カヌクイ 第二話 遠出と仕事
東京湾。首都東京の眼の前に広がる湾口であり、古くは江戸前として知られた場所である。
早朝に近い時間帯、湾口の釣り船にも一人二人と客が乗り込んで行る。
波は穏やかであるものの、冬の厳しさに辟易するような朝であった。
時節の挨拶やら寒さへの愚痴やらを交わす客と船長の傍、海上を駆け、船の傍を擦り抜けるよう水飛沫と共に移動する何かが彼等の視界へ飛び込んできた。
「な、なんじゃありゃあ!?」
船長の叫びも無視し、人影らしきものは東京湾を横切っていく。
「さ、寒い!」
枝節 布由彦(えだふし ふゆひこ)。高校二年。オールバックの髪型か、特徴のある目鼻立ちの所為か、同級生にして『若頭』と呼ばれる青年である。
そんな彼が真冬の利根川から江戸川にかけてをアタッシュケースで川下りしているのには訳があるのだが、開始第二話で何をしているのやら。
アタッシュケースにも何かの仕掛けがあるのか、ほとんどモータボードと変わらぬ速度で急旋回する。上で震える布由彦は必死で足を動かし、崩れそうになったバランスを立て直した。
既に真冬の海。こんな珍奇な若者だろうと命は惜しい。
コートの裾を翻し、あたかも水上を走るような人影が去ると、水飛沫を舳先に浴びた船の上、客と船長は顔を見合わせた。
その後、東京湾界隈の釣り師に『コート幽霊』の名がまことしやかに囁かれたとか囁かれなかったとか。
数時間前。数時間前だったはず。
こたつで居眠りしそうになっていた額をしたたかに打ち付けた時、痛みに悶える自分の耳へ黒電話の音が届いていた。
じりりりと響く喧しい音を前に、欠伸混じりで立ち上がった。
「はい、枝節です」
時節は早朝と呼ぶにまだ速い深夜。電話越しに無礼に無言で抗議するも、相手の声を耳にした途端、驚いたような顔をしてしまっただろう。
『夜に失礼。緊急』
「夜都子?」
脳内の情報配列が記憶を算出する。
宮上 夜都子。東京都在住。歳は五つ上、広義における『同業者』。
カヌクイの名は多くが知るが、分家筋にあたる枝節を知るものは少ない。
『デート。今日』
「・・・土曜の深夜にかけてくる電話ではないような』
壁掛け時計を横目に欠伸を噛み殺す。今度は布団で眠りたかったのだが。
「デートに仕事は含まれるので?」
『残念ながら。移動手段は適当な『箱』に。そちらへはすぐ』
家の前で轟音。移動手段は既に到着したと認識。
「緊急なのは確定事項?」
『おそらく』
考えは即座に答えになる。彼女に恩はある。
「すぐに行く」
『ありがとう』
受話機を置く。
「・・・仕方ない。コートで足りるか?」
冬の日本海。
ろくに選びもせず黒いコーデュロイのスラックスに濃い青のタートルネックの上、コートを羽織る。
戸締りと書き置き。踵を蹴飛ばすように靴へ足を捻じ込んだ。
家の前には一抱えほどのアタッシュケースが存在を誇示。
その端から見覚えのない不定形にして青く瑪瑙に似た色合いの触手が伸びた。
「うぁ!?」
一瞬で足首を掴まれたと思った瞬間、ケースが夜空へ飛んだ。
「いくらなんでも死ぬ!これは無理だ!無理ぃぃぃぃぃ!」
野太い悲鳴など誰が聞くはずもなく、夜空の中へ連れ去られていた。
その後、東京まで移動経路を選ばずに移動された自分は大変に不幸だと思う。
端的に言えばもの凄く寒かった。
英雄、色を好む。それは剛毅さと引き換えに生来の仁義や常識を捨てて剛毅が故の多欲から女を求める類いに使う言葉でもある。
正しくは、英雄は精力的があるが為に女もまた求むる、といった意味合いの解釈であるが、過去においては戦で夫を失った女達を守る為に囲った男も居り、そういった歴史も鑑みると言葉の真意は奥が深い。
それと違い、枝節のみならず『カヌクイ』達が元となった貫射位、源流とも言われる家柄の祖は、良くも悪くも色を好んだらしい。
『羅刹』の異名で名を知られた『笹門《ささかど》』家。
『武器屋』と畏怖で呼ばわれた『百倉《ももくら》』家。
『鬼夷』の蔑視で囁かれるは『恵比寿《えびす》』家。
その他にも、名も血も知られぬようになる多くの家が生まれたが、今を以て残るは数える程。
何の因果か傍流が『枝節』が残ったのも、意味在ってなのかもしれない。
しかし。
「ごくごく普通に死ぬ!末代までの恥になる!」
夜間の高速飛行に加えて水上移動。足首はがっちりと固定されたまま一時間経過。
それだけの時間があれば九州から東京まで移動できるものらしい。この生き物は何なのか。
「もう駄目だ。すまん、入るぞ」
半ば強引にトランクの中へ身体を捻じ込む。何か触手の感覚が全身を這うが、意外と暖かく快適だった。
内部の次元や空間がどうなっているかは定かでないが、居心地がよく同化されないのであればそれでいい。
「喰い殺されそうになれば、その瞬間に乗っ取る覚悟はあるが」
何か内部が怯えた気がした。
おそらくは、枝節の末裔たる自分にも備わる異能と呼ぶものに反応してだろうが。
「格好などつける暇もない。寒」
即座に居眠りを始めた人間を内に、アタッシュケースの中の存在は先を急ぐ。
そろそろ目的地である。
オフィスの休憩室を思わす整理された室内。
扇情的な肢体を軍服に似た制服に身を包む女性。褐色の肌とセミロングに切り揃えられた髪は後ろで編み込まれている。
おっとり、もしくは穏やか、はたまた無表情、そういった印象の似合う容貌をしているが、今は何かに追い詰められたように室内を闊歩していた。
両手首では何か紋様の刻まれた銀のリングを鳴らし、瞑目するように半ばまで閉じられた瞼がぴくぴくと震えている。
「遅い・・・!」
思わず叫んでしまった後に口元を抑える。彼女の気質を知る者達はざわめき、1人茶を啜る壮年の男性は、くたびれたスーツ姿でそれを暇そうに眺める。
「副長ー、隊長があれじゃ待機中の隊員が休めないですよー」
小柄、ともすれば少女か幼女としか見えない体躯の女性が褐色の女生徒同じ制服姿で壮年の男を見上げる。癖っ毛の髪を掻き回した壮年の男は、腕時計を眺めながら喋る。
「もう十分もすれば落ち着く。それまでほっといてやりな。落ち着かないんだろう」
「落ち着かないのはこっちですよー。一体誰が来るんですー?」
「そうかマルグレッタは知らないのか。まぁ傍流だが英雄の末裔だよ、今から来るのは」
「英雄ー?騙りとかじゃないんですかー?」
小柄でオレンジに近い赤毛をした女性、童顔で通った大きな眼を半眼に、馬鹿にした様子でへらへら笑う。職業柄、そういった人間を黙らせた事も一度ではない。
「一応は本物だ。まぁ若いが実力もそこそこで悪い小僧ではない。父の代でこちらの世界で縁を切ろうとしたらしいが、その息子にも一癖あってカヌクイの業を継いだらしい」
「カヌクイ?その子供が日貫射筋(かぬくいすじ)なのー?まさかぁ」
陽気、ともすれば能天気にすら見える様子であるが、その眼の奥では男の真意を探っている。まさか担ぐつもりはないだろうと無言で尋ねている。
日貫射筋といえば確かに英雄の血族。それがそこらに転がっていると言えば誰であれ疑うだろう。
「見りゃ解る。お前くらい感覚が鋭敏な魔物なら、何か感じるだろう」
顎に傷、頭に白いものが混じり始めていながらも、まるで岩を削りだしたように精悍な面立ち。
引き締まった肢体から放つ気配は、まるで柳であり、印象がまるで掴めない男。
副長と呼ばれる男の評価に眉を潜めた小柄な女性は、瞬時に何かへ気付いたように窓へ走る。
「もう!窓枠高過ぎー!」
本来的には発掘や土の下をテリトリーとする存在である彼女だが、地中で培った勘の良さは漏れ出る天然ガスを避けるよう何かの到来を予測していた。
窓を開くと同時に轟音。床を凹ませながらバウンドしたアタッシュケースは、数本の触手で衝撃を減衰させると、がたがたと床の上で静止した。
半数以上が警戒を含んで姿勢を正す。隊長と呼ばれた女性の装備である事は周知、しかし現在もそうだとは限らない。
小柄な女性が片腕に装着した篭手が軋むほど拳を握っていたのも束の間、狭い隙間から触手の束が溢れると、中から一人の男が起き上がっていた。
「到着か?」
中肉中背。髪を撫でつけ、一般人と呼ぶには目鼻立ちが悪辣な人間を想像させる作りである。
若い、が、どこか滲みだす貫録に思わず平伏すべきかと悩みそうになった程である。
自分達と同じ軍用を連想させる無骨な濃い灰色のコートを数度叩くと、触手を収納しながら閉じていくアタッシュケースから一歩離れた。
「おう、布由彦。元気か?」
副長の声に、表情を僅かに和らげた青年は頭を下げた。
「勇登《はやと》さんも壮健そうで」
「あんまり長生きも面倒なんだがな。おい、呼びつけたお前が一番に挨拶しねぇか」
壁を見つめていた女性へ一言声をかける。周囲の面々が恐々と見守る中、無表情に布由彦へ視線を動かす。
「お」
「お?」
問い返した布由彦に対し、隊長と呼ばれた女性が言葉を継ぐ。
「おは、よう」
なにやら気まずい沈黙がその場を支配したのは、想像するにも容易いだろう。
現在、午後四時。
重たい身体を大きく伸ばす。全身が凝り固まるような筋肉の収縮を緩和すると、なんとか身体が元へと戻った気がした。
花の大江戸、国の心臓首都東京。
観光であればまだいいが、臨海沿いの僻地にあるビルの一室、それも応接間とは名ばかりの倉庫の片隅に椅子を向かい合わせただけの場に、まるで捕らえようとばかりに隊員達とやらが取り囲むとあっては安心もできない。
「・・・居心地が悪い。とても」
「先に紹介しておく。この小僧が枝節布由彦。カヌクイの血に連なる者だ」
周囲、多少の異形を身に備えた女性や、傷痕の残る厳めしい男等は、疑問視するよう互いに視線を交わし合う。
困惑を張り付けたであろう自分の表情を察してか、多少の縁あって幼少期にも世話になった皆本勇登氏《みなもと はやと》は苦笑いするように煙草を咥える。
「それで、夜都子は何故に部屋の隅で蹲ったまま動かなくなったので?」
「まぁ、それはほっとけ。自己嫌悪だろう」
この部屋まで随伴したものの、虚ろな視線で壁と睨みあう夜都子・・・皆本夜都子《みなもと やとこ》をどうすべきか考えあぐねたものの言葉に従い放置。
「それで、俺のような若輩が呼ばれた理由は?東京なら分家筋にも有名な家が幾らでも居るだろうに」
「声を大にしての依頼で摩擦を起こしたくない。家柄に箔のある者は他を刺激する事にもなりかねん」
「成程。無名であれば角も立たぬと」
政治的判断、などと呼ぶ次元ではないが、波風に対しては誰であれ避けて通りたいのは道理。
了解が旨を首肯で伝えると、咥え煙草を揺らし、勇登氏は言葉を続ける。
「まぁ、本題に移ろう。お前、学校は?」
「今日が土曜で日曜、振替休日の月曜まで三日は大丈夫だが。火曜日にはさすがに」
「じゃあ三日か。三日以内に探し出して、奪取せにゃならんものがある」
「何を?」
「アルラウネの蜜を使った試薬のアンプルだよ」
「げ」
思わず嫌そうな声を漏らしてしまったのは失態だが、あまり愉快な話でもない。
アルラウネの密。魔物の中でもアルラウネという植物特性を持つ存在から生み出されるもので、高い効能を持つ媚薬である。
しかし媚薬の側面に強心剤などの効果があるのも事実だそうで、場合によっては薬物検査に引っ掛からない毒殺も可能という。
媚薬も大量摂取すれば脳溢血や心臓発作による死、一般的に腹上死などと呼ばれる状況の死亡原因になりえるのだから、因果といえば因果だろう。
聞くだけでも正規の品でない上、表沙汰にするのも難しい品、そこで外部の人間だが政治的な駆け引きとも無縁な傍流も傍流である自分へ託されるといった事情までは理解した。
「確かに、探すだけであれば俺の『能力』も有用であるとは思うが」
「正直、お前にしか無理とさえ思う。現場に痕跡もろくに残っていないのでな。頼む」
「報酬は?」
「正規報酬できちんと用意する。ある程度の形式的なものがなければ疑われる」
「成程。なら前金は無し、成功報酬で結構」
「それでいい。頼むぞ」
「引き受ける」
握手する二人を余所に、全員の視線は壁を睨みぶつぶつと呟く夜都子の方へ向けられている。戸惑いと混乱に陥れる隊長格の異常な行動もどうかと思い、切り揃えられ、編まれた髪を乱暴に掻き回す。
「な、にを!」
咄嗟に振り払われた手。立ち上がる夜都子の瞳孔はきちんと定まっているようで安心した。
「仕事。いつから始める?」
「え?説明、は?」
「こっちで済ませた。朝飯食ってさっさと行け。夜中に引っ張り回してんだ奢ってやれよ」
「馳走になります」
「・・・なんかもう、馬鹿らしい」
背筋の伸びた夜都子と自分が出ていく背後では、勇登氏へ殺到する隊員達が見てとれた。どんな説明が成されるかはさておき、とにかく腹が減っていた。
「晩は私が作るから。朝は」
「なんでもいい。むしろ、早く食べれれば何であれ文句はない」
空では、暁色の色と共に普段見る事もない日の出の輝きが満ちていこうとしている。
常とは違う力はは血が記し、歴史が結果として残したもの。異能を奇異することがあろうと尊ぶ事などない。
しみじみと自身の出自に伴う過去を想起するも、身内事に然程の不満もなかった。
祖父は誇りであり親しき人であった。
祖母はみまかって永く、まみえた事もなく。
母も同じく、まみえた事なく。
父に至るは堅物であれど、人柄に悪し様を罵る点などない。
後妻と呼ぶべきか困るものの、今の頃の母に不満はあるにしろ些少である。
異能もまた職能の如きものと、どこか白けた想いで認識しているのも事実である。精々が耳がいいだの眼がいいだの、家柄に付随する必要だからある程度の力。
文官に剛力は必要なく、武官に宮中作法が必要がないのと同じ。
そして自身の力とは、不要と言われれば確かに不要なものだと思う。
「ふぅむ」
咀嚼していたハンバーガ―を呑みこむと、テーブルに置かれたアンプルケースを眺める。強奪された薬と同じ場にあった破片であるというが、これなものから探すとなれば自分のようなものが呼ばれるだろう。
こめかみより奥、脳天より後ろ、後ろ頭の内側のあたりで存在し得ない場所を力ませる。
そういった表現でしか言い表せない脳髄の刺激によって、視界と聴覚が僅かに『変質』した。
割れたアンプルの表面に鮮やかな色合いの写真が映ったように見える。パラパラと捲れるように動く、コマ落ちした動画のように。
『固有振動数識域化能力』。そういった通称でしか呼ばれぬ異能の姿が通常とは違う視覚が捉えたものを眼球へ映しだす。
物には振動による固有の振れ幅がある。そして環境という周辺からの刺激が存在する以上、雑多な要因で様々な変化が起きる。
そういった変化の累積などを判別できる力が、備え、培ってきた力として身体に1つ余計な回路を備えるように自分には存在した。
「しかし、ナナカマドに匂いを追わせればいい気もしたのだが」
正直、自分の存在意義を零にしかねない鼻をもった相棒の事を口にする。
「・・・蜜の匂いで淫猥になった犬など見たくもない」
あまりに正直な夜都子の言葉に、それもそうだと納得してしまう自分。捜す者にそういった振れ幅があっては何をするにも差し支えるだろう。
仕方なくコマ落ち動画の画像へ焦点を合わせていくイメージ。意識の集中に常ならざる感性は鋭敏に尖る。
物体の大きな変化は破壊の瞬間。もし強奪時に破損したのであれば、その前後は明確に残り、拾い上げるのにも苦心はなかった。
足音の数、人の影によって出来た光の陰影、微かな声、そういったアンプルに変化を与えた様々な要素を拾い上げた瞬間、頭の回路を元へ戻した。
色褪せた景色に次第に色覚が戻る。眼球や鼓膜を通じて神経にかかった負担が表面化したわけだが、軽いものであるなら反動は一瞬。
「三人、うち二人が男、一人女が倉庫に入った人数。足音三つで走らなかった。予定通りに事が進んだようだ」
歩調や足音で人を探るのは捜査する人間が備える技能でもあるが、こちらは本能に付随する機能でしかない。
ほとんど本質も理解せぬまま頭の奥へするりと情報が滑り込んでくる。
テストにでも使えれば満点も夢ではないが、問題数を考えれば途中で倒れかねないと自嘲する。
「夜都子、現場に案内を」
「あ、あぁ」
今日は不思議と躊躇の様が見て取れる歳が五つ上の人を前に小首を傾げ眉間へ皺を寄せる。
疑問の顔に何かを思ったのか、慌てて夜都子が立ち上がった。
「車、回してもらうから」
なにやら挙動不審であるが、思えば彼女と会うのも数ヶ月ぶりであった。
祖父が亡くなったのは自身が小学三年生になったばかりの頃だった。畳の上で死ねた祖父を親類縁者は大往生と湛え、八十幾つの祖父の通夜の日、なにごとか解らぬまま棺の前に座っていた。
凡庸と、泣く事も巧く出来ぬ自分を見兼ねたのが皆本家、祖父と縁があり、父とも級友であった勇登氏である。あまり愛想のよくない子にも随分と優しくしてもらい、夏休みに泊まった皆本家は暖かかった。
元々母の姿も知らず父より祖父の手を煩わせた幼少期、むしろ勇登氏と奥方に家族のそれを重ねていたのかもしれない。
愛想がないのは自分と同じであったが、中学生の夜都子にも随分と世話になった。名を呼び捨ているのもその頃の名残である。
もし彼等がいなければ、自分はカヌクイなど選べず、そして人の道からも外れていたように思えてならない。
異能など、重たく邪魔な生活の枷でしかないのだから。
「布由彦」
「あ?」
寝ぼけ眼のまま口元を擦る。涎は出ていなかったようだが、居眠りしていたらしい。
何の変哲もない東京から流れて埼玉近郊にあるという郊外のビルを前に、人の気配のしない通りの傍へ路上駐車する。
運転席では夜都子が携帯で何か話をしている。構わず、自分はビルの前を、自動ドアから歩道までをぼんやり眺めた。
歩調や歩幅を付随する脳細胞が一括して処理する。
歩調と足音、靴の材質、そういった諸々の要素から、無意識が答えを並べていく。三人組が1つのグループとして歩き、近くのコインパーキングに停めていた車から移動した形跡。
まるでルミノール反応としてうすぼんやり脳裏に浮かんでいる感覚であるが、知らず歩いていた自分は、コインパーキングの前で掌を地面へ当てる。
雑多なタイヤ痕を種類の違う感覚が五感へ置き換える。ゴムの痕など視認できようはずもないが、なんとなくでその中から時系列に沿って探り出してしまう。
車の中、寝る前に流し読みしていた資料から犯行時刻は昨日の昼過ぎ二時、清掃業者に偽装した人間までは解っている。あとはワゴン、今から約十時間以上前、そういったフラグを1つずつ見比べ、それらしきものが自然と違和感なく合致した。
ほとんど呼吸に等しい。
普通車の助手席へ腰を落とすと、携帯電話を耳にしていた夜都子が慌てて閉じた。
「速過ぎる。まだ電話が済んでなかったのに」
「いや、叱責されても」
理不尽な言葉に呆れるも、電話機へ幾つか呟くと車が発進する。次の交差点を曲がるように指示した後、形跡を追う為、脳髄に感じる圧迫感を我慢して言葉を続けた。
夏休みの後、冬休みにも世話になった。
その頃はまだ今の母は居なかったし、一人、家で居る時間も長かった。
父とてないがしろにしていたわけではないが、仕事とは私情を許してくれない。
徹夜明けに夕食を食べる為だけに帰宅する父への心苦しさから、いつしか「かえってくるな」と突き返すようになる。
父もまた、そんな子供の葛藤など見越していたのだろう。哀しそうではあったが「稼いでくる」と胸を張って仕事へ行った。
そんな自分に夜都子や皆本家の面々は非常に好意的だった。
四年生の終わりになるまでの二年間は、ほとんど皆本家で過ごしたようなものである。勇登氏もまた、息子が出来たようだと嬉しげであった事は覚えている。むずがゆくも、とても嬉しかった。
その後、五年生へ学年が移る前、今の母がやってきたからがまた一騒動あったのだが。
結局、中学の半ばでカヌクイの業を継いで以後には、過去にも増して世話になった経緯がある。
喧嘩の仕方に夕涼みの楽しさ、異能の御し方まで多岐に渡ってだ。
その恩を返せと言われれば、一も二もなく是というのも当然である。
かくして、朝も早くから見えぬタイヤの筋を追う事半時間。再び東京へ帰る頃には時間も八時、通勤ラッシュの最中に掴まってしまった。
「ふぅ」
車が動くまで、そう判じて回路を切る。熱い目頭のチリチリと痛む視神経の悲鳴に瞼を閉じてしばらく、かぶせられた冷たい冷却タオルの感触に礼を言う。
「ありがとう」
「まず休んで。あと、どのくらいと思う?」
「停車した形跡は信号を除けばない。距離の稼げる大きな道を選んでいる以上、窓から飛び降りたとは思えないからこのまま追えば多分」
「うん、解った」
茫洋としたる表情の夜都子だが、その脳裏では何か思案をしている様子。いっそ手の一つも握れば何か反応があるのではないかと昔馴染みへの茶目っ気も浮かぶが、何か真剣な横顔に手を停める。
やめた。彼女とて何か思うところもあるのだろうと。
そうこうしているうちに車も動き出す。わき道に逸れる痕跡を追って暫く。高架線下のコインパーキングに一台のワゴンが放置されていた。
該当する清掃会社のロゴと、支払機で確認した停車後の時間。おそらく、当たりを引いた。
微かな高揚感に、奥の神経もじわじわと疲れを和らげていく。長い追跡後の冷却に、昔へ想いばかりを馳せていた意識も常と変らぬ明瞭さを取り戻した。
自身が暗愚ともあれ頭の中がすっきりとするというのは確かにありがたい。
「ここからの足取りは?」
「ん?」
精算機から戻ってきた夜都子に、すぐさま視線足元へ落とす。短い休憩であったが、既に熱は引き状態は元へ戻っている。
その明瞭な視界、常ならざる感覚を含んだ視覚の中に、また面倒な情報が飛び込んできた。
「女と男二人が別々に歩きだしている。男は表の通りを右に、女は表の通りを左に別れた」
「どちらが薬品を持っていると?」
「さすがに。どうも厳重な封でもしているのか、人の気配そのものがない」
「いい。片方は捜索に人数を当てる。男の特徴は?」
「片方は背が高く痩身だが筋肉質。身長は予測では180cmと、身長170cm前後、中肉中背だがこちらも鍛えた様子のある男、どちらもスーツかブレザーの類いを着ている」
「女は?」
「女の方は身長170p半ば、筋肉質だが女性的な隆起があると予測される。おそらく魔物。種族はリザードマン。動作に尾があったような素振りが混じっている。服装は、ジーンズにパーカー」
想像が実像を呼び込むように口にするうちに見えないはずの足跡から姿が現れ、整合性を証明するように幻影を見る。
しかして男ならばぶら下げているものも同じと敵を見据えるよう仔細に解るが、女となれば朴念仁の童貞に期待することなかれ。
体幹の移動やら身動きで仔細とまではいかぬまでも解るが、顔まで見分しようと感覚の度合いを上げるべきでないと自粛する。
それより動いて探った方が速そうだ。
時刻も九時程となり、朝も明けぬ頃の身を刺す冷たさこそなかったが、やはり冬場の空気と実感した途端に身震いする。
携帯電話を取り出す夜都子を余所に、自販機を探し視線を左右へ動かす。
そのうちに自販機を見つける。コーヒーを二つほど買っていると、懐へ携帯を戻そうとしていた夜都子がこちらへ歩いてきた。
「移動か?どちらを追う?」
「身体的な特徴から何人かデータに引っ掛かったらしい。私達と同じ職業」
コーヒーを手渡し、自分もコーヒーを喉へ流す。熱い感触に痛みすら感じるが、内側から温めるような苦さにほっと息を吐いた。
「魔物関係か。それで?」
「女の方を追って。男達の方はマーク出来るようね」
「了解。ここからは徒歩のようだが」
「ワゴンの調査のついでに、車も回収してもらうから」
「なら続けよう」
視界を切り替える。歩幅から足跡を探り、ゆっくりと歩きだした。
「旦那、目標発見」
セダンの助手席、顔に本を乗せたまま居眠りをしていた男、勇登が身体を起こした。
オーバーサイズのハンチング帽を押し上げ、鋭い目元を露出した女性は視線を動かす。
「2ドアのスポーツカーに二人とも。たぶん写真と合致してるかと。どうします?」
道路脇、停車されたまま料金の加算されていく車。確かに男が二人乗りしていた。
「警戒中のメンツで取り押さえろ。おそらく二人とも戦い慣れはしているが、暴れさせるな」
「テイザーは?」
「おそらく不要だ。マルグレッタは?」
「街路樹の下、赤いニット帽被ってます」
視線を移した二人の視界に、赤い帽子を被った少女、もしくは幼子が眼に入る。ぶんぶんと楽しげに手を振る様子に、ひくりとハンチング帽は口元を強張らせる。
「・・・職質、されませんかね?」
「されんよ。保護されそうだが」
二人の会話を余所に、マルグレッタと呼ばれた少女が車へ近寄っていく。勇登が車載の通信機による細かな指示を行った時も、ふんふんと頭が上下に揺れている様子が見て取れた。
「・・・以上だ」
会話から数分後。
窓ガラスを数度ノックしたマルグレッタに反応し、窓から顔を出す男。
同時、窓枠から転がりこんだマルグレッタに狼狽した様子があったが、びくりと身体を強張らせた途端、順番に動かなくなった。
「生きてます?あれ」
「誰か一人フォローしろ。マルグレッタは運転席の男を足元へ詰めろ。入れ替わりで誰か運転。移動」
小柄な人影がドアの隙間から車を降り、代わりにスーツの男が滑り込む。小柄な人影による料金精算と共にスポーツカーは走り出した。
「尋問は?」
「小僧が戻ってくれば五分で終わる。薬がなければ放置」
「・・・そういえば、あの男、信用できるので?」
「お前も会ってなかったのか。あれはウチじゃ息子と変わらん。あれが信用できんなら夜都子も駄目だ」
呆気なく口にされた事実に、ハンチング帽、多少面食らった様子で眼を見開く。
「どういったご関係で?」
「寝小便しとる頃から面倒みてるんでな。夜都子も中学生の頃からの付き合いだ」
「へぇ。それで」
今日の醜態の理由、その一端を理解した気がしたハンチング帽は、苦笑いと共にヘッドフォンを耳へ寄せた。
「何か隠し事でもしているのだろう。あの小僧が絡むすぐ隙が出来る」
「しかし、魔物の方を追わせてよかったので?荒事ともなれば危ないんじゃありませんかね?」
「まぁ、夜都子も居る。それに、あの小僧にも幾つか仕込んである」
渋面のまま煙草を咥えようとしていた勇登だが、通信機に混じる雑音に手を止める。
ヘッドフォンを耳に当てていたハンチング帽は、舌打ちと共にサイドブレーキを外した。
窓を開けて硬貨を精算機に押し込むと同時、車は列に割り込むよう急発進した。
「台場の方で感知!魔術です!」
「直接現場に回せ」
「了解っと!」
走り出したセダンの中、煙草の煙は開けた窓から流れ出す。
りんかい線へ乗り、東京テレポート駅で降りる。広大な土地が全て埋め立て地と考えるとなかなかに壮大だと考えるも、切り替えた視界で足跡を追う。
テレビで見た事のある有名な球体展望台付きのビルなども見えるが、すぐに地面へ視線を落とした。今度は観光でもしたいものだ。久しぶりに皆本家に顔を出すのも悪くない。
足跡を追っているうちに今度はタクシーに乗った形跡がある。こうも振り回されると些かの苛立ちを感じ始めるが、仕方なく自分達もタクシーへ乗る。
晴海ふ頭付近でタクシーを下車。周囲を見回すと、奇妙な四角いオブジェの傍に、情報と合致する女性が立っていた。
「腕組んで。目標はあの女」
パーカにジーンズ、細身で女性としては背の高い女性を視線で示す。
しかし、隣に立つ夜都子の動きが止まった事に視線を向けた。
「夜都子?」
戦慄く夜都子の様子に、すわ何事かと反応を見る。しかし、何があったというのか、頬を赤くして首を左右に振る。
「い」
「い?」
「いやだ!恥ずかしい!」
「しばくぞ」
思わず物騒な言葉で恫喝してしまったが、半ば抱きよせる格好で引っ張る。
口をぱくぱくさせる夜都子の姿にこちらも顔が赤く染まりかけるも、場の雰囲気にこちらは体温が下がる。
徐々に、危険信号が鳴り始めていた。
「追うぞ」
「え、えぇ」
移動をはじめた背中に背負われた鞄の中、ギターケースを彷彿とさせる縦長のバッグには、何か金属の気配を感じた。
リザードマン、金属。
背筋に這う妙な感覚と共に、ほとんど抱き締める格好で夜都子を引き寄せ、歩調を変えた。
「な!な!?」
「戦略的撤退」
「なにが!?」
「戦略的撤退!」
ほとんど走り出そうとした刹那、一気に横へ跳躍した。
空気全体が色を変えるような違和感。本来は混じるはずのない認識外の感覚。
魔術。
範囲に作用した効果から人払いの類いであると想定。
同時、空間を薙ぐ風圧に全身が強張る。寸前まで居た場所へ銀の光が通り過ぎた。
「お嬢さん、物騒だ」
「軽口を」
フードから覗く切れ長の瞳。手にした長剣を手に一歩下がった彼女の眼の前には夜都子が立ち塞がる。
「有能な追手だ。口惜しい」
「捕まる?」
「無論、抵抗する」
間髪入れぬ突進に夜都子の両腕が変化し、岩塊が腕を覆い倍近い大きさを構築。岩の腕による受けによって剣筋をずらすように軌道を歪ませた。
「巧い」
「褒めないで」
続け様に繰り返される攻防を前に、視線を左右に動かす。
剣筋鋭いリザードマンの女性は魔術とは別口だろう。道具の気配もない。
仲間がいるとすれば、攻防が激しく狙い難い二人より、奇襲に易い探索担当を狙うはず。
二対一なら居場所が判明したところで勝てると踏んだ計算なら自分にも容易い。
あとは、情報のない互いの条件は同じ。
だが。
「成程。そこか」
視線を揺らす。走る。
一直線に叢を目指した途端、甲高い音律が耳へ刺さった。
詠唱。
側転と同時に跳躍。炎撃が背後へ突き刺さる。
炎の舌が路面を舐める様子を確認する間もなくさらに接近するも、鼻先に感じた気配を迂回するようヘッドスリップ。
眼の前に展開された空気とは屈折率の違う『何か』を回避し、歩数を刻むように前へ動く。
焦れてか、叢より顔を出すニットのワンピースを着た人影が跳び出した。レギンスに包まれた足が跳ね上がった瞬間に掌を額へ押し当てる。
息吹と共に『力』を込める。掌で大きく突き飛ばすような動作によって術式を使っていた女は意識を手放す。
「なっ!?」
驚くリザードマンへ振り返ろうとした時、しなやかな足先を岩塊が覆う。
「終わり」
横薙ぎに振り抜かれた岩塊が腹を捉える。
呻き声と共に剣を逆手に構え直そうとしたリザードマンへの接近は容易かった。
掌が頭へ叩きつけられる。
ぐらりと揺れた瞬間、リザードマンもまた気絶した。
「依頼終了」
鼻息荒く呟いたものの、どこか夜都子が納得のいかない表情をしたのが記憶に残る。
とにかく、これで仕事は果たせたようだ。
しかし妙な相手ではあった。路面へ顕現された炎といい、剣筋の狙いといい、まるで手加減されていたようだが。
まぁいい。とにかく疲れた。
ビルの一室。窓もなく、机と二脚の椅子が寒々しく感じる。捕縛回収したリザードマンが拘束される。
額へ掌を押し当てた瞬間、漏れ出た情報の断片が徐々に映像を組み上がっていく。
診察室。病室。泣き崩れる女。言葉が徐々に再生速度を同期させていく。
『・・・残念・・・今後も・・・』
『・・・れで・・・妻への治療は・・・』
『可能性は零では・・・このままの治療でもいつか・・・』
俯く女性と寄り添う男。対面の医師は難しい顔のままカルテへ視線を落とす。
『遺伝的な問題もありますが、そう悲観なさらず。お二人ともまだ若いのですから』
視点を動かす。ピントを合わせる。三人を俯瞰する視点から、視線をカルテへ。
日本語で表記された走り書きの主訴を見た瞬間、思わず掌を額の上から放していた。
「いや、予想外といえば、その通りだが」
思わず唸る。
非常に重大な問題ではあるものの、あまりに現実的な事象を前に、個室をゆっくりと外へ出た。
「で、犯行理由は?」
扉を出た瞬間、ロックを元に戻した勇登氏が尋ねて来る。
「不妊治療」
「は?」
「不妊治療の為に薬を流用するつもりだったらしい。あの女、本職は看護婦だ」
正確には看護師。視点からの類推であるが、おそらく当たりだろう。
「・・・世も末だな。看護婦が強盗なんぞ」
「正規ルートでは出回っていないのだろう?」
「それはそうだがな。なんとも短絡的な」
「リザードマンだ。短絡的でも仕方ない」
「・・・リザードマンか。そう言われればそうだが」
二人して種族的偏見の一致を確認していると、小柄な人影が近寄ってくる。
傍目には少女、もしくは幼い子供にしか見えないが、ニット帽の下の視線は、手元のボードを仔細に確認する理知的なものだった。
「ちょっとすいませんー。ワゴン、四人の私物、身体検査も行ったのですが、薬、見つからないんですがー」
「薬が?」
次から次へとよくもまぁ事態が落ち着かないものだ。
「布由彦、あの女は?」
「最初の接触の時に確かたが、ブーツの中にナイフを隠している以外は特に。薬についてもアンプル入手の段階までしか視認していない」
「待て、彼女が看護師としても、残りのメンツは?何が目的でこんな人数が集まった?」
「・・・お友達?」
「馬鹿。四人とも正規の資料は集まってる。免許証持っていたし」
小柄な女性の隣、バインダーに資料を分厚く整理した夜都子が、資料を勇登氏に手渡す。
「解答としては、彼女が看護師である事は正解」
「他の三人は?」
「一人はルームシェアしている女友達。残り二人はフリーランスの傭兵。女友達の方が、所属している魔術師コミュニティ経由で依頼した事が確認できたから」
蛇の道は蛇。聞き慣れない単語が次々と耳へ飛び込んでくる。
「対外担当も手際がいいな。そんで薬は?」
尋ねながら口元へ煙草を咥えるも、壁に貼られた禁煙マークに手を止める勇登氏。
「発見はまだ。けれど、男二人の話によると封筒へ封入後に投函済みと」
「それにしても傭兵ときたか。彼女はどこでそんな金を?看護師ってそこまでは儲からんだろう?」
「患者の誰かに薬の入手を持ち掛け、患者側には入手する薬と引き換えに金銭的な面を負担させたと」
「妥当だが、ところで」
「何?」
「これで終わりなら帰っていいか?」
ごくごく当然の単語を口にしたつもりだが、劇的な反応を夜都子が見せる。無言のままバインダーを開く。
「まだ。場合によっては泊まり」
たった一言で停留を指示された自分は、カプセルホテルへの宿泊資金がない事を確認する。
しかし財布には2000円しかなかった。無理だ。
家にはまだあるのだが、この間のセールで二人分を買った事を失念していた。
「安心しろ。家に泊まっていけ」
「・・・それで?引きとめる理由は?」
「薬」
「薬?」
「薬が、別の人間の手に渡っていたら、どうする?」
提示された嫌な可能性を前に、思わず顔をしかめてしまった。
現在、午後二時。
古い記憶がある。
小学生の自分は、分別はあったが抑えきれない孤独もまた感じていた。
甘えられる存在のいない寂しさ。
夏空を見上げる自分が、たまらなく弱々しい存在に思えて仕方なかった。
立ち上がっていたジャングルジムから転げ落ちる。
傷を負っても尚、自分は泣けなかった。
「フユ」
「・・・夜都子」
中学生の制服をなびかせた夜都子が慌てた様子で駆け寄ってくる。部活動で速くに家を出た夜都子は、地面に座り込む俺の顔をハンカチで拭う。
「どうしたの?こんな怪我、らしくもない」
「そうかな?」
まるで怪我なんかしないとばかりの口調であるが、事実、そこらの子供より丈夫だった。勇登氏に遊び半分で教えられた格闘技など、半ば意地になって挑んでいた。
「かなしい、のかもしれない」
ぼんやりとした意識でそう呟く。頭も打ったいたらしい。
「さびしい、のじゃない?」
夜都子が掌を差し出してくる。思わず、砂で汚れた手で握り返す。
「かもしれない」
小賢しい物言いだな、と思い出しても思う。
「なら、甘えて」
意外な台詞。間違いなく自分は驚いていた。
抱きしめられた感触に思わず息を呑む。誰も居ない公園で二人。遠く蝉の音ばかりが耳へ聞こえた。
暖かい。
血潮の匂い。肌の淡いぬくもり。
夏なのに。
暑く汗ばかりが滲む時間なのに。
自分は、彼女が好きなのだろうなと、安心に眼を閉じた。
涙が零れ、嗚咽が喉を震わせる。
「おと、うさん、おかあ、さん。おじい、ちゃん」
死したる者。会えぬ者。
嗚咽に歯を食いしばり、ただ苦しげな息を洩らしながらも、彼女の暖かさはひたすらにありがたかった。
休憩中。
傭兵まで使って不妊治療に薬。時代は変わったというべきか、世界が違うというべきか。
自分自身が酷く場違いに感じる。
人を殺す技術もなければそういった類いを押し殺す冷静さには程遠い。仮にあの傭兵と殺し合いともなっていれば。
「帰りたい」
心底に思う。安請け合いするべきではなかったかもしれない。
撫でつけた髪先を指で弄ると、隣でアタッシュケースが蠢く。
中から伸びた触手が一本、慰めるように肩を叩く。
「すまんな。心配をかけたようで」
「いえいえ」とばかりに触手の先が左右に動く。思わず握った柔らかい感触に、友情に似たものを感じた。
「それにしても」
ビルの屋上。遠く、レインボーブリッジが見えた。ゴミ処理センターも。
冷たい潮風に身震いしていた時。
「ん?」
鼻先が何かを拾った。
嗅神経にある感覚の余剰が別感覚へ繋がった。
脳内、存在しないはずの領域へ血を流す。神経信号を迂回させ、ラインを形成。
明確でない感覚域へ回路を切り替える。
視覚化したにおい物質のルートを探る。細いライン状の淡いピンクの色合いが、擬似的に視界の中へ投影される。
甘い匂いがする。花の蜜、心拍数の上がる興奮の種子。
「近い?」
潮風があるとはいえ、そう遠くからではない。ラインは残り香ではなかった。
隣に居た触手ケースを手振りで呼ぶと、片足を掴んだ触手にビルの壁面を這ってもらう。
「ビルの中?」
窓の一つを指差す。アルミサッシの小窓を、触手の先が軽やかに鍵を開けてしまう。
「お見事」
中へ顔を突っ込んだ途端、濃厚な臭いに掌を顔の前へ動かす。
指先を送受信アンテナを使用し、振動で香りを散らした。
自分の場合、身体構造と能力が直結している為、神経の総量が多い掌と顔は能力的な入出力装置にも該当する。
「・・・あまりに臭い」
過ぎたるは及ばざるが如し。
悪臭に近い香りを前に、アンプルが固定されたケースを手にしている相手と眼が合う。
「こんにちは」
「こん、にちはー?」
頭の中で名前が合致する。勇登氏が最初に読んだ名前。
「ミス・マルグリッタ」
「確か、布由彦君、だったっけかー?」
「はい」
窓から滑り込む触手。頭を下げて部屋の中へ降り立った自分もまた、彼女の手が握るアンプルケースを気だるさと共に眺める。
「アンプルが何故ここに?」
「まぁ、私が持ち込んだから、かなー?」
「なるほど」
その瞬間に掌を前へ伸ばした自分を牽制し、既に跳び蹴りが放たれていた。
「なっ」
「へあ!」
一撃に頭を下げる。触手が瞬時に壁際まで逃げると同時、両手を前に突き出した。
捕まえるより速い挙動に足と腕へ一瞬だけ触れる。
着地と同時に狭い部屋を走る矮躯は逃げ去っていた。
「触手さん、追うぞ」
同時に跳び出した一人と一箱は、途端に飛来した観葉植物を回避。
既に小さくなりつつある小柄な人影を追い、即座に足を速めた。
「誰か!マルグレッタがアンプル持って逃げたぞ!」
大音声で叫ぶ。途端に周囲で人の気配が動いたと思った途端、 誰かが投げ飛ばされていた。
「大丈夫か!主に頭が!」
「そういった表現で呼ばうな小僧ぅぅ」
なにやら見覚えのある男であるが、知り合いの男ならば容易く投げられる事はない。
「ち、チ○コ、思いっきり殴られた」
「・・・あの子は悪魔だな」
魔物の力で殴られた勇登さんを心配しつつ、駄目なら夜都子の弟妹の可能性は諦めねばならぬと一人手を合わせる。
「彼女は?」
「ひ、一人ではない。どうやら、誰かと一緒にいるようだ」
「つまり?」
「魔術師も逃げた」
事態が一向に好転しないのは何故なのか。
とりあえず腰を叩いていた手を離すと、両足で大きく跳躍した。
床を全力で踏みつける。
物理的な振動が波及するのを靴裏で感じると同時、建物を伝う微弱な振動の強弱を伝い、足が感じ取った瞬間に場所を特定。
足のサイズが最も小柄な相手。
センサより確実な自身の感覚を信じると、非常階段を駆け降りる。
転移呪文の一つでも使われれば悪夢だが、この世界では事前の用意もなくそういったものは難しい。
階段の踊り場から下へ跳び下りると同時、20階近い距離を一瞬で落下。
着地した瞬間に身体を路面へ転がし、秒コンマの動きで足裏から全ての振動を逃した。
神経の総量と言う意味では、足先もまた入出力装置の条件に該当する。
裏口の扉を開けた二人の頭へ掌を一瞬ずつ押し当てると、彼女達は膝から崩れ落ちた。
はずだった。
短い詠唱と共に掌が弾かれる。
咄嗟に魔術師が障壁を展開したようだ。追撃より速く炎弾が飛来。慌てて交わすと、焦げ臭い空気を浴びる。
即座に逃げに転じる二人より足が速かった。先程と同じく足を踏み下ろす震脚を使った瞬間、地鳴りのような蠢動に二人の足ががくりと崩れる。
「遅い」
追跡能力だけで勇登氏は俺を評価したわけではない。少なくとも大抵においての無力化に問題ない実力であるとの自負はある。
しかし、二人を庇うように姿を現した相手に対しては体を強張らせる。
僅かに青い色合いの肌。
隠さずに露出された尖った双角。
鬼。
その存在を前に臆さずに突進したのは、覚悟を決めていた為だろう。
踏み込み、烈火の如き攻撃を放った鬼女を前に、体を大きく捻った自分は飛び込む。
俊撃。
振りかぶられた豪腕を回り込みながら躱し、その勢いのまま脇へ肘打ちを見舞った。
カウンターに近い打撃と共に、歩調から近くに潜んでいた魔術師の位置へ石を投げる。咄嗟に術式をシールドへ切り替えた魔術師の額へ掌を叩きつけた。
「ふっ!」
腰の捻りと肘から先を押し出す動作の連動による掌打。
衝撃波。寸勁と呼ばれる打撃技術に近いが、自分の場合は振動、つまりは物体の運動を観測できる。腕の捻りで指向性を定める。
身体を鍛えてはいないのだろう。魔術師は一瞬で昏倒し、それを確かめもせずに背後へ足払いを放つ。
回復していた鬼が再び振り下ろしの拳撃を見舞おうとしていたが、こちらは既に察知している。足払いでバランスを崩した瞬間に体当たりで押し倒す。起き上がるより先、多少の逡巡も含めて踵を額へ振り下ろしていた。
角にズボンの裾が破ける。しかし、踵からの浸透勁によって鬼も沈黙した。呼吸による肺の振動から気絶した事を理解、階段の影、しゃがみこんでいたドワーフへ視線を向けていた。
「逃げていない事くらい解っている。さて、どうするつもりだ?」
「あー、どうしよう、かな?」
心拍数、呼吸の量、眼球の挙動。相手の反応から現状を推測する。こちらは既に息が上がった普通の人間である。
思考する。迷う。だが、結局は諦めた。説得できると思わなかった。
交戦の意思がある。
後ろ手に隠した武器、保持している手の筋肉の脈動からおそらく金属。体重移動、間合い、移動速度、反応速度、それらを把握している自分は、おそらく表情ひとつ動かしていないだろう。
「降伏の意思は?」
「あー、うん、逃がして、くれない?」
「無理だ」
呆れ混じりに視線を逸らす誘い。舌打ちしそうなこちらの表情に、焦っていたドワーフ、マルグリッタが動いた。
予想を超える反応速度。小柄な身体から想像できない筋力。
だが、この距離では無駄だった。
全力で動く。
前転。首を狙っていた ナイフが空を過ぎ、逆立ちの勢いで振り上げた踵が、擦れ違い様に彼女の顔へ叩きつけられた。
ナイフを振り抜いた後、遅れて足が流れる。視界の下からの打撃に対応できなかったマルグリッタを撃墜。
地面へ落ちた瞬間、起き上がるより先に掌を額へ押し当てる。
呼吸すら止まる錯覚。腹部へ突き上げられるナイフより早く、寸勁を放つ。
ナイフが落ちる。上昇した心拍数に、思わず咳き込む。酷使された身体が悲鳴を上げ、全身が軋む。
「割に、合わない仕事だった」
場合によっては給与の額を交渉すべきかと思いつつ、泥臭い格闘戦を制した身体を地面に投げ出す。
疲れた。
厚みのある封筒。しかし、これが自分の命の価格であるとした場合、それを妥当とするかは微妙だろう。
人の命は重い。だが、脆くもある。
「リザードマンはそっちが?」
「捕縛した。とりあえず、これで依頼終了」
二度の戦闘で疲れきった顔が見てとれたのか、ベンチに座り込んだ自分の隣に腰掛け、夜都子が給与明細から資料までを渡してくれる。
周囲では慌しく事後処理が行われている。勇登さんは救急車で運ばれたが、場合によってはしばらく泌尿器科通いだろう。
「デートは勘弁して欲しい。疲れた」
「そうね。また、今度」
名残り惜しいという様子が言外からも察せられたが、こちらは用意一つなく立ち回った為にひたすら肉弾戦をする事になった。
久しぶりに会えた身内同然の相手の寂しそうな顔。
後ろ髪を引かれる気分はしたものの、何も言わずに置いてきたアマトリが気になってもいた。
「じゃあ、帰るから。少なくとも夏にはまた」
「・・・連休は?」
「今は無理だ。匿っている魔物が居る」
「匿、う?」
瞬間、何故か夜都子の口調が極低温へ下がる。
物騒な様子に腰が退けた自分は、迷わずベンチから立ち上がった。
「じゃあ、また。触手さん、送ってくれないか?」
アタッシュケースから覗く触手が丸を描く。逃げ込むように中へ飛び込むものの、言い忘れた一言を思い出す。
「夜都子」
「何?」
「元気そうで安心した。会えてよかったよ」
触手が海へ。半身を鞄から出した格好のまま手を振り、波飛沫に濡れる前に中へと隠れた。
現在、魔物は女性である。これは逃れようのない常識であり、ハーフ、クォーターも同様の女性となる。
こちらの世界や英雄の血筋という要素によって男が生まれる場合もあるが、それは極少数である。
つまり。
あの子は女と同棲している(←歪曲)。
「かくま、う、う、う、う・・・!?」
「ど、どうしました?隊長?」
怯えながら尋ねたエルフの女性へ鋭い一瞥と口元だけの微笑を向けた瞬間、彼女は気絶した。
遠く、東京湾に消えていく飛沫を見送る。
「今度は、こちらから」
嫉妬や寂しさ、心配か困惑が混ざった感情を抑えつつ、彼女は握り拳を握った。
勇登さん曰く『ノームてのは、気が長い代わりに執着も深いからなぁ・・・』という出だしで始まる惚気話を布由彦も聞かされ続けていたが。
その対象となるかは、まだ知らない。
堅い握手と共に触手さんと別れた自分は、疲れた身体で玄関へ倒れ臥す。
冷たい空気を肌に感じているが、もう動く事も辛かった。
「無事か?」
「・・・なんとか」
泥や砂、汗の匂いでこちらの様子を察しているのだろう。ナナカマドは頬を舐め、起床を促す。
「ごめん、しばらくは無理」
「だらしないものだ」
「ごめん」
犬に謝るという奇異な光景。そこへ、大きな影が現れる。
無表情な顔。
何かを見定めているような彼女。
けれど。
「ただいま」
それだけの言葉が言えただけで十分だった。
そのまま気絶するように眠ってしまったが、突然身体が軽くなり、誰かに運ばれている感覚を味わう。
暖かく、甘い匂いがした。
信頼させる為には何が必要なのだろうかとも思う。
彼女は、この世界で少しでも幸せになれるのだろうかとも思う。
とりあえず。
この報酬があれば二人分の食費にはなりそうだ。
その間に、少しでも楽しんでもらおう。この世界を。
そこまでの思考の中、ふと気付く。
もしかしたら、自分は彼女の友人になりたいのかもしれないと。
そんな気がした。
− つづく −
早朝に近い時間帯、湾口の釣り船にも一人二人と客が乗り込んで行る。
波は穏やかであるものの、冬の厳しさに辟易するような朝であった。
時節の挨拶やら寒さへの愚痴やらを交わす客と船長の傍、海上を駆け、船の傍を擦り抜けるよう水飛沫と共に移動する何かが彼等の視界へ飛び込んできた。
「な、なんじゃありゃあ!?」
船長の叫びも無視し、人影らしきものは東京湾を横切っていく。
「さ、寒い!」
枝節 布由彦(えだふし ふゆひこ)。高校二年。オールバックの髪型か、特徴のある目鼻立ちの所為か、同級生にして『若頭』と呼ばれる青年である。
そんな彼が真冬の利根川から江戸川にかけてをアタッシュケースで川下りしているのには訳があるのだが、開始第二話で何をしているのやら。
アタッシュケースにも何かの仕掛けがあるのか、ほとんどモータボードと変わらぬ速度で急旋回する。上で震える布由彦は必死で足を動かし、崩れそうになったバランスを立て直した。
既に真冬の海。こんな珍奇な若者だろうと命は惜しい。
コートの裾を翻し、あたかも水上を走るような人影が去ると、水飛沫を舳先に浴びた船の上、客と船長は顔を見合わせた。
その後、東京湾界隈の釣り師に『コート幽霊』の名がまことしやかに囁かれたとか囁かれなかったとか。
数時間前。数時間前だったはず。
こたつで居眠りしそうになっていた額をしたたかに打ち付けた時、痛みに悶える自分の耳へ黒電話の音が届いていた。
じりりりと響く喧しい音を前に、欠伸混じりで立ち上がった。
「はい、枝節です」
時節は早朝と呼ぶにまだ速い深夜。電話越しに無礼に無言で抗議するも、相手の声を耳にした途端、驚いたような顔をしてしまっただろう。
『夜に失礼。緊急』
「夜都子?」
脳内の情報配列が記憶を算出する。
宮上 夜都子。東京都在住。歳は五つ上、広義における『同業者』。
カヌクイの名は多くが知るが、分家筋にあたる枝節を知るものは少ない。
『デート。今日』
「・・・土曜の深夜にかけてくる電話ではないような』
壁掛け時計を横目に欠伸を噛み殺す。今度は布団で眠りたかったのだが。
「デートに仕事は含まれるので?」
『残念ながら。移動手段は適当な『箱』に。そちらへはすぐ』
家の前で轟音。移動手段は既に到着したと認識。
「緊急なのは確定事項?」
『おそらく』
考えは即座に答えになる。彼女に恩はある。
「すぐに行く」
『ありがとう』
受話機を置く。
「・・・仕方ない。コートで足りるか?」
冬の日本海。
ろくに選びもせず黒いコーデュロイのスラックスに濃い青のタートルネックの上、コートを羽織る。
戸締りと書き置き。踵を蹴飛ばすように靴へ足を捻じ込んだ。
家の前には一抱えほどのアタッシュケースが存在を誇示。
その端から見覚えのない不定形にして青く瑪瑙に似た色合いの触手が伸びた。
「うぁ!?」
一瞬で足首を掴まれたと思った瞬間、ケースが夜空へ飛んだ。
「いくらなんでも死ぬ!これは無理だ!無理ぃぃぃぃぃ!」
野太い悲鳴など誰が聞くはずもなく、夜空の中へ連れ去られていた。
その後、東京まで移動経路を選ばずに移動された自分は大変に不幸だと思う。
端的に言えばもの凄く寒かった。
英雄、色を好む。それは剛毅さと引き換えに生来の仁義や常識を捨てて剛毅が故の多欲から女を求める類いに使う言葉でもある。
正しくは、英雄は精力的があるが為に女もまた求むる、といった意味合いの解釈であるが、過去においては戦で夫を失った女達を守る為に囲った男も居り、そういった歴史も鑑みると言葉の真意は奥が深い。
それと違い、枝節のみならず『カヌクイ』達が元となった貫射位、源流とも言われる家柄の祖は、良くも悪くも色を好んだらしい。
『羅刹』の異名で名を知られた『笹門《ささかど》』家。
『武器屋』と畏怖で呼ばわれた『百倉《ももくら》』家。
『鬼夷』の蔑視で囁かれるは『恵比寿《えびす》』家。
その他にも、名も血も知られぬようになる多くの家が生まれたが、今を以て残るは数える程。
何の因果か傍流が『枝節』が残ったのも、意味在ってなのかもしれない。
しかし。
「ごくごく普通に死ぬ!末代までの恥になる!」
夜間の高速飛行に加えて水上移動。足首はがっちりと固定されたまま一時間経過。
それだけの時間があれば九州から東京まで移動できるものらしい。この生き物は何なのか。
「もう駄目だ。すまん、入るぞ」
半ば強引にトランクの中へ身体を捻じ込む。何か触手の感覚が全身を這うが、意外と暖かく快適だった。
内部の次元や空間がどうなっているかは定かでないが、居心地がよく同化されないのであればそれでいい。
「喰い殺されそうになれば、その瞬間に乗っ取る覚悟はあるが」
何か内部が怯えた気がした。
おそらくは、枝節の末裔たる自分にも備わる異能と呼ぶものに反応してだろうが。
「格好などつける暇もない。寒」
即座に居眠りを始めた人間を内に、アタッシュケースの中の存在は先を急ぐ。
そろそろ目的地である。
オフィスの休憩室を思わす整理された室内。
扇情的な肢体を軍服に似た制服に身を包む女性。褐色の肌とセミロングに切り揃えられた髪は後ろで編み込まれている。
おっとり、もしくは穏やか、はたまた無表情、そういった印象の似合う容貌をしているが、今は何かに追い詰められたように室内を闊歩していた。
両手首では何か紋様の刻まれた銀のリングを鳴らし、瞑目するように半ばまで閉じられた瞼がぴくぴくと震えている。
「遅い・・・!」
思わず叫んでしまった後に口元を抑える。彼女の気質を知る者達はざわめき、1人茶を啜る壮年の男性は、くたびれたスーツ姿でそれを暇そうに眺める。
「副長ー、隊長があれじゃ待機中の隊員が休めないですよー」
小柄、ともすれば少女か幼女としか見えない体躯の女性が褐色の女生徒同じ制服姿で壮年の男を見上げる。癖っ毛の髪を掻き回した壮年の男は、腕時計を眺めながら喋る。
「もう十分もすれば落ち着く。それまでほっといてやりな。落ち着かないんだろう」
「落ち着かないのはこっちですよー。一体誰が来るんですー?」
「そうかマルグレッタは知らないのか。まぁ傍流だが英雄の末裔だよ、今から来るのは」
「英雄ー?騙りとかじゃないんですかー?」
小柄でオレンジに近い赤毛をした女性、童顔で通った大きな眼を半眼に、馬鹿にした様子でへらへら笑う。職業柄、そういった人間を黙らせた事も一度ではない。
「一応は本物だ。まぁ若いが実力もそこそこで悪い小僧ではない。父の代でこちらの世界で縁を切ろうとしたらしいが、その息子にも一癖あってカヌクイの業を継いだらしい」
「カヌクイ?その子供が日貫射筋(かぬくいすじ)なのー?まさかぁ」
陽気、ともすれば能天気にすら見える様子であるが、その眼の奥では男の真意を探っている。まさか担ぐつもりはないだろうと無言で尋ねている。
日貫射筋といえば確かに英雄の血族。それがそこらに転がっていると言えば誰であれ疑うだろう。
「見りゃ解る。お前くらい感覚が鋭敏な魔物なら、何か感じるだろう」
顎に傷、頭に白いものが混じり始めていながらも、まるで岩を削りだしたように精悍な面立ち。
引き締まった肢体から放つ気配は、まるで柳であり、印象がまるで掴めない男。
副長と呼ばれる男の評価に眉を潜めた小柄な女性は、瞬時に何かへ気付いたように窓へ走る。
「もう!窓枠高過ぎー!」
本来的には発掘や土の下をテリトリーとする存在である彼女だが、地中で培った勘の良さは漏れ出る天然ガスを避けるよう何かの到来を予測していた。
窓を開くと同時に轟音。床を凹ませながらバウンドしたアタッシュケースは、数本の触手で衝撃を減衰させると、がたがたと床の上で静止した。
半数以上が警戒を含んで姿勢を正す。隊長と呼ばれた女性の装備である事は周知、しかし現在もそうだとは限らない。
小柄な女性が片腕に装着した篭手が軋むほど拳を握っていたのも束の間、狭い隙間から触手の束が溢れると、中から一人の男が起き上がっていた。
「到着か?」
中肉中背。髪を撫でつけ、一般人と呼ぶには目鼻立ちが悪辣な人間を想像させる作りである。
若い、が、どこか滲みだす貫録に思わず平伏すべきかと悩みそうになった程である。
自分達と同じ軍用を連想させる無骨な濃い灰色のコートを数度叩くと、触手を収納しながら閉じていくアタッシュケースから一歩離れた。
「おう、布由彦。元気か?」
副長の声に、表情を僅かに和らげた青年は頭を下げた。
「勇登《はやと》さんも壮健そうで」
「あんまり長生きも面倒なんだがな。おい、呼びつけたお前が一番に挨拶しねぇか」
壁を見つめていた女性へ一言声をかける。周囲の面々が恐々と見守る中、無表情に布由彦へ視線を動かす。
「お」
「お?」
問い返した布由彦に対し、隊長と呼ばれた女性が言葉を継ぐ。
「おは、よう」
なにやら気まずい沈黙がその場を支配したのは、想像するにも容易いだろう。
現在、午後四時。
重たい身体を大きく伸ばす。全身が凝り固まるような筋肉の収縮を緩和すると、なんとか身体が元へと戻った気がした。
花の大江戸、国の心臓首都東京。
観光であればまだいいが、臨海沿いの僻地にあるビルの一室、それも応接間とは名ばかりの倉庫の片隅に椅子を向かい合わせただけの場に、まるで捕らえようとばかりに隊員達とやらが取り囲むとあっては安心もできない。
「・・・居心地が悪い。とても」
「先に紹介しておく。この小僧が枝節布由彦。カヌクイの血に連なる者だ」
周囲、多少の異形を身に備えた女性や、傷痕の残る厳めしい男等は、疑問視するよう互いに視線を交わし合う。
困惑を張り付けたであろう自分の表情を察してか、多少の縁あって幼少期にも世話になった皆本勇登氏《みなもと はやと》は苦笑いするように煙草を咥える。
「それで、夜都子は何故に部屋の隅で蹲ったまま動かなくなったので?」
「まぁ、それはほっとけ。自己嫌悪だろう」
この部屋まで随伴したものの、虚ろな視線で壁と睨みあう夜都子・・・皆本夜都子《みなもと やとこ》をどうすべきか考えあぐねたものの言葉に従い放置。
「それで、俺のような若輩が呼ばれた理由は?東京なら分家筋にも有名な家が幾らでも居るだろうに」
「声を大にしての依頼で摩擦を起こしたくない。家柄に箔のある者は他を刺激する事にもなりかねん」
「成程。無名であれば角も立たぬと」
政治的判断、などと呼ぶ次元ではないが、波風に対しては誰であれ避けて通りたいのは道理。
了解が旨を首肯で伝えると、咥え煙草を揺らし、勇登氏は言葉を続ける。
「まぁ、本題に移ろう。お前、学校は?」
「今日が土曜で日曜、振替休日の月曜まで三日は大丈夫だが。火曜日にはさすがに」
「じゃあ三日か。三日以内に探し出して、奪取せにゃならんものがある」
「何を?」
「アルラウネの蜜を使った試薬のアンプルだよ」
「げ」
思わず嫌そうな声を漏らしてしまったのは失態だが、あまり愉快な話でもない。
アルラウネの密。魔物の中でもアルラウネという植物特性を持つ存在から生み出されるもので、高い効能を持つ媚薬である。
しかし媚薬の側面に強心剤などの効果があるのも事実だそうで、場合によっては薬物検査に引っ掛からない毒殺も可能という。
媚薬も大量摂取すれば脳溢血や心臓発作による死、一般的に腹上死などと呼ばれる状況の死亡原因になりえるのだから、因果といえば因果だろう。
聞くだけでも正規の品でない上、表沙汰にするのも難しい品、そこで外部の人間だが政治的な駆け引きとも無縁な傍流も傍流である自分へ託されるといった事情までは理解した。
「確かに、探すだけであれば俺の『能力』も有用であるとは思うが」
「正直、お前にしか無理とさえ思う。現場に痕跡もろくに残っていないのでな。頼む」
「報酬は?」
「正規報酬できちんと用意する。ある程度の形式的なものがなければ疑われる」
「成程。なら前金は無し、成功報酬で結構」
「それでいい。頼むぞ」
「引き受ける」
握手する二人を余所に、全員の視線は壁を睨みぶつぶつと呟く夜都子の方へ向けられている。戸惑いと混乱に陥れる隊長格の異常な行動もどうかと思い、切り揃えられ、編まれた髪を乱暴に掻き回す。
「な、にを!」
咄嗟に振り払われた手。立ち上がる夜都子の瞳孔はきちんと定まっているようで安心した。
「仕事。いつから始める?」
「え?説明、は?」
「こっちで済ませた。朝飯食ってさっさと行け。夜中に引っ張り回してんだ奢ってやれよ」
「馳走になります」
「・・・なんかもう、馬鹿らしい」
背筋の伸びた夜都子と自分が出ていく背後では、勇登氏へ殺到する隊員達が見てとれた。どんな説明が成されるかはさておき、とにかく腹が減っていた。
「晩は私が作るから。朝は」
「なんでもいい。むしろ、早く食べれれば何であれ文句はない」
空では、暁色の色と共に普段見る事もない日の出の輝きが満ちていこうとしている。
常とは違う力はは血が記し、歴史が結果として残したもの。異能を奇異することがあろうと尊ぶ事などない。
しみじみと自身の出自に伴う過去を想起するも、身内事に然程の不満もなかった。
祖父は誇りであり親しき人であった。
祖母はみまかって永く、まみえた事もなく。
母も同じく、まみえた事なく。
父に至るは堅物であれど、人柄に悪し様を罵る点などない。
後妻と呼ぶべきか困るものの、今の頃の母に不満はあるにしろ些少である。
異能もまた職能の如きものと、どこか白けた想いで認識しているのも事実である。精々が耳がいいだの眼がいいだの、家柄に付随する必要だからある程度の力。
文官に剛力は必要なく、武官に宮中作法が必要がないのと同じ。
そして自身の力とは、不要と言われれば確かに不要なものだと思う。
「ふぅむ」
咀嚼していたハンバーガ―を呑みこむと、テーブルに置かれたアンプルケースを眺める。強奪された薬と同じ場にあった破片であるというが、これなものから探すとなれば自分のようなものが呼ばれるだろう。
こめかみより奥、脳天より後ろ、後ろ頭の内側のあたりで存在し得ない場所を力ませる。
そういった表現でしか言い表せない脳髄の刺激によって、視界と聴覚が僅かに『変質』した。
割れたアンプルの表面に鮮やかな色合いの写真が映ったように見える。パラパラと捲れるように動く、コマ落ちした動画のように。
『固有振動数識域化能力』。そういった通称でしか呼ばれぬ異能の姿が通常とは違う視覚が捉えたものを眼球へ映しだす。
物には振動による固有の振れ幅がある。そして環境という周辺からの刺激が存在する以上、雑多な要因で様々な変化が起きる。
そういった変化の累積などを判別できる力が、備え、培ってきた力として身体に1つ余計な回路を備えるように自分には存在した。
「しかし、ナナカマドに匂いを追わせればいい気もしたのだが」
正直、自分の存在意義を零にしかねない鼻をもった相棒の事を口にする。
「・・・蜜の匂いで淫猥になった犬など見たくもない」
あまりに正直な夜都子の言葉に、それもそうだと納得してしまう自分。捜す者にそういった振れ幅があっては何をするにも差し支えるだろう。
仕方なくコマ落ち動画の画像へ焦点を合わせていくイメージ。意識の集中に常ならざる感性は鋭敏に尖る。
物体の大きな変化は破壊の瞬間。もし強奪時に破損したのであれば、その前後は明確に残り、拾い上げるのにも苦心はなかった。
足音の数、人の影によって出来た光の陰影、微かな声、そういったアンプルに変化を与えた様々な要素を拾い上げた瞬間、頭の回路を元へ戻した。
色褪せた景色に次第に色覚が戻る。眼球や鼓膜を通じて神経にかかった負担が表面化したわけだが、軽いものであるなら反動は一瞬。
「三人、うち二人が男、一人女が倉庫に入った人数。足音三つで走らなかった。予定通りに事が進んだようだ」
歩調や足音で人を探るのは捜査する人間が備える技能でもあるが、こちらは本能に付随する機能でしかない。
ほとんど本質も理解せぬまま頭の奥へするりと情報が滑り込んでくる。
テストにでも使えれば満点も夢ではないが、問題数を考えれば途中で倒れかねないと自嘲する。
「夜都子、現場に案内を」
「あ、あぁ」
今日は不思議と躊躇の様が見て取れる歳が五つ上の人を前に小首を傾げ眉間へ皺を寄せる。
疑問の顔に何かを思ったのか、慌てて夜都子が立ち上がった。
「車、回してもらうから」
なにやら挙動不審であるが、思えば彼女と会うのも数ヶ月ぶりであった。
祖父が亡くなったのは自身が小学三年生になったばかりの頃だった。畳の上で死ねた祖父を親類縁者は大往生と湛え、八十幾つの祖父の通夜の日、なにごとか解らぬまま棺の前に座っていた。
凡庸と、泣く事も巧く出来ぬ自分を見兼ねたのが皆本家、祖父と縁があり、父とも級友であった勇登氏である。あまり愛想のよくない子にも随分と優しくしてもらい、夏休みに泊まった皆本家は暖かかった。
元々母の姿も知らず父より祖父の手を煩わせた幼少期、むしろ勇登氏と奥方に家族のそれを重ねていたのかもしれない。
愛想がないのは自分と同じであったが、中学生の夜都子にも随分と世話になった。名を呼び捨ているのもその頃の名残である。
もし彼等がいなければ、自分はカヌクイなど選べず、そして人の道からも外れていたように思えてならない。
異能など、重たく邪魔な生活の枷でしかないのだから。
「布由彦」
「あ?」
寝ぼけ眼のまま口元を擦る。涎は出ていなかったようだが、居眠りしていたらしい。
何の変哲もない東京から流れて埼玉近郊にあるという郊外のビルを前に、人の気配のしない通りの傍へ路上駐車する。
運転席では夜都子が携帯で何か話をしている。構わず、自分はビルの前を、自動ドアから歩道までをぼんやり眺めた。
歩調や歩幅を付随する脳細胞が一括して処理する。
歩調と足音、靴の材質、そういった諸々の要素から、無意識が答えを並べていく。三人組が1つのグループとして歩き、近くのコインパーキングに停めていた車から移動した形跡。
まるでルミノール反応としてうすぼんやり脳裏に浮かんでいる感覚であるが、知らず歩いていた自分は、コインパーキングの前で掌を地面へ当てる。
雑多なタイヤ痕を種類の違う感覚が五感へ置き換える。ゴムの痕など視認できようはずもないが、なんとなくでその中から時系列に沿って探り出してしまう。
車の中、寝る前に流し読みしていた資料から犯行時刻は昨日の昼過ぎ二時、清掃業者に偽装した人間までは解っている。あとはワゴン、今から約十時間以上前、そういったフラグを1つずつ見比べ、それらしきものが自然と違和感なく合致した。
ほとんど呼吸に等しい。
普通車の助手席へ腰を落とすと、携帯電話を耳にしていた夜都子が慌てて閉じた。
「速過ぎる。まだ電話が済んでなかったのに」
「いや、叱責されても」
理不尽な言葉に呆れるも、電話機へ幾つか呟くと車が発進する。次の交差点を曲がるように指示した後、形跡を追う為、脳髄に感じる圧迫感を我慢して言葉を続けた。
夏休みの後、冬休みにも世話になった。
その頃はまだ今の母は居なかったし、一人、家で居る時間も長かった。
父とてないがしろにしていたわけではないが、仕事とは私情を許してくれない。
徹夜明けに夕食を食べる為だけに帰宅する父への心苦しさから、いつしか「かえってくるな」と突き返すようになる。
父もまた、そんな子供の葛藤など見越していたのだろう。哀しそうではあったが「稼いでくる」と胸を張って仕事へ行った。
そんな自分に夜都子や皆本家の面々は非常に好意的だった。
四年生の終わりになるまでの二年間は、ほとんど皆本家で過ごしたようなものである。勇登氏もまた、息子が出来たようだと嬉しげであった事は覚えている。むずがゆくも、とても嬉しかった。
その後、五年生へ学年が移る前、今の母がやってきたからがまた一騒動あったのだが。
結局、中学の半ばでカヌクイの業を継いで以後には、過去にも増して世話になった経緯がある。
喧嘩の仕方に夕涼みの楽しさ、異能の御し方まで多岐に渡ってだ。
その恩を返せと言われれば、一も二もなく是というのも当然である。
かくして、朝も早くから見えぬタイヤの筋を追う事半時間。再び東京へ帰る頃には時間も八時、通勤ラッシュの最中に掴まってしまった。
「ふぅ」
車が動くまで、そう判じて回路を切る。熱い目頭のチリチリと痛む視神経の悲鳴に瞼を閉じてしばらく、かぶせられた冷たい冷却タオルの感触に礼を言う。
「ありがとう」
「まず休んで。あと、どのくらいと思う?」
「停車した形跡は信号を除けばない。距離の稼げる大きな道を選んでいる以上、窓から飛び降りたとは思えないからこのまま追えば多分」
「うん、解った」
茫洋としたる表情の夜都子だが、その脳裏では何か思案をしている様子。いっそ手の一つも握れば何か反応があるのではないかと昔馴染みへの茶目っ気も浮かぶが、何か真剣な横顔に手を停める。
やめた。彼女とて何か思うところもあるのだろうと。
そうこうしているうちに車も動き出す。わき道に逸れる痕跡を追って暫く。高架線下のコインパーキングに一台のワゴンが放置されていた。
該当する清掃会社のロゴと、支払機で確認した停車後の時間。おそらく、当たりを引いた。
微かな高揚感に、奥の神経もじわじわと疲れを和らげていく。長い追跡後の冷却に、昔へ想いばかりを馳せていた意識も常と変らぬ明瞭さを取り戻した。
自身が暗愚ともあれ頭の中がすっきりとするというのは確かにありがたい。
「ここからの足取りは?」
「ん?」
精算機から戻ってきた夜都子に、すぐさま視線足元へ落とす。短い休憩であったが、既に熱は引き状態は元へ戻っている。
その明瞭な視界、常ならざる感覚を含んだ視覚の中に、また面倒な情報が飛び込んできた。
「女と男二人が別々に歩きだしている。男は表の通りを右に、女は表の通りを左に別れた」
「どちらが薬品を持っていると?」
「さすがに。どうも厳重な封でもしているのか、人の気配そのものがない」
「いい。片方は捜索に人数を当てる。男の特徴は?」
「片方は背が高く痩身だが筋肉質。身長は予測では180cmと、身長170cm前後、中肉中背だがこちらも鍛えた様子のある男、どちらもスーツかブレザーの類いを着ている」
「女は?」
「女の方は身長170p半ば、筋肉質だが女性的な隆起があると予測される。おそらく魔物。種族はリザードマン。動作に尾があったような素振りが混じっている。服装は、ジーンズにパーカー」
想像が実像を呼び込むように口にするうちに見えないはずの足跡から姿が現れ、整合性を証明するように幻影を見る。
しかして男ならばぶら下げているものも同じと敵を見据えるよう仔細に解るが、女となれば朴念仁の童貞に期待することなかれ。
体幹の移動やら身動きで仔細とまではいかぬまでも解るが、顔まで見分しようと感覚の度合いを上げるべきでないと自粛する。
それより動いて探った方が速そうだ。
時刻も九時程となり、朝も明けぬ頃の身を刺す冷たさこそなかったが、やはり冬場の空気と実感した途端に身震いする。
携帯電話を取り出す夜都子を余所に、自販機を探し視線を左右へ動かす。
そのうちに自販機を見つける。コーヒーを二つほど買っていると、懐へ携帯を戻そうとしていた夜都子がこちらへ歩いてきた。
「移動か?どちらを追う?」
「身体的な特徴から何人かデータに引っ掛かったらしい。私達と同じ職業」
コーヒーを手渡し、自分もコーヒーを喉へ流す。熱い感触に痛みすら感じるが、内側から温めるような苦さにほっと息を吐いた。
「魔物関係か。それで?」
「女の方を追って。男達の方はマーク出来るようね」
「了解。ここからは徒歩のようだが」
「ワゴンの調査のついでに、車も回収してもらうから」
「なら続けよう」
視界を切り替える。歩幅から足跡を探り、ゆっくりと歩きだした。
「旦那、目標発見」
セダンの助手席、顔に本を乗せたまま居眠りをしていた男、勇登が身体を起こした。
オーバーサイズのハンチング帽を押し上げ、鋭い目元を露出した女性は視線を動かす。
「2ドアのスポーツカーに二人とも。たぶん写真と合致してるかと。どうします?」
道路脇、停車されたまま料金の加算されていく車。確かに男が二人乗りしていた。
「警戒中のメンツで取り押さえろ。おそらく二人とも戦い慣れはしているが、暴れさせるな」
「テイザーは?」
「おそらく不要だ。マルグレッタは?」
「街路樹の下、赤いニット帽被ってます」
視線を移した二人の視界に、赤い帽子を被った少女、もしくは幼子が眼に入る。ぶんぶんと楽しげに手を振る様子に、ひくりとハンチング帽は口元を強張らせる。
「・・・職質、されませんかね?」
「されんよ。保護されそうだが」
二人の会話を余所に、マルグレッタと呼ばれた少女が車へ近寄っていく。勇登が車載の通信機による細かな指示を行った時も、ふんふんと頭が上下に揺れている様子が見て取れた。
「・・・以上だ」
会話から数分後。
窓ガラスを数度ノックしたマルグレッタに反応し、窓から顔を出す男。
同時、窓枠から転がりこんだマルグレッタに狼狽した様子があったが、びくりと身体を強張らせた途端、順番に動かなくなった。
「生きてます?あれ」
「誰か一人フォローしろ。マルグレッタは運転席の男を足元へ詰めろ。入れ替わりで誰か運転。移動」
小柄な人影がドアの隙間から車を降り、代わりにスーツの男が滑り込む。小柄な人影による料金精算と共にスポーツカーは走り出した。
「尋問は?」
「小僧が戻ってくれば五分で終わる。薬がなければ放置」
「・・・そういえば、あの男、信用できるので?」
「お前も会ってなかったのか。あれはウチじゃ息子と変わらん。あれが信用できんなら夜都子も駄目だ」
呆気なく口にされた事実に、ハンチング帽、多少面食らった様子で眼を見開く。
「どういったご関係で?」
「寝小便しとる頃から面倒みてるんでな。夜都子も中学生の頃からの付き合いだ」
「へぇ。それで」
今日の醜態の理由、その一端を理解した気がしたハンチング帽は、苦笑いと共にヘッドフォンを耳へ寄せた。
「何か隠し事でもしているのだろう。あの小僧が絡むすぐ隙が出来る」
「しかし、魔物の方を追わせてよかったので?荒事ともなれば危ないんじゃありませんかね?」
「まぁ、夜都子も居る。それに、あの小僧にも幾つか仕込んである」
渋面のまま煙草を咥えようとしていた勇登だが、通信機に混じる雑音に手を止める。
ヘッドフォンを耳に当てていたハンチング帽は、舌打ちと共にサイドブレーキを外した。
窓を開けて硬貨を精算機に押し込むと同時、車は列に割り込むよう急発進した。
「台場の方で感知!魔術です!」
「直接現場に回せ」
「了解っと!」
走り出したセダンの中、煙草の煙は開けた窓から流れ出す。
りんかい線へ乗り、東京テレポート駅で降りる。広大な土地が全て埋め立て地と考えるとなかなかに壮大だと考えるも、切り替えた視界で足跡を追う。
テレビで見た事のある有名な球体展望台付きのビルなども見えるが、すぐに地面へ視線を落とした。今度は観光でもしたいものだ。久しぶりに皆本家に顔を出すのも悪くない。
足跡を追っているうちに今度はタクシーに乗った形跡がある。こうも振り回されると些かの苛立ちを感じ始めるが、仕方なく自分達もタクシーへ乗る。
晴海ふ頭付近でタクシーを下車。周囲を見回すと、奇妙な四角いオブジェの傍に、情報と合致する女性が立っていた。
「腕組んで。目標はあの女」
パーカにジーンズ、細身で女性としては背の高い女性を視線で示す。
しかし、隣に立つ夜都子の動きが止まった事に視線を向けた。
「夜都子?」
戦慄く夜都子の様子に、すわ何事かと反応を見る。しかし、何があったというのか、頬を赤くして首を左右に振る。
「い」
「い?」
「いやだ!恥ずかしい!」
「しばくぞ」
思わず物騒な言葉で恫喝してしまったが、半ば抱きよせる格好で引っ張る。
口をぱくぱくさせる夜都子の姿にこちらも顔が赤く染まりかけるも、場の雰囲気にこちらは体温が下がる。
徐々に、危険信号が鳴り始めていた。
「追うぞ」
「え、えぇ」
移動をはじめた背中に背負われた鞄の中、ギターケースを彷彿とさせる縦長のバッグには、何か金属の気配を感じた。
リザードマン、金属。
背筋に這う妙な感覚と共に、ほとんど抱き締める格好で夜都子を引き寄せ、歩調を変えた。
「な!な!?」
「戦略的撤退」
「なにが!?」
「戦略的撤退!」
ほとんど走り出そうとした刹那、一気に横へ跳躍した。
空気全体が色を変えるような違和感。本来は混じるはずのない認識外の感覚。
魔術。
範囲に作用した効果から人払いの類いであると想定。
同時、空間を薙ぐ風圧に全身が強張る。寸前まで居た場所へ銀の光が通り過ぎた。
「お嬢さん、物騒だ」
「軽口を」
フードから覗く切れ長の瞳。手にした長剣を手に一歩下がった彼女の眼の前には夜都子が立ち塞がる。
「有能な追手だ。口惜しい」
「捕まる?」
「無論、抵抗する」
間髪入れぬ突進に夜都子の両腕が変化し、岩塊が腕を覆い倍近い大きさを構築。岩の腕による受けによって剣筋をずらすように軌道を歪ませた。
「巧い」
「褒めないで」
続け様に繰り返される攻防を前に、視線を左右に動かす。
剣筋鋭いリザードマンの女性は魔術とは別口だろう。道具の気配もない。
仲間がいるとすれば、攻防が激しく狙い難い二人より、奇襲に易い探索担当を狙うはず。
二対一なら居場所が判明したところで勝てると踏んだ計算なら自分にも容易い。
あとは、情報のない互いの条件は同じ。
だが。
「成程。そこか」
視線を揺らす。走る。
一直線に叢を目指した途端、甲高い音律が耳へ刺さった。
詠唱。
側転と同時に跳躍。炎撃が背後へ突き刺さる。
炎の舌が路面を舐める様子を確認する間もなくさらに接近するも、鼻先に感じた気配を迂回するようヘッドスリップ。
眼の前に展開された空気とは屈折率の違う『何か』を回避し、歩数を刻むように前へ動く。
焦れてか、叢より顔を出すニットのワンピースを着た人影が跳び出した。レギンスに包まれた足が跳ね上がった瞬間に掌を額へ押し当てる。
息吹と共に『力』を込める。掌で大きく突き飛ばすような動作によって術式を使っていた女は意識を手放す。
「なっ!?」
驚くリザードマンへ振り返ろうとした時、しなやかな足先を岩塊が覆う。
「終わり」
横薙ぎに振り抜かれた岩塊が腹を捉える。
呻き声と共に剣を逆手に構え直そうとしたリザードマンへの接近は容易かった。
掌が頭へ叩きつけられる。
ぐらりと揺れた瞬間、リザードマンもまた気絶した。
「依頼終了」
鼻息荒く呟いたものの、どこか夜都子が納得のいかない表情をしたのが記憶に残る。
とにかく、これで仕事は果たせたようだ。
しかし妙な相手ではあった。路面へ顕現された炎といい、剣筋の狙いといい、まるで手加減されていたようだが。
まぁいい。とにかく疲れた。
ビルの一室。窓もなく、机と二脚の椅子が寒々しく感じる。捕縛回収したリザードマンが拘束される。
額へ掌を押し当てた瞬間、漏れ出た情報の断片が徐々に映像を組み上がっていく。
診察室。病室。泣き崩れる女。言葉が徐々に再生速度を同期させていく。
『・・・残念・・・今後も・・・』
『・・・れで・・・妻への治療は・・・』
『可能性は零では・・・このままの治療でもいつか・・・』
俯く女性と寄り添う男。対面の医師は難しい顔のままカルテへ視線を落とす。
『遺伝的な問題もありますが、そう悲観なさらず。お二人ともまだ若いのですから』
視点を動かす。ピントを合わせる。三人を俯瞰する視点から、視線をカルテへ。
日本語で表記された走り書きの主訴を見た瞬間、思わず掌を額の上から放していた。
「いや、予想外といえば、その通りだが」
思わず唸る。
非常に重大な問題ではあるものの、あまりに現実的な事象を前に、個室をゆっくりと外へ出た。
「で、犯行理由は?」
扉を出た瞬間、ロックを元に戻した勇登氏が尋ねて来る。
「不妊治療」
「は?」
「不妊治療の為に薬を流用するつもりだったらしい。あの女、本職は看護婦だ」
正確には看護師。視点からの類推であるが、おそらく当たりだろう。
「・・・世も末だな。看護婦が強盗なんぞ」
「正規ルートでは出回っていないのだろう?」
「それはそうだがな。なんとも短絡的な」
「リザードマンだ。短絡的でも仕方ない」
「・・・リザードマンか。そう言われればそうだが」
二人して種族的偏見の一致を確認していると、小柄な人影が近寄ってくる。
傍目には少女、もしくは幼い子供にしか見えないが、ニット帽の下の視線は、手元のボードを仔細に確認する理知的なものだった。
「ちょっとすいませんー。ワゴン、四人の私物、身体検査も行ったのですが、薬、見つからないんですがー」
「薬が?」
次から次へとよくもまぁ事態が落ち着かないものだ。
「布由彦、あの女は?」
「最初の接触の時に確かたが、ブーツの中にナイフを隠している以外は特に。薬についてもアンプル入手の段階までしか視認していない」
「待て、彼女が看護師としても、残りのメンツは?何が目的でこんな人数が集まった?」
「・・・お友達?」
「馬鹿。四人とも正規の資料は集まってる。免許証持っていたし」
小柄な女性の隣、バインダーに資料を分厚く整理した夜都子が、資料を勇登氏に手渡す。
「解答としては、彼女が看護師である事は正解」
「他の三人は?」
「一人はルームシェアしている女友達。残り二人はフリーランスの傭兵。女友達の方が、所属している魔術師コミュニティ経由で依頼した事が確認できたから」
蛇の道は蛇。聞き慣れない単語が次々と耳へ飛び込んでくる。
「対外担当も手際がいいな。そんで薬は?」
尋ねながら口元へ煙草を咥えるも、壁に貼られた禁煙マークに手を止める勇登氏。
「発見はまだ。けれど、男二人の話によると封筒へ封入後に投函済みと」
「それにしても傭兵ときたか。彼女はどこでそんな金を?看護師ってそこまでは儲からんだろう?」
「患者の誰かに薬の入手を持ち掛け、患者側には入手する薬と引き換えに金銭的な面を負担させたと」
「妥当だが、ところで」
「何?」
「これで終わりなら帰っていいか?」
ごくごく当然の単語を口にしたつもりだが、劇的な反応を夜都子が見せる。無言のままバインダーを開く。
「まだ。場合によっては泊まり」
たった一言で停留を指示された自分は、カプセルホテルへの宿泊資金がない事を確認する。
しかし財布には2000円しかなかった。無理だ。
家にはまだあるのだが、この間のセールで二人分を買った事を失念していた。
「安心しろ。家に泊まっていけ」
「・・・それで?引きとめる理由は?」
「薬」
「薬?」
「薬が、別の人間の手に渡っていたら、どうする?」
提示された嫌な可能性を前に、思わず顔をしかめてしまった。
現在、午後二時。
古い記憶がある。
小学生の自分は、分別はあったが抑えきれない孤独もまた感じていた。
甘えられる存在のいない寂しさ。
夏空を見上げる自分が、たまらなく弱々しい存在に思えて仕方なかった。
立ち上がっていたジャングルジムから転げ落ちる。
傷を負っても尚、自分は泣けなかった。
「フユ」
「・・・夜都子」
中学生の制服をなびかせた夜都子が慌てた様子で駆け寄ってくる。部活動で速くに家を出た夜都子は、地面に座り込む俺の顔をハンカチで拭う。
「どうしたの?こんな怪我、らしくもない」
「そうかな?」
まるで怪我なんかしないとばかりの口調であるが、事実、そこらの子供より丈夫だった。勇登氏に遊び半分で教えられた格闘技など、半ば意地になって挑んでいた。
「かなしい、のかもしれない」
ぼんやりとした意識でそう呟く。頭も打ったいたらしい。
「さびしい、のじゃない?」
夜都子が掌を差し出してくる。思わず、砂で汚れた手で握り返す。
「かもしれない」
小賢しい物言いだな、と思い出しても思う。
「なら、甘えて」
意外な台詞。間違いなく自分は驚いていた。
抱きしめられた感触に思わず息を呑む。誰も居ない公園で二人。遠く蝉の音ばかりが耳へ聞こえた。
暖かい。
血潮の匂い。肌の淡いぬくもり。
夏なのに。
暑く汗ばかりが滲む時間なのに。
自分は、彼女が好きなのだろうなと、安心に眼を閉じた。
涙が零れ、嗚咽が喉を震わせる。
「おと、うさん、おかあ、さん。おじい、ちゃん」
死したる者。会えぬ者。
嗚咽に歯を食いしばり、ただ苦しげな息を洩らしながらも、彼女の暖かさはひたすらにありがたかった。
休憩中。
傭兵まで使って不妊治療に薬。時代は変わったというべきか、世界が違うというべきか。
自分自身が酷く場違いに感じる。
人を殺す技術もなければそういった類いを押し殺す冷静さには程遠い。仮にあの傭兵と殺し合いともなっていれば。
「帰りたい」
心底に思う。安請け合いするべきではなかったかもしれない。
撫でつけた髪先を指で弄ると、隣でアタッシュケースが蠢く。
中から伸びた触手が一本、慰めるように肩を叩く。
「すまんな。心配をかけたようで」
「いえいえ」とばかりに触手の先が左右に動く。思わず握った柔らかい感触に、友情に似たものを感じた。
「それにしても」
ビルの屋上。遠く、レインボーブリッジが見えた。ゴミ処理センターも。
冷たい潮風に身震いしていた時。
「ん?」
鼻先が何かを拾った。
嗅神経にある感覚の余剰が別感覚へ繋がった。
脳内、存在しないはずの領域へ血を流す。神経信号を迂回させ、ラインを形成。
明確でない感覚域へ回路を切り替える。
視覚化したにおい物質のルートを探る。細いライン状の淡いピンクの色合いが、擬似的に視界の中へ投影される。
甘い匂いがする。花の蜜、心拍数の上がる興奮の種子。
「近い?」
潮風があるとはいえ、そう遠くからではない。ラインは残り香ではなかった。
隣に居た触手ケースを手振りで呼ぶと、片足を掴んだ触手にビルの壁面を這ってもらう。
「ビルの中?」
窓の一つを指差す。アルミサッシの小窓を、触手の先が軽やかに鍵を開けてしまう。
「お見事」
中へ顔を突っ込んだ途端、濃厚な臭いに掌を顔の前へ動かす。
指先を送受信アンテナを使用し、振動で香りを散らした。
自分の場合、身体構造と能力が直結している為、神経の総量が多い掌と顔は能力的な入出力装置にも該当する。
「・・・あまりに臭い」
過ぎたるは及ばざるが如し。
悪臭に近い香りを前に、アンプルが固定されたケースを手にしている相手と眼が合う。
「こんにちは」
「こん、にちはー?」
頭の中で名前が合致する。勇登氏が最初に読んだ名前。
「ミス・マルグリッタ」
「確か、布由彦君、だったっけかー?」
「はい」
窓から滑り込む触手。頭を下げて部屋の中へ降り立った自分もまた、彼女の手が握るアンプルケースを気だるさと共に眺める。
「アンプルが何故ここに?」
「まぁ、私が持ち込んだから、かなー?」
「なるほど」
その瞬間に掌を前へ伸ばした自分を牽制し、既に跳び蹴りが放たれていた。
「なっ」
「へあ!」
一撃に頭を下げる。触手が瞬時に壁際まで逃げると同時、両手を前に突き出した。
捕まえるより速い挙動に足と腕へ一瞬だけ触れる。
着地と同時に狭い部屋を走る矮躯は逃げ去っていた。
「触手さん、追うぞ」
同時に跳び出した一人と一箱は、途端に飛来した観葉植物を回避。
既に小さくなりつつある小柄な人影を追い、即座に足を速めた。
「誰か!マルグレッタがアンプル持って逃げたぞ!」
大音声で叫ぶ。途端に周囲で人の気配が動いたと思った途端、 誰かが投げ飛ばされていた。
「大丈夫か!主に頭が!」
「そういった表現で呼ばうな小僧ぅぅ」
なにやら見覚えのある男であるが、知り合いの男ならば容易く投げられる事はない。
「ち、チ○コ、思いっきり殴られた」
「・・・あの子は悪魔だな」
魔物の力で殴られた勇登さんを心配しつつ、駄目なら夜都子の弟妹の可能性は諦めねばならぬと一人手を合わせる。
「彼女は?」
「ひ、一人ではない。どうやら、誰かと一緒にいるようだ」
「つまり?」
「魔術師も逃げた」
事態が一向に好転しないのは何故なのか。
とりあえず腰を叩いていた手を離すと、両足で大きく跳躍した。
床を全力で踏みつける。
物理的な振動が波及するのを靴裏で感じると同時、建物を伝う微弱な振動の強弱を伝い、足が感じ取った瞬間に場所を特定。
足のサイズが最も小柄な相手。
センサより確実な自身の感覚を信じると、非常階段を駆け降りる。
転移呪文の一つでも使われれば悪夢だが、この世界では事前の用意もなくそういったものは難しい。
階段の踊り場から下へ跳び下りると同時、20階近い距離を一瞬で落下。
着地した瞬間に身体を路面へ転がし、秒コンマの動きで足裏から全ての振動を逃した。
神経の総量と言う意味では、足先もまた入出力装置の条件に該当する。
裏口の扉を開けた二人の頭へ掌を一瞬ずつ押し当てると、彼女達は膝から崩れ落ちた。
はずだった。
短い詠唱と共に掌が弾かれる。
咄嗟に魔術師が障壁を展開したようだ。追撃より速く炎弾が飛来。慌てて交わすと、焦げ臭い空気を浴びる。
即座に逃げに転じる二人より足が速かった。先程と同じく足を踏み下ろす震脚を使った瞬間、地鳴りのような蠢動に二人の足ががくりと崩れる。
「遅い」
追跡能力だけで勇登氏は俺を評価したわけではない。少なくとも大抵においての無力化に問題ない実力であるとの自負はある。
しかし、二人を庇うように姿を現した相手に対しては体を強張らせる。
僅かに青い色合いの肌。
隠さずに露出された尖った双角。
鬼。
その存在を前に臆さずに突進したのは、覚悟を決めていた為だろう。
踏み込み、烈火の如き攻撃を放った鬼女を前に、体を大きく捻った自分は飛び込む。
俊撃。
振りかぶられた豪腕を回り込みながら躱し、その勢いのまま脇へ肘打ちを見舞った。
カウンターに近い打撃と共に、歩調から近くに潜んでいた魔術師の位置へ石を投げる。咄嗟に術式をシールドへ切り替えた魔術師の額へ掌を叩きつけた。
「ふっ!」
腰の捻りと肘から先を押し出す動作の連動による掌打。
衝撃波。寸勁と呼ばれる打撃技術に近いが、自分の場合は振動、つまりは物体の運動を観測できる。腕の捻りで指向性を定める。
身体を鍛えてはいないのだろう。魔術師は一瞬で昏倒し、それを確かめもせずに背後へ足払いを放つ。
回復していた鬼が再び振り下ろしの拳撃を見舞おうとしていたが、こちらは既に察知している。足払いでバランスを崩した瞬間に体当たりで押し倒す。起き上がるより先、多少の逡巡も含めて踵を額へ振り下ろしていた。
角にズボンの裾が破ける。しかし、踵からの浸透勁によって鬼も沈黙した。呼吸による肺の振動から気絶した事を理解、階段の影、しゃがみこんでいたドワーフへ視線を向けていた。
「逃げていない事くらい解っている。さて、どうするつもりだ?」
「あー、どうしよう、かな?」
心拍数、呼吸の量、眼球の挙動。相手の反応から現状を推測する。こちらは既に息が上がった普通の人間である。
思考する。迷う。だが、結局は諦めた。説得できると思わなかった。
交戦の意思がある。
後ろ手に隠した武器、保持している手の筋肉の脈動からおそらく金属。体重移動、間合い、移動速度、反応速度、それらを把握している自分は、おそらく表情ひとつ動かしていないだろう。
「降伏の意思は?」
「あー、うん、逃がして、くれない?」
「無理だ」
呆れ混じりに視線を逸らす誘い。舌打ちしそうなこちらの表情に、焦っていたドワーフ、マルグリッタが動いた。
予想を超える反応速度。小柄な身体から想像できない筋力。
だが、この距離では無駄だった。
全力で動く。
前転。首を狙っていた ナイフが空を過ぎ、逆立ちの勢いで振り上げた踵が、擦れ違い様に彼女の顔へ叩きつけられた。
ナイフを振り抜いた後、遅れて足が流れる。視界の下からの打撃に対応できなかったマルグリッタを撃墜。
地面へ落ちた瞬間、起き上がるより先に掌を額へ押し当てる。
呼吸すら止まる錯覚。腹部へ突き上げられるナイフより早く、寸勁を放つ。
ナイフが落ちる。上昇した心拍数に、思わず咳き込む。酷使された身体が悲鳴を上げ、全身が軋む。
「割に、合わない仕事だった」
場合によっては給与の額を交渉すべきかと思いつつ、泥臭い格闘戦を制した身体を地面に投げ出す。
疲れた。
厚みのある封筒。しかし、これが自分の命の価格であるとした場合、それを妥当とするかは微妙だろう。
人の命は重い。だが、脆くもある。
「リザードマンはそっちが?」
「捕縛した。とりあえず、これで依頼終了」
二度の戦闘で疲れきった顔が見てとれたのか、ベンチに座り込んだ自分の隣に腰掛け、夜都子が給与明細から資料までを渡してくれる。
周囲では慌しく事後処理が行われている。勇登さんは救急車で運ばれたが、場合によってはしばらく泌尿器科通いだろう。
「デートは勘弁して欲しい。疲れた」
「そうね。また、今度」
名残り惜しいという様子が言外からも察せられたが、こちらは用意一つなく立ち回った為にひたすら肉弾戦をする事になった。
久しぶりに会えた身内同然の相手の寂しそうな顔。
後ろ髪を引かれる気分はしたものの、何も言わずに置いてきたアマトリが気になってもいた。
「じゃあ、帰るから。少なくとも夏にはまた」
「・・・連休は?」
「今は無理だ。匿っている魔物が居る」
「匿、う?」
瞬間、何故か夜都子の口調が極低温へ下がる。
物騒な様子に腰が退けた自分は、迷わずベンチから立ち上がった。
「じゃあ、また。触手さん、送ってくれないか?」
アタッシュケースから覗く触手が丸を描く。逃げ込むように中へ飛び込むものの、言い忘れた一言を思い出す。
「夜都子」
「何?」
「元気そうで安心した。会えてよかったよ」
触手が海へ。半身を鞄から出した格好のまま手を振り、波飛沫に濡れる前に中へと隠れた。
現在、魔物は女性である。これは逃れようのない常識であり、ハーフ、クォーターも同様の女性となる。
こちらの世界や英雄の血筋という要素によって男が生まれる場合もあるが、それは極少数である。
つまり。
あの子は女と同棲している(←歪曲)。
「かくま、う、う、う、う・・・!?」
「ど、どうしました?隊長?」
怯えながら尋ねたエルフの女性へ鋭い一瞥と口元だけの微笑を向けた瞬間、彼女は気絶した。
遠く、東京湾に消えていく飛沫を見送る。
「今度は、こちらから」
嫉妬や寂しさ、心配か困惑が混ざった感情を抑えつつ、彼女は握り拳を握った。
勇登さん曰く『ノームてのは、気が長い代わりに執着も深いからなぁ・・・』という出だしで始まる惚気話を布由彦も聞かされ続けていたが。
その対象となるかは、まだ知らない。
堅い握手と共に触手さんと別れた自分は、疲れた身体で玄関へ倒れ臥す。
冷たい空気を肌に感じているが、もう動く事も辛かった。
「無事か?」
「・・・なんとか」
泥や砂、汗の匂いでこちらの様子を察しているのだろう。ナナカマドは頬を舐め、起床を促す。
「ごめん、しばらくは無理」
「だらしないものだ」
「ごめん」
犬に謝るという奇異な光景。そこへ、大きな影が現れる。
無表情な顔。
何かを見定めているような彼女。
けれど。
「ただいま」
それだけの言葉が言えただけで十分だった。
そのまま気絶するように眠ってしまったが、突然身体が軽くなり、誰かに運ばれている感覚を味わう。
暖かく、甘い匂いがした。
信頼させる為には何が必要なのだろうかとも思う。
彼女は、この世界で少しでも幸せになれるのだろうかとも思う。
とりあえず。
この報酬があれば二人分の食費にはなりそうだ。
その間に、少しでも楽しんでもらおう。この世界を。
そこまでの思考の中、ふと気付く。
もしかしたら、自分は彼女の友人になりたいのかもしれないと。
そんな気がした。
− つづく −
11/02/04 22:02更新 / ザイトウ
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