者となった。
子は呟く。子は祈る。彼らの神に。彼らの言葉で。
神よ。神よ。
我等を赦し給え。我等を許し給え。
不義に断罪を。悪徳に裁きを。
神よ。神よ。
我等は教義を真とせり。我等は協議を真とせり。
神よ。神よ。
祈りの言葉は朗々と響く。凍える大気の中、それはあまりに神聖であった。
一軒の古びた家の前へ聖者達は足を止める。
「儀仗の使途よ、掲げよ」
低く通る男の声。顔をフードで隠した人々が重たげな杖を高く掲げる。
「聖なる炎よ」
『聖なる炎よ』
多重詠唱。
魔術式と呼ばれる技術体系において、同じ音域、同じリズムを唱和する事で威力、範囲、継続時間、全てを増幅していく。
しかし、彼等は魔術という言葉でその業を表現しない。
それは『神の御技』であり『奇蹟』である。
「点れ」
『点れ』
爆砕。
一瞬で膨れ上がった爆炎が家を覆う。
全てが焼き尽くされる。全てが等しく灰へと還る。
物理学的な燃焼の様であり、地球という循環にける一端でしかない。
だが、家を、人の営みを燃やし尽くす炎を、誰が讃えるというのか。
「いい加減にしろ。人の家で焚き火をするつもりか?」
大きく打ち鳴らされる掌。
それだけで炎が消えた。
この敷地全体に施された防御術式に初めて気付いたとばかりのざわめき。人の中心、金の縁取りに覆われた純白のローブを身に纏った男が舌打ちする。
「静まれ。異教徒の技に、我等が怯える必要はあるまい」
信者達が次第に落ち着く。
その間に夜の闇より、カンテラに照らされた空間へ姿を現す青年が一人。
黒髪は撫でつけ、シャツの上にはどてらを身に纏い、なんともしまらない。
「この寒い日に点された火が放火とは。この罰当たりめ」
くしゃみを一つ。枝節布由彦(エダフシフユヒコ)は、不意の来訪者に驚いた様子もなく眉間へ皺を寄せていた。
灯油ストーブの灯油を詰めていただけだったのだが。
盛大な炎に自宅の敷地が包まれた数秒後、俺は嘆息していた。
「異教徒め。その東屋に魔に属す蜥蜴を匿っている事は解っておる。しばしの猶予を与えよう。汝が帰依の意思を見せるというのであれば、こちらとしてもそう邪険とするつもりはない」
尊大、それでいてどこか的の外れた言葉。
寒さに震えるように地面の上で動かしていたサンダルの上、足裏が振動を通して相手の人数と様子を把握していく。
物の振動を感知する『固有振動数識域化能力』。つまりそれは、感知するだけという、非常に地味な能力である。
しかし、振動とは全てのものに共通するう物理的な運動である。
心臓、呼吸、身動ぎ、喋る時の呼吸、胸を張る動作。
どれ一つ欠かせない要素である。
心拍数が最も大きい人間。
奇しくも、今も弁舌を振るっている指導者であった。
短く思案すると、サンダルで地面を擦り、真っ直ぐに指導者へ歩き出した。
脇に控えていた護衛者が立ち塞がるが、何も持っていない事を示し、祈りの所作をすると明らかに動きが悪くなった。
異教徒が敵。だが、相手が同じ教義による動作や言葉を示したとすれば?
どこかに逡巡が現れる。実に簡単な理屈である。
一人、長大で古びた白銀の槍を手にした巨漢が居たが、武器を構えこそするものの、振るおうとはしない。それに手にした武器からは、まるで空気のように振動がしない。むしろ空間に反射する様々な『振動』を吸収すらしているようだ。
この世の物質とは思えないものであった。
よくよく見れば、武装していない者がいないほどの一団であったが、血気に逸り、無手の小僧一人を惨殺する様子はない。歪められる前、本来の教義が余程に優秀なのだろうな、と一人納得する。
「神の使途よ、この哀れな子羊へお答えくださいませ」
両手を組む。
どてら姿ではさぞや滑稽だろうに、違う国の常識で動いている彼等は、この動きだけで声を漏らした。
指導者、この場の指揮官と思しき男は、さも大儀そうに頷く。
「申してみよ」
「これは異な事を。貴方には問うていません。この中で、貴方だけが神を信じてはいないというのに」
「な」
男が絶句した。あちらの世界では悪人までが純朴なのだろうかと、心の底では呆れる。
「な、何を根拠に!?」
声を荒げる男に、指先を動かす。
「貴方は金を着ていなさる。清貧を如何になされた?」
「こ、これは!神の威光を示すが為の装飾であり!」
「なんと!神を真似るとはあまりに不遜!あぁ!なんと不信なのか!神よ!この者をお許しください!」
これだけ棒読みの演技でさえ、男は悲しみ、女は嘆く。
指揮官であったはずの男から離れていき、白銀の槍を携えた者や、護衛であった者までが離れる。
異世界、異なる空間、その中で、彼らが縋っていたはずのものが、まるで紙人形のように頼りないものになってしまった今。
易い。
宗教の真意を履き違えた面々を前に、実際には信仰の「し」の字も知らない自分が立ち回っているのだからざまあない。
「さぁ、元の世界へ帰りなさい。神は見捨ててはいません。我が家の裏手、家路へと至る扉は今も開かれているのです」
まるで声に合わせるよう、蔵の扉、異世界へ続くゲートが開かれた。
実はナナカマドが闇に紛れて戸を引いたに過ぎないが、彼等はまるで導かれるように祈りを捧げた。
今にも噴き出しそうで堪らない。
昼間であれば、宗教を偽ったカツアゲと呼ばれそうな面構えの自分であるが、夜の闇に紛れた大げさな口ぶりを前に、信者達は簡単に従ってしまう。
まるで夢遊病だ。
そのまま、男の声を聞かずに儀仗を手にした者、歩兵槍を手にした者、長剣を腰にした者、カンテラと短剣を携えていた者と、早々に引き上げて行ってしまう。
「ま、待て!待て!待つのだ!神は!神はそのような事をおっしゃられては!」
肩を叩く。
「そこな金糸の服を着た男」
自分は微笑む。だが、相手は強張った。
「悔い改めろ」
決まり文句と共に拳骨を降り抜いた。
信者達が消えて行った光の中に男も吹き飛び、後腐れなく異世界へ帰っていった。
残された護衛者だった双剣の男と、白銀槍の男が咄嗟に身構える。
だが遅い。
「せいっ」
短い掛け声と共に、鎧に包まれていない股の付け根、ボールの入った皮袋の位置を蹴り上げる。白銀の槍を取り落とし、悶絶のまま膝から崩れ落ちた。
濁流が如き涎と鼻水、止まらない号泣。
何か酢ダコのような代物に成り下がった巨漢の様に、双剣の護衛者が明らかに怯えた。
「や、やめ、やめ!」
あまりの光景に腰を抜かしたのか、じりじりと腰を捻って後ろへ下がる護衛者。木製サンダルの爪崎が減り込み、震える手で腰を叩く男の呼吸だけが夜気をかき乱す。
しかし、躊躇いなく自分は灯油用のポンプを構えていた。
「やめ、やめ、やめてぇぇぇぇえぇぇぇぇ!」
冷える夜であった。
たかだか高校生の戯言に振り回された先遣隊は散々な形となり、冷えた夜空に「ッアー!」というとてつもなく悲惨な悲鳴と共に護衛者だった男の大事なものも奪われた、
異世界のゲートへ男達を放り込む。
ついでに、使い古しの灯油ポンプも汚物のように感じたので捨てた。
「南無阿弥陀仏」
祈りなんてものは。
尊厳と共に散っていた男達に謝る気持ち。このくらいで丁度いいと思った。
悶絶した男の手から零れ落ちたもの、白銀の槍は倉庫へ放り込んだ。
手にしてみたものの、槍そのものは特異であるが、悪寒や畏怖を感じるような特殊な波動はない。どうやらレプリカであったらしい。
一度目が散々であった以上、次の進行に二の足を踏むか、部隊規模を拡大して進行するかは五分五分と判断。進入経路も不明であった為、今後の対応については現状維持にしておく事とした。
結局、やるべき事は新品の灯油ポンプでストーブのタンクへ給油すること。
家へ上がり、重たく油臭いタンクをストーブへ入れる。
マッチを擦り、火を灯すと、暖かなオレンジの光と共に、ふわりと暖かさが広がった。
温まっていく空気に反応してか、居眠りしている美女が身動ぎ。
コタツの天板へ髪を広げ、安らかな寝息を繰り返していた龍の化身、ドラゴン種のアマトリがゆっくり身体を起こす。
周囲を見回し、メモ帳を探したようだが、見つからなかったようだ。乱暴にこちらの手を掴むと、掌に細く長い指先で文字を刻んだ。
『な・に・か。あ・っ・た・?』の数文字を刻まれていくこそばゆさ。
「何もなかった」
その言葉に何を思ったのかは解らない。
ただ、不機嫌そうに顔を伏せ、髪で表情を隠してしまうと、まるで知らんぷりをするようにコタツで丸くなってしまった。
「ミカン、食べるか?」
そう呟き、みかんの皮を剥くと、瞬く間に丸々一個が奪われた。
さらさらと流れる髪の毛が、また顔を隠してしまう。
けれど。
その顔は、僅かに赤らんでいるようにも見えた。
「コタツ、温度下げようか?」
そう言った途端に手の甲を叩かれた。痛い。
煎れた茶をすすり、理不尽な攻撃に眉を歪めていたものの、面倒くさくなってそれ以上観察するのを止めた。
障子を鼻先で開け、居間へ入ってきたナナカマドを手招き。
近付いたところに抱きついた。
どこぞの河童が川へ引き摺りこむようにコタツの中へ引っ張り込むと、痩せた身体の上、触り心地のいい毛並みを堪能する。
「あたたかい」
「・・・他人の毛皮で暖をとるな」
ストーブの上のヤカンは、そろそろお湯が沸きそうだ。
冬の一幕が継続できた事を、彼女は解っているのだろう。
だからこそ、どこか不思議そうに、赤々と燃えるストーブの炎を見つめているのかもしれない。
「お茶はどうだ?」
差し出したお茶を、躊躇いもせず一気に飲む。
・・・猫舌という言葉とは無関係のようだ。
テレビでは芸人たちが殊更に騒ぐ。外ではまた雪が降り始めていた。
寒い日である。
だが、コタツの中、ぶつかった足先の感触に思わず顔が火照る。
アマトリは蹴飛ばしたりせず、指先がつつくようにこちらの足を押しのけた。
何故だか暖かい気分になった。
― つづく ―
冬の夜はまるで闇までが凍ってしまったように感じる。
全てが静まり返っていた。
聖者の行進。
唱えられる文言。異なる国の言葉で紡がれる祈り。白いトーガの上、銀に輝く鎧と、あたかも聖骸布を思わす薄汚れた赤の外套。その粛々とした様に、信仰を持たぬ者までが手を合わせた。
教団。
その名を知らぬ者はおらず、その名は人の歴史と等価とも呼ばれる。
しかし、その名はあまりに偉大であり、そして長い時間を経ていた。
歪みと破綻。
彼等は教義を同じにしながら、道を違えてしまった。
否、同じ主を奉じながらも、本来とは違う方向へ導かれてしまっていった。
信仰に無垢であるが為に。
信仰を大切とするが為に。
狂信者。
親はない。だが信仰に救われた。
学もない。だが信仰に教えられた。
神やその御子を偉大なる父に。
経典と祈りを、学問と道徳に。
彼等は神の子であるが故に、異教を許さぬ者となった。
子は呟く。子は祈る。彼らの神に。彼らの言葉で。
神よ。神よ。
我等を赦し給え。我等を許し給え。
不義に断罪を。悪徳に裁きを。
神よ。神よ。
我等は教義を真とせり。我等は協議を真とせり。
神よ。神よ。
祈りの言葉は朗々と響く。凍える大気の中、それはあまりに神聖であった。
一軒の古びた家の前へ聖者達は足を止める。
「儀仗の使途よ、掲げよ」
低く通る男の声。顔をフードで隠した人々が重たげな杖を高く掲げる。
「聖なる炎よ」
『聖なる炎よ』
多重詠唱。
魔術式と呼ばれる技術体系において、同じ音域、同じリズムを唱和する事で威力、範囲、継続時間、全てを増幅していく。
しかし、彼等は魔術という言葉でその業を表現しない。
それは『神の御技』であり『奇蹟』である。
「点れ」
『点れ』
爆砕。
一瞬で膨れ上がった爆炎が家を覆う。
全てが焼き尽くされる。全てが等しく灰へと還る。
物理学的な燃焼の様であり、地球という循環にける一端でしかない。
だが、家を、人の営みを燃やし尽くす炎を、誰が讃えるというのか。
「いい加減にしろ。人の家で焚き火をするつもりか?」
大きく打ち鳴らされる掌。
それだけで炎が消えた。
この敷地全体に施された防御術式に初めて気付いたとばかりのざわめき。人の中心、金の縁取りに覆われた純白のローブを身に纏った男が舌打ちする。
「静まれ。異教徒の技に、我等が怯える必要はあるまい」
信者達が次第に落ち着く。
その間に夜の闇より、カンテラに照らされた空間へ姿を現す青年が一人。
黒髪は撫でつけ、シャツの上にはどてらを身に纏い、なんともしまらない。
「この寒い日に点された火が放火とは。この罰当たりめ」
くしゃみを一つ。枝節布由彦(エダフシフユヒコ)は、不意の来訪者に驚いた様子もなく眉間へ皺を寄せていた。
灯油ストーブの灯油を詰めていただけだったのだが。
盛大な炎に自宅の敷地が包まれた数秒後、俺は嘆息していた。
「異教徒め。その東屋に魔に属す蜥蜴を匿っている事は解っておる。しばしの猶予を与えよう。汝が帰依の意思を見せるというのであれば、こちらとしてもそう邪険とするつもりはない」
尊大、それでいてどこか的の外れた言葉。
寒さに震えるように地面の上で動かしていたサンダルの上、足裏が振動を通して相手の人数と様子を把握していく。
物の振動を感知する『固有振動数識域化能力』。つまりそれは、感知するだけという、非常に地味な能力である。
しかし、振動とは全てのものに共通するう物理的な運動である。
心臓、呼吸、身動ぎ、喋る時の呼吸、胸を張る動作。
どれ一つ欠かせない要素である。
心拍数が最も大きい人間。
奇しくも、今も弁舌を振るっている指導者であった。
短く思案すると、サンダルで地面を擦り、真っ直ぐに指導者へ歩き出した。
脇に控えていた護衛者が立ち塞がるが、何も持っていない事を示し、祈りの所作をすると明らかに動きが悪くなった。
異教徒が敵。だが、相手が同じ教義による動作や言葉を示したとすれば?
どこかに逡巡が現れる。実に簡単な理屈である。
一人、長大で古びた白銀の槍を手にした巨漢が居たが、武器を構えこそするものの、振るおうとはしない。それに手にした武器からは、まるで空気のように振動がしない。むしろ空間に反射する様々な『振動』を吸収すらしているようだ。
この世の物質とは思えないものであった。
よくよく見れば、武装していない者がいないほどの一団であったが、血気に逸り、無手の小僧一人を惨殺する様子はない。歪められる前、本来の教義が余程に優秀なのだろうな、と一人納得する。
「神の使途よ、この哀れな子羊へお答えくださいませ」
両手を組む。
どてら姿ではさぞや滑稽だろうに、違う国の常識で動いている彼等は、この動きだけで声を漏らした。
指導者、この場の指揮官と思しき男は、さも大儀そうに頷く。
「申してみよ」
「これは異な事を。貴方には問うていません。この中で、貴方だけが神を信じてはいないというのに」
「な」
男が絶句した。あちらの世界では悪人までが純朴なのだろうかと、心の底では呆れる。
「な、何を根拠に!?」
声を荒げる男に、指先を動かす。
「貴方は金を着ていなさる。清貧を如何になされた?」
「こ、これは!神の威光を示すが為の装飾であり!」
「なんと!神を真似るとはあまりに不遜!あぁ!なんと不信なのか!神よ!この者をお許しください!」
これだけ棒読みの演技でさえ、男は悲しみ、女は嘆く。
指揮官であったはずの男から離れていき、白銀の槍を携えた者や、護衛であった者までが離れる。
異世界、異なる空間、その中で、彼らが縋っていたはずのものが、まるで紙人形のように頼りないものになってしまった今。
易い。
宗教の真意を履き違えた面々を前に、実際には信仰の「し」の字も知らない自分が立ち回っているのだからざまあない。
「さぁ、元の世界へ帰りなさい。神は見捨ててはいません。我が家の裏手、家路へと至る扉は今も開かれているのです」
まるで声に合わせるよう、蔵の扉、異世界へ続くゲートが開かれた。
実はナナカマドが闇に紛れて戸を引いたに過ぎないが、彼等はまるで導かれるように祈りを捧げた。
今にも噴き出しそうで堪らない。
昼間であれば、宗教を偽ったカツアゲと呼ばれそうな面構えの自分であるが、夜の闇に紛れた大げさな口ぶりを前に、信者達は簡単に従ってしまう。
まるで夢遊病だ。
そのまま、男の声を聞かずに儀仗を手にした者、歩兵槍を手にした者、長剣を腰にした者、カンテラと短剣を携えていた者と、早々に引き上げて行ってしまう。
「ま、待て!待て!待つのだ!神は!神はそのような事をおっしゃられては!」
肩を叩く。
「そこな金糸の服を着た男」
自分は微笑む。だが、相手は強張った。
「悔い改めろ」
決まり文句と共に拳骨を降り抜いた。
信者達が消えて行った光の中に男も吹き飛び、後腐れなく異世界へ帰っていった。
残された護衛者だった双剣の男と、白銀槍の男が咄嗟に身構える。
だが遅い。
「せいっ」
短い掛け声と共に、鎧に包まれていない股の付け根、ボールの入った皮袋の位置を蹴り上げる。白銀の槍を取り落とし、悶絶のまま膝から崩れ落ちた。
濁流が如き涎と鼻水、止まらない号泣。
何か酢ダコのような代物に成り下がった巨漢の様に、双剣の護衛者が明らかに怯えた。
「や、やめ、やめ!」
あまりの光景に腰を抜かしたのか、じりじりと腰を捻って後ろへ下がる護衛者。木製サンダルの爪崎が減り込み、震える手で腰を叩く男の呼吸だけが夜気をかき乱す。
しかし、躊躇いなく自分は灯油用のポンプを構えていた。
「やめ、やめ、やめてぇぇぇぇえぇぇぇぇ!」
冷える夜であった。
たかだか高校生の戯言に振り回された先遣隊は散々な形となり、冷えた夜空に「ッアー!」というとてつもなく悲惨な悲鳴と共に護衛者だった男の大事なものも奪われた、
異世界のゲートへ男達を放り込む。
ついでに、使い古しの灯油ポンプも汚物のように感じたので捨てた。
「南無阿弥陀仏」
祈りなんてものは。
尊厳と共に散っていた男達に謝る気持ち。このくらいで丁度いいと思った。
悶絶した男の手から零れ落ちたもの、白銀の槍は倉庫へ放り込んだ。
手にしてみたものの、槍そのものは特異であるが、悪寒や畏怖を感じるような特殊な波動はない。どうやらレプリカであったらしい。
一度目が散々であった以上、次の進行に二の足を踏むか、部隊規模を拡大して進行するかは五分五分と判断。進入経路も不明であった為、今後の対応については現状維持にしておく事とした。
結局、やるべき事は新品の灯油ポンプでストーブのタンクへ給油すること。
家へ上がり、重たく油臭いタンクをストーブへ入れる。
マッチを擦り、火を灯すと、暖かなオレンジの光と共に、ふわりと暖かさが広がった。
温まっていく空気に反応してか、居眠りしている美女が身動ぎ。
コタツの天板へ髪を広げ、安らかな寝息を繰り返していた龍の化身、ドラゴン種のアマトリがゆっくり身体を起こす。
周囲を見回し、メモ帳を探したようだが、見つからなかったようだ。乱暴にこちらの手を掴むと、掌に細く長い指先で文字を刻んだ。
『な・に・か。あ・っ・た・?』の数文字を刻まれていくこそばゆさ。
「何もなかった」
その言葉に何を思ったのかは解らない。
ただ、不機嫌そうに顔を伏せ、髪で表情を隠してしまうと、まるで知らんぷりをするようにコタツで丸くなってしまった。
「ミカン、食べるか?」
そう呟き、みかんの皮を剥くと、瞬く間に丸々一個が奪われた。
さらさらと流れる髪の毛が、また顔を隠してしまう。
けれど。
その顔は、僅かに赤らんでいるようにも見えた。
「コタツ、温度下げようか?」
そう言った途端に手の甲を叩かれた。痛い。
煎れた茶をすすり、理不尽な攻撃に眉を歪めていたものの、面倒くさくなってそれ以上観察するのを止めた。
障子を鼻先で開け、居間へ入ってきたナナカマドを手招き。
近付いたところに抱きついた。
どこぞの河童が川へ引き摺りこむようにコタツの中へ引っ張り込むと、痩せた身体の上、触り心地のいい毛並みを堪能する。
「あたたかい」
「・・・他人の毛皮で暖をとるな」
ストーブの上のヤカンは、そろそろお湯が沸きそうだ。
冬の一幕が継続できた事を、彼女は解っているのだろう。
だからこそ、どこか不思議そうに、赤々と燃えるストーブの炎を見つめているのかもしれない。
「お茶はどうだ?」
差し出したお茶を、躊躇いもせず一気に飲む。
・・・猫舌という言葉とは無関係のようだ。
テレビでは芸人たちが殊更に騒ぐ。外ではまた雪が降り始めていた。
寒い日である。
だが、コタツの中、ぶつかった足先の感触に思わず顔が火照る。
アマトリは蹴飛ばしたりせず、指先がつつくようにこちらの足を押しのけた。
何故だか暖かい気分になった。
― つづく ―
11/02/06 18:53更新 / ザイトウ
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