連載小説
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カヌクイ 第一話 出会いと日常
 古い庄屋と元は大陸の商人だった者が結婚し、枝節(えだふし)という家が生まれた。江戸の頃より遥か昔の話である。
 大陸の商人と言い伝えられているが、いわくつきであるらしく、時に、くちさがない者は枝節を「化け物の血族」と呼んだ。
 しかして、江戸の頃、関東よりさらに西へ流れ、海を渡った彼等は、長崎の端、当時の筑後のあたりに移り住む。
 枝節は貿易で儲けた利益を人にも返した。よく人を世話し、よく人に好かれた。じき、彼等はそこを永住の地とした。
 時を幾重にも重ね、昭和の頃を過ぎた今でも、1つの役目と共に変わらず枝節の血は残る。
 誰が知ることもなく、その家には『カヌクイ』なる風習が受け継がれていく。
 遠い時間の先より、ゆるく異形たるものと共に。


 家の中に居る時、梁を見上げるのをつい躊躇ってしまう。癖だ。
 屋敷といえなくもないが、みるからに恐ろしげな、下手をすれば100年前からあるようなとてもとてものボロ屋敷である。
 家人は自分1人。単身赴任の父に付き添い、後妻の母まで今は東京である。さすがにそんな二人と共に東京へ行くも野暮と自分が1人残ったのであるが。
「おはよう布由彦」
「おはようナナカマド」
痩せた巨躯の黒犬へ言葉を返す。家に誰もいない今、それを見咎められる事もない。
 つまりは、古い家が古いまま続いている理由とはそういったものなのである。
 枝節とは元々を『エッダの不死なるもの』という意味を大陸、それもシルクロードを通って辿り着いたような人間が、まつろわぬ血を継ぐ極東の島国の言葉をもちて名付けた。
 口伝における伝説に等しき不死なる者、そういった意味を有す。
 カヌクイもまた似たようなものであるが・・・
「ぬ。遅れる」
「急げ」
欠伸をする犬の叱咤と共に家を飛び出した。
 おりしも季節は秋を過ぎ、冬も近付く11月の始め。
 しかして、宿命や風習というものは、時期が故に逃がしてくれるようなものでもないのだろう。


 五十鈴村。現在の日本でも珍しい『村』として存続している土地柄である。今となっては九州の片田舎に過ぎないが、元々は長崎と博多を繋ぐ宿場の1つであったという。
 高校は公立高校である県立五十鈴高校が1つ。それも、一学年が40人から50人前後、三学年で計140人前後しかいない。体育祭は地元商店街の人間が入り混じり、文化祭は、さながら農家の直売会に近い様相を呈す。冬ともなれば、人を凍らせんばかりの吹き下ろしが周囲の山から吹き荒び、人も滅多に家を出ようとしない土地柄だ。
 そんな村であれば、どこどこの子であることは誰もが知る。
 曰く。
「あぁ、枝節の坊主か。堅気にゃ見えん面しとるの」
「枝節?どこぞの会社の部長とか言われても俺は信じるな。あれは(笑)」
「老けている、というより、老成している感じはあるわよね」
そういった酷い中傷を受けながら俺は生きているわけだが。
 教室の窓際、曇った窓に顔を映し、思わず睨みつける。 朴訥としているとも言われるが、その不機嫌そうに見える目付きで損ばかりしている。
 中肉中背という絵に描いた一般人であるはずなのに、何故、こんな評価ばかりを受けるのか。
 オールバックの髪が悪いのか、それとも目付きの悪さが問題なのか、もしや低い声が。
「枝節 布由彦《えだふし ふゆひこ》、いるなー?」
「はい」
生返事を返し、欠伸を漏らした。つい最近まで向う三軒両隣の名字が『山田』やら『川上』だので重複しては解らなくなり、下の名前まで呼ばねば解らないという習慣まであ
る田舎。歳若い教師もまた、過疎化の進みかけた村では珍しいUターン組というやつである。
「はい、それじゃアルカート、教科書87ページ」
くたびれたカーディガンの裾からチョークの粉をはたき、つい先日まで教育実習生だった彼女はぼんやり指示を出す。
「えー、はるはあけぼの、やうやうしろくなりゆく・・・」
金髪を刈り揃えた巨漢は、難しい顔のまま読み進めようとする。
「アルバート、また間違えて妹の教科書持ってきたな。誰か教科書貸してやれ」
ストーブの上、ヤカンがしゅんしゅんと湯気を吐きだす様子を背景に、海外の人間の混ざった教室では、なごやかに授業は進んで行った。
 そうこうしているうちに昼休みも終わる。
 午後の授業もまた、一クラス26名、受験戦争に焦る人間1人いないという時代の流れに取り残された空気で続く。ここでは、それが普通でしかない。
 放課後となると、部活動や帰宅に散る。自分もまた、帰宅する生徒の群れの中に埋もれる。
「あ、若頭はもう帰るの?」
ベリーショートが似合う女子からの声に「寒いから」と当たり前の事を呟いて教室を後にする。しかし、綽名が『若頭』なのは如何なものか。
「だって若頭っぽいし」
笑う同級生に溜め息で返し、教室を後にした。既に馴れたやりとりでしかない。
 外に出た瞬間、全身が硬直するのではないかという寒波に直撃される。
 もう鼻水が出た途端に凍りそうな寒さだった。
「・・・寒い」
のんびりと帰り道を歩いていると、商店街の喧騒、ブラスバンド部の合奏、全てが風の音に掻き消える。
 山裾から中腹まで食い込んだ古い住宅街へ続く坂を上っていると、妙に足が急くような感覚に背を押される。
「・・・・・」
カヌクイという我が家の風習には、1つの不文律がある。
 カヌクイの名を知る客人は、いかなる事情があろうともてなさなければならない。
 そしてこの日もまた。
 家の前にはトランクを抱えた人影が佇んでいた。
 鳴り響く火鉢風鈴は、金属質な音と共に、この来客が『常ならざる者』である事を教える警笛でもあった。


 常とは違う来客の時には、いつも思い出す記憶がある。
 それは生前の祖父が、縁側で語ってくれたカヌクイの由来についてのこと。
 春の縁側、庭木を眺める祖父に抱えられる自分は、その腕がまるで鋼のように立派だった事を今も覚えている。
『おじいちゃん?カヌクイて何なん?』
『カヌクイちな、昔々の約束やったんよ』
『やくそく?』
『儂らん先祖はな、遠いクニからこっち来とうんやけど、そん時に人じゃないちいう誰かに助けてもらったちゃね』
『人じゃないって、ヨウカイ?』
『似とう似とう。そげき、そん相手に御先祖様が助けるち説明しとった言葉の中で、『過貫く意』って言葉を聞き間違えたらしいんよ』
『そげなん?そいで「かぬく意」って何?」
『どげなもんでも壊す、貫き通すって意味の言葉の最期の方っちゃ。んで、御先祖はその『カヌクイ』って約束を残した』
『けど、なんでそげなん面倒な事、今も続いちょうと?』
『まぁなぁ。御先祖様の感謝ん気持ちも解るし、血ってもんもある』
『血?』
『英雄ん血じゃ。誇り高い血じゃ。それに、今ん世じゃ貴重らしいしの』
『えいゆうとか、わけ解らんくない?』
『そげかもな。けんど、その血が混ざると、魔物ん子じゃなくて男ん子が生まれるちげな』
『どげなん意味?』
『こればっかりゃお前にゃまだ早い話じゃ』
「そうなん?』
『そうじゃ』
幼い自分に笑う祖父の身体には、恐ろしくなるくらい大きな傷痕があった。
 祖父の死後、その傷こそが臓腑を傷つけ、命を縮める原因であった事を知らされた時、身体へ痺れに似た感触を味わう。
 おそらくあれは、尊敬と敬意。
 そうか、これが祖父の語った『誇り』か、と。
 父が厭うカヌクイを自分が継いだのも、そういった祖父の死に、悲しみより大きな感銘を受けた為であろう。
 この家に残る理由も然り。
 とはいえ、来客についての想像と現実の差異に少しばかり驚いても赦して欲しい。
 寒空に下に佇むのは、身長が2m近いのではないかという長身の体躯をモスグリーンのコートに身を包む美女だった。
 人種が違う。正直にそう感じる。
 背が高いというより、身体のスケールが別次元に近い。
 スタイルは抜群で眼のやり場に困るのだが、その上に身体のサイズそのものが違う。視線の先に砲弾のような胸が聳える光景には反応に迷う。
 顔立ちも美しく、青白い炎を思わす艶やかな濃紺の髪といい、西洋の女神を思わす容貌とも表現できる。一瞬、彫像かとも思った。
 硬質な美貌。しかし、年齢を測る事もできないような曖昧な印象に、どこか奇妙な違和感を感じた。
 これは、畏怖、だろうか。祖父に感じた感情に似たそれは。
 歩み寄る。
 こちらに何を思ったのか、コートのポケットを探る女性。慌てた様子が外見に似つかわしくなかったが、年上、と呼ぶべき歳よりも若いようにも感じた。
 取り出されたのは手帳。よく見ると、喉には包帯が巻かれている。
「喋れないのですか?」
威圧的にならないよう極力気を遣い、しゃがみこんで文字を記そうとしていた女性、もしかすると少女に問う。
 一度だけゆっくりと頷いた彼女が、手帳へ驚くほどの速度で文字を並べていく。
『貴様がカヌクイか?』
癖字ではあるが、感じも含むはっきりとした筆記。先程の質問に頷いた事からも予測していたが、ほぼ完璧に近い語学力を持ち合わせている。 
 しかし、こちらを睨むのは何故だろう?
 敵意に満ちた視線に背筋が寒くなるが、元々が冬の風に冷やされている。
 ぶるりと肩を震わせると、家の戸を鍵で開けた。
「どんな理由なのかはさておき、こちらへ」
家の中、人の気配のしない黒い空間。
 古い家独特の雰囲気に呑まれたようにも見えた相手であるが、逡巡も短い。靴を脱ぎ、コートの裾をからげるようにずかずかと中へ入って行った。
 せわしない、と思いつつも靴を並べ、自分も上がる。
 今回の客もまた、随分と面倒な事になりそうだと重く溜息を吐きながら。


 巽・アマトリ《たつみ・あまとり》。国籍は日本。性別は女、年齢は21。
 パスポートに記された情報とはいえ、偽名や虚偽を、こうもあからさまに書いて大丈夫なのかと心配する。
 炬燵の電源を入れてしばらく、御丁寧に日本語で用意された書類へ眼を通していく。手際が良くて非常に助かった。
 あちら側での公用語なんぞで書かれている場合、パソコンで翻訳ソフトを起動させねばならなかった。
 あの記号の並ぶ画面を見なければならない頭痛から救われ、心底に感謝する。まったく、あんなソフトを作成した人間を尊敬したい。
 アマトリ、は本名だろう。種族名ではなく固有名。家名の有無はさておき、種族名に大きく明記された単語に動きを止める。
「・・・ドラゴン?」
旧約聖書にも記述がある魔獣とも神獣とも要約できない大いなる存在。この世界における起源は遥かな彼方、古代バビロニアにおいてもその概念はあった。
 信仰がマルドゥク神へ推移する前に栄えていた父母神のうち母なるティアマト神、その古代宗教的な交代を神話において語る時、夫であるアプスーを権威を欲す子らに殺されたティアマトが『ドラゴン』へと変身する一場面を必ず聞くこととなる。
 その後、無数の魔物を生み、息子達を根絶やしにしようと挑み、その過程で孫にあたるマルドゥク神の機転によって討伐され、天と地を形作る材料にされてしまったという話。
 西洋ではキリスト教の隆盛と共に、ガルグイユ、聖ジョルジュの槍に討たれた毒竜など、偉業の創作に用いられた例は枚挙に暇がない。
 そんな存在が、眼の前に居る。
「あ・・・!」
そこで気付く。彼女が言葉を発せない理由を。
 首筋を覆うマフラーを示すよう首筋を指差す。意思は伝わったようで、緩く巻かれていた藍色のマフラーは、ゆっくりとほどかれた。
「これか」
魔術式と思しき記述。肌へ直接刻まれたそれらは、こちらの常識では測り知れぬ方法と論理で黒い線を這わせ
ている。
 しかして、悪意とは思えぬほのかに青い色を帯び、美しくすらある刻印の色合いを前に、膝立ちとなり顔を近付ける。
「人間の魔術ではない?」
あちらの言葉は然程解らないが、さりとて、象形文字ともとれぬ不可思議な線の配置は、人間のそれとは違って感じた。
 真っ直ぐにこちらを見るアマトリの顎が僅かに引かれ、首肯されたのだと気付いく。
 しかし、首肯したばかりの首が大きく右へ逸らされる。何かから逃れる動作を前に、少々顔が近過ぎるのではと遅れて気付いた。
「悪い」
素直に謝罪し顔を離すと、残った文章を読み進めていく。
『教団がドラゴンスレイヤーの発掘に成功。単一的機能しか有さぬ限定的武装であるが、指定した竜を追跡する事が可能であると同時、一撃による屠殺を可能とする。その武装を用いて殺そうとしたのが、教団と敵対関係であったアマトリである』
 つまり、ブレス封じも気配の隠蔽の為か。
 敵対理由は教団へ寄付された領地内にある森の守護者だった彼女との交戦から討伐対象と指定。占有権を主張したわけではなく、山沿いのその森は治水などにも有用な役目を担っており、伐採するのは止めるべきだという実に平和的な忠告だったのだが、それも無視されたらしい。
 さて、この『教団』と呼ばれる組織。
 現在のバチカンなどを想像するより、古い西洋における宗教団体と呼ぶ方が適切な存在らしい。
 基本は理想と理念、清貧と慈愛を主とする清廉潔白な組織であるものの、魔物には強い敵愾心を抱いている。
 加えて、一部では階位争いというものが発生しており、魔物の討伐を勲功とし、より高位の神職へ至ろうと、権力を悪用する人間も増えつつあるという。彼等は本来的な教義すら歪めて伝えさえいるとも。
 そんな彼等のうち、おそらくは実益で動く連中の判断だろう。
 そういった人間の権限で動く、討伐部隊や特務師団、聖騎士団などの武力を用いる人員も存在し、法王位に近い人間の一部に伝わる『世界の渡航』手段についても情報が漏洩している。短期通行手段を用いた教団員と祖父の代にも交戦があったという。
 無論、交戦そのものは少ない。しかし、今回は。
「・・・教団の来る可能性は大きいな」
 その言葉にアマトリの顔が険しくなる。
 おそらく、その土地の管理を任された神官が欲を出してアマトリを攻撃でもしたのだろう。結果、みじめに敗走して逆上、上役に泣きついて発掘されたばかりだった魔術兵装を使った。
 しかし逃げられた。上役はメンツがある。指揮した神官は自分の立場がある。
 あとは、躍起になって追撃という様子が素人にさえ想像できる。
「あとは、上役が『渡航』手段を知っていない事を願うばかりか」
呟きながら書類をバインダーへ閉じた。
 溜め息は喉から押し出される。
 年代別に分類されているものの中でも真新しいバインダーに、作られたばかりの書類を挟むと妙に重く感じる。
 それが責任なのかストレスなのかはさておき、魔術兵装の追尾能力とてさすがに二日三日で次元越しの反応を探れはしないだろう。
 おそらくは何らかの隠蔽手段を用いていると思うだろうし、しばらくは間違いなく平和だろう。
 森の方は近縁のエルフによって防衛網が敷かれているそうだし、教団も、組織的な魔物との敵対は望まないだろう。撃滅がしたいとしても、ゲリラ部隊に始終狙われるような生活は絶対に選ばない。
「さて、それではしばらくこちらで匿おう。あちらで問題が解決すればそれでよし。こちらに来た場合も対処法はそれなりにある。しばらくはゆっくりしているといい」
手を差し出す。
 平手で打ち払われた。
「・・・とにかく、そちらは目立つ行動、迷惑行為は慎む事。いいか?」
確認すると睨まれた。
 ここでやっと得心したというか、現状を理解した。
 彼女は人間を信用していないらしい。
 そこには自分も含まれる。
 そんな相手と仲良くやっていけるか甚だ不安であった。


 夜も更けた午後十時過ぎ。
 炬燵で課題を解いている途中、今日一日を振り返る。
「疲れた」
 飯は人間1人分で足りた。元々、食事には嗜好としての意味合いしかないらしい。さすがはラスボスクラスの存在。
 しかし同時に。
 腹が減っても死にはしない身体が、幸せなのかと疑問を感じたのは人間だからだろうか?
 解らない。
 とりあえず、味噌汁にも塩鮭にも文句は言われなかった。まぁ、言葉を発せないのだから『言われる事』は今後もないだろう。
 しかし、既に筆談には慣れているらしく。
『お茶』
『コタツとやらがぬるい』
『換気をしろ』
などの文句は流れるようにノートへ書き込まれていく。
 終いには面倒になったのか、こちらの掌に幾つかの文句が刻まれた。
「・・・しかも風呂入ったらすぐに寝るとは」
傍若無人極まりない。
 何故にあんな軍用車じみた女の面倒を見なければならないのかと、カヌクイをやっている意味を初めて考えた。
 それは誇りであるし憧れでもある。しかして、女の尻拭いまでせにゃならんとは。
 適当に答えを埋めた問題を書き上げると、数学の教科書とノートを鞄へ放り込む。
 パソコンを立ち上げると同時、テレビのチャンネルをニュースに合わせてボリュームを上げる。
 地方局の情報をBGMに、ネットに無線LANで繋いだ。
 田舎とはいえ、回線の存在する土地である事を感謝。
『続いてのニュースです。昨夜未明、県道で熊を見たという情報があり、保健所職員が出向いたところ、違法投棄された着ぐるみであった事が判明し・・・』
世は事もなし。
 平和なのは素晴らしいが、嵐の前の静けさであれば最悪である。明日は冷凍食品のタイムセールがあるのに。
「布由彦。あの女が起きたぞ」
床のラグマットか何かにしか見えなかった黒い塊から声。1人寂しかったのでナナカマドに上がってもらったのだが、さすがに耳聡い。
 遅れて足音に気付く。ぱた、ぱたと、足裏が板張りの廊下を叩く音がした。
「様子を見てくる」
「そうか」
痩せ犬は早々に床へ鼻先を伏せた。危険はないと判断しているらしい。
 かのパスカビル家の犬もかくやという迫力を有すナナカマドだが、その外見に反し、時には散歩も嫌がる怠惰な四足歩行動物。
 無論、元々が犬と形容するべきか迷う類いの存在なので、それも仕方ないのかもしれない。
 廊下の突き当たりで足音が止まった事でこちらの動きが止まる。あそこは家の案内で最初に教えた場所である。
 つまりは便所。
 しかし、尿道を有すからといって使用するかは別の話と言う別次元の存在が、何故に夜トイレなのか。
 トイレからの異音に、慌てて駆け出す。さすがに開ける時は躊躇ったが、水の滞るかの異音は確かに聞こえる。
「どうした?」
躊躇いがちに、それでも手早く開ける。用足しではあるまいと確信はしていたが。
「・・・」
「何を流すつもりなんだ・・・?」
無言でレバーを押す相手を前に、思わず脱力した。
 片足を水洗トイレの便器に突っ込んだまま、男物のズボンとシャツでも寸足らずな長身の女性へ問う。
 答えは無い。
 それは喋れないから答えないわけではなく、寝ぼけているから答える事もないのだと、片足を便器の中で洗い続ける相手を見れば誰にだって解る。
「とりあえず抜け。そして布団へいけ」
水が溢れそうだった便座から片足を引き抜き、トイレのタオルで足を拭う。
 タオルは洗濯機へ投げ、彼女を強引に背中へ背負う。
 まるで寝小便をした娘の後始末をする父親のような気分がした。
 この経験が、今後の役に立つとは思えない。
 しかも。
 柔らく形の変わる、シリコンなぞ及びもつかない自由自在の感触。
「な、南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経」
 背中に密着する巨大な二つの質量は極力意識しないよう経文を呟いていると、何故か侘しさに胸が痛む。
「南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。なむみょうほんれんげっきょう・・・」
この時ばかりは本当に蓮華経の教えに従うべきかと心底悩んだ。
 助けてくれるなら菩薩であれ悪魔であれ構うものか、と。
 この日は睡眠不足となった事は言うまでもない。


 納豆。日本人にとってはごくごく普通の食べ物であるが、日本人以外にしてみると蛸と並んで食材とは思えない食べ物の1つである。
「・・・」
アマトリであっても例外ではないらしく、スライムか何かを観察するような眼でこちらの手元を凝視していた。
「・・・安心しろ。喰えと強制するわけではないから」
醤油を垂らし、炊き立ての飯と共にかっこむ。
 とろみのあるだし醤油の甘みに舌鼓を打っていると、アマトリが突然手を差し出した。
「・・・喰うのか?」
「・・・!・・・!」
何度も頷く。
 仕方なしにもう1パック冷蔵庫から取り出すと、見様見真似で醤油を加えて混ぜる。
「・・・・・っ」
おそるおそる一口。
「!!」
御飯へ投入し、丁寧に、しかし素早く食べる。
 どうやらお気に召したようだが、ドラゴンの好物が『納豆』なのはどうなのだろうと真剣に悩んでしまった。
 そうこうしているうちに登校時間。
 解らない事があれば犬に聞くようにと、外では聞かせられないような会話の後に登校した。
 問題が起きませんようにと祈りながら。
「・・・その時は止める」
なんて頼もしい犬なんだろう。
 今日の買い物ではお土産にドライサラミを買って帰ろうと思う。

 放課後。早々に荷物をまとめると、腕時計の時間を確認する。タイムセールまでは40分ほどあった。
 移動時間も計算して教室を出る。
 切るように冷たい空気に辟易するものの、コートのポケットへ両手を入れれば、多少は寒さが和らぐ。
 市道沿いの商店街を抜け、狭い地方スーパーへ辿り着く頃には、眼の前には体格のいい主婦層が溢れかえっていた。
「あら冬くん。お買い物?」
その中に混じっていた大学生へ顔を向ける。赤毛の似合う筋肉質な方であるが、ごくごく普通に美人ではある。
 目尻に泣きボクロのあるこの方は、級友であるベリーショートの姉君。
「はい。晩は安ければ肉にでもしようかと」
「うち、今晩すきやきだけど、食べにくる?」
「客人がおりますので、残念ですが」
「そう。こっちも残念」
にこにこと微笑む姿に思わず頬と鼻の下が緩んでしまうが、店内放送が鳴った瞬間、全てが一変する。
『お惣菜コーナー七割引きとなります』
『豚バラ肉グラム35円』
『和牛ロース半額。半額です』
『県産キャベツ、1玉60円』
怒号が響き渡る。
 衝撃波のように人が揉み合う中、笑顔のままの姉君は片腕で人を投げ飛ばして突貫する。
 阿鼻叫喚。
 悲鳴と怒号の交差する地獄の様相を前に、自分もまた、決死の思いで突撃した。
 なんやかやで顔にキスマークをこしらえたりもみくちゃにされてズボンを下ろされかけたりした。


 服は無事だが、まだ股の間に違和感がある。まさか思い切り掴まれるとは。
 夕陽の中、買い物袋を二つ下げた帰り道。
 公園には誰も居ない。寒く冷たい風に吹き晒されるこんな場所に居るのは、自分くらいのものだろう。
 茜色の空も、沈む太陽も。
 少なくとも俺は美しいと思う。
 暮れゆく空が茜から濃く深い紫へと移り変わっていく光景は、まるでベルベットのカーテンが幾重にも重なっていくようだった。
 白い息を吐きながら、ぼんやりと座る。
 そんな時に、背後で足音がした。
 振り返ると、背後にアマトリが立っている。
 何か用事かと思いきや、音もなくベンチの隣へ座る。
 それ以上、何をするでもなく同じ方向を向いていた。
「・・・」
「・・・」
そのまま。
 二人して、何を語るわけでもなく、暮れゆく空を眺めて過ごす。
 夜。
 何時の間にか周囲は漆黒に包まれているが、夜も長くなったこの季節、まだ然程に遅い時間ではない。
「帰ろう」
 自分の身体が随分と冷えている事に気付き、緩く身震い。
 その途端にアマトリは、腕を絡ませ、長く細い指をこちらの手に絡めてくる。
 その手は、まるで赤熱した鉄板のように暖かい。
「ありがとう」
それだけを伝えようとしたものの、彼女は顔を背けてしまう。
「・・・照れたのか?」
「・・・!」
空いていた手で頭の上を叩かれる。
 痛みを堪えながらも歩き出す。あれだけ派手に掌を打ちつけたというのに、そっぽを向いたまま彼女から手を放そうとはしない。
 頭の痛みを堪えながら、俺と、彼女は、そのまま歩きだした。


 豚バラ肉を使った豚丼。
 ブツ切りの葱と玉葱に加え、短冊切りにしたニンジンと牛蒡を、めんつゆ、しょうゆ、日本酒、砂糖ベースに、幾つかの隠し味を加えた汁で煮込み、食べる前に肉を加える。
 肉の固くなる前に火を止め、湯気が出る炊き立ての御飯に具を乗せて上からつゆを浴びせるようにかけると、ごはんとつゆが絡み、湯気と共に香ばしい芳香が鼻へ届く。
 熱々の白い湯気が冷えた身体に浸みる。だしつゆは市販のものだが、新しい食材から存分に旨味が放出されている。
 噛み締めた時に感じるのは、肉に染み込んだ甘みと玉葱のまろやかさ、遅めに入れた葱にはシャキシャキとした歯応えが残り、柔らかい豚肉の脂と共に御飯を書きこむと、非常に美味しい。
 若干だが粉末ガラスープも加えているので、香ばしさと共に味わいに深みも増していた。
「上出来だな」
自らの作った一品に舌鼓を打っていると、空になったどんぶりを眼の前に突き出される。
 澄ました顔は視線を逸らしているが、口元を濡らす甘いつゆの跡は、どれだけ急いで食べたのかを想像させた。
「待て」
炬燵の上、鍋敷きに置かれた鍋の蓋を開ける。中では、つゆが浸み、味の濃くなりつつある肉と共に、汁に浮かぶ葱が徐々に色を染めている。
 炊飯器から御飯を盛り、しるをかけて渡すと同時、今度は楚々とした動作で口へ運ばれる。
 一口咀嚼し、ほうと息を吐く様も美しくあった。
 しかし、無言で飯をたいらげていく彼女は、よほどに美味いのか頬が上気してさえいる。
 こちらが一杯を食べていると相手は3杯目のおかわりを突き出す。どこか不機嫌そうな顔であるものの、頬を赤くしておかわりをねだる姿は自分より随分と幼く見えた。
 結局、4合を炊いていた御飯と豚丼のみならず、残り少ないキムチと浅漬けまで空にされた。
 そして飯を食べた途端に入浴とばかりに風呂を沸かしに動く。一番熱心に覚えていた湯沸かしの手順も、既にそらで出来るほど記憶しているようだ。
 その後、茶碗やら炊飯器の内釜やらを洗っていると、テレビを見ていたアマトリが着替えを手に立ち上がった。風呂が沸いたらしい。
 台所の前を横切ろうとした時、その足がぴたりと止まった。
 驚いて振り返ると、洗剤に濡れた手が掴まれた。
 掌を2度ほどつつかれる。筆記するという合図らしい。
 流麗な指先が掌を押しながら動くのは多分にくすぐったいのだが、こればかりは我慢するしかない。
『明日の 朝は 私が 調理をする』
「え?」
聞き返す前に、ストッキングの足先が廊下を踏みしめ、さっさと風呂場へ行ってしまった。彼女なりに、恩義を感じてくれているのだろうか?
「おそらく、何かしらの対抗心だろう。晩の食事を美味そうに食べる様を喜ばれたのがどこか腑に落ちなかったようだ」
「何故?」
「人間社会というのは、家事が出来ぬ女に嫁の貰い手がないといわれるそうだからな」
「・・・つまり?」
「女のプライド、だろう」
言葉に詰まり、どう言えばいいのか迷う。
 ナナカマドもメスである。
 結局、どうしようもないので明日の米を研ぐ事にした。
「1人暮らしも板に付き、か」
それでも孤独と感じないのは、ナナカマドや、この街のおかげだろうと小さく感謝した。
 今日もまた平穏無事。

―つづく―
11/04/27 19:54更新 / ザイトウ
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■作者メッセージ
はい、第一話でしたー。
ここまで読んだ人に多謝。
とりあえずで製作開始したわけですが、群像劇というか、ダブルヒーローができたらいいなーと思ってます。無理だったら諦めますけど(笑)。

とりあえず第二話までアップ予定。
ご意見ご感想に誤字脱字指摘までお待ちしております。

さて、とりあえず第二話まで企画してありますが、その後は未定です。
あしからずー。

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