君が思い出になる前に
人間、どんなに嫌なことがあっても腹だけは空くものだ。
母さんといた部屋を出て、船の中心部であるエントランスホールに向かっていくと、そこにはすでに新しい客が乗りこんでいた。
その大体の人間は、そのまま雑魚寝式の2等席に続く廊下へと、ぞろぞろと流れこんでいく。息が詰まるほどの人だかりを掻き分けて進んだその先に、目的地である小さなフードコーナーがあった。
椅子とテーブルはよくあるパイプとスチール製で、一般的なデパートの軽食店のそれとほぼ同じといっていい。
だけど、せっかく苦労してたどり着いたはいいが、全く食欲がわかない。
母さんとのあのしんどい会話の後で、それは仕方がない話ではある。
だけどいくら口を開くのが億劫だとしても、この空腹自体がなくなるわけではない。
そういえば朝ご飯も、タガネとの一件を引きづってちゃんと食べていなった。煩わしいが、今は何でもいいから食べないといけない。
さんざん悩んだあげく、僕が選んだのは自販機で売られている小さな2個セットの焼きおにぎり。
それだけを持って、座る席を探すために今度はフードコーナ―を見まわす。
お盆の季節のせいか、フードコーナ―は2等席の雑魚寝にすら座れない人達であぶれていた。皆せめて座るところだけでも確保しようと集まっているのだろう。
おかげで僕のような本来の食事が目的である人が、それに巻き込まれて食べ物を持ったままウロウロとする羽目になっている。
……まぁ最悪、立ってでも食べられるからいいか。
そう思い、席探しを諦めようとした時。
フードコーナーの隅の方にある机にいたブロンドの髪の女子と、視線が合った。
「……楓香」
「あ、今から?」
そこにいたのは僕の幼馴染……だった糸井楓香が食事をしていた。手元のテーブルには食べかけの醤油ラーメンが置かれている。
「あー……ここ、空いてるからいいよ、座っても。」
おそらくワザと大きな声で、楓香は僕に呼びかけてくる。
そしてその細い足で、机の向かいにある椅子をトントンと軽く蹴る。その仕草からは、どちらかというと『座れ』と強要をしているようでもある。
でも、冗談はよしてくれ。
他の時ならともかく、今は勘弁してほしい。
とてもじゃないが喋りたくない。
だが僕が席につく気がないのを察したのか。
楓香はむくれながら椅子を両足首で挟み、ガタガタと揺らして耳障りな音を立ててくる。観光客たちの発する声で喧しいフードコーナー内でも、その音は嫌に大きく響く。
……仕方がないか。
非常に、非常に気まずいが、楓香を邪険にするのは正直気が引ける。
居心地の悪い視線が集まる前に、僕は渋々と彼女の示す席へと座った。
僕がちゃんと座ったのを確認した後、満足そうに楓香はラーメンの残りをすすり始める。
「僕って結構、考えが顔に出やすいかな?」
「はっきりいってダダ漏れね。というかお昼それで足りるの?少なくない?」
そうだったのか……知らなかった。
自分では感情を隠してるつもりだったんだけどな。
楓香の恰好を見てみると、鬼のお面や装飾などの細かい部分は外しているが、基本的には鬼太鼓の装束を身に着けたままだった。その上から更に汚れが付かないように赤い色のジャージを羽織っている。
「今……食欲がなくてさ」
僕は斜め下を見ながら答える。
多少面倒な雰囲気が出てしまったかもしれない。
表情は変えないが、楓香は密かに下唇を噛んでいる。
「ねぇ扶美さん、と部屋にいたらしいじゃない。もしかして……糸井の家の話を聞いた?」
一瞬切り出しにくそうな素振りだったが、彼女は勢いを込めて言葉を一気に繋ぐ。
その発言に僕はパッと顔を正面に向けかけるが、彼女と視線が合うギリギリで、若干視線を下ろす。
「うん、ダンピールのことも聞いた。」
僕は冷たく淡々と言葉を吐き、彼女の口元のあたりだけを見る。
その口の端は変に歪んだりすることはなく、楓香はそう、とだけ小さく相づちを打つ。
やはり、そうなのか。
ダンピールという言葉に対しても、やけに薄いリアクションの彼女の様子に、何となく僕は彼女の言いたいことを理解できた。
そして、おそらく予想通りのその疑問の答え合わせをする。
「楓香も、ダンピールなんでしょ?」
糸井家はダンピールの家系であり、吸血行為などの興奮状態の際に目が赤くなるという。
幼い頃のぼやけた記憶に残る楓香。
彼女の自室で見たその目も、確かに赤く染まっていた。
「そっか……うん。まぁ、扶美さんから聞いたなら、流石に分かっちゃうよね」
楓香は何ともなさげに器の中を掻きまわして、残った麺と具を探し出す。最初の一度以外、僕らの視線は交わっていなかった。
「そうだよ。私もダンピール。……普通の人間じゃないの」
一瞬だけ、楓香の息がつまった。
僕も何かを言おうと吐息を漏らすが、周りの乗客たちの声で無残にかき消されてしまう。
別段頭を使って考えるまでもないし、分かっていたことだった。
けどやっぱり改めてそうだと聞くと多少気落ちはした。
小学生の時に楓香が肉体の結合を求めてきたのは、当時の幼い僕が恐れていた、でも彼女に嫌われたくない一心で耐えていたあの強姦じみた情事は、つまるところそういうことだったわけだ。
あれは何も、僕らだけの特別な信頼関係ではなくて、ただ魔物として人間の番いを得るために、あまりにも必然的で普遍的な性行為でしなかったのだ。
僕は手に握った焼きおにぎりを無理やり頬張る。
蓋をしないと、口の中から悔しさがあふれ出てきそうだった。
「ねぇ継、聞きたいんだけどね?」
楓香はつぶやき、今だにスープの中を探るように、クルクルとレンゲでかき回している。
『―――会ってみたって、語ってみたって…分からないこともあるわ。』
午前中、船の甲板で楓香は僕にそういい残したままだったのを思い出すと、僕は黙ってうなづく。
「継はさ。えっちなのは嫌い?」
「ぐふ……」
軽くむせた。
おにぎりが喉につっかえたが、何とか飲み込む。
真昼間からそんな質問しないでほしい。
確かに質問の意味と意図は分かるけど、どこかふ抜けたその言い方のせいで脇腹をつつかれたみたいな居心地の悪さを感じる。
ひとしきりむせ切った後、僕は彼女の質問の答えを考える。
別に、僕は楓香との情事そのものが嫌だったわけじゃない。
ただ僕が勝手に、楓香との信頼関係にプラトニックというか、子供じみた淡い幻想を抱いていて、その実態に勝手に失望して傷ついただけなのだ。
確かに当時はまだ僕は、彼女が性行為を好む魔物であることを知らなかった。だけどそれを抜きにしたって、多分結果は変わらなかったと思う。全ては僕の心が愚かな子供だったせいであり、僕が彼女を嫌に思う理由も道理も、資格もないのだ。
魔物との間に性行為のない関係など、存在しないのだから。
「魔物は皆、好きな人と交わるための心と身体をもっているの、継はそれが嫌だった?」
昼間から恥ずかしげもなく続ける彼女に、僕は多少狼狽する。
「ちがうよ。嫌じゃない。君は悪くなんかない。……けど」
なんて言えばいいのか分からなかった。
高校生になっても、未だに僕は本当に楓香となりたかった関係がなんなのかを伝えられない。全く持っておぼろげにすら、それを言葉や形にできないことに思わず唇を噛む。
当たり前だ。
つい数日前まで楓香のことを無理やり記憶の底に沈めてたのに、すぐに答えなんて出るわけがない。僕の返答がなかなか戻ってこないことに、次第に楓香が不愉快そうに眉をひそめる。
「けど?……何が違うの?教えて。継が何を考えているか、私知りたいのよ」
彼女の言葉が僕の胸元を捩じり上げる錯覚。
僕はまたしても、無回答。
全く嫌になる。僕はどうしてこうも何もできないのだ。
母さんの話を聞いてからずっと、僕の頭の中で母さんの言葉と一つの迷いが渦巻いていた。
―――今後、魔物と一切関わらない。すべて忘れる。―――
母さんの言っていた『普通』の日常とは、今までのように僕が周りの学生と同じく大学受験の続きをすることだろう。
そして今年度末で受験が終われば、大学の近くで一人暮らし。
これから先、きっと僕は一人で生きていくことになる。
今の都会の家にならまだしも、きっともうこの島に里帰りをすることは許されない。
考えてみれば、半分勘当みたいなものだ。
それがきっと、母さんの言う『関わらない』ということだ。
だけどつまり、それはこの島に住む楓香とももう会わなくなることでもある。
楓香にとってその『普通の未来』は、とてもとても迷惑なことだ。
母さんの話で僕は魔物の性質のことを、魔物にはどうしたって寄り添う番いが必要なことを知った。
若かりし母さんのように、番いのいないダンピールがどんな青春を送るかも知った。
魔物である楓香にとって、番いのいないまま放っておかれて生きていくことがどれだけ辛いことだろうということもわかる。
けれども、僕には自信がなかった。
仮に僕が楓香のために、母さんのいう『普通』を拒否したところで、いったい何ができるだろうか?
一度拒否したはずの楓香を今さら受け入れるなんて、虫が良すぎないか?
ダンピールの性質を、性への強欲さを、楓香自身を、真っ直ぐに受け止め切れるのか?
彼女のためだけに僕は、自身の身も心も未来をも犠牲にできるのだろうか?
僕は、何のために楓香と、魔物と共にいなければならない?
贖罪のためか?そんな風に思う奴が彼女のそばにいていいのか?
いいはずがない。
楓香だってきっと、魔物の習性で僕を追いかけているだけで、本当は僕と一緒にいたくないのかもしれない。
だったらなおさら一緒にいる意味がない。
いつかこの先の未来に、楓香がどこかに僕以外の男を見つけて、楓香にとっての本当の番いになるべき、それこそ物語の主人公のような男が現れるのかもしれない。
そんなわずかな希望に懸けた方が、そんな道を見つけた方が、僕といるよりはまだ楓香は幸せになれるとすら思えてしまう。
不安と自己否定の壁の内側で、僕の思考回路が八方ふさがりになっていく。
僕には選べない。
この島と家族の縁と共に楓香を捨てていくのか。
それとも楓香の側で、彼女への後ろめたさにおびえながら生きていくのか。
そのどちらの覚悟も、僕にはできなかった。
「僕は……君を」
―――どうしたらいいんだ?
どんなに頑張って声を絞り出そうとしても、空気の漏れるタイヤのような音しか出ない。言葉に感情と想いが乗り切れず、重量オーバーのまま喉元で引っかかって滞っている。
そのもどかしさに息がしだいに荒くなっていく。
歯ぎしりの圧力が眉間に響いて頭痛がする。
涙が出そうなのをごまかす為に派手に鼻をすする。
ああ、なんて情けないんだ。
自分の生きる道さえ、自分で決められないなんて。
こんなことで悩んでいる自分なんて大嫌いだ。
ふいに僕の両手にゆっくりと柔らかく何かが添えられる。
手元をみると、その温もりの正体が楓香の手だと気づく。
「大丈夫。私は待てるから、今までだってそうだったもの」
嘘だ。そんなの。
僕にだって、そのくらい分かるさ。
その笑顔に似た表情は必死に作っているものだってことも、本当は魔物らしく、僕を無理やりに犯してやりたいと思っているだってことくらい知っている。
「私は魔物だし、なにより私は継じゃない。だから継みたいに考え込むの苦手よ。でも、待つことはできるわ」
でも、どうしようもない人間である僕に、楓香はどうしようもなく優しく囁いてくる。なんとか歩幅を合わせようと、精一杯に彼女は声の震えと魔物の本性を抑えている。
それが僕には聞いていて余計に辛かった。
「僕は、君に、今さら関われない……君といるべき人間、じゃない」
喉の奥の震わせながら、声を嘔吐する。
口から出た言葉は、僕に好意を寄せてくれる女性に向かってかけるものとしては最低な部類だろう。
「……それは、いいことよ。」
「え?」
悪びれもなく楓香はそう言い切った。
「『今さら』だからいいの。ダンピールも喰人鬼も、継のお父さんやお母さんも、何も関係ないというのは、いいことなの」
噛みしめるよう繰り返すその言葉。
理由が分からずに、僕は訳もわからずに尋ねる。
「……どういうこと?」
今、鏡で僕の顔を写したら相当間抜けな顔をしているだろう。
それよりもだ。
喰人鬼と僕の家族のこと。知っていたのか。
「ごめんね。全部、知ってたんだ私。継の両親の話。保存会じゃ結構、有名なのよ、扶美さんって」
かぁっと鼻元の温度が急激に熱くなった。
なんてことだ。自分が一番自分の周りのことを知らなかったんじゃないか。
「継はさ。扶美さんたちのことも、魔物のことも全く知らなかったじゃない?でも、だからこそ、何も責任を感じなくていいと思う。」
なだめるように、諭すように楓香は柔らかく話しかけてくる。
僕の手を楓香の両手が、こわれものを扱うように包みこむ。
「継は今、『やりたいこと』をやっていいの。特別な事情や義務や使命なんて何もない。『やらなくてはいけないこと』なんて継にはないから。全て、継が自由に選んでいいの。少なくとも私は、……そう思うわ」
決して自身の魔物の性についての言い訳を口にすることは無く、僕のことだけを優先して案じてくれている。
その気づかいと暖かさに、僕は抗えるはずもなく、身体の緊張をほどいてしまう。だけどまだ少し、揺れる心のどこかでささくれのように引っかかる想いがあった。
いや、わかっているのだ。彼女の優しさはわかってはいるけれども。
「君に応えられる自信がない……」
勇気と覚悟がいま一つ、決定的なものが足りないのだ。彼女が背中を押してくれているのも分かっている。
でも、自分の見知らぬ何かに関わることへの恐怖が、今だ僕の手を震わせているのだ。
この島や家族に僕が関わっていいことなんてあるわけがないと、頭の中で自分の全てを否定するもう一人の自分がいる。
「いいの。上手くいかなくてもいいの。気に病む必要なんてないわ。大丈夫よ。私は、待っているから」
楓香が段々と声を強めていく。
はっきりと、意志と熱を込めて。
今が真昼のランチ時で周りに人がいることなんてこと、気にも留めていないようだ。
だけどそれは僕だって同じことだった。
僕はひどいえづきとともに、涙と鼻水を堪えようと大きく鼻をすする。
まるで懺悔をして、神様に許してもらえたような安心感。
思わず楓香にすがりたくなる。
「楓香……僕は」
そして、うつむいたままだった顔を上げて、彼女の顔を見る。
青いはずの楓香の瞳が、真っ赤に染まっていた。
全身にぞくりと寒気が走る。
赤い眼っ……!
下半身の感覚があいまいになって、膝の下がガクガク増える。
上半身ごと肺が震えて、上手く息が吸えなくなる。
『やめろっ彼女に近づくな!!またあんな思いを繰り返したいのかっ!?』
身体全体がそう叫んでいるかのようだった。
ああそうか。
悲鳴をあげ続ける肉体の中で僕は悟ってしまった。
結局僕はずっとあの頃の恐怖を抱えたまま、一歩も進まずに生きてきたんだ。
僕の目の前に、あの頃と同じダンピールの赤い瞳がある。
性的トラウマを植え付けた張本人が今目の前にいる。
楓香がどんなに僕を迎え受け入れようとも、そもそも彼女こそが僕に傷を刻んだという事実は決して無くならないのだと。
そんな都合のいいことは許さないと、僕自身が、まさに身をもってそれを教えようとしているのだ。
小さい頃に信じていた友情が、性欲によって歪なものへと変貌したあの瞬間―――目の前と脳内が赤色に埋め尽くされていく。
幼い楓香の『魔物らしく』精を貪る、意志を秘めたあの眼差し。
髪が抜けるほど強く引っ張り、無理やり僕の顔に秘部を当てがう彼女。
欲のまま夢中によがって腰をくねらせる楓香の、こもった吐息。
布団に沈み込むまで頭を押さえつけられた時の、頬と後頭部に感じた圧迫感。
鼻の中にこびりつくような汗臭さ。口に広がる塩気と苦みと、若干の鉄の味。
ただただ恐ろしくて、聞こえない悲鳴を上げていた喉。
やばい、どうしよう。
怖い。誰か。止まらない。
犯される。
今度こそ彼女に、どうしようもなくめちゃくちゃにされる。
誰か。誰か。誰か……。
当時の僕が感じたものが、心の底に抑えつけたままの受け入れがたい絶望感が丸ごと襲い掛かる。
僕の全てを飲み込まんと、一瞬の記憶の津波がどっと押し寄せてきた。
まるで決壊したダムのごとく、狂ったように急激に動悸が激しくなっていく。
彼女への恐れが、深く重く僕の心をねじ伏せて侵食してくる。
きっと今まで楓香のことを無責任に忘れていた、ツケが回ってきたのだ。
もうダメだ。
無理だ。
耐えられない。
とても、受け止めきれない。
忌まわしい記憶から逃げようと、必死に僕は席を立とうとする。
「待って!」
逃げ出そうとした瞬間、楓香が掴んでいた僕の手をギュッと握る。
それがあまりに強かったのか、僕の身体がガクンと沈み、勢いよく椅子に城を打った。
必死に振りほどこうとするも、楓香は魔物ゆえに、その手はとても人並み以上に力強く掴まれていて、どうしたって振り切れなかった。
「嫌だ!楓香、許して…!き……君、が」
離してくれ。お願いだ。
犯さないで。
ごめんなさい。
許して下さい。
これ以上は、もう。
限界なんだ。
顔が勝手に背けて楓香を直視することを避ける。
犯されまいと全身は逃亡するために必死に踏ん張る。
堪えた甲斐もなく、僕の鼻の周りは汚らしく鼻水が垂れてしまう。
「僕は……魔物が、君が怖い……」
とうとう言ってしまった。言ってはいけないことを。
小さい頃からずっと心に引っかかっていた、そのささくれを。
一生忘れたまま、心の部屋の中にしまいこんでいたかったのに。
楓香の手から一瞬、力が抜ける。
「継。……私の、眼を見て」
それでも彼女は諦めることをしなかった。
再び楓香は、僕の手を掴みとる。
僕は顔を背けたままだった。
だけど視界に入っていなくとも楓香の眼が僕をしっかりと捕らえているのが分かる。
「小さい頃……継と出会って、一緒に遊んで、いつの間にか好きになってて。でも、一年に数日しか会えなくて。だから、あなたをずっと自分のものにしたくて仕方がなかった」
「僕だって、そうだったさ、でも……何で君があんなことをするか、分かんなくて……嫌で……怖くて……でも……」
「そうなの。全力で魔物らしく継を誘惑してえっちなことしていれば、継のすべてが手に入ると思っていた。でもいつの間にか……継のことなんて、見てなくて……どうしようもないのよ私、本当に」
さっきの一言で心のタガが外れてしまったのかもしれない。
長い間誰にも言えずに燻らせていた無様で幼稚な感情を、楓香にぶちまけずにはいられなかった。
それでも楓香は僕の声をちゃんと聞き、赤子をあやすように自分の額を僕の手に寄せて、あてがった。
手の甲に感じる温もりと人前で無様に醜態をさらした反動か、ほんの僅かだけど視界に意識を費やせる余裕が生まれる。
そこでようやく僕は彼女の顔を見て、気が付いた。
楓香は、泣いていた。
「ごめんね、怖かったよね……もうあんなこと、しないから」
僕の手を抱えたまま、テーブルに突っ伏すようにしてうずくまる楓香。それを見ているだけで、もう何度目か分からない後悔の念に潰れてしまいそうだった。
僕は、なんてバカ野郎なんだ。
魔物に、彼女に最も言わせてはいけないことを言わせてしまった。
魔物が情欲を堪えるなんて、これ以上辛いことがあるだろうか?
奥歯が砕けそうなほどに、ギシギシと軋む。
僕の頭の隅には、小さい頃の赤い瞳の楓香が浮かぶ。
そしてなぜだか同じように赤い瞳の、泣きそうなタガネの姿がちらつく。
もうたくさんだ。
楓香にもタガネにも、僕はどちらにも応えてあげられなかった。
こんな、魔物の情欲にまともに応えられない僕なんて、もう切り捨てられるべきだ。
なのにどうしてこんなにも楓香は、僕を追いかける?
ただ、魔物が一途だから?それだけの理由なのか?
分からない。
腹の真ん中の方から、とうの昔に死んだ筈の形のない想いが沸き上がる。心に突き刺さったささくれから、血液が漏れ出るようにして、僕が自分で殺した筈の願いが甦ってしまう。
楓香が額を当てたまま動かないのを見て、ようやく僕は彼女の手を振りほどくのをやめる。
「……継、応えられなくてもいいよ、怖くてもいい、関わるのが遅くたっていいの。」
楓香はそう喋りながら、少しも僕の手を握ったまま力を抜こうとしない。
ただ力を込めているだけではない。僕が壊れないように、壊さないようにギリギリのところで力をコントロールしている。
そして魔物の本能とやらも、きっと今も必死にこらえている。
真っ赤な瞳は色欲な魔物の証。それでも楓香は僕のために我慢している。
彼女の慈しみが、感情が彼女のすべすべとした額の感触からじわりと僕の手に浸みこんでくる。
「私はただ継と一緒に、答えを知りたいだけなの。……どうして継なのかって」
お互い、何度目かも分からない喉の震えと嗚咽とえづき。
『―――会ってみたって、語ってみたって…分からないこともあるわ。』
きっとそうだ。
彼女も、わからないんだ。自分がどうして僕を追いかけるのかを。
一途なのが魔物の習性だから?
精を求めるのが魔物だから?
そんな陳腐な一言では本人ですら、到底納得出来るわけがない。
考え込むのが苦手だなんて、そんなの嘘だ。
誰よりも彼女自身がその異常な僕への執着心に、彼女なりに悩み苦しんできたに決まっている。
ましてや、彼女はダンピール。人間と魔物のハーフだ。
ダンピールが魔物よりも人間のものの考え方に近いというのなら、なおさらだ。中途半端というのがいかに愚かで辛いものか、僕は知っている。
もしも楓香が普通の人間だったなら、僕のことなんてさっさと忘れて新たな恋路へと向かえたはずだっただろう。
もしも楓香が完全な魔物だったなら、どんな手段を用いてでも、僕を押し倒いて犯しただろう。
僕と関わらなければきっと、もっと素敵で普通の男性と何不自由なく生きていけたのかもしれない。
楓香だって、何度もそう思ったはずだ。
でも『普通じゃない』彼女は僕と関わってしまった。
『普通じゃない』僕を選んでしまった。
その選択に、もうやり直しは効かない。
ならば、もうその選択をもう後悔しないためにも。
彼女は僕との関係をもう一度やり直そうとしている。
楓香はすでに、自身のした行動の責任に向き合おうとしているのだ。
その気持ちを、このまま無駄にしてはいいわけがない。
―――楓香。
『普通』になれなかった魔物娘。
―――彼女をこのまま不幸なまま、終わらせていいのか?―――
「…なんかエラそうなこと言ってごめんね。継のこと何にも知らないのに、自分の言いたいことばっかり」
彼女が軽く目じりを拭う。
そんなことない。
僕は楓香の額の触れている手を引き、さっきのお返しとばかりに彼女の頭を軽く撫でる。
美しい関係が欲しかった。
僕も普通の魔物と人間のように、悲しむことなく、ただ楽しく幸せに彼女といたかっただけなのだ。
幼い頃、楓香に押し倒されながら、彼女とのハッピーな人生を何度も夢に見た。コミックやラノベ小説みたいに彼女の真っ直ぐな気持ちに応えたり、そのための真っ直ぐな努力をしたかった。
番いでも彼氏でもセックスでも言い表せないような、誰かにとっての一番崇いものになりたかった。
小さい頃、それが何なのかよく分からないまま逃げ出して、もう手に入らないと諦めてしまっていた。
でも僕は、そのよく分からないものを諦めきれずに、掴み取れなかった事実さえも受け入れられなかった。
だけどもしかしたら、この機会がきっとそれを掴みなおす最後のチャンスなだとしたら?
ひょっとしたまた失敗に終わるかもしれない。
楓香どころか、家族全員の信頼を失うかもしれない。
それでも、関わってしまったのなら貫きぬき通さなければならない。
ちゃんと割り切れるまで、僕は彼女に付き合わなければならない。
そうでなければ、欲しいものは手に入らない。
僕は燃えるように真っ赤な楓香の、濡れた瞳を見つめる。
正直、それを見るだけで身体が震えそうだ。
しっかり見ろ。
僕は自分自身に言い聞かせる。
よく見るんだ。楓香の瞳を。
この瞳は、あの頃から変わらない。
でもあの頃とは、もう違うんだ。
「……楓香。君に二つ、お願いがある。『やりたいこと』があるんだ」
もう嗚咽も鼻水も気にしない。
楓香に精一杯伝わるように、僕は彼女をしっかりと見据えて答える。
僕にはもう一人、今度こそ幸せにしたいと思う相手がいる。
彼女と会わなければ、こうして楓香と再会することもなかった。
だから彼女にせめてもの、お返しをしなくてはいけない。
「タガネっていう喰人鬼を、助けたいんだ。本名かどうかもわからない。その人は今も島で一人ぼっちで、でも情報が全然足りなくて、今の僕にはどうにもできない。母さんからは多分もう聞き出せない。だから楓香が知っている喰人鬼の情報、それに詳しい人、何でもいい、教えてほしいんだ」
泣きはらしてガラガラな声で一気に告げる。
「で、二つ目はなんだけど……そのやりたいことが終わったら、また一緒に二人でどこかで遊ぼうよ。出会ったばかりの、川遊びやゲームをして過ごした、あの楽しかった時間みたいにさ……」
「うん……うん。そうね」
楓香は泣き止まないまま、何度もうなづく。
乗客のいくらかが互いに醜く泣きはらした僕と楓香を、奇異な目で見つめる。
知るものか。
視線をまるで無視して、僕は椅子からやおら立ち上がる。
間も開けずに楓香もそれに習い、真っ直ぐ顔を僕の方へと向ける。
そして僕らは、肩を並べて人の海をかき分けていく。
この先何度、挫折しそうになるか分からない。
自分の弱さを見せつけられるだけかもしれない。
散々な結果に終わるのかもしれない。
それでも彼女のことを、このまま記憶の海に沈めてはいけない。
散々迷った挙句、辿りついたのはそんな陳腐で無様な答えだった。
でも、それでいいのだと思う。
待ってくれている彼女のために『全て』に関わることを、無様に行動することをやめてはいけない。
行動こそがすべてだと。
母さんといた部屋を出て、船の中心部であるエントランスホールに向かっていくと、そこにはすでに新しい客が乗りこんでいた。
その大体の人間は、そのまま雑魚寝式の2等席に続く廊下へと、ぞろぞろと流れこんでいく。息が詰まるほどの人だかりを掻き分けて進んだその先に、目的地である小さなフードコーナーがあった。
椅子とテーブルはよくあるパイプとスチール製で、一般的なデパートの軽食店のそれとほぼ同じといっていい。
だけど、せっかく苦労してたどり着いたはいいが、全く食欲がわかない。
母さんとのあのしんどい会話の後で、それは仕方がない話ではある。
だけどいくら口を開くのが億劫だとしても、この空腹自体がなくなるわけではない。
そういえば朝ご飯も、タガネとの一件を引きづってちゃんと食べていなった。煩わしいが、今は何でもいいから食べないといけない。
さんざん悩んだあげく、僕が選んだのは自販機で売られている小さな2個セットの焼きおにぎり。
それだけを持って、座る席を探すために今度はフードコーナ―を見まわす。
お盆の季節のせいか、フードコーナ―は2等席の雑魚寝にすら座れない人達であぶれていた。皆せめて座るところだけでも確保しようと集まっているのだろう。
おかげで僕のような本来の食事が目的である人が、それに巻き込まれて食べ物を持ったままウロウロとする羽目になっている。
……まぁ最悪、立ってでも食べられるからいいか。
そう思い、席探しを諦めようとした時。
フードコーナーの隅の方にある机にいたブロンドの髪の女子と、視線が合った。
「……楓香」
「あ、今から?」
そこにいたのは僕の幼馴染……だった糸井楓香が食事をしていた。手元のテーブルには食べかけの醤油ラーメンが置かれている。
「あー……ここ、空いてるからいいよ、座っても。」
おそらくワザと大きな声で、楓香は僕に呼びかけてくる。
そしてその細い足で、机の向かいにある椅子をトントンと軽く蹴る。その仕草からは、どちらかというと『座れ』と強要をしているようでもある。
でも、冗談はよしてくれ。
他の時ならともかく、今は勘弁してほしい。
とてもじゃないが喋りたくない。
だが僕が席につく気がないのを察したのか。
楓香はむくれながら椅子を両足首で挟み、ガタガタと揺らして耳障りな音を立ててくる。観光客たちの発する声で喧しいフードコーナー内でも、その音は嫌に大きく響く。
……仕方がないか。
非常に、非常に気まずいが、楓香を邪険にするのは正直気が引ける。
居心地の悪い視線が集まる前に、僕は渋々と彼女の示す席へと座った。
僕がちゃんと座ったのを確認した後、満足そうに楓香はラーメンの残りをすすり始める。
「僕って結構、考えが顔に出やすいかな?」
「はっきりいってダダ漏れね。というかお昼それで足りるの?少なくない?」
そうだったのか……知らなかった。
自分では感情を隠してるつもりだったんだけどな。
楓香の恰好を見てみると、鬼のお面や装飾などの細かい部分は外しているが、基本的には鬼太鼓の装束を身に着けたままだった。その上から更に汚れが付かないように赤い色のジャージを羽織っている。
「今……食欲がなくてさ」
僕は斜め下を見ながら答える。
多少面倒な雰囲気が出てしまったかもしれない。
表情は変えないが、楓香は密かに下唇を噛んでいる。
「ねぇ扶美さん、と部屋にいたらしいじゃない。もしかして……糸井の家の話を聞いた?」
一瞬切り出しにくそうな素振りだったが、彼女は勢いを込めて言葉を一気に繋ぐ。
その発言に僕はパッと顔を正面に向けかけるが、彼女と視線が合うギリギリで、若干視線を下ろす。
「うん、ダンピールのことも聞いた。」
僕は冷たく淡々と言葉を吐き、彼女の口元のあたりだけを見る。
その口の端は変に歪んだりすることはなく、楓香はそう、とだけ小さく相づちを打つ。
やはり、そうなのか。
ダンピールという言葉に対しても、やけに薄いリアクションの彼女の様子に、何となく僕は彼女の言いたいことを理解できた。
そして、おそらく予想通りのその疑問の答え合わせをする。
「楓香も、ダンピールなんでしょ?」
糸井家はダンピールの家系であり、吸血行為などの興奮状態の際に目が赤くなるという。
幼い頃のぼやけた記憶に残る楓香。
彼女の自室で見たその目も、確かに赤く染まっていた。
「そっか……うん。まぁ、扶美さんから聞いたなら、流石に分かっちゃうよね」
楓香は何ともなさげに器の中を掻きまわして、残った麺と具を探し出す。最初の一度以外、僕らの視線は交わっていなかった。
「そうだよ。私もダンピール。……普通の人間じゃないの」
一瞬だけ、楓香の息がつまった。
僕も何かを言おうと吐息を漏らすが、周りの乗客たちの声で無残にかき消されてしまう。
別段頭を使って考えるまでもないし、分かっていたことだった。
けどやっぱり改めてそうだと聞くと多少気落ちはした。
小学生の時に楓香が肉体の結合を求めてきたのは、当時の幼い僕が恐れていた、でも彼女に嫌われたくない一心で耐えていたあの強姦じみた情事は、つまるところそういうことだったわけだ。
あれは何も、僕らだけの特別な信頼関係ではなくて、ただ魔物として人間の番いを得るために、あまりにも必然的で普遍的な性行為でしなかったのだ。
僕は手に握った焼きおにぎりを無理やり頬張る。
蓋をしないと、口の中から悔しさがあふれ出てきそうだった。
「ねぇ継、聞きたいんだけどね?」
楓香はつぶやき、今だにスープの中を探るように、クルクルとレンゲでかき回している。
『―――会ってみたって、語ってみたって…分からないこともあるわ。』
午前中、船の甲板で楓香は僕にそういい残したままだったのを思い出すと、僕は黙ってうなづく。
「継はさ。えっちなのは嫌い?」
「ぐふ……」
軽くむせた。
おにぎりが喉につっかえたが、何とか飲み込む。
真昼間からそんな質問しないでほしい。
確かに質問の意味と意図は分かるけど、どこかふ抜けたその言い方のせいで脇腹をつつかれたみたいな居心地の悪さを感じる。
ひとしきりむせ切った後、僕は彼女の質問の答えを考える。
別に、僕は楓香との情事そのものが嫌だったわけじゃない。
ただ僕が勝手に、楓香との信頼関係にプラトニックというか、子供じみた淡い幻想を抱いていて、その実態に勝手に失望して傷ついただけなのだ。
確かに当時はまだ僕は、彼女が性行為を好む魔物であることを知らなかった。だけどそれを抜きにしたって、多分結果は変わらなかったと思う。全ては僕の心が愚かな子供だったせいであり、僕が彼女を嫌に思う理由も道理も、資格もないのだ。
魔物との間に性行為のない関係など、存在しないのだから。
「魔物は皆、好きな人と交わるための心と身体をもっているの、継はそれが嫌だった?」
昼間から恥ずかしげもなく続ける彼女に、僕は多少狼狽する。
「ちがうよ。嫌じゃない。君は悪くなんかない。……けど」
なんて言えばいいのか分からなかった。
高校生になっても、未だに僕は本当に楓香となりたかった関係がなんなのかを伝えられない。全く持っておぼろげにすら、それを言葉や形にできないことに思わず唇を噛む。
当たり前だ。
つい数日前まで楓香のことを無理やり記憶の底に沈めてたのに、すぐに答えなんて出るわけがない。僕の返答がなかなか戻ってこないことに、次第に楓香が不愉快そうに眉をひそめる。
「けど?……何が違うの?教えて。継が何を考えているか、私知りたいのよ」
彼女の言葉が僕の胸元を捩じり上げる錯覚。
僕はまたしても、無回答。
全く嫌になる。僕はどうしてこうも何もできないのだ。
母さんの話を聞いてからずっと、僕の頭の中で母さんの言葉と一つの迷いが渦巻いていた。
―――今後、魔物と一切関わらない。すべて忘れる。―――
母さんの言っていた『普通』の日常とは、今までのように僕が周りの学生と同じく大学受験の続きをすることだろう。
そして今年度末で受験が終われば、大学の近くで一人暮らし。
これから先、きっと僕は一人で生きていくことになる。
今の都会の家にならまだしも、きっともうこの島に里帰りをすることは許されない。
考えてみれば、半分勘当みたいなものだ。
それがきっと、母さんの言う『関わらない』ということだ。
だけどつまり、それはこの島に住む楓香とももう会わなくなることでもある。
楓香にとってその『普通の未来』は、とてもとても迷惑なことだ。
母さんの話で僕は魔物の性質のことを、魔物にはどうしたって寄り添う番いが必要なことを知った。
若かりし母さんのように、番いのいないダンピールがどんな青春を送るかも知った。
魔物である楓香にとって、番いのいないまま放っておかれて生きていくことがどれだけ辛いことだろうということもわかる。
けれども、僕には自信がなかった。
仮に僕が楓香のために、母さんのいう『普通』を拒否したところで、いったい何ができるだろうか?
一度拒否したはずの楓香を今さら受け入れるなんて、虫が良すぎないか?
ダンピールの性質を、性への強欲さを、楓香自身を、真っ直ぐに受け止め切れるのか?
彼女のためだけに僕は、自身の身も心も未来をも犠牲にできるのだろうか?
僕は、何のために楓香と、魔物と共にいなければならない?
贖罪のためか?そんな風に思う奴が彼女のそばにいていいのか?
いいはずがない。
楓香だってきっと、魔物の習性で僕を追いかけているだけで、本当は僕と一緒にいたくないのかもしれない。
だったらなおさら一緒にいる意味がない。
いつかこの先の未来に、楓香がどこかに僕以外の男を見つけて、楓香にとっての本当の番いになるべき、それこそ物語の主人公のような男が現れるのかもしれない。
そんなわずかな希望に懸けた方が、そんな道を見つけた方が、僕といるよりはまだ楓香は幸せになれるとすら思えてしまう。
不安と自己否定の壁の内側で、僕の思考回路が八方ふさがりになっていく。
僕には選べない。
この島と家族の縁と共に楓香を捨てていくのか。
それとも楓香の側で、彼女への後ろめたさにおびえながら生きていくのか。
そのどちらの覚悟も、僕にはできなかった。
「僕は……君を」
―――どうしたらいいんだ?
どんなに頑張って声を絞り出そうとしても、空気の漏れるタイヤのような音しか出ない。言葉に感情と想いが乗り切れず、重量オーバーのまま喉元で引っかかって滞っている。
そのもどかしさに息がしだいに荒くなっていく。
歯ぎしりの圧力が眉間に響いて頭痛がする。
涙が出そうなのをごまかす為に派手に鼻をすする。
ああ、なんて情けないんだ。
自分の生きる道さえ、自分で決められないなんて。
こんなことで悩んでいる自分なんて大嫌いだ。
ふいに僕の両手にゆっくりと柔らかく何かが添えられる。
手元をみると、その温もりの正体が楓香の手だと気づく。
「大丈夫。私は待てるから、今までだってそうだったもの」
嘘だ。そんなの。
僕にだって、そのくらい分かるさ。
その笑顔に似た表情は必死に作っているものだってことも、本当は魔物らしく、僕を無理やりに犯してやりたいと思っているだってことくらい知っている。
「私は魔物だし、なにより私は継じゃない。だから継みたいに考え込むの苦手よ。でも、待つことはできるわ」
でも、どうしようもない人間である僕に、楓香はどうしようもなく優しく囁いてくる。なんとか歩幅を合わせようと、精一杯に彼女は声の震えと魔物の本性を抑えている。
それが僕には聞いていて余計に辛かった。
「僕は、君に、今さら関われない……君といるべき人間、じゃない」
喉の奥の震わせながら、声を嘔吐する。
口から出た言葉は、僕に好意を寄せてくれる女性に向かってかけるものとしては最低な部類だろう。
「……それは、いいことよ。」
「え?」
悪びれもなく楓香はそう言い切った。
「『今さら』だからいいの。ダンピールも喰人鬼も、継のお父さんやお母さんも、何も関係ないというのは、いいことなの」
噛みしめるよう繰り返すその言葉。
理由が分からずに、僕は訳もわからずに尋ねる。
「……どういうこと?」
今、鏡で僕の顔を写したら相当間抜けな顔をしているだろう。
それよりもだ。
喰人鬼と僕の家族のこと。知っていたのか。
「ごめんね。全部、知ってたんだ私。継の両親の話。保存会じゃ結構、有名なのよ、扶美さんって」
かぁっと鼻元の温度が急激に熱くなった。
なんてことだ。自分が一番自分の周りのことを知らなかったんじゃないか。
「継はさ。扶美さんたちのことも、魔物のことも全く知らなかったじゃない?でも、だからこそ、何も責任を感じなくていいと思う。」
なだめるように、諭すように楓香は柔らかく話しかけてくる。
僕の手を楓香の両手が、こわれものを扱うように包みこむ。
「継は今、『やりたいこと』をやっていいの。特別な事情や義務や使命なんて何もない。『やらなくてはいけないこと』なんて継にはないから。全て、継が自由に選んでいいの。少なくとも私は、……そう思うわ」
決して自身の魔物の性についての言い訳を口にすることは無く、僕のことだけを優先して案じてくれている。
その気づかいと暖かさに、僕は抗えるはずもなく、身体の緊張をほどいてしまう。だけどまだ少し、揺れる心のどこかでささくれのように引っかかる想いがあった。
いや、わかっているのだ。彼女の優しさはわかってはいるけれども。
「君に応えられる自信がない……」
勇気と覚悟がいま一つ、決定的なものが足りないのだ。彼女が背中を押してくれているのも分かっている。
でも、自分の見知らぬ何かに関わることへの恐怖が、今だ僕の手を震わせているのだ。
この島や家族に僕が関わっていいことなんてあるわけがないと、頭の中で自分の全てを否定するもう一人の自分がいる。
「いいの。上手くいかなくてもいいの。気に病む必要なんてないわ。大丈夫よ。私は、待っているから」
楓香が段々と声を強めていく。
はっきりと、意志と熱を込めて。
今が真昼のランチ時で周りに人がいることなんてこと、気にも留めていないようだ。
だけどそれは僕だって同じことだった。
僕はひどいえづきとともに、涙と鼻水を堪えようと大きく鼻をすする。
まるで懺悔をして、神様に許してもらえたような安心感。
思わず楓香にすがりたくなる。
「楓香……僕は」
そして、うつむいたままだった顔を上げて、彼女の顔を見る。
青いはずの楓香の瞳が、真っ赤に染まっていた。
全身にぞくりと寒気が走る。
赤い眼っ……!
下半身の感覚があいまいになって、膝の下がガクガク増える。
上半身ごと肺が震えて、上手く息が吸えなくなる。
『やめろっ彼女に近づくな!!またあんな思いを繰り返したいのかっ!?』
身体全体がそう叫んでいるかのようだった。
ああそうか。
悲鳴をあげ続ける肉体の中で僕は悟ってしまった。
結局僕はずっとあの頃の恐怖を抱えたまま、一歩も進まずに生きてきたんだ。
僕の目の前に、あの頃と同じダンピールの赤い瞳がある。
性的トラウマを植え付けた張本人が今目の前にいる。
楓香がどんなに僕を迎え受け入れようとも、そもそも彼女こそが僕に傷を刻んだという事実は決して無くならないのだと。
そんな都合のいいことは許さないと、僕自身が、まさに身をもってそれを教えようとしているのだ。
小さい頃に信じていた友情が、性欲によって歪なものへと変貌したあの瞬間―――目の前と脳内が赤色に埋め尽くされていく。
幼い楓香の『魔物らしく』精を貪る、意志を秘めたあの眼差し。
髪が抜けるほど強く引っ張り、無理やり僕の顔に秘部を当てがう彼女。
欲のまま夢中によがって腰をくねらせる楓香の、こもった吐息。
布団に沈み込むまで頭を押さえつけられた時の、頬と後頭部に感じた圧迫感。
鼻の中にこびりつくような汗臭さ。口に広がる塩気と苦みと、若干の鉄の味。
ただただ恐ろしくて、聞こえない悲鳴を上げていた喉。
やばい、どうしよう。
怖い。誰か。止まらない。
犯される。
今度こそ彼女に、どうしようもなくめちゃくちゃにされる。
誰か。誰か。誰か……。
当時の僕が感じたものが、心の底に抑えつけたままの受け入れがたい絶望感が丸ごと襲い掛かる。
僕の全てを飲み込まんと、一瞬の記憶の津波がどっと押し寄せてきた。
まるで決壊したダムのごとく、狂ったように急激に動悸が激しくなっていく。
彼女への恐れが、深く重く僕の心をねじ伏せて侵食してくる。
きっと今まで楓香のことを無責任に忘れていた、ツケが回ってきたのだ。
もうダメだ。
無理だ。
耐えられない。
とても、受け止めきれない。
忌まわしい記憶から逃げようと、必死に僕は席を立とうとする。
「待って!」
逃げ出そうとした瞬間、楓香が掴んでいた僕の手をギュッと握る。
それがあまりに強かったのか、僕の身体がガクンと沈み、勢いよく椅子に城を打った。
必死に振りほどこうとするも、楓香は魔物ゆえに、その手はとても人並み以上に力強く掴まれていて、どうしたって振り切れなかった。
「嫌だ!楓香、許して…!き……君、が」
離してくれ。お願いだ。
犯さないで。
ごめんなさい。
許して下さい。
これ以上は、もう。
限界なんだ。
顔が勝手に背けて楓香を直視することを避ける。
犯されまいと全身は逃亡するために必死に踏ん張る。
堪えた甲斐もなく、僕の鼻の周りは汚らしく鼻水が垂れてしまう。
「僕は……魔物が、君が怖い……」
とうとう言ってしまった。言ってはいけないことを。
小さい頃からずっと心に引っかかっていた、そのささくれを。
一生忘れたまま、心の部屋の中にしまいこんでいたかったのに。
楓香の手から一瞬、力が抜ける。
「継。……私の、眼を見て」
それでも彼女は諦めることをしなかった。
再び楓香は、僕の手を掴みとる。
僕は顔を背けたままだった。
だけど視界に入っていなくとも楓香の眼が僕をしっかりと捕らえているのが分かる。
「小さい頃……継と出会って、一緒に遊んで、いつの間にか好きになってて。でも、一年に数日しか会えなくて。だから、あなたをずっと自分のものにしたくて仕方がなかった」
「僕だって、そうだったさ、でも……何で君があんなことをするか、分かんなくて……嫌で……怖くて……でも……」
「そうなの。全力で魔物らしく継を誘惑してえっちなことしていれば、継のすべてが手に入ると思っていた。でもいつの間にか……継のことなんて、見てなくて……どうしようもないのよ私、本当に」
さっきの一言で心のタガが外れてしまったのかもしれない。
長い間誰にも言えずに燻らせていた無様で幼稚な感情を、楓香にぶちまけずにはいられなかった。
それでも楓香は僕の声をちゃんと聞き、赤子をあやすように自分の額を僕の手に寄せて、あてがった。
手の甲に感じる温もりと人前で無様に醜態をさらした反動か、ほんの僅かだけど視界に意識を費やせる余裕が生まれる。
そこでようやく僕は彼女の顔を見て、気が付いた。
楓香は、泣いていた。
「ごめんね、怖かったよね……もうあんなこと、しないから」
僕の手を抱えたまま、テーブルに突っ伏すようにしてうずくまる楓香。それを見ているだけで、もう何度目か分からない後悔の念に潰れてしまいそうだった。
僕は、なんてバカ野郎なんだ。
魔物に、彼女に最も言わせてはいけないことを言わせてしまった。
魔物が情欲を堪えるなんて、これ以上辛いことがあるだろうか?
奥歯が砕けそうなほどに、ギシギシと軋む。
僕の頭の隅には、小さい頃の赤い瞳の楓香が浮かぶ。
そしてなぜだか同じように赤い瞳の、泣きそうなタガネの姿がちらつく。
もうたくさんだ。
楓香にもタガネにも、僕はどちらにも応えてあげられなかった。
こんな、魔物の情欲にまともに応えられない僕なんて、もう切り捨てられるべきだ。
なのにどうしてこんなにも楓香は、僕を追いかける?
ただ、魔物が一途だから?それだけの理由なのか?
分からない。
腹の真ん中の方から、とうの昔に死んだ筈の形のない想いが沸き上がる。心に突き刺さったささくれから、血液が漏れ出るようにして、僕が自分で殺した筈の願いが甦ってしまう。
楓香が額を当てたまま動かないのを見て、ようやく僕は彼女の手を振りほどくのをやめる。
「……継、応えられなくてもいいよ、怖くてもいい、関わるのが遅くたっていいの。」
楓香はそう喋りながら、少しも僕の手を握ったまま力を抜こうとしない。
ただ力を込めているだけではない。僕が壊れないように、壊さないようにギリギリのところで力をコントロールしている。
そして魔物の本能とやらも、きっと今も必死にこらえている。
真っ赤な瞳は色欲な魔物の証。それでも楓香は僕のために我慢している。
彼女の慈しみが、感情が彼女のすべすべとした額の感触からじわりと僕の手に浸みこんでくる。
「私はただ継と一緒に、答えを知りたいだけなの。……どうして継なのかって」
お互い、何度目かも分からない喉の震えと嗚咽とえづき。
『―――会ってみたって、語ってみたって…分からないこともあるわ。』
きっとそうだ。
彼女も、わからないんだ。自分がどうして僕を追いかけるのかを。
一途なのが魔物の習性だから?
精を求めるのが魔物だから?
そんな陳腐な一言では本人ですら、到底納得出来るわけがない。
考え込むのが苦手だなんて、そんなの嘘だ。
誰よりも彼女自身がその異常な僕への執着心に、彼女なりに悩み苦しんできたに決まっている。
ましてや、彼女はダンピール。人間と魔物のハーフだ。
ダンピールが魔物よりも人間のものの考え方に近いというのなら、なおさらだ。中途半端というのがいかに愚かで辛いものか、僕は知っている。
もしも楓香が普通の人間だったなら、僕のことなんてさっさと忘れて新たな恋路へと向かえたはずだっただろう。
もしも楓香が完全な魔物だったなら、どんな手段を用いてでも、僕を押し倒いて犯しただろう。
僕と関わらなければきっと、もっと素敵で普通の男性と何不自由なく生きていけたのかもしれない。
楓香だって、何度もそう思ったはずだ。
でも『普通じゃない』彼女は僕と関わってしまった。
『普通じゃない』僕を選んでしまった。
その選択に、もうやり直しは効かない。
ならば、もうその選択をもう後悔しないためにも。
彼女は僕との関係をもう一度やり直そうとしている。
楓香はすでに、自身のした行動の責任に向き合おうとしているのだ。
その気持ちを、このまま無駄にしてはいいわけがない。
―――楓香。
『普通』になれなかった魔物娘。
―――彼女をこのまま不幸なまま、終わらせていいのか?―――
「…なんかエラそうなこと言ってごめんね。継のこと何にも知らないのに、自分の言いたいことばっかり」
彼女が軽く目じりを拭う。
そんなことない。
僕は楓香の額の触れている手を引き、さっきのお返しとばかりに彼女の頭を軽く撫でる。
美しい関係が欲しかった。
僕も普通の魔物と人間のように、悲しむことなく、ただ楽しく幸せに彼女といたかっただけなのだ。
幼い頃、楓香に押し倒されながら、彼女とのハッピーな人生を何度も夢に見た。コミックやラノベ小説みたいに彼女の真っ直ぐな気持ちに応えたり、そのための真っ直ぐな努力をしたかった。
番いでも彼氏でもセックスでも言い表せないような、誰かにとっての一番崇いものになりたかった。
小さい頃、それが何なのかよく分からないまま逃げ出して、もう手に入らないと諦めてしまっていた。
でも僕は、そのよく分からないものを諦めきれずに、掴み取れなかった事実さえも受け入れられなかった。
だけどもしかしたら、この機会がきっとそれを掴みなおす最後のチャンスなだとしたら?
ひょっとしたまた失敗に終わるかもしれない。
楓香どころか、家族全員の信頼を失うかもしれない。
それでも、関わってしまったのなら貫きぬき通さなければならない。
ちゃんと割り切れるまで、僕は彼女に付き合わなければならない。
そうでなければ、欲しいものは手に入らない。
僕は燃えるように真っ赤な楓香の、濡れた瞳を見つめる。
正直、それを見るだけで身体が震えそうだ。
しっかり見ろ。
僕は自分自身に言い聞かせる。
よく見るんだ。楓香の瞳を。
この瞳は、あの頃から変わらない。
でもあの頃とは、もう違うんだ。
「……楓香。君に二つ、お願いがある。『やりたいこと』があるんだ」
もう嗚咽も鼻水も気にしない。
楓香に精一杯伝わるように、僕は彼女をしっかりと見据えて答える。
僕にはもう一人、今度こそ幸せにしたいと思う相手がいる。
彼女と会わなければ、こうして楓香と再会することもなかった。
だから彼女にせめてもの、お返しをしなくてはいけない。
「タガネっていう喰人鬼を、助けたいんだ。本名かどうかもわからない。その人は今も島で一人ぼっちで、でも情報が全然足りなくて、今の僕にはどうにもできない。母さんからは多分もう聞き出せない。だから楓香が知っている喰人鬼の情報、それに詳しい人、何でもいい、教えてほしいんだ」
泣きはらしてガラガラな声で一気に告げる。
「で、二つ目はなんだけど……そのやりたいことが終わったら、また一緒に二人でどこかで遊ぼうよ。出会ったばかりの、川遊びやゲームをして過ごした、あの楽しかった時間みたいにさ……」
「うん……うん。そうね」
楓香は泣き止まないまま、何度もうなづく。
乗客のいくらかが互いに醜く泣きはらした僕と楓香を、奇異な目で見つめる。
知るものか。
視線をまるで無視して、僕は椅子からやおら立ち上がる。
間も開けずに楓香もそれに習い、真っ直ぐ顔を僕の方へと向ける。
そして僕らは、肩を並べて人の海をかき分けていく。
この先何度、挫折しそうになるか分からない。
自分の弱さを見せつけられるだけかもしれない。
散々な結果に終わるのかもしれない。
それでも彼女のことを、このまま記憶の海に沈めてはいけない。
散々迷った挙句、辿りついたのはそんな陳腐で無様な答えだった。
でも、それでいいのだと思う。
待ってくれている彼女のために『全て』に関わることを、無様に行動することをやめてはいけない。
行動こそがすべてだと。
16/03/12 16:11更新 / とげまる
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